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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

ロシアという国の危険な本質と、北方領土返還の完全な実現の前にロシアと平和条約を結ぶことの愚かさ、無益さ、有害性について

・日ロ両国の接近が我が国に将来的にもたらすであろう悲劇について

・ロシアビジネスの不幸な現場から


かつてロシア人の友人が、筆者に面と向かって言った。

「プーチン政権に逆らうと社会的に抹殺される」

比較的リベラルで、特に体制反対派とも言えないロシアの知識人が口にしたその言葉は、筆者にとってもそれなりに重く響いた。その言葉の重さは、徐々に増し加わり、様々な実体験と共に、筆者のロシアという国への淡い期待を打ち砕き、我が国とロシアとの平和条約締結を無意味なものととらえさせるに十分なきっかけへと発展した。
 
母国をいたく愛するそのロシアの友人には残念なことかも知れないが、ロシア人が一般にどんなに信用ならない、したたかで、ずるい国民性を持っているか、ロシアと我が国との誠実な取引がいかに成立困難であり、またこのような国と取引すること自体が危険な行為であるか、これから具体的に記して行く予定である。

一言だけ先に書いておくと、ロシアビジネスを営む多くの企業を知っている者として筆者が言えることは、この業界は根本的に不幸である、ということだけだ。レールモントフの詩に表現された「奴隷の国(ロシア)」という響きは、当時だけに限ったことではない。ロシアビジネスに携わるほぼすべての企業で敷かれているのは、レールモントフが詩に書いた通りの、細部に渡るまでの行き過ぎた管理と統制、相互監視・密告体制である。そして人命の軽視、人権の軽視、不法と虐げの恒常化…。

むろん、日本にもブラック企業と呼ばれるビジネスが溢れ、テレマーケティングなど業界そのものがブラックと言われている分野もある。状況は似たり寄ったりだと言われるかも知れない。確かにそうとも言えるだろう。今や我々はビジネスそのもの意味が全く異なり、労働そのものが非人間的な苦役と化そうとしている時代にさしかかっているからだ。

だが、ロシアビジネスの場合は、さらにそれに輪をかけて別種の危険が増し加わることになる。まず第一に、ロシア人は一般的に約束を守らないことで有名である。たとえば、仮に日ロ政府間で正式に合意が交わされ、シベリアに何かのモニュメントの建立が決められたとしよう。それでも、ロシア企業は、必要な資材の納期を一年間先延ばしにしても平気である。契約違反と言われようが、全く意に介さず、どうせ自分たちの他に頼る相手などいないだろうと言わんばかりに、追及されてもダラダラと言い訳を並べ、あるいは情に訴えて真相をごまかそうとする。そのくせ、自分に有利な条件を引き出すための交渉には余念がなく、平気で取引相手を出し抜き、利用する。

したたかで、狡猾で、平気で約束を反故にし、常に勝ち馬に乗ろうと、それまでの仲間を捨ててでも強い者に寝返る。こうした手法について、ロシア人に恥を知れと言っても無駄なことである。ロシア人にはこうした方法が、モラルに反しているという認識はない。取引や交渉の進め方について、同じ土台に立てないのであるから、お人好しの日本人には、彼らのしたたかさに太刀打ちする術はないと言って差し支えない。もしどうしても太刀打ちしたいならば、相手にまさるヤクザ的手法を身につけて恫喝するしかない。

だから、こうしたことの自然の成り行きとして、ロシアビジネスに長年、関わっている日本人は、次第に性格がロシア化して行く。見栄と出世だけが全てだとでも言うかのように、とてつもなく厚かましく、尊大で、利己的で、傲慢になり、かつて持っていたはずの礼儀正しさやつつましやかな謙虚さや誠実さを失って、態度からもはっきりと分かるヤクザ者となり、他者の功績を平然と盗んだり、横取りし、あるいは嘘をついて、ルールを破り、同僚を出し抜き、貶めても平気な人間と化してしまう。そして、たとえ自分の非を突かれ、失敗を突きつけられても、頑なに認めず、謝ろうとしない。どこまでも言い訳を並べて居直るか、同情を引き出して言いぬけようとする。

むろん、以上のようなロシアの実情に心を痛めているロシア人もいないわけではないであろうが、それはあくまで例外に過ぎないことが問題だ。ドストエフスキーも、レフ・トルストイも、すべて例外的なロシア人であり、彼らの文学は当時のロシアの現状に対する深い絶望感から生まれて来たものと言っても過言ではない。我々は、ロシア文化のうわずみのような良いところだけを見て、これがロシアだと断定し、国全体を美化することはすべきではない。

筆者は以上のような現状を見つつ、ロシアとのビジネスを発展させても、我が国にさして利益があるわけではない、と結論づけている。これほど長い間、この分野に発展がなかったこと自体、理由のないことではなく、誠実に約束を履行できない相手と取引することは無謀な行為でしかない。これまで我が国にかの国と平和条約の締結がなかったのはむしろ当然で、幸運なことだったのではないか。ロシア人が誠実に物事に対処することを学ぶまで、ロシアとの友好など我が国には要らないのである。


・ロシアの抱える「被害者意識」と歪んだメシアニズム――他文化の絶え間ない「借用」と侵略によって、国力を強化し、傷ついた自己イメージを救おうと試みて来たロシア

ロシアという国は飽くことのない権力闘争に生きる不幸な国である。すでに書いたことであるが、ロシアにアルコール中毒患者が多いのも、あまりにも過酷な権力闘争の中で打ち負かされて、心破れたロシア人男性が多いためであり、ロシア人女性は美しく心優しいと言われるが、その優しさとて、以上のような自国の厳しい現状の只中から生まれて来た一種の諦念と結びついた同情でしかなく、自分よりも弱い者に対しては同情的かも知れないが、決して真の独立や自立を目指す心意気を生まない。

これまでの記事の中で、筆者は、ロシアという国は、文化も借り物ならば、宗教も借り物、およそすべてが借り物で成り立っている、存在そのものがフェイクに近いような幻の国だという、ある種の極論めいた結論を述べた。そのフェイクに近い国が歴史上、ずっと絶え間なく拡大・膨張政策を取り続けて来たことに、ある種の不気味さがある。今回、なぜそのようなことが起きているのか、ロシアという国が自己意識の深層で抱える問題について詳しく考えてみたい。

まず、ロシアという国は、自国にとって有利で、国家の威信を強めてくれそうなものであれば、どんなものでも、他から平然と「借用」する国である。その例は枚挙に暇がない。ロシアの大都市圏で誉め讃えられるヨーロッパ的町並みは、ロシアの近代化のためにピョートル大帝時代に輸入されたものであり、キリスト教も、ロシアを周辺国に一流の国と認めさせるために、国家の威信強化を目的にビザンチンから借用されたものである。ウラジーミル大公の命令によって、それまで民間の異教信仰に頼って生きていた多くの農村の民衆までもが、教義さえ分からないまま、無理やり洗礼を受けさせられ、キリスト教徒に改宗させられた。こんな強制的な集団改宗の有様を見るだけで、それがロシアがうわべだけ「キリスト教国」を偽装するための儀式に過ぎなかったことは明らかである。さらに、ソ連時代にロシアが取り入れた共産主義思想も、ヨーロッパからの輸入である。マルクスは、社会主義は資本主義の発展の結果として起きるものだと考えていたので、自らの思想の最初の実験場が、当時、ヨーロッパには経済的にも文化的にもかなり遅れを取っていたロシアに定められようとは、想像してもいなかった。

マルクス主義思想も含め、このようにロシアが、自国を飛躍的に「世界一」へと高めてくれそうなアイテムであれば、他国に先駆けてでも、それを導入した理由は、ロシアがそれまでずっと自己意識の深層で持ち続けて来た傷ついた国家のイメージ被害者意識の裏返しであったと言える。自国のアイデンティティの根幹で、傷ついた自己意識、被害者意識を持ち続けていたがゆえに、他を凌駕して世界一の存在に躍り出ることで、世界を救済し、劣等感を払拭し、雪辱を果たそうとする歪んだメシアニズムの思想が生まれたのである。

マルクス主義などは、ロシアという国がこのようにもともと深層で持っていたメシアニズムの思想が表面化するときに取った形態の一つに過ぎない。プーチン氏の目指す「強いロシア(の復興)」にも同じ思想が表れており、おそらくは、こうした思想は今後も二度、三度と、現れて来るものと思われる。

さて、以上で見た通り、ロシアが他国の優れた文化や思想や宗教を、自国に「借用」しようとするのは、それらの優れた価値に本気で学ぶためではなく、むしろ、それらの価値を表面的に取り入れることで、一流国の仲間入りを果たしたかのように見せかけ、自国の威信を強化する目的でしかなかった。だから、こうして行われる改革や変化はいずれも、対外的に見栄を張る必要のためだけに行われるものであって、ロシアという国の歴史や文化の只中から必要に迫られて生まれて来たものでない以上、ロシアという国に本質的に根差すことなく、根本的な変化をもたらすものとはならなかった。それでも、一流国であるために、昨日までの民衆の生き様を根底から覆し、自国のそれまでの歴史や文化の価値を根こそぎ否定してでも、急激で極端な改革を実行しようとすることが、ロシアの歴史には度々あった。このように、ロシアにとって、自国が他国に比べて引けを取らず、周辺国と対等に肩を並べ、これらを凌駕する存在となることこそ、いつでも第一義的な課題であり、その目的の達成のためならば、他国の持っている優れた価値を強引に剽窃したり、自国の歴史や文化の連続性を無視してまでも、他文化の物真似に走ることも辞さないのである。すべての価値が、民衆には還元されることなく、ただただ国力の強化、国家の威信の増強へと吸い尽くされて行くところに、この国の不幸が存在する。

このような現象は、国家的なアイデンティティをいたく傷つけられ、ひどいコンプレックスを抱えている国にしか起き得ない事柄である。自尊心を失い、心傷つけられ、本当は自分は一流国でないという劣等感に苛まれていればこそ、借り物の衣装を身にまとってでも、自分を一流国であると認めさせたいのである。軍備の増強と、国家の拡大・膨張政策(マッチョイズム)に走ることで、真の自分自身から目をそらさざるを得ないのである。

うわべだけ他者の真似事に走っても、決して本質では一致することはできないが、かりそめにも自分はエリートの一員となったと思うことで、傷ついた自己を慰めることはできる。こうして、他者のやり方を真似ることで、他者にあたかも自分が仲間であるかのように見せかけて油断させておいて、本心では、自分にひどい惨めさとコンプレックスを味わわせた他者を打ち倒そうと考えながら、その内心を隠して、友好を装ってその相手に近づき、やがて相手をぱっくりと飲み込んでしまう。何しろ、本家本元が消滅していなくなってくれれば、自分をフェイクだと主張する者もなくなる。それが他国とのロシアの絶え間ない争いの歴史であると言えるのではないか。キリスト教の中においてさえ、ロシアには、カトリシズムを堕落したものとみなすあまり、ヨーロッパのキリスト教全体を侮蔑し、自国のキリスト教こそが世界で唯一正しいと自負する思想が存在した。このような優越意識は、劣等感の裏返しとしてしか決して生まれて来ないものである。

筆者は歴史家ではないので、モンゴルによる統治時代に、ロシアに対してひどく残酷な所業が行われたという言い伝えの中に、果たして誇張はないのかといった点についてここで争う気はない。だが、重要に思われるのは、仮にロシアの傷ついた自己意識が、それ以前から持ち続けられたものであったとしても、異民族の占領・統治下に置かれ、国が消滅に近い状態となったタタールのくびき時代の歴史的な記憶が、今日までも、ロシア人の心に大きな屈辱感・劣等感、被害者意識を生む一因となっているのではないかという疑いである。さらにもっと重要なのは、このタタールのくびきを跳ね返すために、ロシアは精神的に敵(モンゴル)と同化し、モンゴル的統治方法を己が内に取り込んだのではないかということである。

ロシア人の多くは、屈辱的なこととして決して認めたがらないであろうが、以上のような指摘はすでになされているものであり、モンゴルによる制圧時代に、事実上、モンゴル人とロシア人との混血が進んだだけでなく、両者の文化が混合し、異質なものが混ざり合い、ロシアにとって、モンゴルとの一体化という後戻りできない変化が起きたのである。

何よりも、ロシアという国を今日まで特徴づける、強大な中央集権的な国家権力による圧倒的な民衆支配の原型は、まさにこのモンゴル統治時代にこそ生まれたのではないかと想像せざるを得ない。なぜなら、このような統一的な政権は、絶えず諸公が分裂していたキエフ・ルーシ時代にはまだ見られなかったものであり、こうした中央集権的な政権そのものが、モンゴルの統治方法の借用であると見受けられるためである。ロシアはモンゴルの抑圧から脱するために、モンゴル以上の強力な国家権力を打ち立てねばならない必要に迫られており、そのために、モンゴルの統治手法を己が内に取り込むことで、これを跳ね返す必要があった。ロシアはモンゴル貴族との婚姻によってモンゴル支配に微笑みながら友好的に協力の手を差し伸べ、これと協力し同化する風を装いながら、これを飲み込んで、相手を打倒して立ち上がった。以後、ロシアの歴史は、モンゴル的な占領・拡大政策と、それ以前からずっと続けて来た絶え間ない「借用」の連続である。

こうして、タタールのくびきは終了し、敵は弱体化し、駆逐されたが、それでも自分たちは踏みにじられ、痛めつけられ、今も絶えず脅かされている弱者だという被害者意識はなくならなかった。その弱者性と屈辱感と恥の意識を覆い隠すために、より一層、国家権力の強化に励み、他国を凌駕しようとの強迫観念から抜け出せなくなったのが、それ以後のロシアなのではあるまいかという気がしてならない。

とにかく、ロシアという国の国家観の根底には、自国の発展と威信強化のためならば、自国民や他国や果ては世界全体がどうなろうとも構わないといった発想があるように思われてならない。なぜ彼らはそこまで「国」というものの強化にこだわるのか? 強迫観念のようなこの思想は、タタールのくびきをきっかけに生まれたものではないとしても、かつて異民族の統治下に置かれて、自国が占領され、抑圧され、消滅同然となった時代に、より強化され、こうして傷つけられて失われた国家の自己イメージを今も引きずり、絶え間ない恐怖と屈辱感に脅かされているために、その傷ついた自己を救うために、永遠に自分を脅かす敵がいなくなるまで、世界征服を模索し続けねばらないという思い込みが生まれているのではないだろうか。

このような批評を「あまりにもひどい一方的で根拠なき感情的な決めつけだ」と考える人がいるならば、ロシア人がかつてシベリアの強制収容所でどのような生活を送ったのか、その記録を読んでみれば良い。同胞同士がどれほど憎み合い、殺し合い、貶め合ったかが分かるであろう。何よりも国力強化のために、このように憎悪すべき強制収容所群島を国中に作り上げ、自国民を徹底的に虐げ、収奪するシステムを完成させたこと自体、ロシアにおける「国」の概念が、どれほど恐ろしく歪んでいるかをよく物語っていると言えよう。

そして、大変、残念なことに、ロシアという国の持っているこのように傷ついた自己イメージ、被害者意識、それを跳ね返すために生まれて来る歪んだ世界征服の夢(メシアニズムの思想)は、かなりの部分がほとんどそっくり、今日の我が国の国家像にも当てはまるのである。

* * *

・安倍氏とプーチン氏に共通する「被害者意識」と、これを跳ね返すためのマッチョイズムとしてのナショナリズム

ソ連が行ったシベリア抑留や、北方領土の占領、またロシアの社会主義化などの出来事のために、我が国では、相当長い間、ロシアに対する不信感が国民に根付いていた。また、プーチン政権に対する我が国世論の批判や不信感も、つい最近まで相当に根強いものがあった。それが激変するのは、明らかに、安倍政権になってからのことである。安倍氏がプーチン氏との個人的な親密さを積極的にアピールしながら、領土問題の解決を自分の手柄にしようと動き出してから、それまで暗黙の了解となっていたロシアへの不信感が、世間で語られなくなって行ったのである。

何度か書いて来たことであるが、安倍政権の思想的特徴は、プーチン政権と本質的に同じである。また、人間としての両者の人格的な欠点も非常に酷似している。彼らには、一部では、サイコパスや、自己愛性人格障害といった評価も向けられているが、それも当然であろう。飽くことのない権力欲、人前で栄光を受けることを愛してやまない名誉欲、困っている人間には同情的なそぶりを見せながらも、人の弱みをとことん利用して出世の手段として行き、その陰で反対者は容赦なく力で抑圧し、駆逐して行く。非情さ、冷酷さ、猜疑心、復讐心の強さ、などは互いに似通っている。
   

安倍政権によるメディア懐柔・統制はすでに批判を浴びて久しいが、プーチン政権に逆らって殺害されたり、不明な死を遂げたジャーナリストの噂も絶えない。

日曜未明、あるジャーナリストの不審死と、先を行く205人のジャーナリストの死 (2016年8月29日)(HKennedyの見た世界から)

「ヴラジミール・プーチンが大統領に就任してからのロシア、及びロシア連邦で暗殺されたり、不審死を遂げたジャーナリストの数は205人に上ります。」

プーチン政権下、暗殺されるジャーナリスト達 
 

  
安倍氏がしきりにプーチン氏を評価するのは、ただ単に同氏が領土問題をきっかけに脚光を浴びたいだけではない。その接近には、何よりも、両者の持つ思想的な親和性が影響しており、安倍氏の目指す理想的な統治像が、プーチン政権にこそあることが影響している。

安倍氏の目指す「美しい日本」像は、プーチンの掲げる「強いロシア」と本質的に同じなのであり、それは我が国においてかつて否定され、退けられた軍国主義・国家主義の再来を意味する。

両者の思想的な親和性がどこから生まれているのか、その理由は、安倍氏と密接な関わりのある統一教会の思想を考慮しても、理解できることである。すでに述べたように、統一教会はかつて「共産主義の脅威」に対抗することを目的に掲げながら、共産主義との闘いの過程で、政敵からすべての忌むべき手法を自分自身の内に取り込んで行った。統一教会が共産主義と一体化した過程は、統一教会の組織である国際勝共連合の掲げる「核武装」や「憲法改正」、「スパイ防止法」などのスローガンが、すべてもとを辿れば共産主義国が実施した人民統制の手段と重なることからも理解できる。これはモンゴル統治を廃するために、ロシアがモンゴル統治と一体化して行った過程とよく似ている。統一教会は、表向きには共産主義と闘っているように喧伝しながらも、実際には、共産主義を手本として、その手段を己が内に取り込むことで、自己の権力拡大の手段としたのである。

