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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(24)―自己顕示・自己栄化の霊に導かれ、政敵を蹴落とすためなら手段を選ばない村上密―

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なお、その上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)

* * *
   
最近、筆者の周りに少しずつ増えつつある信者以外の知り合いは、時折、筆者自身がはっとするほど鋭い助言をしてくれる。筆者はクリスチャンだが、筆者自身は、信仰を持つ人々よりも、信仰を持たない人たちの方に、バランスの取れたものの見方、的確な判断を見ることが多い。

むろん、神を信じて何一つ後悔することはないし、聖書の神が生きておられ、信じる者を教も守って下さることを疑わないが、それでも、筆者の出会った信者の中に、こうした助力や助言を適宜、行える人たちがほとんど見つからなかったという現状は、どういうことなのだろうかと思う。

筆者から見ると、ほとんどのクリスチャンたちは、現実で起きる様々な問題に対処する知恵と力があまりにも乏しい。そういった背景があればこそ、カルト被害者救済活動が登場して来て、諸教会に裁判などをしかけ始めると、多くの人たちがこの活動の前にひるんで沈黙してしまったのではないかと思う。

だが、クリスチャンがそのように世人に比べ、圧倒的に世の事柄に疎い状態ではいけないと筆者は思う。次のように言われている通りである。

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:16-20)
 
この「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という命令が、反キリスト・偽預言者たちの策略に負けないように、という文脈で記されていることは興味深い。暗闇の勢力には蛇のような狡猾さがあるが、それに劣らぬ知恵が霊的戦いには必要となると言われているのである。

筆者が人生最初に経験した訴訟が、これほど難易度の高いものとなっていることも、見逃せない事実である。訴訟と債権回収は一つであって、債権回収が成立しないならば、訴訟を起こす意味がない。どんなに勝訴判決を得ても、それが机上の空論でしかないならば、すべては時間と労力の空費でしかない。

だから、「言葉」と「実行」を一つに結びつけることが必要なのであるが、その方法を、筆者は、とことん学ぶ機会を与えられていることも、神の恵みであろうと思う。すでに強制執行や間接強制の手続き方法はひと通り理解した。後は取立を成功させる秘訣を学ぶことである。

さて、昨日、筆者は杉本の件で警察に相談してみた。すると、杉本に会うことは、安全のために決して勧められないので、行かないでもらいたいと制止を受けた。むろん、それは予想の通りの助言であった。杉本の取り調べも近日中に予定されているのだから、警察に任せなさいということである。
 
随分、警察が心配してくれるようになったが、そのような円滑な関係が打ち立てられたのも、筆者の内心の変化と、一審判決が下されたことが大きいであろう。今回、非常に鋭い指摘を受けた。それは、筆者が杉本のメールに憤り、これに触発されて、杉本に直接交渉したりすれば、彼と同じレベルに堕ちる危険があるからやめた方が良い、というのである。相手の幼稚さ、俗悪さ、卑劣さに引きずられることなく、自分の人生をしっかりと大切にしなさい、というのであった。
 
考えてみれば、刑事事件に明白な進展が訪れたのは、杉本の書いた一連の記事が削除されてからのことである。やはり、事実無根の名誉毀損の記事であっても、霊的な領域においては、呪いの効果を持っている可能はあるだろう。それが削除されたことにより、警察との関わりも前とは違ったものになり、刑事事件もよりスムーズに進むようになったのである。

むろん、杉本が今回、筆者に送って来たメールのあまりにも利己的かつ幼稚で無責任な内容、サッカーチームの試合予定、さらに、以下の杉本による事件の閲覧記録と、村上密のブログにおける唐沢の記事の投稿などについても、すべて事情を伝えておいた。
 
二審が始まってみなければ、まだ確定的なことは言えないとはいえ、一審判決から現在に至るまで、相当に村上を不利に陥れる証拠が増えたことは確かである。

村上密のブログからは、以前はあれほど頻繁に見られた「完全勝訴」の響きが消えて、かえって、「変節」の記事に見られるように、筆者が村上に対して裁判を起こしたこと自体に、ぼやきに近い不満を示すかのような調子が見られるようになった。

「クリスチャンが裁判することに強く反対していた人が、裁判の原告になったのを聞くと、ご都合主義に思える。何人もこのような人を見たり聞いたりしてきた。」
 
本当にそうだろうか。何人も見て来たのか? しかも、これはどういう紛争の話なのか、全く説明がない。クリスチャンといえども、この世で起きた紛争に関して、原告となることが禁じられているわけではあるまい? 土地の境界線に関する隣人とのトラブル等から始まり、労働紛争、交通事故、その他、いかなる紛争も、クリスチャンは訴えを起こすことが禁じられているなどといった話ではないだろう? だが、あまりにも文章が短すぎるため、前後の文脈もなく、説明不足すぎて、読者に誤解を招きかねない表現だ。

さらに、言葉の使い方も間違っている。

「他人がしているときは、高邁な自説を主張し、わが身になると手の平を返す、これを国語辞書では変節という。変節の自己弁護を聞くことほど嫌なものはない。だれでも裁判権を持っているのだから、初めから裁判を否定しなければよい。しかし、裁判権を知っていながら、激しく裁判を否定していた人が、法的手段に血眼になっているを聞くと、いったいあれは何だったのかと問いたい。私はクリスチャンでも裁判を行使してよいと勧めてきた。コリントの第1の手紙(6:1~7)から裁判を否定するのは間違った解釈である。教会で扱うプロセスを飛び越えて、早々と世の裁判に訴えることをパウロは咎めているのである。裁判そのものを否定しているわけではない。   」

正しくは「これを国語辞典では「ご都合主義」と言う。」だろう。変節というのは、転向とも似ており、信念そのものが変わったことを指す。だが、他人の裁判だけを非難して、自分の裁判は正当化するという態度は、ただご都合主義的に意見をころころ変えているだけで、信念そのものの変節には当たらない可能性が高い。
 
そして、もしこの非難が筆者を指すものであるならば、筆者は裁判権を否定したことなど全くない。筆者は聖書に沿って、クリスチャンがクリスチャンに対して訴えを起こし、教会内の問題をこの世に持ち出すべきではないと述べているのだ。その点で、筆者は教会に対して争いを起こしたことは今に至るまで全くないので、信念が変わった点は何一つない。

だが、長年に渡る緻密な観察と分析により、村上密、杉本徳久、唐沢治の三人は、キリスト教徒ではないという判断が筆者の中では下っている。相手がクリスチャンではない場合、この世に訴えを持ち出しても、何ら問題とはならないのである。

このように、筆者の信念は何ら変化していないので、村上から非難される筋合いなど全くない。むしろ、村上こそ、カルト被害者が裁判を起こした際には、被告とされた牧師たちを強く非難し、信者に損害を与えた牧師は、賠償に応じるべきだなどと叫んでいたのだから、今回の一審判決で、杉本に下された賠償命令を、杉本がきちんと受け入れ、判決に従って支払いをするよう、牧師として促すべきではないか?
 
自分たちが人を訴える際にだけ、声高に賠償を要求しながら、自分たちが敗北して賠償せねばならない立場になれば、詭弁を弄して支払いから逃げようとする。このような行為こそ、御都合主義として非難されるにふさわしい。司法の悪用と言っても差し支えない。

さて、裁判所に確かめたところ、唐沢の陳述書を閲覧・謄写したのは、杉本徳久であることが分かった。むろん、それで入手の経路を100%断定はできないにせよ、村上が、この陳述書を杉本経由で入手した可能性が高まったことになる。

 

杉本が閲覧謄写している日が4月26日にであることを見ても、村上の投稿以前なので、辻褄は合う。陳述書本文は筆者が公表している。公表されていない書証の部分だけ、杉本が複写して、これを村上に提供し、村上がそれを読んで一連の記事の発表に至った可能性が濃厚である。

筆者は、村上が唐沢とメールで直接、やり取りをして、直接、唐沢から陳述書の掲載の許可を取った上で、掲載しているはずだと考えていた。当然ながら、牧師同士の配慮として、了承も得ていない当事者の文書を、無断で入手して公開するなどの可能性は全く考えもしなかった。
 
おそらく唐沢から村上に対して、これを公開して欲しいといった黙示・明示のリクエストがあって、初めて村上が公開に及んだのだということを疑わなかったのである。
 
だが、村上が唐沢本人から提供を受けていたのであれば、杉本が閲覧・複写する必要はないことであろう(なぜなら、以前から村上と杉本との間ではメール交換等も行なわれているためだ)。そして、唐沢は「没交渉」と言って、そのような事実を示唆しておらず、さらに村上は許可を得て掲載している旨も説明していない。
 
むろん、入手経路の釈明は二審で求めることとなろうが、村上が、筆者が当事者としてすでに公表している唐沢の陳述書について、入手の経路さえ明らかにせず、まるで自分が未発表の事実をつきとめ、これを発表することで、手柄を立てたとでも言うかのように、「唐沢治氏の陳述書」などとして記事を公表し、唐沢を弁護する目的で、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆しながら、筆者を断罪したことを、読者は覚えておかれたい。

筆者は、村上のブログに働いているのは、常に自分が他者よりも優れていることを誇示して勝ち誇ろうとする自己顕示の霊、自己栄化の霊である(別の言い方をすれば「マウンティングの霊」)であると指摘して来た。

記事「そっとしておこう 」も同様である。村上が通りすがりに、失業して喫茶店で何度も時間を潰すしかない状況にある青年を頻繁に見かけたが、あえて声をかけないでやったという内容である。一見、思いやりに満ちた内容のように見えるかも知れないが、決してそうではない。

これは自分と比べて不遇の境遇にある人を、上から目線で哀れむ牧師の自慢話に過ぎない。本当に「そっとしておこう」と思うならば、どんなに人物が特定できない形でも、記事になど書くべきではないだろう。しかも、青年はすでに就職しているようであるから、今になって、本人さえも忘れているかも知れないその当時のことを思い出し、「俺はおまえの失業を知っているぞ」と今更のように強調する必要はない。

