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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

キリストと共に天の御座から御名の権威を持って地に向かって命ずる

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
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 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。
 
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神を説き伏せることのできる祈りの五大条件(ジョージ・ミュラーの祈りから)

私たちは人生において、少なくとも幾度かは、絶対にこの願いを神に聞き届けてもらわなければ困る、という切迫した祈りを捧げる必要に迫られます。それは自分自身が危機から救い出されるためであるかも知れないし、あるいは、愛する者の健康や幸せのためであるかも知れません。いずれにせよ、その時、私たちが捧げ る祈りが、神に聞き届けられるかどうか、その是非は、私たちにとって生死を分けるほどの重大問題となります。

もちろん、私たちの願いの全てが必ずしも御心にかなったものであるわけではありません。しかし、神に聞き届けられる祈りというものが存在することは確かなのです。私たちが切迫した必要に迫られている時、また心のうちに強い願いを持つ時、信仰によって、確実に神に聞き届けられる祈りを捧げるためには、一体、 どうすればよいのでしょうか。私たちの生活態度は、心の状態は、その時、どうあるべきなのでしょうか。

偉大な信仰の人ジョージ・ミュラーから、祈りの秘訣を学ぶことができます。次のことをよく心に留めておきましょう。

「神を説き伏せるほどの祈りをする際の五大条件を、彼はいつも心に言い聞かせていた。

1 どんな祝福を求める際にも、主イエス・キリストの功績と仲保に全面的に依存すること(参照 ヨハネ一四・一三、一四、一五・一六等)。

2 すべての知っている罪から離れること。私たちの心によこしまなものが残っているなら、主は私たちに耳を傾けて下さらない。もし聞かれるとすれば、私たちの罪を容認することになってしまうからである(詩篇六六・一八)。

3 誓いによって堅くされた神の約束のみことばを信ずること。約束なさった神を信じないということは、とりもなおさず神を偽り者とし、偽証人としてしまうからである(ヘブル一一・六、六・一三―二〇)。

4 神のみこころと一致した祈りであること。私たちの動機は敬けんなものでなければならない。私たち自身の欲望を遂げる目的で、神にいかなる賜物を求めてもいけない(第一ヨハネ五・一三、一四、ヤコブ四・三)。

5 執拗に願いをささげること。農夫が収穫を求めて長い間忍耐強く待つように、私たちも、ただ神のために働くだけでなく、神の働きを待っていなければならない(ヤコブ五・七、ルカ一八・一~八)。

 以上のような原則をしっかり心に留めておくことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。ここにあげた第一の条件は、大祭司であられるかたと一つに なるということで、これはすべての祈りの基盤である。第二は、罪を捨てるという祈りの条件の一つを示している。第三は、私たちが信仰によって、神のいます ことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを信じて、神に栄光を帰する必要性を強調している。第四は、神と同じ心を持つということであり、そうするこ とによって初めて、自分のために、また神の栄光を現わすために、何を求めればよいかを知るのである。最後の項は、祈りによって神にしがみつくことであり、 神が御手を伸べて祝福を与えて下さるまですがりつかなければならないことを教えている。

 このような条件が満たされないのに、神が祈りを聞き入れられるようなことがあるとすれば、それはご自身の栄光に傷をつけることである。またそれは、求め た人に対しても有害になる。もし人が自分の名により、あるいは自己義認、利己追求、または不従順な心で神に祈ることを奨励するようなことになれば、それは 罪の中に住むことを奨励し、そのうえに賞金を与えるようなものである。また、信じようともしない人の求めに応ずることは、その人があくまでも神の真実性を 疑い、約束を守られる忠実さを信用せず、結局神の約束のみことばと、それを保証される誓いとを侮辱することになるのに、それに対して目をつぶっておられる ようなものである。

実に、本質的にここにあげられたもの以外に、神を説き伏せる祈りの条件は一つとして存在しない。これは独断的な意志によってかってに決められたものではなく、神のご性質上、また人の益のためにも、どうしても必要なものなのだ。」
(A.T.ピアソン著、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー その生涯と事業』、いのちのことば社、pp.158-159)

ミュラーの挙げた五大条件に、一つだけ、追加しておきたい。

6.神にしか決して叶えることのできない、神の偉大さにふさわしい、真にダイナミックな願いを捧げること。信者の祈りが聞き届けられることによって、神の偉大さ、神の栄光、神の愛の深さが全地にあまねく証明され、地獄の監獄が揺るがされ、悪魔が敗北して色を失うような、スケールの大きな祈りのリクエストを出すことは、神が信者の祈りと信仰に心動かされ、祈りを聞き届けることによって満足されるための秘訣である。


悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ

かつて、学術論文を書きながら、生計を維持するために、さまざまな仕事を経験したことがある。今になっても、論文の締め切りに追われていた当時の自分を夢に見ることがある。

その頃の筆者には、人の成さない偉大な仕事を成し遂げた いとの夢があった。友人に向かって、こんな大胆な台詞を口にしていた、「私も自分のケーニヒスベルクへ世界を集められるような人になりたい」*。

(*これはは哲学者カントが生涯のうちに一度も国外旅行をせず、ケーニヒスベルクだけで人生を終えたことになぞらえた言葉である。カントは自分から世界の国々に出て行かなかったが、その代わりに、自らの哲学によって、世界を自分のもとに集めた。人はそれくらいの強烈な創造行為を行うべきである、という意味。

