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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしの栄光を他のものに与えはしない―キリストは信じる者のすべてのすべて

「わたし、は、
 義をもってあなたを召し、
 あなたの手を握り、
 あなたを見守り、
 あなたを民の契約とし、国々の光とする。
 こうして、盲人の芽を開き、
 囚人を牢獄から連れ出す。
 わたしは、これがわたしの名。
 わたしの栄光を他のものに、
 私の栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」
(イザヤ42:6-8)

三つ子の魂百まで、と言われるように、まだ二十歳になる前に夢や憧れとして思い描いていたイメージは、年齢を重ねても、人間からはなかなか抜けないものである。

筆者は幼い頃、ロシアという国に漠然とした憧れを託し、その国の言葉や文化を学びたいと思った。

専門家として行った研究は、決してロシア賛美の観点から行われたものではなく、むしろ、かの国の社会主義時代の残酷な歴史を掘り起こすものであったが、それにも関わらず、この国に対するほのかな憧れは、心の中に持ち続けられた。

だが、かの国に関しては、関われば関わるほど、幻滅が募って行くばかりであった。

もっとも、筆者の心に幻滅をもたらさなかった被造物など何一つない。そのことは、地上には何一つ確かな価値はなく、確かな方は、天におられる神お一人だけであることを物語っている。

我が国も含め、地上のどこかの国を理想のように美化して思い描いたとしても、返って来るものは、幻滅以外にはない。
 
だが、そういった一般論とはまた別のところで、ロシアという国は油断のならない国なのである。我が国でも、対米隷属から脱したい人たちは、今もってロシアに希望を託しがちであるが、どこの国であれ、一方的に美化するのはやめておいた方が良い。
 
今から何年か前に、ある職場で、上司たちがかの国についてこんな悪口を言っていたのが聞こえて来たことがあった。筆者はその頃、まだロシアに親近感を持っていたため、それを悲しく思った。

「あいつら、俺たちが苦労して積み上げたものを、最後の最後の段階になって、まるで自分の手柄のように全部持って行くんだからな。あのズルさは治らない国民病だよな・・・。」

しかし、当初は悪口や偏見に過ぎないように感じられたこの言葉が、案外、全く根拠がないとは言えないものであることを、筆者は知ることになった。

たとえば、極言するならば、ロシアの文化そのものが、西と東の両方からの借り物である、と言えるかも知れない。ロシアのキリスト教はビザンチンから継承されたものであるし、ヨーロッパを模倣した町並みは、ピョートル大帝時代の輸入だ。ロシアの文化そのものが、かなりの部分、他の文化からの借用で作り上げられたものと言えるかも知れない。

むろん、文化とは、そもそも借用から始まるのであって、その何がいけないのかという理屈もあろう。しかし、ロシアの場合は、借用がかなり得意である。そういうところから始まって、ロシアに関係すると、日本人であっても、借用の天才のようになってしまう様子を、何度か見せられて来た。

そもそも、ロシアと日本という国は、互いに悪いところがよく似ており、どちらも精神的には後進国と言って差し支えない未熟な部分を持っている。まずは、両国ともに、集団主義的な精神性が強く残っており、個人の概念が十分に確立されていない。日本も、ロシアも、国家主義的な精神風土の面影を今日に至るまで色濃く引きずっており、肥大化した政府や官僚を基礎とする「お上主導」の政治体制から歴史的に一度も脱したことがない。そういう国民がどれほど「自由」という言葉を口にしても、それはあたかも水槽から出たことのない魚が、鳥の生態を論じるようなものである。

これはルネサンスをも、宗教改革をも、下からの革命をも、本当の意味で経ていないことから来る文化的な未熟さではないかと思う。(1917年革命も、下からの革命とは言えないであろう。)

そのため、権威に従順で(権威に弱く)、序列を絶対的に肯定しながら、その中を巧みに泳ぎ渡って保身を図りながら生き伸びる官僚主義的な生き方を至上の価値とするような愚かな精神が、至るところではびこり、腐敗を生む根源となる。権威の前にはヒラメのように媚びへつらい、弱い者は徹底的に軽蔑し踏みしだく残酷な人々が現れるのもそのためである。こうした精神性の中からは、現存する体制を打ち破る発想は決して生まれて来ず、改革の芽はことごとく潰されてしまう・・・。
 
しかし、精神的に後進性を持ち続けている国が、同じように精神的に後進性を持ち続けている国を批判するのは、たやすいことではない。

そもそも日本のロシア専門家の大半は、隠れ共産主義者であるか、ロシア美化に走る非現実的夢想家であるか、あるいは、ロシア人との婚姻によって半ばロシア化してしまったような人たちから成っているので、こうした人々に、ロシアという国への歯に衣着せない容赦のない分析や批判を期待するのは無理というものであろう。

外国語や外国文化で飯を食っている人たちに、その国を批判せよということ自体が、無理な要求なのかも知れない。ロシアについては、さらに事情が複雑で、特に、ソビエト体制時代に、かの国に関わる研究者はことごとく、社会主義思想に理解がなければ、かの国に旅行することもできず、論文も発表できなくなり、研究者から排除される、などといった一連の制限を受けたので、そうした時代に、この国の研究者は、徹底的に骨抜きにされてしまった。

今日、日ロの外交・ビジネス・文化交流に関して、純粋に我が国の国益のために、かの国としたたかに向き合い、対等に張り合えるような人は、ほとんどいまいと危惧する。

対米隷属からも抜け出せない国に、ロシアと対等に向き合えというのも、相当に高いハードルであろう。ロシア人は日本人より一枚も二枚も上手で、ある意味、厚顔なところがあるため、島国ゆえに国土が占領されたこともなく、外面は良いが徹底的に人を疑うことのできないお人好しの我が国民には、彼らの策謀を見抜き、立ち向かうだけの力はないだろう。

特に、日本人の弱点は、絶えず仲間内で分裂しており、同士討ちに明け暮れ、弱い者を虐げ、団結できないところにある。ロシア人もよく国外では分裂していると言われるが、彼らは「よそ者」に立ち向かわねばならない時には、少なくとも、日本人以上には、団結する能力がある、と筆者は見ている。

我が国がこんな体たらくでは、かの国と対峙しても、したたかに丸め込まれ、利用されるだけで、外交的勝利など望めないであろう。もっとひどい場合には、かつてのシベリア抑留とほぼ同じように、日ロ両国が共同して(結託して)、日本国民をより一層、虐げる立場に立つであろう。この二つの国は、未だそういう精神性を克服できていない油断のならない国家なのである。だから、安倍政権がロシアに接近すればするほど、筆者にはロシアと組んで何をするつもりなのかと、期待ではなく、警戒心が生まれる。

だが、それでも、いつの日か、我が国の国民も、精神的に大人となって、どの国に対しても、したたかに図太く(しかし目先の利益のためだけでなく、真に自国に利益がもたらされるような)外交を繰り広げるだけの力を持たねばならないであろう。その日が一体、いつになれば来るのかは知らないが、ただこのまま時が過ぎるとは思えない。いつかは目を覚まし、大人にならなければならない時が来るはずである。

ところで、ロシア人には、身内のように仲良くなった人間との間では、困った時に、命がけで助け合うという情の強い結びつきがあって、筆者はこれを日本人のうわべだけの礼儀正しさの内側に隠された冷淡さ、無責任さと比べて、かつては高く評価していた。