人の見られたくないところ、知られたくない姿を見た時には、それは見なかったことにして一切、心の中から消し去り、忘れることだ。たとえ忘れなくとも、決して人前でその秘密を明かしたりはしないことだ。それが他者への思いやりというものだ。

そうでなければ、村上が年老いて妻に先立たれ、会話する相手もいなくなり、日々、喫茶店で時間を潰すしかない老人になった時に、誰かがそのことを記事に書くかも知れない。

「友達と一緒に移動してるときに、よく通る道にある喫茶店で、ぽつんと座っている老人がいるのを何度か見かけたの。ねえ、あれ、村上先生じゃない?、寂しそうだから声をかけようかな?と思ったんだけれど、何だか声をかけづらくて、きっと先生ももうすぐ天国に行かれるでしょうから、地上で最後の休息を取ってるだけだろうし、邪魔しないでそっとしておいてあげようと思ったの。そしたらね、ほんとにそれから間もなく、召されたみたいだった。」

そんな風に言われたいのだろうか? だが、村上が、普通の人間の心さえ分からなくなっているのは、彼がまさに「マウンティング」を目的に記事を書いているからだ。自分が他者よりもいかに秀でており、優位にあって、他者の弱みを数多く握っているか、それを自分に言い聞かせることで、自己を慰めるために記事を書いているためである。
 
話を戻せば、この自己顕示の霊は、パクリの霊でもある。他人の手柄を自分のもののように横取りし、ライバルを駆逐して、自分だけが勝ち誇りたいという霊である。

村上は、筆者の手柄を横取りし、なおかつ、筆者を断罪して濡れ衣を着せ、ネットから葬り去る目的で、唐沢治の陳述書の公開に及んだ。

村上の最新の記事「牧師が解釈を独占 」でも、村上が鏡に映った自分に見惚れるように、検索を繰り返し、自分の記事がいかに上位にヒットしているかを確かめ、悦に入っている様子が分かる。

「今日「解釈を牧師が独占」と「牧師が解釈を独占」を検索したら、上位3件が同じく村上密ブログの記事だった。一部を抜粋してみた。このような表現はほかに検索の結果が出なかった。どうやら2014年6月9日の記事が、今まであまり表現されてこなかった言葉で、教会のカルト化に警鐘を鳴らし始めたことになる。」

まるで「鏡よ、鏡、世界で一番偉いカルト専門家はだあれ?」と尋ね、「それは俺様だろ!」と自問自答する姿を有様を見るように、村上のナルシシズムを強く感じさせる内容である。

こういう牧師は、もしも検索サイトという「鏡」が望ましくない答えを返し、村上以外の誰かが上位にランクしていることを告げて来たら、きっと、「そんなはずはない!俺の満足する答えを返せ!正しい答えが出るまでやり直すぞ!」と、鏡を打ち壊して、新しい鏡を必死で作るのだろう。

そうなるためになら、自分の支持者たちが、掲示板でライバルを集団リンチし、誹謗中傷をまき散らすことで、検索サイトに悪評を反映させ、順位を下落させ、駆逐して行くことをも黙認・容認するのであろう。

その上、それだけでは飽き足らず、とどめを刺すために、ライバルを刑事告訴したり、自分でも盛んに中傷を書きなぐるなどの入念さを見せるのであろう。実際、村上がしてきたのはその通りの行為である。

当ブログには、村上や杉本にとって不都合な記事を検索結果から駆逐しようと、毎日のように、大量の読者が押しかけて検索結果の操作が繰り返されている。従って、筆者は、検索結果など意図的な操作によりいかようにでも変わり得るものであること、それが事実を示しているわけでないことを疑わない。

村上は「牧師が解釈を独占」という独自の用語で検索した結果、そうした発想がまるで自分の考案したものであるかのように自慢げに主張しているが、筆者は、2009年来、同様の主張を当ブログで展開して来た。

当ブログでは、開設当初からどれほどの回数、牧師が信者の霊的生長の妨げとなっているかというテーマについて、触れて来たか分からない。ただし、牧師制度の悪について触れるに当たり、筆者は幾度も分析の方法や、用いる言葉や、注目する観点を変えて来た。当初は、牧師制度は個人崇拝の制度であるというところから始まり、グノーシス主義との関連性、ペンテコステ運動との関連性、牧師が「御言葉を取り継ぐ者」とみなされていることの反聖書性などに言及した。
 
しかし、言葉の違いはどうあれ、当ブログ始まって以来、決して途絶えたことのないメインテーマの一つが、牧師制度の悪を訴えることにあった。牧師制度こそ、すべてのカルト化現象の元凶なのであり、この制度ある限り、プロテスタントの腐敗はなくならないというのが、当ブログの変わらない主張である。
 
現在、筆者は次のように主張している。「信仰回復運動は、常に聖書そのものの一般への解放と密接な関係があった。プロテスタントの牧師制度は、牧師だけを御言葉を取り継ぐ者として、信者自身に聖書を解釈させないことにより、聖書を牧師の独占物として来た。新たな信仰回復運動は、牧師制度から聖書を解放し、聖書を万人に開放し、万民祭司の原則を打ち立てること以外にはない。」
 
* * *

さて、当ブログがどれほど早くから牧師制度と独占という言葉を結び付けて論じて来たか、いくつか過去記事を抜粋してみよう。最も古い時期のものは、手束正昭氏の著書『教会生活の勘所』が異端的教説に基づいていることを分析した以下の記事であろう。

教会成長論が生む牧師への個人崇拝」(2009年5月12日)

4)教会成長論が生み出す牧師への個人崇拝


 さて、『教会成長の勘所』に話を戻そう。第一部では、教会役員はいかにあるべきかが述べられているが、この部の最も核心的な話題は、実は、教会役員にあるのではなく、牧師への個人崇拝にあると見て良いと私は思う。だから、そこから話を始めよう。

人格的象徴としての牧師

 『祈りの精神』という日本でもよく読まれている書物を書いた英国の神学者フォーサイスは、その書物の中で『牧師とは礼典的存在である』と主張している。礼典的存在とは、私の言葉で言えば人格的象徴ということである。『象徴性を担った人間』ということになる。
つまり、その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在ということである。
神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。<略>
宗教的象徴ということについての理解の不足は、信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねないということは明らかである。」(p.21-22)

 この短い文章を読んだだけですぐに、ある人々は、この書物がキリスト者をいかに破滅的な異端に誘い込む危険な内容であるかを察するだろう。
 よく読んでみよう。牧師は「礼典的・象徴的存在」であると手束氏は言う。

 確かに、あらゆる団体のリーダーとなる人物には、群れの模範、代表、シンボルマークの役割を担う力が必要になる。リーダーには確かにグループのシンボルとしての役割がある。そのことには異論はない。しかし、手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」の意味は決してその程度の軽いものでは終わっていない。

 氏は言う、礼典的・象徴的存在とは、「その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在」であると。つまり、牧師を通して、信徒は神の恵みと祝福、命と力を受け取るというのである。
 確かに、敬虔なクリスチャンは誰でも神の愛と恵みを隣人に届けるための通り良き管となれるだろう。そのことに私は反対しない。私たちがキリスト者として、愛に基づいて隣人を助ける時、私たちは神の祝福の通り良き管となっているのである。従って、もしも優れた牧師がいるならば、彼は神の恵みを多くの人々に届ける管になるだろう。

 しかしながら、氏はこれでも終わらない。そこからさらに進んでこう言う、「神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。」
 ここまで来れば、どんなに鈍感な人でも、この文章の危険性に気づくのではないだろうか。私たちはこれをきちんと字義通り解釈しなければならない。この文章は、三次元の世界に住んでいる信徒は、神のおられる四次元の世界には「直接的には交わり得ない」、従って、「四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在」、つまり、「人格的象徴」である牧師を通さねば、事実上、信徒は神と交わることができず、神の恵みを受け取ることもできないと言っているのである。
 牧師を通さねば、信徒は神との直接対話は不可能だと言うのがこの文章の意味である。そして、そのことの重要性を見落とし、「宗教的象徴」についての理解が不足すると「信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねない」と氏は言うのである。

 眩暈がするような文章ではないだろうか。善良なクリスチャンにこれ以上の説明は不要だろう。しかし、これだけではまだこの論理の異常性が分からないという人がいるかも知れないので、念のために、最後まで、分析を進めよう。[四次元問題については、末尾の注を参照。]

 上記のような「人格的象徴としての牧師説」は、事実上のイエス・キリストの否定である。

 聖書を見よう、イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 クリスチャンが真理に至るため、あがないを得るため、永遠の命を得るため、父なる神の御許に至るために、唯一与えられている通路は、イエス・キリストただ一人である。象徴的存在としての牧師ではない。いかなる人間も、神と人とをつなぐために、イエスの代理人となることはできない。

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:11-12)

 イエスは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われた。そこで、クリスチャンは今日、「イエスの御名によって」祈るのである。
 旧約聖書時代には、預言者を通さなければ、民は神の御言葉に接することができなかった。だが、十字架によるあがないのおかげで、クリスチャンがイエスの名を通せば、直接、神を礼拝し、神に願い求めることが可能となった。これは聖書理解の基本中の基本である。だが、『教会成長の勘所』はそこからしてすでに真理から逸れている。牧師が事実上、イエスの役割を代行する者として名乗り出ているのである。そのことは、続く文章を読めば、さらによく分かるだろう。

「ところで、象徴というものにはそれに対する信頼と尊敬があってこそ、その機能を発揮できるという性質がある。たとえば、聖書は只の古典ではなく、象徴としての書物即ち神の言葉である。それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。
ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。あのナザレのイエスにおいてさえ、故郷の人々が尊敬と信頼を持たなかった時、奇跡を行うことができなかったのである」(p.22)

 この文章をよく読めば、著者手束氏が「象徴」という言葉をどのような意味で用いているかがよく分かるだろう。
 聖書は「象徴としての書物」であると氏は言う。つまり、神の御言葉が、見える形となって現われたものが聖書だという意味である。神の霊的な御言葉が、現実の地上世界の言語に表され、翻訳の不手際なども指摘されつつも、それでも可能な限り正確に文章化されて、見える形でクリスチャンの手元に届けられた。その見える形の聖書は、ただの物質ではないから、私たちはそれを小説や雑誌のようにではなく、神の言葉としての尊敬を払いつつ読まねばならないということが言われているのである。そのこと自体に異論はない。だが、それと同様に、牧師も「象徴」であるから尊敬を払われなければならないと氏は言うのである。

