忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(19)―わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

さて、神はこの世の時空間の制約や、私たちの思いの限界の只中から、人知を超えた、偉大な解放のわざをなして下さると筆者は信じて疑わない。

筆者はジョージ・ミュラーの「椅子」の話がとても好きである。孫引きになってしまうが、「祈りの小部屋 -バウンズ著、「祈祷の目的」から-」(「同労者」第23号(2001年8月)から引用したい。
 

  D・W・ホイットル少佐はブリストンのジョージ・ミュラーについて祈りの不思議に関する序文で次のようにいっている。

 「私はケベック(カナダ)からリバプール(イギリス)に航行とする朝、急行列車中でミュラー氏に会った。小船が旅客を載せて本船に行く三十分前に、彼は係の者に、ニューヨークから甲板用の椅子がとどいているかどうかをたずねた。だがまだ来ていないばかりか、とても汽船の間に合わないだろうと答えられた。

私はミュラー氏に向かって、自分は今、一つの椅子をすぐそば の店で買ったところである、時間までにはまだ数分あるから一つ買ったらよかろうとすすめた。すると彼は『いや、兄弟よ、天の父はニューヨークから椅子を送って下さる。それは家内の使いなれたものです。私は一人の兄弟に手紙を出して、先週のうちにここに到着するよう依頼してやったのです。彼は私が期待したように早くやってくれなかったけれども、神様はあの椅子を送って下さるに相違ありません。家内は船に弱いのでどうしてもその椅子がほしいのです。それで私は昨日から天の父にそれを送って下さるように願っておりました。ですから父はそれを送って下さることと信じます。』と答えた。

この愛すべき神の人は数ドル出せばミュラー夫人に危険な旅行をさせずにすむものを、あまり極端に信仰の原則を応用しすぎると私はおそれた。ュラー氏が小荷物室を去ってから十分もそこに居たが丁度私が急いではとばに行く時に、一台の馬車が道を走って行った。その荷物の上に、ニューヨークからとどいたミュラー夫人の甲板椅子があった。それは直ちに世話人の手に渡された。(これは主が私に与えたもうた教訓であった)ミュラー氏はにこにこした子供のような態度で深くそれを喜び、うやうやしく帽子をとって手をその上におき、椅子を送りたもうたことを天の父に感謝した。」・・後略(バウンズ、「祈祷の目的」、東宣社、1957、p.31)


 
現在、筆者が直面している多くの困難を見て、人々はこのような試練に女性が一人で耐え抜くことは無理であろうと考えるかも知れない。ましてや、そこで勝利を勝ち取るなど、あり得ないと・・・。

だが、筆者は少しも恐れておらず、落胆もしていない。現在、筆者が抱えているすべての困難に、神は必ず、御名にふさわしい形で、解決を与えて下さるものと信じている。だから、筆者は、車を運転する時のように、障害物を見ないで、進路だけを見つめて進んで行く。

 神を待ち望むことには希望がある。主は信じる者の呼び声に必ず応えて下さり、私たちが待ち望んでいる答えを必ず与えて下さると分かっているからだ。この方は、私たちの栄光をお受けになるにふさわしい方。私たちの信頼を決して裏切ることなく、すべての問題に対する勝利に満ちた解答となって下さる方である。
 
* * *
 
さて、村上密は5月2日の記事で、まるで筆者が提起した民事訴訟がすでに終わったがごとく、筆者が完全敗訴したと叫んでいる。

サイバーカルト監視機構は虚構  
 
 ヴィオロンは私に対する民事訴訟に完全敗訴してから、攻撃をインターネット上に移している。記事の一つ一つは、頭の上に燃える炭火を積み上げているようだ。相変わらず、事実と想像を交えて記事を書き続けている。これは事実、これは私の想像であると区別をしてくれれば、読者は混同しなくて済むはずであるが、混同することを目的としている可能性があるので、そのような丁寧さはない。サイバーカルト監視機構を想像ではなく事実と思っている限り、常識のある読者は混同することはないと思われる。 」

まるで掲示板の投稿のような短い文章に驚かされる。相変わらず、具体的根拠の裏づけがなく、筆者がサイバーカルト監視機構の実在性を訴えているかのように決めつけて非難しているだけである(筆者はそのような機関が実在しているとは一度も述べていない。)

筆者は前回の記事で、村上とその周囲にいる「側近」のような信者たちが、まるで念仏のように、「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害はなかった」と自分に言い聞かせることで、自分たちがカルトから強制脱会を遂げた際に負った深い心の傷を覆い隠し、また、他者に対して行っている行為の残酷さからも目を背けようとしていると書いたが、この記事もまさにそうした「念仏」の類にしか見えない。

やはり、村上の支持者たちが、一人の女性信徒を寄ってたかって、数千件のコメントと共に掲示板で口汚い言葉で罵り続けたことが、よほど深い罪悪感となっているのではないかと見られる。だからこそ、自分は掲示板の騒ぎとは無関係だと強調するために、こうした記述を繰り返し行わないわけにいかないのではないだろうか。

村上の記事では、いつも白黒反転論法が使われている。筆者は少し前の記事で、村上がカルトに入信した青年をアメリカまで捜索に行ったと書いている記事を指して、この記事には、事件の発生年月日が記されていないため、これを読んだ読者が、最近起きた出来事だと誤認する可能性があり、そして、村上はその危険があることを十分に知った上で、あえて読者の誤認を誘う曖昧な書き方をしている可能性があると指摘した。

その非難を、村上は根拠も示さずに、筆者に置き換え、あたかも筆者が読者の誤認を誘う内容の記事を書いているかのように非難しているのだ。

杉本もそうであったが、村上も、誰かから批判を受けると、その批判を常に裏返しにして自分を批判した者に投げ返すことで、事実から目を逸らそうとすることをやめられないらしい。「悪いのは私ではない。私を非難しているあいつこそ、悪事を犯しているのだ」というわけで、延々と他人を非難するばかりで、いつまで経っても自分の過ちを認識することもない。

だが、そのようにして、人が己が罪悪感から目を背けるために様々な形で現実認識を歪め、自己正当化をはかっていると、それがついにはやがて深刻な認知の歪みへ結びつき、最終的には正常な意識を失わせる危険がある。

これまで幾度となく繰り返し強調して来た通り、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり神を畏れないことは精神崩壊の始まりである。「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」’結果として、自分の罪を認めないためのごまかしを重ね、ついには事実を事実と認識する力さえも失って行くことになる。

さらに、村上は、筆者が村上を批判する記事を書くことで、あたかも燃える炭火を頭上に積み上げているかのように書くが、自分に刃向う信者に対して、このような台詞を使うのは、まさにカルト牧師のすることではないだろうか?
 
村上は、自分は善人であり、筆者は悪人であって、筆者は村上を批判することで、罪に罪を重ねているだけだと言いたいのである。だが、「燃える炭火」という言葉が使われている該当の聖書箇所は以下の通りである。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

これは悪人が悪事を重ねることで、自分に降りかかる報いを増し加えているという意味ではない。そもそも燃える炭火を頭上に積むとは、悔い改めの儀式を指しているらしいから、この文章は、誰かに悪さをされても、悪に悪で報いないで、かえって善で報いることによって、敵の良心の呵責を引き出しなさい、といった意味に受けとるのが通常であろう。

従って、村上の言葉は、聖書の御言葉の理解を根本的にはき違えたものと言えるが、その点をさて措いても、村上が自分を善人であるとみなし、筆者が悪人であるとみなす根拠はどこにあるのか?

筆者は前の記事で、預言者ダニエルが獅子の穴に投げ込まれて無事であったことについて書いた。そして、その後、かえってダニエルを讒言した者が、この穴に投げ込まれて滅びる結果になったというくだりに触れたが、その時にも、裁きをなして下さる方は神であるということを強調している。

ダニエルの敵は、ダニエルに刃向ったから滅びたのではなく、まことの神により頼まなかったから滅びたのである。私たちは、小羊の血潮に隠れるからこそ、贖いにあずかることができるのであって、私たちが神の裁きに耐えうる根拠は、私たちの自己の正当性にはなく、カルバリの十字架にある。

だが、村上の記事には、何故、村上は正しく、村上を批判する記事を筆者が書くことが、「頭の上に燃える炭火を積み上げている」ことになるのか、根拠が何も記されていない。

いや、村上が筆者を断罪する唯一の根拠とは、筆者がありもしないサイバーカルト監視機構の話を記事にして、村上を批判したから、という以外にはない。
 
要するに、村上の記述は、彼が自分を現人神のように考えており、自分に逆らう人々は皆罪人、とみなしている様子を読者に感じさせるだけである。これぞカルト的思考と言わずして何と言うのだろうか?

しかも、事件は控訴中である。それにも関わらず、村上の記事では、そのことが書かれていないことも、極めておかしな現象である。村上は、まるで民事訴訟が一審で終わって、村上の完全勝訴が確定判決となり、その後、筆者が仕方がなく「攻撃をインターネット上に移している」かのような印象を読者に持たせる書き方をしている。

むろん、こうした文章が、あえて読者の誤読を誘うための誘導(虚偽のプロパガンダ)であることは言うまでもない。だが、それ以前に、筆者は、村上の事実認識が、根本的に狂い始めているのではないかという気がしてならない。

なぜなら、杉本にも同様のことが起きたからである。杉本ブログに集まる人々は、様々な中傷や罵倒の言葉を用いて筆者を口汚く非難しているうちに、自分たちが用いている非難の言葉が、大袈裟な作り話であることを忘れ、次第に自分たちの発言を事実であるかのように思い込むようになっていったのである。自分で自分の嘘にとらわれ、現実認識そのものが狂って行ったのである。

以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。きっと彼は、よほど控訴審のことを考えたくないのだろう。村上はすでに筆者に対する権利侵害の事実を積み重ねているため、二審は一審のようにならないことを、内心では十分に理解しているのではないかと見られる。

* * *

さて、それに続く村上の最新記事も、相当な危うさを感じさせるものである。

教会の暴走  
 
 教会のカルト化は教会の規模に関係がない。カルト化していくときは、教会が閉鎖的になる。牧師は、教会を閉鎖的にしていくことによって自分の権威を確立しようとする。牧師は牧師におもねる人を役員にする。そして権威主義を共有する関係となる。側近はけっして牧師を公の場では非難しない。個人的にはなおさらである。持ち上げることで、牧師から引き上げられる。牧師を持ち上げれば、実は自分の教会内における地位や名誉が上がっていくと思っている。持ち上げる人が権威主義の体質を持っているのである。同じ体質の人が集まりだすと、教会はカルト化へ勢いがつく。それは暴走の始まりである。 」

この記事には、具体的な日時、場所、教会名の特定がない。まるで一般論か、他人事のような書き方である。だが、筆者はこれまで、村上の教会こそ、まさに暴走を遂げている教会であることを再三再四、指摘して来た。

村上はまず、後継牧師になるはずであった長澤牧師を不明な理由で主任牧師の地位から退け、自分の妻を主任牧師に据えた。村上はその当時、自分は60歳ではなかったとか(60歳を迎える直前であった)、牧師を引退したわけではないなどと、些細な訂正事項をあげつらっては、筆者の論に噛みついている。

だが、問題はそういう些細な事柄にはなく、村上が正式な手続きを経て選出された後継者を、正式な手続きによらずに退けたことにこそある。長澤氏には「あなたには(主任牧師としての)神様の召しはありません」という内容の牧師たちの連名による通達が届けられたそうで、その後、村上は自分の身内を主任牧師に据えることで、半永久的に教会内で自分たちファミリーの権威を保とうとしたのである。

普通の教会では、こんな不明な人事の私物化が見逃されることはない。これは教会の分裂騒ぎに発展してもおかしくない出来事である。にも関わらず、京都七條基督教会では、この人事に対して、大々的な抵抗も起こらなかったばかりか、その話が外へ漏れ聞こえることさえなかった事実を考えると、村上がいかに常日頃から、教会内で、自分が統一教会から強制脱会させた信者たちを役員に据えるなどして、自分の意見に反対する者がいなくなるようなイエスマンばかりの体制を築き上げて来たかがよく分かる。

おそらくは、反対者・批判者が現れると、今、村上が筆者に対してそうしているように、早速、「名誉毀損だ!」などという言葉で、誰も公然と批判の声を上げられないように圧力をかけて来たのであろう。

このように、七條基督教会では、村上の権威主義を信者たちが共有する体制が出来上がっていればこそ、村上の行った行為の理不尽さを明るみに出す声が上がらず、村上に対する否定的な評価も、外へ持ち出されないのである。

筆者は、村上の身内の間で、不幸な事件が相次いでいることも書いた。通常の教会ならば、牧師家庭で子供たちに不幸な事件が起きたりすれば、そもそも自分の家庭も治められない人間が、牧師としてふさわしいのか、などという非難が、信徒から湧き起こって来るのが当然である。

ところが、村上ファミリーに関しては、そうした噂すらも、これまで外に出て来ることがなかった。それも異常な現象であり、さらにこの問題を指摘した筆者が、早速、掲示板で袋叩きに遭わされたことも、異常現象に輪をかけている。
 
こうした現象を見れば、読者は、村上の支持者たちがどれほど必死になって、村上に関する否定的な噂や、批判や、反対を抑え込んで来たかが分かると共に、京都七條基督教会の信徒たちが、事実上の恐怖政治下で、言論・思想統制を受けているにも等しい状態にあり、村上に不利な事実について、頑なに沈黙を守らざるを得ない深刻な理由が存在することを、如実に理解できよう。
  
遠方から筆者がそのことを指摘しただけで、掲示板での騒ぎ(人権侵害)が起きて来るわけだから、暴走している教会とは、まさしく村上自身が所属している教会の他ならない、という結論が生じるのは当然である。

村上のブログは、彼の運動の傘下に立てこもっている人々に向けて書かれたプロパガンダであって、要するに、「ヴィオロンみたいに好き勝手な発言を重ねていると、おまえたちもいずれこうなるぞ」という見せしめのために、筆者に対する記事が発表されているだけである。そうした事実を読者は見抜かなければならない。

* * *

最後の記事も同じだ。

連休はカルト研修の時期 2  
  
  「連休はカルトの研修の期間」の記事をブログに掲載した。その後はどうなるかと質問があった。夏にさらに研修がある。大学出の学びが再開すると、今度は勧誘する側になる。研修のテキストがあり、段階的に学習して、その後は実践となる。その実践が会員を増やすことである。5月の連休も帰らない。夏休みも帰らない。どんな理由があろうが、家に帰らないことを自立していると思い込んではならない。カルトに勧誘された子供は親に嘘をつくように指導される。親よりもカルトの指導者の言うことを聞くようにコントロールされている。友達と旅に出るとか言っても安心できない。 」

こういう短い記事は、具体的な根拠も示されておらず、日時も団体も特定されておらず、些細な出来事を普遍的な一般論のように見せかけるのに役立つ。統一教会などの一部の団体にしか通用しない話が、すべてのカルト団体に当てはまる話であるかのように拡大されていること、個々具体的な事例の違いを無視して、一つの事例があらゆる家族に当てはまる危険であるかのように話が拡大されていることにも、読者は注意しなければならない。

村上は、子が親に嘘をついてカルトに入信する行動だけを疑問視している。相変わらず、子どもの言い分を疑えと言いたげな記事である。だが、幾度も述べて来た通り、子がカルトに走るのには、必ず、それなりの理由がある。ほとんどの場合は、子どもの頃から育って来た家庭環境が重大な精神的重荷となって、そこからの逃避の手段として、子供はカルトに走ることになる。

そこで、子どもがカルトに入信することだけを危ぶみ、子どもの行動だけを疑問視しているのでは、何らの問題解決にもならないのだ。大人たちが、そうなった深い動機を探り、親自身が、子どもを追い詰めていることを認識し、家庭にとどまらず、大人たちの作って来た社会の歪みを深く認識することなくして、根本的な問題解決に至ることはできない。

だが、村上の論では、村上を含め、自分たち大人自身が、子どもたちの前に犯して来た罪を自己反省するという視点は、徹底的に欠けている。自分たちは常に正しく、不可解な行動を取る子供たちが誤っているという以外の切り口はない。

そのことは、引いては、村上が常に強い大人たちの味方となってしか、物事を認識できず、弱い者の心の本当の叫びに耳を傾けることなく、自分自身の罪を認識できないまま、弱い者たちだけを断罪して来たという盲点を如実に示している。

それだからこそ、村上の「救出活動」には救いがないのである。聖神中央教会の被害者など、村上が手を差し伸べようとした多くの被害者たちが、この問題を見抜いて離反して行った。それは、村上の活動が、弱い者たちに心から寄り添うのではなく、彼らの弱さにつけこんで、彼らの尊厳を踏みにじり、強い者である村上が、彼らの上に立って君臨し、自己の正当性を誇り、自己の力と勝利を見せびらかすための活動になっているためである。

村上は今、筆者を「完全敗訴」したと決めつけ、筆者を嘲っているが、それと同じように、カルト被害者に対しても勝ち誇って来た。そうこうしているうちに、高慢さのうちに、己の罪が全く見えなくなって、キリストの贖いの血潮の外に出たがゆえに、村上は防御の盾を失って、終わりの時が近づいているのである。
  
* * *

さて、筆者は一審のすべての行程を通して、自分は勝訴したと誇っている村上よりも、はるかに貴重な学びと教訓、深い満足を得たと思っている。

村上は一審で不法行為を認定されなかっただけのことであって、心の中では、平安と喜びを失っている。そして、そうなった時点で、すでに勝負に負けているに等しいと筆者は思う。これから先、その事実は、より鮮明に、よりはっきりと具体的な形を取って、外に現れて来るだろう。

さて、調べてみると、一審を担当してくれた裁判官は、西日本に異動しており(*)、さらに、この裁判官が、筆者とほぼ同じ世代に属していることも分かった。ああ、それであのような不思議な親近感を覚えたのだなと、初めて納得がいった。

追記:4月1日付でこの裁判官は福岡へ異動、村上密が主任牧師を降格させた長澤牧師も同日付で博多に異動していることが発覚した。

地裁の裁判官が、サラリーマンのような多忙状況に置かれているというのは、本当のことだ。それは筆者の事件の判決言い渡し日に、同じ裁判官が、4つほどの事件の判決言い渡しを同時に抱えていた様子からも十分に伺えた。

こうした多忙状況が、非人間的なものであって、いかに一つ一つの事件の精度を落として行くものであるかは言うまでもない。

筆者は、裁判官が書いた移送申立の却下通知を読んで、この人が並々ならぬ知性と深い理解力の持ち主であることを感じ、ぜひとも判決を書いてもらいたいものだと願った。しかし、その裁判官でさえ、事件の終わりが近づくに連れて、時間的制約に追われ、書面を十分に読む時間的余裕さえなくなって行ったのである。

50頁以上に及ぶ判決文を読めば、これがどれほどの厳しい時間的制約の中で書かれたものであるかはすぐに分かる。

だから、一審判決で及ばない部分があっても、筆者はそれを誰の非として責めるつもりにもならない。それはこれから控訴審で解決して行く課題であり、関係者一同は、筆者のリクエストに応えて、なすべきことをしっかりやってくれた。そのことに筆者は深い満足を覚えている。
 
筆者は一審判決と戦うのではなく、これを土台として、さらに完全なものとするため、先へ進んで行くのである。

さて、今回の一審で、筆者が得た教訓とは、信仰によって、自分自身の制約と、他者の制約という、大きな制約の只中にあっても、その限界に押し潰されることなく、望む成果を勝ち取る秘訣を理解したことであった。