ちなみに、ケーニヒスベルクは東プロイセンの主都であり、ドイツ騎士団によって建てられた美しい貿易都市で、レンガ造りの街並みで知られた。が、第二次大戦中にロシアに占領されてカリーニングラードと改称され、古き良き街並みは破壊され、歴史はほぼ完全に絶たれた。今もって再興は不可能な状態で、いわば、歴史の幻となった都の一つである。)
 
さて、以上のような願いは、天然の人としての筆者だけの力では、実現が不可能であった。そこで、筆者は主と共なる十字架を経て、それまでの願いが全て自分の手から取り去られ、天から聖別されて、再び、キリストの力によって再興されて戻って来るのを見る必要があった。

それまでの夢は、あたかも一旦、目の前で砕け散ったかのようであったが、力強い十字架の解放の御業によって、再び、復興されて筆者の手に返された。筆者はこの十字架の御業により、永遠にアダムの世界にあるあらゆる絶望から救い出され、全ての恐れから解放されて、十字架の死と復活によって、天的な高さへと引き上げられ、暗闇の支配下から、愛する御子の支配下へと移されたのであった。

キリストにあって満ち溢れる光の支配下へと移され、新 しい心と、新しい霊とが与えられた――。

以前とは全く違う人生が開け、過去についての後悔や、痛みや、悲しみは、なくなり、どこにいても、何をしていても、主が共におられると、信じることができるようになった。

そして、今や、主とともに生き、歩んで行きたいという願いだけが、生涯の目的となったのである。

だが、「古き人に死んだ」というテーマと、「神に生きる」というテーマを追求する余り、筆者は、キリストにある新しい人として、自分が過去と現在をどのように結びつけるべきかが、長い間、よく分からなかった。

特に、従来のキリスト教においては、「献身する」とは、信者が自分の個人的な人生を離れて、全生涯を福音宣教に捧げることを意味すると教えられる。

そんな固定概念も手伝って、神のために生きることと、自分の個人生活が、どのように両立し、統合されるのか、筆者には、長い間、よく分からなかったのである。

そして、筆者がこの当時、関わっていた兄弟姉妹は、この点において、全く助けにならなかったどころか、誤った観念によって、かなり有害な影響を及ぼした。

その頃、筆者が「兄弟姉妹」として交わっていた全員が、筆者とは全く無関係なフィールドで生きて来た人たちであり、ほとんどの場合、自らの専門も持っていなければ、あったとしても、すでに仕事からも離れた年金生活者などで、彼らは信仰生活というものを、この世の職業とは何ら関係ない、ほとんど形而上のもののようにとらえていた。

そこで、前途ある若者が、一体、働きながら、どのように神に仕えることができるのか、という問題には、全く具体的な答えやヒントをくれなかったのである。むしろ、そのような人々の話を聞けば聞くほど、筆者にも、「信者がこの世の職業を通して自己実現を目指すことは、御心にかなわない生き方なのだ」といった考えが増し加わるばかりであった。

筆者は兄弟姉妹の人生を参考材料にすることができず、また、彼らも、キリストにある「新しい人」の生き様について、従来のキリスト教の固定概念を超え得るような考えを何も持っていなかったので、その交わりからは、何の新しい発想も生まれて来なかった。

そんなこともあって、筆者は、何年間も、この問題については答えを見いだせなかった。果たして、自分の過去に積み上げて来た功績、過去の自分の持っていた夢、性格、知識、経験、生き様などを、新しい人生にあって、どの程度、継承して良いのだろうか? 

たとえば、学術研究の世界において功績を打ち立てたいという願いは、今後も、妥当なものとして持ち続けるべきなのだろうか? かつて書いていた論文を続行させるために、研究書を取り寄せて、文学の世界に没入することは、許されるのであろうか? 

そんな疑問から始まって、たとえば、ペットを飼うことは許されるのか、とか、一体、自分の願いや嗜好のどこまでが、御心にかなうものとして、生活に適用して良いのであろうか、といった疑問の中にあった。

そういった疑問がなかなか解けなかったので、筆者は長い間、自分で自分の人生を「保留」にし、自分の願いを「保留」し、自分の経歴を「保留」して、それとは無関係の生き様を続けていた。

兄弟姉妹からの不適切な助言の影響もあって、かなり長い間、筆者は自分のかつての個人的特徴を「アダム来のもの」として捨て去るべきなのかどうかという問いに、明確な答えを出せなかったので、個人的な願いに基づいて生活の新たな一歩を踏み出すことをためらっていた。

だが、こうしたことは、全く、間違った固定概念を持つ人々からの悪影響に他ならず、本当は、「キリストにある新しい人」について、そんな疑問を持つ必要はなかったのである。

筆者の過去は、すでに霊的に十字架を経ていたので、キリストにある新しい人に自然と再統合されており、筆者が自分から過去を捨てるとか、個人生活を捨てるとか、そんな行動は全く必要なかった。たとえば、かつてよく筆者が口にしていた「自分のケーニヒスベルクに世界を集める」とかいった台詞も、筆者は、長い間、信仰の何たるかをよく分かっていなかった頃に口にした若気の至りでしかないような気もしていたのであるが、実は、そんな些細な願いでさえ、キリストにある新しい人の中に有益に再統合されていたのである。

そんなわけで、主と共なる十字架の死と復活の何たるかを実際に経験した後も、筆者はあたかも自で自分の過去と訣別せねばならないかのように考えていたため、学術論文を書いておらず、論文を書いているわけでもないのに、ただ生計を立てるためだけに、論文の締め切りに追われていた頃と大差ない、自分の専門とは無関係の仕事に従事したりしていた。

