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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神の家の建造のために――枯れた骨を立ち上がらせるキリストの復活の命――

高慢とは何であろうか、真の謙遜とは何であろうか。

実は、その実態は、多くのクリスチャンが考えているのとは真逆であると筆者は思う。「私は神の恵みに値しない」という考えほど、うわべは謙遜に見えて、その実、悪質な高慢はない。

筆者は幼い頃からのキリスト教徒であったので、清貧貞潔な生活へのこだわり、社会的弱者への憐れみ、などの感情を物心ついた頃から持っていた。そのため、ある時期が来るまで、貧しいことは悪いことではなく、病に陥ることは悪いことではなく、追い詰められて死を願うことも、悪いことではなく、そのような困難な状況にある人たちに、信者は積極的に手を差し伸べ、大いに同情や共感を持つべきである、と考えていた。

ところが、不思議なことに、信仰生活を送れば送るほど、実際はその逆である、ということが分かって来るのだった。困難の中にある人に同情し、助けの手を差し伸べれば差し伸べるほど、同情する側も、同情される側も、ますます困難の中に居直り、深みにはまり、そこから抜け出せなくなっていくという堂々巡りが起きるのである。

このようなことを言えば、早速、「あなたは社会的弱者を追い詰めるつもりか」という非難がやって来るであろう。ちょうどカルト被害者救済活動の支持者が、この活動の欺瞞性を指摘した筆者を断罪したようにだ。

だが、今、筆者はそんなことを目的にこれを書いているのではない。

筆者が、貧しさや、困難や、病や、死を心から憎むようになったのは、かなり前からのことであり、カルト被害者救済活動と訣別した頃には、すでにその考えの原型が心に固まっていたのだが、その完成となる事件は、KFCで起きた。

その事件も今から振り返ると相当に昔のことであるが、その当時、雇用情勢はますます悪化し、ブラック企業が横行し、正常な仕事を見つけるのが難しくなっていたが、筆者が職を変わる時、兄弟姉妹に祈りの支援を求めていたことが、KFCで災いし、これが嘲笑の材料とされたのである。

KFCにいた信者たちは、筆者よりも20~30歳ほど年上の世代ばかりで、比較的裕福な閑人が多かった。ほとんどが年金生活者か、働いていない者たちであった。だから、月曜から金曜まで真面目に労働に明け暮れ、なお、豊かにならない若者世代の苦しみを、そんな彼らの世代が、理解すること自体が、無理な相談であった。それでも、ある時期までは、信者たちの幾人かは、決して筆者の祈りのリクエストをあざ笑ったりすることなく、共に祈り、それなりに心配もしてくれていたのである。

ところが、KFCがいよいよ異端化していることが明確になる頃、そこにいた兄弟姉妹たちは、あからさまに弱肉強食の原理を信仰生活に持ち込み、そこに世代間格差のエキスも混ぜ合わせて、自分たちが「神によって恵まれた特権的な豊かな信者であって、それ以外の貧しい信者とは違う」と、年少世代の苦境をあからさまに嘲笑するようになったのである。

筆者が彼らに相談事を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたりしたことが、悪用された。そうした相談事が、あたかも筆者が「信仰的に自立できておらず、神の恵みを拒んで人に甘え、人に頼っているがゆえに、いつまでも抜け出せない困難の堂々巡り」であるという決めつけの根拠とされ、「ヴィオロンなどには同情する意味もなければ、助ける価値がない」と結論づけられ、筆者の抱えていた窮状は全て「不信仰の産物」として片付けられて、嘲笑され、踏みつけにする材料とされたのである。

むろん、そのような考えの発信源はほかならぬDr.Lukeであって、同氏がいつものように取り巻きをけしかけて不都合な信者に集団イジメをしかけただけであった。KFCでは筆者の他にも、絶え間なくそのような事件が起きて、年少者でなくとも、何かの理由をつけられては、信徒が見下され、仲間から批判されていたのである。

それが、筆者に矛先が向いたのは、筆者が常日頃から、Luke氏が聖書の御言葉から著しく逸脱していることを、面と向かって同氏に忠告し、かつ、Br.Taka夫妻を含め、メッセンジャーたちが信徒の上に立って勝ち誇っていることを強く非難し、指導者と信徒との霊的姦淫の関係が結ばれるべきではないと言ったので、ついに筆者の「生意気さ」に同氏の我慢の限界が来て、報復行為に及ばれたのであった。

その当時、神への霊的純粋さを失い、なおかつ、決して他の信徒を教える立場から離れることができなかったDr.Lukeにできることといえば、高みに立って、己が富を誇り、聖書に立ち返れと叫ぶ信者の貧しさを嘲笑することくらいしか残っていなかったのであろう。

KFCはもともと外側の物質的豊かさを、まるで内側の霊的豊かさのように誇り、自分たちは「天の特権階級だ」と他人を踏みつけにすることを、よすがのようにしていた。そのような方法で、自分たちは他のクリスチャンに比べ、特別に神に恵まれ、覚えられている存在であることを強調することだけが、この団体の特徴になってしまったのである。Dr.Lukeは取り巻きの老人たち(もはや婦人たちという言葉さえ、使うのがもったいない)を巻き込んで、筆者の置かれていた状況を、筆者を見下すために悪用したのだが、それによって、御言葉から逸れている自分たちに対する筆者の非難をかわせると考えていたのであろう。

だが、以上のような事件は、当時はまだ筆者にとってショッキングに感じられはしたが、ある種の「霊的平手打ち」となり、筆者がよりはっきりと目を覚ますきっかけとなった。その頃から、悪魔に対しては、弱みを見せるどころか、とことん見栄を張らなければならない、ということが筆者に分かって来たのである。

以来、筆者は悪魔に魂を売った連中に、「不信仰だ」などと後ろ指を指されて、嘲笑されるような機会を決して作らないように、自分の生活の欠乏を他者に打ち明けて、祈りの支援を乞うことを、やめてしまった。特に、そのような連中に助けを求めるなど言語道断であるから、彼らとの兄弟姉妹の絆を絶ち切り、彼らをキリストの御身体から断ち切って、彼らと完全に訣別し、自分の生活に起きるすべての状況と、すべての思いを、ただ天の父なる神だけに完全に委ねるようになったのである。

世の中の情勢は、その頃から今に至るまで、寸分たりとも改善することなく、刻一刻と悪くなっているだけである。我々の世代を取り巻く状況は、今も悪化を繰り返しているだけで、何の将来の見込みもない。

だが、だからと言って、筆者がその時代の趨勢に従って歩むべきかと言えば、そんなことは全くないのである。こうした状況は、そもそも果たして筆者の負うべき責任であろうか。むしろ、そういった世の悪しき状況は、どちらかと言えば、年長世代の貪欲と怠慢によって引き起こされたものであり、彼ら自身の罪の結果だと言えよう。それなのに、その状況が、なぜ年少世代に自業自得であるかのようになすりつけられなければならないのか。そんな理由はどこにもないのである。

そんなわけで、筆者はこの「刻一刻と悪化して行く世の情勢」なるものを、自分とは無関係なもの、筆者には責任のないもの、さらに、すでにキリストが十字架で終止符を打たれたもの、神の御心に反する悪魔の憎むべき嘘として、自分から切り離したのであった。

そして、今までのように、「世の中がこうだから」という理由で何かをあきらめ、妥協することをせず、自分が何を願っているのかだけを、世の情勢に頓着せずに、率直に神に申し上げ、あきらめずにそれを神に懇願し続けた。その際、人には全く頼らず、相談もせず、どんな細い道を通らされる時にも、ただ天におられる父なる神だけを見上げ、神がすべてのことを良きにはからって下さるという確信だけを胸に抱いて、今日まで歩み続けて来たのである。

その過程で、筆者は度々、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されるに至った。むろん、まだまだジョージ・ミュラーほどの経験には及ばないことは知っている。それでも、この世には一切、保証を求めず、人に助けも乞わず、ただ祈りだけによって、すべての必要を神に叶えていただく、その秘訣を、筆者は、確かに学び始めたのであり、ミュラーと同じ道を今も歩き続けているのである。むろん、その道は、ミュラーが開拓したものではなく、イエス・キリストが切り開かれたものである。

そうこうしているうちに、筆者に対して己が富を勝ち誇っていた人々は、時代の趨勢の悪化に伴い、凋落して行ったようであった。もともとそうでなくとも、筆者より年長の世代は、普通に考えれば、筆者よりも早く亡くなるのが当然である。彼らが筆者の貧しさや苦しみを嘲笑していた時、筆者はまだ人生のほんの駆け出しであったが、他方、彼らはすでにとうに頂点を通り過ぎ、あとは次の世代にバトンを預けるのみの状態であった。にも関わらず、そんなことも考えずに、彼らは筆者の前で、自らの栄耀栄華を誇っていたのである。今になっても、彼らは舞台から降りるどころか、「神になり」、自分たちの時代を永遠に謳歌するつもりでいるらしい。

だが、もしそのように主張するならば、彼らは老衰にも、死にも、打ち勝たなければならない。普通の老人たちのようにただ老いて、病に倒れ、生活を縮小し、先細りとなって活動をやめるというのではなく、モーセのように、人生最後の瞬間まで、気力が衰えず、生涯の終わりに近づけば近づくほど、ますます若者のように明るい輝きを放ち、神の命の永遠なることを世に立証せねばならない。それでこそ、自分はただの人間ではなく、神が内に生きておられると、はっきり言えるであろう。

今、彼らの凋落を、彼らの不信仰の産物だと筆者が言うのは、彼らの発言の裏返しである。彼らは、自分たちが時代の幸運に見舞われていた時には、それを信仰の手柄のように誇った。もしそうならば、時代が悪化した時に、なぜ彼らの信仰は役に立たず、彼らの凋落を食い止める手立てとならなかったのであろうか。それは最初から、彼らが誇っていたものが、信仰の産物などではなかったからだ。

時代の趨勢によって手に入れただけのものは、時代の趨勢によって奪い取られる。時代に媚びる人間は、時代に逆らう術を持たない。自分が富んでいる時に、貧しい者の悩みを蔑み、悩んでいる者に助けの手を差し伸べることを拒み、祈りの支援を乞うた仲間と共に祈ることを拒み、その人の願いをあざ笑って、蔑み、呪い、貧しい者を自分たちとは全く無関係な人間として突き放していれば、自分自身が衰えて凋落した時に、人からも同じように冷たい態度を返されるのは仕方ないであろう。

だが、筆者にとっては、以上のような人々の仕打ちでさえ、有益な教訓となったと思うのは、人の心には、神の恵みを受けとることに、常に恐れやためらいを感じる瞬間があり、たとえ信者であっても、神の恵みを素直に十分に受け取れるようになるまでには、時間と訓練が必要だからである。

特に、清貧貞潔、弱者救済、などの理念を掲げて生きて来た人ほど、貧しさを憎み、病を憎み、死を憎んでこれを拒絶し、キリストの命を選び取ることが難しい。

彼らは、貧しくあることが高潔であり、弱者であることが、美徳であるかのように思い込んでいるからだ。

そこで、筆者が貧しい時には、それを不信仰だとあざ笑っていた人たちが、いざ自分たちが貧しさや、病や、老齢や、苦難に見舞われると、一体、どうするのかを見ていると、それらの欠乏をまるで自分を飾る美しい衣のように大切に握りしめるのである。

そして、「苦しみや、困難の中で神に従い、健気に生きている自分」を美化する。そして、そのように苦難に耐えるのが信仰だと言い始める。

彼らは病にしがみつく。貧しさにしがみつく。卑小な自分自身にしがみついて、物乞いのぼろ服を後生大事に抱え込み、いつまでも、これを手放そうとしない。「病に打ち勝つ信仰」などと言いながら、いつまでもずっと病の話ばかりを続けているのである。その話をやめられないこと自体が、そのテーマが、彼らの中で過去になっていないことの何よりの証である。そんな姿は、彼らが筆者をかつてあざ笑っていたのと何の違いがあるのであろうか?

人の人生には、その人自身が作り出したとしか思えないような幾多の困難が存在する。多くの人たちは、不幸は不運な偶然や、事故が原因であると思って、可哀想な人々にいたく同情している。

だが、クリスチャンの人生には偶然というものはなく、すべての出来事が、天の采配であると同時に、本人が信仰によって選び取った結末なのである。信者が神の側に立っているのか、悪魔の側に立っているのか、すべての出来事を通して、信者は自分の信仰を表明しなければならないのだ。

だから、たとえ一時的に困難に見舞われることがあったとしても、それも神の栄光のために用いることができることを信じなければならない。預言者が空の器を次々、油で満たしたように、神は信者の生活の欠けを隅々まで満たすことがおできになり、従って、我々の弱さや欠乏は、神によって満たされ、神が栄光を受けられる材料に過ぎないと思うべきなのである。

聖書における病人たちは、主イエスに会って病を癒された。死んだ者たちはよみがえらされた。主イエスは病人たちに同情の涙を注いで、ただ施しをして終わりにはせず、彼らが本当に自立できるまことの命をお与えになった。主は貧しい人たちを空腹のままで去らせたわけではない、目に見えるパンが、目に見えないパンからできていることを教え、すべてを手に入れるための本当の秘訣であるご自身の命を人々にお与えになられたのである。

ところが、どういうわけか、今日のキリスト教では、困っている人たちにキリストの命によって立ち上がるよう求める代わりに、施しや、同情という網でがんじがらめに捕えて、慈善事業に明け暮れている。こうした慈善事業はどんなに繰り返しても、決してキリストの命にたどり着かない。

だが、そのようにして人間が人間の欠乏を満たし合うという関係を離れ、キリストの御名を通して、天におられるまことの神に向かって自分の欠乏を差し出すならば、それは必ず、不思議な方法で満たされるのである。満たされた欠乏は、すでに欠乏ではない。それは神の栄光である。だから、神に従う人間には、どんな困難があっても、それらはすべて神の最善を証する機会へと変えられる。信者を嘲笑していた人たちが真に恥じ入るのは、そのような瞬間が来た時である。らい病人が癒され、死者が立ち上がり、喪にくれていた人たちが喜びに涙し、悲しむ者が慰めを得、貧しい人が食べ飽き、義に飢え渇いていた人が、義に飽き足りるようになる時である。

その瞬間は、遠い未来のことではなく、今なのである。今、すべての欠乏を抱えたまま、天の父なる神の御前に進み出て、神の限りなく愛なること、神の限りなく善なることを告白し、神は信者が悪魔とその手下どもに嘲弄されるままの状態を、決してお見逃しにならないことを信じるべきである。

「主よ、お聞きください、暗闇の軍勢がこう言っています、信者が貧しいままなのは、あなたの助けが足りないからだと。信者が苦しんでいるままなのは、神に見捨てられているからだと。信者に力がないのは、神など存在しないからだと。私に対する侮りの言葉は、すなわち、あなたに対する侮りの言葉であることを覚えて下さい。

しかし、悪魔とその軍勢がどれほどあなたの御名の偉大さを否定し、あなたの助けを貶め、信じる者には助けがないと言ったとしても、私は断固、そのようなことを事実として信じておりません。私は、私が地上で何者であるかに関わらず、ただあなたの御名において、あなたのものとされた人間として、私に対するあなたの守りと助けの常に完全であることを信じています。

御力を現して下さい。この虐げられて、疲れ切って、弱々しくなっている民に、あなたの御名にふさわしい新しい力を与えて下さい。新たな衣を着せ、足腰を強めて立ち上がらせ、枯れた骨のような人々を、一人の新しい人に、神の軍隊に作り変えて立ち上がらせて下さい。御名がこれ以上侮られ、辱められることのないよう、あなたの名で呼ばれている民を、立ち上がらせて下さい・・・。」

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悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 」(黙示録2:10)

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」(ヤコブ1:12)

何年も前から、当ブログにおけるキリストの復活の証に憎しみを燃やし、この証を何とかして地上から取り去り、筆者を含め、真実に聖書の神に従う信者たちの信仰告白を、この世から消し去ろうと腐心している勢力があるが、彼らは常に失敗を続けている。

しかし、悪人どもは、色々な工作をしかけたが、結局、このブログを消し去ることに失敗し、ブログ主を告訴することもできなかったので、このブログの一番どうでも良い記事ばかりが検索結果にヒットするよう常に腐心している。

ところが、このように検索結果が歪められているおかげで、筆者には、悪人どもの狙いがこの上なくはっきりと理解でき、当ブログ記事のどこに弱いところがあって、何をどう書き直すべきか、そのヒントをも的確につかむことができるのだ。

つまり、悪人どもが何を企んでいるのかが分かるため、その策略が功を奏さないよう、以前に書いていた信仰告白の弱いところを補強する。

悪魔を喜ばせるだけの不信仰な文面はすべて削除して、キリストの十字架における解決の完全性をこの上なく強調する内容とする。

中途半端に言い切れていなかったがゆえに誤解を与えそうな表現は最後までガッチリと文脈の中に抑え込み、まことの神だけに栄光を帰するように改める。むろん、書き直し不可能な文章は惜しみなく削除して、新たな信仰の証のためにスペースを空ける。

人間の義を掲げて神の義を退け、十字架を否定して、神に敵対する人間たちの悪事は、激しい言葉で糾弾する。そのような記事はできるだけ前面に出す。悪魔に魂を売った連中が恥じ入るようにだ。

これは決して筆者のブログがもっと見栄えが良くなるように書きなおしているのではなく、また、人の目に読みやすいように変えているわけでもない。読者の存在など、もう何年も前から、筆者の眼中にはなく、文学的修辞も念頭にない。

おそらく、筆者の文章力は、当ブログを始めた頃に比べれば、落ちたことであろう。何しろ、以前の筆者は美的感覚に随分、こだわっていたが、今はもうそんなこだわりがなくなったからだ。しかし、文学的な表現力とは全く違う次元で、言葉というものが持つ本当の衝撃力を、筆者は理解したのである。

当ブログの文面は、人に対するものではなく、暗闇の軍勢に対する神の御言葉による攻撃である。また、すべてのものがひざをかがめて、キリストを主として迎える時のための人間側からの準備なのである。

だから、キリストだけにすべての栄光が帰されるように、また、キリストの救いの完全性がこの上なく明確にされて、ここに書かれている内容が、神に栄光をもたらし、暗闇の軍勢にとって恥となり、この上なく不都合な内容となるようにすることこそ、当ブログの狙いなのである。