だが、ロシア人に限らず、最近、筆者は、あらゆる同情というものが、決して見かけほど良いものではないどころか、現実には非常にマイナスの側面を持った、悪魔的と言っても差し支えないほどに、悪しき感情であることに気づいた。そして、人の弱みや問題を前提として、内なる恐怖によって作り上げられる連帯には、いかなる希望も見いだせなくなったのである。

もし筆者がキリストを生涯で個人的に知らなければ、同情と真の優しさの区別、人間的な頼りない支援にすがることと真の自立がどれほどかけ離れたものであるかという区別が、きっとつかなかったのではないかと思う。

同情というのは極めて厄介かつ危険な感情で、同情に基づく支援や連帯は、どこまで行っても、真の連帯とはならない。なぜなら、それは他者への尊敬に裏打ちされた連帯ではないからだ。

同情という感情は、基本的に、恐怖に基づく人間の本能的な自己防衛の願望から出てくるものであって、「もし自分もあの人と同じ目に遭ったら・・・」という思いを前提として、他者の不幸に共感して、手を差し伸べようとしているに過ぎない。そして、自分は同じような目に遭わずに済んだことに、内心、ほっとしながら、他者を哀れみ、それでも、「もし私があなたと同じ目に遭った時には、弱い人間同士、あなたも私を助けてくれるでしょうね?」という打算を心に秘めつつ、相手の窮状に手を差し伸べるという偽物の寄り添いなのである。

だから、そのような関係においては、もし誰かが真に自立して、一切の恐れと弱みがなくなると、それが縁の切れ目になって、今まであれほど強固に思われた連帯が、一瞬で終わってしまう、ということもあり得る。それはちょうど同じ病で長年、闘病生活を送り、励まし合っていた二人の病人のうち、一方が病気が治って完全に健康になって病院と縁がなくなると、依然として闘病生活を送り続けるもう一人の病人に、非常に声をかけづらくなるのにも似ている。

弱さによって作られた連帯は、真の連帯ではないのだ。励まし合えるのは、共に同じ自己憐憫の感情を持っているからであって、哀れむべき共通の弱さがなくなると、そのような関係は、一日と続かなくなるのである。

以前に書いた記事の中で、筆者は、ハンセン病者の絶対隔離政策を助長するために、天皇の慰めの言葉が利用されていた、という事実に触れた。

ハンセン病者の絶対隔離政策は、それ自体、あまりにもひどすぎる人権侵害で、直ちに終わらせられるべきものであった。一旦、病名の診断が下れば、病者は強制的に療養所に隔離され、病が治癒された後でさえ、生涯に渡り、そこから出る道を絶たれたのである。そして、療養所では、強制的に働かされ、非人間的な暮らしを強いられ、断種政策によって、子孫を残すこともできず、果ては人体実験の材料とさえされた。一旦、ハンセン病と診断された者は社会のお荷物として黙って隔離政策に甘んじ、やがて死に絶えることこそ、国や社会の益に貢献することだと教えられていたのである。

優生思想に基づくこうした卑劣で非人間的な政策が平成に至るまで長引いた背景には、この政策の忌まわしさを覆い隠すための様々なトリックが駆使されていたことが影響していた。そのうちの一つに(特に戦前戦中は)、隔離された者たちの怒りをなだめ、このひどい人権侵害に対して声を上げさせないために、天皇からの慰めの「お言葉」が利用されていたということがあった。

つまり、「やんごとなきお方(天皇)が、可哀想なあなた方(ハンセン病者)を気にかけて、同情して下さっているのだから、あなた方(ハンセン病者)は、この状況に憤りを感じて反乱を起こしたり、暴れたり、脱走しようなどという不届きな考えは捨てて、この制限(絶対隔離政策)は、抜け出せない運命なのだと諦めて、おとなしく療養所の秩序に従って、隔離の中で人間らしく生きる道を考えなさい・・・」というわけなのである。

隔離こそ、非人間性の源であって、隔離の中で人間らしく生きる道などあるはずはないのだが、そこで天皇からの「同情」の言葉が巧みに、隔離政策の非人間性を覆い隠すための心理効果として利用されたのである。実際には、全く人間らしく扱われていないのに、天皇の哀れみの言葉が、あたかも、ハンセン病者が人間らしく、尊厳を持って取り扱われているかのようなカモフラージュのために利用され、「自分たちは見捨てられているわけでもなく、粗末に扱われているわけでもないのだ」という錯覚を彼らに抱かせる材料になった。
 
天皇からの同情の「お言葉」が、絶対隔離政策に対する人々の憤りをやわらげ、自由になりたいという彼らの希求を打ち砕いて、体制に対する反乱を阻止するために利用されたのである。
 
こうして、天皇の「同情」に慰めを見いだした人々は、何が何でもこのような非人間的な政策には反対して、自由を勝ち取らねばならないという心の願いを打ち砕かれた。その「お言葉」があったがために、自分たちは隔離政策の犠牲者なのだという現実に覆いがかけられて、非人間的な政策が、あたかも憎むべきものでも、立ち向かうべきでもなく、それをおとなしく受け入れることこそ、彼らの「天命」であるかのような錯覚が生まれたのである。体制はそのような心理的効果があることを十分に見抜いた上で、隔離された者たちの憤りを静めるために、天皇の「お言葉」を利用したのである。

だが、問題は、ハンセン病の絶対隔離政策だけではない。たとえ天皇から発せられるものでなくとも、生まれながらの人間から出て来る同情には、ほぼ例外なく、以上のような悪しき効果がある。つまり、同情とは、世間で考えられているほど、美しい感情では決してないのである。それは心密かに「可哀想な人々」に対するディスカウントを正当化し、「可哀想な人々」が、永久に「可哀想な境遇」から抜け出せないようにするためのカモフラージュでしかないのである。

同情する人々は、あたかも不憫な人々に寄り添って、助けの手を差し伸べようとしているように見えるかも知れないが、その実、その優しい言葉は、自分は決して「不憫な人々」の仲間ではないし、そうなりたくない、という思いからこそ、述べられるものである。

同情の本質とは、結局、次のようなものでしかない。

「人間には誰しも同じような弱さがあって、もしかすると、場合によっては、私があなたの立場に立っていたかも知れません。あなた方は私の身代わりとして、そのような不憫な状況に置かれたのです。ですから、私はあなたに同情いたします。同じ弱さを持っている人間として、あなたのために涙を流します。でも、あなたは、決して自由にならないで下さい。私は、あなたに同情しますし、必要な支援もします。でも、決してあなたに自由になって欲しくないのです。私の身代わりに、あなたはずっとそこに閉じ込められて、苦しんでいて欲しいのです。あなたの苦しみを見ることによって、私は自分の自由の価値を確かめることができ、自分の幸福を確かめることができるのです。なおかつ、あなたの想像を絶する苦しみに、私が寄り添うことによって、私は自分が送っている利己的で卑俗な生活から浄化されて、あなたと共に、汚れなく慈愛に満ちた神々しい存在へと飛躍的に高められるのです。あなたの苦しみは、多くの人々の魂の浄化のために必要なのです。あなたの存在によって、我々は栄光を受け、高められるのです。ですから、どうかその苦しみから、抜け出そうなどとは思わないで下さい。あなたのその苦しみは、人類の浄化のために必要なのです・・・」というわけなのである。