筆者は、紛争を開始したばかりの頃は、自分の心のままに振る舞うことしか知らず、被告から送りつけられる書面を、常に限りない厭わしさを持って受け止めていた。ただでさえ不愉快な、まるで怪文書のような中傷の文書が、ほとんどと言って良いほど、締め切りを超えて送りつけられることに、限りない不快感を覚えずにいられなかったのである。

だが、ある時、筆者は自分が感じている動揺や厭わしさが、関係者一同に、我が事のように伝わり、非常なマイナスの影響を及ぼしていることを知った。そして、初めて当事者感情を克服することの重要性を理解したのである。

それはある時、筆者が民事部に書面を出しに行ったときのことであった。筆者が自分の書面を提出すると同時に、被告の書面が届いていることを書記官から告げられ、これをついでに受け取らないかと尋ねられた。

だが、筆者はその時、またしても被告が締め切りを破ったことに、憤りを覚え、被告の切手代を浮かせるために、筆者はここへ来たのではないと言って、被告の書面を受領することを拒んだ。そして、書面を郵送してもらいたいと願い出ると同時に、被告に締め切りを守るよう、今一度、注意してもらいたいと書記官に伝えた。

実は、こうした会話は、その時が初めてではなく、筆者はそれ以前にも、同じことを書記官に伝えていた。そして、書記官はこの点について十分に理解し、被告に注意を促してくれていた。そこで、筆者は彼を責めたいがゆえに、こうした話を持ち出したわけではなかった。

だが、書記官がどんなに注意を促してくれても、被告の行動は変わらず、被告の書面が届けられる度に、筆者の心に沸き起こる厭わしさも、隠すことはできなかった。

思いがけないことに、ちょうどそのやり取りが行われていた最中、裁判官が偶然、そばを通りかかった。そういう出来事が起きたのは、後にも先にも一回きりのことであった。彼は顔色一つ変えず、全く見ず知らずの人物を見るように、筆者のそばを通り過ぎて行った。

裁判官が何も言わずに通り過ぎたので、筆者は書記官との会話を続けたが、しかし、裁判官の後ろ姿を見たとき、筆者は、彼がそ知らぬふりをしているのはうわべだけのことであって、実際には、筆者が心に感じている動揺は、すべて我が事のように伝わっていることが、はっきりと理解できた。

そして実際に、筆者の心の動揺は、裁判官の心中にも、非常にネガティブな効果をもたらした。その次に開かれた口頭弁論では、我々は最初から心がバラバラで、裁判官は筆者と視線を合わせずに語り、その上、一つ前の記事にも記したように、被告らの反訴の予告があったせいで、議論は大荒れとなった。

しかし、そこで筆者は、議論を制止した裁判官が、まるで筆者の身代わりのように、被告らの反訴の予告に圧迫され、これに非常な嫌悪を示しながら、受け答えしている姿を見、まるで鏡に映した自分を見せられるように、その苦しみに深い同情と共感を抱くと同時に、初めてこのままではいけないという危機感をはっきりと感じたのである。
 
気を確かに持たなければならない。すべては筆者自身の心の平穏にかかっている。これ以上、我々が、被告らの非常識な振る舞いの一つ一つに影響を受け、逐一、それに振り回されて、足並みを乱されているようではいけない。

筆者が、被告の様々な心理作戦に巻き込まれてこの先も動揺していれば、その動揺や苦しみは、周囲のすべての人々に伝わる。そして、多分、信仰者でない以上、誰一人、そのプレッシャーに耐えうる人はいないだろうから、彼らはやがて事件を持て余すようになり、筆者を救い得ない無力感にさいなまれ、それに耐えられなくなって、そのうちいずれ敵に降伏して行くだけである。

そうして私たちに分裂を来たらせ、足並みを乱し、互いに憎み合わせ、争わせ、敵対させて、決して信頼も協力も打ち立てられないようにすることが、敵の狙いなのである。そうして疑心暗鬼をもたらすためにこそ、被告は常識外れな行動を繰り返し、心の揺さぶりをかけているのである。

そこで、以上のような事態の発生を防ぐためには、まずは筆者が自分をしっかりと持って、全力で自分の心を敵の攻撃から守り、周囲の人々の心をも、守ることができなければならないと分かった。それができて初めて、円滑な協力関係が打ち立てられ、人々と心を合わせて一つの目的へ向かって行くことが可能になる。

筆者はそれまで、筆者が心の中でどれほど苦しもうと、それは他者にはまるで関係のないことだと考えていた。また、自分の苦しみは、取るに足りない問題であって、筆者の心の状態が、他者にそれほどまでに深刻重大な影響を及ぼすことはないと考えていた。だが、この時から、そうでないことがはっきり分かり始めたのである。

もしも筆者が、一審の期日が開かれていた間に、この問題の重要性を理解できなかったならば、その後、掲示板で行われた嵐のような集団的な誹謗中傷の前に、筆者は全く立ちおおせる力を持たなかっただろうと思う。

だが、筆者は先に教訓を得ていたからこそ、掲示板の投稿に振り回されることなく、自分の心をしっかりと防御し、また、誰一人その問題に巻き込まずに済んだのである。

もしも筆者が自分の心を守る術を知らず、中傷の書き込みを真に受け、これを苦にして、自殺でも遂げようものなら、筆者の周りにいる人たちは、間違いなく全員が、生涯に渡って、癒えない心の傷を負うことになる。

筆者は、そんな結論に至ることは、真っ平御免だと固く心に決意していた。もうこれ以上、一人も敵に渡したくない。しかも、こんな下らない事件のために、これ以上の苦しみが、誰に必要だというのだ。重荷は、筆者一人分だけで十分である。いや、筆者一人分であっても、もうこれ以上のお荷物は御免だ。筆者をも、他の誰をも、二度と絶対に彼らに渡しはしない・・・。

自分のためだけならば、立ち上がれたかどうか分からないが、筆者以外の人間までが、人質に取られるように、敵の攻撃にさらされているのを見たとき、筆者は自分の内心で起きていることを客観視するチャンスを与えられ、そのおかげで、自分の心の中で起きていた当事者感情を克服して、事件全体を俯瞰し、自分のみならず、関係者一同の心の状態に注意を向けて、人々を守るために策を講じることができるようになったのである。
 
これ以上、彼らの策略によって動かされていては駄目だ、こんな心理的な圧迫は、即座に振り払い、二度と許すわけにはいかないという心境に、ようやく達したのである。

私たちは協力関係にあるのだから、それを決して奪われてはいけない。互いにいがみ合ったり、争ったりしている場合ではない。苦しむべき人間は、別にいるはずだ。

圧迫は、しかるべき人間にお返しせねばならない。心の動揺や、悲しみや、圧迫や、やるせなさや、分裂や、敵対や、憎み合い、裏切り合いは、すべて敵にお返しし、私たちは、敵の策略を、敵自身の頭上に注ぎ返し、自分の心の平穏を失わせるすべての策略に毅然と立ち向かって、疑心暗鬼に陥ることなく、自分たちの間に生まれた協力と信頼を最後まで守り抜かねばならないと分かったのである。
 
 * * *

さて、もう一つのエピソードをここに付け足しておきたい。

それは2008年頃、筆者がまだ横浜に来る前、遠方の地で唐沢と電話で会話していた時のことであった。

その頃、筆者は唐沢も兄弟の一人であることを疑わず、エクレシアの兄弟姉妹との交わりを探し求めながら、今後のことを考えていたが、ある時の会話の中で、唐沢がとても奇妙な発言をしたのを覚えている。彼はこう言った。

「私はどんなクリスチャンを見ても、ほとんど恐れることはありませんが、一つだけ怖いと思うものがあります。完全な平安の中にいて、揺るがされることのない人を見ると、私は怖いと思いますね・・・」

それを聞いたとき、筆者は、とても奇妙な発言だと思った。完全な平安の中にいる信者を、羨ましいと思うとか、見倣わなければならないと思う、と言うなら分かるが、「怖いと思う」とはどういうことなのだろうか。

その理由はずっと後になってから分かった。唐沢は、自分のマインドコントロールの効かない相手を恐れていたのである。

神への完全な愛と、全き平安に座す信者は、何者のどんな策略によっても、決して揺るがされることがない。誰かがその信者を安っぽい誘惑や、各種の欲望、あるいは恐怖心で釣ろうとしても、彼はその策略に負けることはない。神の全き充足の中を生きているので、一切のマインドコントロールが通用しないのである。

偽預言者たちは、そういう信者を恐れる。彼らの策略がすべて見抜かれて、打ち壊されるからだ。私たちは、そういう風に、決して動かされることなく、確固たる信仰に立って、自分自身の心を守れる信者にならなければならない。神にあって、自分の心をも、周囲の人々の心をも、敵の攻撃から守り抜ける人にならねばならないし、そのための具体的な防御の方法を知らねばならない。

何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。 」(箴言4:23)

* * *
 
さて、筆者は今、一審によって得られた小さな種を地に蒔いて、発芽を待っているところだ。

夫人のお気に入りの椅子が、出発に遅れずに届けられることを心に信じて待ち続けたミュラーのように、今、神のさらに完全な解決が、必ず遅れることなく確かに届けられることを心に信じてそれを受ける準備をしている。

「それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(ハバクク2:3-4)
 
私たちが待っているのは、主ご自身であり、私たちが着くべきは、主と共なる天の御座。そこはすべてのものを足の下に従える、御名の圧倒的な権威が支配しているところである。

私たちはキリストの御名で呼ばれる民として、神ご自身のこの世に対する圧倒的な超越性・優位性を実際に生きて証明することができ、それをするためにこそ、この地に置かれている。

この先も、試練はあるだろう。だが、そのすべてに勝利する秘訣が、すでに十字架上で与えられている。そうである以上、私たち自身だけでなく、私たちに属するすべての人々を守り抜くための知恵と力をも、神はきっと教えて下さるはずである。

勇気を奮い起こしなさい。あなたの心の平安を、誰にも奪われないように守りなさい。神への完全な愛と、全き平安に座し、何によっても、心を揺るがされることがないように、あなた自身の心と、あなたの愛するすべての人たちの心をしっかり守りなさい。

生ける命の水の川々は、あなた自身の心の中から流れ出す。あなたはこれを絶やさないよう、自分の心を見張って、これを守らなければならない。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右に尾諏訪地になったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、
 鞭打たれるからである。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。<略>

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」(ヘブライ12:1-13)
 
<続く>

PR

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(18)―愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(一ヨハネ4:16-21)

さて、このとこと筆者は複数の仕事を果たさねばならず、かけもちで忙しい。掲示板では、反カルト陣営の抑えがたい凶暴性、悪質性が表面化している様子で、魔女狩り裁判をしたくてたまらない人々が次の獲物を求めて集まっているようだ。


 
やれやれ、牧師が信徒を訴えたくてたまらない時代。何という恐るべき曲がった世の中になったことだろうか。

このようなことが起きることを予見して、当ブログでは再三、牧師制度の悪なることを主張し、牧師制度から離れるよう読者に警告して来た。牧師制度は撤廃するしかない、そういう明白な結論が出るところまで来たと筆者は考えている。

ちなみに、信徒を刑事告訴した牧師などは、筆者が知っている限り、日本にたった二人しかいない。いみじくも二人とも筆者の知り合いで、これには運命の数奇な縁を感じる。
 
一人目は、KFCの元信徒を訴えた唐沢治だが、この件は、後になって、筆者自身が唐沢の告訴の正当性に疑問を抱くようになり、筆者の他にも、「呪いの予言はあった」と証言する人物が現れるなど、虚偽告訴だった可能性が指摘されている。

二人目は、村上密で、何とこちらは筆者を告訴したという記事を発表、すでに記事が削除されている以上、この情報の真偽の程は定かでないが、事実であれば、こちらは虚偽告訴罪を主張する構えでいることも、すでに記事に記した通りである。

いずれにしても、牧師が信徒を訴えるという行為が、どれほどキリスト教の精神に反するものであるかは、今更、説明するまでもない。村上は、筆者が理由なく村上を悪魔扱いしているかのように非難していたが、黙示録には、こうあるではないか。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)。悪魔の主要な特徴は、救われた兄弟姉妹を告発することにある。だとすれば、筆者に反訴を予告したり、告訴を予告する行為は、これに該当しないと言えるだろうか。
  
なぜ牧師が信徒を告訴するなどという恐るべき出来事が起きるのか。それは、牧師という職業そのものが、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2:5)の御言葉に反し、神と人との間に、目に見える「代理権威」としての人間を置こうとする制度だからである。

人間に過ぎない者が、神と人との仲保者であるキリストになり代わろうとするなど、筆者に言わせれば、まことの神への反逆、とてつもない高慢である。にも関わらず、そのような恐るべき地位の略奪(=キリストの地位の略奪)をしようとするからこそ、これらの牧師たちには、あたかも自分こそ神であるかのような錯覚が生じ、「自分に盾突く者はどんな手段を使ってでも社会的に抹殺したい」といった残酷な欲望が生じるのである。
 
私たちはこのような現象を見て、神と自分たちの間に、宗教指導者という「代理権威」を置くことがいかに忌むべき行為であるかを理解し、牧師制度に服することを拒否して、見えないキリストだけにより頼んで信仰生活を送るべきである。

牧師たちの暴走は、カルト・反カルトどちらの陣営をも問わず、自己を現人神とする牧師制度ある限り、今後も発生し続けるのである。

さて、村上密の率いる反カルト運動に深い影響を受けた信者らが、村上がブログで新たな団体や信者を「カルト認定」する度に、村上に倣って、村上が標的とした人物や団体に集団で人権侵害の記述を繰り返して来たことは、周知の事実である。

反カルト陣営は10年以上にも渡り、他宗教の信者のみならず、キリスト教徒の中から「獲物」を見つけては、バッシングに及ぶことによすがを見いだしており、村上はこれらの人々に、獲物をくれてやるがごとくに話題を提供する役目を担って来た。

そして、今や彼らは筆者をも獅子の穴に投げ込んだつもりでいるらしい。

だが、筆者には訴えられる理由もなければ、キリスト教徒としてのいかなる信仰的逸脱もないため、筆者はこうした話を全く意に介しておらず、かえって牧師たちこそ、訴えられて倒れると心に確信している。このような時には、ダニエル書6章の記述を思い出すだけで良い。
 

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
 「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。

こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、
 「すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」
そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

そこでその人々は集まってきて、彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った、
 「王よ、あなたは禁令に署名して、今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人に、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れると、定められたではありませんか」
 王は答えて言った、
 「その事は確かであって、メデアとペルシャの法律のごとく、変えることのできないものだ」

そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、
 「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」
そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。


こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、
 「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」
ダニエルは王に言った、
 「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」

そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。」

 
 
ダニエルは、人間である王に祈願を捧げるよう求められたが、神への礼拝を続けて、その命に従わなかった。それゆえ、罪を着せられてライオンの穴に投げ込まれた。

しかし、神はダニエルを守られ、彼は無傷で出て来た。それを見て、王はダニエルの神が本物であることを知り、かえってダニエルを訴えようとした人々を獅子の穴に投げ込む。

村上密のブログは、筆者から見て、キリスト教徒を吊し上げ、教会を断罪するための暗闇の勢力の要塞と化している。杉本徳久のブログも同様で、彼らのブログの真の狙いは、キリスト教徒を迫害することにこそあると筆者は見ている。

そして、当ブログ執筆者が杉本を敗訴に追い込む前後から、反カルト陣営がキリスト教徒をバッシングする場は掲示板に移った。
   
これら反カルト陣営の人々は、獲物を求める殺気立った獣のように振る舞っているが、彼らがどうしても否定したい事実が一つある。それは、彼らが信奉する牧師たちが、すでに刑事告訴されていることだ。ダニエル書にある通り、無実のキリスト教徒は、讒言されても、罰せられず、害も受けないが、無実のキリスト教徒を訴えた者たちには、防御の方法がない。

キリストの贖いの血潮により頼まない者たちが、キリスト教徒を訴えた場合、彼らには小羊の血潮という防御の盾がない分、ダニエルを悪しざまに訴えた人々と同様の末路が待ち受けている。

* * *
 
さて、村上が筆者を刑事告訴したという記事を投稿した際、筆者がただちに村上を虚偽告訴罪に問うという反論記事を発表したので、村上はこれにひるんで、わずか数時間も経たないうちに、記事の削除に及んだことはすでに述べた。

その際、注目すべき出来事が起きた。村上は筆者に対する記事を削除したのみならず、ただちにそれを自分が五次元スクールによって名誉毀損で告訴されたという別の内容の記事に差し替え、筆者に向けた非難の矛先を、自分自身に向け変えたのである。

その行動に、筆者は村上の恐怖心を見た気がした。

おそらく、村上は筆者に恐怖を抱かせる目的で、筆者を告訴したとする記事を投稿したと見られるが、筆者がこれに全く動じず、かえって村上の告訴を罪として非難したので、恐れは村上自身に跳ね返ったのである。

筆者は何年来、反カルト陣営からのいわれのない讒言に立ち向かって、霊的戦いを続けて来たし、ここ数カ月間は特に「一日中死にさらされ」ていると言って過言でない状況であったので、こうした出来事にどう対処すべきかは、すでに十分に学んで来ていた。

私たちの罪の債務証書は、すでに十字架の上で破り捨てられ、無効とされている。そうである以上、私たちを罪に問おうとするいかなる試みも、最終的には効力を失うと決まっている。私たちには、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)に対抗するために、最強の武器が与えられている。それは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝(黙示12:11)ことである。

だから、このような状況下での防御の方法は、より入念に過越しのキリストの贖いの血潮の下に隠れつつ、死に至るまで忠実な信仰を持ち続け、証の言葉を公然と掲げることである。

それに引き換え、村上は筆者から虚偽告訴罪に問うと言われ、筆者からの報復と、世間の評判を失うことを恐れて、記事を削除したのである。
 
このような戦いでは、恐れた方が負けである。人には自ら恐れることが、実際となるからである。私たちが恐れないでいられるのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちのために独り子を十字架につけて下さった深い愛を知り、生きている限り、その愛に応え、御言葉に従いたいという願いを持っているからである。

聖書に次のように書かれている通りである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(一ヨハネ4:18)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(ローマ8:31-37)

 
村上が筆者に向けるつもりだった不吉な予告を、自分自身へ向け変えたことは、非常に予表的な出来事であったと筆者は感じている。

五次元スクールによる村上への告訴は、以下に示す記事でも指摘されている通り、極めて些末な問題であったため、村上は不起訴になって事件はすでに終わっているが、これから村上に起きる出来事は、もはやそのようなスケールでは終わらない可能性があるからだ。

村上は筆者を有罪に追い込みたかったのであろうが、その決意を確固たるものとして貫き通すことができず、かえって神と人との前で、公然と「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)と呼ばれる恐れに耐え得ず、記事における非難の矛先を筆者から自分自身へと向け変えた。

この事実は極めて大きい、と筆者は思っている。

はっきり言えば、主と共なる十字架において、自分の罪が確かに赦されたという揺るぎない確信を持たない者が、このような記述を行ったことを、神も見逃されないであろうし、悪魔と暗闇の勢力も当然、見逃さないだろう。(人には自分で心に信じて予告した事柄が実際となって降りかかるのである。)