そのため、悪魔にとって不都合な事実をしきりに強調しながら、神の正しさ、神の憐れみ深さ、神の愛の偉大さがより明確になるよう、書き直しているのである。

一体、そんなことをやり続けることに、意味があるのかと問う人もあろう。しかし、悪人どもの意図的な攻撃が続く限り、筆者の彼らに対する追い討ちも続く。

この戦いの過程で、筆者は相当に強くなったし、戦いのポイントをかなりおさえたのである。

神の被造物である人間を日夜訴え、苦しめ、その尊厳を奪い、無益な人生を送らせようと狙っている勢力があるのに、どうして無防備に呑気に構えている必要があるか。そんなのは愚かな人間のすることである。我々も悪魔と同じだけの執念を持って、日々、悪魔に立ち向かわなければならない。そうすれば、悪魔は逃げ去って行く。悪魔の抑圧から解放されることができるのに、その権利をつかみ取らないほど、無意味なことはない。

さて、悪魔に立ち向かうために、有益なコツをいくつかここに書いておく。

➀・・・罪悪感と訣別すること。これは信者にとって第一義的に必要なことである。クリスチャンが罪悪感や自責の念に苛まれていては、決して悪魔と対峙することなどできはしない。むろん、罪なる生活を送り続けながら、罪悪感を捨てるべきと言っているのではない。思いつく限り全ての罪から離れるべきである。だが、離れたならば、もう罪悪感を持ち続けてはいけない。過去に何があったかなど、忘れることだ。いや、忘れなくても良いが、過去は血潮によって清められているという事実を掴むことである。自分の人生に頓着してはいけない。

悪魔は訴える者であるから、あらゆるきっかけをとらえて、あなたを告発しようとして来る。それに対しては、ただ神の義による潔白を徹底して主張することである。自分が何者であるかに立脚せず、神が何者であるかに立脚して闘うのだ。そして、あなたの人生そのものが、キリストの義によって覆われているのだから、あなたの人生そのものがキリストと同じほど、聖別されていることを確信しなさい。

さらに、時には、倍返しの訴えを悪魔に返してやり、あらん限りの力を持って、神の御前で悪魔を告発することも有益である。何しろ、悪魔は最初から罪を犯しているから、悪魔の罪状など終わりなく挙げられる。

悪魔を訴えるに当たり、最も有益な罪状は、クリスチャンに対する迫害の罪である。悪鬼どもは人間よりも寿命が長いので、有史始まって以来、クリスチャンの血をいわれなく流して来た己の罪をよく覚えている。特に、皇帝ネロの大迫害などは、悪魔の所業としていつでも効果的に訴えられる材料である。クリスチャンに対する迫害を、あなたの同胞に対して悪魔が犯した罪として、我が事のように告発せよ。悪鬼どもを殺人者として告発し、聖徒らの迫害者として神に訴えるのだ。その際、恐るべき執拗さを持って、悪魔があなたにしようとしたのと同じほどの執念で、彼らを延々と訴え続けることが有益である。悪魔はそのようにクリスチャンから非難されることが大嫌いであるし、第一、聖徒らの口から自分がクリスチャンの迫害者として非難されることに耐えられない。義人の証言は、暗闇の軍勢に対して大いに衝撃力を持つ。悪魔には良心の呵責は無いのかもしれないが、それでも、罪の自覚が存在するのである。彼らは自分の美が傷つけられることに耐えらない。だから、その非難の際、彼等には悔い改めの余地が永遠に失われており、彼等を待ち受けるのは神の激しい御怒りと地獄の火の池であることもセットで強調するが良い。

②・・・キリストが十字架で取られた完全な勝利を我が物として宣言し、自分の人生のあらゆる場面に適用すること。この点で、クリスチャンは謙虚でありすぎてはいけないし、臆病であってもいけない。クリスチャンは人生の勝利者なのである。あなたの人生の現時点での弱点は何か? 仕事がないことか? 体の不調か? 友人が足りないことか? 家族の理解がないことか? もしあなたが自分の生活に何かしらの弱点を持っているならば、それがキリストの強さによってすでに覆われており、キリストが天に備えて下さっている解決が、すでにあなたのものであることを高らかに宣言し、これを自分に適用せよ。状況に目を留めず、神の強さと恵みに大いに満たされ、それを宣言しなさい。弱々しい生活を送りながら、悪魔と対決することはできない。

神の解決を御言葉によって掴んだならば、もうそれ以上、問題などというものは存在しないのだから、問題を現実のようにとらえるのをやめることである。また、「助けて下さい」と神に向かって懇願するのではなく、もっと大胆に、主の御名によって、状況に向かって命じるのである。

クリスチャンには環境を支配する力がある。地上に生きる動物も、天候も、テクノロジーも支配することができる。その逆ではないのだ。アダムもそれなりに支配力を持っていたが、あなたの支配の力は、すべてにまさる主の御名から来る。だから、キリスト者にどれほど絶大な支配力が与えられているのか、試してみなさい。たとえ嵐が吹き荒れていても、主がそれを静められたことを思い出し、あらゆる困難な状況に向かって、従うよう命じなさい。命じたら、状況がどうあろうとも、それに左右されないことである。状況に主導権を与えず、それをあなたが握りなさい。

主があなたの牧者であるから、あなたには欠けたところは何もないという事実を大胆につかみ取り、あなたの人生における全ての欠乏を、天の恵みによって隅々まで満たしなさい。このようにして、クリスチャンが満たされて恵まれた人生を送り、喜びに溢れることは、悪魔にとって非常に忌々しい大打撃となる。

③・・・ただ神だけに頼ること。神以外のものに頼っていると、恵みが制限される上、御霊からでない無用な助言や忠告も入って来て、混乱が生じる。だから、人に頼らず、神だけに頼りなさい。神だけが栄光を受けられる状況を自ら用意しなさい。

④・・・さらに、神を喜び、高らかに賛美しなさい。悪魔はクリスチャンが喜んでいるところを見るのが我慢がならない。だから、特別に良いことがあった時だけでなく、どんなきっかけをとらえてでも、神を喜び、神に感謝と賛美を捧げるべきである。

むろん、人間には良い時と悪い時があり、不調の時もあろう。だが、そういったすべての状況を超えて、天の喜びの中に住まう秘訣を掴むのである。天にある富がどのくらい地上に引き下ろされるかは、あなたの信仰の状態にかかっている。あなたの霊が打ちのめされている時に、大胆に信仰を働かせることはできない。だから、何かダメージを受けても、失意に落ち込むことなく、できるだけ早く立ち上がり、信仰を奮い立たせ、天に直通の祈りを働かせる秘訣を学ぶことである。そのために最も有益なのは、主を喜ぶことと、主を賛美することである。賛美には人の霊を奮い立たせ、暗闇の軍勢の束縛を打ち破る力がある。パウロが獄中にいたとき、賛美によって囚人の枷が落ちたことを思い出せ。

クリスチャンよ、いつまでも打ちひしがれていないで、信仰によって、大胆に立ち上がって、歩き出しなさい。試練を通過するとは、打ちひしがれ、翻弄され、束縛や弱さに黙って身を委ね、そこから立ち上がれなくなることではなく、むしろ、その逆なのである。あなたに約束された命の冠を受けとるために、御霊によって強くされて、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい。主は世に勝った方であり、あなたにはこの世のどんな圧迫にもまさる御名が与えられているのだから、その権限を地上で大胆に行使しなさい。そうしているうちに、キリストとあなたとの距離が、思ったほど遠いものではなく、むしろ、主があなたと一つになって働いて下さることが分かるようになるでしょう。

神はあなたを通してもっと働きたいと願っておられる。その可能性は十分に開けているのに、問題は、常に人間の側からの神への応答が、不十分なことにある。だから、もしあなたさえ同意するならば、暗闇の軍勢との霊の戦いにおいて、神はあなたを勇敢な戦士として十分に訓練することができることを信じなさい。その確信に身を委ね、訓練を始めなさい。どうせなら、弱々しい一兵卒で生涯を終えるよりも、将軍になった方が良いと思わない人がどこにあるだろうか。
 


神の恵みは水のように、より低い方へ、恵みを素直に求める飢え渇いた人々へ向かって流れる

さて、長らく記事を書いていなかったので、その間のことを補っておこう。
 
かなり前の記事ではあるが、澤藤統一郎の憲法日記「へそまがり宣言」、なかなか面白い内容だったので、ここに全文転載しておきたい。
 

有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

 
まことに面白いし、賛成である。筆者も天皇に敬語は使わない。オリンピックは聖霊派のリバイバルと同じで、決して来ない夢であり、日の丸と、アベマリオを現人神のごとく担ぎ上げ、まことの神に逆らうこの異教の祭典は、過去に幻に終わった祭典同様、我が国で開かれることは決してないであろうと、かねてより確信している。大体、その頃までこの国が持つかどうか。

筆者は世間の評価がどうあろうとも、『シン・ゴジラ』の筋書きへの失望と幻滅を隠さないし、安倍首相がロシアの経済発展に全面的に協力すると約束し、プーチン氏の訪日日程が確定したらしいことにも、決して喜んでなどない。それにしても、まったく何という愚かな外交的敗北であろうか。政治的手柄を立てたいばかりに、安倍はまたしても自分の方から、全面的にロシアに有利なカードを切ってしまった。どうしても「平和条約締結」という手柄を立てたい軽薄な首相がこの調子では、領土問題などまるでなかったことにしてでも、ロシアの前に涎を垂らして跪き、調印をお願いするのではあるまいか、と思えて来る。

それに対して、ロシア大統領は「ありがとう、晋三」と、上から目線の礼をそっけなく述べて、安倍の提案をただ検討するとしか答えていない。これまで日本の米国への片思いのゆえにさんざん肩透かしを食らったその非礼も考え合わせれば、ロシア側の回答としては当然であろう。だが、野心を見透かされているとしか思えない、到底、対等な外交からはほど遠い反応である。

それにしても、全く幼稚としか言えない安倍外交は、国益を度外視し、なおかつ、ロシア人の気質をも全く理解していない。ロシアの友情とはすなわちロシアの国益と不可分であり、かの国に対して必要なのはかの国と同じほどにしたたかな交渉である。そのしたたかさ、図太さがないと、外交的成功はあり得ない。それが政治的な手柄欲しさに涎を垂らして安っぽい笑顔をふりまき、しかも、まだ相手が何も約束しない前から、かの地へ出向いて行き、全面協力を申し出て、訪日の際にも、山口県へ招待するなどの国内他府県を全てよそにした手前勝手なパフォーマンスを繰り広げるという自己満足ぶりだから、呆れるほかない。民間の草の根外交の使節ではないのだ。一国の首相が、打算も警戒心もなしにそんな風に物欲しそうな様子を隠しもせずにうろついていたら、森の熊さんに捕えられて餌にされるか、危険な場所へ誘い込まれるだけである。いずれにしても、子供のようにしか見なされてないことであろう。こんな調子だと、仮に平和条約が結ばれたところで、我が国の国民が少しでも浮かばれるとは到底、思えないから、その意味でも、前途多難である。

筆者は、日ロ間に平和条約が結ばれさえすれば、何かが劇的に前進するとは思っていない。そもそも、主権国家としてのプライドと独立心を備えていない属国には、どこの国とも対等な外交は無理である。我が国の精神的課題はそのレベルに始まっている。

さて、話を戻せば、「同調圧力」という名の妖怪にはまだ一つ、有名な名がある。「和をもって貴しとなす」という名だ。

この「和」なるもの、非常な曲者である。そして、この「和」というものと、聖書の唯一の神への従順は決して両立しない、と筆者は確信する。「和」は世の方を向いており、神の方を向いておらず、クリスチャンにとって、神と世とを両方愛することは、不可能事だからだ。だから、「和の精神」というものは、信者にとって大敵である。それが分からないと、クリスチャンは信仰生活に大きくつまづくだろう。

全く話が変わるようだが、今でも筆者がよく覚えている出来事の中に、KFCである時に行われた聖餐式がある。すでにBr.Takaがこの団体をかき回し、団体が異端化していた頃のことだ。その聖餐式の時に、Dr.Lukeが奇妙なメッセージを前もって述べた。はっきりは覚えていないが、「あなたがたの中で資格のある(罪がない)者だけが、この聖餐にあずかりなさい」といった内容であった。

そもそも、KFCというのは非常に底意地の悪い団体で、自分たちだけの暗黙のルールを作っては、それに従わない人間を陰で中傷し、恥をかかせては、次々団体から放逐して来た歴史があった。まだ筆者がこの団体に関わる前から、そうして追放された人々は数知れず存在した。それが、KFCが公にアッセンブリーズ教団の信徒と手を結び、Br.Taka夫妻を招き入れてからは、その愚かしい集団イジメの傾向が、より一層強まった。アッセンブリーズ教団の悪質さについては、当ブログですでに幾度となく述べて来た通りであり、このような悪質な異端の教団の信者と手を結べば、仮にもとはKFCのようではないもっと優れた団体であったとしても、必ず、堕落するのは必至である。
 
当時、すでに筆者はDr.Lukeからも、この団体の信者たちからも睨まれ、危険人物としてマークされていた。それは筆者がDr.Lukeに向かって、信者との霊的姦淫をやめるよう忠告したためであった。古参信者の証言によると、KFCには二重統治のような体制があり、礼拝に出席もしておらず、信徒の交わりにも出ていない信徒が、陰で大きな実権を握って、団体全体に影響力を行使しているということであった。

この頃、KFCはすでに自己を神として、己が罪を全く認めず、真摯に御言葉に立ち戻るようにとの信徒たちからの忠告にも全く耳を貸さないまでに至っていた。筆者よりも前に、そういう忠告を彼らに行った他の信者たちがいたのである。Dr.Lukeのもとに、彼のメッセージがどんな風に聖書と相違しているのか、項目ごとに列挙して持参した信者もいたし、彼らに罪を捨てて御言葉に立ち戻るように忠告したゆえに、Br.TakaとDr.Lukeから睨まれて、呪われて団体から放逐された信者もいた。

こんな風に、アッセンブリーズ教団と手を結んでからは特に、恐怖政治が甚だしかったので、筆者はその時に行われた聖餐の儀式もまた、彼らが悪だくみによって仕組んだ一つの罠なのだということをも理解していた。

それでなくとも、この団体の信者たちは、Dr.Lukeを筆頭として、何をするに当たっても、自分たちが特別に選ばれた存在であり、他者とは違って、他者にあずかり知らぬ特権を持つ、他者とは別格の存在なのだということを、あらゆる機会に人前で誇ることを常としていた。礼拝も、結婚式などの儀式も、祈りも、賛美も、すべてが他者に対する圧倒的な優位性と、自分たちが選ばれた民であることを自己顕示し、自己満足に浸るために行われていたのである。だから、聖餐さえも、彼らは自分たちの「特権」を強調し、気に食わない他者を排除して勝ち誇るために利用したのである。

案の定、筆者が見回してみると、古参信者たちはパンにも葡萄ジュースにも手を伸ばそうとはせず、神妙な面持ちで頭を垂れたまま、全く聖餐にあずかろうとしていなかった。Dr.Luke本人も、パンも葡萄ジュースも手に取ろうとしなかったと記憶している。

しかし、筆者はその時、そんな周囲の行動と、Dr.Lukeの言い分など気にせず、全く臆することなく、聖餐に備えられていたパンと葡萄ジュースを手に取った。

そして、どこの教会でも、信者たちがみな行っている通りに、筆者は一人の信者として、信者の当然のつとめとして、主の御前に信仰告白と共に、自然に、ごく普通に聖餐にあずかったのである。

むろん、あとでさんざんKFCの連中から陰口を叩かれたことは想像に難くない。多分、「ヴィオロンはふさわしくないのにKFCの聖餐にあずかり、主の御身体を穢した」などと言われていたのであろうと想像する。現に、何か別のことについても、そのように悪しざまに言われていた他の信者が存在した。「あの信者は主の血潮を穢した」とかいった言葉で、身内の信者を非難し、呪い、排斥して行くのが、彼らの常套手段であったからである。

彼らがそのように聖餐にあずかった者たちを辱めるために、わざと聖餐式をきっかけに他の信者たちに罠をしかけたのだということも、筆者には分かっていた。

だが、そんな風に、自ら聖餐式を行いながら、その儀式に加わらないことを是とするほどまでに異常化した団体の中にいても、筆者は彼らの思惑を気にせず、聖書の御言葉だけに従って行動した。その異常な信者たちが、集団イジメと、気に入らない信者たちの排除だけを目的に、聖餐式を利用し、わざと自分は主の御身体にふさわしくないかのように振る舞い、主の御身体の一部であることを自ら否定するならば、筆者は、なおさらのこと、自分が確かにキリストの御身体の一部であることを、彼らの前ではっきりと表明しなければならないと思った。
 
信者は、常に神と人と悪魔の前で、自分が一体、神と悪魔、どちらの側に立っているのかを明白に表明しなければならない義務を負っている。我々の行動の一つ一つが、聖書の御言葉の正しさを証明するための信仰の証なのである。だから、たとえある人々から仲間でないとみなされ、敵視されたとしても、悪魔と行動を共にして自分がキリストの御身体の一部であることをわざわざ自分から否定するほどの恐るべき罪を犯すことに比べれば、人間の思惑など全く無害である。
 
キリスト者が従うべきは、人の思惑ではなく、聖書の御言葉である。さて、聖書は何と言っているか?