 不明なのは、牧師が一体、「何の象徴として」信徒から尊敬されなければならないのかという点である。教会の象徴としての牧師? 正しい教えの象徴としての牧師? この文章からはよく分からない。
 もう一度文章を読んでみよう。

「それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。」
 
 奇怪な文章である。信徒が聖書に尊敬を払うならば、「ましてや」人格的象徴である牧師には「更に」尊敬と信頼が必要だと言うのである。つまり、人格的象徴である牧師には、聖書に対する以上に、信徒からの尊敬と信頼がなければならない、と言うのである。牧師が事実上、聖書より高い位置に置かれていることが分かる。
 これはどういうことであろうか。ただの群れのリーダー、聖書を教える教師、教会の統率者が、聖書以上に尊敬と信頼を受けなければならない理由はない。従って、はっきりした説明はないものの、手束氏が「象徴的存在」である牧師が聖書以上に尊敬されてしかるべきだと述べているその根拠とは、「牧師とは御言葉の象徴であり、神ご自身の象徴である」と氏が考えているからだと受け取るのが、何よりも自然であろう。

 だが、さすがに「牧師は神と御言葉の生ける象徴である」とまで言い切ることはためらわれたのであろう。そこで、何の象徴であるのかを明確にしないまま、ただ「牧師は礼典的・象徴的存在である」という曖昧な説明でお茶を濁しているのだろうと想像される。
 結局、牧師は御言葉と神ご自身の人格的象徴であるから、聖書そのものにまして、信徒から尊敬と信頼を受けなければならないということが暗に言われているのである。

 ここで、イエスがユダヤ人に言われたことを私たちは思い出さなければならない、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。<略>わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の何よって来るならば、その人を受けいれるのであろう」(ヨハネ5:39-43)

 もしもこの地上の人間の中に、御言葉や、聖書の人格的象徴と言える存在があるとすれば、それはイエス・キリストお一人だけである。父なる神の名によって地上に遣わされたのはイエスだけであり、それ以外の人々は全て「彼自身の名によって来た」のである。だからこそ、聖書を敬いながら、イエスを信じようともしないユダヤ人に、キリストは上記のように言われたのである。聖書自体が、イエスについてあかしする書物であり、イエスの存在は御言葉そのものである。にも関わらず、どうして肉なる人に過ぎない牧師が、イエスに成り代わって自分が御言葉の象徴となり、聖書に対する尊敬以上の尊敬をクリスチャンに要求することができるのだろうか。

 手束氏の言う、「人格的象徴」なるものが、事実上、牧師がイエスに成り代わり、聖書以上の権威を身に帯びて、自分を通さねば神からの恵みを誰も受けることができないと主張し、自分に対する個人崇拝を信徒に要求するものであることは、明らかである。

* * *

また、同じ頃、書いた記事を土台に、後に内容を多少書き加えたものが以下の記事である。

牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望」(2009年3月19日)

これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。

<略>

ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。

* * *

また、2015年頃からは、筆者はグノーシス主義とからめて牧師制度の悪を論じることが多くなった。グノーシス主義は霊的階層制を取っており、必ず、真理の仲介者として目に見える指導者を必要とすることを明らかにし、プロテスタントの牧師制度は、聖書に合致するものではなく、むしろ、グノーシス主義的な背景を持つものであることを指摘した。

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇」(2015年6月21日)

さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。

聖書はもともと「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)

と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。

こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。

また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

* * *

2016年中は、ペンテコステ運動とグノーシス主義と牧師制度の悪という問題を関連付けて論じることが多くなった。必ずしも、牧師という存在だけが、現人神となるのではない。牧師に率いられる集団ごと、そのような理念に陥ることがある。

相模原で起きた障害者の大量殺傷事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2) 」(2016年7月29日)

KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

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イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち」(2016年11月29日)

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

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牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~」(2018年4月1日)

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り次ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。

* * *

さらに最近になると、筆者ははっきりと村上密、唐沢治、杉本徳久の名を挙げながら、反カルト運動は、一見、牧師制度の暴走を許さないための歯止めとして登場して来たように見えるが、根本的には、カルトと同じかそれ以上に、牧師制度の悪を集積して生まれて来た最も危険な運動であると指摘するようになった。

村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質
(2018年3月30日)

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

<略>

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。


* * *

近年になると、筆者は、牧師制度の悪を、グノーシス主義的背景だけから論じるのではなく、信仰回復運動の観点から論じることが多くなった。すなわち、プロテスタントは、カトリックの統一的なヒエラルキーから信者を解放し、聖書を一般に解放したという点では、功績を果たしたが、牧師制度を取ったことにより、その改革が中途半端に終わり、今やプロテスタント自体が新たな信仰回復運動としての聖書の一般へのさらなる解放を妨げる障壁になっていると指摘したのである。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。」(2019年3月5日)

さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り次ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

* * *

<続く>

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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(23)―判決に逆らってコメント削除を拒み、賠償金の支払いを拒み続ける卑怯な男・杉本徳久

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。

わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソ3:10-13)
 
掲示板も時には正しい忠告を行うことがある。自己愛しか語れない連中の虚しい議論の合間に、村上密がどのようにして唐沢治の陳述書を手に入れたのかを調べるためには、裁判所に問い合わせるのが一番だという旨の助言があった。

いみじくも、筆者は杉本への措置のために、保全係と連絡を取っていたので、久方ぶりにこの件について問い合わせた。すると、当事者には、記録を閲覧した人間を特定できる事が分かった。

つまり、閲覧記録を照会しさえすれば、村上密が、唐沢治の陳述書を裁判所経由で手に入れたのか、それとも、唐沢本人から入手したのかは、はっきりするということである。

筆者の見解としては、村上と唐沢との間にメール文通があれば、それは二審で、村上がこの陳述書の中身を本物だと信じた理由として提出されるだろうと思う。

神は不思議な方で、隠れたところで行われている事柄を、明るみに出される。ある意味、事件の解決に時間がかかるのは、そのためなのである。私たちが思っているよりも、さらに悪は深く、さらに思いもかけないほど、人間の堕落は深い。

私たちの予想を超えて、これらの牧師たちが深いレベルで霊的堕落に陥っていることを示すものとして、おそらく、二審では、これまでとは違った種類の証拠が出て来るのではないかと見られてならない。

一審では、杉本も村上もしばらくの間、「否認する」と「不知」しか書かれていない答弁書を出して、沈黙を守っていた。村上は、一審の間中、沈黙を守ったと言えよう。そして、判決が下されてから、初めて口を封じられた杉本徳久と交替するように、己が内心を吐露し、筆者に対する公然たる権利侵害の記事を書き始めたのである。

だが、二審では、杉本と村上の役割が逆転し、杉本が沈黙し、村上が発言することになる。その時、村上の内側から何が出て来るのか、筆者は非常に興味深く思っている。

ちなみに、筆者には村上のブログそのものが非常に気持ちが悪い。最近は、筆者がひとこと欄で述べたことや、「牧師が御言葉の解釈を独占したがゆえにカルト化が起きた」などとする論を、村上がまるで自説のごとく振りかざし、筆者の論を次々借用している様子が理解できる。

唐沢もそうであった。唐沢は、信徒らが執筆しているブログから勝手にテーマを盗んで行っては、メッセージで我が物のように勝手に利用することを繰り返していた。クジャクの羽をつけたカラスであって、すべてが借り物なのである。

村上密の記事「選択」にはこうある。

「裁きが、遠い外国に対してであるときは、人々は喝さいしたはずである。しかし、段々自分たちに近づいていることに気付かない。とうとうその裁きが自分たちに向けられた時、誰が喝さいをあげるだろうか。それは嘆きと悲しみの時の到来である。私は喜んで宗教問題に通り組んでいるわけではない。嘆き、悲しみ、被害者の回復のために取り組んでいる。しかし、被害者が回復していくときは喜ぶ。だから、嘆きと悲しみを共有し、やがて来る喜びも共有しようと全国を飛び回っている。」

聖書は、裁きは神の家から始まる、と言う。村上は、裁きが自分の足もとまで迫っているのに、未だそれを他人事のように書く。自分だけは裁く側であって、裁かれる側には回らないという思い上がりが透けて見える。

だが、二審では、村上自身に裁きが下されることになる。  

そして、今、裁きから逃げ回っている杉本にも、逃げられない時がすぐに来る。

二人は、裁きを受け止める勇気も覚悟もない人間である。自分たちは神のように人を裁くことができるという思い上がりに陥っているだけである。その点は唐沢も同じだ。

この三人は、自分たちはニッポンキリスト教界の監督者であって、自分には諸教会を裁く資格があるという途轍もない思い上がりに陥り、己が罪を神の御前に悔い改めるチャンスを失っている。

人生の終わりには、ゲヘナに投げ込まれて終わるだけの偽預言者である。
 
ちなみに、カルト被害者は10年以上前から、村上の薄情さ、冷淡さ、痛み苦しみへの共感のなさを訴えて来た。聖神中央の被害者は、あっという間に村上から逃げていなくなった。

村上が、以上の記事に書いているように心優しい人間であったなら、そもそも身内が自殺に至ることは絶対になかったはずである。もちろん、長年、自分の下で仕えて来た長澤牧師を、主任牧師として育ててやれないなどのことが起きるはずがない。

いつまでも自分が栄光を独占しようとするため、身内以外に誰も後継者が育っていない、これは独裁者の特徴である。
 
偽預言者には悪い実しかならない。うわべの自画自賛の言葉に騙されることなく、実態をよく見極められたい。
 
* * *

さて、杉本徳久が賠償金を払いたくない、筆者の取立は迷惑行為だ、自分は取立の「恐怖」によって体調を崩している、などとするメールを本日、送りつけて来た。

ゴールデンウイーク前から連絡しているにも関わらず、いよいよ勤務先に手が回ると分かって大慌てだ。
 
だが、筆者は、杉本がこうして支払いの時期を引き延ばしていることに、心の底から嫌悪を侮蔑を思えるが、それにも、神の計画があると見ている。なぜなら、その間に、商工会議所、同窓会(東京銀杏会)、ヤギの会などにも連絡を取ることになり、その過程で、杉本がありもしない経歴を詐称している事実が分かったからである。