1.差し替え後の記事
村上が筆者に対する記事を削除後、自分が五次元スクールから刑事告訴されたことに言及し、告訴状作成から刑の執行までの流れを記した記事
刑事告訴




2.差し替え前の記事
村上が削除した筆者に対する記事の後半
(同じ文面を村上が後になって、自分自身に向けて書き換えた様子が分かる)

 


* * *

さて、村上が五次元スクールからどのような理由で告訴されたのかについては、以下の記事に詳しい。
 

オタクで結構コケコッコー

(該当部分のみ抜粋)

村上さんを名誉毀損で刑事告訴するきっかけとなったのは、
村上さんがブログ上に五次元スクールで販売してるカレンダーの値段を
本当の価格1080円ではなく、12000円と書かれてた事でした。
値段を間違えてただけじゃんとかほんとやめてくださいね...(−_−;)
明らかに許される範囲の間違い方ではないです。
(お金をぼったくってるみたいな事も他の記事に書かれてましたし)
値段を正して欲しいと村上さんにお願いしても聞いてもらえず。
それなら他の手を探して、間違いを正してもらうという当たり前のことをしたまでです。

以前、五次元スクール生数名がブログに書かれてる内容を訂正してもらうために、
直接に村上さんと話しに行ってくれたことがありました。
その時、私が作成したとなぜか思われてる「村上密 悪事を暴く!!」のサイトも違うと
言ってくれたみたいなんですが、村上さんは...
「やってないなら有希が訴えれば良いんですよ」とおっしゃったそうです。\(-_-;) オイオイ

残念ながら今回は不起訴となってしまいましたが、
訴えたからこそ村上さんは五次元スクールに関する記事を非公開にするしかなくなった。
とりあえず、今は嘘の情報を広めるのをやめてもらえてて、おたっきーは嬉しいです。

村上さんご自身のブログに書かれてあった
“このようなことは人の名誉にかかわることなので
慎重に事実を確認してから書くものである。”

ほんとそれな。
“慎重に事実を確認してから書くものである。” とご自身がおっしゃった言葉通り、
事実を確認してから書いていただきたいものです。
沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段

(該当部分のみ抜粋)

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。
このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。
しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。

おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。
ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと

この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。
村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。
そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。
民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。
誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。
 

* * *
 
ここで指摘されているような無責任なデマの拡散は、村上だけでなく、類は友を呼ぶ式に、村上を取り巻いている反カルト陣営のおよそすべての人々に共通する行動である。

彼らのやり方はこうである。裏が取れようと、取れまいと、証拠があろうと、なかろうと、とにかく自分たちがターゲットとみなした人間について、さんざん悪評をまき散らす。そして、訴えられる段になって、ようやくデマの拡散をやめ、削除を命じられれば、記事を部分的に削除したり、書き換えたりという行為には及ぶものの、根本的な反省はなく、さらに、敗訴しても賠償金さえ速やかに支払わないのだから、もはやヤクザのレベルだと言って差し支えない。

明らかに、この人々は信仰者の名に値しないだけでなく、すでに人の道からも外れかかっていると言えよう。

筆者はこれまでの経験に立って言うが、当事者でない人間が、誰かを擁護するために騒ぎを煽る場合には、必ず、ある種の行き過ぎに陥り、当事者よりももっと厳しい処罰を受けてしまうという法則性のようなものがある。

これは杉本ブログに愚痴を書き込んで告訴されたKFCの元信徒にも当てはまるし、掲示板にたむろしている村上の信奉者たちや、坂井能大の裁判にも当てはまる。当事者でもない人間が、確たる証拠を握っていないのに、誰か他人の言い分を鵜呑みにして、その言い分を補強しようと、(たとえば、ある人物が犯罪を犯しているなどと)、他人の名誉を傷つける投稿を続けていると、そういう人間が、真っ先に訴えられるリスクを負うのである。

つまり、指導者の罪を、信者がかばおうとした場合、かばおうとした信者の方に、先により重い責任が降りかかる可能性が高いということである。

そこで、村上密の不確かな記述を鵜呑みにして、中傷を言い広めている人たちは、村上本人よりも、先に責任を負わされる可能性があることをよくよく考えてみるべきであろう。村上自身が、証拠がないまま記事を書いているのであれば、それを鵜呑みにした信者らが訴えられた際、彼は何らの手助けもしてくれるまい。

そして、筆者はこのようなことこそ、偽預言者たちが最も望んでいることではないかと考えている。つまり、偽りの宗教指導者は、自分自身が神の御言葉に逆らい、破滅へ向かって突き進んでいるだけでなく、その破滅に、可能な限りの大勢の無関係な信者たちを巻き添えにするためにこそ、取り巻きを通じてデマを拡散させるなどの行為に及び、多くの信者たちに罪を負わせるのである。


* * *
 
さて、村上は以上に挙げた五次元スクールから告訴されたという記事に、自分が告訴されたことについては反省もなく、得意気に次のように書いている。

「私が持っていた訴えた側の資料が大量に警察の手に渡った。まさか、そんなことが起きるなんて考えなかったのだろう。墓穴を掘ると言う言葉があるが、まだ墓穴には入っていない。しかし、日本での活動がしにくくなったのではないか。」

これは村上が五次元スクールを何とかして「墓穴」に陥れ、日本から追い出したいと願っている意図がよく感じられる記述である。だが、筆者が知っている限り、警察は被告訴人の側から、事件とは直接的な関係のない「大量の資料」が提出されたからと言って、それを精査して、何らかの結論を下すようなことはしない。それは別個の問題として扱われる。まして、それが宗教的な対立や紛争となれば、なおさら、警察はその資料について踏み込んだ捜査をしないであろう。

従って、五次元スクールを壊滅に追い込みたいなら、村上自身がその資料を用いて刑事告訴に踏み切るしかない。だが、彼は被害者でないので、告訴はできないであろうし、被害者がいたとしても、そこまでの措置に踏み切る証拠と決意があるかは定かではない。

従って、村上のこの記述は、明らかに、自分が疑いをかけられて追及される側に回ったという失態を棚に上げて、かえって自分が五次元スクールを追い詰めた事実があるかのように、虚勢を張るものである。そういうことも分からないまま、村上の信奉者たちが彼の記事を鵜呑みにして騒いでいることは、まことに愚かとしか言いようがない。

また、村上は筆者に対する記事でもこう書いていた、

「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている。裁判を仕掛けた人が言う言葉ではない。」
 
これも藪蛇や墓穴と言わずして何と言うのだろうか。村上はこの記事で、自分が「反訴を口に」したとはっきり認めている。
 
ちなみに、裁判において、無実を主張することと、反訴を口にすることは、全く別の事柄である。

筆者が杉本と村上の両名を被告として訴えたのは、杉本が20本以上の筆者に対する名誉毀損の記事をブログに投稿し、その際、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか分からず、村上以外に思い当たる人物もいなかったためである。

しかし、一審において、村上はそうした事実があったとは認めず、証拠も出て来なかったので、村上には杉本との共同不法行為は認定されていない。

だが、村上はいかに自分が訴えられたことを不快に思っていたとしても、本来ならば、牧師として、杉本の行為をいさめるべき立場にあったことは確かであろう。それが、杉本と一緒になって、筆者を罵ったメールを書証として提出したり、杉本と一緒になって、筆者が彼らの提案する和解条件を飲まなければ、反訴すると言い立てたことは、牧師としての村上の資質を根本的に疑わせる行動である。

ちなみに、この事件では、一審を担当した裁判官も書記官も、被告らが一緒になって原告に反訴を言い立てた場面に遭遇している。

筆者が覚えている限り、その日の口頭弁論では、当事者間で、非常に険悪な議論が展開された。おそらく話題は、杉本が提出して来た筆者と杉本との間で2009年に交わされたメール、および、杉本と唐沢とが交わしたメールのことに触れていたものと思う。

筆者は杉本に向かって、2009年に杉本が筆者に返信した残りのメールも、書証として出してもらえないかと頼み、筆者はそこに非常に興味深いことが書いてあったように記憶しており、そこでは、創世記において、神が人間をご自分のかたちに造られたという御言葉が引用されていたような気がすると述べた。

杉本はこれに対して、筆者をせせら笑うような口調で、「これ以上はもう出せませんよ。あなたは一体、何を言っているんですか。大体、そんな聖句がメールに書いてあるわけもないでしょう?」と突っぱねた。

さらに、筆者は杉本に向かって、唐沢とのメール文通についても、何を目的としてこれを書証として提出したのか問うた。だが、杉本はこれにも筆者を嘲笑うような口調で答えた。

「さあ、知りませんよ。それは唐沢さんにお聞きになったら?」

筆者は杉本の筆者を嘲るがごとき口調に憤りを感じつつ言った、 「そうは言っても、あなたが自分でこれを出して来られたんでしょう?」

また、杉本は別な場面では、急に猫なで声とも感じられる口調で筆者に言った。「ヴィオロンさん、もしもあなたが記事を削除なさるなら、私たちも削除していいと思っているんですよ。もしその言葉が信じられないなら、私たちの方から先に削除してもいい。それで終わりにしましょう。賠償はなしです。」

筆者は首を横に振って、そんな提案には決して応じられない、ときっぱり拒否した。

すると杉本らは筆者が彼らの和解案を飲まないので、怒りを露わにして言った。「だったら、もう反訴しかない。あなたが私たちの和解を蹴るのなら、私たちは反訴しますよ!」

筆者は答えた、「まだ口頭弁論も続いている最中に、何を馬鹿なことを言っているんです。あなた方は、反訴なんか考えるよりも前に、今、目の前で行われている弁論で、ちゃんと十分な議論を尽くして勝つことをまず最初に考えたらどうです? いいですか、刑事事件にもなっていることですし、いたずらに審理を長引かせれば、不利になるのはあなた方なんですよ、そのことをお考えになったら・・・」

裁判官は、議論が険悪な雰囲気になりつつあり、当事者が皆本気で憤っており、杉本が「刑事事件になどなっていない」と書面で頑なに主張していたことも知っていたため、「もういい!」と語気を荒げてこの議論を打ち切った。

あまりにも険悪な雰囲気であった。裁判官も含め、全員がそれに影響されていた。

すると、被告らは、今度は裁判官に向かって、しなだれかかるような口調で語りかけた、「お分かりでしょう、原告が和解に応じないのだから、私たちにはもう反訴しかないですよ・・・」

裁判官は、被告らを何とかして思いとどまらせるべく、苦々しい表情で答えた。「それはやめてもらいたいですね、どうしてもというなら、この事件が終わった後に、提訴にしてもらいたい」

筆者はそれを聞いて、心の中で苦笑しながら首を横に振った、(いやいや、裁判官、それは違います。反訴も駄目だけど、提訴だって駄目だから。)

裁判官は異動を見越して年内終結を目指すつもりで、当事者にはそれを含んでおいて欲しいと予め述べており、反訴されれば、異動前の終結が間に合わなくなることが明白であったので、これを全く歓迎していなかった。しかも、事件がさらに紛糾した状態で、これを別人に引き継いで異動することなど、絶対にしたくないと考えていたものと見られる。

そこで、被告らは、せっかくの提案をないがしろにされてプレッシャーをかけられた裁判官が、非常に気分を害していることを十分に知りつつ、それを楽しむような口調で続けた。「でもねえ、私たちはヴィオロンさんの住所も電話番号も知らないんですよ・・・。これじゃあ、提訴もできないじゃないですか・・・。私たちに反訴以外にどうしろって言うんですか・・・。」

裁判官は実に忌々しそうな表情で押し黙った。まるで審理の年内終結という課題と一緒に、筆者を人質に取られて、全く身動き取れなくさせられたような恰好であった。

筆者は、このやり取りを非常に注意深く観察していた。口頭弁論が終わった時、裁判官は、被告らの言葉を真に受けたのか、これで、この事件をきちんと片付けられる希望はなくなった、こうなったのも、原告らがまずい議論を続けたせいだ、とでも言わんばかに、大きなため息をついた。

その時、筆者は被告らが述べていることは、心理的な脅しに過ぎず、彼らはいたずらに騒ぎを煽っているだけであって、これも被告らがキリストの贖いを無効にしたくて繰り広げている悪のカーニバル(悪ふざけ)のようなものに過ぎず、要するに、筆者と裁判官の心に揺さぶりをかけ、互いにいがみ合わせて、疑心暗鬼に陥らせ、協力体制を壊すことを目的にしていると分かっていたので、裁判官に向かって、まずは落ち着いてもらうよう懇願し、それから、たとえこの先、何があっても、筆者はすべての圧迫に最後まで立ち向かう覚悟が出来ているので、決して筆者の身の上を心配しないでもらいたい、仮に反訴を受けることになり、あるいは一審で終わらなかったとしても、それも覚悟の上であるから、議論を制止しないで、筆者に言いたいことを最後まで言わせてほしいと懇願した。

後から考えてみると、この時、裁判官は、三つも四つもの事件を同時に抱え、それらすべてを異動前に片づけねばならず、筆者の書面を十分に読む時間もなくなり(裁判官からは、提出する書面を減らして欲しいとの要請もあった)、残された時間を考えると、これ以上、事件が紛糾しては、もはや事態の収集がつかなくなるため、それだけは何としても避けたいという重大なプレッシャーに直面していたものと思われる。
 
そこで、裁判官は、何とかしてこの事件のために善処したいと考えながらも、その考えが逆に心理的なプレッシャーとなっており、そういう中で、被告らが筆者に反訴すると述べたことは、裁判官の心の平穏をも失わせるような、さらに重大な心理的打撃となったのである。

こうした状況で、筆者は何としても、ここで自分が動揺してはならず、自分の命を惜しんではいけないということを理解した。もしも筆者が自分の命を惜しみ、反訴されることを恐れ、取り乱して裁判官に助けを求め、裁判官がこれを察知して、筆者に代わって、被告らに受け答えすることで、何とかして筆者をかばい、反訴を押しとどめようとするならば、裁判官は筆者を人質に取られているも同然の立場であるから、何もできず、かえって被告らの思う壺となるだけであることが、筆者には予め分かっていた。そして、最後には、助けてやれなかったという慙愧の念と、誰のせいでこうなったのかという責任の押し付け合いが残るのみであろう。
  
筆者は、そのような事態を回避して、この戦いを貫徹して勝利に導くために必要なのは、死に至るまでも従順な信仰であって、筆者が自分の命、自分の権利を惜しむことではないと知っていた。そもそもこの戦いは、信仰の戦いであって、筆者と同じ決意と覚悟ができていない、当事者でない人間には、どうすることもできない種類のものである。

すでに述べた通り、反訴はそれ自体が被告の権利なので、これを否定したり、押しとどめることは誰にもできず、反訴をとどめるには、人知によらない、それを超えた信仰が必要となる。
 
従って、被告らによる反訴の予告を、空中で粉砕し、押しとどめることのできる人間は、筆者しかいないことは明白なのである。そして、筆者は御言葉に基づき、反訴が実現しないことを前もって知っていたが、この世の人々である裁判官や書記官には、そのことが前もって分かるはずもない。
 
だから、筆者は、裁判官に向かって述べたのであった、一審判決で事件を終結したいという強い願いは筆者にもあるし、また、そのためにできるすべてのことはやりたいと思っているが、たとえ事件が長引き、次の裁判官にこれを委ねることになったり、もしくは、一審で事件が解決しなかった場合にも、筆者はすべてのことに覚悟ができており、今後、どのような展開になろうとも、決して誰にも責任を押しつけるつもりはないと、だから、最後まで主張をさせて欲しいと。

だが、筆者はそれと同時に、裁判官の言うことも心に留めて、その忠告を重んじた。そこで、それ以後、口頭弁論で被告と議論することは一切、避けることに決め、すべての主張を書面で戦わせる方法に切り替えたのである。

そして、最後の口頭弁論前には、裁判官も、筆者がこれを最後の弁論にしたいと願っていることを十分に確認した上で、今後、被告らから反訴があった場合には、職権で拒否するとはっきり告げてくれた。

筆者は、たとえそれが人間的な思いから出た行動であったとしても、裁判官が、被告らの主張を前に、筆者をかばおうとしてくれたこと、被告らの反訴の予告の前にも、可能な限りの手立てを講じて、これを阻止しようとしてくれたことを、重く受け止めている。

いかに筆者が、信仰によって主導権を握り、自らこの事件を引っ張って行かなくてはならない立場にあるとはいえ、民事であれ、刑事であれ、やはり、筆者には協力してくれる人たちが必要なのであって、その人たちの善意があったからこそ、それなりの結果が得られていることへの感謝を忘れることはない。

このようにして、関係者と息の合った協力を打ち立てることに、どれほど大きな価値があるかを知ったからこそ、筆者はどんな脅しに直面しても、それを恐れたり、動揺することなく、最後まで神を信頼して立ちおおせねばならないと理解しているのである。
 
* * *

さて、話を戻せば、被告らは実際に反訴しなかったからこそ、これが「脅し文句」に終わったと筆者は述べている。さらに、筆者が訴えを提起した側に立っていることは、被告らが反訴を言い立てたことを、筆者が精神的な脅しをかけられたことだと理解してはならない理由とはならない。

そもそも牧師としての村上が、元信徒・相談者を非難する記事をブログに投稿し、さらに、その信者の個人情報を杉本に渡したのではないかという嫌疑までかけられ、法廷に呼び出されたこと自体が、村上の大きな失態だと言えようが、そんな事態になってもまだ、村上が杉本をいさめて紛争の早期解決に努力するどころか、杉本と一緒になって筆者を馬鹿にするメールを書証として提出、さらに自分の無実を主張するだけでは飽き足らず、杉本と一緒になって筆者に反訴するなどと言い立て、自分たちの和解案を無理やり筆者に飲ませようとした行為自体が、キリスト教の牧師として、どれほどあるまじき非常識な振る舞いであるかは、ここで改めて説明するまでもないだろう。

その上、筆者が反訴の脅しをかけられたと述べたことを「名誉毀損」だと主張して、刑事告訴に及び、勝訴を宣言しただけにとどまらず、信者の息の根を止めるがごとく、社会的抹殺を望むがごとき行為に及ぶなど、およそ常軌を逸した行動だと言う他ない。
  
そのことが分からないのは、村上だけであろう。これまで、戦いに生きて来た村上は、平和を作る道を知らず、また、その道を誰からも教わらなかったのかも知れないが、村上のこうした行動はいずれも、村上がキリスト教信者に対して、まさに「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)のように振る舞っているという以外に、意味するものはない。

村上はこのような行動を取ることによって、キリスト教徒も含め、どんな宗教団体の信者であれ、村上の言いなりにならない者には、同じ措置を講ずる用意があることを示して威嚇しているのである。
 
村上は、かつて他の牧師らと共に、統一教会の信者などを拉致・監禁して、密室に閉じ込め、「誤った考え」を捨てさせるために、信者の尊厳を踏みにじって、強制脱会活動を行っていたが、今もその頃と同じように、自分が「誤った考え」を持っているとみなした信者たちを弾圧するためならば、あらゆる方法を用いて、懲罰を加える用意があることを示している。

そこにある恐ろしいまでの攻撃性、真の動機に、彼は気づいていない。村上は書いていた、

「書けば書くほど怒りが込み上げて来るのか、留まるところを知らない書き方である。書けば書くほど自分に不利なことを書き立てていると気付かないでいる。ブログの中で怒って人を罵倒し、事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を棄損するような記事を書いている。その内容は放置できないレベルに足している(筆者注:達しているの間違い)。」