断じて、そんな感情は、他者に対する真の尊敬に基づくものではない。それは寄り添いではなく、同情に見せかけた蔑みでしかない。犠牲の肯定でしかない。だが、この心理的なカラクリは、非常に見えにくく、また、巧妙で、気づきにくいものである。そして、そのカラクリは日常の至るところに存在しており、巧妙に人を弱さの中に閉じ込めようと待ち構えている。

かつて、ロシアにいるロシア人の知り合いが、日本に台風が接近して来ると、よく筆者に心配のメールをくれた。しかし、それを読むとき、いつも奇妙な実感に襲われたものである。ロシア人は心配することを当然だと考えて、大丈夫かと前もって聞いて来る。だが、筆者は、「神様が着いているから、何も心配は要らない」と答えながら、いつも心に思うのだった、仮にもし大丈夫でなかったとしても、あなたに何が出来るのかと。

遠くにいて、何も自分が手助けができないことについて、なぜあえて聞き手の不安を呼び起こす質問を尋ねて来るのだろうか? それに対しては予定調和的に「大丈夫だ」と答えるのが、筆者の役目なのだろうか? そのようなものが、本当の心配であり、本当の親切と言えるであろうか?  

いや、それはあたかも同情や心配を装いながら、その実、他人事だからこそ、尋ねられる質問であって、それは信者の心の不安を煽るために、神でない霊が言わせた言葉に他ならないのではないかと、筆者はよく思わずにいられなかった。 (その人は共産主義者であったので、もちろん、神の霊によって生かされている信者ではなかった。)

そんな時、身近にいる信者の答えの方が、はるかに筆者を満足させるのだった。信者はこう言うのである、「私は最近、日本直撃と予報されていた二つの台風を、主の御名によって、撃退したよ!  御名によって命じるんだよ。そうしたら、台風は弱体化して、進路も変わって、横浜は全く被害を受けなかったんだよ! あれほどニュースでは直撃と騒いでいたのにね・・・」

そうなのだ、信者には、主の御名の権威によって、台風のごときものは、当然ながら、撃退する権威が与えられている。台風ばかりでない。雨も止むし、風も止む。豪雨が、必要な瞬間にはぴたりと止まるのを、筆者は幾度も見せられて来た。

万事がこんな調子で、こういうわけだから、信者には人からの同情や心配など全く要らないのである。キリスト者には、人から「大変だね」とか、「可哀想だね」、とか、「助けが必要なんじゃないの?」などと、同情されるべき弱さや欠点などは、存在しないのである。

だが、それは、我々が強くて完全だからではない。神が信じる者の助けであり、神が完全だからである。

おそらく、ロシア人の同情好きは、長年、国家権力によって虐げられながら、国民同士、草の根的に助け合って生きてきた経験から生まれたものなのであろうと筆者は想像する。彼らは、筆者から見ると、日本人よりも感受性豊かで、世話好きで、他者の痛みに敏感で、人の心を読む術に長けているため、人の心に自然に寄り添う術を日本人以上に豊かに持ち合わせており、うっかりすると、その情け深さにほろりとされられる瞬間がある。

もし神を知らなければ、筆者はそういう巧みな寄り添いと、同情や共感を、真の優しさだと理解していたことであろう。

だが、ロシア人に限らず、人間の同情のごとき代物を真の優しさや共感だと勘違いして、これによりかかっていれば、いつまで経っても、人は真の自立には至らないのである。

同情が優しさを見せかけて巧みに人をディスカウントするカラクリは、結局、ハンセン病者の絶対隔離政策と同じである。自由になる権利は、誰しも持っているのだが、とりわけ、聖書の神を信じる者は、悪魔のすべての圧迫と脅しから解放される権利を持っている。

神が信者にとって完全な助けであり、キリストの十字架の御業のゆえに、信者は死の恐怖による悪魔の奴隷的拘束に甘んじねばならない理由はなく、キリストを内にいただいていることにより、真の自由と解放を内に持っているのである。

聖書のまことの神を呼び求めるならば、誰も失望に終わることはない、と聖書にある。神は信じる者の全てを知っておられ、信者のどんな必要にも間に合う方である。神には決して遅すぎるとか、策が足りないとか、間に合わないということがない。

ところが、このまことの神を呼び求めずに、神の助けを有限なる人間からの同情や支援に取り替えた途端に、信者は、天の高度に生きる術を失って、地に転落し、弱さという絶対隔離政策の檻の中に閉じ込められ、そこから自由になることができなくなってしまうのである。

そこで、筆者にとっては、人間に過ぎない者から注目され、寄り添ってもらったり、同情を受けることよりも、神にあって、真に解放されて、自由であって、自立していることの方がはるかに大切である。だから、キリスト者が、主にあって、真に自由であるためには、人からの同情を受けてはいけないし、その隙を作ってもいけない、ということが、年々、よりはっきりと理解できるようになったのである。

自分の世話好きな性格を「善意」だと勘違いして、自分の気前の良さを世間にアピールするために、人助けできそうな、自分よりも弱い対象を常に探し求めている人たちには気の毒な話であるが、筆者には、彼らが栄光を受ける材料とされるために、偽りの同情による連帯の中に取り込まれたい願いは皆無なのである。

神が味方として共におられるキリスト者を、哀れで不憫な人間とみなして、同情を注ぎ、神から栄光を奪おうなどという恐れ知らずな人間は、よくよくどうしようもない愚か者の詐欺師の類か、反キリストの仲間だと言って差し支えない。

聖書は、あなたがた(信者)は自由とされたのだから、再び、人の奴隷となってはいけません、と教えている。だから、そういう悪しき人間の策略にはまって、人間を再びがんじがらめにして弱さの中に拘束する檻の中に入れられるのは、ごめん被りたい。
 
日本人の多くも、同情を装った義理人情で、互いをがんじがらめに縛り合って、立ち上がれないように仕向けている。その癒着の中で、助けてやった人間が、助けられた側の人間から栄光を掠め取り、教師然と、弱い人間たちの心を支配して、共依存関係が出来上がっている。

それはちょうど「天皇のお言葉」が、隔離政策の犠牲にされていたハンセン病者の怒りをなだめるために利用されたのと同じカラクリである。本来、立ち上がって、反対しなければならない非人間的な制約があるのに、そこから解放されることを求めるべきなのに、さらには、解放される権利もあるはずなのに、誰か偉い宗教指導者や、信者の仲間を装った人間から同情の涙を注がれ、手厚い支援を受けたというだけで、もうその人は、束縛に甘んじる気になってしまい、これを憎むべきものとして退けて、自由になるために立ち上がる気力を半永久的に奪われるのである。

そのような悪しき関係にとどまっている限り、同情を受ける側の人間が、克服したいと思っている弱さから抜け出すことは絶対にない。同情は、彼を永久に弱さの中に閉じ込め、自由にさせず、彼をダシにして他の人間が栄光を受けて自己満足するための巧妙な罠なのである。だが、あまりにも多くの人間が、同情によるネットワークを美化し、それが真の人間的な交わりや連帯だと勘違いして、互いに束縛し合っている。その結果、たとえキリスト者であっても、多くが、罪や、病や、困難や、貧しさや、心の傷や、各種の弱さと手を切ることができなくなって、「罪の絶対隔離政策」に自ら同意して、永久に出られない療養所に自ら入院して行くのである。こうした人々には何を言っても無駄であろう。