もしも杉本が速やかに誠意をもって判決に応じていた場合、筆者には、彼の虚偽の深さが見えなかったであろうし、関係者に、事実が知れることもなかったであろうと思う。杉本がここまで卑劣な人間であることが、彼に近しい社会に伝わる結果にはならなかったであろう。
 
村上密についても同様なのである。もしも一審判決が下されてから、判決確定までの間、村上が沈黙を守っていたならば、筆者はおそらく、この一審判決で満足して立ち止まっていたに違いない。筆者もまた、村上に疑問を感じつつも、その内面の悪の深さを見抜けないまま、そこで争いが打ちきりになっていた可能性があるのだ。

だが、神はあえてこの事件を引き延ばされた。それはやはり、人の隠れた内面が極みまで明らかにされるためではないかと思う。
 
従って、物事がこじれているように見えるところにも、神の深い采配は働いている。そして、杉本が支払いを遅らせれば遅らせるほど、事実はより多くの人々に知れて、彼はますます窮地に陥り、社会で居場所を失って行くことになる。

また、以下にも書いたが、筆者の策はいつも一つではない。神はこの世で知恵あると己惚れている者を、高みから見て嘲られ、この世では無知と思われている者、無力と侮られている者を大胆に用いられて、御業を示される。神は教会を通じて、この世の諸々の支配と権威に、ご自分の多種多様な知恵を示されるのだ。

だから、神の教会の知恵は尽きることなく、この世のすべての人々の知恵を上回っている。私たちキリスト者は、敵の策略を足の下に踏みしだき、彼らのしかけた罠を高く飛び超えて行くだろう・・・。
 
* * *
  
さて、杉本は控訴していない。判決に不服を示していないのだ。にも関わらず、筆者の控訴を理由に、賠償金を支払わないとする彼の屁理屈には、呆れるのみである。

今回の判決には、仮執行がついている。仮執行は、賠償金の部分と、ブログ削除の部分にかかっている。

従って、杉本が未だコメントを削除していないことや、賠償金を支払わないことに対しては、筆者は強制執行、間接強制をかけて、取立を行う権利を有する。それが認められていればこそ、すでに債権差押命令が出ている。

一つの差押が空振りに終わりそうでも、取立業者に委託すれば、勤務先を調べてもらえる。その上で、勤務先に相談し、給与の差押などの措置に及ぶことは可能だ。

しかし、何よりも、こうした情報が勤務先に知れた時点で、平和裏に勤務を続けて行くことは難しくなるものと想像される。

そのことは、学術研究者から成るヤギの会の事務局員も、筆者がただ電話でこの訴訟の話を伝えただけで、決してこちらの言い分を一切疑うことなく、再三、杉本の行為を筆者に詫びていた様子からも分かる。

これが、普通の良識ある社会人のまっとうな反応なのである。それにも関わらず、杉本は、筆者がヤギの会に連絡を取った行為さえ、迷惑行為であるかのように非難している。

杉本はHCCの榊山牧師に勝訴した時、訴訟費用を早く払えと言って、HCCを非難していた。坂井能大を訴訟で破ったときには、即日で、裁判所で坂井に解決金を支払わせている。

それにも関わらず、自分だけは判決に従いたくないと駄々をこねる。どこまで我が身可愛さのゆえに、法に逆らい、世間の常識に逆らい、人に迷惑をかけ続けて、自分だけを愛し続け、わがままを通すつもりか。

杉本のキリスト教徒への非難には何の根拠もなかった。自分が裁判でキリスト教徒に打撃を与え、彼らからただ巻き上げることだけが、彼の目的だったのは明白である。本当に反吐が出るほどの嫌悪を催す、としか言いようがない。

もちろん、このような人間がキリスト教徒のはずがないし、悔い改めの余地があるとも全く思えない。このような男が、信者を名乗るだけ我々には大きな迷惑である。

筆者はメールに次のように書いた(多少文言を変えた部分がある)。
  
  

 ただちに託金にて賠償金を支払いなさい。

杉本徳久様

ゴールデンウイーク前からお支払いを要求しておりました。一体、いつお返事がいただけるのかと思っていましたが、あまりに無責任な対応を非常に残念に思っています。

さて、杉本さんが、賠償金の支払いおよびブログ削除の実行をこれ以上遅らせたいと願っておられることは、一切認められません。

一審判判決にはご存じの通り、主文の6に「この判決は、第2項及び第3項に限り、仮に執行することができる。」とございますので、控訴の有無に関わらず、私には判決の第2項、第3項をあなたに対してただちに実行に移す権利がございます。

第2項は賠償金の支払い、第3項は20本以上のブログ記事の削除を命じる判決です。仮執行の宣言がなされている以上、控訴審の判決を待たずとも、ただちに一審判決を実行可能なのです。

しかも、杉本さんは控訴なさっておられませんので、一審判決に同意という立場を公にされたことになります。ですから、今の杉本さんは、一審判決に不服も申立てていないわけですから、それにも関わらず、判決に従わない理由は、何一つございません。

しかしながら、杉本さんは賠償金の支払いは言うに及ばず、第3項さえ現時点できちんと履行なさっておられず、5月13日まで数多くの記事を削除されませんでしたし、未だにコメント番号17も内容を書き換えただけで、削除しておられません。

これは杉本さんが判決を実行しなければならない立場にあるにも関わらず、それを正当な理由なく無視し、一方的に履行を怠っていることを意味しますので、私はこれに対して、強制的に判決を実行に移すための措置を取る正当な法的権利を有しています。

実際に、私にその権利があるからこそ、立川支部が、債権差押命令をあなたに送ったのです。

しかも、私一人では限界があると判断すれば、第三者などの回収業者に委託することも可能です。

私はこれまで杉本さんが電話やメールにきちんと出られず、正当な理由なく、賠償金の支払いをいたずらに遅延させて来たため、やむなく杉本さんの知人やご家族や大学関係者や勤務先に、杉本さんが判決に従うよう、杉本さんに連絡を取ることが目的で、問い合わせを行わざるを得なくなっています。

そのために膨大な時間を費やさせられています。あなたご本人がきちんと連絡に応じないのですから、あなたの知人にそうした問い合わせを行うことには、やむを得ない正当な理由があります。

あなたは実名でブログを執筆されて来た方であり、今回、誰でも不特定多数の人々が閲覧できるインターネット上で私の名誉を公然と毀損されたわけですから、あなたに関して、一審判決の中では、何一つ秘密に当たる情報もなく、そこで、私が判決内容をあなたの知人やその他の人々に口外したところで、何ら、あなたに対する権利侵害にも、迷惑行為にも当たりません。

そのようなわけで、あなたが判決にきちんと従うまで、私が以上の措置を取ることには、「正当な理由」がございますし、続行せざるを得ませんので、ご了承下さい。

このような事情ですから、あなたには、私の法的に認められた正当な取立を「迷惑行為」などと呼ぶ権利はなく、そもそもあなたは私からの電話に、最初の1本を除き、全く出ておられませんし(その他の電話は一切通じていないので、通話記録もない)、このメール一本以外、一通のお返事もしておられませんので、それにも関わらず、迷惑行為が成立する理由もありません。

むしろ、私の名誉を毀損され、民事訴訟でも判決に従わず、迷惑行為を繰り返しておられるのは杉本さんだと思います。

さらに、あなたは私の記事や取り立てが原因で、体調不良に陥ったかのような、小学生のような文句を書き連ねていますが、あなたが運営しておられるFC弥生というサッカーチームの掲示板には、

https://fcyayoi.hatenablog.com/

2019   

   5/18   Sat 新横浜駅前 新横浜 球技場グランド 天然芝  2:00 - 4:00

     vs   浜のオヤジUnited

 杉本 水野

と記されており、休日には趣味のサッカーに興じて元気に走り回っておられるご様子ではありませんか。体調不良の影すらも見受けられない現状に驚かされます。

ヤギの会の事務局は、私の置かれている状況を理解して下さり、あなたの行為が、会の信用を損ねるものなので、あなたにしかるべき対応を求めると回答し、私にも詫びてくれました。

それにも関わらず、今回、ヤギの会からの連絡を受けたにも関わらず、あなたが今になってもまだ賠償金を支払いたくないと子供のように駄々をこね、「怖い」とか「体調不良になりそう」などと、自分が被害を受けているかのように訴えるメールを私に送って来られたことは、まさにあなたが市井の良識ある一人前の社会人として、自らが負うべき法的責任を一切、負えないわがままかつ幼稚な人間であることを示す驚くべき事実ですから、その旨も、合わせてヤギの会の事務局に、お伝えしておこうと思います。

多分、そのようなあなたの態度を見れば、これまで、あなたを信用して来た人たちも、あなたという人について考えを翻し、もはやあなたを信用し続けることはできなくなるのではないかと想像します。

特に、杉本さんはかつてHCCと裁判をし、HCCから訴訟費用を取り立てた過去がありますし、坂井能大氏をも裁判に訴え、彼に少なくない解決金を即日に裁判所で支払わせています。ご自分はこうして裁判を利用して、他の人々に、賠償金を支払わせていながら、ご自分だけ、子供じみた言い訳で、債務を逃れることができないのは当然と思います。

さらに、杉本さんは、過去10年間ほど、再三再四、私に「刑事告訴」や「裁判」を口実にして、様々な要求を行う脅しめいた内容のメールを送りつけられています。そして、私が要求に従わなければ、「実名を無断で公表する」とか「卒業した大学に問い合わせる」などとおっしゃっておられました。

それにも関わらず、私が杉本さんや関係者に対して、司法で下された判決に従い、賠償金の取立という「正当な理由」に基づいて連絡を行うことが、一切、迷惑行為に該当する理由があるはずもありません。