そこで、このような全体主義・宗教カルトに関わる全ての人に、今日も、親ロ的な思想が伝統のように受け継がれているのは不思議ではない。KGB出身のプーチン氏の統治方法がソ連時代に極めて酷似していることが示すように、また、日本にいるロシア研究者の数多くが今日も思想的には共産主義に親近感を抱き続けているように、たとえ時代が変わっても、彼らは本質的には今も変わらず共産主義者のままなのだと言って差し支えない。筆者は、共産主義思想ももとを辿ればグノーシス主義思想に行き着くものと考えているが、グノーシス主義とは、元来、被害者意識から生まれるものであって、何よりも「神に対する人類の被害者意識」から発生する思想である。聖書の神によって罪に定められた人類が、被害者意識によって神に敵対して団結し、神の下した判決を覆して自力で自分を無罪とし、名誉回復を遂げようとする思想がグノーシス主義である。

安倍氏には同氏が国家観として持ち続けている「被害者意識」に加えて、個人的なルーツとして持ち続けている「被害者意識」もあり、この二つは安倍氏という個人の人格の中で密接に結びつき、同氏は双方の「名誉回復」を目指している。安倍氏の政策がどれほど対米隷属的だと批判されようとも、同氏のルーツを辿れば、安倍氏が心からの親米派であるとはおよそ考えられないのもそのためである。同氏が望んでいるのは、一時はA級戦犯とされ死刑に処されるかという恐怖を味わった祖父の「名誉回復」であり、それによって自分自身のルーツを「浄化する」ことであろう。だが、そのようにして祖父を名誉回復するためには、どこかで「米国のくびき」を跳ね返すことがぜひとも必要であり、戦勝国によって下された審判を覆して汚名を返上せねばならない。その意味も込めて、ロシアへの接近をはかっているのではないかと考えられる。(だが、以下に書く通り、こうした行為はすべて祖国への裏切りとして、したたかに報いられるであろう。ロシアに接近しても、北方領土の返還にはつながらないどころか、安倍のこうもりのような振る舞いの陰で、同氏は最終的には米ロの両国に裏切られ、敗戦時と同じように、米ロによる新たな日本の領土の占領・分割という悲劇を招くことにもつながりかねないと懸念する。)

さらに、上記したようなロシアが国家像として抱えている「傷ついた自国のイメージ」と、それを跳ね返すために「強い国を取り戻そう」とするスローガンは、敗戦によって「屈辱を受けた」ゆえに、これを「跳ね返さなければならない」と考える、安倍氏を含む日本会議メンバーのような人々の心境にも重なる部分が大きい。

内心では、自国の占領、抑圧、消滅の恐怖を今も持ち続け、歴史的事実のために屈辱感、劣等感に苛まれているという共通点があればこそ、彼らは一人のリーダーのもとで団結する「強いロシア」の国家主義にも親近感と憧れを抱くのである。

ロシア国家が国民性として抱える「傷ついた自己」の本質については、次のような指摘もある。
  

ロシア、アメリカ、日本のナショナリストの抱える危険(HKennedyの見た世界 2016年8月30日、太字、赤字は筆者による)

現在のロシアにあるのは、共産主義というイデオロギーではなく、プーチン大統領を筆頭にしたマフィア集団に政権を牛耳られたロシア・ナショナリズムです。これを要約すれば「すべて周りの国々は我々に対抗している。我々は敵によって周りを囲まれている。我々は強く在らなければならず、プーチンを必要としている。プーチンのみが我々を救う事が出来る」という考えです。

但し、言ってみればこのような主張は、ロシアのナショナリストだけではなく、日本のナショナリストやアメリカのナショナリスト(多くのナショナリストはトランプ支持者です)の間にも広まる『被害者意識』に繋がります。

外国や周辺国が危害を与えようと自分たちの国に敵対しているという『陰謀説』から来る『被害者意識』の蔓延るナショナリズムには、他者(他国)との共存や協力は全て『売国奴』『国の敵』と映ります。ここから考えても、国中にプロパガンダを流してナショナリズムを鼓舞しているプーチン大統領が、外国との連携や協調路線や柔軟路線をとることは無く、又対日外交で言えば、北方領土を返還する意思が微塵も無い事はあまりにも明らかであり、強権を振るうプーチン大統領なら「解決するかもしれない」のではなく、プーチンだからこそ「解決にならない」ことを見極めるべきです。

  
以上の記事では、ロシアの国家の本質は、「すべての国がロシアに敵対している」という「被害者意識」にあるとされる。今日、状況はまさにそれに近いものとなっているので、こうした思い込みは全く根拠がない単なる被害妄想とも言い切れない有様だが、しかし、こうした敵対状況すらも、場合によっては、より深い次元では、ロシアが抱える「被害者意識」が現実に投影されて起きて来たものと見ることもできる。(あるいは、ロシアが己が利益のために、「米国という世界的巨悪に対し、孤立状態に陥ってでも、決然と立ち向かう勇敢な一国」の姿を好んで演出しているという見方もできる。)

だが、このように「周辺国から敵対されている」という被害者意識・危機意識は、「中国の脅威」などをしきりに煽る安倍晋三の「被害者意識」とも共通するものがある。両者ともに、「自分は脅かされている」という危機感から抜け出すことができず、他国に対する不信感・敵意・不安を煽ることによって、それを自己の政治権力強化の手段として行く点は同じである。仮想敵を作り、対立や被害者意識を煽ることによって、「強い統一的なリーダーのもとに国民が一致団結し、国家を強力な防衛の砦としていくこと以外に、我が国民が身を守る術はない」などと訴え、国と自分自身を同一視し、自分という政治的なリーダーの下に国民を集結させようとする政治手法は極めてよく似ている。

こうした人々にとっては、平和が訪れるよりも、敵が存在し、国が危機に晒されているという恐怖感が絶えず国民の間に存在する方が好都合なのである。

かなり古い記事ではあるが、以下のような記事も、プーチン氏個人の世界観をも読み解く鍵となるであろうと思う。「荒海でクジラ撃ちのプーチン首相、「人生は危険なもの」とうそぶく」(2010年8月27日)AFPBB News

全世界が自分に敵対しているという被害者意識を持ち続けていればこそ、こうした人間たちは、人生を絶え間ない権力闘争に置き換え、周囲の人間を「敵か味方か」に二分し、飽くことなく闘争や、スリルに生きることが人生であると捉える。彼らにとっての人生とは、最初から安息の場ではなく、絶え間ない闘争でしかない。このような人間には、他者を信頼するとか、愛することはできない。だからこそ、その証拠に、長年連れ添った伴侶をも離縁してしまうか、家庭内離婚状態となり、家庭に決して平和が訪れないのである。それは彼らが人生の目的としているものが、最初から、家庭の安らぎとは程遠いものだからである。

だが、そのようにして対外的な危機ばかりを煽り、疑心暗鬼から武装を強化し続けていれば、いずれ叫んでいた対立が本当になる日が来ないとも限らない。だから、このような心理的傾向を持つ二つの国の接近は、大変、危険なものであると言える。何よりも、共に被害者意識と疑心暗鬼に苛まれるだけの二つの国の間に、決して真の友情と連帯などあり得ない。あるのは、どちらが先に食うか、食われるか、という問題だけである。


・ロシアはソ連時代と本質的に変わらない――決して北方領土を返還しないばかりか、さらなる領土侵略に及ぶ危険性を考えなければならない
  

侵略国家ロシアは「北方領土」を返さないばかりか北海道の侵略占領を狙う

 「平和条約の締結」は、ロシアが違法に侵略して占領し続けている日本の北方領土を日本に返還し、謝罪と賠償をして、結ばれるものだ。つまり、ロシアが国際法を守り、侵略を否定する「平和愛好国家」に転換したときに結ばれるものだ。だが、そんなことはありえない。ロシアは2008年8月にはグルジアを軍事侵略したのだ。これを、安倍首相のブレーンであり、反米の思想工作を巧みに展開する中西輝政京大名誉教授は強く支持した(私の2013年11月21日脱の文の2節参照)。中西氏は安倍首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(2013年9月10日)の委員である。ロシアは、シリアのアサド独裁政権を支援し、化学兵器の原料を提供してきた国だ。

 つまり、 2月8日の日露首脳会談での、<戦後68年間にわたって平和条約がないという異常な状態を終わらせなければいけない>というプーチンの「認識」は、日本国民を騙すための嘘である。同じく安倍首相の「同認識」も、国民を騙すための嘘である。

<略>

 新ロシア帝国は、マルクス・レーニン主義は棄てたが(共産主義では経済を発展させることができないこと、西側自由主義国を騙すため)、ソ連時代のKGBによる国内弾圧体制と、ソ連時代の対外政策=侵略主義を断固として継承したから、国家の本質はソ連時代と同じである。

 ソ連時代の対外政策の侵略主義は、帝政ロシアの対外政策の継承であった。沿海州のウラジオストクは、「東方(日本)征服」の意味である。新ロシアの国章は、帝政ロシアの「双頭の鷲」である。新ロシアの国歌のメロディーは、スターリン作のソ連のものであるし、レーニン廟もソ連時代のままである(中川八洋氏『地政学の論理』17,18頁参照。2009年5月刊)。このように「新ロシア」と称しているが、本質はソ連時代の継承であり、悪の帝国なのだ。

 なによりも、新ロシアの支配者はソ連時代と同じだ。 旧東欧諸国のように、弾圧されていた側が政権を取ったのではない。ソ連共産党の代わりをKGBが担うようになっただけであり、「ソ連崩壊」は、「国家の偽装倒壊」なのである。西側は騙されたのである。

  
「悪の帝国」などという半ば陳腐化してしまった台詞にも見られるように、以上のような記事に、学術的な検証としての価値を見いだすのは困難かも知れないが、しかし、言わんとしていることの趣旨はそれなりに理解はできる。

プーチン氏が、いかに表向きはソ連時代への反省と共産主義と訣別したと宣言し、ロシアが新しい国家として出発したように見えたとしても、実際には、それは見せかけに過ぎず、国家の本質は変わっていないというのである。そのことが、現在のロシア国歌にも表れており、KGB出身のプーチン氏が長期政権を維持している事実にも表れており、レーニン廟が一度も取り払われたことがない事実にも表れているのだという。

そして、ソ連の本質とは、絶え間ない拡大・膨張(侵略)政策であった。それは今も変わらないロシアの国家政策である。別の指摘では、ソ連時代、東欧も含め、ロシアと「平和・友好条約」などといった美しい名前の条約を結んだ国は、ほとんど約束を裏切られて侵略の対象となった。たとえば、アフガニスタンは、1978年にソ連と結んだ善隣友好条約が口実となって、翌年、ソ連に侵攻された。日本はかつて日ソ中立条約に違反して、ソ連からの対日参戦を受けた。こうしたことからも、ロシアにとっては、「中立」や「平和」や「友好」といった名のつく約束は、ただ相手方の行動の自由だけを縛っておいて、自分は約束など無いがごとくに好き勝手に振る舞い、自分にとってのみ有利に事を進めるための裏切りと侵略の第一歩でしかないと見る向きもある。

いずれにしても、ソ連に形式的な終止符が打たれたからと言って、それだけを持って、ロシアという国の、こうした信頼のできない不誠実で裏切りに満ちた歴史的な習慣、ずるくて抜け目のない国民性がなくなったと考えるのは早すぎるであろう。まだソ連時代に学校教育を受けた人々がこの国では若者層を支えている。そうしたことだけを取っても、共産主義のイデオロギーが、体制の変革と共にただちに消え失せたと考えることはできない。

だが、共産主義にこだわらずとも、ロシアという国は、歴史上、強大な国家権力が絶え間なく拡大を続けながら、自国の民衆を容赦なく抑圧するという道を外れたことが一度もない国である。赤の広場はかつてイヴァン雷帝によって人民の公開処刑が行われた場所でもあった。このような悲劇的な過去を持つ国家としてのロシアの本質は、今後も決して変わらないであろうと筆者は考えている。

何よりも、歴史的事実によって傷つけられた自己イメージを、軍備の増強や、国家の威信強化といった表面的な手段(マッチョイズム)で補うとすること自体に無理があるのだ。そのようにして、自己の内面と向き合って、真の健全さ、高貴さを身に着けるために、何が必要なのかを考える代わりに、ただ手っ取り早く他者の持っている優れた価値を強奪したり、仮想敵を作り出すことによって、諸悪の根源が自分以外の何者かにあるように見せかけ、これを口実に軍備を増強し、周囲を屈従させることによって、仮に世界一の座を手に入れたとしても、そんなことで一流国としての気品が身に着くことはない。そうしたことによっては、より一層深い疑心暗鬼と対立関係が生まれるだけで、傷ついた自己イメージが回復されることもなければ、決して本当の安らぎと満足もやって来ない。真の尊厳は、人間の場合も、国家の場合も、等しく内側から始まるのであって、外側から身に着けることはできないのである。

そして、我が国は、敗戦を経て、軍国主義や国家主義とは訣別したはずであるが、「お上」を至高の価値とする以上の価値観を未だ持てず、何事も個人から出発せず、「お上」から出発してしか考えられないない点で、ロシアと同じような精神的遅れを抱えて今日に至っている。そして、かつて大国になろうとして失敗したという汚名を返上するために、より一層、強い国作りに励まなければならないという強迫観念に駆られている点でも、ロシアと似ている。国家としての自信、品格、プライド、尊厳などを、内側から支えるための真の心の支柱を未だに持てず、それを外側からの「借り物」によって補強しながら、「国家」だけをハリボテのように増強し、今またいつかきた道を逆戻って行こうとしている点で、我が国はロシアと非常によく似た病理現象に陥っているのだと言えよう。

このように欠点を同じくする者同士が、己が欠点には目をつぶりながら、互いを誉めそやし、美化し合って、手を結んだ日には、今まで以上の悲劇が起きるであろうと予測するのは当然である。このような光景に対して、筆者がかけられる言葉は次の一言だけである。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(テモテ3:13)

だから、筆者は、我が国がロシアに接近することは、我が国にとって何のメリットもなく、それどころか、有害な結果をもたらすだけに終わるだろうと確信している。安倍政権がこれまで推進した政策のうち、どれ一つとして、我が国の国益にかなったものはなかったが、とりわけ、ロシアには北方領土を返すつもりなど微塵もない。北方領土を餌にして、我が国はロシアの国益のために仕えさせられ、シベリア・極東開発に存分に利用されるだけで、したたかに欺かれて終わるであろう。それくらいであればまだ良いが、米ロの間に本当の対立が起きた日には、我が国はどちらからも裏切られ、国土が真っ二つに分割されるなどという悲劇にも巻き込まれかねない。そうなった日には、シベリア・極東開発という名目で現地に送り出された我が国民は、シベリアに取り残され、帰国もかなわなくなって、またも第二のシベリア抑留のようなことが起きるだけである。

* * *

・文学的主人公に擬人化されるロシアの傷ついた自己イメージ

エフゲニー・オネーギンの人物像には、ロシアという国の一般的な国民性、また国家観が象徴的に込められていると筆者は見ている。むろん、これは文学的な創作の主人公であり、同種のアンチヒーローとしての「余計者」の系譜は、オネーギン一人では終わらないのだが、オネーギンの人物像は、「傷ついたロシア」の自己イメージを非常に簡潔に象徴的に体現していると言えるのではないかと思う。

オネーギンは、上流階級の出身であるから、うわべは立派で、紳士的で、教養や知識もある前途有望な青年である。ヨーロッパの水準に比べても劣らない立派な教養人であり知識人の紳士であるように、人目には映ることであろう。何よりも、彼は世渡り上手で、空気を読むことに長けており、社交の場では自分を上品に、賢く、魅力的な人間と見せかける術を持っている。彼は人の心を上手に掴むことができる。だが、それは計算づくの行動で、当世風の流儀の上手な模倣に過ぎず、彼の内心は深く心傷ついており、病んで、自信を喪失している。そのため、彼には社会において決して自分のあるべき居場所を見いだすことができず、他者を本気で愛したり、信頼することもできず、人間関係においては、ただ自己の利益のために、相手を期待させて利用しておきながら、したたかに裏切り、傷つけることしかできない。外見は知識人だが、知識人として当然、持っていなければならない倫理や道徳が、彼には決定的に欠けているのだ。

オネーギンにはまだサイコパスとまでは言い切れない、良心の呵責や、ためらいや、後悔も含めた人間らしい感情が備わっているが、それでも、彼の人格は、深い所ですでに致命的な根腐れを引き起こしており、どんな反省も後悔も彼を変えることはできない。彼の傷ついた人格は、決して彼の人生において、あるべき決断をさせず、軽薄でうわべだけの利益になびいて、本質的に重要なものを常に見誤らせ、他者との長続きしない不誠実な関係を結ぶよう仕向けるだけで、彼をどんどん不幸においやってしまう。そのため、オネーギンの人生に巻き込まれた人々は、みな結果的に不幸になる。タチヤーナは一見、優しく誠実な女性のようであるが、彼女の生涯を通じての振る舞いも、オネーギンには何の薬ともならず、彼女はただオネーギンの犠牲者としての立場を抜け出ることはできない・・・。オネーギンに対する処方箋はロシアにはないのである。

オネーギンというのは、単なる創作上の主人公ではなく、「傷ついたロシア」そのものを擬人化した人格だと言えるのではないかと筆者は考えている。同種の人格は、他の文学的創作にもおおむね受け継がれているが、こうしたアンチヒーローは、ただ単に創作上の存在であるだけでなく、ロシア人が国民性として歴史的に常に抱えて来た根深い心理的なコンプレックスと、歪んだ被害者意識と自己憐憫、その心の傷ゆえに、彼らが正しくあるべき関係をどんな他者ともきちんと構築できず、常に嘘や騙しや利用や裏切りといった、他者ばかりか、自分自身にとってもいずれ手痛いツケとなって跳ね返って来るような有害な関係しか結べないという重大な精神的・人格的な欠点を象徴的に示しているように思われてならない。

むろん、すべてのロシア人が同じ人格的欠点を持っていると言うつもりはないが、それでも、こうした人格には、創作の域を超えて、何かしらこの国全体に共通するような深い意味が込められており、ロシアという国の未来が抱える絶望が象徴的に暗示・投影されているように感じられてならない。どんなに個々のロシア人が誠実であっても、国家としての運命全体が不幸であるならば、個人がそれに巻き込まれることを避けるのは難しいであろう。

歴史的に、ロシアの良心的な知識人は、国全体が抱えるこの心理的な傷をどのように克服するかという課題を常に切実なものとして受け止め、ロシアという国から何とかこの不幸の源を切り離して、誠実で温かな心を取り戻して、平和と安息に満ちた国を作ろうと模索した。だが、彼らはその解決方法を見いださなかった。そして、ロシアは国全体として、常に誤った道を選び取ることによって、この問題と向き合うことから目を背けて来たのである。

すなわち、国力のさらなる強化というマッチョイムズへの傾倒によって、己が内面の空虚さ、傷、腐敗を覆い隠し、自己の抱える恐れや劣等感や屈辱感を、うわべだけの模倣や、力によって補強し、他国を制圧することで憂さを晴らそうとする間違った方法を取った。武装することによってしか、人格的欠点を覆い隠せないほどに危険なことはない。傷ついた人格に強力な武器をもたせるのは、周囲にとっては重大な脅威以外の何物でもない。