村上のこの言葉は、誰よりも村上自身にこそ当てはまるだろう。事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を毀損し、その内容が放置できないレベルに達しているのは、村上自身である。そのことは、以上に挙げた記事で示した通り、五次元スクールの側からも、その他の人からも指摘されているではないか。

むろん、きちんとした法的根拠を示さないまま、自らの主観だけに基づき、「その内容は放置できないレベルに達している」などと断言する村上の語調が、杉本徳久の言葉とそっくりである様子にも驚かされる。

村上は、自分がのべつまくなしに様々な宗教団体に戦いを挑んでいる真の目的がどこにあるのか、立ち止まって、考えてみるべき頃合いではないだろうか。前の記事にも書いた通り、筆者の目から見れば、それは村上自身が幼少期からずっと受け続けて来たトラウマに起因する行動であって、聖書への信仰によるものではない。
 
村上は若い頃に家庭で起きていた暴力から逃げる術もないまま、家庭という名の「牢獄」に閉じ込められて成長し、さらに統一教会への逃避行を企てた際にも、これを力づくで押しとどめられ、悲劇的な形で強制的に信仰生活に終止符を打たれて、再び家庭という牢獄へ連れ戻された。
 
おそらく村上は、神が自分を虐待という苦しみから助け出して下さることを求めて、統一教会に入信したのではないかと筆者は推察するが、その逃避行が、親族らの暴力によって打ち砕かれて、再び牢獄のような家庭に連れ戻され、そこに閉じ込められたことによって、村上の「神」観は、村上を救い得ない絶望的なものとなってしまったのである。そのことから彼はあまりにも深い心の傷を受けたのではないかと見られる。

そうであるがゆえに、村上の中では、自分に虐待を加えた肉の父が、そのまま神のイメージとなり、神は人に自由を与える方ではなく、束縛と、隷従と、抑圧を加える存在と見えるようになり、それゆえ、彼はそのような残酷な神観に基づき、自由な信仰生活を送る他の信者たちにも、「解放」という名目で、抑圧を加えねば気が済まなくなったのである。

筆者は五次元スクールや統一教会を擁護するつもりはなく、その理念を受け入れるわけでもないが、たとえ信念を共有できずとも、彼らを人として尊重することはできるはずであり、理念が異なるからと言って、彼らに人権侵害を加える行為が許されるはずはないことは言うまでもないと考えている。もしもそのようなことを正当化する理念があるとすれば、そのような理念こそ、誤っている。
 
筆者の神観は、村上の神観とは真逆である。村上から見れば、筆者は「交流の少ない所」「インターネットを頼り」として「甘っちょろい空想」を述べ、「藪の中から石を投げ」「怒りにまかせてものを書いている」だけの無責任な人間と映っているのかも知れないが、その筆者が、神は全能であり、筆者をあらゆる窮地から力強く救い出して下さることを信じ、どんな境遇に置かれても、平安と、喜びと、救いの確信と、神への愛と従順を失わずにいられる秘訣を学んでいるのである。

村上は、筆者が書いているごくわずかな批判の記事にも耐えられなかったが、筆者は匿名の投稿者によって数千件以上の誹謗中傷がなされても、まだ神への信頼と希望と愛情を失わずに立っている。筆者は自分を全く恥じようとも思わないし、自分の信仰をも、自分が信じている神をも恥じてはいない。
 
筆者は村上に聞きたい、あなたはこのようなことに耐えられるかと。あなたはかつて自分が生命の危険を賭してカルトと闘っているかのように主張し、他方、筆者の論は、安全なところから、悪ふざけで石を投げて楽しむだけの無責任なものであると決めつけていたが、実際のところはどうなのか。

筆者は自分の命を最後まで神のために注ぎだしたいと願っており、神に従い抜く上で、中傷されること、軽んじられること、誤解されること、離反されること、孤独や、苦しみの中を通過させられることを、甘んじて受け入れる覚悟があり、実際に日々十字架を負っている。だが、あなたはそれに耐えることができるか、また、それにどれくらい耐えた経験があるのか。

しかし、そのようなことは、筆者にとって、どうでも良い問題である。筆者は人間の思惑を意に介していないので、村上や杉本や唐沢のような人間からどう見られようとも、それが重要な問題なのではない。私たちがただ一人、その眼差しを得たいと願い、その信頼と賞賛を勝ち得たいと切に願い続ける存在は、人間とは別にある。

その方への愛と希望と信頼があればこそ、また、その方がすべての人々の願いと呼び求めに実際に応えて下さるという確信があればこそ、私たちはあらゆる試練に耐えて信仰を保ち続けて前進することが可能なのである。
 
この世に対して、人間に対して、自己に対して、徹底的に絶望し、これらの腐敗・堕落したものに対して、十字架の霊的死を経由することなくして、神に真に希望を見いだすことは、誰にとっても、無理な相談なのではないかと筆者は考えている。この世に対して死んだことがなく、自己に対しても、人間に対しても、絶望することもなく、依然として、この朽ちる、移ろいゆくものに希望をつなぎ、すがりつき、そこによすがを見いだしている人々に、見えない神を本気で愛し、信頼し、従い抜くなどのことができるとは思えない。

聖書は言う、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(17)―恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。

13.聖書の神に逆らい、御言葉に逆らうカルト被害者救済活動からのエクソダス(Ⅱ)

人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(ヨハネ16:2-4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13-14)

さて、警察との会話で非常に印象的なことがあった。筆者がこの事件の全容について話し、筆者はもはや犯人が許されることを望んでおらず、厳しい処罰を望んでいる、と述べた時のことであった。

筆者は、それは筆者だけのためではないのであって、神の福音を退け、教会を冒涜し、聖徒らを迫害し、神の教会に手をかけたその罪に対しては、厳しい報いがなければならない、という考えを述べた。

その時、驚くべき相槌が返って来た。

「あなたは彼らは神の赦しを超えてしまった、と思われるわけですね・・・」

筆者は驚いて問い返した。

「まさしくそうです。でも、まだ私が何も言っていないのに、よくお分かりになりましたね?」

筆者は非常に驚いたので、あなたも信仰者なんですか、と問うたが、返事はそうではない、というものであった。だが、筆者は信仰を持たない人間が、この話を聞いて、以上のような発言をしたことに、心から驚き、その言葉を心に留めた。

彼らが神の赦しを超えた、という言葉は、2009年に杉本が初めて筆者と当ブログを1千件のコメントと共にバッシングした時から、幾人もの信者が表明して来たことである。そのバッシング記事には、不法行為と呼べる構成要件はまだ整っていなかったにも関わらず、霊的文脈においては、おそらくこれが他のどんな不法行為に比べても、最も著しい(神とエクレシアと聖徒に対する)冒涜行為であったろうことを筆者も疑わない。

その時から、杉本の命運は決まっていた。筆者はそう考えている。

すでに幾度も書いた通り、筆者は2010年に杉本徳久に向かって、ラスコーリニコフにならって、己が罪を認めるようにとの勧告を書いたが、その時から、この事件の結末を、すでに心の内側で予感していたと言えよう。

霊的な直観は、現実に先立つ。真理の御霊は、やがて来るべき事柄を知らせると聖書にある通り、私たちにはこの先、起きることについても、分かっていることが多くある。だから、筆者は自分の出した訴えがどうなるのか、どんなに事件の進展が遅いように思われる時でも、結果を予め知っているのである。

そして、そのことを、実に不思議なことに、筆者のみならず、筆者の話を聞いていた警察官も、理解して、これを筆者に先んじて口にしたのである。

もう一つ、警察官が予見的なことを語ったことがある。

それは昨年、筆者が杉本に対する第一の告訴状を出して間もなく、若い担当刑事が杉本に電話で連絡を取った時のことであった。

担当刑事は、杉本に対して電話で「ブログを削除して下さい」と要求したのである。

繰り返すが、「ブログ記事を削除」ではなく「ブログを削除」するよう求めたのである。

これは非常に奇妙なことであった。本来、表現の自由が尊重されて、権利侵害が行われている該当記事だけの削除が求められるのが通常である。ところが、警察はそのようには言わなかった。「神々の風景」についても、プロバイダの措置として全体が非開示にされた。いずれは全体が削除されるであろう。これと同じことを、もう一つのブログに対しても警察は求めたのである。

これらのことは、非常に印象的かつ予表的であった。

さて、筆者は今でも一審判決の言い渡しの時のことを度々思い出す。

その日は、待ち望んだ解放の判決のはずであった。何日も前から、ようやくこれで事件が終わるのだと考え、筆者は喜んでいた。

それにも関わらず、前日から、どういうわけか緊張が解けなかった。その日、法廷には、見知らぬ傍聴人が一人来ており、掲示板の関係者かも知れないと思われたことも要因の一つだったろう。

裁判官は法廷に姿を現し、法壇に着座すると、掲示板で起きている騒ぎのことを、知ってか知らずか、「困った事態が起きてしまいましたね」といった具合に、筆者に笑いかけた。そして、筆者のことをおもんばかってであろう、傍聴人に対し、携帯電話のスイッチを切り、録音や撮影を行わないよう注意した。

時刻が来るまで重い沈黙の時が流れた。筆者は何かしらただならぬ緊張感に包まれていた。判決に異議申立てはしないと予め決めており、これで争いは終結する、書類作成の仕事からも解放される、そう思って喜んでいたはずが、前日から引いた風邪のせいで、頭ははっきりせず、いよいよ裁判官が判決を読み上げ始めた途端、筆者は裁判官と目を合わせることもできなくなった。

主文の冒頭部分を聞いただけで、筆者には、これが事件の完成ではあり得ないことを理解したのである。

裁判官は、筆者が心ここにあらずの状態になったことを察知したのか、最後に少し苛立たし気な表情で、「あなた、本当に聞いているんですか?」とでも言うかのような調子で、筆者に判決への同意を求めた。

だが、同意を求められるなど予想もしていなかった筆者は、自分が質問を受けていると理解して返答するまでに少し時間がかかった。

このように、一審判決の言い渡しは、どこかしらちぐはぐな雰囲気で終わった。口頭弁論の終結時の時に生まれた一体感とは全く異なる緊張がそこにあり、裁判官はいささか憮然としたような、よそよそしい表情で退廷して行き、見知らぬ傍聴人も、杉本が負けると考えていなかったのか、すさまじいショックを受けたようにダッと走り去って行った。

筆者は判決言い渡し後、前よりもさらなる緊張状態に陥った。おそらく、裁判官も書記官も、それは筆者が判決に不服があって、異議申し立てをしようとしているためではないかと考えたのではないかと思う。
 
なぜそのようなことになったのか、筆者は今ならばよく分かる。筆者はこの判決を歓迎するつもりで、無条件に受け入れると決意していたが、心の深い所では、もしも筆者が、これを最終的な宣告として受け入れれば、次の瞬間、筆者に待っているものは死だけであると、確実に予見していたのである。

筆者は判決言い渡しの後、しばらくの間、そのことに全く気づかないふりをしていた。裁判官と書記官にお礼状を書き、早々と後処理に取りかかった。人間的に見れば、まずまずの結果である。争いから早期に解放されたことを喜ぶべきであろう・・・。

しかし、それはあくまで人間的な観点から見た場合の話でしかなかった。筆者の内なる直観は、事態はまるで逆であることを、はっきりと理解していた。この中途半端な終わりに身を委ねることに、筆者の内なる人は激しい拒否反応を示した。風邪は日に日に悪くなって行くばかりであった。
 
村上は初めから、筆者に勝訴すれば、筆者にとどめを刺すつもりであったのだと思われる。それが証拠に、一審判決が確定もしていないうちから、村上は筆者に対する勝利宣言をブログに発表し、さらに筆者に対する人格権侵害の記事を発表した。

これはおそらく村上の当初からの予定だったのではないかと推察される。村上はおそらく筆者が「完敗」を認め、今後、全く抵抗しない立場に身を置くのが当然と考え、公然かつ堂々と権利侵害を始めたのであろうと。

「往生際の悪い」筆者に、とどめを刺すために、民事で「完全勝訴」を宣言した上、さらに息の根を止めるべく、刑事告訴に及ぶことは、予定の行動だったのではないかと。
 
村上が掲示板における筆者に対する嵐のような24時間体制の誹謗中傷を、どこ吹く風とばかりに黙認していたのも、その書き込みが、筆者の心を揺さぶって、何らかの失言につながるのを狙っての措置であったと見ることもできよう。

そして、杉本が賠償金を未だ支払わないことも、同じ文脈から出た行動である。彼らは諦めていない――筆者を「カルト信者」として社会的に抹殺に追い込み、公然と証の言葉を述べる完全に口を封じることを――。
 
強制脱会活動が、幾人もの他宗教の信者を社会的に殺して来たのと同様、この人々は、彼らの「説得」に応じない筆者を「人格障害」に追い込み、社会的に抹殺しようとの考えを、依然、捨ててはいない、だからこそ、控訴という正当な方法によって、この判決を覆そうと努力するのではなく、判決の実行を先延ばしし、賠償金を支払わないことで、筆者がさらに追い込まれるよう、策を講じているのではないかと見られるのだ。

筆者はこのことについても、警察に伝えた。掲示板の投稿のほぼすべてが村上の支持者と見られる人物たちで固められていること、こうした権利侵害も、信者たちの単独犯であるとは思えず、杉本の行為も、単独であるとは到底、考えられないこと。
 
不思議なことに、こうした話を、警察は決して空想としては聞かなかった。そうなったのも、理由がある。何しろ、昨年の時点では、村上は告訴対象にも含まれていなかったが、事件は進展しており、村上による権利侵害の証拠が手に入った今では、筆者の言うことをあながち作り話として退けるわけにもいかない状況が整いつつあるからだ。少しずつ事件は核心に近づいて来ている。

話を戻せば、村上は完全勝訴の上にも、さらに念には念を入れて、筆者を「抹殺」するために、刑事告訴に及ぼうとしたのであり――それは初めから既定路線だったと見られる。

そこで、もしもあの時、筆者が一審での部分的勝訴に甘んじて、戦いをやめていれば――このような恐るべき霊的攻撃に対して、筆者には抗う術が残らなかったであろう。そうなれば、向こうの思う壺の状況が作り上げられたはずだ。

だが、筆者の内なる人はそのことをよく知っていればこそ、村上による権利侵害の証拠が手に入った瞬間、待ち望んだ判決を振り切って、ただちに控訴に及んだのである。

むろん、一審判決を超えるためには、さらなる証拠の積み上げが必要であり、最終的な判決を手にするまでの間に、事の真相にどこまで迫れるかが、今回の争いの本髄である。
 
いずれにせよ、こうして、紛争が一審で終わらなかったことは、まさに奇跡的な天の助けであると言えた。

一審を担当してくれた裁判官はすでに異動で去ったが、初めて法廷に姿を現した時、「私はこの事件から逃げるつもりはありません」と述べたことが思い出される。そして、筆者が先日、長い時間をかけて、犯人の処罰を願う、と述べたときにも、警察の上部は、これと似たような言葉を繰り返し言った、必ずこの事件をふさわしい方法で解決すると。

民事訴訟が始まったばかりの頃、筆者は裁判官が公平に客観的に事件を裁いてくれるだろうと考え、電話会議でも、裁判官と書記官の二人にがっちりと脇を固められて、守られているような安心感を覚えていた。

その頃、筆者には、自分自身が、力強く立ち上がって、自らこの事件を率いて行くのだという自覚はそれほどなかった。訴えを出した後も、最後まで、主導権を握るのは自分でなければならず、筆者こそ、周囲の全ての人々の心を動かす鍵を握っているのだということが、分かり始めたのは、少し後のことである。

筆者はしばしば、裁判官とさえ、胸襟を開いて――いや、まるで激しく衝突するがごとく、議論を戦わせたことがあった。ここには書かないが、実に様々なドラマがあり、その中で、筆者は、初めは冷静で頼りがいがあるように見えた裁判官さえ、筆者の心の動揺にどれほど大きな影響を受けているかを理解し、この事件を正しく進めるためには、あくまで筆者が自分をしっかりと持って、目的となる地点から目を離さず、全員をまとめてその目的へ向かって牽引していく姿勢が必要なのだと知った。

そうして、関係者のすべてをまとめて、皆が心を一つに合わせて同じ目的へ向かって行くことができるように整えることは、必要不可欠なだけでなく、実際に可能であることを知ったのである。
 
それが分かったおかげで、一審の終わりは、見事に息の合うものとなった。この頃から、筆者は、キリスト者はどんな事件に見舞われようとも、カルバリの十字架の勝利のゆえに、すでにすべてを足の下に従えているのであって、私たちはその事実を実際とするために、この地に置かれており、御名のゆえに、万物を足の下に従えることが、現実にできるのだという秘訣が分かり始めた。

裁判官は、事件から逃げないと約束してくれた分だけ、何としてもこの争いから筆者を救い出して去って行かねばならないと考えたのであろう、考えられる限りの手を尽くしてくれた。だから、一審判決が本当の終わりではなくなったとはいえ、筆者は一審で与えられた命に、より完全性を持たせるために、これに控訴状という服を着せて、世に送り出した。

それから、警察署に出した告訴状についても、筆者は事件を前に進めるために、まるで未熟児に対するように世話をしている。そして、可能な限りの労力を割いて、この事件を理解して進めてもらうための働きかけを続けている。
 
こうして当事者が事件を牽引する作業は、まさに途轍もない作業である。訴状に関しても、告訴状に関しても、同じことが言えるが、訴えを出すというのは、初めの第一歩に過ぎず、そこから何百キロもの道のりを徒歩で歩き通すような行程が必要となる。

怠惰で、人とぶつかることの嫌いな人間には、こうした気の遠くなるような作業を貫き通すことはできまい。

筆者自身、これまでコンクリート製の分厚い壁を5つくらいは粉砕したような気がするが、あらゆる障害を打破することが必要なだけでなく、人の心を動かし、皆を一つの目的へ向かって団結させて、立ち上がらせて行く力が必要となる。その働きかけのために、膨大な労力が必要となる。なぜなら、訴えは書面で出しはするものの、最後には人がこれを処理するからである。
 
それは見えないオーケストラの見えない指揮者になるのにも似ているかも知れない。関係者の全てが、息を合わせて一つの調べを奏で、一つの目的へ向かって行くことができるようになるまで、筆者は調整を繰り返す。

そうして、努力に努力を重ねているうちに、ある瞬間に、望んでいる答え、望んでいる回答がようやく実現する。

それはその時々で、束の間の現れに過ぎないものではあるが、神の御心にかなう御国の秩序が到来し、調和の取れた調べが流れだす時が来る。その瞬間には、まるで生ける水の川々が溢れ、流れ出すように、すべてのものがキリストの愛の中に飲み込まれる。筆者の周囲の人々も、それによって潤され、浸され、すべてが感動的なまでに美しい終わりを迎える。

その日が来ることを待ち望みつつ、筆者は自分の訴えをより洗練させて、より完成へと向かわせている。神の正しい義なる裁き、まことの裁き主であられる主の真実かつ公平な判決が得られるように、目的へ向かって進んでいる。それは救われる者にとっては自由と解放の響きであり、滅びるものには死の宣告である。