筆者は、キリスト者が同情という美名の下で、弱さの中に人を閉じ込めるだけの支配関係のネットワークに拘束されるべきではないと考えている。キリスト者がキリスト以外の目に見える人間に「弟子化」されたり、支援者や助言者を名乗るうわべだけ親切そうな人間に自ら助けを乞うて、神以外の物に手柄や栄誉を与えてはいけないと考えている。

キリスト者は、神以外のどんな存在にも、「おまえを助けてやった」などと誇らせてはならないのである。人間を真に助けることのできるお方は神だけだけであり、それ以外のすべてのものには、人を救う力がない。

神だけが、信者によって栄光を帰されるべきお方であり、それ以外のものに栄光を帰する結果は、非常に忌まわしいものである。

それにも関わらず、人に同情されたり、助けられることに心地よさを見いだし、そこに安住を試みているような信者は、弱さの中に永久に閉じ込められ、抜け出せなくなるだけであろう。サムソンが愛するデリラにこっそりと裏切られて髪の毛を剃られたように、彼は自分の味方だと思っている人間たちに、神の助けをこっそり奪い取られ、甘く心地よい夢から目覚めた時には、奴隷の枷をはめられ、これを振るい落とす力が、自分にはもうなくなっていることに気づくだろう。

勇者だったサムソンが囚人とされ、無残に両目をえぐり取られて、重い臼を引かされていた光景を、キリスト者ならば誰しも聖書を読んで思い浮かべることができよう。これは、人間の情けを神の助けと取り替えた信者の霊的視力が失われたことを象徴しており、その結果、信者が一度は逃れたはずのサタンのくびきを再びはめられて、この世の人々が自分で自分を贖うために生涯に渡る負いきれない苦役に従事させられているのと同様に、死の恐怖の囚とされて、奴隷的な労働に従事させられることを象徴している。

もし信者がキリストを捨てて、人間の支配下に入るならば、必ず、サムソンと同じ光景がその信者を待ち受けているであろう。

だから、信者は、どんなことがあっても、神以外のものに、決して栄光を与えてはならないのである。信者を助けることができるのは、天にも地にも、ただ神のみである。

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ただ神の恵みによって生きる――魂の贖いしろは高価で、人には払いきれない――

ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。


生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。


神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬るのは死人に任せなさい

「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(マルコ12:27)

仏教の寺院では、一人の信者の葬儀が予約されれば、それは寺にとって非常に大きなビジネスチャンスとなる。それは、葬儀だけでなく、その故人のために何年間も行なわれる法事のすべてがその寺に依頼される可能性が高いからである。

残念ながら、そういう事象は仏教の寺だけに限ったことではない。今日、キリスト教界の多くの教会も、単なる冠婚葬祭ビジネスのための場所と化している現状がある。

苫小牧福音教会水草牧師が「非キリスト者の葬に教会が携わることについて」(9月26日)という題名の記事をブログに書いており、そこで同氏は、キリスト教会が非キリスト教徒の葬儀を行うことを肯定して、次のように記している。

 ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。しかし、これはほんとうに聖書に教えられていることでしょうか。(以下略)」



こうして、同牧師は、非キリスト教徒の葬儀を教会が執り行うことにあたかも聖書的根拠があるかのように、巧みに聖書を引用して説明を試みている。しかしながら、この考えは筆者から見て、まことにいただけないものである。ただ「いただけない」などというだけではない。聖書的な根拠に完全に反している。同牧師の記事では、非キリスト教徒の葬儀について、クリスチャンが真っ先に挙げるはずの次の聖書的根拠は全く触れられていない。

クリスチャンが、教会と葬儀の関係に関して言及するときに、真っ先に思い起こすのは、主イエスが述べられた次の御言葉であろう。

「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」

 しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」


 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。
 
 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:59-62)


筆者がキリスト教界に深刻な疑念を持つに至った事件の一つに、筆者の不信者の親族が、ある牧師によって、キリスト教徒にでっちあげられて葬儀が執り行われたという出来事があった。

その故人は、筆者自身とはつながりのない義理の関係にあったが、高齢でふとしたことから町医者にかかり、肺炎と診断されて入院したのを機に、深刻かつ手遅れな病気が発覚し、約二週間という短さで亡くなったのであった。

その人の病気が治癒不可能であることが判明した際、無神論者であったこの人を、親族は当然ながら神の救いへ導くために、説得に当たった。クリスチャンとして、人間の罪や、神の救い、天国についてなど語ったのであるが、死の床においても、その人は半ば嘲笑気味に「神などいるはずがない」という信念を繰り返すばかりで、救いに導かれることなく、まことの神への信仰を否定して亡くなった。

その当時、我が親族はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の義理の父である津村昭二郎牧師の牧会する教会に通っていたため、親族が故人の葬儀をこの牧師に依頼したのであった。

ところが、その後、全く受け入れがたい事件が起きた。まず、故人は、生前、神を信じないことから、教会に通うことを非常に嫌がっていたので、教会の信者に知り合いもほとんどなく、健康であった頃にも、親族の説得によって半ば無理やりに教会のイベントに参加させられたことが、一、二度くらいあったきりである。交流らしき交流はほとんどなく、故人は信者の名前さえ、憶えていなかったと思われる。

ところが、葬儀になるや否や、教会の古参信徒たちがたくさん動員されて来て、盛んに故人との「親しい交わり」について語ったのである。いかに故人が、柔和で、親切で、皆に気を遣う、優しく穏やかな性格であったか、いかに教会員がこの故人との交わりのおかげで、色々な感謝に満ちたひとときに浴したか・・・

筆者はこの甘く麗しい砂糖菓子のような「創作物語」を聞いて愕然とした。筆者が覚えている限り、故人は、家人の強引な誘いを断り切れず、嫌々教会に連れられて行ったことがほんの数えるほどあっただけであったので、交わりを喜ぶ気持ちなど皆無であり、信者でもなかったのに、そんな「麗しい交わり」が生じ得たはずがなかった。

さらに、あろうことか、牧師までがこのようなことを証した。

「我々が夫婦で病院を尋ねたとき、死の床で彼女は『イエス様、イエス様』と神にすがっており、我々はその必死の信仰に心打たれました」と。

筆者が知っている限り、そのようなこともまたあり得ない「創作物語」だった。故人は死の床についてから、急速に容体が悪化し、牧師夫妻が見舞いに訪れた際には、もうすでに話すことも出来なくなっていたはずである。

筆者は彼らの見舞いには立ち会わなかったが、夜になると病院に行って、故人の最後の時を見守った。しかしながら、その最後の時に、故人の口からかろうじて聞けた言葉は、「はよう、はよう・・・」という言葉だけであった。

「はよう(早う)・・・」とは、岡山弁で「早く」を意味し、筆者が理解するに、「早く逝かせてくれ」という意味である。ただ早くひと思いに自分の命を取って、この苦しみを終わらせてくれ、という懇願の意味であり、苦しみから脱すること以外に、この人の願いはなかったのである。

むろん、神について、主イエスについて、一言も証の言葉はなかった。上記の懇願は、どちらかと言えば、「死にたい」という願望を意味し、神の救いにすがる言葉ではなかった。健康であった時分にも、筆者はこの人の口から「イエス様」などという言葉を聞いたことは、一度たりともない。