オネーギンは傷ついた国家、傷ついた国民性の象徴であり、我が国の国民性とも決して無縁とは言えない欠点を持っているのだが、オネーギンと我が国の国民性の違いがあるとすれば、それは我が国にはオネーギンほどの狡猾さ、したたかさがないという点であろうか。もしそうだとすれば、なおさらのこと、我が国は、到底、ロシアのような国を相手にしてはならないと言えよう。もし人生を幸福に送りたいならば、これは決して出会わない方が良く、決して関わるべきでない危険なタイプの人格である。

現在は、米国のやりたい放題の陰で、ロシアが多くのことでいわれなく非難され、国際的に追い詰められているがゆえに、ロシアを被害者のように見て、「可哀想」と考えたり、逆に反米感情からロシアに拍手を送るむきも世間には存在するものと思う。筆者は米国を擁護したいたがために、ロシアのイメージを貶めようとしてこう述べているわけでは決してない。だが、ロシアについては、決してこの国の言い分をいかなる点についても信用しないことが得策であるというのは、歴史があらゆる場面で物語っていることではないかと思う。だから、現状の政治的孤立状態を利用して、この国が自分をあたかも「可哀想な存在」であるかのように見せかけて、被害者のように同情票を得ることもまた彼らの戦略の一環であるから、それに加担しない方が良いと言えるだけである。ロシアはそもそも他国から同情を受けなければならないようなか弱い存在ではない。国家の沽券にかかわる問題については、恐るべき強固なプライドを持って、どれほどのすさまじい犠牲を肯定してでも、面子を守り通そうとする。まさにその途方もないプライドと力こそが、被害者意識と表裏一体をなしているのであって、そのような強さは、本質的には悪であって、決して同情に値するものではない。そのことを見抜けなければ、他国に同情しているつもりが、したたかに利用され、気づいた時には犠牲者にされるだけに終わるであろう。

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真の謙遜とは何か(3)

謙遜と信仰は、聖書においては、多くの人々が知っている以上に、密接な関係を持つものとされています。このことを、キリストのご生涯においてながめてみましょう。主がりっぱな信仰について語られた場合が二つあります。

主は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長の信仰に驚嘆されました。それに対して彼は「先生を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言ってはいないでしょうか。また、主から「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われた母親は、小犬と呼ばれることに甘んじ、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」と言わなかったでしょうか。

たましいをして神の御前になきに等しい者とするのは謙遜です。それはまた、信仰のすべての障害を取り除き、神に全面的によりたのまないことにより神に不名誉をもたらすことだけを恐れさせるのです。

主にある友よ。私たちが聖潔の探求において失敗する原因は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの献身、私たちの信仰をこの上なく皮相的なものとし、この上なく短命なものとしていた理由はこれではないでしょうか。たとい私たちが知らなかったとしても。

高ぶりと自我が今なおひそかに私たちのうちに働いていること、神のみが私たちのうちにおはいりになり、その強い御力をお用いになることによってそれを追放することがおできになること――私たちは、これらのことを全く知りませんでした。私たちは、古い自我と全面的に取って代わる新しい神の性質のみが、私たちをほんとうに謙遜にすることを理解していませんでした。

絶対的な、不断の、普遍的な謙遜が、他の人に対するすべての取り扱いの基礎でなければならないとともに、またすべての祈り、すべての神への接近の基礎でもなければならないということ、そして全面的な謙遜、心のへりくだりなしに神を信じ、神に近づき、神の愛のうちに生きようとするのは、あたかも目なしに見、呼吸なしに生きようとするようなものであること――私たちは、これらのことを知らなかったのです。

主にある友よ。私たちは次のような失敗をしてはいなかったでしょうか。すなわち、信じようとして非常な努力をしながら、他方においては、高ぶった古い自我があって、それが神の祝福と富を所有しようとしているといった失敗をしていなかったでしょうか。私たちが信ずることができなかったのも無理もないことです。私たちの方針を変えましょう。

まず何よりも先に、神の力強い御手の下に、私たち自身が謙遜になりましょう。神は私たちを高くしてくださるでしょう。イエスがご自身を低くされた十字架、死、そして墓は、神の栄光への道であったのです。私たちの唯一の願い、私たちの熱烈な祈りの題目を、彼とともに、そして彼のようにへりくだることとしましょう。神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。

アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.65-67.


これまで、真の謙遜とは何かというテーマで連続して記事を書いてきた。各記事の冒頭に挙げているアンドリュー・マーレーの言葉は、記事本文とだいぶ調子が異なるため、ともすればどんな脈絡があるのかと問われそうにも感じられるが、それでも、謙遜というテーマについてのこの引用文はあえて残しておきたい。

上記のマーレーの文章の中から、今回は「神の祝福と富を所有する」という、クリスチャンが犯しうる大罪について注目したい。そして、多くのクリスチャンが謙遜への道だと誤解しながら、知らずに陥りがちな誤謬について、この場で考察しておきたいと思うのだ。

これまでの一連の記事において、筆者は、真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、ということを信者が余すことなく認識し、神がキリストにあって自分にお与え下さった自由や権利を十全に行使できる状態にあることを指すと書いた。それは信じる者が、自分の不完全さにより頼まずに、神の完全さにより頼んで生きることである。

しかしながら、この世における謙遜は、これとは全く逆に、人が自分の不完全さを強く認識し、自己の欠点を己が努力によって克服しようと努めることによって、自己を抑圧するか、もしくは自分の正当な権利までも自主的に放棄して、自分を弱く、低く、無力に見せかけることを指す場合が多い、ということについて触れた。

ともすれば、以上に挙げたアンドリュー・マーレーの言葉も、そうした文脈で誤解されたり、悪用されたりする危険性があると言えるであろう。マーレーは書いている、「神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。」

このような言葉を使って、「神と人の前にへりくだりましょう」ということを口実として、教会の権威者や信者が、他の信者を組織の序列の中に組み込み、権威者の言い分に従うことを「へりくだり」であると思わせ、人の思惑の中に信者を拘束し、あるいは無権利状態に甘んじるよう誘導することはたやすい、と筆者は思う。しかし、マーレーはもちろん、そのようなことを意図して上記の文章を書いたわけではなく、人の目に謙遜だと評価されたいがために世の思惑や、人の思惑を気にして、それにがんじがらめに支配され、て生きることと、神の御前での謙遜は全く異なる事柄である。

神の目には、そもそも人間が自分の力で自分の欠点を克服しようとすること自体が、謙遜ではなく、むしろ、高慢である。神の御前の謙遜とは、人が自分の弱点や問題を自分の力でどうにかしようという希望を一切捨てて、自分そのものを全く処置不可能な堕落した存在として神に委ね、御言葉に基づいて、神がこれに霊的死を適用して下さった上で、十字架を通して新たな命によって生かして下さることに完全に期待することを意味する。

しかし、世間では、幾度も指摘してきた通り、それが全く逆にとらえられている。そして、その誤った考え方は、クリスチャンの間にも、根強く広まっている。今回は、そのようなことが起きる背後に、誤った世界観が横たわっていることを理解し、クリスチャンが以上のような誤謬に陥って人や世の思惑にがんじがらめにされることなく、キリストにある完全さ、自由を手にして、人としてあるべき姿に生きるヒントを見つけることができればと考えている。

信仰をもたない世間、特に我が国の一般社会では、もし人が世間から「謙虚な人間」とみなされたいならば、決してその人は自己の諸権利などについて主張せず、むしろ、自分に与えられている当然の権利を行使するにあたっても、自分はどれほどそうした権利に値しない未熟者であるかということをしきりにアピールする必要があるかのように思われている。自分の権利ばかりを当然のものとして主張する人間は、「わがままだ」とみなされてバッシングされる風潮が強いからである。

そこで、人は自分が権利ばかりを当然のように求めているわけではない、と見せかけるために、自己卑下を繰り返し、自分がいかに諸権利に値しない人間であるかを人前で強調するだけでなく、自分の未熟さや欠点にも積極的に言及し、己が欠点をどれほど切実に自覚しており、自分を未熟者と考えているか、自己の欠点を克服しようとどれほど真面目に努めているか、それにも関わらず、その痛ましいまでの努力が、今に至るまで、どれほど実を結んでいないか、ということをも、ワンセットで強調することが一種のお約束事となっている。

もし誰かが「これだけ努力したので、私はもう自己の欠点をすでに克服し、ひとかどの人間になりました。そこで、私は自分に与えられている諸権利に十全に値する人間となったと思いますので、この権利を当然のものとして要求します」などと言おうものならば、その人は世から「若造に過ぎないくせに、何と高慢なことを言うのか。厚かましく自分の権利を要求する前に、自分の果たすべき義務について考えろ。もっと果たすべき努力が残っているのではないか」などと言われ、バッシングされかねない風潮がある。そこで、人々はそういったことが起きないための自己防衛策として、「私は自分の欠点をよく自覚しており、自分が様々な権利に値しない未熟者であることをよく分かっています。そして、目下、欠点を克服する努力はしているのですが、残念ながら、未だ道半ばで、思ったほどの成果が出ていません。きっとそれも、私の努力が足りないせいか、あるいは私が愚かで知恵が足りないせいなのでしょう・・・」などと、どこまでも自己卑下を繰り返しながら、いかに自分が一人前の人間からほど遠いかを強調することが普通に行われている。そのような自己卑下を繰り返す人間が、世間では「謙虚だ。自分の分をわきまえている」とみなされるのである。

言い換えれば、この世においては、何事についても、「達成した」と言うこと自体をタブー視するような暗黙の風潮が存在するのである。何かを「達成した」と主張することは、「自分はひとかどの(一人前の)人間になった」と主張することに等しいが、生きた人間が「一人前の人間」になること自体、社会では、一種のタブーとみなされていると言っても良い。そこで、誰かが何かを「達成した!」と述べと、それ自体が、「とんでもない高慢だ」とみなされる危険性があるのだ。

むろん、キリスト者ならば、なすべきことを「達成」された方は、キリストお一人であることをよく知っている。私たち信仰者は、キリストの十字架における死と復活に同形化されることによって、彼の達成された御業を自分のものとして受け取る。彼の御業にこそ、キリストにあって、信者が受けとることのできる完全さ、安息、自由、達成が存在する。ただキリストにあってのみ、彼の死と復活と一体となることによってのみ、信者は自己の努力による一切のもがきをやめて、自分自身を神に受け入れられる清く、貴く、完全な人間とみなして、安息することができる。それはただ御子の達成された御業によるのであって、信者の自己の努力の結果ではない。

キリストの中にこそ、「完全な(成熟した一人前の)人間」が存在する。信者は地上においては霊的に幼子のようで未熟であったとしても、キリストを信じて受け入れた時から、神の目には、彼の完全さをデポジットのように受けとっているのである。

だからこそ、信者はキリストにあって安息し、自分の未熟さを自分で克服するための努力をやめて、御子との達成の中で安らぐことができる。キリストにあって、自分を不完全で罪深く未熟な存在とみなして、責め続けたり、卑下することをやめて、キリストを通して、彼の持っておられる権威、自由、祝福を受け取り、これを行使することができる。ところが、そのようにキリストにあって信者が新しい自己の完全を受け取って生きることをも、世の風潮は「高慢だ」とみなして、激しくバッシングする。そして、あろうことか、この世的な偽りの「謙遜」の概念に欺かれた信者が、自分ばかりか、他の信者からも、神がキリストを通してその信者にお与え下さった権利を奪い取り、自由を妨げようとすることも、しばしば起きている。だが、そのようなことは神の御心ではない。神は人を自由にするために、御子を送って御業を成し遂げられたのであって、「謙遜」の名の下に、人間の思惑に信者をがんじがらめにするために十字架が存在するのではないからである。

そのような歪んだ捉え方が生まれる背後には、(グノーシス主義的)世界観がある。(ここで言うグノーシス主義的価値観とは、聖書のまことの神の御言葉に基づかない異教的価値観の総称として、筆者が広義で用いているものである。)

長い説明はさて置き、ここでは結論のみ述べたいのだが、たとえば、仏教では、仏陀は死後も現在に至るまで修業中ということになっているが、こうしたところに、グノーシス主義的世界観が顕著に表れていると言えるのではないかと思う。グノーシス主義とは、一言で言えば、人類が自らの努力によって神の叡智に達するための、果てしない探索の過程だと言えるかも知れない。しかしながら、クリスチャンであれば、誰しも分かっている通り、人類が自己の努力によって「叡智」に達し、それによって安息を得る日は決して来ない。だから、そこで言われている「悟り」というものは、事実上、あってないようなものだと考えて良い。死後、何百年間と終わらない修行によって得られる「悟り」などというものは、一種の言葉遊びのようなもので、無に等しいと言って差し支えない。さらに、すでに悟りを得た人間が、死後に至るまでも、さらなる悟りに達するために修行を積まねばならないのだとすれば、そのような人間の弟子となった人間の誰も師匠を超える悟りに達し得ないのは当然である。つまり、こうした世界観においては、人は死後に至るまでも、終わりなき永遠の努力を続けるしか道がないのである。

グノーシス主義的な世界観には、必ず、終わりなき無限のヒエラルキーがつきものであり、こうした世界観が反映する社会でも、無限のヒエラルキーが肯定される。そこでは、この世だけでなく、死後の世界においても、霊界のヒエラルキーなどというものがあることにされて、人の霊魂は、生前のみならず、死後においても、さらなる高みに上昇するために、絶えざる努力(修行)を積まねばならない決まりになっている。

つまり、グノーシス主義的世界観とは、人間の霊魂が(神のような高みに)上昇することを至上の価値とする考え方だと言うこともできるものと思う。ところが、その世界観においては、上昇するための梯子は無限であるため、どれだけ人が修行を積んでも、達成したという時が来ないのである。仏陀が未だ修行中なのも、霊界におけるヒエラルキーをさらに上に昇って行くための修行が続いているためであり、それは言い換えれば、人の魂が修行という「自己の努力」によって、「神」の高みに達しようという試行錯誤は、永遠に終わらないことを象徴的に指している。

言い換えるならば、その霊魂上昇のための終わりなき努力は、ルターが自力で登ろうとしてあきらめたピラトの階段にもたとえられよう。よく知られているように、ルターは贖罪のためにピラトの階段をひざで這い上っているうちに、人間が自力で神に到達することは不可能であるという聖書の真理に気づいて、「義人は信仰によって生きる(=人はキリストによらず、自己の努力によって神に贖われて義とされることはできない)」という結論に達し、果てしない階段を自力で上り続けることによって、自分で自分を贖い、神の聖に達しようとの努力を放棄した。

だが、信仰によって生きない不信者は、今でもこの階段を膝で登り続けている。場合によっては、死後に至るまでも、その努力はやまないのである。

多少、話は脱線するようだが、筆者はこれまで、日本の官僚制度や牧師制度などを強く批判して来たが、それはこうした制度の背後に、グノーシス主義的な無限のヒエラルキーの階段が潜んでいると考えているためである。つまり、こうした制度は単なる制度ではなく、ある種の世界観の反映として出来上がっているものなのである。

現存する社会の制度や仕組みの背後には、必ず、それに相応する目に見えない価値観・世界観が存在する。一つの制度が生まれて来る背景には、それを肯定し、生み出す原動力となった何らかの宗教・哲学的イデオロギーが必ず存在しているのである。この点に注目しなければ、ただ人の目に時代錯誤で歪んだものと見える社会制度だけをどれほど糾弾したところで、その制度の本質にまで迫って、制度自体が根本的に悪であるということを訴えることはできない。そして、歪んだ制度を支える世界観とは何かという問題を追求して行くと、ほとんどの場合、結局、グノーシス主義の終わりなきヒエラルキーに行き着くのである。

たとえば、官僚制の背後には、人に抜きんでて優秀な人間とみなされるための努力を積んで、学校で良い成績をおさめ、受験競争を勝ち抜いて、より良い就職口を得て、組織内で出世し、高給と安定的な暮らしを経て、国を動かすような組織の頂点に立つことを至高の価値とするような価値観がある。それは、人の人生とは、他者に抜きんでてエリートの階段を上って行くための絶え間ない努力の過程である、という価値観を象徴している。

牧師制度もそれによく似て、献身して神学校に入り、特別な教えを受ければ、その信者は、他の信徒とは別格の霊的な祝福を得て、信徒の模範的存在になれるかのような考えに基づいている。こうした考えには、学習を積み、知恵を手に入れた人間は、他の人間よりも優れた価値ある別格の存在として、他の人間の及ばない有利な待遇を手に入れるに値する人間となる、という前提がある。教会においては、学習を積んで、エリート的な指導者になったからこそ、牧師はその奉仕に報酬をもらうことが教会内で認められるが、信徒の奉仕は無償なのである。

このようなものは、人間の平等、信徒の平等の原則に反するエリート制度であり、聖書に合致する概念でもない。そこにあるのは、偽りの霊界のヒエラルキーの階段を上り続けた人間だけが、優れた価値ある人間になる、グノーシス主義的世界観である。

なぜキリスト教界からのエクソダスなどを筆者が唱え続けているのか、その理由もここにある。それは、既存の教会組織においては当然のものとみなされている牧師制度や(もしくはカトリックのような聖職者のヒエラルキーは)、根本的に聖書の御言葉に反しており、信徒の平等を否定するものだからである。

そのような階級制度、ヒエラルキーは、官僚制度が憲法に違反しているのと同じくらい、聖書の御言葉に反している。これは聖書的な制度ではなく、むしろ、グノーシス主義的・異教的価値観を取り込んで成立したものであり、教会の堕落やこの世との妥協を示す一例である。この問題については以下でもう少し詳しく触れる。

我が国を含め、非聖書的なグノーシス主義的世界観の支配する社会では、序列というものがほとんど絶対化され、人間存在は、無限のヒエラルキーの階段を上昇し続けるためだけに生きているかのようにとらえる。

たとえば、現在の我が国の至るところに蔓延する長時間残業の習慣化といった現象などにも見られるのは、合理性よりも、情緒的かつ無意味な、うわべだけの「頑張り」や「自己犠牲」を評価し、奨励する風潮である。効率的に仕事を終えて、定時にすべての課題を「達成して」帰宅する社員よりも、非効率的に仕事をして遅くまで会社に残って残業し、いつまでも課題が達成できないと嘆きながら奮闘している社員の方が、上司から高く評価されるといったナンセンスな評価が起きて来るのも、その背後に、以上のような考え方が存在するためである。

グノーシス主義的世界観においては、人間存在はどこまで行っても「道半ば」であって、終わりなき霊魂上昇の梯子を上り続けるための道具でしかない。この世界観において、絶対的な価値を誇っているのは、霊魂上昇のための永遠の梯子だけであって、人間はその梯子によって値踏みされる存在でしかない。だからこそ、人の人生は終わりなき苦行の連続であって、そこに完全さや、達成は存在せず、人が安息することは、死後になっても、永遠に許されないのである。