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:19-20)

主はこのように「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたのだ。パンは、私のために裂かれたキリストの御身体であり、杯は、私のために流された主の血潮である。なのに、なぜキリストを信じていると告白する者、主の血潮の価値を知っており、それによって罪赦されて、神の子供として受け入れられた者が、「自分は聖餐にあずかるにふさわしくない」とみなし、まるで主の御身体と血潮が自分には無縁であるかのように振る舞い、自ら主の御身体の一部であることを否定する必要があるのか。

そんな告白は、信者が自分で神の救いを否定し、血潮による罪の赦しを退け、自分を悔い改めない罪人とみなし、御身体の一部であることを否定するに等しく、謙遜でもなければ、悔い改めでもなく、信仰とは無縁の行動である。そのような告白をして、聖餐にあずかることを自ら拒否し、人前で主の血潮と御身体を恥じた者たちには、それにふさわしい報いが待ち受けていることであろう。そして、それはもうすでに始まっているのである。

その儀式のとき、筆者と同じく、聖餐式にあずかった信者たちが、集会全体でどれくらいいたのかは分からない。だが、その時、暗黙のルールとして、Dr.Lukeの心を満足させて、同氏と行動を共にするために、自ら聖餐を拒否した信者たちは、その瞬間に、確かに主の救いを恥じ、血潮と御身体を恥じて、これを自分とは無縁のものとして拒否したのである。

だから、もしこの時、聖餐に加わった信者が「主の血潮や御身体を穢した」と非難したい信者らがいたならば、実は、彼らこそが、信仰者を名乗りながら、自ら聖餐を拒否したその行為によって、主を恥じ、血潮と御身体を恥じて拒否するという罪を犯したのである。そして実際、彼らは恐るべきことに、確かにその後、キリストの御身体から切り離されてしまい、キリスト教そのものを敵視した上、自己の義により頼んで血潮による赦しからも遠ざかり、Dr.Lukeと共に、自己を神として、唯一の神に敵する道を歩んで行ったのである。

それを考えると、あのような異常な儀式はたとえ一回きりであったとしても、霊的には、必ず「踏み絵」としての効果を持つのだと思わずにいられない。すなわち、それはKFCの連中が、仲間を排除し、恥をかかせるために悪巧みとして考え出したような意味での「踏み絵」ではなく、「あなたは聖書の御言葉を信じて従い、神の側につくのか、それとも、人間を恐れ人間に媚びて人間から嫌われないために、御言葉を捨てて人間の思惑に従うのか」という、神の側から見た「踏み絵」だったのである。

集団の「和」から弾き出されて、他の信者の悪口やイジメの対象とされたくないという怖れから、同調圧力に抵抗できないような人間は、その瞬間、悪魔に魂を売ってしまうであろう。そして、その影響は後々まで尾を引くことになるのである。

だから、筆者は、その時点から、KFCという団体が、筆者をどう評価し、どんな風に誉め、あるいはけなし、陰口を叩くかといったことを全く気にせず、御言葉だけに従うことを選んだ。主の御身体であることを自ら否定して、生涯に渡り、我々の罪を覆うことのできる血潮を拒否するという恐るべき罪に比べれば、人間の評価など、全く恐れるに足りないと今も思うだけである。

たとえ全世界の人々が聖餐式に加わることを拒んだとしても、筆者は彼らと行動を共にすることによって神の救いを自ら失いたくないと思う。それでは、一体、何のためにクリスチャンになったのか分からない。世人と何らの違いもないであろう。人に誤解されたり、見捨てられることなど、一時的な問題でしかなく、全くさしたる影響もないが、自ら神を拒み、神に捨てられる以上に恐るべき状態は人には存在しない。それは永遠に関わる問題だからである。

だから、筆者はただ単なる「へそまがり」として、自らの主義主張や、性格のゆえに、同調圧力から外れて立っているのではなく、そこには聖書の御言葉という、れっきとした根拠が存在するのである。

すなわち、幾度となく繰り返して来た通り、

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

と聖書にある通りだ。神を真実な方とするとは、神の御言葉を真実なものとみなし、御言葉に従う、ということ以外の何物でもない。

思えば、KFCに深く関わった人たちは、常に誰かを排除するという形でしか、行動できなかったように見受けられる。たとえば、その当時、Mr.SugarはKFCを批判してすでに関わりを断っていたとはいえ、それでも、筆者がデッドライン君の自慢のリビングルームに異議を唱え、彼らの聖餐に水を差すような発言をしたとき、筆者はデッドライン君の家で最初に開かれた聖餐式から、Mr.Sugarによってふさわしくないと判断されて、弾き出されてしまったことをすでに書いた。

筆者はその当時は、その事件の意味が理解できなかったので、衝撃を受けたものだが、今はそこにある排除の論理が結局、KFCと全く同じであることが良く理解できるのである。つまり、彼らにとっての儀式とは、神への従順のために行われるものでなく、常に彼ら自身の威信と栄光を高めるために行われるものでしかなく、従って、彼らの自己満足に疑問を呈し、その喜びに水を差すような発言をする人間を、彼らは徹底的に排斥し、あるいは報復するのである。

神に捧げられる儀式は、そもそも人間の自己満足や、威信の発揚のために行われるのではないにも関わらず、この人々にはそのことがどうしても分からないのである。そして彼らはそのようにして、常に親しい仲間の誰かを排除したり、見下しては、自分たちこそ、神の特権に与る恵まれた存在であり、少数の勝利者であり、そこに加われず、その価値が分からない愚かな連中とは別格の存在なのだという優越感に浸ることをやめられないのである。

KFCの聖餐式は、儀式にあずからないことによって特権意識を強調するという裏返しの形になっていたが、儀式そのものが、彼らの自己満足の手段、彼らの特権意識を確認する場として利用されている点で、原理は同じである。そういう優越感と特権意識によって他者と自分とを区別し、他者を凌駕し、圧倒し、排除することによって、自らの信仰の立派さや、優位性を強調しようとすることこそ、KFCという団体の理念と深く関わった者たちに共通して見られる病的な誘惑なのだ、と筆者は思わずにいられない。

つまり、まるで受験競争のごとく、他者と競争し、他者に対する優位を勝ち誇ることでしか、彼らは自分の信仰の正しさや立派さを認識することも証明することもできなくなってしまっているのだ。神に賞賛してもらうことを願って、神だけの評価を勝ち得ようと、人の目から隠れたところで努力するのではなく、人前で、他者に対する圧倒的な「優位性」を見せつけるために、しかも、他者を悲しませ、弾き飛ばし、酷評することによって、自分の威力を誇示するために、絶えず他者に対して罠をしかけるような暗黙のルールを作っては、誰かを蹴落とし、辱め、排除し、その一方で、自分は安全圏にいる成功者であり、選ばれた数少ない勝利者なのだと自分に言い聞かせ、こうして常に自分が他者より一段高いところに立っていなければ落ち着かないのである。

そのような見栄に憑りつかれた人々は、神の霊の内なる承認を得ようとして戦っているのではなく、ただ人の目に失格者と見られず、人前に立派な人間だと評価され、支持を失わず、己の威信を誇示し、名誉欲を叶えることだけを第一として生きているのである。だから、結局、彼らを動かしているのは、御言葉ではなく、信仰でもなく、彼らが気にしているのは神の眼差しではなく、この世の評価なのだと言える。

そういう生き方は、純粋な信仰生活とは決して両立しない。そのようにして、歪んだこの世的な価値観に染まってしまった信者たちは、飽くことなく自己の栄光だけを追い求めるようになるので、時には、我が子さえも競争相手とみなし、子供たちから徹底的に出番を奪ったり、子供たちを自分自身が栄誉を得るための手段とみなして利用する。その結果、そういう家庭では、子供の自殺という悲劇が起きることも少なくない。

親たちは自分たちの外見的な見栄を飾るために、子供を一生懸命、「立派な信仰者」に育て上げようとするのである。だが、それはしょせん、自己の見栄のためでしかないので、親の欲望をかなえる道具とされた子供たちは、精神的に追い詰められ、最悪の場合、その苦痛に満ちた束縛から逃れるために、自ら死を選ぶのである。

それは霊的搾取と呼ばれるべき構図であり、それはむろん、信者の家庭内だけでなく、信者と信者との間でも行われる。アッセンブリーズ教団を含め、既存の教団教派でも、指導者の栄光のために信徒が搾取されるということが当然のように行われるが、さらに、組織を持たないと自称している団体の中でも、同じことが起きるのである。KFCのみならず、ゴットホルト・ベック氏の集会など、複数の集会を見学した結果、そのことが、よりはっきりと筆者に理解できるようになった。

今現在、筆者はそのようなシステムをネズミ講と同じものとみなしている。信者が、他の有望そうに見える信者を、自己の栄光を築き上げる道具とするために「スカウト」しては、自分自身が教師然となって、その信者を「弟子化」し、弟子を増やすことによって自分の手柄を増やしながら、無限のピラミッドを築き上げようとするのである。

そういうことが行われているのは、断じて、献金を集めねば存続できない公の宗教団体だけではない。たとえ団体名がついておらず、公の組織が存在していないように見え、あるいはネット上の関わりしかなくとも、それでも、多くの場合、そこには何かの見えないピラミッド・システムが存在し、人間の絆を通して、霊的搾取が連綿と広がっているのである。そこから抜け出るただ一つの方法は、指導者や教師になりたがる人物に決して頼らず、神だけに依存して生きることのみである。
  
以上のような「弟子化」の際によく使われるのが、何らかの霊的先人たちの教えを記した教本である。それを教科書のようにして、古参の信者が新しい信者を自分好みに教育しながら、次第に自らの精神的支配下にからめ取り、自分の栄光を築き上げるための道具として束縛して行くのである。

もしも誰かが、それが霊的搾取のために作られた悪しきピラミッド・システムであるという異常性に気づいて、そこから離脱しようとすると、一斉に、システム全体が彼に敵対する。それまでシステムなど存在しないと思っていた信者も、その時が来ると、自分がピラミッドの末端にいたことに気づかざるを得ない。それまで優しい友・教師・助言者だと思っていた指導者が、実は残酷な支配者でしかなかったことに気づくのも、その時である。

このようなものは、信仰であるかのように装ってはいるが、実のところ、巧妙に作られた信仰生活の偽物に過ぎない。たとえそこに本物の信仰がわずかに存在していたとしても、このようなシステムの中に組み込まれ、拘束されている以上、その信仰も正常に機能しない。だから、もし健全で正しい信仰生活を送ろうと願うなら、信者はいずれこのピラミッドと訣別することが不可欠となる。

クリスチャンのほとんどは組織や団体の中で信仰を持つようになるが、その後で、もしも本当に主の御前に、真実な信仰生活を送ろうと願うならば、どこかで「踏み絵」の瞬間がやって来る。つまり、人間の理解や賞賛や励ましを失いたくないばかりに、神の御言葉を否定してでも、人間の集団の中に残るのか、それとも…。その時に、人間の集団を選ぶと、永久に後戻りが不可能となってしまう。

だから、ピラミッドに組み込まれることを拒否し、空気は読まず、指導者の意を忖度もせず、周囲に波風を立て、「和をもって貴しとしない」生き方を、筆者は恥じるつもりはない。

そのような生き方を生意気だと思ったり、疎ましく思っていた信者たちは存在するし、同調圧力に屈した人々からは、陰口も叩かれていたのであろうが、筆者はそのような非難を、全く苦にしておらず、むしろ、もっと早くから、どうして断固たる不動の決意がなかったのかと思っているくらいだ。

筆者も若く未熟なうちは、それなりの遠慮もあって、20も30も年上の連中に対し、なかなか面と向かって言い出せない数多くの確信を心の内に秘めていた。だが、そのような他者への遠慮は、恐れから来るものでしかなく、百害あって一利なく、余計なしがらみに巻き込まれて無駄に人生を失わないために、早くなくなるに越したことはない、と今は思う。

人への優しさ自体は悪いものではないが、日本人の多くの人々の空気に逆らえず長い物に巻かれる習性は、臆病さと優柔不断さの現れでしかなく、長所ではなく欠点である。何より、クリスチャンは、ご機嫌伺いするなら、人の顔色を読むのでなく、神の顔色をこそ読むべきであるのに、そのことを全く認識していない人々が多い。

もし世に媚びて人の寵愛を失わず「和」に生きたいと願うならば、クリスチャンをやめた方が良いだろう。神の福音を知りながら、世を愛し、世に媚びて、神の救いを拒むくらいならば、福音を最初から知らなかった方が罪が軽く幸福である。そのことを筆者は信者たちに向かってはっきりと断言しておきたい。

最後に、再び話が大きく変わるが、「shueiのメモ」より、「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます。」という記事も、全文に目を通す価値がある。

これは大きな参考事例だ。大量殺人を行った犯人に対して、ノルウェーはどう接したか? この記事を読むと驚かされる。かつての記事で、歌手のレーナ・マリア(旧姓ヨハンソン)について触れた際、北欧ならではの理念が彼女の教育の背景に存在すると筆者は確信したが、この記事を読むと、またしても、北欧の日本人にはない発想に驚かされる。

ノルウェーと同じ方法を、たとえば、日本で植松容疑者に適用できるだろうか? きっとこの国ではできないだろう。この国ではいつも悪い方に合わせ、厳罰によって対処したような気になって終わるという感情論以上のものがないからだ。しかし、上の記事では、厳罰を下すことによっては、犯人と同じように憎しみに生きることを助長するだけで、社会は何も変わりはしないとはっきり結論づけている。世界の考え方の多様性を学ばされる事例である。

筆者は、最近、日本的な物の考え方の限界をしきりに認識するようになった。それは特に、ピラミッド・システムの中に人を閉じ込め、決してそこから外に出そうとしない「和をもって貴しとなす」という、個性を否定する役割重視の集団性の精神の弊害を痛切に感じるためである。たとえ信仰者でなくとも、人々は、そのような価値観の中からは、既存の体制を是とする以上の何の革新的な発想も生まれて来ないので、閉塞感を覚えざるを得ないであろう。

今、日本政府の凶暴さと利己主義が余すところなく明らかになっているので、その著しい犠牲となっている沖縄の日本からの独立論もネットでは盛んだが、沖縄人でなくとも、この社会のバビロン化した体系からのエクソダスの時が本当に近づいていると感じざるを得ない。このような悪しき体制のもとでは誰も幸福に生きられはしない。

基地問題の他にも、我が国には、福島原発事故処理など、従来のものの考え方では、およそ対処できないような深刻な問題が山積みになっている。ところが、政府には解決を生み出す能力がなく、その意欲も展望もなく、人々の想像力も枯渇しつつあり、西を向いても東を向いても、「神になりたい」だけの人たちばかりの様子に、筆者もほとほとうんざりしている。日本人の謙遜はどこへ消えたのかと思うほど、悪しきイデオロギーが至る所で跋扈し、人々はより尊大に高慢に恥知らずになって行っている。そして、そこには必ず異端の影響がある。悪魔的思想だけが、人間性をそのように腐敗させることが可能なのだ。

だが、たとえそのような異端者たちが、大手を振って弱い者を侮蔑し、踏みにじっては、己が栄耀栄華を誇って、自分たちは特権階級だ、選民だ、と豪語してみたところで、ヒエラルキーの競争は果てしなく、彼らの競争に永遠にゴールはない。グノーシス主義というものは、果てしない差別の階層制なのだと筆者は述べたことがあるが、その果てしない競争こそが、この悪しき異端思想の重大な落とし穴なのである。

どんなに人前に評価を得、どんなに他者を凌駕し、圧倒して、どんなに高みに上ってみたところで、そこにはさらなる競争が待ち受けているだけで、その競争は永遠に終わりがない。だから、そんな競争は、関わった誰一人にも、幸福をもたらさないのである。

さて、天皇の生前退位の問題には、この点で、多くの示唆が含まれていたように思う。むろん、この問題には多くの議論が存在するので、通りすがりに触れられるような単純な事柄ではないが、それにしても、筆者は、天皇自らがお勤めを降りたいと表明したことに、注目せざるを得ないのである。つまり、戦後の天皇の仕事は、一見、国民を慰め、励まし、多くの人たちを支える、人に感謝され、喜ばれる、有益で尊い仕事のように見えたであろう。天皇皇后に出会った人たちはみなそれを誇りにするし、かつての大戦の犠牲者を弔うことも、重要な仕事に見えた。

だが、天皇制は、天皇自身の人間性の否定の上にしか成り立たないことが判明したのである。特に、いつまでもかつての大戦に対する反省と懺悔の仕事を、生きた一人の人間に集中して押しつけるべきなのであろうか? そうすることによって、本当にこの国は責任を果たしたことになるだろうか? むしろ、もっと重要な何かがそれによって覆い隠されてしまっているのではないか? 天皇をありがたがる人たちは、自己の満足と慰めのために他者に強いている犠牲を考えてみるべきなのである。

これと同じように、教師や牧師やリーダーといったものにも、世で考えられ、ありがたがられるような価値も栄光も、本当は全く存在しないのだと筆者は思わずにいられない。それどころか、「人の間で尊ばれるものは神に忌み嫌われる」(ルカ16:15)と聖書にある通り、人の目に貴く輝いて映るものほど、ほとんどの場合、まるで実体がなく、むしろ、そこにあるのはメッキのような偽りの栄光と、祀り上げられた人間の忌まわしい犠牲だけなのである。

だから、筆者は、人の上に立つということ自体が、ある意味で、人間にとっては呪われた所業なのだと思わずにいられない。多くの人たちに乞われて高みに上り、師となり、リーダーとなり、象徴となって、人前に栄光と賞賛を受けることは、決して人間の歩むべき道ではないのだと確信する。猿に失礼なたとえだが、猿のごとく知性の欠けた愚直な人間だけが、そのような地位にしがみつくのであって、誠実に正直に生きる人間ほど、その危険性に早く気がつき、そのような忌むべき場所からは一刻も早く降りたいと願うのではないだろうか。

だから、たとえこの国の99%が虐げられた民であり、侮蔑され、見下されているのだとしても、だからと言って、彼らを踏みにじって勝ち誇る1%に入り込むことが、人間の幸福では全くないのだと確信する。そのようにして他者を凌駕し、君臨するために、果てしない競争の階段を上って高みに立とうとすること自体が、敵の仕掛けた罠であり、それは永遠の競争に人を巻き込むだけで、何の解決も、満足も、人にもたらしはない。

人が人間らしく生きるためには、富を蓄積し高みに上り他者の及びもつかない雲上人(神)を目指すのとは、全く違う価値観が必要なのである。そして、それは自分と他者とを比較して優位を誇ったり、あるいは誰か自分よりも可哀想な人間を見つけて来ては、哀れんだり、助けてやったり、あるいは排除したりして、自分の優位を確認することによって得られるものではなく、人間そのものに生まれながらに備わった、他者との比較によるのではない、自己の個性の独自性を基にしてしか生まれて来ることのない価値観である、という気がしてならない。

たとえば、深海や、空の高いところや、人に知られない地の暗闇に、何のために生きているのかもよく分からないような生態不明の生物もたくさん存在する。そのような生物にも、おそらくは、人には理解できずとも、何かの意味が必ず隠されているのである。自分に理解できないからと言って、その生命には生きる価値がない、とか、無用な存在だ、などと誰が言えるであろうか。人もこれと同じであって、多くの人の注目を集め、賞賛され、もてはやされ、評価され、感謝されて生きることが、人間の価値なのではないのだ。むしろ、そうやって他者を喜ばせ、他者に尊ばれ、ありがたがられ、評価されることばかりを目指して、自己アピールに生きると、結局は、他者を失望させないために、絶えず人目を気にし、他人の評価に踊らされ、それに縛られることになる。他方、たとえ人から理解されず、賞賛を受けずとも、そんなものは初めから度外視して、自らの独自性を存分に発揮して、自分本来に備わった自然な役割と能力を生き生きと発揮できるならば、その方が、はるかに自然で幸福ではないだろうか?