だが、そのような考えは、すでに述べた通り、あたかも信者であるかのように、兄弟姉妹を名乗る人々を通じてもたらされた暗闇の勢力の偽りの力の影響によって生まれたものだったのである。

暗闇の勢力は、信者の人生が、十字架を通して解放され、信者が神と同労して生き生きと自由に生活しながら、,キリストによって生まれた「新しい人」として、天的な歩みを進めることを何としても妨げるために、全力を挙げて、信者の思いを攻撃して来る。だが、その攻撃の多くが、他でもない「兄弟姉妹」を名乗る人々から、間違った不適切な偽りの助言という形を通してやって来ることに、当時の筆者はまだ十分に気づいていなかったのである。

さて、暗闇の勢力が信者に吹き込む嘘の筆頭格は、いわれなき「罪悪感」である。つまり、本当は罪深くもなく、わがままでもなければ、贅沢でもない、信者の些細な願望までも、それがあたかも神の御心にそぐわない罪深いものであるかのように思わせることで、信者に自ら願いを捨てさせ、あきらめさせることが、暗闇の勢力の策略なのである。

第二は、神に対して生きることへの偏見であり、「徹底的に自己を放棄しなければ、神に従うことはできない」という名目で、信者に自分の個性を自ら捨てさせ、自分を否定させようとする偽りであり、これもまた暗闇の勢力による極めて重大な嘘である。そして、第一の嘘と第二の嘘は密接に絡み合っている。

地獄の軍勢は、この世に生きる人々を罪の奴隷として拘束しており、そこで暗闇の勢力は、人を貧しさや、不自由や、夢や希望のない人生に閉じ込め、可能な限り苦しめ、自由を奪うことを使命としている。だが、彼らは、信仰を持たずにこの世に生きている人たちだけでなく、キリストにある新しい人をも、そのように束縛しようと、信者の思いの中に攻撃をしかけて来るのである。

暗闇の勢力は、信者が自分の願いを率直に神に申し上げながら、生き生きと自主的かつ個性的な人生を送ることを何としても妨げようとして、こう言う、「あなたの専門知識や、かつての職業や、かつての願いは、みな堕落したアダムの古き人から生まれたものであるから、あなたはそれを罪深いものとして捨てなければならない。そうしなければ、神のために生きることはできない」と。

実は、兄弟姉妹を名乗っている多くの信者たちでさえ、知らず知らずのうちに、このような悪魔の嘘に加担して、信者をより束縛し、より不自由にし、より不自然に苦しんで生きさせる手伝いをしようとすることが多いのである。

今日の信者のほとんどは、「キリストにある新しい人」という言葉を口にしながらも、実際に、「新しい人」は、この世の職業において、個人生活において、どのように生きるべきか、ほとんど分かってはいない。だから、もしこの点について、信者がうっかり、ふさわしくない兄弟姉妹に助言を求めようものならば、非常に好ましくない有害なアドバイスを受けることがあり得る。

当時の筆者の周りにいた兄弟姉妹の多くは、ただ信者が「神のために」何かを「捨てる」ことや、「理不尽を耐え忍ぶ」ことだけが、御心に従う道であるかのように誤解して、周囲の人々に対して、そのような説得に腐心していた。これは、今日のクリスチャンの多くの姿と同じである。

たとえばの話、「ペットを飼いたい」という願いを、筆者がある兄弟に向かって口にしたとき、その「兄弟」はこう答えた。

「ヴィオロンさん、パウロがペットなんか連れて伝道旅行できたと思いますか?」

こうして、その「兄弟」は、信者がペットを飼うことが、いかにも主への献身の妨げになる、伝道&宣教にとって障害となる、と言わんばかりの否定的反応を示した。だが、筆者は、その頃には、この兄弟の性格を知り抜いていたので、こうした忠告ばかりをずっと聞き続けていれば、自分の人生で何一つ、願いを決行できはしないということを悟っていた。そこで、その忠告を振り切って、ペットを飼ったのであった。

ここで筆者が議論したいのは、信者がペットを飼うことの是非ではなく、従来のキリスト教の固定概念の域を出ない人々は、全ての考え方が、万事こんな調子だということである。つまり、彼らは自分よりも若い「後学」となるような信者をつかまえて、彼からあらゆる自由と権利を取り上げた上で、自分好みの型に当てはめるために、その信者の生活のどんな些細な事柄についても、「神のために」という理由がついていないと、信者に何も許そうとせず、しきりに反対するのである。

たとえば、神のために人生を捧げた人が、学術論文など書くべきではない、といった考えもその中に含まれているし、自分の専門性を人前で誇示すべきではないとか、何を買うか、何を食べるか、といった些細なことでも、「贅沢」や「貪欲」に該当すると非難して、事細かに様々な制約を持ち出して来る人たちもいるのである。そんな人々に助言を求めるのは、自殺行為にも等しい。

だが、何年も、筆者はそういった兄弟姉妹の考え方が根本的に間違っていること、彼らに意見や忠告の機会を与えてはならないこと、あるいは、もっとひどい場合には、こうした人々を「兄弟姉妹」と考えるべきではない、ということに気づくのが遅れた。そして、かなり経ってから、キリストにある新しい人の人生は、過去の何かを「捨てること」に基づいて成り立っているのではなく、むしろ、十字架を経て、「新しい人」には、過去の要素がすべて再統合されているので、信者は自分で過去の生き様と訣別しようと努力して、自分の願いを滅却したり、それを禁じたりする必要はない、ということが分かったのであった。

信者は、御言葉に背き、神を悲しませるような反逆的な内容でなければ、自分の心の自然な願いに従って、ごく普通に生きて行けば良いのであり、もし自分に備わっている何らかの適性があれば、それを思う存分、活かせば良いのである。