そこでは、どんなに努力しても、人は「ひとかどの人間」には到達しない。どんなに懸命に階段を上っても、その階段には終わりがなく、一つ課題を終えても、次から次へとさらなる課題がやって来るだけで、いつまでも「努力中」という看板を下ろすことが許されない。たとえ何か一つの事を達成してみたところで、それは果てしないヒエラルキーの梯子全体から見れば、無にも等しい。だから、このような価値観においては、人間の努力は全く報われず、人は何事も「達成した」と言ってはいけないという暗黙の前提が存在するのである。

ある意味では、早くそのカラクリを見抜いて、「努力中」という看板を表向きにだけ掲げておいて、その実、サボタージュに及んだ人間の方が、必死で努力し続けて報われない人生を送る人間よりもまだ賢いということになる。

だからこそ、そのような世界観の中で、己が霊魂を上昇させるための絶えざる努力をずっと続けている人々には、どういうわけか、お決まりのように、悲劇的かつ逆説的な現象が起きて来て、いつの間にか、彼らが口で唱えているご大層な理想と、彼ら自身の現実のありようが正反対のものとなり、その乖離状態・偽善性が誰しも否定できないまでになって、その矛盾を他者から指摘されてさえ、「どうせ私は努力中の身で道半ばですから」ということを口実に、自らの未熟さ・不完全さに居直るまでに至る人々が出現するのである。こうした人々にあっては、自己の努力などといったものは、単なるアリバイ工作でしかない。

このようなものは、人の努力や願いそのものをあざ笑うかのような、実に絶望的かつ悪意ある世界観である、と思わざるを得ない。このような世界観に基づいて成立していればこそ、この社会においては、人は自分がいかに未熟者であるかを強調することによって、自己卑下を繰り返さざるを得ず、自分がいかに何かを「達成した」と言える「ひとかどの人間」からかけ離れているかを、絶えず口にしないわけにいかないのである。

出る杭は打たれる」などという風潮も、その意味において単なる風潮ではなく、その背後にあるのは、グノーシス主義的世界観である。そこでは必死の努力を積んで何かを「達成した」と述べた人間が「高慢だ」とバッシングされ、「未半ばで努力中です」という看板だけを掲げて自己の欠点に居直っている人間の方が、「謙虚だ」とみなされるのである。

この世界観は人間にとって大変不幸なものである。このような世界観においては、いつまで経っても、人の努力が認められ、何かを達成したと、堂々と胸を張って安息できる日は来ない。仏陀ですら今も修行中なのだから、人間が修行から解放される時は死後も永遠に来ない。このような世界観は、非常に歪んだ、悪意ある、人を不幸にするだけのものである。それは常に言う、「人間存在とは、自己の努力によって、(いつかは神に達するために)、ピラトの階段を上り続ける宿命を負った存在だ。その苦役から永久に解放されることはできない。それをまだ始めたばかりの人間が、自分は何かを達成し、特別にこの苦役から解放されので、もう努力する必要はなくなった、などと思うのはとんでもない思い上がりだ」と。

ただし、この世界観においては、永久に達成も安息もやって来ないかも知れないが、人は自分の必死の努力のおかげで、梯子をいくらか上に昇り、下界にうごめいている無知蒙昧な衆生に比べれば、いくらかましな存在になったと自己満足する程度のことは許されるかも知れない。そのような優越感・特権意識だけが、この終わりなき梯子を自力で昇って行くというむなしい報われない努力に生きる人々を支える原動力となっているのである。

だから、こうした考えが根底に横たわっている社会においては、個人の絶対的な価値というものは否定されるのは仕方がないであろう。なぜなら、そこでは個人の価値とは、ヒエラルキーをどれだけ昇ったかによって変わって来るものだとみなされているからである。結局、そこでは、個人というものは、端的に言えば、人類が自己の努力によって神に到達するための道具でしかないのである。「神に到達する」と言えばまだ聞こえは良いかも知れないが、現実は、特攻と同じくらい、達成不可能かつ無謀な目的のために、永遠に奉仕させられる道具なのである。ただ各種の偽りの美徳でおだてられて、自分の進歩に鼻高々になっているために、この偽りの梯子の操り人形となっている個人は、自分が何をさせられているのか分からないだけである。

さて、話を戻すと、クリスチャンでさえ、以上のようなこの世的な偽りの世界観に立って、信仰生活における自らの進歩のなさを克服するために、熱心な勉強会を開いたり、祈祷会を開いたり、あるいは懸命に霊的なハウツー本のようなものを探し出して来て、クリスチャン同士教え合ったり、優れたクリスチャンの功績に習おうと頑張っているという現状がある。

この世的な観点から見れば、そのように自己の不完全さを自覚して、足りないものを補うために、熱心に勉強している信者の姿は、謙虚に見えるかも知れない。だが、一つまかり間違えば、このような勉強熱心さは、神の御前では、謙遜とは無関係であるばかりか、「神の祝福、富を、(人間が自己の力で)所有しようとする」大いなる高慢、大罪に相当する恐れが十分にある。

前回の記事において、エクレシアという語に「教会」という訳語を割り当てること自体が、不適切である、と筆者は書いた。

今日、当然のごとく使われているキリスト「教」、「教会」という呼び名は、他に相当する語がないため、一般に使用を控えることが難しい状況があるが、本当のことを言えば、これは聖書の御言葉の本質を適切に表すにふさわしい訳語とは呼べない。

そもそもキリスト教は、人間の作った「教え」ではなく、イエス・キリストを開祖としてできた宗教哲学でもなく、エクレシアとは「教える会」ではなく、「クリスチャン」のという語のもともとの由来は「キリストに属する者」という意味であり、英語の"christianity"という単語にしても、「教え」という意味は含まれていない。にも関わらず、この訳語に「教」という語が入っていること自体、不適切かつ誤解を呼ぶものだと言える。

このように不適切な訳語が割り当てられているために、キリスト教には「教え」の要素が色濃く強調されているのだが、 筆者の考えでは、これは決して偶然に起きたことではなく、ここにも、牧師制度と同じほどにグノーシス主義的価値観の反映が見られるように感じられてならない。

つまり、この訳語のために、信者の間でさえ、教会というところは、あたかも「霊的偏差値を上げるための熱心な勉強会」のようにとらえられているのである。だが、それは御言葉の正しい解釈ではなく、人間の驕りに基づくとんでもない勘違いでしかない。

前回の記事において、信者は聖書が教えている通りに、キリストご自身から、御霊を通して、御言葉を直接、教わるべきであって、人間の指導者から教えを受ける必要はないことを書いた。たとえ信徒同士で励まし合ったり、戒め合ったりすることが有益であるにせよ、信徒がキリストご自身の役割を奪ってまで、他の信徒を教える立場に立ち、他の信者を自らの精神的指導下に「弟子化」して行くことは誤っているという考えを述べた。特に、ネズミ講のような目に見えないピラミッド体系を作り、上に立つ信者が配下にいる信者から様々な諸権利を奪い取り、不当な自己犠牲を強いることによって、奉仕を受けたり、栄光を受けたりして、霊的搾取に及ぶなど言語道断である。

それにも関わらず、霊的先人たちの教えを「教本」のように用いながら、他の信者に対して、教師然と君臨し、教える立場に立とうとする信徒は枚挙に暇がなく、またそのような教師や指導者になりたがる信者に、自ら教わろうとして弟子化されていく信徒も終わりがない。このようなものこそ、まさに人間による「教え」によって作り出された霊的搾取と支配のためのヒエラルキーの体系なのである。

しかも、すでに述べたことであるが、今日、たとえば、ウォッチマン・ニーであれ、オズワルド・チェンバースであれ、誰であっても構わないが、霊的先人たちの教えをしきりに引用しては、他者を教える立場に立ち、熱心な学びをアピールしている信徒のうち、どれほどの人々が、自ら教えていることに忠実に生きているかを見てみれば良い。残念ながら、その圧倒的大多数は、心からその教えに従いたいと願っているというよりも、むしろ、自らの本質を覆い隠すための二枚舌、アリバイ工作として、霊的先人の教えを表向きに掲げているに過ぎない、という現状が見えて来る。先人たちの教えを数多くストックしつつ、他者を教え、自分も学んでいることをしきりにアピールしている実に数多くの信者が、口先で唱えている教えとは正反対の生活を恥ずかしげもなく送り、自らの信念を裏切っているのである。一体、そのような偽善的な人々の「説教好き」や「勉強熱心さ」は、どこから来たものなのかを、我々は今一度、吟味してみなければならない。

アダムとエバが、神に対して最初に罪を犯し、堕落したきっかけは、彼らが、神が許された限度を超えて、自分たちの力で霊的な高みに上り、「神のようになろう」としたことであった、という事実を思うとき、信徒が霊的な進歩を追い求めて、自ら熱心な学びを進めようとすることに潜む大いなる落とし穴の存在を思わずにいられない。

信者がカルバリの十字架において、この世的な栄光を一切奪われたところで、キリストご自身の死に同形化されて、ただ神からの栄誉のみを求めて、御霊によって教わるのではなく、信者がキリストの十字架の死という土台を離れたところで、この世や、周りにいる信者たちから、「熱心に努力している優秀な信徒」とみなされて好評を博し、拍手を受け、自己満足・自己肯定することを目的に、御霊が教えてくれるのを待たずに、自ら様々な教本に手を伸ばし、その学びを通して神に近づこうとすることは、大変危険な行為である。それは人類が自らの力で霊的に進歩し、神に到達しようという欲望そのものを表す行為であると言って差し支えないからだ。

たとえば、ローカルチャーチを批判しながらも、ウォッチマン・ニーの教本を長い間使用し、ついに自分たちを神だと宣言したKFCとDr.Lukeの例を考えてみる意義は大きいであろう。彼らが引用していた「教本」は、ウォッチマン・ニーに限らず、様々な聖霊派の教えや、心理学や、脳についての非科学的な発表など、多岐に渡る知識の寄せ集めであったが、それらすべての人工呼吸器や点滴のような知識の「栄養補給」が彼らにもたらした結論は、そうした学びによって、彼らが「神に到達した」という結論だけだったのである。

このような宣言は、決して御霊に導かれる信者から出て来ることはないものである。彼らの学びの意欲は、彼らを謙遜に導くことは決してなく、彼らをますます高慢にして行き、ついに神の高みに自力で達し得たと豪語するまでのところまで、彼らを導いたのである。キリスト教界とローカルチャーチの欺瞞を批判していた人々が、批判していた対象と全く同じ偽りに陥ったことに注意したい。

こうした事実から察するに、この人々が手に取った「知識」とは、御霊から来るものではなく、サタンから来る「人が神になるためのノウハウ」であった、と考えるのが妥当である。

筆者は、すべての霊的先人が間違った記述を残していると言うつもりはなく、中には御霊に導かれて書き残された記述もあることだろうと思う。これまで筆者自身が、そうした記述から有益な霊的な糧を受け取ったこともあれば、そうしたものを紹介してくれた信者から、必要な御言葉を聞いたこともある。だから、こうした「教本」のすべてが無益でむなしいものだと主張しているわけではなく、また、信者がそれらから学ぶことが皆無で、全く有害でしかないと言うわけでもない。

だが、よくよく覚えておかなくてはならないことは、どんなに霊的先人たちの残した記述が優れているとしても、信者がそのような記述を可能な限り身の回りにかき集めて来て、自分の知識の本棚にストックし、クジャクの羽をつけたカラスのように見せびらかしたからと言って、それによって、カラスがクジャクになることは決してない、という事実である。キリストとの直接の交わりがなければ、どんなに優れた先人の残したどんなに優れた知識をどれほど大量に蓄積したところで、それによって、その信者の堕落した自己の本質は決して寸分たりとも変わりはしないのである。その信者は、そのような学習によっては、一歩もキリストに近づくことはなく、むしろ、そのような方法でこうした「教本」を利用すると、どんなに優れた学習教材も、その信者が自己の本質を偽り、自分を飾るためのイチヂクの葉以上の効果を全く持たないものとなってしまう。

しかし、こうした問題について、KFCだけを断罪するのは当たらないであろうと思う。というのは、類似した問題が、キリスト教界全体に起きているからである。筆者が何を言いたいか、もうお分かりの読者もいるかも知れない。

キリスト教は人間の作り出した言い伝えや教えではなく、エクレシアは「教える会」(勉強会)ではないにも関わらず、それが意図的に「教会」と訳され、その訳語のために、エクレシアが霊的偏差値をさらに高めるための勉強会のようにみなされている背景には、エクレシアの本質を何かしら別物にすり替えようとする暗闇の勢力の意図が働いているのではないかと思わざるを得ない。

一体、何のための「勉強会」なのであろうか? そこで教えられているものとは何なのか? 

端的に言えば、そこで教えられているのは、「人が神になるためのノウハウ」なのである。その点で、今日、キリスト教界で広がっている光景は、主イエスが地上に来られた時の宗教家たちの姿とさほど変わらないものだと言えよう。当時の律法学者やパリサイ人たちは人一倍、神に近づくことに熱心な人々であった。彼らは律法を守り、落ち度なく行動し、聖書にも精通しており、人からも尊敬を受けていた。そして、彼らは自分たちの宗教熱心さのゆえに、自分自身を神にも等しい聖なる存在のようにみなしていた。それにも関わらず、実際は、彼らの熱心な努力は、彼らを神に近づけることは全くなかったのである。主イエスは彼らの偽善性を指摘してこれを罪として非難された。

今日の状況もそれとよく似ている。人前に何の栄光ももたらさない十字架の死という土台にとどまって、信者がただキリストご自身が、御霊によって、直接、信者の霊に啓示を与えて下さるのを待つかわりに、手っ取り早く人間が自ら作り出した学習教材に手を伸ばし、そこから疑似的な啓示を受け、そこで受けた刺激や感化を通して、自分を飾り、あたかも自分がそれによってキリストに近づき、人間性が改善・進歩したかのような錯覚に陥っている。それはどこまで行っても、神を抜きにした人類の独りよがりな自己改造の努力に過ぎないのだが、それが分からなくなった信者は、そのようなヴァーチャルな変化を積み重ねて行くことにより、神との合一に達しうるかのように考え、ついには神に達したと宣言するまでに至っている。このヴァーチャルかつ偽りの自己改造の努力を、会員全体で積み上げることによって、皆で霊的偏差値を上げてキリストに近づき、到達しましょうというのが、「教会」という訳語が本来的に意図する目的なのではあるまいかと筆者は考えずにいられない。

そのように考えると、今まで教会について疑問に思われたすべてが腑に落ち、納得できるのである。今日のキリスト教界がなぜ現状のような有様になっているのか、なぜとりわけ熱心そうに見える教師然とした信徒たちが、恐るべき偽善的な生活を恥ずかしげもなく送ることができるのか、なぜ信者間に競争があり、差別があり、排除があり、同胞を貶め、排除しながら、特定の集会に居残った人たちが、まるで神に選ばれたエリートであるかのように勝ち誇るといった現象が起きているのか、すべてがよく理解できるのである。

それは、彼らが信仰の名のもとに目指しているものが、キリストご自身によらずに、自分たち人間の力で神に到達し、神の聖なる性質を我が物とすることだからである。一言で言えば、彼らは霊的な淘汰の競争を勝ち抜いて、霊的なヒエラルキーの階段を高みに駆け上って、自ら神の選民となり、神と合一することを目指しているのだと言える。

だが、そのような願いは御霊から出て来た思いではない。だからこそ、そのようなこの世的な歪んだ競争原理、淘汰の原則の働くところ、もっと言えば、霊的な優生思想とで呼んでも差し支えない悪しき歪んだイデオロギーの支配する場所では、様々な不幸な現象が起きて来ることは避けられず、それはもはや一部の教会だけがカルト化しているなどといった次元の問題ではないのである。にも関わらず、キリスト教界組織そのものに根本原因があることを見ずして、キリスト教界がキリスト教界を取り締まるために、自らが繰り広げるカルト被害者救済活動など、全く根本的な対策とはならないのは当然である。

信徒間にヒエラルキーを作り出し、霊的支配と搾取を肯定し、ただ神からの栄誉を求めるのではなく、世と人前でに栄誉を受けることを求め、神の働きを静かに待ち望むのでなく、人間の側からの熱心な努力により頼んで、神に近づき、神の聖に至りつこうとしている今日のキリスト教界そのものが、「ピラトの階段」と化しているのである。

霊的な進歩を求めて熱心に学習を積むことは、人の目には善良なことのように映るであろう。しかし、神の目には、神ご自身から生まれたものでなければ、決して価値あるものと評価されることはない。そして、神からの栄誉と人からの栄誉を同時に受けることは決してできない。神の祝福や富が人間に注がれるためには、カルバリの十字架における霊的死がどうしても必要なのであり、人の古き自己が完全に焼き尽くされ、灰にされた地点でのみ、神からの祝福がその人に注がれるのである。

にも関わらず、人前での栄誉、世からの栄誉を追い求め、これを完全に失う十字架の死の地点を経由していないのに、信者が自己の努力で様々な学習を積んで、神の聖に近づこうとすることは、神を抜きにして、人が神に到達しようとする驕りである。そのような学習を通じて得られる知識は、信者を高ぶりに陥らせるだけで、決して神に近づけることはない。

繰り返すが、人が神に到達する道は、十字架以外には存在しない。その十字架は、人前に何の栄光もなく、その道は、人前に「熱心で模範的な優秀な信徒」や、「優れた霊的賜物を持つ教師」などとみなされて評価され、誉めそやされて脚光を浴び、感謝と拍手を受けて、栄光化されることとは全く相容れない道である。


真の謙遜とは何か(2)

高ぶりと信仰が、本質的にとうてい両立できないものであることを私たちが見るとき、私たちは、信仰と謙遜が、その根本において一つであること、そして私たちが真の謙遜を持っている以上に真の信仰を持つことは決してできないことを学ぶのです。

私たちは、高ぶった心をいだきながら、真理についての強い知的確信を持つことはできるでしょう。しかし、生きた信仰、神を動かす信仰を持つことは不可能なのです。

私たちは、しばらく、信仰とはいったい何かということを、考えてみる必要があります。それは、無価値の者、無力の者になることの告白ではないでしょうか。そして、神に明け渡し、神がみこころをなされるのを待つことではないでしょうか

それは、存在しうるかぎりの最も謙遜な事がら――私たちが従属者であることの承認、恵みによって授けられるもの以外、何ものも要求できず、獲得できず、なすことのできない者であることの承認――ではないでしょうか。謙遜とは、簡単に言えば、たましいを神に信頼して生きるように備えることです。

そして、すべての高ぶり――利己主義、わがまま、自己過信、自己高揚におけるいちばんひそかな高ぶりの息吹 ですら――は、自我――それは神の国にはいることができず、神の国のものを所有できないものです――を強めるものにほかなりません。なぜなら、それは、神 が本来あるべき状態になられること、すべてのすべてとなられることを拒否するからです。

信仰は、天的な世界とその祝福を識別し理解するための感覚器官です。信仰は神からの栄誉を求めますその栄誉は、神がすべてであるところにおいてのみもたらされるのです私たちがお互いの栄誉を受けているかぎり、私たちがこの世の栄誉――人からの名誉や評判――を探求し、愛し、油断なく守っているかぎり、私たちは、神から来る栄誉を求めておらず、また受けることができないのです。

高ぶりは信仰を不可能にします。救いは、十字架と十字架におかかりになったキリストから来るのです。救いとは、十字架の精神をもって、十字架におかかりになったキリストと交わることです救いは、イエスの謙遜との結合であり、イエスの謙遜を喜び、それにあずかることであるのです。

高ぶりがこの上なく支配しているとき、私たちの信仰が全く弱いことは、驚くべきことなのでしょうか。なぜなら、私たちが、救いの最も必要な祝福に満ちた側面としての謙遜を熱望せず、そのために祈ることをしないからです。
アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.64-65.