人が生命としてのと自分自身に生まれながらに備わった個性の独自性とは何なのかを理解するためにも、世の特定の集団における人間の「役割」や「有用性」だけを至上の価値とするような、忌むべきピラミッド型収奪システムからは早く永遠にエクソダスした方が良い。

今も大勢の人々が、世の中を思うがままに牛耳り、自分たちの圧倒的な優位を他者に誇示して、弱い者たちや、気に入らない他者を辱め、排除するために作り出した儀式が、至る所で執行されている。受験競争においても、就職戦線においても、教会においても、人々が排除されている。オリンピックも、これに賛同しない人々を「非国民・テロリスト」扱いするために、利用されるのだという噂が根強い。この先、政府を批判し、オリンピックに水を差すような言動を繰り返している人間には、共謀罪が適用されるのではないかという危惧さえ囁かれている。一体、ここはどこの国だろうかというほどの有様である。

つまり、そういった一連の晴れがましい儀式は、ある人々が、気に入らない他者を排除するための「踏み絵」として利用されるかもしれないというわけである。それはKFCで行われた異常な聖餐式のように、一部の「選ばれた特権階級」を、それ以外の人々から区別し、自称「エリート」が勝ち誇るためだけに作られたものだというわけである。

だが、筆者の言いたいことはこうだ。神は不思議な方であるから、たとえそのような悪意に満ちた計画のもとに様々な行事が進められていたとしても、ある瞬間が来ると、神は上からの不思議な知恵によって、人間が考え出した意地悪な「踏み絵」をさっと裏返しにされる。そうすると、それまでエリートだと主張していた人々こそ、実は落ちこぼれであったという事実が公に判明するのである。

それはちょうど主イエスが地上に来られるまでは、人々に宗教的権威とみなされて尊敬を受けていたパリサイ人や律法学者が、主イエスの出現によって、その欺瞞が暴かれ、辱められたのと同じ構図である。聖餐式を拒否したKFCの「自称エリート」たちは、神の恵みを拒んで自己の義によりすがったので、神の恩寵から排除されてしまった。そして、彼らは今や神の敵となって歩んでいる。そして、そのような「自称エリート」からは軽蔑され、排除され、見下されて、非難の対象となっていた者たちが、かえって神の恵みに存分にあずかったのである。

自己の義によりすがり、自らを高く掲げる人間は、神の恩寵から自ら除外されて行き、最後には、神ご自身によって排除される。その法則は、イエス存命当時も今日も、何ら変わらない。

神の恵みは常に水のように低い方へ向かって流れる。また、せき止めておけない。せき止めれば、水は淀み、腐るだけである。だから、神の恵みは誰にも独占できない。それなのに、自分たちはエリートだの、義人だの、選民だの、神だのと言って、他者に対する優位を勝ち誇っては、神の恵みをまるで自分たちだけの専売特許のように誇っている連中は、必ず、最後には、神によって打ち倒され、他者を陥れようと自分がしかけた罠に落ちて終わるだろう。

むろん、そうなる前から、彼らは人々に忌み嫌われ、愛想を尽かされているので、特段、彼らを憎んだり、破滅を願うだけの価値すらもなく、まして復讐する意味など全くないが、ただ、上からの知恵によって、この高慢な愚者らに対する神の手厳しい平手打ちが、一体、どんな形で現れるのか、それだけは注目に値すると筆者は思っている。


己が罪から目を背け、自己を英雄化する日本政府の現実逃避のトリックからはエクソダスせよ

1.日本は真の戦後を未だに迎えていない。戦前と戦後の板挟みの中、歴史の岐路に立つ日本
 
これまで書いて来たように、現在の日本の抱える最大の自己矛盾は、現行の憲法を含め、現在の日本政府の形態、および、国内のすべてのシステムに、敗戦以前の明治憲法時代の体制の遺物が中途半端な形で温存されているために、敗戦によってすでに敗れ、罪に問われ、とうに裁かれ、追放されているはずの勢力と、その悪しきイデオロギーが引き継がれて今日に至っていることから生じる。

つまり、本来、敗戦によって終止符が打たれなければならないはずの思想やシステムが、こっそり仮面をつけかえて戦後の体制に忍び込み、堂々と大手を振ってこの国の頂点に居座り、君臨していることが、この国にさまざまな矛盾と悲劇を呼び起こしている最大の原因なのである。
 
その矛盾の筆頭は、敗戦後、A級戦犯であった岸信介が首相にまでなった事実にも見られるように、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実に、米国の承認を受けて、本来は、裁きの対象とされ、公職から完全に追放されていなければならなかった戦前の政治勢力が政界に返り咲き、この国のトップの座に居座り続けたことにある。

政界のトップに、敗戦によって終止符が打たれたはずの勢力が居座り続けたわけだから、我が国に敗戦後も、真の刷新が訪れなかったのは当然である。

国民には敗戦によってあらゆる負い目の意識が植えつけられたかも知れないが、政府には、敗戦によっても変わることのなく戦前と同じイデオロギーが受け継がれたため、国民と政府との間に大きな「ねじれ」が生じたのである。

その「ねじれ」は今日に至るまで、政府と国民との間の巨大な思想的な壁、この国のシステムの抱えるあらゆる自己矛盾となって受け継がれている。
 
さらに、敗戦後も政府に居座り続けた戦前の政治勢力と同様に、明治憲法時代の官僚制の遺物も、戦後の憲法の制定直後から抜け目なく温存されて今日に至っている。それが、我が国第二の悲劇である。

敗戦によって天皇の戦争責任を問うことなしに、天皇制をそのまま温存し、さらに、生まれや、門地、家柄による差別を禁止しながら、皇室だけをその例外とし、天皇という地位が、血筋、生まれ、家柄によって定められるものとしていること自体が、憲法の抱える最大の自己矛盾である。

そして、天皇制が廃止されなかったことをきっかけに、天皇制を隠れ蓑にして、本来、敗戦によって敗れたはずの政治勢力と、官僚制が、抜け目なく自己保存をはかって今日に至っているのである。

つまり、この国は、敗戦を経験しても、上層部はほとんど変わることなく今日に至っているのであり、そのために戦後の政治的刷新が行われなかったことこそが、この国最大の「ねじれ」であり、最大の矛盾であり、国民の悲劇の源なのである。
 
このような自己矛盾があるため、この国では、未だ戦前の遺物と、戦後に作られた新体制のイデオロギーとが激しくせめぎ合い、この国を過去へ引き戻そうとする力と、過去と訣別して未来へ向けて新たな一歩を踏み出そうとする相矛盾する両方の動きが同時に起きているのだと言える。

表面的には、A級戦犯の孫が首相になっていたり、肥大化して国全体を操る官僚システムがあったり、軍国主義や国家神道の復活を願う日本会議の面々によって政府が事実上、占領状態に置かれていることなどから、この国ではあたかも明治憲法時代へ逆戻りしようという勢力が大勢を占め、未来に向けた刷新は絶望的であるように見えるかも知れない。

だが、実際にはそうでなく、天皇の生前退位へ向けたメッセージにも見られるように、そうした歴史的後退の動きを牽制し、むしろ、「真の戦後」に向けて、自己矛盾を取り払い、新たな一歩を踏み出そうとする動きも、ないわけでなく、目立たないように見えながら静かに力強く進行している。

この国はそうした意味で、今、重要な岐路に立たされているのだと言える。筆者は、天皇の生前退位に関する意向表明は、たとえ天皇自身が意図していなかったとしても、やがては必ず天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くであろう極めて重大な問題提起を含んでいることを、思わずにいられない。

明仁天皇の「お気持ち表明」は、天皇とて基本的人権を有すべき一人の人間である、というごく当たり前の事実を表明したものであるが、しかし、現行の憲法と皇室典範の規定では、その当たり前の事実も、当たり前に実現できない、という矛盾が、それによって露呈したのである。

その意見表明により、現行の憲法が規定する国民と皇室との区別という象徴天皇制そのものの抱える自己矛盾が白日の下にさらけ出されたのだと言える。

それゆえ、天皇のメッセージは、天皇を国民とは別格の高みへと押し上げて、天皇を中心としたヒエラルキーをより強化したい人々の願いに応えるどころか、むしろ、それとは逆に、天皇を国民と同じ水準へと「引き下げ」て、天皇と国民との平等化をはかろうとする意味をおのずと含んでいた。

天皇は、天皇という地位だけが独り歩きして、その地位によって自分が現実以上の存在に祀り上げられて栄光化されるのを拒み、むしろ、自分は普通の人間として生き、普通の人間として人生の幕を閉じたいという願いを表明した。

それは明仁天皇という一人の人間の願いであるだけにとどまらず、結局は、天皇を頂点とする虚構のヒエラルキーのみなしさを暴露するものであり、そうである限り、ヒエラルキーそのもの崩壊へとつながる序曲だと言っても差し支えないほどに、衝撃的な意味を持つものと筆者は考えている。

明仁天皇のメッセージは、ただ激務から解放されたいという個人的願いを示すだけのものではなく、天皇であり続けることには、何ら輝かしい栄光はなく、むしろ、一人の人間を生涯に渡って人身御供にしてしまうような、ある種の非人間性が伴うことを無言のうちに明らかにしたのだと言って差し支えない。

従って、そのような告白がなされたこと自体が、天皇を未だ取り巻く神秘のベールを取り払い、天皇を神話化し、栄光化しようとする動きに相当、水を差すものであったことは間違いない。

つまり、そのメッセージ自体が、天皇制を隠れ蓑に、自分たちを「上級国民」として栄光化し、「下級国民」を見下して、ヒエラルキーを強化したい人々にとっては、限りない屈辱であり、著しい敗北だったのではないかと思う。

結局、この「お気持ち表明」を通して、明らかになったのは、現行憲法が定めている、日本国民の間に差別を敷く天皇制そのものが抱える自己矛盾であり、その矛盾が、天皇自身をも人間として犠牲にしていること、また、そのような形で天皇制を維持し、人が生まれによって人の上に立つことを認めたがために、我が国では、天皇ばかりか、敗戦によって終止符が打たれるべきであった旧いヒエラルキーが温存され、国民の間でも、競争が敷かれ、地位や職務ばかりが独り歩きし、社会における役割を離れての一個の個人の価値というものが、全く重視されなかったことである。役割を離れた個人の価値を認めないからこそ、基本的人権も軽視されている。

こうしたことから、筆者は、今回の明仁天皇による「お気持ち表明」は、天皇を基本的人権の例外とみなす自己矛盾の撤廃と、生まれや血筋に基づく差別の完全な撤廃と平等の実現に向けて、やがては天皇制そのものの撤廃へとつながる国民的な議論を呼び起こすであろう、と予測するのである。
 
むろん、明仁天皇は、そのメッセージによって、象徴天皇制自体の廃止の願いを表明したわけではなく、象徴天皇制そのものは国民と共に続いて行くことを願っていたので、天皇自らがそのような希望を述べたわけではない。

また、今はまだ多くの人々が、明仁天皇の生前退位の問題は、個人の問題に過ぎず、大々的な制度的変革の必要性は生じず、まして天皇制の廃止といった話には結びつかない、と考えているかも知れない。だが、筆者の予測では、そうはならない。

明仁天皇の生前退位によって提起された問題は、以上に述べたように、もっと根本的な重みをもつ問題提起なのであり、そうである限り、いずれ必ず、皇室や天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くことであろうと思う。
 
こうして、奇妙なきっかけであったとはいえ、今まで一度もこの国に姿を現したことのなかった真の民主主義へ向けての展望が、天皇自らの生前退位を示唆する意向表明によって、わずかながら姿を見せ始めた。

たとえこれをどんなに妨げようと考える勢力がいたとしても、一旦、始まった動きはいつの日か必ず成就されるであろうと筆者は思う。

さて、この生前退位の問題に関して、天木直人氏のブログに極めて重要な指摘があったため、転載しておきたい。

天木氏の記事における重要なポイントは、現在の皇室典範は、明治憲法時代の旧皇室典範の精神をそのまま受け継いだものだということである。

明治憲法時代の旧皇室典範は、皇族についての家法でありながら、憲法と同格の法規とみなされ、なおかつ、国民をも束縛する内容であった。戦後の皇室典範は、憲法と同格ではなく、憲法の規定に従って作られた下位法に過ぎず、国民は議会を通じてこれを改変することができ、皇室典範が国民を縛るとこともない。

だが、安倍政権を含め、極右・保守勢力は、この秩序を再び逆にして、憲法を貶めたいのであろう。彼らは皇室典範は改正せずに、憲法だけを改正することによって、憲法の精神を愚弄し、さらには将来的には、皇室典範を憲法の上位に置いて、再び天皇の名の下に国民を束縛することを主眼としているのだと考えられる。

「皇室典範は壊憲派にとっての9条だ」などと世間で言われたりするのも、こうした理由からである。だからこそ、天皇の生前退位に関しても、安倍政権は皇室典範を改正することを嫌がり、この問題を特別立法によって済まそうとしているのである。
 
つまり、彼らの目には、今も憲法と同等の(それ以上の)法規と見えており、本当は彼らが憲法につけ加えようとしている緊急事態条項などにもまして、天皇の名の下に、国民の人権を再び大規模に抑圧することが狙いであって、皇室典範こそ、それを正当化するための精神的根拠なのであろう。
 

天木直人氏のブログ記事
皇室典範は国民の手で改正しなければいけない」から転載
2016年8月17日

 国民の圧倒的多数(8割-9割)が天皇陛下の生前退位を支持する事が分かった以上、もはや安倍政権はそれを認めるざるを得ない。

 本来ならば皇室典範の改正が本筋であるが、メディアがはやばやと報
じたように、安倍政権は特別立法で乗り切るつもりだ。

 なぜか。

 
その理由を発売中のサンデー毎日(8月28日号)でノンフィクション作家・評論家の保阪正康氏が、で見事に言い当てくれた。

 すなわち、彼は「平成の玉音放送を読み解く」と題する特別寄稿の中で、皇室典範に関して次のように書いている。

 「・・・大日本帝国憲法成立と旧皇室典範はほぼ同時期に成立していて、いわば近代日本の天皇制はこの二つの枠組みで決まっていた。天皇はこの国の主権者であり、統治権、統帥権の総攬者であった。これに反して新憲法の成立とやはりほぼ同時期に決まった新しい皇室典範は、本来なら新憲法と併せて象徴天皇の両輪になるはずであった。

ところが、
たとえば新憲法では、国民の市民的権利を認める民主主義の創設を謳っているにもかかわらず、新しい皇室典範は旧皇室典範を踏襲した形になっていた・・・つまり今の憲法と皇室典範には、共通の回路があるわけではない。二つの枠組みには異質なものが抱え込まれている・・」

 賢明な読者なら、この指摘がいかに深刻な意味を持っているか、お分かりだろう。

 つまり新憲法は天皇制に関しては明示憲法の考え方を引き継いでいるということだ。

 そして天皇制に関して明治憲法の考えを引き継いでいるということは、新憲法は民主主義と明治憲法の相反する矛盾を抱えているということだ。

 この矛盾に私は気づかなかった。

 いや国民のほとんどは気づいていないに違いない。

 新憲法の成立過程は国民の手に及ばないところで作られた。

 しかし皇室典範はもっと国民の手の届かないところで作られ、その存在は国民の意識の外にあり続けたのだ。

 天皇陛下の生前退位によって皇室典範の改正が不可避になった以上、我々は、特別立法というごまかしではなく、いまこそ皇室典範の改正を求めなければいけない。

 すなわち国民の手で、皇室典範を、新憲法の定める民主主義、基本的人権尊重の精神にしたがって、作り直す必要があるのだ。

  明治時代への回帰を求める国粋・右翼の連中が、おそれおおくも天皇陛下の生前退位のお言葉に不快感を抱き、皇室典範の改正に反対する理由が、これではっきりした。

 日本が本当の意味で民主主義国家になれるかどうか。

 いま我々は歴史の大きな転換期に立たされているのである。

 天皇陛下が覚悟を持って示されたお言葉を、特別立法でごまかしては日本に民主主義はやってこない(了)

 

このように、我が国では、法的にも、民主主義を阻む戦前の遺物と、民主主義へ向けた新たな一歩と、全く相矛盾する二つの理念が未だ併存し、対立している状態で、戦後70年が経過しても、未だ過渡期のような状態である。だが、そうであるがゆえに、今、極めて重大な分岐点に差し掛かっているのだと言える。
 
時計の針を逆戻して歴史をさかさまにすることは誰にもできない以上、今はどんなに弱く小さく見えても、時代を前進させ、刷新する動きの方が最終的には勝つであろう。
 
さらに、天皇制の次に廃止されなければならないものが、官僚制度である。
 
 明治憲法下では、 主権者は天皇であるとされており、行政官庁は天皇の直属の機関であり、官僚は天皇の僕ということになっていたので、天皇に仕えるという名目で、官吏には特権的な社会的地位を得、身分保障がされていた。さらに、官吏の人事は、議会も関与できない「聖域」であった。

戦後になっても、事情はあまり変わらず、戦後、官僚は天皇の僕ではなく、国民の公僕と定められている。しかし、現実には、官僚には国民の公僕との意識は全くと言ってよいほど存在しない。天皇の直属の機関でなくなってもなお、官僚には国民が主人なのだという意識はなく、かえって自分たちは国民に君臨する存在だという意識に貫かれている。

悪しき上級キャリア試験に合格したというエリート意識が、彼らの国民への優越感をより一層助長しており、そうした官僚の特権的・優越的な意識と、その意識に基づいて、彼らが現実に作り上げ、維持している、肥大化したモンスター・天下り・システムも、結局は、「神である天皇に直接仕える官吏」という戦前の幻のような自惚れと特権意識をそのまま今日まで引きずることによって正当化されている。

そのような官僚の優越感と特権意識は、憲法が中途半端に天皇制を温存したがゆえに、これを隠れ蓑に正当化されているのだと言える。官僚には敗戦後も何ら精神的刷新が訪れず、戦前と変わらず、自分たちは国民に君臨する特権階級だという意識が持ち続けられ、そのために、現在も、自らの優越的地位を正当化し、手放さないのである。