奇しくも、そのことを筆者に向かって語ったのは、ベック集会にいた兄弟たちであったが、彼らは、以前に筆者が出会った「兄弟姉妹」たちが、筆者の心にかけた呪縛を解いて、いかに筆者が自分の専門性を有効に活用して生きるべきか、延々と筆者を説得した。

「ヴィオロンさん、あなたの学歴や経歴は、神が許されるのでなければ、決して手に入れられないものです。それが許されたということは、あなたにはそれを用いてなすべきことがある、という意味に他なりません。だから、あなたは自分の専門とは関係のない仕事に就いて苦しんだりする必要はありません。そんな人生が、神のために生きることではないのです。あなたは自分の能力や知識を神に捧げ、神がそれをどう用いて下さるのかを見るべきです。」

この忠告は筆者の心に光を与えた。年々、悪化して行く情勢の中で、専門と関係ない仕事をして生計を立てることには、筆者も限界を感じていたので、筆者は彼らの忠告の通りに、自分の過去に持っていたすべての知識や経験をすべて改めて主にお捧げし、その後、専門の仕事に立ち戻るために必要な努力をして、人生がどう開かれるのかを観察した。

そうして、筆者は確かに専門に復帰したのであるが、しかしながら、以上の兄弟姉妹の助言にも、相当な限界があった。それは、この集会の多くの人たちは、かなり裕福であり、生活の苦労をあまり知らず、特に、筆者の世代が社会で置かれている窮状がどれほど深刻なものであるかに、理解がなかったことである。それゆえ、彼らもまた、前述の兄弟姉妹と同じように、「後学」を自分たちの正しいと思う考えに当てはめ、従わせせようとして来たのである。

以上のような方法で、筆者が神に願って与えられた専門の条件が、過酷で、とても長くは続けられそうにないものだと分かって、筆者がその仕事を辞めようとしたとき、仕事を見つける時に助言し、祈ってくれた兄弟姉妹が、かえって敵対する側に回った。彼らには、「神様が与えて下さった仕事を、そんなにも早く辞めようとするなど、不信仰であり、言語道断だ」という考えしか、返答の持ち合わせがなかった。

また、この集会以外のつながりのある姉妹からも、その時、同じように非難の言葉を返されたことを覚えている。あろうことか、この姉妹からは、この転職を機に、絶縁さえも申し渡されたのであった。その時、筆者には、次の仕事も無事に決まっていたのだが、彼女は、それを喜んでくれるどころか、「もうそんなにも早く、次の仕事を見つけたなんて」と冷たい反応を示し、「もう二度と連絡して来ないで」と、交わりの扉を閉ざしたのであった。

だが、いかに周囲の兄弟姉妹に誤解されたとしても、当時、働いていたのは筆者自身であるから、筆者が誰よりも、その労働環境が、逆立ちしても長くは持ちこたえられないものであることをよく知っていた。そのような不適切な条件に耐えていれば、いずれ自分を壊すことになり、場合によっては、不法に加担することにさえつながりかねない。それが神の御心であろうはずがないことは承知していた。
   
だから、筆者はこれらの「兄弟姉妹」の誤解や怒りや叱責を無視して、自分の判断で、新たな道に踏み出して行った。

こうして、兄弟姉妹と考えていた人々から、間違った、不適切な忠告や助言を受け、それに従わなかったために、筆者がこうむった誤解の数々は、枚挙に暇がない。だが、たとえ不愉快な誤解をこうむったとしても、筆者は根気強く自由と解放を目指して信仰による模索を続けねばならないことを知っていた。だから、そうした助言は、神から来るものではなく、暗闇の勢力から来るものと確信して、筆者はそれらを振り切ったのである。

そもそも、信者は自分の人生について、主ご自身だけを相談相手に、自分自身で決断を下して行かねばならない。たとえ兄弟姉妹であっても、他者に主導権を明け渡すことはできないし、人の支配下に入ると、そこから始まるのは、奴隷的拘束だけである。だから、たとえ兄弟姉妹であっても、他者に助言の隙を与えることは、ほとんどの場合、逆効果となる。
 
そんな模索を繰り返す過程で、筆者には、この世に存在する仕事の大半が、非常に問題だらけで、実に多くの場合は、違法な労働条件のもとに行われており、たとえ専門に関係する仕事に就いても、その事情はすぐに変わらず、こうした悪しき問題が一挙に解決する見込みはほとんどない、ということが分かって来た。

しかし、そんな中でも、筆者は「世の情勢がこんな風だから、どんな不適切な条件にも、自分が耐えるしかない」とは考えず、可能な限り、自分の願いを否定することなく、正常な仕事を探す努力を続けた。

つまり、この世の情勢に自分を合わせるのではなく、あくまで自分の正しいと思うことや、願いを譲らずに天に向かって主張し続けて、根気強く、不正や、不法を助長することなく、神の正義と、自分自身の願いにかなう、納得できる条件を求め続けたのである。

この世の情勢では、99%見込みがない時だからこそ、信仰に頼る価値がある。人にはできなくとも、神にはできる。世はいつでも「これしかないから、あなたは妥協して条件を引き下げなさい。多少の不正には目をつぶりなさい」と言って来るであろうが、信者がその言い分に耳を貸して、自分が最低限度だと思っている条件にさえ、妥協を繰り返すようでは、信仰者となった意味はなく、その先はない。神は必ず、信者が健やかに自立した生活を営むために、必要な全ての条件をお与え下さるはずだ、と、筆者は心に確信していた。