その戦いの中で、筆者は孤軍奮闘しているわけではなく、雲のような証人たちに囲まれている。敵陣に包囲されて逃げ場がなくなるように見えるときにも、援軍は常に用意されており、霊の目を開いて、周りを見渡せば、エリシャが見たあの火の馬と火の戦車は、今日も神を信じる者と共にある。主は筆者に言われるだろう、

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(列王記下6:16)

* * *
 
さて、村上密がまたもや見当外れなことを書いている。

「人はいつも危険と背中合わせで過ごしていると私は思う。その感覚を失うともっと危険に接近することになる。身近な人の忠告は危険を回避する忠告が含まれている。そのような親身になってくれる人がいない人はその人自身が危険になる。暴走とはそういうことを言うのではないか。」(4月27日の記事「暴走」)

村上の記事にはいつも同じ特徴が見られる。それは孤独を否定し、一人になることを否定し、常に集団の中に隠れようとする特徴だ。杉本の記事にも全く同じ特徴がみられた。

村上は最新記事でも同じことを述べている、「連休はカルト研修の時期 」では、カルトに入らないためには、家族の連絡こそ必要と訴えている。

「5月は研修の期間である。子供の行き先がはっきりわからない場合、カルトの研修を受けてる可能性がある。子供の行動が明確でないことを放っておくと対応が後手になる。親子間の連絡が疎遠にならないように気を付けよう。」

これは子供を一人にさせておくと危ない、何をしているか分からないまま、放っておいたらいけない、というだけにとどまらず、まるで親に子供を監視せよと言っているように聞こえる。常に子供を一人にさせず、集団の群れの中にいさせて、何をしているのかが、周囲に見えるようにしておかねば、カルトのような重大な危険に取り込まれてしまいかねないと、半ば脅しのような言葉で、親が子供を監視する必要性を訴えている。

村上はこうして記事の中で、常に目に見える人間関係の必要性を訴え、悩める人間には話を聞いてくれる誰かが必要だと訴え、互いに互いの行動を把握して、人間の相互扶助ネットワークを作り上げることが、あたかも救済であるかのように強調する。人間関係の只中にいさえすれば、集団の只中にいさえすれば、危険を免れられるかのように説くのだ。

それは逆に言えば、一人になれば死ぬという脅し文句と同じだ。牧師のいる教会では、指導者は神の代理権威であると教えられ、牧師の指導の圏内から信徒が逃げれば、信徒は救いを失うかのように解かれることが少なくない。「あなたは一人では聖書を学べない、助けてくれる人や、教えてくれる人が必要だ。だからこの教会にいなさい、私たちと一緒に学びなさい。一人になったらいけない」というわけである。だが、その本当の目的は、信者を目に見える教会に束縛し、牧師に献金を捧げさせ、いついつまでも牧師の説教がなければ、聖書を理解もできない霊的赤子の状態に押しとどめ、信徒から栄光を搾取することにある。

いわば、天皇の赤子だった時代の臣民と同じである。カルト宗教の「霊の父母」と同じで、村上は今も「生み生まれる親子の立体関係」の必要を説き、そこから離れての個人はあり得ないと説いているだけなのであって、なぜそのようなことをするかと言えば、その集団が、偽りのイデオロギーに従って作り上げられたものであり、集団に帰依し、その関係性の中に束縛されている限り、その誤った理念から、人は抜け出せないからだ。個人を集団に留め置くために、(疑似的なものも含め)親子関係が最大限美化され、利用されるのである。

カルト被害者救済活動は、悪しき反聖書的な理念に基づいて作り上げられた一大要塞であり、そこから人を逃がさないでいるためにこそ、相互監視が必要なのである。その監視社会を美化し、正当化するために用いられるのが、親子関係やら、師弟関係やらといった美名である。

だが、聖書の奥義とは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:18)というものであって、まず「父母からの自立」が前提となり、キリストとエクレシアの結婚も成し遂げられる。

聖書における正しい関係は、「生み生まれる親子の立体関係」ではない。信者が神に出会うためには、自分の生まれ落ちた家の民を忘れ、「父の家を忘れる」ことがどうしても必要である。これは人が生まれながらの自己に死んで、この世に対して死に、キリストに対して生きるようになることを意味する。

娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

筆者の目から見た限り、牧師たちは、大勢の信者や家族に囲まれているように見えても、内心は孤独である。特に、高慢ゆえに他人の助言を聞かない牧師の周りでは、真摯に忠告してくれる人もいなくなっていくため、いざという時、必要な助言を誰からも受けることができない。

大勢の人たちに囲まれていても、みなイエスマンばかりなので、牧師が暴走しても、止める者もない。もしも村上に、身近に親身になって危険を忠告してくれる人間が一人でもいたならば、筆者に対する人格権侵害の記事を投稿してこれをすぐに削除したり、筆者を刑事告訴したなどという記事を発表してこれを削除したり、杉本徳久と共に筆者を馬鹿にする文通を書証として裁判に提出したりと言った愚行には決して及ばなかったであろう。
 
筆者に対する弾劾記事をブログに次々投稿し、掲示板での誹謗中傷を黙認・容認したりすることもなく、何よりも、カルト被害者救済活動に手を染めなかっただろう。

こうした行為に村上が及んだのは、村上には、誰も親身になって忠告する人間がおらず、むしろ、悪い助言者ばかりが取り巻いていたことの証拠である。

こうして、村上の記事では、親子の絆、年長者と年少者の絆、社会の助け合い、相互扶助のネットワークの必要性ばかりが語られるが、そこでは、最も重大な争点が抜け落ちている。

それは、私たちにとって、最も身近かつ忠実な助言者は誰なのか、という問題だ。

もちろんのこと、私たちの最も信頼できる助言者は、見えないイエス・キリストである。船頭多くして船山に登る式に、多すぎる助言者は道を誤らせ、年長者の忠告をどんなに聞こうと、イエス・キリストの忠告を退ける人間の人生は呪われる。

そこで、村上の記事は、筆者には常にバビロンの次のつぶやきを想起させる。

「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

「やもめなどではない」――というバビロンの言葉は、言い換えれば、「私は一人ではない」という意味である。村上は言う、自分には身近に「親身になってくれる人がいる」から暴走することはないと。「親子関係」も万全だから、危険はない、自分は「大人たちの忠告」を聞いているから大丈夫だ、道を誤ることなどないと。

しかし、 「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
  またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
  あなたを離れる者は土に名をしるされます。
  それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

筆者から見れば、「暴走」とは、目に見える助言者を失った結果として起きることではない。むしろ、「暴走」とは、ただ一人のまことの助言者を当てにせず、目に見える偶像にすがり、頼った結果として起きるものである。

周りのイエスマンたちにおだてられ、自分の欠点が見えなくなった宗教指導者が、分不相応な自画自賛に明け暮れながら、利己的な道を貪欲に突き進み、当然の破滅に落ち込んで滅び去って行くことなどは、まさにその典型である。

筆者は、村上を担ぎ上げた信者たちにも、重い責任があると考えている。村上を間近で知らない人間が、村上に対して疑問を抱かないのは仕方がないが、村上を間近で知っており、疑問を感じながらも、声をあげなかった信者たちの責任は重いと考えている。特に、カルト被害者たちの責任は重い。

統一教会側の「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」が記している「2 拉致監禁による強制棄教事件の歴史」によると、脱カルト強制脱会運動の歴史には、大きく分けて4つの段階があり、拉致・監禁による強制脱会を最初に始めた者は、村上ではなかったようであるが、村上がこの運動に入った頃に、この運動は最盛期を迎える。拉致・監禁による強制脱会の手法が確立したのはその頃で、別な情報によれば、村上自身も数百件以上の強制脱会を手伝ったと言われている。

その後、強制脱会運動に関わった牧師たちの一部が民事・刑事で訴えられ、敗北に追い込まれたりする中でも、村上には追及の手が及ばなかったのは、ただ村上が非常に巧妙に立ち回り、人権侵害に加担した証拠を残さないようにしていたというだけではなく、村上を取り巻いている無数のカルト被害者らが、村上に対する徹底的な援護射撃・サポートに回ったことが大きく影響していただろう。

京都七條基督教会の役員も、ある時期までは、大半が村上自身が脱会させた元統一教会の信者で固められていたと指摘されている。彼らは村上の意向には決して逆らうことのない忠実な信徒たちであった。そして、今、当ブログに起きていることを見てみれば分かるように、村上が脱会させた信者たちは、村上の忠実な僕のように村上を取り巻いて、村上への批判的な言動を抑制し、これを即座に潰す役割を担ったのである。

このように、自らが脱会させた信者たちを防御の盾のごとく周りにはりめぐらし、彼らからの支持や賞賛を受けて活動したことが、村上の栄光を確固たるものとし、彼の率いる運動の偽りの悪しき本質を覆い隠し、村上の反カルト運動の成功者としてのイメージを作り上げ、この運動を存続させる原動力となったことは見逃せない事実である。

村上の周囲には、今もかつてカルトに入信し、強制脱会させられた際に、自己の意思を打ち砕かれたために、それ以後、村上に対して全く頭が上がらなくなり、異議申し立てができなくなった信者たちが大勢いるものと見られる。(筆者が2008年にこの教会を訪れた時にも、かなりの数、そういう信者たちがいた。)

彼らは、自分たちが村上のおかげで恐ろしいカルトから「救出」されたと額面通りに信じ込んでいるので、一生、村上を救世主のように慕い続け、忠実にその命に従う、マインドコントロールされた信者たちである。

だが、村上の脱会活動は、初めから信者の「救出」のためではなかった、と筆者はみなしている。筆者は以前に書いた記事の中で、村上がどのような形で統一教会から脱会したかという経緯について触れた。

そこでも書いた通り、村上は青年時代に、自ら親族からの拉致・監禁を伴う激しい暴力行為によって、統一教会から無理やり引きずり出され、強制的な脱会を遂げた。家に連れ戻されて後は、手足をロープで縛られ、身動き取れないようにさせられて、座敷牢に閉じ込められていたと自ら書いている。

脱会以後、牧師となってから、村上が繰り広げた脱会活動は、まさに村上自身が、青年時代に自己の意志を打ち砕かれ、身体の自由を奪われ、屈辱のうちに棄教せせられた悲劇的な脱会体験を、他の信者たちの身の上に再現しようとするものであったと言えよう。
 
つまり、村上の率いる反カルト強制脱会運動は、まさに村上自身が青年時代に負った深い心の痛手を、無意識のうちに、他の信者たちとの間で、共有・再現しようとするものだったのである(=反復強迫)。

また、村上は、この他にも、子供時代から親による恒常的に暴力(虐待)を受けて成長してきた様子が分かる記事もいくつも綴っている。

このようなことから、当然のごとく導き出される結論は、村上は統一教会に入信して初めてカルトに出会ったわけではなく、それ以前から、カルト的な歪んだ世界観を心の中に持ち続けて生きて来たことである。

その歪んだ世界観の土台となったのは、彼の家庭である。

筆者は幾度も書いて来た、カルトに接近する人々には、大抵、幼少期から家庭で受けた何かしらの心の傷があると。それが最大の原因となって、彼らはその傷から逃避するために、カルトへ接近するのだと。従って、たとえカルトから信者を引き戻したとしても、この家庭における傷という問題が解決されない限り、彼らがカルトに入った本当の動機は見出されることも、解決されることもない。ゆえに、この問題を放置していれば、その信者は、一つのカルトを脱しても、またそれに類似する何かの団体を見つけ出し、それを逃避の手段とし、そうして同じ種類の現実逃避を、人生で幾度となく繰り返して行くことになるだけであると。

家庭こそ、カルトとの最初の出会いであり、出発点であった――その事実を、村上は依然として見ることができないからこそ、彼はカルトを批判しても、家庭を批判することができないのである。親子関係を密にし、連絡を取り合い、大人たちの言うことを聞いてさえいれば、危険を免れるかのように説き続けているのは、他の信者たちに対してだけでなく、村上が自分自身に言い聞かせているのであって、統一教会のカルト性には気づけても、自分の育った家庭のカルト性には未だに気づかないように、自分で自分をマインドコントロールしているのである。

それだけでなく、村上はこの誤った理念を、幾度となく繰り返される「救出劇」の中で、座敷牢に閉じ込められた他の信者たちにまで、植えつけて来た。身体の自由を奪われ、惨めさと屈辱の中でうなだれる信者に、親たちの行った暴力には目をつぶって、親の言うことに従えと教えるのは、筆者から見れば、文鮮明を「霊の父」とみなし、再臨のキリストとして無条件に従えと教えているのとさほど変わらない。

つまり、村上の反カルト運動は、うわべだけは聖書を利用しているが、断じて、聖書に基づくものではなく、それは断じて、「救出活動」などではなく、村上自身が、強制脱会の対象とされた時に(またはそれ以前から)心に生じた犠牲者としての像(被害者意識、トラウマ)を、他の信者たちにも植えつけるためのはけ口でしかなかったのである。

そうして「救出者」を演じることで、村上は現実を巧みにごまかし、犠牲とされた自分自身の心の痛みから目を背け、自分が心に抱える本当の問題を覆い隠しながら、鬱憤のはけ口を得て来たのである。

そういう文脈で見ると、村上が盛んに「一人」になることに強い抵抗感を示し、人には身近な助言者が必要だ、とか、話を親身になって聞いてくれる人が必要だ、と切々と訴えていることが、誰よりも、村上が未だ自分の生まれ育った家庭によるマインドコントロールの事実と向き合いたくないがために、それを今も「お経」のごとく自分自身に言い聞かせているだけであることが分かる。

親子の関係から出て、一人の個人になった時、あまりにも恐ろしい現実に直面し、世界観が崩壊してしまわないよう、自分は「救出」されたのだ、ありがたい「助言」を受けたのだ、まさか暴力を振るわれたのでも、拉致・監禁されたのでもなく、人権侵害などなかった、と念仏のごとく、繰り返し独り言を唱えているのである。

村上の周りにいる信者たち(カルト被害者)たちも同様で、彼らは「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害などなかった」と、同じ念仏を唱え続けているのである。

自らに対して行われた権利侵害を認めないからこそ、彼らは筆者や当ブログに対して行っていることが、恐ろしい権利侵害である事実も認められない。自分を生きた人間として扱うことができず、自分の感情を殺し、自分の心の痛みから目を背け続けている人間が、他者の痛みだけを真剣に取り上げ、これを理解し、他者を解放することなど、できるはずもないことは明白である。

従って、彼らに出来ることは、ただ一つ、自分を犠牲として来たように、他者をも犠牲にすることだけである。それを「救出」や「解放」と呼び変え、神の福音から人々の目を逸らさせて、彼らの手にかかった人々が、キリストが用意して下さった解放に永遠に至りつけないように、御国への門の前に立ち塞がり、自分だけでなく、周りの人々まで滅びに巻き込んでいることが、この運動の最大の罪である。

<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(16)―生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

11.訴訟費用を払わない他人を非難しながら、自分は賠償金を踏み倒そうとする杉本徳久

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

4月29日午後13時頃、筆者は杉本徳久に債務の支払いを要求するために電話で連絡した。何日か前から連絡していたのだが、ようやく電話がつながると、杉本は「忙しい」とか「弁護士と話す」などの理由にもならない理由で、支払いを拒否、そそくさと向こうから電話を切った。この男の狡い本性がよく分かる会話であった。

ちなみに、杉本がかつて勝訴したHCCの牧師に、通常の訴訟ではあまり請求されることのない訴訟費用を請求し、弁護士の手続きの仕方が不誠実で、支払いが遅い、卑劣だ、とブログでさんざんぼやいていたことは周知の事実だ。

「嘘つきの作った合意書」で、杉本がどんな言葉でHCC側の対応を非難していたか、ここに転載しておこう。

「完全敗訴が決まった後に判決で命じられた「訴訟費用」の支払いについてさえのろのろした上に、その訴訟費用請求申し立て手続きについても実際はほとんど全く使われない手続きであるのにそれが一般的な普通の方法だ、と法律家ではない素人の私に対して嘘の説明をしてきた人物。
 私からは彼らに十分な告知、猶予期間を設けて連絡したが、松下自らの怠惰によって応対が遅れに遅れた揚げ句、自分勝手にこの8月末に支払うと振込期限を一方的に設定。ここまで来ると怒りを通り越して呆れかえってしまう。どうしようもない弁護士であり、司法の担い手に全くふさわしいといえない。人間、ここまで卑しくなれるものとは情けない限り。だ

この言葉はそっくり杉本にお返ししよう。もはや判決から一カ月、十分な告知期間、猶予期間をもうけて筆者は杉本に連絡した。ところが、杉本は自らの怠慢によって対応を遅らせ、身勝手な言い訳を並べるばかりで、筆者が提示したGW明けという支払い期限さえ守る姿勢を見せなかった。

杉本の極度なほどのものぐさ精神と、切手代まで惜しむほどのケチさぶりは、民事調停の時点からすでに見えていたのだが、以上の記事で、HCC側が微々たる訴訟費用を払わないことをさんざん非難していた杉本は、自身が判決から1ヶ月経っても、賠償金をまるごと踏み倒そうとしていることについて、どのように弁明するのだろうか。

ここまで来ると、憤りや情けなさを通り越して軽蔑が残るのみである。人間、果たして、ここまで卑しくなれるものだろうか・・・。筆者は杉本自身の言葉をそのまま彼にお返しする。

杉本はこの記事のコメント投稿欄にもこう書いていた、「榊山清志も、中村良二も、松下泰三も、竹内徹も、みな本当に卑劣で許し難い人たちであると私は思います。 」

いや、卑劣で許しがたいのは自分ではないのか? こうして数多くの他人だけは実名で非難しながら、自分だけは何をやっても許されると言わんばかりに、自分が非難した人々以上の無責任な行為に手を染め、その上、こそこそとブログから名前を消して、幽霊人間にでもなれると思っているのか。

尊大な口ぶりで、他人ばかりを厳しく責めながら、自分は微塵もしかるべき社会的責任を負おうともしない。自分が他者から受けた仕打ちを、ただ自分よりも弱い人間にいたずらに投げ返しては、弱い者イジメにいそしみ、鬱憤晴らしをすることしかできない。

これがこの男の正体なのである。他人には厳しく、自分には甘く、とことん利己的で、子供のように幼稚としか言いようのない身勝手な行動の数々。株式会社メディアテラスと取引することが何を意味するのかをも、読者はよく考える必要があろう・・・。

さて、杉本が弁護士と相談しても、書面を送る先は裁判所以外にどこにもない。むろん、賠償金の支払いの際に、筆者に杉本と合意書など交わす義務がないことは言うまでもないので、杉本の言い分は、単なる時間稼ぎであることは見え透いている。控訴して判決を覆すために戦うつもりがあるなら、とうにそのように意思表示しているはずである。

要するに、自分から本格的に相手と戦うために手間を払いたくないが、不利な判決も認めたくない。どこまでも労力を惜しみつつ、不利な事実から逃げ続けるだけの無責任で卑劣な人間の姿があるばかりだ。

取り立てはこちらの正当な権利なので、今後も、容赦なく実行するのみである。それに従わなければ、杉本の社会生活が、中断せざるを得ないような、合法的かつ正当な法的措置を講じねばならなくなるだけだ。

筆者はあくまで正攻法で行く。だが、正攻法でも相当なことができることは、読者にも知っておいてもらいたい。警察は基本的に、民事不介入であるが、筆者が民事と刑事の二本立てで攻めるのは、ただ処罰を求めるがゆえだけでなく、犯人が逃亡した場合のことを見越しての措置でもある。