また、官僚の人事が「聖域」であるという事情も変わらず、国家公務員は若くして国家公務員試験に合格し、省庁に採用されさえすれば、よほどの不祥事を起こして世間を騒がせたり、あるいは組織内部の判断によって降格されたり罷免されたりといったことが起きなければ、誰からも出世コースを阻まれることがない。

官僚のエリート意識を生んでいる一つの大きな要因は、官僚の登用試験制度である。戦前の官吏が試験を通じて登用されたのと同様に、今日も官僚は試験によって採用され、しかも、キャリアとノンキャリを区別するエリート専用の試験が設けられている点も、戦前と同じである。
 
このように画一的な、生涯に渡る出世のコースが限定されてしまうような試験の区別がなされていること自体、極めて深刻な問題であるが、それは戦前の制度を今日に継承して成り立っている。
 
こうして官僚の出世の可能性はおおよそ試験の結果によって決まって行く。民間企業にも、入社試験なるものはあるが、その試験が、入社後の人事に半永久的に影響を及ぼすことは決してない。さらに今日、民間企業にはアファーマティブ・アクションの一環で、障害者雇用の枠なども義務付けられているが、国家官僚にはそれもなく、経験者採用の枠組みも狭く、官僚になるには、基本的には、一定年齢の間に公務員試験に合格する以外には道がなく、たった一度の試験結果がほとんど生涯に渡って影響を及ぼすのである。

そんな制度自体が、年齢や能力に基づいた差別であり、しかも、そのような画一的な試験に高得点で合格した人間こそが、真に官僚にふさわしい人間だと判断できるだけの客観的な根拠は、全くどこにも存在しない。

明治時代、当初は官吏の試験を受けることのできるメンバー自体も限られており、学歴や卒業校による差別も行なわれていた。

その後、官吏になるための試験は国民の誰もが受けられるという体裁にはなったが、それも表向きのことであり、実際には、戦後の今でさえ、東大(法学部)卒がキャリア官僚の大半を占めるという構図は変わっていない。

こうしたシステムはすべて明治時代に作られた官吏の制度に起因しており、それが敗戦を経ても、本質的に変化することなく今日に精神的に受け継がれている。

だが、こうしたシステムは、戦後の憲法の時代、何ら正当な根拠を持つものではない。
 
このように、日本では、天皇制を筆頭として、官僚制も温存され、政治的刷新がなされなかった。戦後の憲法でさえ、完全な政治的刷新を拒む不完全さと矛盾を抱えており、そこにあらゆる戦前の悪しき勢力がつけ込み、自己保存をはかった結果、不完全な憲法の中にこめられたなけなしの新時代の理念さえ、骨抜きにされ、愚弄されて、今日まで一度も完全な形で実現を見ていない。

たとえば、戦争放棄や、非核三原則でさえ、米軍基地が置かれたことや、自衛隊の設置により、骨抜きにされ、日本国憲法が基本的人権によって保障している最低限度の生活や、居住移転職業選択の自由といったものも、定められてから一度たりとも国民の間で完全な形で実行されたことはない。
 
憲法の定める差別の禁止や平等などは謳い文句に過ぎず、今も我が国に根強く存在するのは、幼い頃から学校で良い成績を取り、偏差値優秀な大学を卒業し、官庁やエリート企業に勤め、そのエリートコースから外れなかった者だけが、社会の最上層部で特権的で裕福な生活を享受でき、自由を謳歌できるという幻想であり、他方、エリートコースから逸れた者には、その外れた分だけ、人間としての自由や権利が制限されて行く、という歪んだ価値観が横行している。

就職による新卒・既卒の区別など、法的には何の根拠のない差別でしかないのに、そのようなものが「慣習」として大手を振ってまかり通り、そのような悪しきヒエラルキーを容認し、正当化する最たる制度として、受験競争の上に官僚制度が君臨しているのである。
 
おそらくは、官僚制度がなくならない限り、日本特有の「受験戦争」や「就活」の異常な風景もなくなることはきっとないであろうという気がしてならない。

こうして、日本国憲法の理念は、戦前に作られてとうに撤廃されてしかるべき悪しきヒエラルキーによって、成立から今日に至るまで、絶え間なく踏みにじられ、愚弄され、骨抜きにされている。そのせいで、我が国では一度もきちんと完全に実行されたことがない。ところが、この憲法を、実行もされないうちから、時代遅れなものとして撤廃しようという動きが出ていることには、呆れる他にない。その理由として、そうした動きを助長する人々は、この憲法は「米国から押しつけられたものだった」と言う。

だが、実際には、日本国憲法は「押しつけ憲法」などではなかったのであり、つい先日も、「「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料」(東京新聞 2016年8月12日 朝刊)という記事により、また新たな裏付づが得られたばかりである。

ところが、こうしたニュースも、国民の目を欺きたい勢力は、トリックによってかき消そうと、「魔法」に余念がなく、「日本の憲法「我々が書いた」…米副大統領」(YOMIURI ONLIEN 2016年08月16日)といった情報を盛んに御用メディアで流布し、何とかして、戦後の憲法は米国から押しつけられたものだったのだ、という歪曲された歴史観を強化しようと試みている。

だが、たとえ現在の米副大統領が「我々が書いた」と発言したからと言って、当時の証拠もなしに、そんな発言だけを頼りに、日本国憲法が押しつけだったという論拠とするのは愚かであろうし、そんな試みは後世の人々による歴史の書き変えの一環に過ぎない。

しかも、このような傲慢な発言の真に言わんとしているメッセージは、結局、「世界のどの国であろうと、我々米国人は、その国の憲法をないがしろにし、いくらでも自分たちに都合の良いように書き変える権利を持っているのだ」という、他国の主権の否定と他国への愚弄の意図に他ならない。

もし我が国が、そんな聞き捨てならないプロパガンダに乗って、一度も完全に実現されたことのない憲法を「押しつけ」だの「時代遅れ」だの「みっともない憲法」だのと言って、時の政権に都合よく改変するようなことがあれば、その時こそ、米国の「押しつけ憲法」が成立し、この国の主権は蹂躙され、もはや無法地帯同然となるだけである。

そもそも、最高法規で何を定めていても、それに違反する現状がすべてに優先するというのであれば、憲法のみならず、どんな法の定めも、すべて単なる「絵空事」に過ぎないことになり、現場でやりたいようにやった者勝ちの世界が成立する。そんなことならば、見かけだけ文明国をきどるためのまやかしの法など全て捨てて、文字も持たない未開の野蛮人に戻り、実力だけにすがって生きるのが最も手っ取り早いであろう。

戦後の平和憲法を「みっともない押しつけ憲法」だと呼んでいる者たちは、しょせん、戦犯の子孫であったり、あるいは、戦前の官吏の制度をそっくり継承して国民に君臨する官僚であったり、ほとんどがトリックによって現在の政府に入りこんだ戦前の政治勢力に過ぎない。
 
要するに彼らは、自分たちの存在そのものの違憲性が暴かれ、自分たちの無法行為が暴かれ、罪に問われたりしないように、法を骨抜きにして「やりたいようにやった」者勝ちの世界を正当化しようと、彼らを罪に問える憲法自体を自分たちに都合よく別物に変えてしまおうとしているだけである。
  
戦犯の子孫である彼らのみならず、彼らが戦犯であることを重々知りながらも、日本を「反共の砦」とするために、また、永久に属国化するために、あえてこのような犯罪者集団をこの国の政権の座につけた米国とが協力して、彼ら両方のはかりしれない重い罪を覆い隠すために、壊憲を実現しようとしているだけである。
 
今日、世界中の国々で、ネオナチ・前科者などの忌むべき犯罪集団を積極的に政権の座につけることにより、クーデター同然にその国を乗っ取り、犯罪集団のもたらす恐怖によってその国民を支配しているのが米国であり、ウクライナを例に、我が国への米国支配のあり方をも十分に学ぶことができよう。
  
こうした人々は自らの罪を否定し、自分たちが不法に獲得した特権的地位を保つために、自分たちを罪に問う力を持つ法そのものを否定し、これを歪曲し、自分たちがあらゆる法規を超える存在(神)になろうとしているだけである。


2.映画『シン・ゴジラ』に見る日本政府の妄想的な自己美化願望
  

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。 

・・・

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」


さて、次は『シン・ゴジラ』について書きたい。

映画はすべて未来へ向けて人々の意識を誘導する意図を込めて作られるものである。だから、この映画についても、国民をどのような未来へと誘導しようとして作られたのか、隠されたストーリーを疑わないわけにはいかない。

筆者は、この映画は、戦争と緊急事態へ向けての布石であり、かなり巧妙かつ悪質な政府のプロパガンダ映画であるという印象を受けた。むろん、この映画は政府が制作したものでないとはいえ、その筋書きは、強く政府の意向を反映したものとなっていると感じざるを得ない。

この映画に関しては、「『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」」(現代ビジネス 2016年08月13日)にも見られるように、すでにかなりの批判の声も上がっている。

筆者の観点から見ても、この映画の最も遺憾な点は、これが「主権在民」とは程遠く、むしろそれとは正反対の「主権在官」と言っても良い「官主導」の観点だけから作られた、国民を軽視し、政治家と官僚だけを英雄視する政府の太鼓持ち的なストーリーとなっている点だ。

さらに、悪質で許しがたいと感じられる数々の印象操作がこの映画では堂々と行われている。ゴジラという架空生物を登場させて、政府を「ゴジラを退治する正義の味方」として描き出すことによって、本来、福島原発事故によって、東京を含め、全国にまき散らされた放射能汚染に関して政府が現実に負っている責任をごまかし、ファンタジーによって薄め、被災地への復興支援の遅れの責任なども曖昧化し、震災関連で起きた政府の全ての対応の無責任という現実を、ゴジラに転嫁してことを済ませることが、真の目的だとしか思えないほど、フィクションとは言え、許しがたい印象操作がなされている。

さらに、そのような印象に追い打ちをかけるように、ゴジラを口実にした、首相権限による超法的な「緊急事態・戒厳令」の制定、さらには自衛隊による国内での武力行使や、まるで特攻隊の再来のような、自衛隊員によるゴジラへの決死の体当たり作戦といった、人権の軽視、生命の軽視を念頭に置いた刷り込みが行われ、まるで国民に「緊急事態だになれば、人権停止も、武力行使による人的犠牲も、やむを得ないのだ」と、予め心の準備をさせることを目的としているとしか思えない筋書きが込められている。

これらのことを考慮すると、筆者には、これは福島原発事故によって生じた放射能汚染の被害に関する日本政府責任を覆い隠し、政府を「英雄化」した上で、さらには「有事」を口実に、政府の権限を無制限に拡大し、政府主導で緊急事態を宣言して国民の人権を停止するという来るべき将来の事態に向けて、国民を心理的に「地ならし」するために作られたプロパガンダ映画だとしか思えないのである。
 
もしかすると、この作品は、これまでに作られたどのゴジラ映画のストーリーともほぼ正反対の筋書きになっているのではないかと怪しまれてならない。
 
海外では、福島原発事故後、東電及び日本政府の無責任な対応について、以下のような皮肉な風刺画も描かれ、つまり日本政府こそ、人類に危害を与えるゴジラだ、と揶揄されたのである。

ところが、この映画では、まるでこうした批判をかわし、あざ笑うかのように、汚染水垂れ流しの無責任のために、「おまえこそがゴジラだ」、と国際的に非難を浴びているはずの日本政府が、「放射能をまき散らすゴジラを退治する英雄」にすり替わっている。
 
その意味で、『シン・ゴジラ』という映画自体が、東電と日本政府とが、空想の中に逃げ込むことによって、現実に起きた災害から目をそむけ、それに対する自らの対策不足と、無責任という罪から逃げ、自己を英雄視するための、架空のありもしないストーリーを思い描いて現実逃避し、そこに国民を巻き込みながら、自己肯定・自己安堵するために作られた大がかりな(自己美化のための)「装置」なのだと感じられてならない。

 

画像の出典:"Fukushima: Japan building giant ice wall as TEPCO gets go ahead"
(The News Doctors. May 28, 2014) フクシュビッツのホロコースト

しかも、この映画には、随所で3.11で現実に起きた出来事を模して作ったとしか思えない映像がちりばめられている。

たとえば、作品に登場する政府の対策本部の人々の着ている濃いブルーの防災服は、福島原発事故直後、菅直人元首相、東電勝俣元会長らが着ていた防災服とカラーが一致し、当時の政府と東電責任者を強く思い起こさせるものとなっているが、これも決して偶然ではなかろう。
  
上記の面々、特に東電の責任者らは、3.11当時、この国を滅亡へ導くほどの未曾有の原発事故の責任を問われ、ひたすら国民の前に謝罪と対応を求められていた「戦犯」たちであるが、映画では、そのような面々を思わせる登場人物が、勇敢にゴジラと闘って国を救うヒーローのように登場しているところに、これらの「戦犯」を「名誉回復」しよう、という隠れた意図を感じざるを得ない。登場人物の風貌も、どこかしら東電の吉田所長や、勝俣元会長などを思い起こさせるのは偶然であろうか?

事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区

(写真の出典(上):日本経済新聞「3月30日」(2011/3/30)事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区)
 (下二枚):「シン・ゴジラ 予告」より 
 


 
 


(写真の出典(上):「【菅直人氏インタビュー(中)】 原発から逃げたら、日本は国として成り立たないと思った」WEBRONZA 2012年06月15日
  (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

しかも、この映画では、3.11で起きた災害の様子を強く思い出させるようなシーンが、「ゴジラの脅威」にすり替えられて使われているため、現実に起きた自然災害の脅威を、人々に忘れさせる効果がある。

東電福島原発がまき散らした放射能被害に対する政府と東電の無責任を問う国民の怒りの声も、すべてゴジラへの怒りの声にすり替えられ、今でも、連日のように、国会議事堂周辺で繰り広げられる反原発デモの怒号も、「ゴジラを倒せ」という架空の存在への怒りへと置き換えられる。 

こうして、この映画は、フィクションでありながらも、現実に存在する様々な現象を、その意味を巧みに歪曲し、すり替える効果を持っており、結果として、非常に巧妙かつ狡猾な形で、政府にとって都合の良い「概念のすり替え」を、観客に刷り込み、結果として、現実に起きたあらゆる災害についての政府責任を免罪するかのような心理的効果を観客にもたらすものとなっている。

また、この映画では、国民の人権は軽視され、あえて言うならば、時代錯誤な「国体護持」以上の「理想」が何ら提示されていない。

つまり、この映画のストーリーが目指している「解決」とは、要するに、主都と政府機能が壊滅しないことにより、日本という国が体制の変革を迫られることなく、滅亡せずに存続する(現代版の「国体護持」)ことを解決とみなす、という以上のものではない。
 
人間一人一人の命よりも、「国を守る」ことの方が優先なのである。東京が壊滅しなかったことが、国全体が助かったことと同一視され、時代遅れで無能な政府が、ゴジラによってさえも終止符を打たれず、中途半端に生き永らえたことが、物語の中で、一種の「ハッピーエンド」のようにとらえられる。
 
この(現代版)「国体護持」は、おびただしい数の国民の人権の抑圧と、多数の自衛隊員の犠牲と引き換えにもたらされたものであるが、その犠牲者も、ゴジラの脅威が去って国が滅びなかったという喜びに影を落とすものではない。

こうして、国民の犠牲や、自衛隊員の死が悲劇としてはとらえられず、人間を道具のように扱いながら、どこまでも政府の作戦だけにスポットライトを当てて、その成功を祝う人命軽視のストーリーに感じる違和感は、現存の政府が抱える思想的な欠陥を、そのまま浮き彫りにしたものだと言えよう。

この物語では、政府が「主役」として高められる一方で、国民には暗黙のうちに蔑視的な眼差しが向けられる。

国民一人一人は、自らの意志で決断・行動する生きた「主体」ではなく、常に外的現象の影響力に振り回される「客体」でしかなく、ゴジラの姿を見ても危険を覚えず、スマホでの撮影に熱中したり、避難の最中にも悪ふざけしてはしゃぐような、何の危機感もない愚かな連中でしかない。メディアを通して政府から一方的に与えられる情報や指示や手助けにすがることなくして、自分自身では何らの自己管理も、正しい判断も下せないような「愚民」の集合体にされてしまっている。

そんな知性の欠ける大衆だから、災害時にはただ恐怖に逃げ惑う群衆と化し、ついに政府主導の緊急事態に基づく戒厳令によって、人権も停止され、無理やり疎開させられたり、外出もできず、缶詰のように家に閉じ込められても当然の存在ということになり、国民は徹頭徹尾、生きた人間としての自己決定権や、主体性を奪われた哀れな群衆・被災者でしかなく、政府とゴジラとの勇敢な闘いというストーリーから排除されて脇役に追いやられた黒子でしかない。

この映画を観て思い浮かぶことは、政府が勇敢にゴジラと闘う英雄となっている間、行き場もなく疎開させられ、戒厳令により家屋に閉じ込められ、帰宅難民となっていた何十万もの人々は、何を感じていたのだろうかという疑問である。3.11の時のように、彼らはテレビを通して発表される嘘だらけの政府報道に釘づけになっていたのであろうか?
 
3.11のあの時、主役どころか、悪役のトップであったはずの政府や東電のメンバーが、「ゴジラとの闘い」というフィクションの舞台で、国民を押しのけて、厚かましくも主役として舞い戻って来たのだという奇妙な既視感が生じざるを得ない。

ゴジラの破壊力の大きさを示し、群衆の恐怖を伝えるためのシーンでは、津波に追われながら、町中を逃げ惑う人々や、泥水に無残に押し流された家屋や、車、津波にさらわれてがれきの山となり、荒廃した町の様子など、現実に起きた3.11の被害を強く思い起こさせるいくつもの映像が登場する。

がれきの山を目の前に、呆然と佇む人間を見ても、それがフィクションだとは思えないほどに、3.11の災害の記憶はまだ我々の脳裏に鮮明である。正直、現実に起きた災害の場面を、こうしたフィクションに活用すること自体に、正直、映画といえども、深刻な疑問を感じざるを得ない。
 
 

写真の出典(上):「被災地のがれき処理は軌道に乗るか」(WEBRONZA 2012年04月19日)
 (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

3.11のみならず、熊本地震も含め、現実に起きた災害では、今も立ち上がれないでいる多くの被災者が存在する。そうした被災者には、映画のように、「ゴジラが退治されて良かったね!!」などと安堵して、避難所で手を取り合って喜ぶような余裕は全く存在しない。現実には重い被害だけが残り、今もその痛手を無言のうちに背負いつつ、避難所暮らしを余儀なくされている。

にもかかわらず、ゴジラという架空の生物を設定すれば、こうした人々の生活が元通りになっていないのに、あたかもハッピーエンドが訪れたかのような錯覚を人々に起こさせ、現実に起きた災害の苦しみから、意識をそらすことができる。こうしたごまかしは、たとえフィクションと言っても、許されるべきものであろうか?