そのような筆者のスタンスを、兄弟姉妹のほとんどは理解できなかったであろうと思う。筆者の態度は、彼らから見れば、「贅沢」であり、「わがまま」であり、「えり好み」でしかなかったのではないかと想像される。だが、そのように不評をこうむるであろうことが予め分かっていたので、筆者の方でも、もう彼らには何の助言も乞わず、相談もしなかった。

そうして、筆者は他者の助言や忠告に従って生きることをやめ、ただ神との関係において、自分の願いをあきらめずに神に申し上げることだけによって、生きることに決めたのである。

そして、その過程で、実に驚くべきことが分かって来た。

筆者がこれまでに見つけた仕事は、もはや相当な数に達しているのだが、もともと数少ないと言われていた専門分野の仕事である。労働条件に文句をつけて、度々、仕事を変わっているような人間に、将来の見込みなどない、と普通の世間は考えるであろう。しかも、筆者は郷里からの援助などは受けず、完全に独立して、自分だけで生計を立てている。筆者の試みは、どうせ長くは続かないだろう、と高をくくっていた人々がいたとしても不思議ではない。

だが、それにも関わらず、筆者は行き詰まりに達することはなく、常に道が開けたのである。そして、それが神の采配であるばかりでなく、筆者と主との「信仰による同労」によって生まれた結果であることが、筆者にも、だんだんはっきりと分かって来た。

つまり、これまでの筆者はよく「こんなご時世だから」と悲観したり、恐れに駆られたりもしながら、それでもあきらめきれずに、「どうか御心にかなう良い条件の仕事をお与えて下さい」と、必死の思いで神に懇願したりしていたのだが、本当はそのように祈るべきではなく、実のところ、神の方が筆者に向かって、問うておられたのである、「あなたは一体、何をしたいのですか。世の情勢は関係ありません。あなたが願っている内容を正直に具体的に私に向かって言いなさい。そして、私にはその願いを満たすことができると信じ、権威を持って行動しなさい。」

神がそのように問うておられることは、その都度、「運よく」見つかる仕事が、どうにも筆者が心の中でそれまで思い描いていた条件にかなり合致している様子からも理解できるのだった。つまり、筆者自身も半信半疑の状態で祈りつつ、「神が奇跡を備えて下さるならば」と期待し、「運よく」見つけたと思っていたものが、実は、筆者自身が心の願いによって、主と同労して自ら創り出したものであり、神が筆者の祈りと信仰に応えて下さったことにより、信仰に応じて「創造」されたものであることを、認めずにいられなくなったのである。むろん、そうしたことは、職探しの過程だけでなく、生活のあらゆる場面で起きて来た。

このあたりから、筆者の考え方が劇的に変わって来た。

つまり、キリストにあって生きる「新しい人」は、この世の情勢に翻弄され、圧迫されて生きるどころか、天に直通の祈りを捧げ、キリストとの同労により、無から有を呼び出して来る権威を持つのだということが、次第に分かり始めたのである。

その「新しい人」の生き様は、世の中の悪化して行く情勢の中で、かろうじて生存が保たれているといったようなレベルのものではなく、まさに(共産主義者が自分たちの思い描くユートピアを表現するために、誇らしげに使っていたあの有名な)フレーズ、「必然の王国から自由の王国へ」、に見るように、「この世の情勢が悪いから、信者は仕方がなく妥協して、たとえ不法で劣悪な条件でも、この程度で我慢しなければならない」といったような、ちっぽけかつ不自由な生き方から、「あなたは何を願うのか」という、信者自身の個人的な願いに基づく「オーダーメイド」の生き方への転換なのである。

「キリストにある新しい人」の人生は、天と地の同労によって作り出される極めて個人的な人生であり、その生き方にキリスト以外の「型」はない。神は信者の心の願いに、細部に渡るまで耳傾け、応えて下さるので、キリスト者の人生は、極めて個人的な特色を持つもの、周囲の誰にも似ていない「オリジナルな」ものとなる、ということを、信者が心に留めておくのは有益である。

この世のほとんどの人々は、まるで大量生産された服を買って着るように、職業や、暮らしぶりなど、人生の隅々においてまで、すべての事柄について、ある種の型に自分をあてはめている。そして、その域を決して出ることはできないし、出ようと考えない。彼らは、その「型」が、自分の個性にとって非常に窮屈で、多くの苦しみをもたらしていることを、ある程度は認識しているのだが、それでも、それがあるまじき制約だとは考えず、あくまで自分自身を型に合わせて切り刻むことが正しいことであり、それ以外の人生はあり得ないかのように錯覚している。

だが、本当の人の人生のあるべき秩序は、それとは逆なのである。人間が型に合わせるべきなのではなく、型が人間に合わせて作られるべきなのである。型というものは、人間によって人間のためにこそ、造り出されるものであって、人間に奉仕することが、その役目だからである。そういう意味で、キリストにあって自由とされた人の人生は、もはや大量生産された型に自分を当てはめて、それに適合しない自分の一部を自ら切り刻んで切除しようと苦しむ人生ではなく、型が信者に従って作られる「オーダーメイド」の人生なのである。

そんなことは信じられないし、信じたくない、という人は信じなくて結構である。

だが、そのように、信者の人生が、信仰による「オーダーメイド」である以上、神との同労において、信者が心に何を願うのか、その願いの内容は、宇宙的な重要性を持っており、信者の人生に最も大きくものを言う事柄である。