にも関わらず、牧師夫妻は、家人の立ち合いもない時に、病院に見舞いに訪れ、それまで誰も耳にしたことのなかった言葉を故人から聞いたとし、それを境に、故人は「クリスチャン」にでっちあげられてしまったのであった。

その後、教会では信者同様に葬儀が挙げられ、教会員でもなかったこの故人に果たして信仰があったのかという点については誰もが沈黙したまま、この出来事は忘れられた。

しかし、筆者にはこのような出来事は全く腑に落ちず、耐えられない欺瞞のようにしか感じられなかったので、その後一度だけ、牧師にこの出来事について問うたことがある。

葬儀からはまだ5年とは経っていなかったものと思うが、筆者は平日の夕方に教会の牧師館を訪ねた。来客中であったのか、牧師は迷惑そうな様子であったが、それでも筆者の問いに応じた。

筆者は尋ねた、教会員でもなく、クリスチャンとしての信仰告白を人前で一度も明らかに行っていない人間を、死の床についてから、信者に仕立て上げ、あたかも信者であるかのように葬ることは、聖書に反しているのではないですかと。

もしそのようなことが許されるなら、それは、セカンド・チャンス論と同じように、人は生きているうちにしか主イエス・キリストを信じて救われるチャンスはないからこそ、クリスチャンが世人にキリストの福音を宣べ伝える意味があるという教会の伝道の根幹を否定するに等しいのではないですか。もしクリスチャンとノン・クリスチャンの境界があいまいにされるなら、そもそも、信者の集まりとしての教会の意味すらもなくなってしまいますと。

牧師は、筆者の前ですべての答えを曖昧にしたまま、ただこう言うだけであった。
「神はすべての人が救われることを願っておられると私は思いますよ・・・」

それ以上、問うても無駄だとはっきり分かる答えであった。

以上の出来事は、今からはるか昔のことであるが、筆者が水草牧師の記事を読んで感じられるのは、津村牧師と全く同じ見解である。

「誰であっても、その人の命は、もとを辿れば神から生まれたのであって、その意味では、たとえキリスト教信仰がなくても、キリスト教のまことの神は、みんなの神なのです。人は誰でも死んでまことの神のさばきを受けるのだから、その意味でも、キリスト教の神は、信仰を持たない人の神でもあるのです。その意味で、神はみんなの神なのに、教会が非キリスト教徒だけの葬儀を拒むのはおかしいでしょう・・・」

水草牧師は、一応、非クリスチャンの葬儀について、(津村牧師の見解とは異なり)、これをクリスチャンの葬儀と明確に区別すべきであって、両者を一緒くたにしてはならないと、次のように注釈をつける。
 

 もちろん、その故人はキリストにある罪の赦し、永遠のいのちを受けたわけではありませんから、そこを曖昧にしてはなりません。非キリスト者の葬儀においては、故人に地上の人生を与え導かれた神と御子キリストに感謝し、その全知の公正なさばき主の御手に、故人をゆだねるということがその趣旨となります。故人は無に帰したのではなく、得体の知れない闇に吞み込まれたのでもなく、万物の創造主にしてさばき主であるお方の御手にくだったのです。したがって、キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行うのが正しい道であるといえると思います。


しかしながら、筆者が以上に挙げたような自分自身の経験を通して理解するにあたっても、水草牧師が述べているような「区別」は事実上、実行不可能なのである。

聖書的な観点から、非キリスト教徒の葬儀を、キリスト教徒と明確に区別するとは、何よりも、非キリスト教徒の魂は(キリスト教徒と違って)、救われておらず、神に受け入れられておらず、永遠の命を受けていないどころか、永遠の滅びの刑罰に定められている、という事実を明言することを意味する。

むろん、クリスチャンも非クリスチャンも、死ねば両者ともに神のさばきの前に立たされるのである。しかし、そこで信仰者と非信仰者を明確に区別する決定的な違いがあることを、牧師は公然と語らねばならない。それは、非信仰者は、主イエスの罪の贖いを信じていないので、彼らは神のさばきの際に罪に問われ、永遠の滅びの刑罰を逃れる術はない、ということである。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Ⅱテサロニケ1:8-9)

「非キリスト教徒も、死んで、裁き主である神の御手に自分を委ねた」、と言うことはできるであろう。しかし、非キリスト教徒は、主イエス・キリストの贖いの血潮を信じていないので、その人の魂は罪の贖いを知らず、その結果、彼を待っているのは、永遠の滅びの刑罰だけである。

たとえ故人が善良な人間で、生前に罪と言える罪を犯した形跡が全くなかったとしても、この世における罪の概念と、聖書の罪の概念は異なる。聖書の言う罪は、まことの神を認めず、信じず、これを受け入れず、自分が神を知らなかった間に、神に対して罪を犯した事実を認めないことである。

しかし、おそらく、もしも牧師がそのような言葉を、非キリスト教徒の葬儀の場で発言すれば、それは故人およびその遺族の尊厳をいたく傷つける発言として響くであろう。非キリスト教徒の魂はクリスチャンと違って救われておらず、神のさばきの際に罪に問われ、永遠の刑罰に定められる、という事実を、葬儀の場で誰が公に発言することができるであろうか。それは列席者の感情を害し、礼節にも反する発言のようにしか受け止められないであろう。

だから、水草牧師の言うような、(非キリスト教徒の葬儀を)「キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行う」ということは、事実上、不可能なのである。儀式上、クリスチャンと何らかの区別をもうけることは可能であろうが、以上に記したような聖書的な明確な立場の区別、特に非信者に対する永遠の罪定めと滅びの刑罰について、はっきりと公言することは極めて困難であろう。

最も取り扱いが難しいのは遺族の感情である。故人が非クリスチャンであっても、遺族がクリスチャンであった場合、遺族は故人の救いを願うあまり、故人が神を信じず死んだという事実を認めがたい場合もあろうし、遺族だけではなく、故人を取り巻く知人らも、教会に葬儀を依頼するくらいだから、故人の信仰の有無に関して明確な区別をつけることを嫌うかも知れない。そこで、非クリスチャンの葬儀を引き受ければ、教会も牧師も、遺族や列席者の感情に引きずられて、死者の信仰的立場について正しく言及することは難しくなる。

そのようなことの結果、教会は一旦、非キリスト教徒の葬儀を引き受けたが最後、とことん、世の不信者の利益の代弁者として、世の思惑の中に引きずり込まれて行くのは必至であると筆者は確信する。クリスチャンと非クリスチャンの区別は曖昧化され、ついに最後には、教会は、非信者に調子を合わせて、こう言うのであろう、「たとえ非クリスチャンのまま亡くなっても、その人も神に受け入れられており、天国に入る。たとえ自殺者であっても、天国に入る。罪の贖いもなければ、地獄の刑罰もない。そういう区別を唱えるのは、一部のクリスチャンの驕りだ」と。

だから、「ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的」という見解が存在するのはもっともなことである。筆者の目から見ても、教会は非キリスト教徒の葬儀に関わるべきではなく、それに関われば、教会は必ずや、この世との境界線を見失って、この世の側に引き込まれて行くのは避けられない。
 
しかしながら、教会に関して言えば、事態はもう手遅れである。なぜなら、こうした問題は、地上の組織や団体としての教会の世俗化という、巨大な氷山のほんの一角として浮かび上がって来たに過ぎないからだ。