この映画には、現実に起きた巨大災害、しかも、未解決の災害の映像をふんだんに参考材料にしながら、それを「ゴジラが原因で引き起こされた災害」にすり替えることによって、今も政府によって見捨てられたも同然に、被災地に置き去りにされ、被害から立ち上がれないでいる人々の苦しみや、復興に至っていない地域の苦しみをごまかし、こうした生きた現実を忘却させ、風化させて、政府の無能さと無責任からも人々の目をそらし、現実のすべての深刻な問題の重さと教訓を、フィクションの軽さにすり替える効果がある。

さらに、政府を英雄化することによって、観客の意識をまるごと架空の世界に逃避させて、政府の責任を忘れさせるだけでなく、現実に今、実際に何が起きているのかを忘れさせようとするトリックが随所にしかけられているように思われてならない。
 
  たとえ映画といえども、このようなフィクションは、忘れてはならない災害の教訓をより風化させることに貢献するだけであって、しかも、3.11は、自然災害と人災の組み合わさったものであって、その災害は、いついかなる場合にも繰り返されうる生きた教訓であるにも関わらず、それさえ、ゴジラの脅威にすり替えることによって、嘲笑するかのように、ないがしろにし、忘れさせてしまうものであると感じられてならない。

ゴジラの脅威に対する対策は全く必要ないが、すでに起きた自然災害への教訓は、未来へ生かさなければならない。そうしなければ、二度、三度でも、同じことが起きうる。にも関わらず、現実の政府は、過去の教訓に一切、学ぼうともせず、そこから目を背け、適切な避難計画さえもないまま、原発を無理やり再稼働させているような有様である。
 
この映画は、そのような政府の暴挙を人々に忘れさせて、国民に向かって「あなたがた愚民は、自分で考えたり、行動しようとはせず、政府の指示にさえ従っておけば、それで良いのですよ」と訴えかけ、そうした考えを刷り込む効果を持っているようにしか見えないのである。

結果として、この映画は、3.11とその結果起きた原発事故の被害についての政府責任をごまかし、自然災害の教訓を生かす対策が何ら取られないまま、政府による原発再稼働という狂気の策が実行されている恐ろしい現実を、ゴジラの脅威という架空の物語と合わせることによって、巧妙にごまかそうとするトリックだとしか考えられないのである。

しかも、この映画のストーリーは、現実に起きた災害だけでなく、未来に起きうるであろう災害からも人々の目をそらさせる効果を持っている。

すでに指摘されていることであるが、物語の政府は、あり得ないほど美化された政府であって、現実の日本政府には、映画に見られるような危機管理能力は全く存在しない。福島原発事故に際しても、政府も東電も、チェルノブイリ原発事故を石棺化するために身を投じたリクヴィダートルのような「決死隊」を組むことができなかったのだから、たとえ相手がゴジラであっても、そのような決断はこの国の人々には決してできはしない。

フィクションだからこそ、そのような「英断」が可能となるのだが、それでも、フィクションの世界でさえ、そのような「ヒロイズム」は、勇気ある美しいストーリーというよりも、戦前の特攻のような人命軽視の精神の上にしか成り立たない痛ましい犠牲だと思わずにいられない。

ゴジラへの自衛隊員の突撃シーンで思い起こされるのは、安倍内閣の解釈改憲のために、「駆けつけ警護」などを命じられ、世界の戦闘地域に実際にこれから派遣されようとしている自衛隊員の苦悩である。


ゴジラと闘わされた自衛隊員は多くが死出の旅路へ赴かされ、生還しても、トモダチ作戦以上の被爆が予想されるわけだが、このような「特攻」の任務を帯びた自衛隊員の苦悩には、映画では全くスポットライトが当てられない。ただ彼らの死と引き換えに東京が守られ、「国体が護持された」ことが、政府の作戦の成功をもたらす自衛隊の快挙とみなされるだけである。

さらに、ゴジラの危機のために、民間企業も操業を停止して、戒厳令が敷かれて国民生活は根こそぎ奪われ、すべての国民が個人生活を犠牲にして、国家総動員体制によって、ゴジラ駆逐に励んだことが、国民の団結と、ヒロイズムとして賛美される。そのような価値観自体が、敗戦と共にとうに死んで終わったものではなかったのだろうか?

しかも、さらに悪いことに、この映画では、ゴジラ駆除のための米国と国連による核の先制使用の提案に、日本政府が勇気ある反対を唱えて国土を守ったことになっているが、現実には、恐ろしいことに、「安倍首相 核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道」(毎日新聞 2016年8月16日)とのニュースにも明確に表れているように、日本政府こそが、オバマ大統領が宣言しようとしている核の先制不使用に対して、今もって猛烈に反対を唱えて、日本の国土を危険にさらしている張本人なのである。この映画はそのことも人々に忘れさせてしまう。

映画は、国土を守り、国民の命を心配する、ありもしない英雄的な日本政府の姿を描き出すことによって、実際にこの政府が行って来たすべての無責任行為と悪しきイデオロギーを覆い隠し、この国の政府の真の姿を隠す効果を持つのである。

このように、この映画には、我々が決して目を背けてはならない現実の深刻な出来事に関する様々な概念のすり替え・歪曲が満ちており、とりわけ、政府や東電の「戦犯」を免罪し、現実には国民を救えなかった無力で無責任な政府を、現実を無視して美化し、英雄化するという偽りのプロパガンダ的ストーリー立てが強く感じられるものとなっている。

要するに、この映画は、3.11と福島原発事故に今もって全く対処できておらず、その教訓を、将来的に起きうる災害への備えとして生かすこともせず、現実から目を背け続けて原発再稼働に走っているだけの無能な日本政府を美化し、しかも、国民をそのような無力かつ無責任な政府の助けなしには生きられない「愚民」として描き出すことにより、この国の歪んだ統治体制がいついつまでも変革されることもなく、永久に変わらないことを願って作られたものだとしか思えないのである。

この映画に天皇は登場しない。なぜなら、この映画の「主権者」は、事実上、国民でもなく、天皇でもなく、官僚だからである。「この国はまだまだいける」とか、「戦後は続くよどこまでも」といったような言葉さえも、実のところ、官僚主導の統治体制を賛美するものなのであって、官僚独自の「君が代」なのだと感じられてならない。

現実の日本政府は、英雄どころか、極度に追い詰められているはずであり、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は過去となり、アベノミクスには成果がなく、福島原発事故の収束にはめどが立たず、国際的にも事故処理の遅れを非難され、しかも、平和憲法を骨抜きにし、挑発的で好戦的な軍国主義的スローガンばかりを唱えているので、周辺諸国との関係は悪化し、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくなく、その戦争を勝ち抜くだけの国力はこの国にはもうないのに、軍備をいたずらに増強している。再稼働した原発がいつ災害に見舞われ、二度目、三度目のフクシマが起きてもおかしくないが、原発を断念するだけのひとかけらの知恵もない。

かつての敗戦時と同じように、こんな体制には、できるだけ早く何かの政治的変革によって終止符が打たれなければ、我が国がまるごと滅亡し、未来をつなげないところまで来てしまっている。

このように、脅威はゴジラなどでなく、現存する日本政府にこそあり、政府は、自然の摂理を無視して自滅へと向かっているのに、この映画は、政府の罪を免罪する上、未だ国体の護持だけが最高の理想という考え方を全く脱し切れていない。その国体も、結局、敗戦によって敗れたはずの政治家と官僚制を永遠に温存するための体制でしかないのである。

この映画は、「ゴジラ」という仮想敵を作り出すことによって、本来は、日本政府そのものの中に潜んでいるはずの「魔物」を、巧妙に政府から分離・抽出して、この架空生物だけに一身に投影した。それによって、あたかも政府には罪がないかのように、政府が現実に担うべき責任を曖昧化し、ごまかしている。
 
さらに、「ゴジラ」という人類共通の敵を口実にしさえすれば、政府はいくらでも軍備を増強し、首相判断で、超法的な武器使用の可能性も認められ、事実上、無制限の権力が与えられる。その一方で、国民は緊急事態と戒厳令によって家屋や疎開先に物のように押し込められ、主体性と個人生活を奪われても当然ということになる。こうした筋書きそのものが、悪質な誘導だと筆者は感じざるを得ない。

現実世界には、「ゴジラ」など存在せず、「魔物」は決してこうした誰にでも分かる怪物の姿を取って現れることなく、むしろ、いかにも正しそうに見える普通の人間、いや、普通よりも優れているように見える人間の中にこそ潜んでいるものであり、その魔物は、米国でもなく、国連でもなく、他でもない我が国の政府にこそ、潜んでいるのである。
 
本当は、自分たちは悪を退治する正義の味方で、追い詰められて可哀想な人々を守る英雄だと言っている人々の中にこそ、ゴジラはいるのであって、国民を放射能の脅威にさらし、国際的に害を垂れ流す日本政府の中にこそ、退治されねばならない「ゴジラ」の姿がある。

にも関わらず、政府が己が罪を「ゴジラ」に転嫁することで自分自身を免罪し、自己を英雄化して、現実に直面している危機を忘れようとしているのであれば、それは悪質な目くらましであり、破滅へ至る現実逃避以外の何物でもない。そのような架空のヒーローに自己を重ね、陶酔に浸る人々も、同じように現実逃避する魔物なのである。

真に駆逐されるべきゴジラとは、実は日本政府に他ならないのだという事実を、改めて目を見開いて直視せねばならない。


カルト宗教と一体化し、自己を神として、神と人類を敵に回す日本政府の狂気からはエクソダスせよ

日々蝉の鳴き声が盛んだが、日によってはすでに秋の気配が感じられるようになった。
 
安倍首相が初めて二度目の夏休みを取ったというが、歴代首相で最長というこの夏休みのニュースには我が国の先行き不安と首相の悠長かつ不適切な判断に不快なものしか感じられない。「安倍首相が“2度目の夏休み” 歴代首相で最長休暇は確実」日刊ゲンダイ 2016年8月10日」

ちょうど今上天皇の生前退位を示唆するメッセージが発表されて、80代の天皇がこのまま激務に忙殺されて十分な休みも取れないようなあり方で良いのかという議論が起きて来たばかりである。

そんな頃、今上天皇に比べはるかに若いはずの我が国の首相が、まるで自分は天皇以上の存在だとでも言うかのように、公務を差し置いて自らの休暇を優先していることには、国民はおろか、天皇に対してまでも、当てつけめいた意図を感じずにいられない。おそらくそう考えるのは、筆者だけではないように思う。

首相が休暇を取ること自体が、国にとってはあまり喜ばしいニュースではない。北朝鮮のミサイルの発射をこれ幸いとばかりに、周辺諸国の脅威を煽っては、軍国主義化に邁進しようとしている現政権の、この呑気さは何だろう。しかも、高齢者でもないのに、二度までも夏休みを取らねばならないのは健康不安があるからではないのか、といった憶測が生じるのも当然である。このように危機感のない国が、たとえいつどこから攻められたとしても、国防などできるはずもないことは明白である。

安倍首相については、長崎の原爆投下の日、平和式典では、まるで学級崩壊したクラスの不良少年のように、注意散漫・気もそぞろな姿が撮影されている。(「【これは酷い】長崎原爆の日、安倍首相は退屈だった?耳をかいたり眠そうな表情が激写される!#原爆の日」2016年8月9日)

これは首相がただかつての大戦の敗北を認めるつもりがなく、米国と同じように原爆投下によるキリスト教徒の抹殺に内心で拍手を送り、平和式典にまるで関心がなく、参加するのも嫌々で、退屈だったというだけではない。これほどの集中力の欠如は、やはり病気が原因で生じるものなのではないのか、という危惧も生じる。いずれにしても、自分にとって関心のない事柄については全くそっけなく、うわべだけでも真剣な態度が取れない首相の振る舞いは、精神的にも幼児化していることを如実に物語っている。

だが、今や日本政府はそのものが、幼児化が甚だしいというべきか、凶暴化しているとでも言うべきか、国内外を問わず、誰彼構わず、高飛車に喧嘩を売っては、挑発的な振る舞いを繰り返しながら、敵を作り続けている。
  
政府の敵意は誰よりも国民に向けられているが、政府の国民蔑視の姿勢が何よりも明白に現れている場所は、まずは沖縄だろう。北方領土についても「歯舞」すらもまともに読めず、参院選では、沖縄の民意によって公に拒否され落選の憂き目を見た島尻安伊子氏を、「知識や経験があるから」として、再び沖縄担当大臣補佐官に任命しようという、あきらかに沖縄の民意を逆なでする当てつけ人事が発表されたのもつい数日前である(「落選の島尻氏を大臣補佐官に起用へ…鶴保沖縄相」読売ONLINE 2016年08月10日)。

同時に、沖縄県東村高江における米軍のヘリパッド建設現場では、ヘリコプター発着陸のための訓練場とは名ばかりで、連日、オスプレイが飛び交う騒音に苦しめられた住民が、これ以上のヘリパッド建設は生活を不可能にすると反対して、工事を阻止するためのデモを行っている。だが、この建設反対派の住民に対する政府の弾圧が強化され、あろうことか、本来は、沖縄における米軍属による女性殺害遺棄事件を受けて、住民の安全確保のためのパトロール強化を任務としているはずの機動隊が、ヘリパッド建設反対派を排除する弾圧に乗り出し、住民を殴る・首を絞めるなどの暴行に及び、住民の車を法的根拠もなしに強制的に撤去したり、工事を口実に村への出入り口も封鎖したりして、地元の人々の日常生活に重い支障をきたしているという。
 
数日前に、ついにヘリパッド建設反対派の中から逮捕者まで出たことが発表されたが、その逮捕も、結局のところ、警察による全くの不当逮捕でしかなく、反対派の走行者に対する警察からの一方的な幅寄せがあったことが動画によって明らかになり、逮捕者は釈放された。「【沖縄・高江発】不当逮捕明らかに 検察勾留できず男性釈放] 」IWJ 2016年8月12日」

これは、たとえ容疑が立証できずとも、とにかく逮捕という既成事実を作ることによって、「政府の政策に対する反対デモなどに参加すれば誰でも逮捕されるのだ」という恐怖感を国民に植えつけるためにこそ、当局によって行われていることである。

そんな中、米軍属によって殺害された女性に関するその後の報道は意図的に隠され、ほとんど聞かれもしない状態となっている。筆者は、この女性が行方不明になった4月28日が、安倍内閣によって定められた「主権回復の日」であることが、偶然とは思えないということをかつて記事に書いた。

この「主権回復の日」なるものの虚偽性については、植草一秀氏が記事「沖縄切り棄て米軍占領継続熱烈歓迎した吉田茂」(2016年8月13日)に詳細に記しているが、驚くべきことに、この日は、安倍氏の祖父である岸信介が公職追放を解かれた日でもあるという。
 

「1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復した。
そして、この4月28日は安倍晋三氏の祖父にあたる岸信介氏の公職追放が解かれた日でもある。

「そして、1952年4月28日の「独立回復」は、沖縄を米国に献上するかたちでもたらされたものである。

 サンフランシスコ平和条約には、沖縄を含む南西諸島を国連憲章第77条「敵国条項」を用いて日本から分離した「信託統治制度」のなかに位置づけ、さらに国連憲章第82条の「戦略地域」に指定し、沖縄を軍事利用して支配する条項が盛り込まれた。

 このなかで、沖縄については、
「日本は、アメリカが国連に対して、沖縄を信託統治制度のもとに置くという提案をした場合に、無条件でそれに同意する」
という表現を盛り込んだにもかかわらず、アメリカは結局、1972年の沖縄返還まで、一度もその提案をせず、沖縄を完全な軍事占領状態に「合法的に」置き続けたのである。

沖縄を米国に献上し、米軍の日本駐留を引き続き認めることと引き換えに、日本が「見かけ上の独立」を回復したのが1952年4月28日である。

沖縄は日本の「見かけ上の主権回復」のために切り捨てられたのである。
4月28日は沖縄にとって「屈辱の日」である。

ブログ 「植草一秀氏の知られざる真実」の記事「沖縄切り棄て米軍占領継続熱烈歓迎した吉田茂」(2016年8月13日)から部分的に抜粋


この虚偽的な「主権回復の日」にこそ、米軍属による殺人・死体遺棄という、沖縄にとってさらに忘れがたい屈辱的な事件が起きたのだと推測されるのだが、このタイミングの忌まわしさを置いても、この悲しい記念日の名称には、沖縄のみならず、日本全体を愚弄しようという意図が明白に込められているように思われてならない。

つまり、沖縄を切り捨てただけでなく、A級戦犯であった岸信介が公職追放を解かれた日に意図的に合わせて定められた「主権回復の日」という、まるで名ばかりの記念日の存在そのものが、悪意を込めた国民へのダブルメッセージなのであり、「沖縄はもちろんだが、日本人全体に絶対に主権回復などあり得ないことを覚えておけ」という米国(と日本政府)からの脅しの意図が込められているとしか思えないのだ。

岸信介に代表されるように、敗戦によって敗れ、罪に問われたはずのかつての旧日本政府の面々が、「共産主義の脅威」を口実にして、米国とタグを組んで政界に返り咲いたその時から、日本政府と米国はずっと国民を欺きながら、国民のためを装いつつ、国を売り続けて来たのである。

2013年4月28日の式典で起きた「天皇陛下万歳」三唱も、そのような文脈で、とうに敗れたはずの勢力が、かつての軍国主義や国家神道の復活を祝う精神から出たものであり、当然ながら、その式典は沖縄県民の巨大な反発を招いたのみならず、近隣諸国からも、改憲と軍国主義化へつながる動きとして警戒心を呼んだ。

当の天皇・皇后にとっても、この万歳三唱は予想外の出来事であったと見られ、こわばった堅い表情が映像におさめられている。
 


 天皇陛下万歳? 沖縄切捨て! 別世界に住む日本政府の政治屋と沖縄市民


 20130503 「天皇陛下への万歳さんしょう」に中国政府が批判(上海ATV)