そこで、最後に通告します。

今、私は、株式会社メディアテラスの代表としての杉本徳久に対し、差押と取立を行っています。ですが、杉本さんがお支払いをなされませんと、今度は、杉本さんの勤務先などをお調べして、給与の差押等に及ぶこととなります。

しかし、勤務先が特定され、給与の差押等が行われますと、杉本さんの生活にも色々と直接的な影響が出て来ることでしょう。

それを望まれないのであれば、杉本さんには、今、すでに差押通知が来ている金額をただちに供託して府中支局におさめる以外に、以上の事態を防ぐ手段はありません。

私には控訴審の準備のための作業がありますから、待ちできる期間はもはやありません。

そこで、まずは、杉本さんが18日に新横浜競技場グランドに来られる際、サッカーチームの方々にこうした事情があることを伝え、理解を乞い、杉本さんとの話し合いの場をもうけていただこうと考えております。

横浜のチームも参加しているようですし、良識ある市井の方々は、ヤギの会と同じように、この問題に理解を示して下さるはずです。

また、万一、杉本さんが非常に乱暴な対応に終始されたりした場合に備えて、神奈川警察署にも、私が取立を目的に杉本さんに接触をはかる旨は、前もって伝えておきます。

それに先立ち、債務承認弁済契約書を送ります。

当日、ご署名捺印を求めます。ただし、サッカーチームの前でこうした書面の交付に及びたくないとお思いの場合には、メールで署名捺印の意思表示を前もって示して下さい。

そうでなければ、予定の時刻にグランドに参りまして、関係者一同にこうした事情があることを伝え、理解と助力を求めることとなります。その際、判決文、債権差押命令、杉本さんが書かれたブログ、また、杉本さんが書かれましたメールも持参することとなりましょう。

それでも杉本さんが、誠意ある対応をされない場合には、この先、勤務先の特定と給与の差押が不可避となりますので、ご了承下さい。

ヴィオロン

追伸

さらに、杉本さんが本日中に債務弁済契約書に署名捺印の意思表示を見せられず、このメールに何らの返答もされない場合は、杉本さんのメールの内容と、私のお送りしたこのメールも合わせて、ヤギの会にお伝えしておきます。

ヤギの会には、判決、債権差押命令、杉本さんのブログをお送りしておきますのでご了承下さい。

また、神奈川警察署には18日の件はこれから伝えますが、制止を受けた場合には、契約書の当日手交をとりやめ、メールで取り交わし、それができない場合には、やはり早急に業者委託等により、勤務先の特定と給与差押に直接的に及ぶ可能性がありますので、これはグランドでお会いすることを約束するものではありません。

また、杉本さんのご両親はクリスチャンという話でしたので、場合によっては、代理人等を通して、ご家族と接触を図り、この件をご相談させていただくことも検討しています。

このように、杉本さんが賠償金の支払いを遅らせますと、多くの方々が、杉本さんの無責任でわがままな行為に、心痛める結果となり、むろん、刑事事件の進展にも差し支える結果となり、生活にも影響が及ぶことをよくお考えになるようお勧めするのみです。

以前に伝えた通りの方法で、ただちに賠償金を支払いなさい。

ヴィオロン

 
おそらく、神奈川警察署は筆者が杉本に会うことを許可しないであろう。だから、筆者はグランドには赴かないと思うが、杉本はよくぞ自分が訴えられている最中、神奈川警察署のテリトリーに自分から入って来る気になったものだと思う。
 
さらに、このメールを送った直後、杉本はホームページを書き換え、自分は審判・用具係だと豪語している。

いずれにしても、病人には休日にグランドに赴くことさえ不可能だ。この猛暑の中、数時間、電車に揺られ、外出するだけでも、いたく体力を消耗するだろう。従って、杉本のメールは、自分にとって不都合なことは何もやりたくないという身勝手な意思表示でしかない。

だが、筆者には、いつも二重三重の方法がある。だから、表向きに実行すると言った方法以外にも、数多くの別の方法論をその陰で駆使することになろう。
 
さて、杉本の送りつけて来た駄々っ子のようなメールは、予告した通り、杉本の書いたブログ記事、判決、債権差押命令などと共に、ヤギの会に送付しておく。それ以外にも、杉本の関係者に相談する時には、杉本の幼稚なメールは、一セットとしてまとめて送付することなるだろう。

おそらく、杉本が筆者に送りつけて来たメールを送付すれば、会からの脱退は免れられなくなるものと思う。あのメールを読めば、通常の人々は、あまりの強烈な自己愛にめまいがして来て、杉本徳久という人間について、根本的に考えを改めざるを得なくなるのではないだろうか。
  
筆者は杉本のメールを読むとき、彼は本当に研究者だったことが一度でもあるのかと、非常に疑問に思わざるを得ない。

文体が、学術論文を一度でも真剣に書いたことのある人の文体ではないのだ。そもそもすべての記事やメールが、文章を愛する人の書く内容ではない。

杉本は大学院修士課程に在学していたことがあると、かつてブログに記していたが、よく考えてみると、修士論文を書き上げたとは一度も書いていなかった。従って、院を修了し、修士の学位を得たのかどうかも、当人の記述からは、はっきりしない。特に、東京大新領域に所属していたのかどうかもよく分からない。
  
とてもではないが、この男の文章では、一本の修士論文も書き上げられないだろうことを筆者は疑わない。

(以下は、杉本がかつてブログに掲載していたプロフィール「他人からの呼ばれ方」の記載。)

  


杉本の人生がどのようなものだったかは知らないが、杉本が主宰しているサッカーチームは、都立西高校のサッカーチームから派生したものだ。高校生活までは、比較的リアルな足跡が見える。ヤギの会でも世話人をつとめたり、ホームページ管理をしていたところを見ると、リーダー役をつとめて、多くの人々をまとめ、脚光を浴び、注目されるのが大好きな人間像が浮かび上がって来る。

だが、そういうことは、高校の同窓会くらいでやめておけばよかったのだ。下手に大学院に進学し、学問を志し、そこに自分には到達できない高みがあることを知って、挫折感を味わったのではないだろうか。大学院時代の記述には、ほとんど何も感慨深い事柄が記されておらず、研究テーマもよく分からず、院を修了したのかも分からないまま、サラリーマンになったと記されており、サラリーマン生活にも、味気無さ以外に見いだせるものは特になかったようである。

杉本のプロフィールから見えて来るものは、精神がずっと「大人になり切れない子供」のまま、子ども時代や、学校時代の、大勢でわいわいがややがと楽しんでいる自分を捨てられないまま、一人前の責任を負えずに、現在を迎えてしまった男だということである。彼には、自分が憧れているものと、現実に自分が努力して手にできるものとの巨大な落差が認識できなかったのであろう。

企業経営者になってからも、多方面に手を出し、音楽スタジオを創設したり、教会音楽に取り組んだりもしていた。だが、音楽に関しては、基礎的素養がなければ、ビジネスとしての成功も難しいだろう。そんな風に、憧れだけで、様々な事柄を手掛けるのだが、基礎というものがきちんとできていないため、すべてが中途半端なまま瓦解して行ってしまう。

その最たるものが、信仰生活である。

* * *

信仰生活とは、神の高みに至り着くことを目指す人生だと言えるので、ある意味では、この世のどんな人たちの人生に比べても、最も不遜な試みだと言えなくもない。

だが、学問においても、高みに至り着くためには、己をむなしくして努力することが必要であるように、神を知るためにも、人はへりくだって自分を捨てねばならない。それができないまま、美しい飾りを身にまとうように、憧れの対象をいくら身の回りにかき集めても、人はクジャクの羽をつけたカラスにしかなれない。
 
しかも、「神」を自分のアクセサリーとして身に着けようとする以上の高慢は、人には見られないものである。ちょうど掲示板でも、ギリシア語やヘブライ語の知識を誇示し、自分は聖書を誰よりも原語で読んでいるなどと豪語しながら、マリアの処女懐胎を否定している投稿者がいるが、呆れることである。

知識は人を高ぶらせる。だが、信仰は、人をへりくだりに導く。

キリスト教の信仰は、自画自賛、自己顕示、自己愛のために持つものではない。
 
杉本の人生からは、この点をはきちがえた男の悲哀が伝わって来る。つまり、最も高みを目指しながら、結局、何者にもなれなかった男の悲哀である。だが、何者にもなれなくとも良いから、せめて判決には従うごくごく普通のまっとうな社会人として生きていれば、それで良かったのではないのかと筆者は思う。

そうしてさえいれば、まさかここまで人生を失うことはなかったはずである。

なぜキリスト教会に敵対し、なぜ自分が他の教会や信者よりもさらに優れた信仰を持っているかのように豪語し、罪もない大勢のクリスチャンを中傷し、裁判に引きずり出し、打撃を与える必要があったのか。

何よりも、杉本が、聖書の神よりも自分自身を高く掲げたことが、破滅の始まりなのである。杉本が否定したいのは、次のことだ。

生まれながらの人間には、聖なる要素は何一つなく、人はみな生まれながらにして、神の御怒りの子であって、己が罪を悔い改めて十字架の贖いによって救われる以外に道はないこと。

イエス・キリストの十字架の贖いを受けなければ、誰一人、神に受け入れられることはないこと。生まれながらの人間には、どんな努力によって、自分を変えることはできず、人間の一切の自己救済はむなしく、人間の生まれながらの自己を改良する方法では、人は何者にもなれないどころか、ゲヘナの子になって終わるだけであること。

信仰生活の基礎は、キリストご自身であって、人の生まれながらの自己ではない。

しかし、杉本は自分を愛し、自分を手放すことを惜しみ、自分の美が失われることを拒んだ。彼は十字架の贖いを拒んだ。そして、神以上に己を義として、諸教会に戦いを挑んだ。そうであるがゆえに、彼は自分の罪が全く見えなくなって、これを悔い改めることも、反省することもできなくなり、神の救いから、自分を除外し、滅びの道をひた走っているのである。