先週、筆者は三時間ほども警察の上部とやり取りして、この問題について話し合った。杉本のことだけでなく、村上による権利侵害のことも、掲示板の集団リンチのことも、反カルト脱会運動の人権侵害のことも、何もかも告げてある。告訴事実に記載した内容だけでなく、この紛争がどのような信仰的な意味と背景を持つものであるのかも伝えている。警察からは、しかるべき措置を必ず講じることの約束があり、確かに、天文学的な時間数に渡る労力を払って、上部を呼んだ意味はあると言える会話であった。

今、杉本がこのように極端とも見えるほどの不誠実な態度を見せて、自分が何カ月もかけて関わって来た民事の判決にさえ逆らっているのは、決して偶然ではないと、筆者はみなしている。なぜなら、刑事事件で処罰に至るためには、それなりに超えなければならないハードルがあるからだ。たとえば、不法行為がおびただしい回数、繰り返されており、犯人に反省の意がなく、誠意も見られず、法的・社会的責任を負う能力はあるのに、全くその意思が見られないなど、どうしても処罰しなければならないだけの悪質性が必要となる。

だが、筆者から見て、杉本はそのために必要な要件を見事に満たしつつあるように見える。情けを受ける余地を自分で減らし、行き着くところまで行き着こうとしている。要するに、それほどまでに処罰を望んでいるといことなのであろう。

筆者は2010年から杉本はラスコーリニコフに倣って法的処罰を受けるべきだと主張している。その当時、まだそう言えるだけの明白な根拠は揃っていなかったかも知れないが、時と共に、その予告はますます現実化している。

このように判決をないがしろにすると、刑事事件の進展にも影響を与えるだけでなく、これから始まる控訴審での被告らの印象も、出だしから極めて悪くなる可能性があることは確かだ。それにしても、プロテスタントの諸教会をあれほど居丈高に断罪し、司法・警察を通じて牧師の責任追及を行うよう呼びかけていた男としては、あまりに恥知らずであるとしか言いようがない・・・。

* * *

12.被害者意識をバネに連帯し、御霊に背き、神に逆らう「カルト被害者救済活動」

さて、以下では、筆者のカルト被害者救済活動に対する最終的な決別宣言をかねて、今回、第一審で杉本徳久が出して来た書証の中に含まれていた、2009年に筆者がこの運動と訣別するために杉本に宛てて書き送ったメールを紹介しておきたい。

このメールを長年に渡り、筆者は取り戻したいと願っていた。筆者はこのメールをやり取りした直後、杉本のあまりに常軌を逸したすさまじい憤りの剣幕に、恐れと不快感を覚え、メールを削除してしまった。その後、杉本は筆者の手元にオリジナルが残っていないことを逆手に取るように、筆者の書き送ったメールの内容が、あたかも常識はずれの文面で、高慢で許しがたい内容であったかのように、ブログで一方的に筆者を断罪し始めた。

例の1000件以上のコメントが投稿されて杉本ブログが炎上に至ったバッシング記事から、該当部分の記述を抜き出しておこう。

杉本が筆者のメールの文面を歪曲し、筆者がカルト被害者を冒涜していると非難した記事



 
「10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、
  
 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html
 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。

 また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」
  
筆者はこの当時、オリジナルの文面を残しておかなかったために、具体的な論拠を示して反論することもできないことが、どれほど悔やまれたろうか。

しかし、筆者はその当時から、おそらくこのメールは、必ず杉本側で保存されており、いつか取り戻す日が来るだろうと考えていた。その予想の通り、それから約10年近い時を経て、筆者が杉本に書き送ったメールは、書証という形で手元に戻って来た。

杉本の以上の記事における主張が、いかに嘘に満ちていたかは、以下に挙げる筆者のメールの文面を読めば分かる。

2009年に筆者が杉本とやり取りしたメール
  
      
 
   

「杉本さん

「東洋からの風の便り」を書いているヴィオロンです。

お書きになられたプロフィールから、連絡先をうかがい、メールさせていただいています。

お手数ですが、この度、一つ、お願いがあります。
以下のページにおいて、私が貴ブログに書き込ませていただいたコメント(17)を削除していただきたく、お願いします。

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html
2009年3月26日の記事「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

お手を煩わせないため、できるなら、自分でその作業をしたいところなのですが、
貴ブログでは私自身がコメントを修正することも、削除することもできないようになっています。
管理人様だけが、そのような操作が可能かと思います。

書き込みした本人である私自身が削除を願い出ておりますので、
どうかお聞き届け下さいますようにと願っています。

念のために、不要かもしれませんが、削除を希望する理由を述べておきます。
私はかつてカルト被害者の一人として、キリスト教界の不正を声を大にして訴えるということを自分の使命のように考え、その面から、杉本さんの姿勢にも、しばらく同調・賛同しておりました。

悪事を明るみに出すということは、社会改革のために必要なことであり、正しいことだと思っていたのです。

しかし、ある時、ちょうどパウロがダマスコ途上でイエスの光によって倒されてあように、明確に、神御自身が光となって、私の人生に介在されて、私の過去の被害を全て帳消しにされ、悪事と闘うために人生を捧げる道は、信仰によるものではないことを示されました。

主は、社会改革によっては、いかなる救済も人類にはありえず、ただ十字架だけが私と人々の罪と悪からの救いであることを改めて示されました。
十字架を介さなければ、何を訴えても、無意味であることを示されたのです。

こうして、神ご自身が十字架を通して、私の被害を取り除かれたので、その時点から、私はもはやかつてのようにカルト被害者を名乗ることはできなくなり、また、教界の不正と闘うために、人生を費やしている人たちを心から支持することもできなくなりました。

それまでの私の言動、人生の目的は、御心にかなうものではなかったのです。
ですから、この先、これ以上、私は神への反逆を続けるわけにはいきません。

私はただ神にのみ自分を完全に明け渡し、人々に対して、キリスト教界の悪事ではなく、キリストの十字架について語らねばなりません。

その立場は、私のブログ記事の上ではすでに明らかにしておりますし、今後も、明らかにしていくつもりですが、しかし、杉本さんのブログに残させていただいた私のコメントは、明らかに現在の私の立場と食い違う内容のため、削除しておかねばならないと感じています。

何しろ、貴ブログは、私のブログよりも、百倍以上も社会への影響力が大きいため、たった一つのコメントでも、私のブログ全体を凌ぐほどの影響力になりかねないのです。

最近、このことについて熱心に問い合わせて来られる方があったため、私が、自分から世間に誤解を招く内容の発言を残しておくのはよくないと気づかされた次第です。
そのような理由で、お手数ですが、ご協力いただければ幸いです。

ヴィオロン」

 

* * *

筆者はこの時、神はどんな人の受けた心の傷をも癒すことがおできになり、筆者を力強く「被害」から救い出して下さり、もはや傷のない、完全な新しい人として下さった、という事実を杉本に告げて、反カルト運動および被害者陣営に訣別宣言を出した。

ところが、杉本は筆者が被害者意識と完全に決別し、もはや誰からも憐れまれる必要もなければ、助けの手を差し伸べられる必要のない、完全で新しい人として、杉本らの陣営に別れを告げた行為に猛烈に腹を立て、筆者の考えを「許しがたい高慢」として否定しようとした。

杉本は筆者がキリストにあって「新しい人」とされたどころか、むしろ、カルトの宗教洗脳に陥り、重症の精神異常になっているがために、杉本らの活動に賛同できなくなったのだ、などと、それ以降、本年に至るまで、ネット上で筆者に激しい中傷を向けて来るようになったのである。

だが、そうなったのは、杉本がブログを通して、プロテスタントの福音派を猛攻撃して来たことを見ても分かる通り、杉本自身の心の中に、プロテスタントの教会に対する拭い難い被害者意識が存在したからであろうと思われる。

これは唐沢治、村上密にも共通した心理である。唐沢はかつてキリスト教界から追い出されるも同然にそこを出ており、今や自分たちは従来のキリスト教とは別のものを信じていると告白している。村上密は強制脱会により自らの意思を打ち砕かれてキリスト教に改宗させられた過去がある。そして、杉本もアッセンブリー教団でペンテコステ運動につまずき、それを機に、プロテスタントの全教会に対し、尽きせぬ憎悪と懐疑の念を向けるようになった。

これらの人々は、みなキリスト教の理念と教会に対する根強い被害者意識を持つ人々であり、それゆえ、彼らは教会で被害を受けたとする人々に強く心を惹かれ、自己憐憫の裏返しとして、彼らの被害者意識を慰撫し、彼らを支援しようとしたのだと見られる。

そこに、被害者意識による一大癒着としての要塞が出来上がった。これがキリストが十字架で私たちに約束して下さった自由を告げる神の福音に悪質に逆らう反逆的・冒涜的運動になって行ったのである。

彼らの運動は、カルト被害者を自由にするためでなく、いついつまでも被害者意識の中に閉じ込め、決して「被害者」というステータスから抜け出られないようにし、彼らを「救出」した指導者に栄光を帰する材料とするために利用された。

筆者が杉本に2009年に送ったメールの中で投げかけた言葉、そして、当時、筆者がブログで表明していた信仰は、はからずも、被害者を自称する人々が心に持ち続けている被害者意識が、本質的に神の福音に反するものであり、暗闇の勢力の要塞として利用されている事実を明るみに出した。

そうであるがゆえに、杉本はその指摘に耐えられず、これからも被害者意識に立ってプロテスタントの教会を攻撃したいという思いを手放さないでいるために、筆者の主張に全面的に猛反発を示し、それと共に、神の教会における聖徒の交わりと、神が十字架を通して約束して下さっている解放までも、退けたのであった。

書証の中には含まれていないが、筆者が杉本に依頼のメールを送ってからしばらくして、常軌を逸した剣幕で、筆者を詰問・断罪するメールが、杉本から返信されて来た。そこで杉本は、筆者が杉本とカルト被害者を「冒瀆」しているとか、筆者が「匿名に隠れている」などと非難して、個人情報をすべて開示せよ、さもなくば、依頼には応じない、と筆者をなじっていた。

* * *

 杉本の激昂したメールに対し、筆者は以下のように返信した。


「杉本さん、

とりあえずご返信いただけたこと感謝いたします。

私があなたにお願いしたことは、あえてここで二度目に繰り返す必要もないかと思いますが、以前にあなたのブログに書き込みました私のコメントを削除して下さいという、その一点だけです。

それ以外の点について、私は今、あなたとやり取りをする必要性を感じていません。
またコメント削除のお願いを出すにあたって、私には住所氏名等を相手に明かす義務もありません。

コリントⅡ10:12-18節を参照いただければ、分かりますが、私たちの推薦状はキリストだけです。

「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」

もしあなたが聖霊を受けて、証印を押された主にある私の兄弟であるならば、
私がキリストを信じ、キリストの同じ御霊の証印を受けて遣わされている姉妹であることを
私の証しを通して、そして例によって、おのずから識別するでしょう。

それに加えて、私はあなたのブログに意見することを目的としてメールを出したのではありませんし、また、あなたも、自分のブログに関して、私の意見などをお求めになる必要は全くないかと思います。

なぜならば、杉本さんが本当に主の忠実な僕であるならば、誰の意見を聞くまでもなく、
主が直接、あなたに必要な真理を、御霊を通して、全て教えて下さるはずだからです。

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、
だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。
それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、
あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2;27)

どうか真理の御霊に全てを問い尋ねて下さい。

人の意見などには何の価値もありません。それに振り回されていては何一つ始まりません。

杉本さんが心から主に願うならば、唯一、真実であられる神が直接、あなたに必要なこと全てを教えて下さるでしょう。

さて、杉本さんへの私のお願いはすでに申し上げました。それをもしお聞き届けになるご意志がないのでしたら、それはあなたの判断ですから尊重しましょう。そして、後のことはどうあれ、全てを主にお任せいたしましょう。

杉本さんのために兄弟姉妹と一緒に祈っていますよ。

願うことはただ一つ、あなたがこの先、キリストにとどまられ、キリストの命を失うことがありませんように。

また主の平安があなたにあるように。

ヴィオロン」


 
ここで筆者はあえて議論を避けるために、杉本に対して、真正面から反対意見を述べたり、コメント削除の依頼を強要したり、自分の考えを押しつけるような返答は一切しなかった。だが、杉本はここで筆者が「真理の御霊に全てを問い尋ねて下さい」と書いたことを曲解・悪用し、後にこれは筆者が自らのブログでカルト被害者を「冒涜」したことを認める発言だなどと吹聴、あくまで個人情報を開示せよと執拗に求めた。
 
 


そこで、筆者は以下のように返信した。
 

「杉本さんへ

残念ながら、ネット上では、匿名を保つのが一般常識です。

それは個人のプライバシーを守るために社会的に奨励されていることです。

杉本さんがネット上で住所氏名電話番号まで公開なさるのは、あなたの自由ですし、
また、あなたにはきっとあなたなりの信念があって、あえて公人並の負担を自主的に背負い込んでおられるのでしょうが、

それと同様の負担を、あなたのような作業に従事していないほかの人(=公人ではなく私人)にも同様に求めることいささか行き過ぎていると思います。

特に、ネット上で知り合っただけの人に誰かがあなたに個人情報を明かさなかったからといって、すぐに「匿名に隠れている」という表現を遣って、相手を非難するのは適切ではありません。

というのは、その人は、単に防犯上の必要性から、何の悪意もなく、ただ常識に従って、
そうせざるを得なくなっている場合がほとんどだからです。

しかし、杉本さん、それとは別に、もしもあなたが個人として、本当に、私がどのような人間であるのかを知りたい、

と希望なさっておられるのであれば、
私はいつでも喜んであなたに直接、お会いして構わない覚悟でおりますよ。

大人として、個人として、また主の御前にあって、一つの魂として、恥じることなく、互いに礼儀正しく、あなたが私に対して自分を現し、また私もあなたに自分自身を現すことを願っておられるのなら、私はいつでも喜んでそれに応じるつもりです。

ただし、もちろん、せっかく互いに貴重な時間を使うのですから、できるだけ不愉快にならないように気をつけましょう。

互いに非難をなすりつけあったり、罵り合ったり、まるで興信所か、あるいは事情聴取のように自分の聞きたいことだけを根掘り葉掘り無遠慮に尋ねたり、

ただ互いを断罪し合って終わるというような、不愉快でみっともない邂逅は避けましょう。

それではあまりにも幼稚ですからね。互いの印象はますます悪くなるだけでしょうし、主も悲しまれるでしょう。

夫婦喧嘩は犬も食わぬと言われますが、クリスチャンの痴話喧嘩は蛇の餌食になるだけです。

問題は、キリスト教界の問題について、私たちが意見の一致に至れるかどうか、ではありません。

あなたと私とのやり取りの中から、少しでも、1グラムでも、キリストが現れることができるかどうか、なのです。

その希望があるならば、私は喜んで自分の時間を遣うでしょう。

あなたと私との間にはすでに多くの事柄について膨大な意見の食い違いが見受けられますが、しかし、そのような事柄は、キリストご自身の絶大な価値とは比べようもありませんから、それに比べれば、すべては些末な問題です。

しかし、たとえ杉本さんがそう思われなかったとしても、私たちは互いに大人なのですから、ある程度までは、意見の食い違いを耐え忍ぶことはできるでしょう。

「相手にとって不愉快なことを決して強要したりせず、たとえ話が一致しなくとも、穏やかに話、激昂したり、相手をなじったりしない、互いに良い印象で時間を過ごすことにつとめる」という、ごく当たり前の事柄をごく当たり前に守るということに、杉本さんがもし異論がないのであれば、直接、お会いして、互いに相手を確認する方法が、一番、いいのではないかと思いますが?

もちろん、あなたは忙しい人できっと時間は限られているのでしょうが、犠牲はお互い様です。互いに互いを自分の目できちんと見て、その声を聞き、表情を見て、相手に悪意が無いことを確認し、これなら大丈夫と思った範囲内でのみ、自分を明かす、ということは、世間の常識かと思います。

こんな危険なご時世にあって、その確認ができてもいないのに、何でも自分のことを自分からペラペラ話す人がいたとすれば、それはきっと愚か者だけでしょう。

杉本さんご自身も、ご自分が安全な人間であられることを
いつでも喜んで世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている人であることを願っていますよ!

吉祥寺付近は一度だけ歩いたことがあります。

それでは。」


 
これに対して、杉本からの返信と筆者からの最後の返信が、杉本側から書証として提出されている。


 
 
以下の杉本の返信を読めば、杉本が自分の気に入らない主張に対しては、揚げ足取りのような難癖をつけ、自己の言い分が通るまで、他者の希望を踏みにじり、まるで自分が世間代表であるかのように尊大で上からのもの言いに終始し、それと同時に、極端な自己卑下によって、直接人と対面することへの恐怖心や劣等感を隠そうとしている様子がよく分かるだろう。

自分から相手に個人情報を要求しておきながら、それでは直接、会って話してはどうかと問い尋ねられると、子どものようにこれを突っぱね、自分自身が相手を拒絶しているにも関わらず、あたかもその拒絶が、相手のせいで起こったものであるかのようにかこつける。

自分の欠点を何も見ようとせず、すべて相手のせいであるかのように転嫁し、ひたすら相手だけを責め続けるあまりにも幼稚な駄々っ子のような返答に、当時の筆者も強い当惑と不快感を覚えた。

ただし、杉本のこうした憎悪を含んだ非難の中には、おそらくは、筆者個人に対する反発だけでなく、そもそも御霊によるエクレシアの信徒の交わりそのものへの嫌悪、教会への憎悪が反映していたのではないかと見られる。

杉本はその後も、カトリック教会に通い続けたと見られ、ミサや祝祭日に出席する必要だけは嫌と言うほど強調し、筆者が既存の教会に通わず、日曜礼拝にも出席しない行為を盛んに非難していたが、杉本はこうして形式的な教会生活の重要性を説く代わりに、不思議なほど、信徒の交わりというものの重要性に言及しない。むろん、信徒の交わりだけでなく、神との交わりの重要性についても、全く触れることはなかった。
 

「拝復、

杉本です。

>杉本さんへ、

>残念ながら、ネット上では、匿名を保つのが一般常識です。
>それは個人のプライバシーを守るために社会的に奨励されていることです。

>杉本さんがネット上で住所氏名電話番号まで公開なさるのは、あなたの自由ですし、
>また、あなたにはきっとあなたなりの信念があって、あえて公人並の負担を自主的に背負い込んでおられるのでしょうが、
>それと同様の負担を、あなたのような作業に従事していないほかの人(=公人ではなく私人)にも
>同様に求めることいささか行き過ぎていると思います。

そのような「一般常識」は存在しません。個人のプライバシーを守るために、
個々のユーザーがそうしている事実はありますが、それが「社会的に奨励」されている良識はありません。
公的なもの言いをするのであれば、特に対外的な信頼が落ち、まして、他者への批判を伴うのであればなおのこと、責任が大きいこと。

あなたがもし、同じ事を、英語やドイツ語、フランス語で書き記したとしても、所詮は匿名。学生論文の方がまだ読む価値がある、と判断されるでしょう。

>特に、ネット上で知り合っただけの人に誰かがあなたに個人情報を明かさなかったからといって、
>すぐに「匿名に隠れている」という表現を遣って、相手を非難するのは適切ではありません。
>というのは、その人は、単に防犯上の必要性から、何の悪意もなく、ただ常識に従って
>そうせざるを得なくなっている場合がほとんどだからです。

他人を公然と否定し、罵倒し、内心に至るまで徹底的に扱き下ろしておきながら「匿名に隠れている」あなたに言えた台詞ではないでしょう。

>しかし、杉本さん、それとは別に、もしもあなたが個人として、本当に、私がどのような人間であるのかを知りたい、
>説き某なさっておられるのであれば、
>私はいつでも喜んであなたに直接、お会いして構わない覚悟でおりますよ。

私は特にあなたにお会いしたいと思っておりません。

>大人として、個人として、また主の御前にあって、一つの魂として、恥じることなく、互いに礼儀正しく、
>あなたが私に対して自分を現し、また私もあなたに自分自身を現すことを願っておられるのなら、

匿名に隠れて散々、私や被害者信徒を否定し、独自の珍説を開陳なさるあなたに言えたことでしょうか。

>ただし、もちろん、せっかく互いに貴重な時間を遣うのですから、できるだけ不愉快にならないように気をつけましょう。

あなたの「貴重なお時間」を私ごときのつまらぬ人間のためにお使い下さらなくて結構です。

>問題は、キリスト教界の問題について、私たちが意見の一致に至れるかどうか、ではありません。
>あなたと私とのやり取りの中から、少しでも、1グラムでも、キリストが現れることができるかどうか、なのです。
>その希望があるならば、私は喜んで自分の時間を遣うでしょう。

あなたとの対話の上には、私に限らず「どなたであれ」、それが現れる希望はないでしょう。

>「相手にとって不愉快なことを決して強要したりせず、たとえ話が一致しなくとも、穏やかに会話し、
>激昂したり、相手をなじったりしない、互いに良い印象で時間を過ごすことにつとめる」という
>ごく当たり前の事柄を当たり前に守るということに、
>杉本さんがもし異論がないのであれば、直接、お会いして、互いに相手を確認する方法が、
>一番、いいのではないかと思いますが?