 安倍继续"向右跑":煽动右倾不遗余力 安倍高呼"天皇万岁"
(この最後の動画は、中国語が理解できずとも、少なくとも、安倍氏が諸外国からどのような人物と映っているのかが客観的によく分かる映像である。)
 
さて、日本政府の中では、米国と組んでこのようなダブルメッセージによって国民を欺くことが、サンフランシスコ講和条約の時点から習慣化しているのだと見られ、そのような考えに立ってこそ、高江に派遣された機動隊も、沖縄の住民の安全のためのパトロール強化という任務を、住民弾圧へとすり替えたのである。

こうした政府の所業から見えて来るのは、「日本国民に決して自由と安全を与えるまい」という、悪意に満ちた断固たる決意であり、本来、国民の自由と安全と幸福追求のために提供されなければならない全ての公のサービスを、国民を騙し、抑圧し、自由を奪って、苦しめるために用いようという明白な悪意である。その悪意をもはや隠し立てすることさえなく公然と提示するようになっているのが、現在の政府である。
 
 日本政府にとって、我が国には「民意」などあってはならず、「米国の意向」と「政府の意向」だけしか存在してはならないのであろう。高江に派遣された機動隊による住民弾圧は、いずれ政府が警察や自衛隊を用いて、不都合な国民全体に対する監視と抑圧を強化し、大規模な弾圧を決行しようとしている計画の明白な表れである。
 
政府にとって国民とは欺き、収奪する対象でしかないのだ。アベノミクスに成果が出ず、今や国の財政赤字が過去最高に達していることが、ここ数日前に発表されたばかりだが(「「国の借金」1053兆円 国債残高、過去最高に 」日本経済新聞 2016/8/10)、政府は自分でこしらえたこの法外な借金をすべて「国民1人当たりでは約829万円になる」などと、国民の借金と偽り、詭弁によってその責任を国民に転嫁しながら、国家公務員の給与だけを引き上げ、焼け太りを続けている(「国家公務員の給与引き上げを勧告 人事院、3年連続」朝日新聞DIGITAL2016年8月8日」)

国家財政が赤字で、民間企業でさえ経営難にあえぐ中、国家公務員の給与だけを引き上げる根拠など存在するはずもなく、これはすべて国民を欺くためのトリック以外の何物でもない。国の財政が破たんしても、自分たちの給与だけは引き上げ、ツケはすべて国民に回そうというのが、官僚集団の思惑なのであり、官僚はもはや国民に敵対する、国民への寄生階級になってしまっている。

深刻な問題は、そうした政府の唯我独尊の姿勢、傲慢さ、のべつまくなしの無差別的な敵意と、終わりなき収奪の願望が、もはや自国民のみならず、天皇や、他国にまでも向けられ、今や政府自体が、国際的に無差別的な敵意の塊となって、反人間的な道を歩んで、人類の敵となろうとしていることである。

沖縄ヘイト、という言葉もあちこちで使われているが、全国民に対するヘイトが始まっていると言って差し支えなく、沖縄・福島での棄民政策も含め、要するに、政府は自らの政策の誤りを消して認めたくないために、自らの政策の犠牲になった人々、つまり、政府の罪の生き証人となった人々に対してとりわけ激しい憎悪を向けて、彼らを弾圧し、口を封じることで、自分自身の罪から目を背けようとしているのである。

このような精神病理的な傾向がより重症化すると、やがて日本政府は身勝手な偽りの「正義」を掲げて、国民全体への弾圧に乗り出すだけでなく、国際社会においても孤立し、人類全体の敵と化することになる。ちょうどかつての大戦時にそうであったようにだ。そうなると再び、うわべだけの大義名分の下、全人類を破滅に追い込むような暴挙に打って出ることが予想され、それはすでに始まっていると言えよう。

オリンピックで人々の関心を巧みにそらせながら、四国電力の伊方原発が再稼働されたことも、そうした破滅への兆候の一つである。さらに、オリンピックのどさくさに紛れて、ウクライナがクリミアに破壊工作をしかけたというニュースもあるが、米国もまた工作に余念がないようである(「クリミアでの破壊工作」ロシアNOW 2016年8月12日 。)

原子力の火は、人間の制御の力を超えた、人類には扱い切れない技術である、ということが、福島原発事故以来、我が国の人々の間で共通認識のようになっているが、原子力は悪魔が人類に与えた誤った知恵であり、「サタンの火だ」ということも言われる。(たとえば、クリスチャン・トゥデイの記事「「天の声・地の声・人々の声を無視」伊方原発が再稼働 地元団体代表の信徒・牧師や市民団体らは強く抗議」2016年8月13日)

別にキリスト教徒でなくとも、福島原発以後、原子力の火を弄ぶことの手痛い結果は、国民の大半が認識している。
 
しかし、日本政府は、この「サタンの火」を公然ともてあそびながら、今や人類史上、誰も足を踏み入れたことのない未知の領域に踏みこみ、かつての国家神道の時代と同じように、自ら神になって、万象を操ろうとしている。これはあまりにも無謀かつ絶望的な試みであり、神と全人類に対する挑戦である。特に、伊方原発は日本最大級の断層帯の真上に立つ最も危険な原発なのだと専門家は指摘する。
 

再稼働した伊方原発は日本で一番危険な原発だ! 安全審査をした原子力規制委の元委員長代理が「見直し」警告」LITERA 2016.08.12. から抜粋

というのも、伊方原発は日本に55基ある原発のなかでも“もっとも危険な原発のひとつ”と指摘されているからだ。

 その理由はいくつかあるが、いちばん大きいのは、伊方原発が日本でも有数の大地震に襲われるリスクを抱えているということだろう。伊方原発のそばには日本最大級の断層帯である「中央構造線断層帯」が、南には活発で大規模な地震発生源の南海トラフが走っている。

 特に「中央構造線」は、九州の西南部から、四国を横断し紀伊半島、関東にまで延びる日本最大級の活断層で、熊本大地震で大きな注目を浴びたものだ。これまでこの「中央線構造線」は活動していないと思われていたが、実際には九州、四国などでおよそ2000年に1回動いており、1595年に四国西部から九州東部にかけ、「中央構造線」を震源とするマグニチュード8クラスの巨大地震が起こっていたことも判明している。

 そして伊方原発は、この「中央構造線」が走る断層からわずか5キロ、ほぼ真上といってもいい場所に立地しているのだ。

 しかも、「中央構造線」は熊本地震をきっかけに活動が活発化、熊本地震で断層の延長上にひずみがたまったことで、四国側の「中央構造線」が動く危険性が指摘されている。もし「中央構造線」を震源とする地震が起きれば、伊方原発を10メートルを超える大津波が直撃する恐れがある。

 しかし、四国電力は一貫して「瀬戸内海に津波は来ない」と津波対策をとっておらず、このままでは福島第一原発事故の再現が起きかねない。

<中略>

伊方原発は、日本で唯一、内海に面している原発であり、外海に面していた福島原発事故と比べても、瀬戸内海における放射能汚染の濃度は格段に高くなることが予想され、またその影響は長期に及ぶだろう。しかも、伊方原発ではプルトニウムMOX燃料が使用されるが、これも事故の際のリスクを高めるものだ。

 さらに、事故の際の住民たちの避難も困難を極める。伊方原発は佐田岬半島の入り口、付け根部分に立地しているが、その先の半島部分には実に5000人もの住人が生活している。もし伊方原発で事故が起こり、放射性物質が放出されても、住民は原発に向かってしか避難できないことになってしまう。つまり逃げ場を失ってしまうのだ。 


こうして日本政府が自作のハルマゲドンに向かって突き進んでいる中、有事の際、米国が日本に助けの手を差し伸べてくれるだろうか? 米国を隠れ蓑にすれば、日本政府に追及の矛先が向くことはないのだろうか? いや、筆者は、その時には、日本政府は頼みの米国からも梯子を外されることであろうと思う。

人間の心には、たとえ信仰心がなくとも、良心という機能が備わっており、これが人間の地上での営みにおいて、限りなく重要な役割を果たす。人の良心は、人間の未来予測と密接に関わっており、何が人にとって危険であるのか、前もって教えてくれる灯のようなものだ。ところが、この良心の機能を麻痺させて、営利と我欲だけに突き進み、自分自身の振る舞いを客観的に真摯に反省することができなくなった人間は、事実上、もう終わりである。

このことは、組織や集団にも当てはまり、保身と自己正当化の思いに目をくらまされて、良心のブレーキの利かなくなった団体は、まるで自爆テロ犯のように、自己を無謬と(己を神と)し、誰からの忠告にも耳を貸さなくなって、パラノイド的な妄想に突き動かされて、悲劇的な最期へ突進して行くことになる。

そのような良心を麻痺させる精神病理的な傾向(=カルト化)が、日本政府には相当重症に進行しているのだと言えよう。

ネオナチや在特会と密接な関係があり、生長の家の創始者谷口雅春を信奉し、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と述べて、かつての戦争を美化・肯定する稲田朋美氏を、安倍氏が防衛相に起用したことも、国際的に近隣諸国への重大な当てつけ・挑発行為であり、人類社会全体への挑発行為であると言える。この人事は早くも国際的な警戒を呼び起こし、米国からさえ稲田氏に対して靖国参拝を控えるよう忠告があったと言われる。

このようなことはすべて日本政府のカルト化の結果であり、政府はもはや自国民のみならず、誰彼構わず、のべつまくなしに敵意を振りまく狂った要塞のようになっている。このような精神病理的傾向が強まると、最後には、まさしく日本政府そのものが人類全体を敵としながら、オウム真理教のように反人間的な集団的決起に至ることが予測される。

つまり、人類全体に対して隠し持った憎悪と敵意を、「人類救済」という名で美化し、カモフラージュしながら、何かしら空恐ろしい終末論的な破滅へ突き進んで行くことが予想されるのである。

このような予測は、決して大袈裟な冗談や杞憂ではない。川内原発を再稼働と同時期に起きた熊本地震の教訓にも学ばず、今度はさらに危険な伊方原発を再稼働し、稲田氏のように戦争を美化する人間を防衛相に据え、沖縄では警察や機動隊を使って自国民への弾圧に血道を上げている政府のすべての政策が、彼らが計画している将来的なハルマゲドンをよく物語っている。

要するに、緊急事態条項も、原発再稼働も、戦争も、すべてはカルト化した政府が自ら引き起こしている「終末」の一環なのである。我が国政府は、狂気の理念に駆られて、もはや人為的な「世界の滅亡」に向けて着々と準備を進めているのだと言って良い。

このようなことを空想として一笑する前に、我々は現実に起きたオウムの事件から学ぶべきである。オウム真理教がなぜ省庁制を取っていたのか、なぜ政府を模した機能を教団内部に抱えていたのか、サリン製造をどのような形でカモフラージュしていたのか、このことを思い出すべきである。

オウムの教団内でサリン製造に関わっていた村井秀夫氏は、当時、教団の科学技術大臣に任命されていた。そして、農薬の開発という「平和利用」を装ってサリンを開発していたのである。なぜなら、農薬の製造過程と、サリンの製造過程は途中まで同じだからである。

オウムによるサリン製造は、現政府のしていることとそっくり同じである。オウムは政府の外に政府を模して作られたカルト宗教だったが、現政府は日本会議・統一教会・創価学会などのカルト宗教と一体化している。そして、政府が推し進めている「原子力の平和利用」も、「原子力の軍事利用」と途中まで行程が同じなのである。

実際に、「原子力の平和利用」は、「軍事利用」と初めから表裏一体なのであり、そうであるがゆえに、日本政府は「潜在的な核保有国」として国際的に常に監視の対象とされて来た。しかし、政府を監視しなければならないのは国際社会だけではなく、国民も同じである。

日本が「平和利用」という表向きの顔の裏側で、核兵器になりうるプルトニウムを抽出する技術を保有し続けることが何を意味するのか、そして、なぜプルトニウムMOX燃料を使う伊方原発の再稼働に走ったのか、考えてみるべきであろう。

専門家の間では「核兵器と原発は一卵性双生児」(PRESIDENT ONLINE 2011.12.26)と言われ、「原子力の利用は、〝表〟の原子力発電という平和利用の側面だけではない。軍事利用という〝裏〟と密接に絡み合っている。」ということは常識である(「日本が核武装? 世界が警戒するプルトニウム問題」NEWSWEEK日本版 2015年11月24日)。

さらに、2014年から発表されていた「米国が日本にプルトニウム300キロの返還を要求している」というニュースもまだ記憶に新しいが、これが物語るのも、冷戦時代から、日本を「反共の砦」としたかった米国が、当時から研究開発用に日本にプルトニウムを大量に貸与し、日本政府による核研究を極秘に認めていたという事実である。

何のための「研究」か? 詳しく書かれていなくとも、答えは明白である。日本がオバマ政権に返還を求められたプルトニウムの量は331キロで、「高濃度で軍事利用に適した「兵器級」が大半を占める。」と言うから、明らかに軍事利用を想定した研究開発のために提供されたものだと見ることができる(「日本のプルトニウム移送へ 3月末にも兵器級331キロ」佐賀新聞 2016年01月04日参照。)

つまり、これは「共産主義国の核の脅威に対抗する」ために、日本を極秘に核武装させて米国の防衛力を強化するための一助とするために提供されたものだとしか思えないのだ。つまり、冷戦時代から、日本政府による核開発は、米国の暗黙の承認のもとで、両者の間では公然の秘密のようになっていたと見るのが自然なのである。
 
日本が保有するプルトニウム全体の量は約300キロどころでは終わらず、この返還要求について、次のようにも書かれている、(返還の)「対象は日本が保有するプルトニウム約44トンのうちの約300キログラム。高濃度で核兵器にも転用可能な核物質だ。」。これによれば、日本は、米国に返還を求められた150倍近くものプルトニウムを保有していることになる(「米にプルトニウム返還 政府調整、核不拡散に配慮 」日本経済新聞 2014/2/26付)さらに、これさえ少なく見積もった場合の数字であって、別の指摘では、国外で処理中のものも含めると、日本が保有する兵器級プルトニウムは約70トンに達するとの声もある。

こうしたことが意味するものは何か? いい加減に我々国民は気づくべきなのだ。こうした報道が物語るのは、冷戦時代から、日本政府は、国民の目を欺いて、米国の暗黙の承認のもと、極秘に核開発を進めて来た可能性が極めて高いことであり、日本にプルトニウムが貸与されたのも、その一環で、冷戦時、いつ勃発しておかしくなかったソ連との核戦争に備えて、日本が米国の一助として核武装できるように準備しておくために他ならなかったと見られる。

そして、今もって我が国における原子力の利用が推進されているのは、断じてエネルギー政策のためなどではなく、初めから軍事利用が主たる目的なのである。「平和利用」の側面は、平和憲法のもとで原子力の真の利用目的を隠すためのカモフラージュに過ぎない。もしそうでないならば、なぜ電力が余っているのに原発を再稼働する必要があるのか? なぜ地震が来れば国土が壊滅する危険性さえかえりみずに再稼働する必要があるのか? なぜ我が国では、軍国主義を肯定し戦争を美化する人間が堂々と防衛相となり、日本の核武装も辞さないとする人間が都知事になったりするのか? 

これらの事実が公然と示しているのは、原発再稼働は、日本の潜在的な核武装のために必要不可欠な措置であると政府が考え、また、政府が将来的な核武装を悲願としているがゆえに、これを手放すことがどうしてもできない、という暗黙の事実である。ただ単に電力会社の巨額の利益のためだけに原発が再稼働されるのではない、と考えるのが自然であろう。

また、このことは、なぜ福島原発の事故後にも、東電を破産させて解体することが、政府に出来なかったのか、という理由をも推測させる。もし東電が解体されていれば、原子力の平和利用の名の裏側で、国内の原子力施設で実際に行われていることの実態が外に知れてしまったであろう。米国に返還を求められた約300キロのプルトニウムについても、一体、それが日本のどこに保管され、どのような施設でどのような目的のために利用されて来たのか、全く明かされてはいない。

つまり、原子力の利用については、全てに秘密のベールの覆いがかかっているのであり、政府はどうしてもその実態が世間に知れることを避けねばならなかったためにこそ、未だに東電を破綻させるわけにいかないのだと考えられる。
 
オウムの事件は、政府がカルト宗教と一体化すると、どういう結末が起きるかをよく物語っている。我々はオウム真理教の事件から学ぶべきである。村井秀夫が大臣となったオウムの科学技術省は、形を変えて、今やカルト宗教と一体化した政府の中に存在しており、民間企業と手を携えて、国民を殺戮するための兵器を開発している、という危惧は、単なる空想で済まされようか?
 