正直に言えば、現在の杉本には、杉本がかつて筆者に向かって発した呪いの言葉が、そのまま跳ね返っているだけのことである。杉本が他者を精神的に追い詰め、他者が心を病んで立ち直れなくなることを積極的に願いつつ、容赦のない呪いの言葉を浴びせて、他者を中傷し、他者の社会生活が不可能になることを積極的に願う言葉を、おびただしい回数、公の場所に書き記し、また、そのように自分が嘲り、罵った人間の苦しみを、高みから見下ろして、これを踏みにじって嘲笑するようなことがなければ、今、彼がこのような立場に置かれることはなかったであろう。

筆者は、杉本がまだ多分に嘘をついていることを知っている。彼はサッカーの審判が出来るくらいに元気だ。だが、たとえ仮病であったとしても、自らの債務を逃れるために、杉本が自分を「病気」だと宣言したことは、神と人との前にきっと覚えられるだろう。人は自分で口から発した言葉に、自分でとらわれ、自分で恐れた事柄が、実現して行くからである。

不思議なことである。杉本は、警察の取り調べが「怖い」と言うのではなく、筆者の取立や、ブログ記事が「怖い」と言うのである。そういう感覚がまだ残っているならば、2010年頃から、杉本が再三に渡り、筆者に送りつけて来たメールが、筆者にどれほど大きな不快感、精神的苦痛をもたらしたか、彼には分かるはずだ。

ところが、当時、杉本が「訴訟」や「刑事告訴」という文言をやたら振り回していたので、それらのメールは、たとえ名目だけであっても、「正当な理由」があれば、迷惑行為に該当しないとされた。ならば、筆者はその理屈を裏返しにして、現在の杉本にそっくりそのまま当てはめるのみだ。まさか筆者が判決に従うよう杉本に求める行為が、迷惑行為に当たるはずもない。
 
このように、人には他者に対して行った行為が、いつか自分に跳ね返ることになる。憐れみのない者には、憐れみのない仕打ちが跳ね返り、残忍な者には、残忍な仕打ちが跳ね返る。その逆に、憐れみ深い人間には、憐れみが返され、施す者には施しが、人を赦す者には、赦しが返って来る。

筆者はこれまで幾度も杉本に悔い改めるよう警告して来たので、十分にその時期は過ぎたものと思う。

このように、神は人の心を極みまで探り究められ、おのおのの行いに応じて報いられる方である。事態が紛糾しているように見えるのは、杉本には、まだまだこれからその身に降りかからねばならない出来事が多数、残されているためである。

筆者は贖いの絶大な効力を知っているので、これまで杉本にどんな言葉によって呪われても、それに打ち負かされることはなかった。だが、信仰の盾のない杉本には、自分が他人に向かって吐いた言葉が、自分自身に跳ね返って来る時、防御の方法はないであろう。

杉本が発して来た残酷で容赦のないクリスチャンへの呪詛の言葉は、これから信者たちを離れ、彼自身の生涯に付きまとうことになる。杉本が恐れているのは、筆者ではなく、彼の行った数々の残酷な行為を覚えておられる神ご自身の報復と、聖徒らからの徹底した侮蔑と嘲りである。
 
   <続く>
 


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(22)―わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

悔い改めを拒否し、教会を分裂に導き、神の教会を冒涜して、滅びへ向かう唐沢治と村上密と杉本徳久
 
さて、一つ前の記事で、筆者は最後の機会として、村上密に向かって唐沢治と手を切り、悔い改めるよう呼びかけた。そして、杉本徳久の賠償金の支払いのために、手を貸してやるよう勧めた。

だが、こうした一切の働きかけは無駄のようである。むろん、最初から彼らが忠告に従わないことを、予想しつつ、あえて筆者は最後の呼びかけを行ったのである。筆者は彼らの善意に期待することは全く考えていない。

ちょうど民事訴訟を刑事告訴と並行して進めたように、今、筆者は同時に三つの策を用意しているところだ。一つ目は、任意の悔い改めの呼びかけ。二つ目は強制力を伴う実力行使。これは判決言い渡しや、警察を通じた取り調べや、処罰を求める手続きである。

そして、三つ目は、極めて重要な新しいステップである。

杉本は昨日に至るまで、判決で命じられた記事を3つも削除していないことが発覚した。当ブログのひとこと欄で、そのことを指摘してから、慌てて削除したようだ。

未練がましさの感じられる態度である。杉本が残していたのは、一つは筆者の著作者人格権を侵害した記事、もう一つは、2009年に筆者が削除を依頼したコメント、さらに、筆者の著作者人格権を侵害しつつ、鳴尾教会の女性牧師と筆者を並べて断罪した記事である。

こうした記事の残し方に、村上密からの深い影響を感じざるを得ない。まず彼らの強い学歴コンプレックスが感じられる。それから、男尊女卑、そして、自画自賛を手放せない思いである。

それらの記事はそそくさと消したようだが、杉本は判決で削除が命じられた「トランスフォーメーション・グロース」のコメントNo.17を未だに削除していない。しかも、コメントから名前を消し、投稿内容を消してでもいいから、☆5つの評価にすがり続ける男のみっともなさ、未練がましさである。



だが、こうして、杉本が判決に逆らっていることは、筆者には有利にしか働かない。なぜなら、こうしたことも、費用の回収に役立つからだ。

さらに、杉本が世話人として所属していた全国ヤギネットワークにも、杉本のことについて問い合わせた。杉本が執筆して来たキリスト教界をバッシングするブログの趣旨を伝え、そこで面識もないのに、当方がプライバシー権を侵害されて、名誉毀損され、さらに判決言い渡し後にも、2ヶ月が経とうとしているのに、賠償金の支払いもなく、本人は電話に出ず、メールに返信せず、連絡がつかない状態にあるため、困っていることを伝えた。

さらに、杉本が商工会議所の会員でないのに、会員資格を詐称したり、東京銀杏会の正会員などを詐称している事実も伝え、筆者は提供している情報がデマではないことを示すため、事件番号も伝えた上で、事実確認を依頼した。

すると、研究者兼事務局の代表者は、杉本は世話人としてここ2年ほどは会合に姿を現していないので、活動の実態も不明で、どんな人物かは知らないが、会の信用もあるため、そのように社会的・法的責任をきちんと負えない人をこのまま世話人にしておくのははばかられるため、事実確認の上、今後の対応を事務局内部でも検討するとの返答であった。

不愉快な問答は何一つなく、直接的な関係は何もないのに、うちの会員が迷惑をかけてすみませんでしたと、丁寧にお詫びをされていた。追って判決等の資料をスキャンして送付しておこうと思う。
 
このように、筆者はまさか彼らの善意のみに期待して解決を委ねる気は決してない。むしろ、任意では、これが最後の呼びかけであると、筆者は書いた。そして、彼らがその機会を無視したことの報いも、大きいだろうと考えている。

第三の策は、種明かしをすれば、包囲網である。キリスト教界からの包囲網、そして、世間からの包囲網によって、彼らを囲い込んで行き、活動できない状態を作り上げることである。杉本は、筆者が杉本に対して訴えを起こしたことをさんざん嘲笑し、司法や警察が筆者の味方になるはずがないとうそぶいていたが、実際には、司法も警察も生きており、筆者を根拠もなく精神異常者呼ばわりした杉本のデマなど信じこむことはなかった。

こうして、司法と警察を取り戻しただけには終わらない。この世全体を取り戻し、それによって、こうした中傷者を囲い込んで行くのである。私たちは、信仰によって、この世から召し出された民であり、キリストの御名によって、この世を統べ治める権限が与えられている。

だから、教会全体がこの世を足の下に置いて活動することが可能なのである。その霊的優位性、そして体としての一体性を取り戻すことが今、必要とされている。

* * *

筆者はこの戦いを中途で終えるつもりは全くない。神は教会を通じて、ご自分の多種多様な知恵を世のもろもろの支配と権威に示される。神はこの世の知者だと己惚れている人々を辱め、取るに足りない知恵なき者を用いて、ご自分の豊かな知恵を示される。

だから、教会の知恵を侮る者は、したたかに恥を受けるであろう。

杉本が判決に従わず、賠償金の支払いを遅らせれば遅らせるほど、利子がつき、債務は膨らんで行くだけのことである。筆者の提案を侮れば侮るほど、そして、法的責任を回避しようとすればするほど、杉本自身が失うものが増えるだけだ。

掲示板もしかりで、投稿者を2、3人でも特定できれば、十分に費用の回収はできる。海外にある掲示板の運営会社の法外に高い資格証明書取得料(5万円相当)も、慰謝料(5~10万円)と合わせて請求することになろう。その上に、訴訟費用(数万円)が上乗せされる。何しろ、ここ数ヶ月間、毎日のように権利侵害のコメントがなされて来たので、連続して多数のコメントを投稿している場合、杉本に下された賠償を超える判決が下される可能性も否定できない。

特に、こうして筆者に執拗につきまとって来ては、杉本や村上を擁護し、賠償金を踏み倒すことを勧め、筆者をストーカー呼ばわりするこの女投稿者を特定することが先決である。



この女は誰よりもおびただしい数の中傷のコメントを投稿して来た人間である。人物が特定されれば、氏名住所電話番号等を公開の上、刑事告訴することとなり、村上密や唐沢治や杉本徳久とのつながりや、投稿者同士の横のつながりについても、取調室でゆっくりしゃべってもらうことになるだろう。
 
その日は、ある日、突然、予告なく来るかもしれない。筆者から見れば、たった3行程度のコメントを日々書き連ねたために、そのように人生を棒に振るなど愚かさの極みだが、どうしても破滅に落ち込みたいという人間を止めるつもりはない。

人は他人に対して行ったことが、いつか自分に跳ね返って来る。これから先、杉本が筆者に対して行った仕打ちは、ほぼすべて掲示板の愚かな投稿者らに報いとして降りかかることとなろう。筆者は信仰にあって、どのような迫害を受けても、立ちおおせたが、信仰のない彼らには、破滅以外に待っているものはない。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(2ペテロ2:17-21)
  
* * *
 
村上密率いるカルト被害者救済活動は、唐沢治がニッポンキリスト教界を日々、罵り、非難して続けているのと、全く同じ精神に導かれる運動である。キリスト教会をブログで次々バッシングして来た杉本徳久も同じであって、これらの人々の行っている活動は、もとから本質的に同根だったのであり、彼らの行っていることは、教会に対する迫害であり、聖書の神への敵対行為であり、聖徒らに対する冒瀆である。