 そういうことはあなたが中学生の先生にでもなって、子どもに教えて差し上げれば良いでしょう。私はあなたのクラスの生徒ではありません。

>もちろん、あなたは忙しい人できっと時間は限られているのでしょうが、犠牲はお互いさまです。
>互いに互いを自分の目できちんと見て、その声を聞き、表情を見て、相手に悪意が無いことを確認し、

 私ごときのためにあなたの「犠牲」をお払いいただくことは必要がありません。また、あなたに悪意が無いとも私には到底、思われません。

>杉本さんご自身も、御自分が安全な人間であられることを、
>いつでも喜んで世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている人であることを願っていますよ!

 私が危険な人間だ、と思っている、と思いたいのであればどうぞご自由に。
 
 あなたと対話することは、「世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている」ことに繋がることはありません。

 私と直接会いたいという方は他にもおりますが、基本的にお受けしておりません。

 自分の名を売るためにやっていることではありませんし、目立ちたいとも思っておりません。

 あなたからは、一切、謙虚な心が感じられません。そのままであれば、私に限らず、これからも多くお人から拒絶されるであろうと思われます。

 

杉本はこの時、筆者の提案をことごとく拒絶することによって、おそらくは、聖徒の交わり、御霊の交わりそのものを拒絶したのではないかと見られる。杉本はそうなる前から、プロテスタントのキリスト教会、とりわけ聖霊派の教会を嫌悪・憎悪していたが、この時、決定的に御霊の導きに背を向けて、自分をあらゆる被害者意識から解放することのできる神の福音に背を向けてしまったのではないかと見られるのだ。

それにも関わらず、杉本は、拒絶されているのは筆者であって、自分ではないかのように置き換え、自分自身が神に心を閉ざし、教会にも、聖徒らにも、すべての者に心を閉ざしている疑心暗鬼から来る苦しみを、何のいわれもなく筆者に転嫁しようとしたのである。

それでも、筆者はこの時、杉本の返答に対して厳しい非難の応酬をすることはなかった。 

「杉本さん、

このようなお返事をいただき、とても残念です。

お会いしても構わないということは、あなたが私が何者であるかを予め確認したいと最初におっしゃられたのであえて勇気を持って申し出たことです。

氏名住所電話番号を聞いても相手の人柄は分かりませんが、直接、面と向かって対峙すれば、かなりの程度のことが理解できます。

そうして、顔と顔を合わせて互いに自己紹介して、知り合いになることは、声のないメールだけのやり取りに比べ、人間の出会い方としてはよほど自然です。

しかし、杉本さんにそうされたいご希望がないのであれば、別にそれは結構です。

私は主にあって多くの兄弟姉妹と交わりの機会を得させていただいています。
ネット上でもどれほど多くの貴重な友を得てきたかはかりしれません。

キリスト者は「私の名ゆえにすべての人に憎まれるだろう」とはっきりとイエスによって
聖書で迫害が予告されているとはいえ、しかしながら、今、多くの兄弟姉妹との
優しい愛情の絆を主にあって結ばせていただいているのは、ひとえに恵みとあわれみに
よるのです。また、このつながりは永遠です。

杉本さん、お怒りなのは十分に伝わってきますし、お怒りになるのもあなたの自由ですが、
それにしても、いつでも、火に油を注ぐような結果を招かないために、もう少し冷静になって、
言葉を抑えられた方がよろしいかと思います。

あなたのような方に今のような言葉はふさわしくありません。
見ず知らずの相手に対しては、特に、たとえ好意を持てない相手であっても、
言葉を選んだ方が、あなた自身の御評判と将来を守ることにつながるでしょう。

(おそらく、今のあなたは私のこの言葉さえも悪意という風に解釈されるでしょうが…。)

あなたに主が御顔の光を示してくださり、ただ主ご自身が真実が何であるかということをあなたに見させて下さいますように。

そして、平安があなたに戻りますように。

それでは、これにて失礼します。

ヴィオロン」


  
杉本は筆者がこのように最後まで杉本と議論の応酬を避けたことが、よほど気に入らなかったのであろう。筆者を恐怖させるか、取り乱させるかを目的に、以上のメールを送ったのに、筆者が非難の応酬に応じなかったことに怒りが収まらなかった杉本は、筆者にさらに打撃を与えようと、筆者が上記のメールを返信した直後に、筆者と当ブログだけを標的に、1千件のコメントを伴うバッシング記事を発表した。

それ以来、エクレシアの兄弟姉妹の一員でもなければ、信仰の仲間でもない杉本が、あくまで個人情報を開示せよと、ナンセンスな要求を続け、筆者を異端者と呼んで、長年に渡る不毛かつ不快な関わりを強いて来たわけであるが、そのような不毛な応酬の結果、筆者は現在、間違っても、二度と杉本に対して、上記のような忌憚なく本心を打ち明けたメールを送ろうとは思わないし、杉本を兄弟姉妹の一員として和解を呼びかけることもない。

杉本にふさわしいのは、もはや呼びかけではなく、命令であり、提案ではなく、強制である。しかし、このような地点に至るまでに、筆者自身も、幾度となくためらい、悩み、様々な策を講じたのであるし、杉本にも、幾度も引き返すチャンスが与えられた。

判決が言い渡された後も、杉本は望むならば、自分からメールを送って、支払い方法を相談することも可能であり、差押通知が来た時点で、そうすることもできたのである。

しかし、杉本は自分が人間らしく、思いやりと配慮を持って扱われるための前提条件を自ら破壊し続けた。

そこで、今、杉本に残ったふさわしい呼びかけの言葉は、杉本自身が幾度となく、年末年始やGW中に筆者に送りつけて来た恫喝メールの調子を、そっくり返した債務取立の文面、「ゴールデンウィーク明けまでに債務の支払いなき場合」くらいであろう。

こうして呆れるほどに長い、無益なエクソダスの行程の果てに、2009年以来、筆者が主張していたカルト被害者救済活動との訣別はようやく成し遂げられた。

筆者は二度と「カルト被害者」を美化したり、彼らに寄り添おうとは思わない。むしろ、これから、聖書に反するこの運動に対する裁きが始まると考えている。「被害者」という美名に隠れて、神の聖なる教会を容赦なく断罪した人々には、どんなに厳しい裁きが下されるであろうか。人は自分自身が他人を裁いて来た基準で、自分自身も裁かれることになるのである。
  
もう一度、冒頭に挙げた御言葉を繰り返しておく。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(15)―わたしのために、罵られたり、迫害されたり、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするときは幸いです。

10.村上密ら牧師による強制脱会活動の手口と、当ブログに対して行われた権利侵害の類似性

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

さて、一つ前の記事では、村上密その他の牧師が率いたカルト宗教からの拉致・監禁という暴力を伴う脱会運動の犠牲者になった統一教会の信者の手記を紹介した。

これを読めば、この暴力を伴う脱会運動で使われた手口が、筆者に対して、村上密・杉本徳久および掲示板の投稿者らによって行われて来た集団的な権利侵害の手法に非常に酷似しているという印象を持たれた読者も多いのではないかと思う。

ただし、前の記事で引用した統一教会の信者の手記の内容を見ても分かるように、こうした一連の人権侵害を伴う強制脱会活動の中で、村上は、自分は提訴されることがないよう、人権侵害に直接関与した証拠を残さないよう巧妙に立ち回って来た。従って、村上自身はこうした強制脱会活動のために提訴されたことはないはずである。

しかし、信者を奪われた統一教会側からは、村上以外の牧師たちに対し、反撃のための提訴が行われた。しかも、当初は、拉致・監禁による信者の脱会活動の暴力性を訴えた裁判は、反カルト運動を率いる牧師や信者の親族らによって、「親子関係の問題」にすり替えられ、敗訴に終わるケースが多かったようであるが、近年、拉致・監禁による脱会活動に対する世間の目は、より厳しくなり、「親子関係」や、「カルト宗教によってマインドコントロールされた信者の救出のため」などという名目では、もはやごまかせず、そんな理由で人権侵害は容認されないという方向へ転じた様子が伺える。

実際に、村上以外の強制脱会活動に関わったキリスト教の牧師や、これを手伝った「職業的改宗活動家」に対しては、拉致・監禁によって信者にPTSDを発生させ、社会復帰を不可能にしたとして、2千万円を超える賠償命令が出された例もある。

統一教会の公式ホームページに以下の記事が掲載されている。筆者はキリスト教徒として、統一教会の理念に賛同することはできないが、それでも、筆者もまた信教の自由を擁護する者の一人として、キリスト教の牧師を名乗る者たちが、「カルト宗教からの信者の救出」という美名の下に、こうした人権侵害を容認して来たことは、あるまじき所業であり、全キリスト教徒は他宗教の信者に対して、牧師らが行ったこの忌まわしい暴力行為から目を背けるべきではないと考えている。
 

後藤徹氏の控訴審で勝訴判決! 被告らに2200万円の賠償命令
2014年11月14日

11月13日(木)午後2時半から、東京・霞が関の東京高等裁判所で、「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」の後藤徹代表が、自身に対する拉致監禁・棄教強要に関与した親族や新津福音キリスト教会の松永堡智(やすとも)牧師、職業的改宗活動家の宮村峻(たかし)氏などを相手取って起こした民事裁判の控訴審判決が言い渡されました。

裁判長は、拉致監禁の事実認定について後藤代表の主張をほぼ全面的に受け入れ、一審被告である兄夫婦と妹の3人に対して総額2200万円の支払いを命じるとともに、同じく一審被告である宮村氏に対しては、上記損害のうち1100万円を、また松永牧師に対しては同440万円を連帯して支払うよう命じました。

 東京高裁は判決で、後藤代表が1995年9月、都内の実家からワゴン車に乗せられて新潟市内のマンションに拉致されて以降、2008年2月に東京・荻窪のマンションから解放されるまでの約12年5か月にわたり、「監禁」ないし「行動の自由の違法な制約」がなされていたと認定。

 その上で、松永牧師については、後藤代表の家族の違法行為を「黙認」「鼓舞」したばかりか、「(後藤代表の)自由を制約して脱会の説得をすることを幇助していた」と判断しました。

 また、宮村氏についても「(後藤代表の)拘束について、これを理解した上で幇助していた」とし、さらに松永、宮村両氏は後藤代表に対して、統一教会の信仰を棄てることを強要していたとして、「共同不法行為責任を負うべきである」と言明しました。

 今回の控訴審判決は、賠償金額以外の点では極めて公正妥当な認定判断を行い、拉致監禁、脱会強要活動を断罪したもので、信教の自由の観点から高く評価できるでしょう。これまで、統一教会信者に対する拉致監禁、脱会強要活動に対して、「親子の話し合い」なる弁明を採用してその違法性を減殺しようとする判決もありましたが、今回の判決によって、今後は、こうした弁明は一切通用しなくなることでしょう。

 後藤徹代表のコメント

 「31歳から44歳までの12年5か月にわたり、同じ天井と壁を見るだけの毎日でした。最後の約10年間監禁されていたのは、表の通りをたくさんの人が行き来する東京・荻窪のマンションでした。現在の日本においてこのような事件が実際に起こるとは最初の頃は信じてもらえませんでしたが、一審判決を経て、今回、より一層踏み込んだ判決を得ることができました。松永、宮村両氏から徹底的に教育され、焚きつけられた結果、家族は長期間の監禁事件を引き起こしたと考えています。こうした犯罪が過去50年近くにわたって行われ、約4300人が被害を受けてきました。中には、自殺に追い込まれた女性や、マンション6階から逃げようとして地面に落下し瀕死の重傷を負った男性もいます。私の裁判を通して、そのような現実を一人でも多くの方々に知って欲しいと思います
<後略>


カルト宗教の信者であろうと、いかなる宗教の信者であろうと、他宗教の信者であることを口実にして、キリスト教の牧師らが人権侵害を正当化するなど、もっての他であることは言うまでもない。もちろん、そんな教えが聖書によって容認されるはずがないのは明らかなので、そうした所業に手を染める牧師が、正統なキリスト教の教えに立っていないことも言うまでもない。

だが、筆者こうした事例を引き合いに出すのは、筆者自身が、村上の支持者によって「カルト宗教の洗脳を受けた信者」「マインドコントロールされた信者」「異端者」などに仕立て上げられ、インターネット上で激しいリンチのような攻撃を受けて来た事実があるためである。

むろん、拉致・監禁による他宗教の信者の強制脱会活動と、当ブログを巡って起きた権利侵害を、すぐさま同一視することはできない。筆者自身は直接的な暴力を振るわれたことはなく、監禁されたわけでもなく、インターネット上で寄り集まって当ブログに対して日夜権利侵害に及んでいる人々の間に、どのような共謀関係が成立しているのか、という点も、未だ明らかにされてはいないからだ。

とはいえ、その点を措くとしても、当ブログを巡って、村上密自身と、村上を支持する人々の側から、インターネット上で、日夜、激しい権利侵害が集団的に行われて来たことは、紛れもない事実であり、その有様は全体として見ると、不思議なほど、反カルト運動の強制脱会の手口に酷似していることに驚かざるを得ない。
 
いわば、反カルト強制脱会運動をインターネット上で実施したものが、当ブログに対して行われた権利侵害だと考えると非常に理解しやすいのだ。
 
当ブログに対するインターネット上のバッシングの発端は、2009年夏に村上密が筆者を非難するために発表した記事にある。

筆者は村上と同じ教団で幼少期から信仰を持ったが、2008年に他教会で起きたトラブルの相談のために、村上の教会を訪れ、解決を得られなかったことをきっかけに、村上の活動それ自体に疑問を持つようになり、2008~9年にかけて、村上の唱えた「カルト監視機構」の構想を検証して批判し、かつ、甲師の物語を発表して、村上ら牧師が行って来た強制脱会運動の問題点を明るみに出した。
 
ると、2009年7月に早速、村上自身がブログ上で、筆者に対する2つのバッシング記事を発表し、これがその後、長年に渡って続くネット上の当ブログへのバッシングの引き金になったのである。

これらの記事で、村上は筆者の指摘した「カルト監視機構」の反聖書性という問題にはほとんど言及することなく、むしろ、カルト監視機構は設立されていないため、筆者の記事は「誤報」であると非難し、さらに、筆者は「交流の少ない所で生活」しており「情報はインターネットが頼り」であると決めつけ、筆者は「話題作り」のための「創作」として「甘っちょろい空想」を述べ、「あなたの世界を形成」しているだけであって、なおかつ、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」をしているだけであると決めつけ、筆者が実名を公表せずにブログを執筆している行為を暗に非難していた。

こうした村上の記述は、当初から、あたかも筆者が精神不安定な状態で、引きこもり生活を送り、非現実的な独自の世界観に基づく根拠のない空想を述べているだけであるかのような、事実に反するイメージを読者に抱かせる狙いがあったと言えよう。

要するに、村上は筆者の論に真正面から反論する代わりに、筆者が精神的に不安定な状態にあるかのように示唆する、筆者に対する人身攻撃とも受け取れる印象操作を行うことによって、村上は自分の活動を批判した筆者の論の信憑性を読者に疑わせようとしたのである。

だが、こうした記述は、単なる印象操作にとどまらず、村上自身の願望を反映したものであったように感じざるを得ない。

つまり、おそらくはこの時点から、村上は自分の活動に反対する筆者を、あたかもカルト宗教に入信した信者と同じように、「危険思想の持主」であるとみなし、それゆえ、筆者に考えを改めさせる必要がある、と認識していたのではないかと思われる。
 
そこで、村上はできるならば、筆者が「誤った考え」をことごとく捨てるまで、実際に筆者を自由の制限された、「交流の少ない所で生活」させて、偏った一方的な情報しか受けられない状況に置き、再教育を施さねばならない、という危機感を持ち、これを願望として、以上の非難の中に込めたのではないかと疑われるのである。

その疑惑は、村上の批判がその後、杉本徳久にバトンタッチされて、どのように受け継がれ、発展させられて行くかを見れば、より深まって行く。
 
村上がこうした記事を発表した直後から、杉本徳久からの筆者に対するバッシングが始まった。(杉本は以前には村上を偽預言者と同列に置いて非難していたが、その後、立場を翻し、カルト被害者を助ける牧師が他にいないという理由で、村上の活動を支持するようになった。)
 
次の記事にも杉本のメールを示す通り、2009年11月、村上の活動に疑問を抱いたことをきっかけに、筆者はカルト被害者救済活動そのものと訣別したいと考え、その意思表示を行って、杉本のブログにかつて投稿した1件のコメントを削除してもらえるよう依頼すべく、杉本に宛ててメールを送った。

しかし、杉本は筆者の依頼に激怒して、これを拒否したにとどまらず、筆者が「匿名に隠れている」と非難して、筆者に個人情報を明かすよう執拗に要求し、筆者がそれに応じないことにさらに激怒し、また、筆者が「エクレシアの兄弟姉妹との交わり」の中にいるとメールに記していたことに、とりわけ強い不快感を示し、「あなたからは、一切、謙虚な心が感じられません。そのままであれば、私に限らず、これからも多くの人から拒絶されるであろうと思われます。」などと書き送って来たのである。

杉本のメールの文面は次の記事に掲載する通りであるが、このメールをやり取りした直後に、杉本が筆者をバッシングするために発表した一連の記事で使われた非難の言葉を見ると、杉本の筆者に対する非難は、村上の主張を土台とし、これをさらに発展させて、筆者を中傷するものであった様子が伺える。