現政府はすでに宗教カルトと一体であり、今後、何かしら大がかりな「終末」に向かって坂を転げ落ちて行き、その時、主役となるのは、サリンではなく、原子力であると考えられるのだ。そしてそれはすでに始まっているのである。

こうしたことを考えると、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師や、KFCのDr.Lukeが、盛んに「キリスト教界のカルト化」現象を訴えて、キリスト教を攻撃して来たのも、ゆえなきことではないように思われる。これもまた「政府のカルト化」から国民の目をそらせるための目くらましの一環なのである。

そもそも、自身が統一教会の出身で、初めは統一教会の危険性を訴えていたはずの村上氏が、「カルトとの闘い」の過程で、他のどんなクリスチャンよりも悪質に、キリスト教をカルト化のターゲットとして攻撃するようになったことも、非常に不気味な現象であり、また、Dr.Lukeもキリスト教界を攻撃しているうちにすっかり聖書から逸れて異端へと落ちて行ったことも、キリスト教徒を装う異端者によるキリスト教への攻撃が、どこから来たのかという疑いを持たせる。

こうした人々の引き起こしたキリスト教への敵対運動は、何よりも宗教カルトと結びついた「日本政府そのもののカルト化」や、統一教会などの宗教カルトの危険性を人々の目から覆い隠し、まるでキリスト教こそカルト化の温床であるかのように論点をすり替え、こうした問題をいわれなくキリスト教徒に転嫁して、キリスト教徒だけを悪者として断罪するための目くらましの運動だったのではないかと見られる。

だが、今や、最も深刻な問題は、日本政府そのものがカルト化していることであり、これを放置しておけば、必ずや、この先、政府はオウム真理教のような人工的なハルマゲドンを引き起こすことであろうし、すでにそれが開始しているということなのである。

さて、話は変わるようだが、天皇の生前退位という問題に移りたい。

今回、「お気持ち」表明によって示唆された今上天皇の退位の意向の表明を、護憲時代の終わりとして見るむきもあれば、そこでは退位という言葉も使われていない以上、これは民意に探りを入れる試みでしかないと述べる者もあれば、あるいは、今上天皇の生前退位の意向をさえ、改憲(壊憲)に利用したい勢力もあると予想される。

だが、今、生前退位を何かしらの政治的変革に結びつけたい人々の意図を全く別にして、筆者は、この天皇のメッセージにそれなりに重要な意義を見いださないわけにいかない。

それは、「主権回復の日」において唱えられた「天皇陛下万歳」という笑止千万な叫びにも見られるように、天皇を国家元首として祀り上げたい人々の思惑があるのに対して、今上天皇自身は、自らがそのような思惑と全く無縁であることを表明したことに加え、今上天皇のメッセージの中には、「人間を栄光化し、己の限界を超えて人を高く祀り上げるような偽りの栄光や地位にしがみつこうとする誘惑」に対する強力なアンチテーゼが込められているように受け止められることである。

日本人には、自己の限界や失敗を認めることを恥とするあまり、一旦、始めたことをいつまでもやめられないという悪癖がある。計画を中止すること自体が、自分の失敗を認める行為であり、恥である、という意識から、本当はとうに限界が来ているのに、いつまでも虚勢を張って、廃止しておくべき制度や計画をいつまでも無駄に残しておく悪習慣がある。

そのような虚栄心に基づいた「やめられない」悪癖は、我が国政府の原発再稼働や、沖縄の基地建設の強行にもよく表れているが、それらは戦前の「一億玉砕」といったスローガンや、「国民体力法」などに脈々と流れて来た精神を今日まで受け継いだだけのものである。

我が国では未だに、一旦、政府によって何かの計画が発表されると、それがどれほど失敗続きであろうと、まったく将来の見通しがなかろうと、見直しもされず、軌道修正もされず、国がとことん疲弊して、不可抗力によってそのプロジェクトに強制的に終止符が打たれるまで、延々と犠牲を拡大し続けながら、反省なしに続行されるという悪習がある。

政府には良心と自己反省の機能が備わっていないので、そうならざるを得ないのだろうが、このように己の限界をかえりみずに突き進む姿勢には、人間についてありもしない偉大な幻想を作り出し、人間存在に備わった自然な限界すらも否定して、人間を何かの大義名分を達成するための消耗品のようにみなす非常に危険な考え方がある。

前述したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏についても、同氏が関わったうちで公に知られている最も最初の忌まわしいキリスト教徒への迫害は、村上氏が、義理の父であった津村昭二郎牧師が、生涯現役を貫き通そうとして引退を拒み、自らの後継者を自分の教会から追放する行為に加担したことに起因していることをすでに記事に書いた。

もしもこの高齢の牧師が「講壇で死にたい」などと主張して生涯現役を貫き通そうなどと考えず、快く後継者を育てて道を譲っていれば、そのような事件自体、起きなかった。
 
だが、以上のような事件は、超高齢化社会となった日本社会に満ち満ちている悲劇の一環でしかない。「生涯現役」というスローガンは、人が己の獲得した地位や権力を他者に譲り渡したくないという我欲と密接に結びついている。

たとえば、俳優や、教師や、牧師が「舞台で死にたい」とか「講壇で死にたい」などと述べることは、あたかも天職に邁進する人間の理想的な最期のように今でも美化されがちだが、ある意味では、そのような考えほど周囲の人間にとってはた迷惑な話はない。

まず第一に、高齢者がいつまでも自分の獲得した栄光ある高い地位にしがみつき続けると、後学が育たなくなり、社会全体の発展が遅れる。高齢者が地位にしがみつくことは、後学からチャンスを奪うことと同義である。

さらに、当然のことであるが、役者や、教師や、牧師が、「生涯現役」を唱え、高齢のために無理を押して重要な舞台や式典に立ち、そこで倒れ、亡くなったりしたところで、それによって利益を得る人間など誰もいはしないのだ。たとえ本人は舞台で死ぬことを本望と考えたとしても、周りはその死によって大迷惑をこうむるだけであり、何一つ得るものはない。

同様に、「(お国のために)血を流す覚悟を!!」という稲田朋美氏のような、うわべだけ勇ましさを装った大言壮語も、要は意味するところは全く同じで、高齢者であろうと、若者であろうと、そのように死に急ぐ人間は、一体、自分が死んだ後、誰がその後始末をするのかという問題にきちんと答えを出した上で、そのような発言をしてもらいたいものである。

エノクや、預言者エリヤのように、天に携え挙げられていなくなって終わるというのでなければ、誰しも、自らの死という出来事に際しては、必ず、他者の手を借りなければならないのである。

死は美しいものでも、単純なものでもない。約70年前に先の大戦により、大陸まで出かけて行って、そこで戦火に飲まれ、あるいは捕虜とされて亡くなった人々についても、今現在に至るまで捜索が続いている。後世の人々は、70年が経過しても、行方不明の人々を探し続けているのであり、戦争の混乱で、いつどこで誰が死んだのか分からないので、もう知りません、というわけにはいかないのである。

体制が変わっても、時代が変わっても、一人の亡くなった人間のために費やされる膨大な労力がある。まして尋常でない終わりに至った人々については払われる労力が倍以上になるのは当然であり、従って、もし政府が再び、無責任に国民の死を奨励するようなことがあれば、その後始末にかかる手間はどれほど甚大なものになるか分からない。
 
「散華」といった言葉で、死を美化し、死に伴う当然の備えすらもないままに、人々に己の限界を忘れさせて、無謀に死に赴かせるような無責任な教えは、それに酔いしれた人々の身勝手な自己満足以外には何ももたらすことなく、社会全体にとって甚だ迷惑な結果をもたらすだけであるということを、稲田氏のような人々には考えてもらいたいものである。

たとえば、三島由紀夫の割腹自殺という最期についても、現実は、人々が思い描くストーリーほど美しくない。そのような悲惨でむごたらしい死に方で自ら命を絶った人の最期を処理する人間や、残された人間がその死によって背負わされなければならないトラウマのことを、考えてみるべきである。

また、非業の死を遂げずとも、引退の時を間違えただけで、人の人生そのものが狂わされることは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の津村昭二郎牧師のみならず、KFCのDr.Lukeの人生を通しても理解できることである。

たとえば、Dr.Lukeの団体が、聖書の教えから逸れて、自己を神とするまでに異端化するよりも前に、幾度も同氏には引退のチャンスがあったことはすでに記事に書いた。Dr.Luke自身が引退を願い出たこともあるという話も関係者を通して伝わっている。

ところが、取り巻き連中がそれを許さなかったのである。だから、問題は己を栄光化する指導者だけにあるのではなく、指導者を担ぎ上げ、ほめそやし、おだてあげて、彼に力量以上の力があるかのように錯覚させて、破滅へと押し出していく取り巻き連中の罪も相当に重い、ということが確かに言える。
 
ヒトラーの伝記には、ヒトラーを祀り上げ、自惚れに陥らせた人々の中には、彼に心酔する多くの女性たちがいたことが記されている。ドイツの民衆だけでなく、ヒトラーのファンクラブのようなこの婦人たちのサークルが、この指導者をおだてあげて、自身を現人神のように錯覚させ、彼を人類浄化という異常な道に突き進ませ、なおかつ、その達成不可能な野望のために具体的支援を行ったのである。

どんな忌むべき指導者も、これを支持する取り巻きなしに登場して来ることはない。それはKFCも同じである。愚かな連中が指導者を祀り上げて、現実の人間から乖離した、ありもしない偽りの偉大なイメージを作り上げ、生涯、その幻想を現実であるかのように人々に錯覚させようと、指導者にヴァーチャルな自己像を演じ続けるように求め、その仮面を外すことを永久に不可能としてしまったのである。

だが、明仁天皇が、自分が人間として衰え行く中で、天皇が国家元首として祀り上げられ、「ヴァーチャルな人間像」だけが独り歩きすることを拒み、そのような動きに乗じて自らを栄光化するどころか、生前退位の意向をほのめかし、職務を降りたいという願いを率直に表明したことは極めて重要な出来事であると受け止められる。

明治以降、天皇という地位は、生きた個人の人格と切り離せないものと考えられて来たため、仮に今上天皇が今後、気力・体力の衰えのために公務を執行できなくなったとしても、本人が生前退位を希望しない限り、体力の衰えを理由に誰かが天皇に向かって退位を迫るということは、決してあり得ないことであろう。

だが、明仁天皇は、「天皇」という役割と、一個の自分自身を切り離せないものとしてはとらえていなかった。むしろ、自分は天皇である前に、一人の人間であり、また、そうでなければならない、という考えに立っていたのである。

天皇だからと言って、人間としての限界に関係なく、地位だけによって、己の存在意義を保つようなことはあってはならないこととして、形ばかりの地位にしがみついてそれを自己の限界から目を背ける口実とすることを拒否したのである。

さらに、こうした生前退位の意向のほのめかしから見えて来る事実に、戦後の天皇という仕事の重責がある。

今日でも、皇室や、天皇は、一般人とは別格の近寄りがたい存在として栄光化され、美化されているが、現実には、そのような栄光は存在しない、ということがそのメッセージからおのずと見えて来るのである。

高齢の天皇の公務のスケジュールがブラック企業並みに過密である、ということはすでに指摘されているが、そのスケジュールの過密さに加え、天皇とは、この国の誰もに与えられている基本的人権さえも及ばない、人権の枠外に置かれていると言っても良いような存在であり、そのことを通して、憲法が抱える重大な問題点が浮き彫りになったと言える。つまり、憲法は、あたかも戦後の平和憲法の象徴のような存在として天皇という地位を定めながらも、同時に、天皇自身を半ば憲法の枠外に置いていると言っておかしくないパラドックスを抱えていることが判明したのである。

つまり、憲法は、門地、家柄などによって、誰も差別されることはないと定めながらも、もし天皇を血筋によって生まれながらに天皇になるべく定め、自分の意志でそれを拒むこともできないとしているのであれば、それ自体が、憲法が禁じている差別ではないのか? そもそも皇室という存在そのものが、国民の間に作り出された差別制度ではないのか? 憲法の理念に照らし合わせると、天皇の地位と職務のあり方については大いなる改革が必要なのではないか? 果たして本当にそのような地位が今も必要なのだろうか? そうした矛盾が、今回の「お気持ち」表明と同時に噴出して来たのである。

それに加えて、戦後の天皇の公務に定められた仕事の内容についても、多くの吟味が必要であることが明らかになった。時代錯誤な「殯 (もがり)」の儀式だけでなく、宗教性を帯びた様々な儀式への参加は、見直されるべきであろう。
 
今日、天皇の公務の中でも第一義的に重要な仕事は、国民に対する慰霊事業であると言って良い。つまり、過去の大戦での犠牲者を慰めるという、いわば贖罪行為のような仕事が、天皇のとりわけ重要な仕事なのだ。

むろん、天皇が公に謝罪を行っておらず、戦争責任について裁かれてもいない以上、それが本当に贖罪と言えるのかどうかについては、議論の余地があることは確かであるが、少なくとも、明仁天皇が、ある意味、父の犯した罪の責任を無言のうちに背負いながら、それがあるために、国民に寄り添うためにとりわけ熱心に公務に当たって来たことは、否定の余地がない事実であるように思う。

だが、公に裁かれることがなかったからこそ、そうした贖罪行為は、終わりなきものとなっているのであり、このような形で戦争の犠牲者への慰霊という仕事を、生きている限り、一人の人間に負わせ続けるのは、果たして妥当なのであろうか? このようなことは、敗戦後も、天皇の戦争責任を決して公に問うことなく、中途半端な形で天皇制を温存したことの結果、生じたとも考えられるのである。
 
筆者はこれをかつての政府の罪を無罪放免するためについて言っているのではない。現存する日本政府は、敗戦で敗れたはずの勢力に率いられており、過去の大戦に対する真摯な反省の意も、罪の意識も存在しないと言って過言ではない。むしろ、過去の敗戦についての真摯な反省を天皇に押しつけて、慰霊事業さえビジネスに変えながら、過去を正当化して今日に至っている。
 
現政府は、このように過去の敗戦の責任をうやむやにし正当化するばかりか、やがて憲法を変え、核武装し、自分たちに科された全てのくびきを払い落として、再び戦争を起こしてでも、雪辱を果たしたい、と願っているのであり、しかもその際、自分たちの野望のゆえに引き起こそうとしている将来的な戦争をも、自分たちの責任とされないために、天皇の「鶴の一声」によって始まったことにしたいと考え、そのために、天皇の国家元首化を企んでいるのである。このような政府が、過去の罪を免罪されなければならない理由は全く存在しない。

だが、明仁天皇は、そのような流れからあえて距離を置いて、自分が一人の人間の限界を超えて「栄光化」され、高みに祀り上げられ、国家元首化され、神とされ、この国全体の将来的な責任を一身に押しつけられることを拒否して、むしろ、率直に自分は限界ある一人の人間に過ぎないことを表明し、自分の進退について、国民に理解を求めたい、と語ったのである。

このことは、官僚たちが天皇を隠れ蓑にして作り上げ、肯定して来た身分制度のヒエラルキーそのものに対する異議申し立ての意味合いを帯びているように感じられる。

現在、日本社会では終身雇用制も崩れて久しく、リストラが横行し、一人の人間が、どんなに同じ職場に勤め続けることを願っても、それは一般的に難しい時代となっている。政治家でも選挙に備えなければならず、落選の憂き目と無縁ではいられない。

そんな今の時代、官僚だけは、20代の前半ほどの年齢で国家公務員試験を突破しさえすれば、基本的にリストラに遭うこともなく、定年が来るまでヒエラルキーの中で出世の階段を上り続けられ、退職後も、天下り先で、巨額の収入を手に入れられることとなっている。

このようにして、時代の変化の波にさらされることもなく、時の政権によって交替を迫られることもなく、固定化した特権階級となって、国民に君臨する官僚機構と、これと密接に結びついた政財界が、強力な影の実権となって、法律を盾にとって、この国を操っているのが現状である。

官僚制度は、そのものが違憲であるということはすでに指摘したが、それにしても、官僚などよりも、はるかに正当な根拠に基づいて、「生涯現役」でいられ、その職務が、生まれながらの身分と一体となっていておかしくない天皇が、自らの地位や職務にしがみつくことなく、また、そうすることを正しいことだと思わず引退を表明したことの意味は大きい。

官僚と政治家が徹底的に国民を蔑視し、国民に君臨する支配階級であることだけを誇りにして生きているのに対し、天皇は自らのメッセージによって、自分が国民に君臨する存在ではないことを示し、しかも、この国のあり方を決めるのは、官僚ではなく、政府でもなく、国民であるという見解を改めて表明して、自らの進退を国民の手に委ねるために、国民に向かって語りかけたのである。

筆者は、天皇のメッセージをありがたがるためにこれを書いているのではなく、このメッセージに、「天皇とは国民統合の象徴である限り、天皇制を含め、この国のあり方を実際に決めて行くのは、政府ではなく、国民なのだ」という、極めて明確かつ健全な意図を感じ、そのような考えがこの国の重要なポジションにいる人々にまだ残っていたこと自体に、ある種の新鮮な驚きを覚えた。

たとえある人々が、あからさまに憲法の破壊を企み、また、皇室典範の改正云々についての議論も、自分たちにとって都合の良いように利用しようと狙っていたとしても、そのような人々の悪しき思惑とは無関係に、主権在民の原則は今も生きて働いており、明仁天皇はその確信を示すために、自らの進退を政府にではなく国民に委ねていることを表明したのである。

だが、その意向を、明仁天皇が今回のような形で、突然に、しかも、不明な報道経路を通して、最終的にはビデオメッセージの形で、政府の意向とは別に、発表せねばならなかった経緯を考えると、これには何かしら尋常ならぬものを感じざるを得ず、国民と政府との間だけでなく、天皇と政府との間にも、極めて深刻な乖離状態が生じているのではないかという懸念が当然のごとく生じる。
 
政府は、敗戦の責任やそれに対する贖罪行為をすべて国民と天皇に押しつけただけでなく、天皇をも置き去りにして、半ば人質のようにしながら、あらぬ方向へ暴走を続けて今日に至っているのではないだろうかという危惧が生じる。

さて、このビデオメッセージの表明時までには、護憲の象徴としての天皇にはぜひとも安倍政権と対峙して頑張ってもらいたいという期待が筆者の中になかったわけではなく、生前退位によって護憲時代に終止符が打たれることへの危惧もなかったわけではないが、今、考えさせられるのは、「大切なのは、役割ではなく、個人である」という価値観である。

相模原の障害者殺傷事件にも表れているように、社会の中における個人の役割や、地位ばかりを重視する考えは、「国家のために、社会のために、生産性を発揮できないような個人には、生きている価値がない」という残酷なイデオロギーへと容易に結びつく。
 
そのような野蛮な思想が息を吹き返している昨今の風潮の中で、明仁天皇が、人間が一番直視したくないはずの自らの老いと衰えと死という問題と向き合い、一人の人間として、生きているうちから、残される者のために死への備えをしておきたいという自然な願いを表明し、天皇としての職務を果たせなくなった天皇、という自分自身のイメージを恥じることなく明確に描き出し、自己の限界を率直に表明して後継者に道を譲りたいという考えを示したことは、極めて重大な意義を持っていると感じられる。

本当は、日本政府にとっても、引き際が肝心なのだ。しかしながら、カルトには自己反省することも、引き返すこともできない。それは彼らが己の限界や罪を決して認めず、ありもしない偉大さと永遠性を目指して、神とその被造物全体に対して挑戦を挑んでいるからである。
 
筆者は、一事不再理の原則についての記事でも述べたように、すでに過去の大戦の罪を認め、真摯に反省し、裁かれた者が、同じ罪で二度、三度まで、裁かれる理由がないと考えている。そこで、天皇も含めて、我々国民はそろそろ贖罪行為から解放されてしかるべきではないかと思う。

だが、過去の罪を頑なに認めず、己に対する裁きをいつまでも否定する者は、将来的に前よりも一層厳しい裁きに見舞われるべき理由が存在する。その意味で、二度目の敗戦が、我が国の政府に必要なのであり、再び、敗れ、今度こそ、二度と立ち上がれないように裁かれるためにこそ、彼らは己の目的に向かって突き進んでいるのだと言えよう。