 
前回、世の中で考えられている謙遜と、神にある真の謙遜とは、多くの場合、概念が真逆になっていることについて書いたが、このことについて多少、補足しておきたい。

世の中では、人々が「思い上がっている」とか「己惚れている」などと誤解されて、望ましくない敵視や、攻撃を受けないために、自分を実際にあるがまま以上に弱く見せかけ、「私は無です。私には知識もありませんし、私には何もできません」などと言っては、自分を低く見せかけることがあたかも謙遜であるかのように考えられている。

だが、それは人が自分をあるがまま以上に弱く見せかけたり、自分よりも強い者の利益のために、本来、自分が持っている正当な自由や権利まで投げ出して、行使しないことによって、自分を無いもののように見せかける自己防衛の手段であって、謙遜とは全く異なる事柄である、ということを書いた。

そのような世的な自己防衛の考えに基づいて発せられる「私は無です!」という叫びは、真の謙遜とは何の関係もない。むしろ、その叫びの意味するものは、「私は無です、だからこれ以上、私を攻撃しないで下さい!」ということであり、それは世の奴隷とされている罪深い人間が、自己保存、自己防衛のために、世に向かってこれ以上、自分を弄ばないでくれと情状酌量を求める懇願の叫びに他ならない。実際には、それこそが、生まれながらの人間が、キリストによらず、自分で自分を守ろうとする高慢だと言って差し支えない。

真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、という自覚に基づいている。それは神にあって人が自分に与えられた自由と権利を余すところなく認識して、いかなる恐れや不安にも根拠を与えず、御言葉に立って、神の絶対的な守りを確信している状態である。

確かに、アダムの命にあって、人は無であるか、あるいは無よりも一層、悪く堕落した存在であるが、キリストによって贖われた瞬間から、その人は、アダムの堕落した命によってではなく、キリストの命によって生かされるようになるため、その人は、もはやかつてのように、自分がどんなに堕落した負の存在であるかということを、それ以上、延々と繰り返しては、世に情状酌量を求める必要がなくなり、キリストの血潮により罪赦されて、世に対してでなく神に対して生きる新しい人というアイデンティティを与えられたのである。

たとえその信者自身が現実には、未熟で、年若く、多くのことを知らなくとも、神の知恵と守りは、彼にとって十分であり、だからこそ、その信者は自分に主にあって何も乏しいことはない、と堂々と胸を張って言える。もはや罪定めの感覚に脅かされることなく、自分の未熟さや不完全さのために思い煩うこともなく、弱さを感じる瞬間には、まっすぐに神の御許に進み出て、必要な助けを乞うことができる。そのおかげで、その信者は今までのように「私は無ですから、どうか私を攻撃しないで下さい!」と方々に頭を下げて助けを乞うて回る必要はもうないのである。

自分の不完全さに頼らず、神に全面的に信頼を置くことによって、神の完全に頼って生きることこそ、キリストにある真の謙遜である。

しかし、この世における偽りの謙遜は、自分の正当な権利を放棄することによって、自己を小さく無力に見せたり、いわゆる「耐え忍ぶ」ことを美徳とする風潮によって、あたかも正しいことであるかのように、キリスト者の間でも、誤って捉えられている。そして、その誤った概念が、神が信じる者に与えて下さった自由や権利を不当に奪い取る口実として用いられている。

たとえば、幾度か述べて来た例であるが、ある信者が、違法な労働条件で働かされていたとする。その信者は法を守り、真実に生き、自分自身を守るために、その不法のはびこる職場を辞めようと決意している。だが、そのを相談を持ちかけられた別の信者は、「あなたは辞めてはいけない。自分の置かれた場所で十字架を負うことこそ、信者の務めだ。それができないなら、私はあなたと絶交する」などという脅し言葉を使って、信者が悪しき環境を離れることを妨げようとすることがある。

あるいは、それと全く同じ論法で、ある信者が、自分の通っている教会が、指導者の誤った牧会によって、聖書に反する異常な方向へ進みつつあることに気づき、その組織を脱会しようと決意したとしよう。すると、別の信者が「騒ぎを起こすな。あなたは神のために自分の十字架を負うためにこの団体にやって来たのに、重荷を負うことを拒否するのか。それは不信仰だ」などの言葉で組織からの離脱を妨げようとすることもある。

このように、信者が他の他者に向かって、その人の持っている権利や自由を行使させず、その人から自主的な決断を奪い、自由になることを妨げるために、「十字架」の概念を用いて、半ば脅迫めいた威圧的な言葉を発することがある。

そのような感化や説得は、集団の中で自己主張を押し殺し、波風立てずに、権威者に黙って従うことを美徳とするこの世的な考えや風潮から出て来るものであって、決して御霊から来たものではなく、聖書の御言葉の正しい解釈でもない。だが、以上のような信者たちは、この世的な善悪や道徳の概念をそのまま信仰の世界にまでも持ち込み、その誤った概念を通して他の信者の生き方に介入し、他者の「誤りを正す」ことが、正しいことであるかのように思い込んでいる。

もし御霊から来た助言であるならば、それは決して人を脅したり、威圧したり、断罪することによって、人の自由意志を侵害し、他者の自主的な決断を妨げることにより、相手を自分の思い通りの結論に従わせようとすることはないであろう。

だが、以上に挙げたような誤解の中にいる信者は、他の信者に正当な権利や自由を行使させず、自己決定権を奪うために、脅しの材料として「十字架」の概念を用いることがある。
 
だから、そうした誤った忠告を受けた時には、彼らの威圧的・断罪的な口調から、それが御霊から来た助言や忠告ではなく、この世的な価値観に基づく偽りの「美徳」に基づくものに過ぎず、その隠れた目的は、目に見える組織や人間関係の序列の中に信者を束縛し、その支配から抜け出せないようにすることにあると、信者は気づく必要がある。

そこで言われる「十字架を負う」という概念は、一見、美徳のように装ってはいるが、よく観察してみれば、その実、人権の不当な抑圧、自由の剥奪、強権的な支配、搾取、不正、嘘、ごまかしなど、様々な悪事を覆い隠すためのカモフラージュにしかなっていないことが分かるであろう。それは堕落した世の側に立って、他者の悪事を容認し、「あなたはその犠牲になれ」と言っているに過ぎないので、そのような考えが神の御心にかなうものであると判断する根拠は聖書にはない。
 
そのような誤った忠告を受け入れれば、信者に待っているのは、悪しき環境にとどまって、無益な損失をひたすらこうむり続けること以外にはない。

だが、神は嘘や不正を嫌われる方であるから、不正な罪人の利益に仕えながら、信者が神のために「十字架を負う」ことは決して両立し得ない事柄である。真に「十字架を負う」とは、この世で波風立てず、自己主張せず、この世の悪事を見ても、見ぬふりを決め込んでこれと妥協して、世に同調して、この世の価値観の一部となって生きることを意味せず、むしろ、たとえこの世の常識や美徳と敵対することになっても、不正な生き方に染まらず、これに加担せず、御言葉に従って生きる道を模索することにある。
 
だが、筆者の観察の結果、この世的な誤った「謙遜」の概念を用いて、信者が他の信者を抑圧しようとする場面は数多く発生して来た。教会という枠組みの中であるか、外であるかを問わず、こうした信者たちは、人間の作り出した序列やヒエラルキーの中に他の信者を組み込んで自由を奪い、神ではなく、人間の教えや思惑に従わせるために、そうした助言を発する。

筆者はこれを「信者が信者を弟子化する」誤ったシステム、目に見えないネズミ講のように、信者間に広がる霊的搾取の体系として警告して来た。

こうしたネズミ講的「弟子化」システムは、牧師制度と同じくらい誤ったものであるが、草の根的に広まっているため、牧師制度のようにはっきりとそれと分かる組織的な形態をとっていない。

しかしながら、弟子化システムを押し広げている信者には共通する特徴があり、この世におけるネズミ講が、日用品や、サプリメントなどのような商品の販売を通じて、ネットワークを広げているならば、霊的搾取のためのネズミ講を作り出す信者たちにも、大概、独自の「売り物」となる目玉商品が存在する。

それが、多くの場合、霊的先人たちの教えなのである。彼らには、熱心に信仰の道を進もうと思っている有望な信者たちに近づいて、彼らをスカウトし、弟子とするきっかけを作るための、様々な「学習教材」のストックがある。それは何らかの霊的先人の感動的な「信仰的犠牲」の物語であったり、あるいは、クリスチャンがより聖潔な信仰生活を送るためのハウツー本のような教材であることが多く、彼らはそうした教材を用いて、それがあたかもクリスチャンの理想や手本であるかのように他の信者に説いて、その教材に他の信者の興味を引きつけることによって、自分たちの助言や忠告に従わせる機会として利用して行くのである。

そうしたツールを使って筆者を「スカウト」しようとした信者は、これまでに複数存在したが、そこには実に数多くのパターンがあった。中には、ウォッチマン・ニーの自己犠牲的な生き様に心酔し、これを他の信者に「理想」として推奨し、霊的に進歩したいという信者の願望(欲)を刺激して、その人の心を支配して行こうとする信者もいたし、あるいは、オズワルド・チェンバースの書いた罪についての威圧的な文章を送りつけるなどして、他者の心に罪悪感を呼び覚まし、その問題解決のために、自分の提示する教えに引きつけて行こうとするアッセンブリーズ信者もいた。あるいは、リンデの病死を美化し、その物語を流布することで、罪悪感や自己憐憫の感情から抜け出せないでいる他者の心をとらえ、自己の団体に引きつけて行こうとするベック集会の信者もいた。

だが、いかに彼らの掲げている「目玉商品」となる教本が、感動を呼び起こす美しい物語の形式を取っており、信者の霊的な進歩に役立つように感じられたとしても、肝心なのは、結局、その物語の提示をきっかけに、こうした人々が達成しようとしている目的は、一体、何なのか、という点である。彼らの目的は、結局、その教本を手がかりにして、自分たちのネットワークに信者を誘い出し、引きつけて行くことに他ならず、結果的には、自分たちの助言や、指導者の思惑にがんじがらめにすることによって、信者の意志と自己決定権を奪い取り、そのネットワークに束縛して行くことを目的としている。それが分かった時点で、こうした人々にはお引き取りいただく他ない。こうしたものは決して御霊の働きではないからだ。

筆者は、神のために信者がすすんで犠牲を負いながら奉仕すべき瞬間が、信仰生活には全くない、と言っているわけではない。キリストご自身が十字架を耐え忍ばれたのだから、キリストに従う者も、神のために自分の十字架を負って従うことが求められるのは当然である。

だが、問題なのは、主のために信者が捧げる奉仕は、あくまでその人が御霊に促されて自主的に行うべき決断であって、そこに他者が介在することはできない、という点である。それが決められる過程も、神とその人との間だけで交わされるひそやかなやり取りであって、人が人に説得して犠牲を要求したり、まして犠牲の内容を細かく具体的に指示して従わせるなど、あってはならないことである。そのようなものは、正しい忠告のあり方でもなければ、まして神から来た助言でもない。
 
しかし、上記のような人々は、信仰者の自己犠牲の物語を手本のように持ち出すことで、それを用いて、本来、御霊が行うべき役割を、人間の助言へとすり替え、自分たちの助言に他の信者を従わせる機会へと変えてしまうのである。

彼らは、そうした例を引き合いに出しながら、巧みに他者を自分の精神的指導の下に組み込んで行く。その教えを彼らは自分自身には適用せずに、他者に犠牲を支払わせるための説得材料として利用する。そのようなことが行われるのは、その先に、そうした犠牲を利用して彼らが建て上げようとしている何かの目的が存在するからである。

ネズミ講では、上部に行けば行くほど、もうけが多くなる仕組みが出来上がっているが、霊的搾取のために作られる目に見えないピラミッド・システムも同じで、できるだけ多くの信者を自らの配下に弟子化し、それらの信者にできるだけ多くの犠牲を支払わせた信者が、教師格のようにみなされて栄光化されて行く仕組みが存在する。

そこで、こうした「教本」を使ってしきりに他人を教えることに腐心している信者の生き様をよく観察してみると、教えている本人は、多くの人たちから尊敬を受けて、まるで権威者のごとく偉そうに振る舞っている一方、その周りにいる身近な人たちは、過度な犠牲を強いられて苦しんでいたり、残酷に排除されていたり、あるいは苦役のような奉仕を強いられ、あるいは死へと追いやられているといった現実が見えて来るのである。こうした効果は、もしその助言や教えが人を解放するものであったとしたら、決して生まれて来なかったものと言える。

つまり、彼らの助言や忠告は神から来たものではないので、それはただ信者が不幸や抑圧や隷従に甘んじて、サタンの奴隷状態を進んで受け入れることを助長するばかりで、決して信者をキリストにある自由にも解放にも導かない。むしろ、抑圧に甘んじることこそ「神の御心」だと考て、不幸な状態から自由になろうとする希求をやめるようにと偽りを吹き込む。こうして、人間の助言にがんじがらめにすることによって、信者が毅然と立ち上がって悪魔に抵抗する勇気や力を奪い取って行くのである。

だから、もし彼らの忠告を聞いて、ピラミッド組織の一員となれば、その信者はとうに抜け出せるはずの不幸な状態から抜け出すどころか、それに抵抗する力を失って、果てしなく無益な苦難の犠牲とされて行くだけである。

しかも、他者に「神のために犠牲を払うように」と教えている人たち自身が、注意深く観察してみれば、ほとんどの場合、自ら「模範」として説いている教えに全く反する生き方をしていることが分かるであろう。

たとえば、20年間、無実の罪のゆえに監獄に投獄されて、ついには他の監獄への輸送の途中でトラックの上でボロ切れのように死んだウォッチマン・ニーの生き様を「殉教」として涙して誉め讃える信者が、自分は神のためにどんな犠牲を耐え忍ぶのか、よく観察してみれば良いのである。そうすれば、毎日のように贅沢な食卓が用意される集会から集会へと飛び回り、信者の家々を訪問して歓待を受け、人前で拍手喝采や感嘆を受けながらメッセージし、美味しい料理や楽しいイベントをどれほど味わったかという自慢話を毎日のように語っていたり・・・といった具合で、自己犠牲などといった言葉からは、はるかにほど遠い、享楽的な生活を送っていることに驚き呆れる場合も珍しくない。

彼らの掲げている「教本」は完全に羊頭狗肉の口先だけの代物で、ただ自分以外の信者や、年少者に向かって特に厳しい禁欲と節制を説き、彼らを服従させるための材料として用いられているだけであり、それを説いている人間自身は、二重性を帯びた享楽的な生き方を謳歌することをやめられないのである。
 
人間は「努力目標」として表向きに掲げている理想が高ければ高いほど、掲げている理想とのギャップは、年々、よりひどいものになって行く、というパラドックスに満ちた霊的法則性が存在するのではないかと、筆者は疑わざるを得ないほどである。

企業の社長室や会議室に飾ってある、お題目と化した社是や社訓のようなものであっても、一応、言葉であるからには、何らかの効力を持っているだろう。だが、人が実態とかけ離れたスローガンを掲げていればいるほど、そのスローガン自体が、まるでその人をあざ笑い、告発するかのように、題目と現実との乖離状態が進み、やがて誰が見ても分かるほどまでに深刻化して行く。

信者の場合も同じで、主イエスが偽善者たちに向かって、モーセ(の律法)があなた方を裁く、と言われたように、以上のような人々にあっては、彼らの掲げている理想自体が、彼らを裁く基準となり、彼らの掲げている「教本」自体が、彼らを告発する材料となるであろう。その教本の内容が、他のどんなものよりも、彼らが達成してもいない目標を達成したかのように偽って、裸の王様のような自己陶酔状態に陥っている罪なる有様を、レントゲン写真以上に克明に万人の前にはっきりと証明するからである。

そのような深刻な乖離状態が起きる原因は、以上のような人々が理想として崇め、奉っているものが、ただ単に人間から生まれて来る美徳であって、キリストご自身の性質ではないからである。

人の目から見れば、道徳的な理想や、自己犠牲的な生き方は、美徳のように映るかも知れない。そのような生き方を全うした人々の話を聞けば、信仰の有無に関係なく、聞いた人は感動的な映画を観たときのように、心の清涼剤を受け取り、一時的に感化を受けるであろう。

信じやすい年代の子供たちや、青年たちは、大人たちから、理想的な人間の生き様について聞かされれば、それなりの感化を受けるであろうし、自分も同じような生き方を目指さなければならないように切迫した思いを持つであろう。また長年、信仰歴を持った大人のクリスチャンであっても、神に従いたいという熱心さがあればあるほど、模範的なクリスチャンについて聞かされるときには、自分の自覚していなかった罪を思い知らされて、襟を正させられるような気分になるであろう。

だが、そのように熱心な人たちの心に呼び覚まされる自己反省の気持ちや、罪責感を、以上のような人々は、その人を真に神に向かわせるためでなく、人間(自分)に依存させ、人間(自分)の支配に従わせるきっかけとして利用しているのである。
    
統一教会がビデオセンターを最初のきっかけに人々を宗教団体に勧誘することはよく知られている。ビデオセンターでは、人々の心に恐怖を呼び起こしたり、罪の自覚を生じさせたり、現状への強い不満や、改革への強い熱意を生み出したり、様々な感情を呼び起こす学習材料が提供され、それによって引き起こされた強い感情が、宗教へ入信させるためのきっかけとして利用される。

たとえば、この世の混乱、悲惨な出来事、理不尽などをたくさん盛り込んだストーリーを見せつけられた人は、居ても立ってもいられない気分になるが、その後で、「世界のこのような不条理を解決するためには、この指導者に帰依することがぜひとも必要です!」などという刷り込みが行われる。

まず最初に、強く世の理不尽を意識させるような問題が提起され、人々にその現状を放置して来たことに対する罪悪感を抱かせるようなメッセージが投げかけられ、それを聞いた人が現状にのっぴきならない深刻な問題があって、それを解決するために自分が何か行動しなければならない責任があるかのように意識した後に、その解決方法は自分たちの団体にしかない、という結論が提示されて、独自の教えに引き込んで行くというのが、ここで使われる心理操作のテクニックである。彼らの使う「教本」は、問題提起と解決方法がワンセットで盛り込まれたパッケージである。(といっても、まやかしの解決なので、これにとらわれた人には、結局、問題だけがいつまでも残り続けることになる。)