それだからこそ、この度、村上密が唐沢治を擁護するために、唐沢の陳述書をブログで公開したのであり、この二人が提携したのは、まさに必然の結果だったと言える。
 
さらに、驚くべきことに、唐沢が口汚く罵っていた「ニッポンキリスト教界」は、ついに筆者を指す用語なった模様だ。村上も、唐沢も、これまで諸教会を非難・断罪して来た以上に、筆者を仮想敵としている。そして、それがおそらく最初から彼らの活動の真の狙いであったことを筆者は疑わない。

要するに、「教会のカルト化を防ぐ」などというのは、ほんの見せかけだけのきれいごとであって、この人々の活動の真の目的は、キリスト教徒の迫害にこそあり、信者同士を敵対させて、教会を分裂させて、教会を弱体化させることにある。
 
京都教会の信者は、長澤牧師を失った痛手に加え、村上が唐沢と手を結んだことが分かれば、この教会から大慌てで逃げ出すに違いない。筆者はこれまで、村上が集めて来たカルト被害者らが、どんなに唐沢治を嫌っていたかを知っている。なぜなら、唐沢は被害者を名乗る人々に格別に厳しい残酷で容赦のない批判の言葉を並べ、心打ちひしがれた人々に一切の同情を払わなかったからである。

貧しい人々、心ひしがれた人々、不遇の環境にある信者たちに対する唐沢の容赦のない侮蔑と嘲笑の言葉は、カルト被害者にとっては、とりわけ耳を塞ぎたいような恐ろしいメッセージと聞こえていただろう。筆者はカルト被害者の中で、一人たりとも唐沢を擁護した人間を見たことがない。次の記事でも述べる通り、学歴をひけらかし、自分たちだけが真理に立っているかのように吹聴し、キリスト教界の牧師たちの貧しさや、苦労を嘲る唐沢のメッセージは、牧師たちの心にも、居ても立ってもいられないほどの憤りを呼び起こして来た。
 
従って、そのような状況で、村上が唐沢の陳述書の公開に及び、唐沢を擁護したことは、明らかに、京都教会にとってはかりしれない打撃となり、信徒数の減少、教会の終焉を招く行動となろう。長澤牧師が今この時期に京都教会を離れたのも、まさにバビロン倒壊から助け出されたに近いものがあると筆者は考えている。

* * *

さて、村上は、自分が吐いた言葉が、いずれ自分に跳ね返って来ることを、考えたことがあるのだろうか。彼は5月10日付で「著作権侵害」という記事を投稿している。

この記事の中で、村上は教会と教会を対立させて、兄弟同士を争わせたくてたまらないという様子で、自分が当事者でもないのに、ある教会で、著作権侵害の書物が配布されている事実を発見したと得意げに記し、「被害」を受けた教会は、これを訴えるべきだと呼びかける。

「ここでは教会名と出版社名を伏せることにした。双方の話し合いで解決するか。民事・刑事訴訟で取り組むか、それは教会の対応次第である。双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。それでは主導したと思われる牧師に対する罰はあるか。償いをすればそれで済むわけではない。牧師としての職務を辞すことで責任を取る必要があると私は考える。かつて、ソフトの違法コピーをした牧師に対して、コピーの破棄とソフトの購入で解決したことがある。今回の著作権侵害は、教会が組織をあげて、検証をし、責任を果たさなければならない。」

しかしながら、筆者は、紛争の火種を見つけてきては、教会の恥になる記事を発表し、諸教会を互いに争わせては分裂に導きたくてたまらない村上の呼びかけには、次の通り応答するのみだ。

本日に至るまで、掲示板では、毎日のように、村上密の支持者たちが、当ブログの文章を盗んでは、著作権侵害の投稿を続けて来た。全体としてものすごい文章に達している。こうした投稿者らが、村上の支持者から成り、村上のブログをキリスト教界(およびカルト問題の第一人者)としてスターの地位に押し上げ、村上を批判する当ブログの更新を阻止・妨害するために、こうした行為に及んでいる事実は、ずっと前から明らかだ。

そこで、もしもこの先、投稿者らの実名が特定されて、村上がこうした権利侵害のコメントの投稿を主導した事実が発覚した場合には、村上は以上の言葉の責任を取って、投稿者に償い金を払うよう言い聞かせた上、牧師としての責任を取って、辞職せねばならない。
  
だから、読者は、村上の発言をしっかり覚えておかれたい。以上の通りの事実が発覚した後に、村上が地位に恋々としがみついたりすることがないように。筆者は掲示板の投稿者の特定に動いているからだ。

さて、「双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。」と言うならば、村上は、なぜ杉本徳久に対して、賠償金を支払うよう説得しないのだろうか。

それどころか、村上は、筆者の提起した訴訟の一審で、杉本の投稿が、筆者に対する名誉毀損に当たる事実も認めず、杉本をかばうために、二人、一緒になって、賠償なしでの和解を唱え、それに筆者が応じないならば、反訴するとまで予告し、脅しのような圧迫を加えた。
 
一審判決で賠償命令が出た後も、杉本は賠償金を踏み倒すつもりで逃げ回っており、本日に至るまで、判決で命じられた記事をすべて削除したわけでもなかった。未だに、削除を命じられたコメントも内容を勝手に書き換えたまま、残している。

村上はこうした杉本の卑劣な行為をなぜ一言たりとも非難しないのか。損害を与えたのに、なぜ償い金を支払うよう言い聞かせないのか。従って、村上の論はダブルスタンダードであることは明らかだ。

もちろん、筆者はこのような行為を見逃すつもりはなく、杉本が支払いを遅らせれば、遅らせるほど、彼の負債は雪だるま式に拡大して行くだけのことである。
 
杉本は、村上が尊大に構えているので、その威を借りてさえいれば、賠償金など踏み倒せると考えているらしいが、そのようなことが社会的に通じるはずもない。これはもはやキリスト教界内の問題ではなくなっている。世間を敵に回し、社会を侮れば、その分のツケは、残る人生全体に落ちかかって来ることになる。
 
* * *
 
さて、村上と杉本はこれまで、教会に対する裁判を唱え、自分たちが教会に損失を与える時だけ、意気揚々と賠償請求に及んで来た。

村上が、元鳴尾教会の信徒を焚き付けて、鳴尾教会の教団離脱に反対するために、鳴尾教会に対する裁判に及ばせた時、村上の支援する信徒たちは敗訴したが、それでも、鳴尾教会は訴訟の対応のために、大きな経済的打撃を受けた。

杉本がかつて筆者に「相談している弁護士名を明かせ」とか、「あなたから私を訴えなさい」などという脅しのメールを送りつけて来た時も、同じように、杉本は、筆者に弁護士を雇わせることで、経済的損失を与えようとしていたのである。

彼らは、諸教会や信徒を混乱に陥れ、教会や信者たちに濡れ衣を着せて、彼らが弁護士を雇わなければ、対応できないようなトラブルを発生させて、大きな経済的負担を背負わせ、教会や信者たちの名誉を傷つけ、信徒数を現象させて、キリスト教の評判を貶めることを目的に、活動して来たのである。
 
唐沢治もこれと同一線上に立って、「ニッポンキリスト教界」を非難し続け、嘲笑することで、諸教会にダメージを与えている。その目的は、キリスト教そのものの評判を貶め、聖書の御言葉の真実性を人々に疑わせ、教会と信者と、引いては神御自身に損失を与えることにある。

要するに、彼らの活動は、諸教会に打撃を与え、信者たちに心理的・経済的損失をもたらし、聖書の神の栄光を傷つけるためにこそ行われているのである。「カルトを防止する」などという美名は、ほんの表向きの看板でしかない。

そこで、いざ、彼ら自身が、訴訟に引きずり出され、社会人として、市民として、一人前の法的責任を負わなければならない段階になると、彼らは今まであれほど教会をこっぴどく罵り、非難し、償いを要求して来たことなど、すっかり忘れたかのように、詭弁を弄して、自らの責任から逃げようとするのだ。

これらの人々は大嘘つきであり、本質的に、教会の敵、クリスチャンの敵、聖書の福音の敵、反キリストの精神に導かれる者たちである。だからこそ、彼らは信者を訴えては、公開裁判に引きずり出し、中世の魔女狩りの再現を願い続けているのである。

村上がいかに唐沢治の陳述書を公開した記事の内容を、都合よく書き換えて来たかについては、5月13日の筆者および村上密のブログおよび杉本徳久および工作員読者らの動きにもまとめておいたが、このPDFファイルとは別に、以下にも、記事本文にざっくり記しておきたい。

村上密の卑劣な記事の書き換えは、これまで再三、再四、行われて来た。村上は、まず判決言い渡し後、4月に筆者の著作者人格権を侵害する記事を投稿した上、筆者からの批判を受けると、権利侵害がなかったかのように、記事内容を書き換え、さらに、その次には、筆者を刑事告訴したなどという記事を投稿した上、筆者から虚偽告訴罪に該当するとの抗議を受けると、すぐにその記事を削除し、さらに、「唐沢治氏の陳述書 3 」と題する記事を投稿した後、筆者がこの記事の内容が名誉毀損に該当する恐れがあると反論すると、またもや、こそこそと記事を書き換えた。

今回の村上による卑劣な書き換えの内容は次の通りである。
  
➀投稿当初の村上密の記事



②書き換え後の村上密の記事



お分かりだろうか、何の断り書きもなく、記事からは、こっそり次の2文が削除されている。

「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」
「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的根拠にはなる。」

だが、無駄なことである。この記事は、投稿された文面のまま、控訴審で不法行為の証拠として用いられる。

こうして、杉本徳久と同じように、村上密が、次から次へとトラブルを引き起こしながら、絶え間なく信者に損害を与える行動を取り、批判を受けると、うわべだけこそこそ修正し、何事もなかったかのように見せかけながら、自らの責任を全くかえりみることなく、後始末を人に押しつけて、自己憐憫と自画自賛に明け暮れて来た様子が分かるだろう。