そして、聖書の原則はこうである、「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう。」

つまり、神は信者に大志を抱くよう求めておられるのである。世人の誰であっても、多少のコネや、実力さえあれば、実現できるような、ちっぽけな願いで人生を終わるのではなく、「どうせなら、神にしか実現できないような、壮大なスケールの夢を持ちなさい。私(神)があなたと同労してそれを叶えてあげるから。そのようにあなたを満たすことが、私の心なのです」と、神は信者に求めておられるのである。

だから、信者が自分の人生について、どういう願望を抱くのかという問題は、信者が神をどのようなお方であると考えているのかという問題に直結している。信者は、神の愛と理解の無限なること、神の懐の深さ、気前良さ、その御力の偉大さなどに、ふさわしい夢を抱くべきである。そして、自分の願いを率直に神に申し上げ、「私にはできないことも、神にはできる」と、神を信頼して一歩を踏み出して行く時、神はそのような信仰を喜んで下さると、筆者は確信している。

そのようなわけで、多くの兄弟姉妹が「わがままだ」とか「贅沢だ」とか「献身者にふさわしくない」、「貪欲だ」などと言って批判し、退けていた信者の個人的な願いこそ、実は、極めて重要な事柄であり、それは信者自身にとってのみならず、神にとっても重要であり、神はその願いに熱心に耳を傾けて下さり、その願いに応えて、ご自分を現して下さることが分かって来たのである。

「現世利益を求めてはいけない」などの言葉で、多くの信者が、自らそんな願望は自分にはないかのように否定しようとしている信者の願いこそが、実は、信者がキリストと共に同労して行う「信仰による創造」の原材料となって行くのだ、ということが分かって来たのである。

だから、信者は、自分の個人的な願いを自ら捨てようとしてはいけないのである。それが明らかに御言葉に反するものでない限り、自分の願いをあきらめることなく、根気強く、天に向かって願い続けるべきである。

信者は自ら「古き人」と訣別しようとして、自分のあれやこれやの特質を自分で抹殺しようと努力する必要はない。信者の過去も、性格も、知識も、能力も、何もかもが、キリストにある「新しい人」に自然に統合されていることを信ずべきである。そして、十字架を経て、自分に備わった全ての特徴が、すでに神のものとして、神にあって有益に活かされることを信ずべきである。

もう一度言うが、信者は、自分の心の願いを通じて、信仰によって環境を創造しているのである。信者が環境に合わせるのではなく、環境が信者によって創造され、治められるべきなのである。

最初のアダムは、地を治めるために創造された。アダムは堕落してその任務に失敗したが、神はキリストにあって再び人類に地を治めさせようと計画しておられる。人間の創造の目的は、人類の罪による堕落と、サタンによるこの世の占領という出来事によってさえ、変わることなく、神はこれを永遠のご計画の中で成就される。それは、ただ単に信者が自らの意志でこの地を治めるというだけでなく、信者が主と同労して、すべてのものをキリストの御名の権威の下に服従させるという壮大な計画の一部なのである。

だから、信者が信仰によって祈り求める時に行使しているのは、御名の権威なのである。その祈りが応えられることは、環境が信者を通して、御名の権威に服することを意味する。

確かに、この世は堕落しており、目に見えるものはいつか終わらなければならない。そうして新しい世がやって来る。だが、キリスト者にあっては、御国はすでに来ている、ということを覚えておかなくてはならない。御国は、信者の心の中に、霊の内にすでに到来しており、信者は御名の権威に基づいて、霊的な支配権を行使することによって、天を地にもたらし、御国をこの地に及ぼし、この世を堕落した悪魔の霊的支配から奪還して、キリストの統治を打ち立てねばならないのである。だから、信者が主にあって何を願い、何を求めるのかは、この二つの支配権――キリストの支配と悪魔の支配――の争奪戦において、極めて重要な意味を持つ。

だが、それはただ単に霊的な戦いにおける勝利と、神の権益の拡大のためという文脈においてのみ行われるのではなく、神は信者自身の個性そのものを、極めて重要なものとして尊重して下さり、キリストにある新しい人の中で、信者の人格や個性が、生き生きと発揮され、そうして信者が一人の人として真に自然なあるべき人間の姿を形成することを願っておられる。

この「新しい人」は、自分の個性を、地獄の軍勢に支配されるこの世が大量生産した型に合わせて自ら歪め、切り刻んでは、自らを苦しめるという不自然で抑圧された生き方(必然の王国)を離れて、信仰によって、神と同労しながら、神に自分の願いを率直に申し上げ、祈りを通して、主と共に望む環境を作り上げていくという「オーダーメイド」(自由の王国)の生き方へと転換して行くのである。

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ――御名の権威に基づく環境の創造――それが「キリストにある新しい人」の生き様の主要な特長の一つである。信者が主と共に信仰によって環境を呼び出し、自ら創り出すのだから、信者のいる「ケーニヒスベルク」に全てが集まって来るのは至極当然である。


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。

もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
 


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(1)

クリスチャンの間でよく語られている逸話に、信者が不信仰によって受け取らなかった天からの贈り物の幻というエピソードがある。

正確には記憶していないが、筆者が覚えているかぎり、こんな内容だったように思う。

ある信者が、幻の中で天国に連れられて行き、天使に天国の中を案内された。ある部屋の前で、信者はとても興味を惹かれ、立ち止まった。この部屋の中をぜひとも見てみたいので、扉を開けて欲しいと信者は天使に願う。だが、天使はその部屋は見ない方が良いと信者に言った。理由を尋ねると、天使はこう答える、「その部屋の中には、あなたが生前、神から贈られながらも、不信仰ゆえに受け取ろうとしなかったために、天に送り返されて来たプレゼントの山がしまってあるのです。」