教会は、片方では「兄弟姉妹の交わり」などを強調して、世と自分たちの区別をしきりに主張し、あたかも自分たちは聖なる存在であって、世人よりも圧倒的に優位にあるかのように主張する。ところが、もう一方では、非信者の葬儀を執り行ったり、自殺者も天国へ行けるなどと主張して、積極的にこの世との境界線を曖昧にして行こうとしている。これは大した矛盾である。

そのような問題が持ち上がるのは、この地上の組織や団体としての教会が、キリストの花嫁としてのエクレシアの本質からはあまりにも遠くかけ離れ、単に神を口実にしてて自己の優位性を主張するだけの場になり果てており、あるいは、地上の冠婚葬祭ビジネスの場と化しているためである。

だが、もしも信者が本当のエクレシアとは何なのかを模索するならば、すでに引用した御言葉に見るように、主イエスは、ご自分に従って来る者が、まずは自分の父を葬らせてくれと言ったその要望さえも、断られたことを思い出す必要がある。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。

主イエスのこの言葉は、世人から見れば、あまりにも無慈悲なものに受け取られる可能性があろう。何しろ、神の国を告げ知らせることは、信者が自分の父を葬ることよりも、優先されるべき事項だというのである。それはただ厳しいだけではなく、世人には侮辱と受け取られる可能性すらある。なぜなら、ここでイエスは、死者だけでなく、生きている世人をも「死人」と呼んでいるからである。

つまり、主イエスは、神を知らず、神の命によって生かされていない人々は、この世ではたとえ生きているように見えても、神の目に「死人」であり、信者は「死人」の利益や思惑に頓着して、「死人」の利益に巻き込まれるべきではない、と言われたのである。

救われた者、贖われた者、神のまことの命によって生かされた者は、神を受け入れず、神の命によって生かされてもいない「死人」の要望に従って、死人の利益や尊厳を擁護するために生きるのではなく、神の利益のために仕え、神の国の権益を拡大するために、神の国を宣べ伝えなさい、と示されたのである。

従って、この聖書の記述からも、水草牧師が以上で述べているような内容が、いかに御言葉に反しているかがよく分かる。

水草牧師は言う、「聖書によれば、非キリスト者も、父なる神とキリストからいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。

しかしながら、人はただアダムの命を与えられてこの世に生まれた、というだけでは、神の目に生きていることにはならないのである。神の目に生きていない人々は、キリストの御身体なる教会とは無縁であり、神のまことの命によって生かされる人々の霊的共同体であるエクレシアの仲間ではない。

従って、たとえ世人からどんなに厳しいと不評をこうむったとしても、筆者がこの問題について言えるのは、次の結論だけである。

「教会は、目に見える世の利益のためではなく、目に見えない神の国の権益のために存在しています。神の御前に生きているのは、神を受け入れていない信仰を持たない人たちではなく、神を受け入れて、贖われた人たちです。だから、死者(不信者)を葬ることは死者(不信者)に任せておきなさい。贖われた者たちは、何よりも、神の国のために、神の目に生きている者のために働くべきです。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。」


霊と真理によって神に捧げられる礼拝と、霊における天的なエクレシアの交わり

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

今、日本という国が急速に荒廃している。政治の荒廃は言及するまでもなく、ごく普通の人々の日常生活に至るまで、真実、誠実さが姿を消し、嘘、不法、搾取、虐げが横行し、人々は互いに裏切り合い、貶め合い、蔑み合っている。

終末に向けて、悪の霊が大々的に説き離れたこと、日本に生きる人々(もっともこれは日本だけの話ではなく、世界的な現象であろう)の心の荒廃が進んでいることを思わずにいられない。

だが、筆者は、滝が滝壺に向かって流れ下るように、破滅へ向かう激しい濁流のような流れから、完全に距離を起いて、これと関わりのない天的な人生を生きたいと心から思う。どうやら、そのためには、地上の経済を離れ、地上的交流を離れ、天的な角度から、天的な経済と天的な交流によって、人生を建て上げることが必要なのではあるまいか、という実感がしてならない。

すでに書いたことであるが、以上のような人心荒廃現象は、終わりの時代の様相であり、世人だけでなく、信者と呼ばれる人々の間にも起きて来ている。聖書には、終わりの時代に苦難が来ること、他でもなく信者と呼ばれている人々の中から、以下のような人々が出現することが警告されている。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この最後のフレーズ、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」が、以上のような人々が、神を恐れず、神を知らず、信仰を持たない世人の中から現れるのは言うまでもなく、さらに他でもなく信者と呼ばれる人々の中から出現することをはっきりと示している。

以上のような恥知らずな生き方をする人々が、どうして「敬虔」に見えるものか、という疑問を呈する人もあるかも知れないが、それは主イエスが地上に来られた時、市井の人々からは信仰篤い立派な宗教家のようにみなされていた律法学者やパリサイ人たちが、誰よりも悪質に神の御言葉に逆らい、主イエスを憎み、殺意によって陥れ、主を十字架につけたことを考えれば、不思議ではない。上記の御言葉は、その当時と同じように、終わりの時代には、他ならぬキリスト教の中で、他ならぬ敬虔な信者のように振る舞っている人々が、神の福音に最も激しく敵する者になる、という警告と受け止められるのである。

ところで、かつてそのような危機感を抱いていたがゆえに、組織としてのキリスト教のあり方を批判し、キリスト教界を出て、直接、神に結びつく信仰生活を心から追い求めていた信者たちが数多く存在していた。

しかしながら、筆者が出会った、そのようにキリスト教界を出て直接、キリストだけにつながる信仰を追い求めていた信者たちは、そのほとんどが途中から、人間のリーダー、人間の組織へと逆戻りして行ったのであった。

筆者が彼らに出会った当初、彼らの口から一様に聞かされたのは、人間の作る地上的な組織や、人間のリーダーから離れなければ、神への本当の信仰を保つことはできず、地上的な組織は、やがて反キリストの体系へと集約されて行くだけだから、そこから離れなければならない、という確信であった。

にも関わらず、こうした人々は、信者のコミュニティから離れて、自分一人、孤立する危険に直面すると、孤立を恐れるあまり、結局、地上的なサークルへの帰属を求めて散って行ったのである。

こうした現象を見るとき、筆者は「どうして当初の信仰の証を失ったのか」と疑問に思わずにいられない。「あなたたちがあの頃、あんなにも熱心に語っていたことは一体、何だったのですか」と。

これまで、多くの霊的先人たちが、組織としてのキリスト教を離れ、地上の組織や団体に属さずに、直接、神に結びつく信仰生活を模索してきた。

ハドソン・テイラーや、ジョージ・ミュラーや、その他の信仰の偉人と呼ばれる昔の人々の伝記を読んでさえ、その当時から、こうした人々の多くが、従来のキリスト教組織の枠組みから幾度となく離脱を余儀なくされた過程が分かるのである。それは必ずしも組織と対立したり、激しい争いの末に訣別するというようなものではなく、あるいはルターの宗教改革のように大々的に新しい教派を打ち立てるといったものでもなかったが、霊的先人たちは、静かに、穏やかに、組織を離れて行ったのである。