カルト被害者救済活動もやはりこれと同じように、キリスト教界の腐敗を訴えつつ、その解決が自分たちにしかないかのように提唱するマッチポンプの運動であることはすでに幾度となく述べて来たが、上記のような誤謬に落ち込んでいるキリスト教の信者たちも、結局、やっていることは、被害者運動や、エホバの証人や、ビデオセンターとさほど変わらないと言える。新興宗教の信者は、勧誘の際には、決まって最初に、この世がますます混沌として、悲しい事件が世に満ち溢れている…などといった、人の心に恐怖と不安を煽る内容を口にすることが多いが、上記のような「弟子化システム」の道具となっている信者たちも、自分たちの提供する視聴覚教材を通して、聞いた人の心に恐れや不安、罪悪感を呼び覚ますメッセージを投げかけ、それをきっかけに、自分たちの提供する助言に人々を依存させていこうとするのである。

たとえば、アッセンブリーズ信者によって筆者に送られて来たオズワルド・チェンバースの言葉も、キリストの血潮による罪の清めよりも、人間の堕落を強調することによって、人に罪悪感を抱かせ、自己反省を促す脅しのような効果を持つことはすでに指摘した。

キリストにあっては、罪の自覚は、ただちに血潮による清めへと結びつくので、真にキリストを信じている人が、長く罪悪感に悩まされることは決してない。また、たとえ信者が現実には年若く未熟な人間であっても、彼は常に神の知恵を求めることができるので、自分の未熟さを苦に思う必要もなければ、それを補うために、経験ある年長者に助言を乞う必要もない。信者はどんなことであれ、自分に不足を覚える時に、いつでも神を仰ぎ、神の助けを乞うことができるので、真に神を信じ、神に従っている信者が「私はこのままでいてはいけない」という強迫観念を長く持ち続けることは決してないと言える。

しかしながら、上記したような「教本」を使う人々は、その教本を通じて、信者に自分の足りないところを数え上げさせ、「自分はこんなに霊的に中途半端な状態ではいけないのだ。もっと神に喜ばれるために、霊的に進歩しなければならないのだ」という不安(もしくは、欲)を呼び起こし、神にある平安から外に引き出してしまう。

神はその贖われたクリスチャンをご覧になって、キリストをご覧になるように満足され、また、神がその人を教えるご計画をお持ちなのに、神が教えて下さる速度、方法、時間に信頼することをせず、信者に「自分はこのままではいけない、早急に変わらなければならない」という恐怖感を抱かせることによって、「もっと進歩しなければ、神に喜ばれない」と錯覚させて、キリスト以外の教えに引きつけて行こうとするのである。

こうして、強烈な問題提起を投げかけることによって、巧みに他の信者の心に穴を開けて入りこみ、罪責感などを足がかりに、キリストご自身ではなく、自分たちの教えに信者を従わせる、ということが実際に行われている。

だから、もしお節介な信者から、一つの学習教材が送られて来たならば、その時点で、信者はこれを断るのが最善であろう。そうしなければ、次から次へと新たな教材が送られて来て、挙句の果てには、気づくと、薬漬けのような状態にされて、その学習教材を送りつけて来た信者が、いつの間にか、あなたに対して「医者」や「教師」のようになって君臨し、自分の命令への絶対服従を求めて来るのを見るであろう。

これらの学習教材には、人の心を惹きつける美しい物語が引用されているかも知れない。だが、そのような引用をどれほど繰り返してみたところで、引用はその人を一ミリたりとも変化させる力を持っていない。

あるいは、その美しい物語を聞かされた人がどれほど涙を流したとしても、ただ外側からの感化だけでは、人を本質的に変える力を持たない。それどころか、むしろ、そうした物語は、聞いた人間に一種の自己陶酔のような魔力的な眩惑を生じさせ、その人の本当の姿を覆い隠し、自分自身の真の状態を忘れさせてしまう効果を持つだけである(=「イチヂクの葉」)。

そのまやかしの効果は薬に大変よく似ており、病気が進行し、絶えず痛みに悩まされている患者であっても、薬を用いて痛みを緩和すれば、束の間、健康になったような錯覚を抱く。だが、痛みが緩和されたことに喜び、それは病が治癒したのではなく、薬による一時的な錯覚に過ぎないという事実を見ずして、根本的な対処を怠るならば、薬の効果の陰で、病は刻一刻と進行し、最後には薬も効かない手遅れな状態が到来するであろう。

霊的にもこれと同じことが起きうる。理想的な生き方を成し遂げた先人たちの人生を、信者がどんなに「美しい教本」のように目の前に並べて、自分もそれに習おうと決意して、熱心な勉強会を開き、信者同士で互いに教え合い、その教本の内容を音読してみたところで、キリストによって人間の霊的本質そのものに根本的な変革がもたらされない限り、人間の内面の「手遅れな状態」は一ミリたりとも改善しない。

人間の霊的な堕落は、どんなに人が外側からの感化によって是正しようと試みても、改善不可能である。神ご自身も、それを改善できるとはお考えにならなかったので、キリストの十字架においてこれに死の宣告を下し、廃棄されたのである。だから、人が内側から変えられるために必要なのは、キリストの十字架の死に同形化されること、その上で、復活の命によって新たに生かされることだけである。

だが、道徳的感化によって人間性を改善することに期待をかけている人々は、自分たちがより良い人間になろうと努力していることは、甚だ良いことに違いないと思い込んでいるため、死未満のところで、改善不可能な人間性を改善するためのむなしい努力を続ける。そして、まるで受験勉強にいそしむように、霊的な教材を用いた各種の学びに没頭し、どれだけ「進歩」したかをはかりあい、自分たちの行っている「応急処置」が、どこまで行っても内面の手遅れな状態を変える力のないもので、むしろ、事の深刻さを覆い隠し、より根本的な治癒を遅らせる目隠しにしかなっていないことを理解しないのである。

だからこそ、彼らが美しい物語を引用し合っては、互いに涙に暮れ、慰め合い、励まし合っている瞬間にも、霊的病はその陰でより一層、進行し、その結果として、現実の彼らの姿は、彼らが題目として唱えている物語とあまりにも遠くかけ離れた、むしろ、それとは正反対のものとなって行くのである。

結局、キリスト以外のものを美徳として誉めたたえれば誉めたたえるほど、人は自己を現実以上に美化するようになり、内側が造り変えられるどころか、より本当の自分自身を見失って、より確信犯的な偽善者に近づき、より高慢で手遅れな堕落に陥って行く、ということが言えるのではないかと思う。

この世の人々が美徳だと思っている様々な性質も、もしそれが信者が直接キリストと結びついて、キリストご自身から生まれて来る性質でなければ、実際には全く美徳と呼べるものではなく、ただ単に人間の堕落した本質から生まれて来る堕落した性質でしかない。

アダムに由来する人間的な「美徳」は数多く存在し、それらはこの世ではあたかも「善」のように受け止められ、賞賛されているであろうが、それがキリストから生まれたものでなければ、それは神の目には、御心に反する悪としてしか映らないのである。だから、どんなに人の目に美しい自己犠牲と映る所業であっても、それがキリストから生まれて来たものでないならば、そのような行為をヒロイズムとして誉め讃えることは、神の目に忌むべき罪であって、信者を誤謬に陥れる大きな危険である。

そうした神によらない人間的な感化にどんなにすがり続けても、その道徳的感化によって人の内面が変化し、改善するということは絶対にない。 

そもそも「教会」という訳語が間違っていると筆者が指摘するのは、このようなことがあるせいで、クリスチャンの信仰生活は、神に従うものであって、人間の教えに従うものでは決してない。それにも関わらず、信仰生活をまるで人間が霊的進歩を追い求めるための学習塾のように考えている人たちは多い。

しかしながら、アダムとエバが蛇にそそのかされた時に利用されたのが、彼らが、神が彼らのために備えて下さった以上に、自分たちの力で霊的に進歩し、「神のようになりたい」と願う欲望であったことを思い出す必要がある。

この世においては、「もっと賢くならなければいけない」とか、「もっと美しくならなければいけない」などと、人の不安(欲)を煽ることが商機として利用されているが、同じように、信者の心に「もっと霊的に進歩しなければならない」という不安(欲)を煽ることによって、これを霊的搾取と支配の関係を打ち立てるきっかけとしようとしている偽りの勢力の働きが存在する。

聖書の動かせない原則は、真の教師はキリストのみであり、信者はキリストにのみ教わり、御霊にのみ聞け、というものである。労働によって人間性が改善できないように、いかなる学習材料を用いた道徳的感化や刺激によっても、人間の内面を変えることはできない。

人を変える力を持っているのは、神ご自身だけである。人が変えられるためには、キリストの十字架の死を土台として、神とその人との間の直接の交わりがなければならないのである。そこにいかなる人間も介入することはできない。にも関わらず、人間が御霊によらずに、十字架の死未満のところで、この世の常識や、人間の考え出した道徳や、教えや、美徳や、刺激や、感化によって、他者を変え、人間性を改善しようとする全ての試みは、聖書に逆らう悪魔的な働きであり、大変、危険である。

キリストにある完全さは、信者の現実の状態がいかなるものであっても、その人に必要な解決を十全に提供するので、信者はキリストにあって造り替えられるために、ただ神の御言葉に全幅の信頼を置いて、安んじる他、何もする必要がない。もし信者が早急に達成しなければならないことがあったしても、それに必要な力と知恵を、神が信者にお与え下さるであろう。

だが、この世と悪魔が人に吹き込む思いは、不安と焦りであって、信者には何かの問題があって、信者自身にはそれを早急に自分の力で何とかする義務がある、というものである。たとえば、信者には霊的な欠陥や未熟さがあって、それを乗り越えるために、信者は神に直接教わるのを待たずして、自らの努力によって学習を積まなければならない、と思わせるのである。

そのような不安や焦りに突き動かされると、信者は、御霊の自然な働きに全幅の信頼を置いて、静かに神を待ち望むことができなくなってしまう。そして、神がその人に御霊を通して実現させて下さる以上に、もっと早く進歩して、自分を正し、神の聖潔に達したいという欲に駆られることになる。それが欲であることさえ、信者には分からなくなり、まるでハウツー本を求めるように、各種の霊的な学習教材に手を伸ばし、それらを薬のように使いながら、ドーピングをするように、飛躍的に自分が高められたかのような錯覚に陥り、自分の霊的状態をあるがまま以上に飾り、本当の自分自身が分からなくなって行く。

そのような状態が長く続けば、いずれ最後にはその信者は自らの学習によって「神に到達した」と宣言することであろう。だが、現実には、その信者の霊的な状態は、チューブだらけにされた寝たきり患者と同じであり、その変化はまやかしであって、その人にもたらされた本質的な変化ではない。

自分の未熟さを強く自覚し、熱心に学習に励んでいる信者の姿は、人の目には良いもののように映るかも知れない。そのようにして自分に「足りない」ものを自覚して、その克服に努めることこそ、謙遜だと人の目には映るかも知れない。だが、実際には、それは神の目の前では、神の完全さに信頼を置かず、人間側からの努力によって欠乏を克服しようとするむなしいもがきに過ぎず、どこまで行っても、その努力は、神の満足される水準に到達することはないのである。

人は自分で自分の霊的状態を「進歩させて」、望ましい道徳的な人間に達しようなどという高慢で不届きな考えを一刻も早く捨てて、自分で神の高みに達するための努力などは一切やめて、生まれながらの自分は処置不可能で手遅れの罪人に過ぎないことを認めた上で、ただ神ご自身に信頼して、キリストの十字架の死に身を委ねるべきである。そうして、「神に明け渡し、神がみこころをなされるのを待つこと」こそ、御心にかなう姿勢だと言える。


真の謙遜とは何か(1)

神の家の建造が可能になるには、まず<..>人を重んじるサタンの働きは完全に断ち切られなければなりません。人の栄光と、自分のために栄光を求める人の欲求は、低くされなければなりません。これは主の御名のための家であり、天と地と地獄の中にある他の名のためではありません私の栄光を他の者に与えはしないと主は言われます(イザヤ書42章8節)

主は常にこれをなさっています。ああ、神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか! 主は常に肉を激しく打ち、痛撃を加えておられます――それは、彼の家が私たちから出たものの上にではなく、正しい土台の上に建造されるためです。これは私たちに強い感銘を与えます。

「主よ、ダビデのために、彼のすべての謙卑を思い出して下さい」(詩篇132篇1節)。<...>

彼は言います、「私は何と自分を低くしたことでしょう! 私は自分の目に眠りを与えません。寝床にも上がりません。自分の家を楽しみません。私は自分を低くし、乏しくなりました。それは、主のために一つの場所を見いだすためです」。 

主はこの謙卑を要求されます彼は人をこのように砕かれます。それは、家が正しい土台の上に据えられるためです。これが私たちに対する彼の取り扱いの理由です。彼は私たちをひとかどの者にはされません

真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません。名声を求めてはいけません。印象づけようとしてはいけません。自分の威厳に固執してはいけません。人々よりも抜きんでて、彼らに自分を尊重させようとするようなことを、決して何もしてはいけません。そのようなことは主には通用しません

ですから、それを取り除きましょう。<...>神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう。彼はこれを成し遂げられます。ですから、自分の本当の姿とは異なる姿を人々の意識に植え付けて優位に立とうとするなら、私たちは神の家の原則に反することになります。自尊心はすべて捨てなければなりません。認められたいという欲求も、すべて捨てなければなりません。このようなことはみな、一掃されなければなりません。

神の家はそのようなものの上には据えられません。神はそれをお許しになりません。人は低くされます。それ以外のことは、すべて悪魔の働きです。それは、心の中に高慢が見つかった者から来ます。

 オースチンスパークス著、『神の家の諸原則』より

 
真の謙遜とは、多くのパラドックスをはらんでいる。神の目から見た真の謙遜は、この世や、人の目に謙虚と映るものとは、むしろ真逆である。

この世において「謙虚さ」と受け取られている内容は、おそらく、自分が何者でもないと認識し、人前に自分を誇らないことであろう。

特に、我が国のような場所では、自信満々に振る舞う人は、「己惚れている」とか、「思い上がっている」、「生意気だ」などとみなされて、叩かれる風潮がある。そこで、このような風潮の下では、人は他者から目をつけられ、攻撃されたくないばかりに、ことさらに自分を「謙虚」に見せかけようと、しばしばあるがまま以上に弱々しくふるまうし、自己卑下をする。そして、その結果として、いつしかあったはずの自信までも失って、本当に自分を無力だと認識するようになり、ここ一番という勝負の時にさえ、力を発揮できないまでになる。
 
しかしながら、そのように、自分が世から攻撃されないことを目的に、わざと弱々しく振る舞い、自分を弱い人間だと思い込み、そのように表明することは、一種の擬態のようなものであり、真の謙虚さとは全く関係がない事柄である。
 
神から見た謙虚さとは、アダムの命にあっては何も誇らなくとも、キリストにあって自分は何者なのか、神にあるアイデンティティを確固として掴み、手放さないことである。

つまり、「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。」(Ⅱコリント12:9)ということを確信し、信者が依然として自分の生まれながらの弱さを抱えているように思われる時でも、そこに働く神の強さを確信し、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)と固く信じて進んで行くことにある。
 
「神にはできる」最も重要な事柄は、キリストにある者を新創造として生かすことである。

「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことは、すべて神から出ているのです。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、贖われたということは、すべての罪から清められており、キリストの新しい復活の命によって生かされていることを意味する。それは信者の古き人のアイデンティティからの訣別を意味する。

こうした約束が与えられているにも関わらず、信者がただ「私は無です、無力です、私は死すべき罪人の一人に過ぎません」と言い続けるだけでは、単なる自己卑下に終わってしまい、神の御業がその人に大胆に表されることもなければ、神の力がその人を通して現れ出ることもない。

だが、このあたりが、今日のクリスチャンがあまりにも大きく誤解している点である。
 
たとえば、「真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません」という以上のオースチン-スパークスの言葉を、信者がまるで強迫観念のように受け取って、いかに自分は肉の満足を求めていないか、自分を誇っていないか、ということを周囲の信者に証明しようと、いたずらに自分の権利を放棄し、苦しい生活を送るだけでは、単なる自虐に終わってしまうであろう。

そもそも人前に謙虚に映るように振る舞うことと、神の目に謙虚であることは全く異なる事柄である。たとえば、聖書は、断食する時には、人前に見せびらかさないようにしなさい、とか、祈る時には、戸を閉じて隠れて祈りなさい、などと告げている。神に対する謙虚さ、熱心さ、奉仕は、隠れたところですべきものであって、人前でアピールすべき種類のものではない。

だから、「私は神のためにこんなに多くのものを捨てました!もはや肉の誇りに生きていません!」などと言って、信者が次から次へと自分の諸権利を捨てて行くことが、「真の神の住まいとなるために、自分を無にする」ことではないのである。

神にある謙遜とは、そのようなものではなく、「神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう」という言葉にもよく表れている通り、キリストにあって贖われた自分自身は、一体、何者なのか、という事実を信者が正しく認識し、これを掴むことである。

そこでは、信者が自分に与えられたキリストの御名の権威を過小評価して、「人にはできないことが、神にはできるのです。」という事実を信じず、「私には何もできない」と言い続けて、神の御業を退けることこそ、謙遜ではなく、高慢なのである。

では、一体、それでは、オースチン-スパークスの批判している、肉の高慢の正体は何なのか?と、問う人もあろう。

神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか!
 