信者は見ない方がいいと言われても納得できず、天使にどうにか懇願してその部屋を開けてもらってみた。実際に、その部屋には素敵なプレゼントの数々が天井に届くほどうずたかく積まれており、すべての贈り物に、その信者宛てのお祝いのカードまでついていた。どれもこれも、信者が確かに、こんなものがあれば、と生前、神に願って祈っていたものばかりであった。信者は愕然として、こんなにも多くの祝福を、神は自分宛てに送って下さっていたのに、自分は受け取りそこなっていたのかと、いたくがっかりしながら幻から目覚めるというような筋書きであった。

筆者はこの意地悪な作り話の内容をほとんど信じていない。

ある意味では、これは身につまされるような話である。実際に、筆者は不器用ゆえに天からの贈り物を受け取りそこなったことが幾度もある。明らかに、筆者自身が主に一生懸命にこいねがい、その願いに応えて、神が用意して下さったと分かっているものさえ、受け取りそこなったことが幾度もあるのだ。

人は本当に心から願っていたものが目の前に現れるとき、妙な緊張感を覚えるものだ。また、あまりにもタイミングよく物事が進むとき、怖れに駆られ、目の前にある祝福を受けとるのに、奇妙なためらいを覚えることがある。

そんなこんなで、せっかく祈り、またその祈りが応えられたにも関わらず、結局、筆者が怖れに駆られて受け取りそこなったものはたくさんあるのだ。だから、上記のようなエピソードは、まさに筆者にはよく当てはまっているように感じられる。

にも関わらず、筆者は以上のような話をまことだとは信じていないのである。

どうしてかというと、天からの贈り物にも、まず保管期限や不在通知なるものはあって、一度や二度、信者が不信仰によって受け取りそこなったからといって、それで終わりにならないからだ。

宅配便や、郵便と同じように、天から送られて来た荷物も、地上での一定の保管期間がある。それが過ぎると、天に送り返されてしまう。そこまでは確かなことだ。たとえば、祈りが応えられて、自分が受け取れるはずだったものも、長い間、怖れ、ためらっていると、自分の前を素通りして行き、他の人が代わりにそれを受け取り、他の人が祝福にあずかるのを見せられることもある。そうして祝福がもはや他人のものになってから、どっと後悔が押し寄せて来て、どうしてあの時、チャンスが与えられていたのに、もっと勇気を出してそれを受取ろうと行動しなかったのか、行動してさえいれば、それは今頃は自分のものになっていたはずなのにと、嘆いたりする。

だが、信者の人生に、本当はそんな後悔は必要ないのだと筆者は確信している。仮に保管期限を過ぎて、贈り物が天に返されたからと言って、一度や二度、祝福を受け取りそこなうと、天からの祝福は、それで終わりになってしまようなものなのかと言うと、そんなことは決してないからだ。

何よりも、私たちの神は、信者の目の前にたくさんのニンジンをぶら下げて、一番、早く大胆にニンジンに飛びついた者が、天の祝福にあずかるのです、などとおっしゃって、多くの信者たちを競争させるような意地悪な方ではない。早くニンジンに積極的に飛びつきさえすれば、天の祝福により多くあずかれると考えるのは、地上的な愚かな考えであり、錯覚である。

天からの贈り物は、一度、天に送り返されても、その後、何度も、何度も、形を変えて送られて来る。そして、後になれば、食べ物が腐ったりするように、中身が悪くなるのかと言えば、そういうことも全くない。むしろ、後になるほど良いものが送られて来るほどである。

人間の心は、体と同じように、絶えず変化するものであって、信者が神に願い出るものもの内容も、絶えず変化する。天からの贈り物は、常に過去ではなく、現在を起点として、信者が今、神に何を願うのか、それを基準に送られて来る。過去に何があったかなど、全く問題ではないのだ。

たとえば、一年前に買った服は、どんなに気に入っていても、今はもう着られないかも知れない。たとえ着ても、自分には似合わなくなっている可能性がある。人はそれを見て、「あなたが太ったのが悪い。前はもっとスリムだったから、その服がよく似合っていた。あなたはもっと痩せるべきだ」と言うかも知れない。あるいは、「あなたが老けたのが悪い。もっと前は若々しく見えたから、その服がよく似合っていた。あなたは十年ほど若返るべきだ」と言うかも知れない。

だが、よく考えてみれば分かることであるが、そんな考えの何と非現実的なことか。人間は今の自分に合う服を探すべきなのであって、過去に遡って、過去に買った服に現在の自分を合わせるなどナンセンスである。そもそも、服が人間に合わせて作られるべきなのであって、人間が服に自分を合わせるなど馬鹿げている。

だから、それと全く同じように、もし仮に信者が過去に受け取りそこなった天からの祝福なるものがあったとしても、それはその時を逸してしまった以上、今はもうたとえ送られて来ても、役に立たないものばかりである。今、信者が必要としているものは、過去とは違っているはずである。それなのに、過去に受け取りそこなったものを数え上げては、自分の不信仰を責めるなどという無意味な悪循環に陥るよりは、今、自分に何が必要なのかを、率直に天の父に申し上げた方がどれほど生産的か。

にも関わらず、大事にしていた服が着られなくなった時に、人が惨めさや失望を味わい、自分がすっかり変わってしまったことに自責の念すら覚えることがあるように、信仰においても、以上のようなナンセンスな考え方を、信者は自分の信仰生活に適用しがちである。すなわち、過去のことを振り返って、自分の不信仰を責め、あの時、ここで間違ったから、このような惨めな結果に至ったのだ、とか、あの時、ああしていれば、こうはならなかった・・・などとくよくよ考え、まるで自分の行動次第で、現在とは違う、バラ色の可能性が開けていたかのように想像をめぐらして、自分を責める思いがこみ上げて来ることがあるのだ。