以前、筆者が教会に所属していた頃、「教会での礼拝に出席しなくなり、信徒の交わりを離れれば、信者は信仰を維持できなくなり、やがては救いを失う。」と言った思い込みが盛んに流布されていた。教会を離れ、信徒の交わりを離れることが、すなわち、悪魔の餌食となって、やがて救いを失うことと同一視されていたのである。

だが、人間の作った集団に帰属すること、神に帰属することは全く別の事柄である。だから、教会を離れれば救いを失う、などという考えは完全な誤謬であり、それはただ地上の組織から信者が決して離脱しないように使われる脅し文句に過ぎない。

ところが、そのことをよく理解して、そのような心理的な恐怖によって、地上の団体に信者を束縛しようとする従来の教会組織のあり方に疑問を覚え、そこを去ったはずの信者たちも、結局、そのほとんどが、また別に自分たち独自のサークルを打ち立て、今度は「兄弟姉妹の交わりを離れれば信者は信仰を維持できない」などと言い始めたのである。

そして、彼らは、教会の信者たちがしばしばそうしていたのと全く同様に、自分たちのように定期的な「信徒の交わり」を持たず、個別に神を見上げて生きている信者を上から見下して、「あの人たちは交わりが絶えて霊的に荒廃し悲惨な状態にあるから、祈ってあげなくてはならない」などと悪しざまに言い、しきりに可哀想がったりするのである。

それはかつて教会に所属していた信者たちが、自分たちの教会の礼拝に来なくなった信者たちを指して、「あの人たちは世に心を奪われて信仰が薄くなって危機的状況に陥っている。だが、神はそんな彼らをも愛しておられるから、彼らのためにも、祈ってやらねばならない」などと可哀想がっていたのと同じ有様である。

そのようなこともあって、最近、筆者は、一体、彼らの使う「兄弟姉妹の交わり」という言葉は何なのかと、深刻な懐疑を覚えるようになった。

筆者から見ると、すべては彼らの言い分とは真逆なのである。真に可哀想で、真に祈られるべきは、まるで取税人を見下して自己義認したパリサイ人同様に、自分たちは信徒の交わりを持っているから大丈夫と考えて、そこに属さない信者の「霊的荒廃」を想像し、それを心密かに蔑み、嘲笑しながら、自分自身と引き比べて自己安堵に浸っている信者の方なのである。

そのような姿を見て、筆者が思い出すのは、自分には地上で居場所があると誇ったバビロンのつぶやきだけである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

バビロンが誇っていたのは、天的な居場所ではなかった。彼女は、地上において、自分が受け入れられ、人から承認を受け、立派な信仰者だと認められる居場所がある、ということを誇っていたのである。バビロンとはまことの神への信仰と異教との混合であり、その本質は、うわべは「敬虔」そうに見えるが、「その実を否定する」信者の集合体に他ならない。

そして、終わりの時代、地上の組織としての教会や、地上の信徒の集まりこそ、神の天的なエクレシアに悪質に敵対するものとして、バビロンの混合体に堕して行くのだ、という確信をこれまで筆者は幾度となく述べて来た。また、オースチン-スパークスなどの論説に見られるのも、これと全く同じ主張なのである。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。


バビロンが誇ったのは、神からの承認ではなく、人からの承認であった。新約聖書を振り返っても、主イエスはいつも、自分たちは立派な信仰者で、敬虔で、落ち度なく礼拝を守っており、神から覚えめでたい本当の信者だと自負していた宗教家のもとへは足を向けられず、かえって、ザアカイや、サマリヤの女のように、人々から承認されず、コミュニティからも半ば見捨てられかかったような人々に積極的に声をかけられた。それは人には蔑まれ、見捨てられて深い孤独の中にあったこうした人々の心の中に、ただ神だけを呼び求める信仰が生まれていたからに違いないと筆者は思う。

主イエスが地上で御言葉を語られたのは、常に当時の社会で「敬虔な信者」の外見からはほど遠く見える人々ばかりであった。イエスの弟子たちも、主イエスに召されるまで、当時の社会ではそれほど尊敬されない職業についていたし、主イエスが誕生された時に、天使たちが荒野で姿を見せた羊飼いたちも、社会では蔑まれ忘れ去られているような人々であった。

それを考えても、やはり、教会や信者の集まりの中に身を置いて、「自分たちは信徒の交わりに出ているから霊的状態は万全」などと考えている人たちは、主が再臨される時には、きっと素通りされるのに違いない、と筆者は思わずにいられないのである。

それどころか、終わりの時代、バビロンが高らかに誇った地上の「居場所」は、まさに「兄弟姉妹の交わり」という名目でこそ、美化され、栄光化され、高みに押し上げられて行くのではないだろうか。

筆者が今思い出すことの中に、かつて筆者が心から「兄弟姉妹」と呼べた数少ない信者の一人であったある姉妹(彼女はすでに亡くなった)が、生前、「兄弟姉妹」という言葉に反発していたということがある。

筆者自身は、まだその頃、「兄弟姉妹の交わり」というものに相当な美的イメージを持って、交わりに憧れ、これを追い求め、建て上げることに関心があったので、彼女の台詞にそれほどの共感は持てなかった。

だが、彼女は自分もクリスチャンであるにも関わらず、この言葉だけはどうにも抵抗があると言うのであった。彼女は言うのである、「どうしてクリスチャンの集まりでは、まるで専門用語みたいに『兄弟姉妹』という言葉を使って互いを呼び合うの?」

彼女いわく、「兄弟姉妹」という呼びかけは、クリスチャン(しかもどこかの組織に属している信者)の間
だけでしか通用しない専門用語であり、しかも、自分は正統な信仰生活を送っていると自負したいクリスチャンが互いを承認しあって慰め合うために自己満足のために発する言葉だというのである。

まだはっきりとした信仰を持たない者が教会に足を踏み入れ、そこで信者同士が「兄弟姉妹」と呼び合っている言葉を聞くと、「自分は兄弟姉妹の一員ではないから、この人たちの仲間ではないのだ」と思い知らされ、自分はこの信者たちから排除されている、という印象だけしか受けられずにそこを立ち去ることになる、そんな高慢な兄弟姉妹の交わりはあるべきでない、というのだ。

今日、クリスチャンの書いた色々な読み物に目を通すとき、筆者は、彼女のいわんとしていたことの意味がよく分かるように思う。

排除されているのは不信者だけではない。教会と呼ばれない集まりであっても、多くの場合、そこにいる信者たちは、「兄弟姉妹の交わり」に定期的に出ているかどうかを、まるで信者の霊的状態をおしはかるためのバロメーターであるように思い込み、他の信者の「霊性」を品定めし、裁くために使っている。

彼らから見ると、定期的に「兄弟姉妹の交わり」を持たない信者たちの「霊性」は荒廃しているに違いなく、そのようにして信者の群れからはぐれた信者は、やがては救いを失う、という結論が決めつけられている。だが、よくよく彼らの言うことを吟味してみると、結局、そこでは、「イエス・キリストに直結しているか」よりも、「兄弟姉妹の交わりに直結しているか」ということの方が、はるかに重視されている。あたかも、「イエス・キリストに直結していなくとも、(しばしば牧師やリーダーに直結し)、兄弟姉妹の交わりに直結してさえいれば、何とかなる」とでも言いたげに・・・。