このような肉の誇り、地位、名声は、ほとんど例外なく、信者の不信仰につけこんで出来上がる教会内ヒエラルキーから発生する、と筆者は考えている。

これまで筆者は、キリスト者がキリスト者を「弟子化する」ことの危険性を、幾度も述べて来た。御霊が教師となって直接、信者に御言葉の意味を教えて下さる以上、信者は人間の指導者に依存しなければならない理由はもはや存在しない。信者間の交わりはあって良く、信者が信者から光を受け、重要な気づきを与えられることも、十分に起こり得るが、だからと言って、信者間に序列や等級を作って、教師と師弟のような関係を固定的に結び、ヒエラルキーを作る必要は全くないと筆者は考えている。そのようなものは地上的な組織の形態であって、エクレシアとは関係のないものである。

しかし、信者を名乗っていても、教師やリーダー格になりたがる野心家は多く、年齢や経験や信仰歴をかさにきて威張ろうとする者もないわけではなく、さらに、牧師制度というものを敷いている集まりは多数存在する。牧師制度を置かない、と公言している団体でさえ、結局、牧師と変わらないリーダーを固定的に作り上げている例は多い。

このように、指導的立場に立ちたがる人間が、教会の中で一定の地位を占めると、キリストの御業は脇に追いやられることになるが、そんな人間が台頭して来るに当たって、必ず、利用されるのが、信者たちの心の恐れや、不安や、自信のなさや、弱点である。つまり、こうした野心家は、他の信者の心の弱さと不信仰につけこんで、これを足がかりに、優しい助言者や、教師のように振る舞いながら、人々を自分に依存させ、自らの地位を教会内で築き上げて行くのである。まず信者の不信仰が前提になければ、こういう肉なる野心家の台頭も決してあり得ない、と言えよう。

肉の誇りというものは、いずれの場合も、人間の弱さや恐れと密接に結びついている。この世のたとえで言えば、あたかも受験競争のようなものである。片方には、偏差値で優秀だと言われている人たちがいて、人前に栄光を受けているが、彼らの「優秀さ」なるものは、もう片方に、「劣等生」と呼ばれる一群が存在しなければ成り立たない。肉の誇りというものは、みなこのように、例外なく、他者との比較に基づいて、誰かを貶めることによって成り立っており、信者が教会内で肉を誇るというのは、要するに、信者が自分よりも弱く、劣って、惨めな信者たちを踏み台にし、自己の栄光の道具とすることを意味する。

だが、問題なのは、そうして嘲られ、踏み台にされ、利用されている信者たちが、あまりにも弱々しく、不信仰なので、彼らは自分たちが野心的なリーダーの栄光の道具とされていることの忌まわしさにさえ全く気づかずに、むしろ、自分たちのような弱々しい群れには、誰か象徴的に導いてくれるリーダーがいなければ、正常な信仰生活を送るのは無理であり、リーダーがいるだけありがたいとさえ思い込んで自ら隷従している点である。

そのようにまで自信を失い、不信仰に目をくらまされ、自立から遠ざかった群れは、自らの人間への依存状態が、人の肉の誇りを助長し、キリストの栄光を傷つけていることが分からない。このような群れの信仰の弱々しさにつけ込んで、人間の指導者が教会内で台頭して来るのであって、不信仰な群れの「霊的民度」の低さにふさわしいリーダーが立てられているのだ、と言えないこともないだろう。

だが、目立ちたがり屋の野心的指導者の肉の誇りはさて置き、そうでなくとも、生まれながらの人は、信者が信仰を通して得られる神の強さが理解できない。だから、信者が信仰によってサタンの枷を振るい落として、本当に力強く立ち上がろうとするときには、決まって、不信仰な人々から、激しい反対が起きて来ることは避けられない。「あれはナザレのイエスではないか」と言って、主イエスを侮った人々のように、「あなたは何者でもないのに、自分に力があると己惚れているだけであり、それは高慢ではないか」という非難が、不信仰な人々から必ずやって来ることになる。

そうした非難は、たとえば、信者が人間の指導者を離れて、真に神だけに従って生きようと自立する時に起きて来るであろうし、あるいは信者が、神の癒しを信じて、無益な薬と手を切って、病から本格的に立ち上がって健康を求めようとする時に起きて来るであろうし、信者がそれまでずっと引きずって来た何らかの弱さや依存状態を脱して、信仰によって力強く立ち上がろうとする時に起きて来るであろう。

信者がキリストにあって約束された自由を手にしようと、それまでの束縛を断ち切って立ち上がる時、必ず、悪魔は自分たちの手下となっている誰かを利用して、「そんな生き方は高慢だ!あなたは己惚れているだけだ!不可能事を目指しているのだ!」といった非難をぶつけて、信者が自由になることを妨げようとして来るものである。

それまで信者の弱さを食い物にして利益を享受して来た団体が、信者の足元に蜘蛛の糸のように群がって来て、何としても以前の依存状態に引きずりおろそうと画策して来るかも知れないし、裏切り者のように非難を浴びせるかも知れない。

その時になって初めて、信者は「自分たちのような弱々しい群れには、リーダーがいるだけありがたい」などと思っていたことが、全くの欺瞞であったことに気づく。リーダーは味方ではなく、信者を弱さの中に閉じ込めておくための束縛の枷でしかなかったのである。だが、それは信者が自ら依存状態を脱しようと立ち上がったときに初めて見えて来る事実であり、もし弱さを脱却しようと望まないなら、永久にその事実は見えないことであろう。

この世においては、自分を弱々しく、無力に見せかけることが、自己防衛の手段となるかも知れない。だが、神は贖われた信者にこう言われる、「あなたはもはや自分は弱い、などと言ってはなりません。私の強さがあなたの弱さを覆うからです。あなたはもはや自分は未熟で、助けてくれる人や、リーダーがいなければ生きられない、などと言ってはいけません。私こそあなたの真のリーダーとして、あなたを正しく導くことができるからです。あなたは自分は年若く力もないので、どうせ大したことはできない、などと言ってはいけません。神があなたの味方なのです。ですから、勇気を出しなさい、あなたはたった一人で地獄の軍勢と対峙する時にも、恐れなく、勇敢でありなさい。私があなたに必要な知恵を全て与えます。約束の通り、私は敵前であなたの頭に油を注ぎ、あなたの杯を祝福します。たとえあなたがこの世を見て、どんなにそこに強敵がいるように感じ、自分を弱く感じたとしても、恐れてはなりません。私の助けはいつもあなたにとって十分なのです。思い出しなさい、私は世に勝ったのです。あなたは私によって贖い出されました。あなたにはもはや再び世から来る各種の脅しに屈しなければならない理由はありません・・・。」

多くの信者たちの目には、信仰生活とは、霊的階段を高みに昇って行くための学習塾のようなものと映っており(そもそも教会という訳語からして不適切であろう)、信者が互いにできないところを教え合い、不勉強を助け合い、知的・霊的成熟に達するための訓練場のように受け取られている。だが、学習塾ならば、テストに合格するまでの間だけ通えばそれで良いであろうが、もし信仰生活を学習塾のようにとらえるならば、信者は一体、いつまでその「塾」に通い続ければ、及第点が取れるのであろうか? いつまで教師や助言者に依存し続けることになるのだろうか?

信仰生活とは、互いに教え合うサークルではなく、教える方は、キリストであり、信仰のナビゲーターである御霊を通して、信者はすでに必要のすべてを受け取っている。自分の中にすでに羅針盤があるのに、他の誰かに道を聞く必要はない。

たとえ信者が年若く、救われて間もなく、まだ多くのことを知らないように思われても、教えて下さる方は、キリストであり、キリストは信者を導く完全な知恵を持っておられる。この点を間違えて、信者が自分は未熟だからと考えて、人間の指導者に教えを乞えば、必ずや、誤謬の中に導き入れられ、後になって、近道を行ったつもりが、とんでもない遠回りをさせられたことに気づくであろう。
 
信者は自らの信仰の歩みに、他の信者から同意や許可を得る必要はない。たとえ人からの理解が得られず、未だ誰も歩いたことのない場所に新たな一歩を踏み出すことになる時にも、もしそれが神から出たことであれば、信者は人の思惑を気にせず、勇気を持って進んで行かなくてはならない。

信仰生活は、信者が、すべての面で自由を得ることと密接に結びついている。それは勝手気ままな放縦としての自由ではなく、神にあって、律法の要求を完全に満たすことのできる自由である。信者は限りなく、神がキリストを通して信者にお与え下さった自由を希求して行かねばならない。それがどんなにこの世の常識からかけ離れ、人間の目にあるいは不可能事と見えたとしても、信者は御言葉に従って、絶えず「人にはできなくとも、神にはできる」と告白し、自分の限界を見ず、神の全能を選び取って進んで行かなければならない。

真の謙遜とは、信者がいつまでも自分を無力と考えて、不自由や弱さや隷従の中にとどまり続けることを意味しない。むしろ、キリストにあって自分は何者とされたのか、その事実を信者が御言葉によってはっきりと掴み、それを自分自身に適用して、絶えず天から地に引き下ろすことこそ、真の謙遜である、と筆者は確信してやまない。


あなたはどこにいるのか(3)

「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・・真の礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネ4:21-23)

この山でも、エルサレムでもなく・・・

クリスチャンの交わりを求める時に、この御言葉は筆者の心に常に警告のように響く。霊と真理によって天におられるまことの父を礼拝する、その真の礼拝は、他でもなく信者の心の中にあり、まさに筆者自身の中に存在するのである。

だから、自分自身の中にキリストをいただいている者が、あの山、この山、エルサレム、はたまた聖地と名のつく様々なセンターを訪ね歩く必要は全くない。

さて、前回の記事で、ある愛に溢れた姉妹との交わりと、彼女の突然の死について触れたが、少しだけそれを補足したい。

彼女にまつわる思い出にはさまざまな不思議が溢れている。まず、彼女の死は、彼女自身にとっては決して思いがけないことではなかった。彼女は死に対して万全の備えをしており、遺書から、墓から、何もかも生前に準備を完了していた。しかも、生前から、長い間、病み患いながら生きていたいという願いを彼女は持っておらず、特に終末の時代になる前に召されたい、という願いを、筆者の前でもよく口にしていた。だから、ほとんど苦しむことなく天に召されたのは、周囲の人々にとっては残念でも、彼女の願いが叶えられた結果だったと言えるだろう。

前の記事に書いたように、彼女の葬儀の日、葬儀場から出たバスが、渋滞で進みそうにもないので、筆者が途中で降りて、鎌倉の土産物屋に入ったのも、偶然ではなかった。ちょうどその頃、筆者は、家族の誕生日に向けて、家でプレゼントを用意していたのだが、少し前に、その中に入れようと思っていた他ならぬ鎌倉の土産物屋で買ったお菓子が、賞味期限が切れており、送れないことが判明したのだった。

新しいものを買わねばならないが、鎌倉へなど行く用事がなく、そんな時間もない・・・。当時、仕事に明け暮れていた筆者がそう残念がっていたところ、折しも彼女の葬儀の日、バスが思いがけなく懐かしい観光地を通り過ぎたのである。まさしく主の采配と感じられた。そうして、プレゼントは揃った。

筆者には、神が筆者の必要を覚えて下さり、不思議な形でそれを満たして下さったことが喜びでならなかった。そんなわけで、葬儀のように悲しい出来事が起きている最中にさえ、事この姉妹に関しては、まるで天から恵みが降り注ぐような有様であった。

彼女の葬儀の日、バスを降りて後、筆者は喪服のまま、一人で海や、観光地や、思い出のコースを巡り歩いた。ゴールデンウイーク中だから、どこもかしこも観光客が溢れ、江ノ電も満員であった。そんな観光地での喪服の一人歩きは、さぞかし場違いであろうと思われるのに、まるで幽霊人間にでもなったように、誰一人として注意を払う者もなかった。

その思い出の場所に、数ヶ月後に、今度はロシアの学者たちが訪れて来た。筆者が紹介した思い出の場所の一つ一つは、彼らの感嘆を呼び起こし、こうして、その場所は、全く別の思い出へと変えられるのだが、そんなことになるとは、当時は夢にも想像せず、ただ親しい友が一人地上から取り去られたことを寂しく思いながら、思い出の記憶を辿っていただけであった。

筆者の当時の心の思いは、神の他には知る人もなく、葬儀の場に訪れていた見知らぬ大勢の人たちとも、思い出を分かち合うことはなかった。だが、神はたとえ信者が口にせずとも、信者の心の中で起きていることのすべてをご存知で、悲しみを慰めに変え、失意を喜びに変え、欠乏を豊かに補い、孤独を祝福で満たして下さろうと、常に愛をもって待ち構えておられることが、あらゆる出来事を通して分かるのである。

しかし、同時に、神は決して信者の心が、人や、物、場所に執着することを望んでおられない。この姉妹との交わりも、束の間のようであり、彼女は、「ただ神だけに信頼を置くように」という忠告を残して地上から去って行った。

彼女は、筆者の働き方を見て、そのようにまで苦労して働かなくてはならない生き方に疑問を持っていた。それは筆者も同じであった。ある時期まで、筆者はこの国の年々悪化していく雇用情勢に絶望感を覚え、国外に出れば事情は変わるのではないかと思い、かなりあけすけにその希望を周囲の兄弟姉妹に語っていたこともあった。

そんな中、まるで渡りに船のように、ある時、筆者に海外出張を提案して来た会社があった。仕事に採用される条件として、モスクワ出張に応じよというのである。しかも、かなり長い期間の出張を想定しているようであった。

以前の筆者ならば、その提案に喜んで飛びついたであろうと思う。筆者はそれまでに幾人もの知り合いの兄弟姉妹に向かって、いかにこの国にとどまることに希望がないか、という話をしており、一度は、ロシアの知り合いが、まるでその確信を補強するように、日本に居続けても将来がないので、早くモスクワに来なさい、と筆者を説得する始末だった。あまりにも彼らが親切に道を整えてくれたので、本当に、二度と戻って来ない決意で国を出る直前のところまで行った。

そんな筆者が決心を翻したのは、自分自身で何年かぶりにロシアを下見に行ったことがきっかけであった。飛行機が離陸する直前、富士山が窓からきれいにくっきりと見え、あたかもその旅路が、神に大いに祝福されているように感じられた。富士山が大好きだった亡くなった姉妹のことを思い出し、まるで彼女が天から見守り、背中を押してくれているようだと感じた。

しかしながら、どういうわけか、その短い旅の最中に、筆者の心境に大きな変化が起きて、ロシアに行けば、すべてが見違えるように変わることは決してあり得ない、という当然の結論に至った。別に、モスクワに失望したわけでもなければ、その旅が期待外れだったわけでもなく、ロシアは以前に筆者が知っていた頃よりも、格段に印象良くなっていた。この調子だと、悪評高いロシア的な無秩序と混沌も、間もなく数年のうちには駆逐されるのではないかという変わりようであった。

にも関わらず、これは何かが違うぞという気がしたのである。かつてアッセンブリーズ教団や、KFCや、ベック集会に信徒の交わりを見いだせるのではないかと模索していた頃と同じように、またしても、今度は別の種類の「この山、エルサレム」に心を惹かれているだけだ、という気がしてならなかったのである。

正しい順序はそれとは逆でなければならない。筆者が「あの山、エルサレム」に出向くのではなくて、「あの山、エルサレム」の方がこちらへ向かって来なければならない。もし、山やエルサレムがどうしても本当に必要だというのであれば、それは信仰によって呼び出すのだ。ちょうど、山をも動かす信仰について、聖書で語られているように。

一体、筆者が何を言おうとしているのか全く理解できない、何を馬鹿馬鹿しい作り話を並べているのか、という人もあるかも知れない。多分、これを誰にでも分かるように説明するのは無理であろう。

信者にあっては、すべては信仰によってのみ、始められるべきなのである。信者が地上にあるあの山この山に執着し、この聖地に行って跪いて祈れば、そこから祝福された偉業が始まるだろう、などと思っているならば、そんなことは決して起きない。そうではなくて、キリスト者の霊の内に、彼の信仰の中にこそ、すべてを引き起こす鍵があり、信者の内に住んでおられるキリストからのみ、すべてが始まらなければならないのである。

だから、目に見えるものに心惹かれ、自分にはあれが足りない、これが足りない、あそこへ行きさえすれば、あれがありさえすれば、あのような人と出会えさえすれ、すべては見違えるように変わるだろう・・・、などと考える前に、信者はまず自分の内に住んでおられるキリストこそ、「栄光の望み」であって、この方の内にこそ、全てを呼び出す秘訣がある、という原点に立ち戻らなければならないのである。

一歩まかり間違えば、このような言説を聞いた人は、あなたは自分を超人とみなしているのか、と言いかねないであろう。自分を何様だと思っているのか、神だとでも思っているのか、と問われるかも知れない。

だが、クリスチャンは神の子であり、主イエスの御名を通して、天の父なる神に、何でも願い出ることのできる特権を与えられている。御名の権威を行使する権限が与えられているとは、信者がキリストご自身と一体であり、キリストの権威を代理で行使するよう委ねられていることを意味する。

さて、前述したモスクワ出張を提案して来た会社は、残業代は出ない、と但し書きをつけた。つまり、無賃で長時間残業せよと、あからさまに筆者に向かって言うのである。その時点で、この道はやはり主の道ではない、と筆者は思った。そこで、筆者は自分の家には色々なペットが住んでおり、一日に一回は必ず世話をせねばならないので、帰宅しないわけにはいかないと語ったところ、彼らにはそれがいたく心外だった様子で、表情ががらりと変わった。まるで、筆者のようなさして裕福にも見えない未熟な若者が、ペットを飼っているなど、許されない贅沢である、とでも言いたげな表情であった。

筆者は平然と言った、誰にでも個人としての生活がありますからね、子供を持って働いているお母さんだっていますし、仕事だけが人間にとっての全てではない。人として豊かな生活を送るために、誰しも工夫すべきですよ、と。

彼らは口にこそ出さなかったが、目下の年若い人間から思いがけなく聞かされたこの「説教」に憤慨した様子であった。内心では、筆者のことを、働く覚悟が全く足りない甘えた人間、プチブル、労働者の敵、とみなしているようであった。

本当はその時、ペットのみならず、筆者の家には、観葉植物もたくさんあり、しかも、普通の値段で買えば、一つに一万円以上の値がつきそうな大型の植物もあった。その上、バイクもあれば、車もあり、家そのものも、何カ月も閉め切って放置するわけにはいかないのだ。

にも関わらず、こんな悪徳企業に万が一にも身を委ねるようなことがあれば、植物はみな枯れ、ペットは手放さざるを得なくなり、車などは長いこと放置したために余計な修理が必要となり、家は老朽化し、長時間残業のためにアフターファイブなど夢のまた夢となり、友人や信者との交わりも不可能となり、仮にもし子供でも身ごもろうものならば、まるで犯罪でも犯したかのように責め立てられ、子供も生まれる前にいじめ抜かれて殺されてしまうであろう、しかも、そこまで耐え忍んだ挙句に、毎月、口座に振り込まれる給与は、どんなに残業しても初任給のまま変わらないのである・・・と、そんな風に、まだ何も起こらない前から、そういう筋書きになるであろうことがはっきりと頭の中で思い描けた。大体、ペットを飼っていることすら罪悪とみなされるような企業で、誰が結婚して子供を産むことなどできようか。生きて人生を楽しんでいることさえ罪深い所業とみなされ断罪されるのであろう。

マモン(悪魔)に支配されるこの世の経済も、こんなにも厚かましい要求を出会いがしらの人間にぶつけて来るとは、いよいよ彼らの支配も煮詰まって来た模様だ、と筆者は思った。敵は相当に焦っているらしい。

筆者は表立って対立こそしなかったが、本心を偽らず、彼らの失望を呼び起こす数々のネガティブな制約を列挙して、この会社の人々が筆者に何の期待も抱かないように釘を刺した。社会勉強も足りない若者のくせいに、甘えている、自己中心だ、働く覚悟が足りない、と思いたいなら、勝手に思いなさい。無賃の奴隷的労働は、そもそも労働とは呼べない。無給で自分を奴隷に差し出してまで、筆者には仕事に志願する必要もなければ、国外に逃れる必要もない。奴隷労働によって殺されることに比べれば、何もしない方がまだましである。ペットや植物も、筆者の家族の一員であり、筆者にはこれらを管理し、守る義務がある。いと小さき命も守れない環境で、どうして自分を守ることなどできよう。あなた方は、本質的に人殺しである。それが筆者に分からないと思うか。