あたかも、自分が受け取らなかった恵みの山がストックされた部屋がどこかにあって、意地の悪い天使が、死後、あなたにそれを見せて、あなたにはもっと恵まれた生活の可能性があり得たのですよ、でも、もう今となっては遅いですね、と囁いているかのように。

だが、そんな思いには、きっぱりとさよならを告げて、地獄へお帰りいただかなくてはいけない。その思いは、御霊から来たものではない。実際には、そんな部屋はどこにも存在しないのだ。天からの恵みは、あなたを満たすために送られて来るものであって、受取人であるあなたに恥をかかせるために送られて来たものではない。

神はあなたをあらゆる祝福で満たし、慰め、喜ばせたいのであって、それによって、ご自分も栄光を受けたいと願っておられるのである。神があなたにプレゼントを贈るのは、あなたの不信仰を責めるためではなく、あなたがそれを受け取りそこなって絶えず失意に落ち込むためではなく、あなたが神の気前の良さ、神のあなたへの愛の深さ、あなたへの思いやりの深さを、生きて知るためなのである。

だから、もしあなたが神の恵みを受けとることに不器用であったとしても、自分が願った祈りが本当に叶えられるのか、不信仰なときがあったとしても、神は何度も、何度も、あなたが神はどういうお方なのかを知るまで、あきらめることなく、プレゼントの山を送り続けられる。筆者はそのことを保証できる。

そういう意味では、神は、愛した女性にあきらめずにプロポーズを続ける求婚者のような方であって、一度や二度、いや、百度、二百度、すれ違いが続いたとしても、神の側からは、そんなことは何の障害にもならず、あなたが神の方に注意を向けて、神への忠実と愛を失わないでいる限りにおいて、必ず、また恵みの山を何度でもあなたのもとへ送られるのである。しかも、それは一年前のあなたの願いに応えられるのではなく、現在のあなたの心の願いに基づいて、神が実行されることなのである。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。というのは、そういうことである。

ここには、「いついつまで」という期限は存在しない。どんな風に懇願したか、という態度にも条件はない。具体的にどういうものならば、求めても良いのか、リクエストの内容にも、条件はない。ただ求めなさい、と言われているだけである。

地上における人の人生には限りがあるので、人間は、自分の努力が足りなくて、何かが手遅れになり、もう間に合わなくなるのではないかという怖れを常に抱えている。常に、急がなければならない、もっと大胆に、積極的にならなければならない、そうでなければ、せっかくのチャンスを逸してしまう、という恐怖が心に存在する。だが、神の側からは、人間の有限性など、全く問題にならないのである。

神はあなたの時を知っておられ、あなたの心を知っておられ、あなたの限界を知っておられ、あなたがこの地上では一瞬で消えて行くようなはかない存在であることを知っておられる。どんなにあなたが頑張って、完璧に振る舞おうとしても、あなたにできることなどもともと限られている。それにも関わらず、神は大いなる祝福であなたを満たしたい、と言われるのである。それはあなたが努力によって達成する課題ではなく、神の側からの願いなのである。

神がアブラハムに向かって、彼の子孫が空の星のように、海の砂のように多くなると言われた時、アブラハムにはまだ一人の息子もなかった。あなたは、周りを見回して、自分には何もない、と言うかも知れない。もし本当に神が自分を祝福されたならば、豊かな命で満たして下さったならば、この何もない状況は、何が原因なのか、神が間違っているのでなければ、多分、自分の不信仰のせいで生じたのに違いない、と思うかも知れない。そして、何も結果らしい結果が出ていないことで、自分を責めたり、不信仰ゆえに受け取りそこなった宝の山がどこかに隠されているに違いない、などという無駄な想像までもめぐらすかも知れない。

だが、そうではないのだ。神の祝福は、一見、届くのが遅いように見える、このことをよく覚えておくことも有益である。むろん、早い時もあるのだが、それはあなたが願ってから、あなたの手元に届くまでに、時差があるのが普通だ。随分、長いこと待たされることもあり、一年以上の月日が過ぎ、あなたは自分の願いをもう忘れ、あきらめかかっていることもある。だが、それは必ず、届くのだ。

だから、一体、何のせいで恵みが手元に届くのが遅れているのか、それが人間の側の不信仰によるのか、不器用さのためなのか、それとも別の原因によるのか、などといったことは探らないが良い。それよりも、あくまで神に求め続けることが肝心である。

求めることに、遅すぎるということはない。信者が何かを神に求めることに、期限はつけられていない。何かを願い出るならば、いついつまでに神に予約しなければ、手遅れになる、などとも、聖書に書かれていない。つまり、信者は生きている限り、どんなことでも、神に求め続ければ良いのである。もし期限を考慮されるとしたら、それは神の側で考慮される。神があなたの状況をご覧になって、いつまでに何を送れば良いのかをきちんと考慮される。神はすべてにおいて、必要なタイミングを知っておられ、万事を良きにはからうことがおできになるので、そこに全幅の信頼を置くべきである。だから、遅すぎるかどうか、といったことは、あなたが心配すべきことではないのだ。

信仰においては、遅すぎるということはない。神はすべてに間に合う方である。神にあっては、手遅れであるとか、遅すぎるとか、不可能であるということは、存在しないのである。神ご自身が完全な救いであり、解決だからである。

<つづく>