一例を挙げれば、

村上「創作」、「誤報」、「甘っちょろい空想」
⇒杉本「妄想」、「思い込み」、「作り話」、「市井の良識から外れた文面」

村上「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」
⇒杉本「匿名に隠れている」

村上「交流の少ない所で生活」、「情報はインターネットが頼り」
⇒杉本「まともな職に就けず」、「社会的受容を受けられず」

村上「あなたの世界を形成」
⇒杉本「「現実と妄想の区別がつかない」、「精神疾患」、「人格障害」、「宗教洗脳」
 
杉本による当ブログへの非難は、約10年間ほど続けられ、その間、杉本は幾度となく、筆者が杉本にとって不都合な言動をやめなければ、筆者の個人情報を公開すると脅しつける内容のメールを送って来た上、2016年頃からは、筆者を刑事告訴すると予告、さらにその非難の内容は時を追うごとにますますエスカレートして行き、ついに2017年頃には、次のような記述により、筆者の信念をあからさまにキリスト教の異端であると決めつけては、筆者はカルト宗教による重症の宗教洗脳(マインドコントロール)を受けて、現実と妄想の区別がつかなくなり、社会生活を送れない重症の精神障害に陥っているかのように、事実に反して決めつけて誹謗中傷するようになった。

「まともな職にも就けず、強い孤独感、孤立感に苛まれ、社会的受容を受けられず、職業的自尊心も持てない現状に、ヴィオロンが苛立っていることに起因している。キリスト教的な異端新興宗教を次々に吸い込み、極限的に妄想を募らせた結果のことであった。」

むろん、こうした記述が、一審で名誉毀損と認められ、賠償命令が下される対象となったことは言うまでもないが、筆者はこうした杉本の記述のすべては、杉本一人の思いつきというよりも、それ以前から、強制脱会活動に携わって来た村上の願望を杉本が代理で言い表したものであるように感じられてならない。

2009年に村上は筆者に対する非難記事を掲載したが、その記事の反響を見て、牧師としての自分が直接、信徒を非難することは自分にとってマイナスイメージになると考えたのではないか。そして、本当は自分自身がバッシング記事を掲載したかったが、同じ頃、杉本が折よく筆者と対立し、次々と筆者を非難する記事を投稿するようになったので、村上はこれ幸いとばかりに沈黙を決め込んでいただけではないかと見られる。
 
筆者から見ると、杉本が表明した当ブログへの非難は、あらゆる点から見て、村上の願望を代理として言い表したものでしかなく、杉本は村上の願望を忖度してこれをかなえるためにこそ、当ブログや筆者に対して敵対的に行動し、一連の人権侵害に及んで来たとしか思えないのである。

もしも杉本と村上との間に何の協力関係もなく、杉本による権利侵害が、杉本が単独で行ったものであるならば、村上が未だに自らのブログで、一度も杉本に対する判決を明らかにせず、杉本の不法行為を非難していないことはおかしい。

もっと解せないのは、杉本が一審判決により口を封じられたことを機に、その後、2009年以来、当ブログに対して沈黙を守って来た村上が、いきなり10年来の沈黙を破って、直接、筆者に対する権利侵害に及び、筆者を糾弾し始めたことである。

この他にも、たとえば、杉本は筆者を刑事告訴すると言いながら、結局、告訴状の提出にも至らなかったが、その後、村上は、筆者を刑事告訴したなどと記事で発表している。この点においても、実は、筆者を誰よりも刑事告訴したかったのは、杉本ではなく、村上本人だったのではないかと考えられずにいられない。つまり、筆者から見れば、杉本は村上の願望を忖度して行動していただけなのである。

そう考えると、杉本が筆者に「異端宗教にマインドコントロールされて現実と妄想の区別がつかなくなった信者」であるかのような濡れ衣を着せ、筆者が社会生活が送れない状態にあるかのように触れ回り、筆者を精神的に追い詰め、まるで自殺させることが目的であるかのように、ひたすら名誉毀損行為を続けたのは、先の記事で見たように、村上ら強制脱会活動家の牧師たちが、カルトに入信した信者らを「救出(脱会)」させるという名目で、アパートの密室に拉致・監禁し、カルト宗教における集団生活から引き離しただけでなく、社会生活からも引き離し、自分たちに都合の良い一方的な情報だけを与え、自由を奪って棄教を迫りながら、延々と叱責や説得を続けた行為を彷彿とさせる。

ちなみに、筆者は過去に異端の宗教に入信したことは一度もなく、筆者がかつてカルト被害者という言葉を口にしていたのも、ただ単に牧師による行き過ぎたワンマン運営が行われるプロテスタントのカルト化教会でトラブルに遭遇した事実を指すために使っていたに過ぎない。

筆者は幼い頃から一度もキリスト教以外の宗教を信じたことはなく、カルトに入信していた過去もないため、誰かから「異端者」と決めつけられねばならない理由もなければ、説得工作の対象とされる理由もない。そして、筆者は生粋かつ本物のキリスト者であるから、どのような試練を受けとしても、聖書への信仰を捨てるつもりはない。

しかしながら、その生粋かつ正真正銘のキリスト教徒を自認する筆者でさえも、村上ら強制脱会活動家の牧師らによる人権侵害を伴う脱会工作には、絶対に賛同することはできず、かえって統一教会などの他宗教の信者の人権を擁護せざるを得ない。そして、ついに統一教会に入信していたわけでもない筆者までも、村上の支持者によって、統一教会の信者らと同じように「キリスト教の異端新興宗教」に次々と入信しては誤った道を歩いて来たカルト信者であるかのように仕立て上げられたのであるから、こうなってはもはや筆者が強制脱会活動家を擁護する理由は何もない。

マインドコントロールの第一段階は、信者が入手できる情報を、一方的で限られた内容に絞り、それ以外の情報から遮断して、信者自身が情報を取捨選択したり、様々な情報を比較しながら、何が真実であるかを検討することができないように仕向けることにある。

信者を長期に渡り、密室に監禁し、脱会活動に関わる牧師たちや、その影響を受けた親族の言い分以外に情報が入って来ない環境に置くことは、信者が自分自身で物事を客観的かつ公平に判断するための前提条件を奪い去って、マインドコントロールを成し遂げるための第一歩である。

強制脱会活動家の牧師たちは、カルト宗教のマインドコントロールを解くとい名目で、信者を不自由な環境に束縛しておいて、その環境を利用して、今度は、自分たちが彼らにマインドコントロールをしかける側に回った。

以上の記事では、脱会活動家の牧師たちが、信者に「誤った信念」を捨てさせるために、10年以上もの間、密室に監禁し、限られた情報しか与えず、仕事にも就かせず、社会から隔離し、ついには精神を病んで社会復帰も不可能になるほどまでに追い詰めていた事実が確認できる。

まさに形態は違えど、村上とその支持者から、当ブログに対して約10年間にも渡り、しかけられた誹謗中傷を彷彿とさせるような話ではないか? 

つまり、筆者から見れば、杉本は村上を支持し、村上の意向を忖度して動いていたとしか思えないのだが、その杉本が、筆者があたかも「カルト宗教の重症のマインドコントロール」に陥っている信者であるかのように見立てて、ネット上で激しくバッシングしていたのは、彼らの側が、筆者の信念を「誤った考え」とみなし、筆者がこれを捨てるか、もしくは筆者が「棄教」に応じない場合には、その懲罰として、筆者から社会生活を奪い去る目的で、激しい誹謗中傷という「説得工作」を行っていたと見られてならないのである。
 
幾度も述べた通り、筆者にはとてもではないが、以上のような虚偽に満ちたストーリーを杉本が単独で思いついたとは思えないのである。また、当時、杉本ブログには、筆者に向かって「聖書を捨てよ」と呼びかけるコメントも多数、投稿されていたことを見ても、彼らの投稿は、単なる中傷を目的としたものではなく、筆者に聖書に基づく自己の信念を捨てさせることが目的であった様子が伺えるのである。

こうしたネット上のバッシングは、筆者から見て、まさに強制脱会活動家らが、互いに権利侵害に加担している証拠が残らないよう巧みに立ち回りながら、その裏で情報交換を行い、計画的に話し合いながら、「異端者」とみなした信者を社会生活から引き離し、密室で「誤った信念」を放棄するよう、長期間、懺悔や「棄教」を迫るための人権侵害を伴う説得を繰り返していた様子を思い起こさせるものである。
 
彼らの当ブログと筆者に対する「脱会工作」(とあえて呼ぶ)は、今年に入ってからは、特に苛烈を極めた。杉本ブログが一審判決によってとどめを刺されてからは、今度は、誹謗中傷の舞台は村上ブログと掲示板に移り、掲示板では、見も知らない投稿者が、朝から晩まで絶え間なく寄ってたかって集団で、筆者に対する誹謗中傷のコメントを書き連ね、筆者に「誤った信念」を放棄し、村上・杉本陣営に降伏して「棄教」するよう求めた。

そうした投稿はすでに数千件に達しているが、その中には、筆者がジャンヌ・ダルクをきどっているとか、王妃エステルを自称しているだとか、ありとあらゆる方法で、筆者の信念を嘲笑・誹謗することで、杉本・村上の行為を悪事として訴えている筆者が、自らの考えを放棄して、訴えを投げ捨てるよう要求する容が記されていた。

こうした出来事は、筆者から見ると、まさに強制脱会活動家らが、信者を24時間密室に監禁して監視し、そこで絶え間なく信者の考えを誤りであると決めつけては論破しながら説得工作を行っていた様子に酷似するものである。

24時間、まるでラウドスピーカーでがなりたてるがごとくに、一人の信者に対して、「誤った信念」を捨てるよう、罵倒や叱責や嘲笑や非難の言葉をひたすら浴びせ続けるのである。とてもではないが、こうした出来事が偶然に起きうるものだと考えることはできないし、そう考える人もおそらくないのではないか。必ず、仕掛け人がおり、計画的に行われたことであるとみなさざるを得ない。
   
彼らが集団で信者を追い詰めたやり口は、以上に挙げた以外の観点から見ても、強制脱会活動の手法に非常に酷使している。

2017年以後、杉本は筆者のみならず、筆者の親族まで、ブログにおいて揶揄や中傷の対象とし始めたが、掲示板でも同様に、盛んに親族関係を利用した誹謗中傷が起きた。強制脱会活動においては、家族を巻き込んで大々的な人権侵害を行い、信者に心理的プレッシャーを与えて棄教を促すことが定石となっていたことはすでに確認した。

その他、先の記事にも書いたように、筆者の裁判を支援してくれているように見えたカルト被害者たちも、判決と同時に態度を翻したことを考えると、彼らも表向きには村上を批判しているように見えたが、実際には、そうでなかった可能性も考えられる。

先の記事で挙げた手記でも、強制脱会を行う牧師らは、元脱会者や元信者の家族を手先として利用しながら、新たにターゲットとする信者の情報を引き出し、信者を追い詰めていた事実が確認できるのである。
 
また、この他にも注目される点は、2010年頃から筆者は杉本の行為を嫌がらせとして警察に相談を行っていたが、杉本は筆者が警察に助けを求めたことにとりわけ強く反発し、筆者の被害相談を「狂言」だと決めつけて嘲笑していたことである。

2017年以降、杉本は次のような内容を次々と記事に書いた、「(ヴィオロンは)神奈川県警に「被害相談」をしたが、全く担当刑事に相手にされず事件として調べてもらうことさえ叶わずすぐに門前払いになっている。」「神奈川県警に「被害相談」をしたものの、頭がおかしい狂言と扱われ門前払いを受けた」「「迷惑行為」の張本人こそ彼女であって、彼女にはその自覚と認識が皆無である。」 

杉本のこのような記述は、強制脱会活動家の牧師たちや、その手先となった家族らが、拉致・監禁した信者が警察に助けを求めても、かえって信者自身が「精神異常者」ではないかと疑われ、「頭がおかしい狂言」とみなされて相手にされないよう、計画的に振る舞っていた様子を思い起こさせる。

実際に、杉本はこうした記事の発表により、筆者が精神異常に陥っているかのような虚偽のプロパガンダを流布するのみならず、筆者に先んじて、警察官らを自分たちの側に取り込むべく、筆者を中傷する準備書面などの裁判資料を、神奈川警察署に大量に送りつけていたことも判明している。

むろん、杉本は、筆者が司法の場を利用して、紛争解決を試みた際にも、筆者の訴えが虚偽であるかのように見せかけるために、筆者をしきりに精神異常者であるかのように吹聴する記事を大量投稿した。

それらの記事において、杉本は筆者が「司法制度を理解していない」と決めつけ、「ヴィオロンの調停申立書の内容は初めから最後まで意味不明の宗教論、神学論で溢れかえっており、法的な意味は全くない」とか「事実と妄想との区別がつかない彼女の文章」、「一読しただけではったりの虚偽がいくつも混じっていることはわかる」などと決めつけ、筆者の訴えが決して世間の人々に真面目に受け止められることがないよう、あらん限りの言葉で罵倒・嘲笑した。

さらに杉本は、「もちろん、警察官も裁判所書記官も公務員であるが、いざとなればこうして罵り続けてきた「公務員」に助けを求める。」などと、そもそも筆者が警察や裁判所に助けを求める行為自体が、あるまじきものであるかのように非難し、筆者が自分の人権を守ろうと手立てを講じる行為を徹底的に罵倒、否定したのである。

また、杉本は筆者の人権意識そのものが誤りであると決めつけ、「彼女にとっての人権感覚や規範意識は、21世紀の現代国家に相応しいそれではなく、ヴィオロンの脳内のみに通用する空想ユートピアの規範に準拠しており、市民社会の秩序に沿っていない。」とか、「そのような空転した脳内の事実を妄想ではなく現実だと本気で信じ込んでいる点がヴィオロンの洗脳状態を如実に物語っている。」などとして、筆者は「カルト宗教の洗脳」のために、物事の正常な判断がつかなくなって、無意味な騒ぎを起こしているだけであると徹底して中傷した。

こうした記述は、むろん、名誉毀損に相当するのだが、そのことをさて措いても、これはまさにカルト宗教から信者を拉致・監禁によって奪い去った強制脱会活動家が、自らの人権侵害を覆い隠すために、信者を「精神異常者」に仕立て上げた手口とそっくりではないか?

気の毒なことに、何カ月、何年間、もしくは10年以上もの長期に渡る監禁生活の中に置かれた信者たちの中には、その後遺症のために、当初は健康かつ正常であったのに、重症のPTSDを発症したりして、まさに強制脱会活動家の牧師らの望む通りに、社会生活が送れなくなった人々も存在する。もちろん、脱走に失敗して後遺症を負ったり、自殺した人々もいることは、以上の記事に記されている。

筆者も、もしも筆者以外の人間が、筆者と同じ状況に置かれ、これほど激しい人権侵害を伴う「説得工作」を毎日のように受ければ、おそらく2日程度で命を絶つだろうことを疑わない。だからこそ、筆者は実名で裁判に及んだ経験のあるカルト被害者に対しては、無責任に陰口を叩くだけで終わらず、自ら村上ら牧師を告発すればどうかと提案しはするものの、それ以外の無関係の人々に対しては、筆者と同じように告発に及ぶことは、決して勧めないのである。

このような試練は、よほど強力な信仰があって、覚悟のできた人間でなければ、立ち向かうことのできないものである。そして、筆者は信仰によって準備が出来たので、これに立ち向かうと決めたが、それに際して、誰もこの嵐のような中傷に巻き込まれたり、精神的に人質にされたりすることがないよう、あえて戦略として一人でこれに対峙することとしたのである。

(*むろん、この試練を通過すれば、神は筆者の人生に多くの仲間や兄弟姉妹など神の家族を返して下さるであろうが、今のところ、筆者は誰もこうした中傷に巻き込まれることがないよう、周囲の人々に対して相当な配慮を払っている。)

もう一度言うが、筆者は自分を敬虔かつ筋金入りのキリスト教徒とみなしているが、以上のような人権侵害に及ぶ強制脱会活動家の牧師たちが、本物のキリスト教徒であるとは断じて考えていない。

彼らがキリスト教徒を名乗っているのは、うわべだけの偽装に過ぎず、彼らの活動の真の目的は、あらゆる宗教に対する迫害、とりわけ、キリスト教に対する迫害を行って、教会と信者に打撃をもたらすことであり、彼らの活動の本質は、聖書の神に逆らう悪魔的運動であると、筆者はかねてより主張している。

彼らは自分たちの信念があたかも正しいキリスト教信仰であって、カルト宗教にまさるものであるかのように考えているようだが、実際には、カルト的信仰を振りかざし、信者にマインドコントロールを施しているのは、まさにこれらの強制脱会活動家の牧師たちの側なのである。

そして、彼らは巧妙に人権侵害の証拠や共謀関係の証拠が残らないように、手先となる信者を矢面に立たせ、自分たちは多くの場合、陰に引っ込んでいるが、筆者はネット上で行われた集団リンチのような中傷も、強制脱会活動家の強い影響の下で行われたものであることを疑わない。
 
いわば、神の教会と信者に打撃を与え続けて来た本物の「異端者」とは、これら強制脱会活動家たちの方なのである。「カルトを防止する」、「異端を駆逐する」などの理由で、キリスト教界に自前の異端審問所を設け、信者を刑事告訴したり、魔女狩り裁判を行おうと意欲を燃やしつつ、大審問官のように君臨しているこの連中こそ、まさに異端者と呼ばれるにふさわしい人々であって、彼らの率いて来た反カルト運動・強制脱会活動は、筆者のような真実なキリスト教徒にとっては、信仰に対する迫害であるばかりか、キリスト教の恥であり、汚点でしかない。 

この人々は、自らの正体を暴かれないよう、自分たちの活動の危険にいち早く気づいたキリスト教徒を率先して駆逐しようと、異端者の濡れ衣を着せて来ただけのことである。

つまり、反カルト運動すなわち強制脱会活動は、うわべだけキリスト教に偽装しているものの、その本質は、あらゆる宗教に対するのべつまくなしの迫害運動であり、何よりもキリスト教に対する迫害運動なのだと言える。

筆者は2008~9年にそのことを見抜いて指摘したからこそ、それ以後、現在に至るまで、異端者と呼ばれ、カルト宗教の信者と同列に並べられて、彼らの迫害の対象とされ、誹謗中傷による説得工作と、魔女狩り裁判(告訴)の対象にまでされているのである。

だが、筆者にとって異端者のレッテルなどどうでも良いことである。キリストは常に罪人の仲間とみなされてパリサイ人や律法学者から悪口雑言を言われたのであり、強制脱会活動家が他宗教の信者に対して行って来た拷問のような責め苦のことを思えば、筆者はこのような恐るべき人権侵害に加担するくらいならば、むしろ、異端者と決めつけられ、苦しめられる側に立たされることを幸いに思う。

そこで、今、反カルト運動という悪しき異端審問の犠牲とされて来たすべての人々のために、筆者は立ち上がってこれを悪行として世に訴え、教会をこれらの偽りのキリスト教徒の魔の手から奪還したいと考えている。筆者の起こした紛争は、そのための口実に過ぎず、本当の目的は、心の割礼を受けていない無法者どもの手から、教会を解放することにある。

筆者自身も、彼らの魔の手から完全に解放されねばならないが、その他にも大勢、解放されねばならない脅しつけられた人々が存在する。キリスト教徒であるかのように偽って、こうした悪行に手を染めた者たちは、したたかに裁かれ、神の教会から手を引いて、恥をこうむり、退却せねばならない。

* * *

<続く>