しかしながら、筆者が覚えている限りでは、彼らがそれほど重視する「兄弟姉妹の交わり」という言葉自体、文字通りには、聖書には登場しないのだ。

聖書には、「交わり」という言葉はいく度も登場する。だが、その多くは主として、「神との交わり」、「御霊の交わり」、「イエス・キリストとの交わり」といった文脈で、信徒同士のヨコの関係というよりも、神とのタテの関係を強調するものとなっている。

信徒同士のヨコの関係を示すものとしては「信徒の交わり」という言葉が使われるが(頻度としては神の霊との交わりという文脈よりは少ない)、それとて、神の霊によって生かされる信徒たちの神の霊の中における交わりであることを大前提としている。

そこで、聖書の御言葉が「交わり」と言うときには、それは第一に、神の霊との交わりを指しており、信徒の交わりに言及される場合も同様に、神の霊の中における信徒の霊による交わり、という意味で用いられる。つまり、正しい交わりというものが、神の霊を抜きにしては決して成り立たず、神の霊を抜きにした信徒だけのヨコの関係は「交わり」には含まれないことが分かる。

検索サイトを用いて、口語訳と新共同訳の新約聖書で、「交わり」という言葉がどのように使われているかをざっと検索してみると、結果は次のようになる。そこからも、聖書の言う「交わり」とは第一に「神の霊との交わり」であることがよく理解できる。(ちなみに、交わりという言葉を、神と信者とのタテの関係でとらえる文脈を赤、信徒同士のヨコの交わりを青とした。)
 
使徒行伝/ 02章 42節
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

使徒行伝/ 05章 13節
ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。

ローマの信徒への手紙/ 12章 16節
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

コリント人への第一の手紙/ 01章 09節
神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。

コリント人への第一の手紙/ 15章 33節
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。

コリント人への第二の手紙/ 06章 14節
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。

コリント人への第二の手紙/ 13章 13節
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ人への手紙/ 02章 09節
かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。

フィリピの信徒への手紙/ 02章 01節
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

ピレモンへの手紙/ 00章 06節
どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 03節
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 06節
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 07節
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。


 さて、以上で最後に引用したヨハネ第一の手紙の御言葉、および、以下の聖句、
 
ヘブライ人への手紙/ 10章 25節
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

が、「定期的な信徒の交わりから脱落すれば、信者は信仰を失う」、とか、「集会への出席をやめれば、信者は信仰から脱落する」といった半ば脅しめいた固定概念の根拠として引き合いに出されることが多い箇所である。

しかしながら、そんな風に人の心に恐怖を抱かせる台詞を鵜呑みにするよりも前に、まず、聖書の言う「信徒の交わり」とは、何よりも、神の霊における(聖徒らの)霊における交わりであることが大前提であって、単なる地上の人間たちの集まりではない、ということをよく考慮する必要がある。

さて、キリストの霊における交わりとは一体、何なのかを理解する上で、たとえば、パウロは次のような興味深い言葉も記している。
 
コロサイ人への手紙/ 02章 05節
たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

つまり、この言葉からも分かるように、神の霊の中における信徒の交わりは、地上の肉体の制約や時空間の制限を超えるのである。

そして、エクレシア(本当の意味での教会)とは、そのような意味において、まさに神の霊によって生かされる信徒らの、時代をも空間をも超越する霊的共同体に他ならない。

エクレシアにおける信徒の正しい交わりとは、たとえば、ある日のある固定された時間にある固定された場所へ行かなければ、決してあずかることのできないような地上的な制限の下にある集会を指すのではなく、何よりも、神の霊の只中における時空間の制約を受けない天的な集まりを意味するのである。

そのようなことをただの一度も思いめぐらしたことはない信者は多いことであろう。天的な集まりと言われても、それが何を意味するのか、全く理解できないし、地上における定期的な集会こそ、正しい信徒の交わりのあり方だと信じている人々はまことに多いであろう。しかしながら、たとえ地上で定期的な信者の集会が開かれていたとしても、それが神の霊の中にない、ということは実際にあり得るのである。

さらに、オースチン-スパークスの警告からも分かるように、いかに外側からは敬虔なクリスチャンの集まりのように見えたとしても、「教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょうそして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。

つまり、最初はキリストの御霊によって生まれた信徒たちによって始められた集まりであっても、もしその集まりが、「教え、伝統、制度、運動、人など」、地上の何物かに帰属するならば、その集まりは、地上のものに束縛されて霊的に制約を受け、最後には、ついに神の自由な霊による天的な集会としての要素をすべて失ってしまうことになるのである。そうなると、その集会に残された道は、反キリストの体系に統合されて、キリスト教と異教の混合体としてのバビロンに吸収されて行くことだけである。

それが、終末に、信者がキリストの御霊にとどまらず、「事物、人、運動、制度、組織など」に帰属されて行った時に起きる必然的結果なのであり、そうしたことの結果として、キリスト教と思われている地上的な団体や組織が大々的にバビロン化して行くのである。

だから、我々は、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれている集会があるからと言って、それがすべて神の霊による集まりであると安易に鵜呑みにすべきではない。むしろ、それは本当に「キリストの御霊」による交わりなのか、それとも、人間の作り出した神の霊によらない地上的な集まりに過ぎないのか、そこをきちんと識別しなければならない。

筆者は、信徒が集まることの意味そのものを否定しているわけではなく、神の霊によって生かされた信徒らが集まり、交わることには確かに大きな意味があると考えている。だが、それは必ずしも地上的な制約の下にある集まりばかりを意味せず、場合によっては、時空間を超える霊的交わりが存在しうる。

また、この地上には、偽物の聖霊、偽物の信徒、偽物の信徒の交わりというものが確かに存在しており、偽物は常に本物以上に、自分たちを本物であるかのように誇ろうとすることに注意が必要である。偽物の信徒の交わりも、自分たちこそ本物だと主張して、そこへ盛んに人々を惹きつけ、束縛して行こうとする。

地上に制限だらけの独自のサークルのような「兄弟姉妹の交わり」を作って、そこにいない人々をあたかもみな憂慮すべき霊的状態にあって神から切り離されているかのように決めつけ、自分たちの交わりを高らかに誇り、それを神の選民とそうでない人々を区別する境界線のようにみなしている人々の主張には要注意である。まずもってそのようなものは真の聖徒の交わりではあり得ない。

 
主イエスは次のように言われた。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 <…>
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
 
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

(ヨハネによる福音書/ 04章 21-24節)

このように、まことの礼拝とは、「霊と真理」によって捧げられるものであり、「この山」、「エルサレム」などといった特定の時空間に制限されるようなものではない。

エクレシアは天的なもので、時代と空間の制限を超える。神の霊によって生かされている信者はみなエクレシアの構成員として天的な礼拝の中に入ることが許されている。だが、一体、時代と空間の制約を超え、信者自身の地上の存在としての制限をも超える本当のエクレシアの霊的交わりとは何なのか、その実際を信者は知る必要がある。
 
神の霊によって生かされる信者らは、ただ霊と真理によって神に礼拝を捧げるのみならず、聖徒らの互いの交わりにおいても、肉的な方法で(人間的な思いで)信徒を知ろうとはしない。パウロが、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)と述べたように、信者は霊においてキリストを知り、霊において神と交わるだけでなく、信者同士との交わりにおいても、霊において交わるのである。このようなキリストにある新創造の領域における交わりこそ、まさに信徒の交わりとして必要なものである。

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)