人々は言うだろう、それでは、あなたは悪魔が猛威を振るい、世の情勢がますます悪化して、まともな仕事がますます減って行く時に、どのようにして生計を維持するつもりかと。そんなに自分を高く見積もって、えり好みばかりして、本当に大丈夫なのかね? と。

それに対しては、筆者はこう答えるだけだ。「あなたがたの提案する方法では、どうせ誰も生きのびられやしませんよ。そもそもの最初から、残業代は出ない、などと脅して来る企業が、賃金だけはまともに払うと思うほど、こちらも浅はかで愚かではないんでね。そういう連中は、みな本質的に詐欺師であって、殺人者ですよ。そのうち彼らはきっとこう言うんです、企業が株で大損して巨額の負債が出来たから、これを切り抜けるために、社員同士で負債を山分けしてくれと。賃金を払うどころか、金を寄越せと、脅して来るんですよ。我が国の経済は、まだその一歩手前でとどまっていますが、あと数年のうちに、どうせそういう話になるのは分かり切っているんです。

カラクリは教会と一緒です。信徒の人数に見合わない、採算も取れないような、豪華礼拝堂の建設など、まるで身勝手かつ無意味で強欲な計画を次から次へと立てておいて、そこへ詐欺師たちが群がって、ありもしないプロジェクトをさんざんぶち上げておいて、その夢もかなわず、最後には途方もない借金だけを抱えることになるわけです。しかも、その時になると、都合よくその借金を教会債という形で信徒に押しつけようとするんです。そんな場所に居残って、借金返済の道具とされて生きることが、信仰生活と呼べますか? それがクリスチャンの正しい生き方だと思いますか。誰も思いませんよ。その何が神の選民なものですか。

国も企業もこれと同じですよ。今、国が同じことをやっているじゃないですか。安いエネルギー源だと喧伝していたものが、巨大な爆発事故を起こして、巨額の負債が生まれたら、これを都合よく国民の連帯責任として、みんなに押しつけようというわけですよね…。国がこれだから、企業だって当然、同じことをやります。次から次へと勝手なプロジェクトをぶち上げておきながら、その失敗のツケはみんな弱い者に回し、組織の存続のために人身を犠牲にしようとして来るんです。そんな強欲企業の犠牲となって、彼らの厚顔無恥な欲望の成就のために、正当な賃金も払われないまま、架空の正社員のバッジをもらったって、それに何の意味がありますか。何が正社員ですか。そんなものは、単なる奴隷のバッジ以外の何物でもありませんよ・・・。」

むろん、こんなことを誰かの前で面と向かって口にすることはないが、結局、事の本質はそういうことなのである。最後に見て来た企業では、ついに幹部が、会社の利益が出ない時には、給与を返上して無賃労働をしていると筆者の前で告白した。それを聞いて、筆者はどれほど呆れたことだろう。家族を犠牲にし、可愛い子供たちを犠牲にし、自分自身を犠牲にしながら、その高い地位に見合うだけの対価さえ、もらっていないというのだ。こうなっては、役職もバーチャルなものに等しい。現実には、責任だけが増し加わり、ふさわしい報いは何一つ得られていない。上部がそれでは、部下に何の希望があろうか。馬鹿馬鹿しいにも程がある。もうお付き合いできない、と筆者は思った。これでは、囚人労働と変わらないではないか。そこにどんな栄光が、どんな人間性があろうか。こうまで歪んだ労働の概念に、まともな神経の持ち主の誰が着いて行くことができようか。その先には組織との心中の道しか、残っているものはないだろう・・・。彼らには、マサダの自決のような命運が待ち構えているだけである。自分は選ばれた社員だ、立派な労働者だ、企業の幹部だ、役員だ、選民だ、などと誇っているうちに、そういう結末に至るのに違いない。彼らにどんな夢があっても、こんなやり方では、かなうはずもない。正義を曲げており、神の御心にかなわないからだ。それは共産主義ユートピアと同じで、ただ人間に果てしない犠牲を要求するだけで、決して願っているものを与えはしない・・・。

聖書にはこう書いてある、野の花を見よ、空の鳥を見よ、と。野の花も空の鳥も、労働によって自己を養っているのではなく、神が養って下さっている。信じる者のすべては、これと同じように、神によって創造され、神によって生かされ、養われている存在である。神は一羽の雀さえもお忘れにならないのだから、まして信じる者に何が必要かは、知り尽くしておられる。

神が面倒をみて下さっているのに、信者が自分の努力によって生きていると思うのは傲慢である。人が自分で自分を支えていると思っているのは、むなしい錯覚でしかない。人は自分の力では天候一つ変えることはできず、自分の健康を維持することもできず、まして己が労働によって自分を支えることなどできはしない。我が国の労働システムは途方もなく歪んでおり、それは社会主義と同じ呪われた優生思想から発生して来た、死の恐怖に基づく人間の終わらない自己犠牲の苦役である。アダムが罪のゆえに呪われて、一生、地を耕さなくてはならなくなった時から、人間の労働は不毛となったのである。だから、もがいても、もがいても、人は労働によって自己の魂を贖うことはできない。自分を救うことはできない。

にも関わらず、人が組織を作って、互いの弱さをかばい合う「イチヂクの葉同盟」を作って、神によらずに、人間の努力によって互いの生存を保障し合おうと試み、そこに偽りのヒエラルキーを築いて、あたかも立身出世や、裕福になることが可能であるかのように思い描いて、富を増し加えて組織を拡大し、天にまで届く摩天楼を建てようとしているのは、単なる幻想であり、驕りである。

企業も、教会と同じく、組織から逃げ出せば救いを失う、暮らしの安定を失い、命を失うという恐れを煽ることによって、人々を組織に拘束し、逃げ出せないようにしているだけのことで、これらの人々をそこにつなぎとめているのは、生存の恐怖であって、自由ではないのだ。しかも、弱者を犠牲として踏みしだき、彼らに当然支払うべきものさえ支払わず、弱い人々を貧しさと死に追いやり、踏みつけて嘲笑し、罪に罪を増し加えながら、肥え太り、勝ち誇っている罪深い共同体は長続きしない。だから、ある日、彼らは自分を養ってくれていると思っていたその体系全体が、音を立てて崩れるのを見る日が来よう。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
 あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。

 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」(ヤコブ5:1-6)

このように、最低限、支払うべき賃金さえ支払わない呪われたシステムは、崩壊することが定められているのであって、どんなにそこで信者が頑張っても、それ自体が、神の目に忌むべき呪われた体系である以上、彼の努力に報いが与えられる日は来ないであろう。

神が養って下さると言ってくれているのに、どうして信者はそのように先がないと分かっている不法で罪深い条件に身を委ねてまで、悪人の仲間入りし、悪魔に自分を生かしてくれと懇願し、跪く必要があるのか?

そんなものは社会勉強でもなく、努力とも呼べない。人が自分で自分を奴隷として売り飛ばし、強欲な人々が彼らに君臨し、その恐れにつけ込んでいるだけの話である。そんな愚かしい奴隷的奉仕を得るために奔走するのはもういい加減にやめて、信者であれば、本当に心から納得が出来る道が開かれるまで、天の父なる神に直談判して、条件を申し上げるが良い。そのために時間を使え、と、今の筆者ならば答えるであろう。

前述した姉妹は亡くなって久しいが、ようやく筆者も、姉妹の警告を理解し、当時の彼女と変わらない見解に達したのである。

悪魔は言うだろう、「もう時間がないよ。あなただっていつまでも若くないんだから、この辺で妥協して、手を打たないとね。あなたはいつも高望みしすぎなんだ。理想が高すぎるし、潔癖すぎるんだよ。そんなにも難しい注文ばかりつけていれば、開かれるものも開かれないよ。今の世の中では、あなたの言うことは贅沢だ。もっとハードルを引き下げなくちゃね。もっと世と妥協して、口うるさく注文をつけるのはやめて、正義だの、真実だの、聖書の御言葉だの、神の御心だの、青臭い主張はひっこめた方が、身の為だ、その方が、あなた自身も格段に生きやすくなるよ」と。

だが、悪魔にはご退散願おう。そんな理屈は成り立たないと筆者は知っている。人が何をしてみたところで、この先の世界に輝かしい未来の展望はなく、従って、悪魔とどんな取引をしてみたところで、人が「格段に生きやすくなる道」などもとより存在しないのである。悪魔に対しては、一歩譲歩したが最後、百歩譲歩を迫られるであろう。だから、一歩たりとも譲ってはいけないのである。

もともと新卒・既卒などという馬鹿馬鹿しい区別から始まって、次には年齢差別、性別による差別、学歴による差別、経験による差別、果てはペットの有無による差別まで、あらゆることをきっかけに、人を値切りに値切っておいて、ついに最後には無賃労働を耐え忍べとまで言おうとしているわけだから、そんな殺人者に対してどんな妥協が、譲歩があるというのか。全く、がめついにもほどがあるというものだろう。「ハードルを引き下げよ」というのは、結局、「我々のために無賃労働し、奴隷的苦役に従事せよ」と言っているも同然であって、日本の労働市場は年々、そこへ近づいているのである。一旦、契約を結んだが最後、勝手にその内容が書き変えられ、明日には、戦地に赴かされる羽目になっていないとも限らない。ここはそういう国に成り果ててしまったのである。その他にも、あらゆる不法行為に目をつぶって、人権を自ら手放し、自分の不利益を一方的に耐え忍び、あらゆる不当な出来事に見て見ぬふりと泣き寝入りを続けなければ、ヒコクミンという話になるのであろう。悪魔はずるくて卑怯なので、そのように不法な条件と理不尽をとことん耐え忍ぶよう要求しておいて、それらが暴かれ、明るみに出される頃には、巧妙にあなたに濡れ衣を着せて、トカゲのしっぽ切として、あなた一人を監獄に送って済ませようとするかも知れない。詐欺師の仲間入りをしておいて、自分だけは無傷で済むと思うのは甘いのである。誰がそんな取引に身を委ねようと思うだろうか? 人を甘く見、馬鹿にするのもたいがいにしてもらいたいものである。

そもそも、賃金も支払われない「労働」のために、誰が労働市場に身を売りに行くのであろうか? 負債を抱えるために行くのであろうか? 馬鹿馬鹿しいにも程があるだろう。そういうものを、誰が労働の概念に含めることができるだろうか。だが、悪魔の論理はいつもこんな調子である。神の救いを求めて教会に赴いたはずの信者が、愚かな指導者が思い描いた欲深い計画の言いなりとなって、教会債を抱えさせられて重荷に喘ぎ、四苦八苦している始末である。神の救いが、いつの間にか、人間の負債にすり替えられていることの愚かしさに、そうなってもまだ気づかないとすれば、呆れるほどの馬鹿馬鹿しさである。企業も同じなのだ。給与も払わず、生きるに必要な糧を与えず、どんなに尽くしても、会社が倒産するかも知れないなどと絶えず脅して来るだけの連中が、もし自分の味方だと思っている人があるならば、それは暴力を振るう夫から何年たっても別れられない愚かな妻と同じく、自ら招いた災難である、と言えよう。

企業、教会、国家を問わず、地上の組織や団体は、みな人間が自己防衛のために築き上げた「カインの城壁」であって、その本質はバビロンであるから、近寄らないに越したことはないと、筆者は考えている。それらのものは、人間が己が恥、弱さ、無力を隠すために築き上げた「イチヂクの葉同盟」に過ぎず、本質的には、神に逆らうものなのである。だからこそ、そこでは、組織の存続、すなわち、人間の恥が暴かれず、人間の威信が保たれることだけを第一として、組織に逆らう人間や、弱い人間はとことん犠牲にされて行くのである。そして、組織のプライドを建て上げて、組織が一刻も早く「天に到達する」(=神になる)のを手助けするような人間だけが重宝され、勝ち残って行くのである。そこにあるのは、歪んだ優生思想である。そこにあるのは、人間を集団化・道具化することによって、人類が自力で神に到達し、まことの神に挑戦しようという願望だけである。

だが、そうまでして組織が生き残りを図っても、その先に未来はないのだ。いずれバビロンは罪の借金を決済しきれなくなって倒壊する日が来るからである。キリスト以外の土台に建てたものは、どんなものであっても、どうせ長くは続かないのである。

だから、本当は、時間がないと焦っているのは、神ではなく、悪魔の方である。聖書には書いてある、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Ⅱコリント4:16-17)

キリスト者はこの地上や肉体の制約にとらわれて、年々、衰えて行くような存在ではない。世人ならば、自分は年を取ったからもうこの辺りが限界で、この世の常識と妥協せねばと言うかも知れないが、キリスト者はむしろ逆である。私たちは、この肉体を宿としながらも、地上の法則の制約に逆らって、これを超越して、この有限なる幕屋の上に、無限の幕屋を着ようとしているのである。また、不法なこの世にありながら、そこに神の御心にかなう霊的統治を打ち立てようとしているのである。

だから、悪魔の提案になど心を動かされず、世の常識や言い分に耳を貸さず、あくまで聖書の御言葉に基づき、神の正義と真実に立って、御心に反しない正当な条件を、信者は何事についても、願い続けるべきである。世がそれを提供しないというならば、主と同労して自分自身でそれを打ち立てるくらいであって良い。

さて、最後に、筆者がこのような考えに至ったきっかけの一つに、さらに別な出来事もあった。筆者が車を買った際に、車屋が筆者に提案して来た保険の補償金額を、別の保険屋が見て、「安すぎる」と言ったのである。「もしあなたの車にお医者さんが同乗していたら、こんな金額では効かないかも知れませんよ」と、その保険屋は言うのである。

筆者は自分の車に医者を乗せる予定はなく、医者もろともに事故死する予定も全くなかったので、神の守りにより、保険など決して使うはずがないと心の中で確信していたが、それでも、自分とキリストの命の値段をあまりにも安く見積もりすぎていると悪魔に後ろ指を指されない為に、金額を引き上げた。(かと言って、筆者にその助言をした保険屋には何の利益もなく、その保険屋は間もなく廃業となった。)

その後、ある時、筆者は少しでも経費を節約するために、補償額を引き下げることで、保険料を浮かせようという考えを思いついた。ところが、そのような連絡の電話を保険屋に入れたまさにその日の午後、ある駐車場に車を止めると、思いもかけない激しい海風が吹いて来て、筆者が車の扉を開けた瞬間に、風で扉が全開に開き、隣に止めてあった車に思い切りぶつかったのである。

結果的には、大したことのない事故で、相手の車の扉の取手の小さな部品を一つ取り替えるだけで済み、それにかかった金額もまるで大したことなく、保険すらも使う必要がなかったのだが、それでも、引き下げた保険料分を上回る金額が修理費に消えた。

筆者は経費を節約せねばという恐れに駆られたことを反省した。これは上からの警告であって、そんな事件は決して偶然に起きるものではない、ということがよく分かっていたからである。キリスト者の人生に決して偶然はない。だから、この事件を受けて、筆者はただ生活の不安だけを理由に、自分の生活の規模を自ら縮小するようなことは二度とすまい、と決意したのであった。(ただし本当に無駄なものは削って差し支えないが。)筆者は、キリストと筆者の命の値段は、断固、引き下げられるべきではない、と確信し、またもとの値段に戻した。むろん、これまでに一度も保険を使ったことがないのは言うまでもない。

明日のことを思い煩うな、明日のことは明日が心配する、と聖書に書いてある通り、キリスト者は明日の責任を自分自身で引き受けるべきでなく、必要の全てを天の父なる神に願い求め、神が必要を満たして下さることを確信し、神に全幅の信頼を置きつつ、悪魔の脅しに対してとことん対抗し、彼らに対してキリストの勝利を誇ることで、見栄を張るべきなのである。

神にとって不可能なことはなく、人が日々思い悩んでいるような事柄は、神にとっては全く些末な事柄でしかない。采配一つで、神は信者にそれをお与えになることもできれば、あるいは、その何倍もの損失を一挙にこうむらせることも可能である。なのに、どうしてこの全能の神を信頼しないのか。信者の生存は、御手に委ねられている。それなのに、信者が自分の生存を神に委ねず、自分で自分を何とかしようとすればするほど、罠にはまって行き、悪魔がその不安につけ込んで来るであろう。

多分、世人のほとんどには、いや、信仰者であっても、こういう話は理解されないことであろう。ほとんどの場合、「あなたの考えは尋常ではない。それは現実的ではなく、楽観に基づく、危険な夢物語だ」、「あなたは若いので、人生の苦労を知らず、自分に都合の良い夢を思い描いているだけだ」などと言われて終わるだけであろうと思う。

実際に、筆者の周りでは、以前に豊かだった人たちが、最近、どんどん持ち物を手放し、生活を縮小している。たとえば、筆者がボロボロになるまで同じバイクカバーを後生大事に使っていた頃には、ピカピカのカバーを何度もかけ変えていた人が、筆者よりも先にバイクを手放した。駅前の駐輪場は、以前には定期券を申し込むために長蛇の列ができていたのに、今はもうガラ空きである。

NHKが「縮小ニッポン」という番組を放映したらしいが、多分、この先、生活を縮小しようとの世の傾向はますます強まるのではないかと筆者は思う。今、筆者の周りで車を維持している人は、生活の足や、趣味や、行楽のためではなく、ただ仕事のための必需品として持っているだけである。若者の車離れが激しいなどと言われて久しいが、今や若者から老人まで、必要最低限のものしか持たない生活へとどんどん切り替えて行っている。

だが、それにも関わらず、筆者は確信している。キリスト者は、世の情勢に左右される存在ではなく、世が不況になったからと言って、それに合わせて自分の生活を縮小せざるを得なくなるものではないと。キリスト者は、安易に生活を縮小すべきではなく、特に、恐れに駆られて生活を縮小するなど、もっての他である。それでは悪魔の笑い者になるだけである。

これは貪欲のために言うのではなく、キリストが約束して下さった命の豊かさに達するまで、信者は決して諦めて退却すべきではない、ということを述べているのである。さらに、キリスト者は悪魔と取引して違法な条件に身を委ねてまで、自分の力で生きようとすべきでもない。たとえ明日の保障がないように見える時にも、信者の生存を支えるのは、神の仕事であって、神が共にいて信者のために心配して下さるのだから、信者は焦ったり、悩んだりすることをやめて、神に全幅の信頼を置いて、良心に恥じないで済む、恐れからでなく自分の願いに基づく正当な生き方を、天に向かって乞うべきである。

そして、神はそのような願いを喜んで下さり、必ず、信じる者の願いに応えて下さる、と、筆者は確信している。主に信頼する者は、失望に終わることはないと、聖書に書いてある通りだ。神は、信者の存在を通して、御名の偉大な力を世に示したいと願っておられる。神の愛と憐れみの深さ、神の恵みと助けの大いなることを、世に示したいと願っておられる。だから、信者は自らの信仰によって、神がどのようなお方であるのか、生きて世に証明すべきである。それによって、悪魔は敗北し、恥じ入るであろう。自分を責めて、恥じるべきは、キリスト者ではなく、絶えず無実の信者を迫害し、苦しめ、あざ笑おうとしている悪魔と地獄の勢力なのである。