人騒がせにもほどがある。村上が、子供のように自らの行為に責任を取れない幼稚な人間であることがよく分かる事実だ。

* * *

そして、村上が以上のような記事を投稿すると、掲示板では早速、これに触発されて、以下のように、筆者を滅茶苦茶な理屈により断罪するコメントが投稿されるのが常であった。



何と恐るべき倒錯だろうかと呆れるのみである。筆者が、裁判所を経由して強制執行に及び、差押命令が出て、正式に取立が許可され、さらに杉本が筆者のメールに返信せず、電話にも出ず、賠償金を踏み倒して逃げ回っているがゆえに、筆者がやむなく商工会議所、東京銀杏会、杉本の関係者に問い合わせを行うと予告したことを、「恐喝罪」だなどと非難するコメントが投稿されたのである。

さて、それでは恐喝罪の定義を見てみよう。

「他人を脅して財物を交付させたり、財産上不法の利益を得、または他人にこれを得させる罪(刑法249条)。恐喝とは、相手に恐怖心を抱かせ、その瑕疵(かし)ある意思(詐欺、強迫によって強いられた意思)により財産的処分行為をさせることである。」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

まず、恐喝罪では、脅しによって得ようとしている利益が 、不法の利益であることが必要なので、判決に基づき、強制執行して債務を取り立てることが、不法の利益を得ることに当てはまらないのは明白だ。
 
さらに、 Wikipediaでは「脅して」という部分の意味は、次の通り解説されている。

「恐喝罪とは、暴力や相手の公表できない弱みを握るなどして脅迫すること等で相手を畏怖させ、金銭その他の財物を脅し取ることを内容とする犯罪。刑法249条に規定されている。 」
 
筆者が電話とメールで取立を行うことでは何の権利侵害も発生しない。 何よりも、杉本自身が最初の1本を除き、電話に全く出ておらず、メールの返信も一通たりとも寄越していない以上、こうした本人への取り立てが、迷惑電話や営業妨害等が成立する余地は全くない。

また、債務者が応答しないので、知人らに接触して問い尋ねたとしても、押しかけて住居侵入罪を犯すわけでもなければ、日に無言電話を100本かけるなどして、営業妨害に及んでいるわけでもないので、いかなる罪にも当たらない。
 
もちろん、杉本は実名を公表してブログを執筆して来たため、杉本の記事が名誉毀損に問われ、判決で賠償命令が下された事実を、筆者が第三者に告げたところで、それも「公表できない弱み」を握って脅したことに当たらない。

このように、何から何まで正当な筆者の取立の権利をすべて否定してまでも、筆者が杉本に対して賠償金の取立を行うことを「恐喝未遂罪」などと非難したい匿名のコメント者がいるのである。

しかし、こうしたコメントの方が、まさに筆者に対する恐るべき権利侵害だと言える。
 
このようなことをしてまで、この人々が杉本に賠償金を支払わないよう勧めるのは、なぜなのか? 

それはやはり、彼らが初めから教会を罪に定め、信者を罪に定め、教会に打撃を与え、聖書の神を否定する目的で活動しているからである。

彼らが信者に賠償金を払うことは、教会を富ませる結果になるから、やりたくないのである。

しかし、法的拘束力を持った判決にさえ公然と逆らうことを正当化する彼らの理屈は、まさにすべてが「さかさま」であることがよく分かる。

そこでは、正しい人が罪に定められ、罪人が聖人とされる。

根本的に狂ったこのさかさまの世界観は、彼らが聖書の神を否定していることから生まれる。神を否定した唯物論だからこそ、すべてがこのように白黒反転して見えているのであり、その世界観に基づき、彼らはすべてを裏返しに見て、ありもしないことを主張し、その結果として、厳しく責任を問われて人生を失って行くのである。

彼らのこうした異常なものの見方が、反聖書的世界観が土台となって生まれていることは、村上の記事を一つ一つ丹念に追っていくとよく分かる。

* * *

村上密はほぼすべてのブログ記事において、自分は常に他者よりも上に立って、上から人にものを教えてやれる立場にあるかのように吹聴している。自分を誰よりも賢く、誰よりも事実がよく見えていると考えており、他者から学ぶ姿勢がない。

そのことは、村上の最新記事「故郷の春」を読んでも分かる。

一見、ほのぼのとした記事のように見えるが、結局、言いたいことは自慢話なのだと分かる。

「アカハラは2006年には環境省レッドリストに準絶滅危惧種(NT)として掲載されている。数年前沖縄ではシリケンイモリ(準絶滅危惧種NT)を見つけた。どちらの場所も人に教えるつもりはないが、生物学者で、研究している人には話の内容次第で教えるかもしれない。

村上は科学者ではない。それなのに、自分こそが動物の生態について、学者も知らない物事を知っているかのようにうそぶき、生物学者や、研究者にも、ものを教えてやれる立場にあるかのように表明している。

こうした記述を読んで、「へええ、村上先生ってすごいんですね」などと思う人は、本当に物事をきちんと自分の頭で考察できない愚かな人たちである。学者が動物の生態を観察するためにどれほどの時間を費やすか、それに比べて、全国を飛び回っている忙しい牧師である村上に、彼ら以上の情報を握ることが、どれほど困難であるか、そんなことは考えずとも分かることである。

さらに、その一つ前の記事「幻覚」を読んでみよう。

何とこの記事の中で、村上は、20年前、30年前に「幻覚」が見えていると相談しに来た信者らを引き合いに出しながら、心理学者でもなければ、脳科学者でもないのに、彼らの状態は「シャルル・ボネ症候群」に該当するのではないかなどと、根拠もない病名診断に及び、さらに次のような結論に至り着くのである。

「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。カルト問題で宗教が避けられ、茂木健一郎氏がマスコミに盛んに登場するようになって、脳科学に人々の興味が移って行った。宗教人口は今でも減少し続けている。「日本は世界で4番目の無宗教国家だ」(1)発表が出ている。」

まず最初に、自分に批判を向けて来た信者や相談者に、次々と精神異常のレッテルを貼り、信者への「病名診断」に及ぶことは、唐沢治の専売特許であったことを思い出す必要があろう。未だに「脳内空転」などというありもしない造語を使って、唐沢は自分に刃向った信者らを精神異常と決めつけて嘲笑している。

次に、唐沢の問題をさて措いても、村上の「シャルル・ボネ症候群」の理解自体がおかしい、ということが分かる。この症状については、次の記事にも説明されている通りである。

真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群 視覚障害のある高齢者に多い 」(時事メディカル 2018年9月4日)
真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群」(医療法人 裕心会 いわい中央クリニック 2018年9月10日)

まず、どちらの記事でも、村上の相談者とは異なり、シャルル・ボネ症候群に陥り、幻覚を見ている人は「本人は,自分が幻を見ていると認識しています。」、「本人は戸惑い「自分はおかしくなったのか?」と一人悩むケースも少なくない。」と記されているように、はっきりと、自分は幻覚を見ているのであって、見ているものが現実ではないことを認識している。

だから、村上が記事で挙げているケース「「度々、夜になると部屋の中で若い男性たちがが来て、座り込むの困る。」(20年前の相談者A)「度々、引き出しの中から知らない動物が飛び出て、部屋の中を走り回るので困る。」(30年前の相談者B)ふたりとも見たように話されるが見ているものは存在しない。と、シャルル・ボネ症候群は、全く異なる症状であることがすぐに分かる。
  
つまり、村上は「オリヴァー・サックスの『幻覚の脳科学 見てしまう人々』(大田直子訳 早川書房)を読んで、それは「シャルル・ボネ症候群」ではないかと思った。この本は2018年に発行された。20年、30年前では、この名称はまだ一般的ではなかった。」などと書くが、村上が引き合いに出している例は、シャルル・ボネ症候群ではあり得ない、ということが分かるだけである。

こうして、村上は手前勝手な理屈を駆使して、研究者でも科学者でもないのに、自分の相談者たちに偽りの「病名診断」に及んだ挙句、さらに「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などと、驚愕の結論に至り着く。何と、宗教が幻覚の原因であるかのように、唐突に話が結びつけられるのである。

果たして、村上が引用しているオリヴァー・サックスの著書が、そんな結論に本当に読者を導いているのかを実際に確かめるために、 本の要約サイトを覗いてみた。すると、脳神経科医である著者は、村上の提示した結論とは、真逆の結論を述べていたことが発覚した。

「つまり幻覚とは、心の病やスピリチュアルな存在からのお告げなどではない。脳がなんらかのきっかけで、いつもと異なるはたらきをした結果というのが、著者オリヴァー・サックスの一貫した見解なのである。

映画にもなった『レナードの朝』をはじめ、脳神経科医らしい鋭い観察眼とヒューマニズムあふれる筆致で多くのベストセラーを著し、2015年に没したサックス氏。同氏の生前最後の著作が本書だ。医師として、また作家として「人間のありようの根幹」を追い求めた同氏の集大成といえるのではないだろうか。」幻覚の脳科学 見てしまう人びと

つまり、オリヴァー・サックスは、幻覚は、断じて精神病や宗教のお告げなどではなく、脳の異常に由来すると指摘しているのである。それなのに、村上はこの著書の結論を勝手に真逆に読み換えて、「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などというトンデモない結論を提示する。

こうして、村上は、巧みに宗教全般を「人間を狂わせるもの」と思わせる方向へ話を誘導し、自分自身がキリスト教の牧師を名乗っているにも関わらず、日本は世界で4番目の無宗教国だなどという統計を提示、まるで「ああ、だから、宗教なんて信じる方が馬鹿なんだ」と言いたげな結論で記事を終えている。

これはどういうことなのだろうか。なぜキリスト教の牧師を名乗る人間が、こんな記事を書くのか。

筆者はこの記事を読んで、かつてカルト被害者の一人が、話してくれたことを思い出した。村上の娘は、かねてより父親の牧会する京都教会を毛嫌いし、村上のもとに相談に訪れる信者たちを「理由(わけ)ありの人」と呼んで軽蔑していたというのである。「牧師の娘にも関わらず、信者を侮蔑するなんて、家庭でどういう教育を施したら、ああいう風になるのか」と、被害者は憤っていた。

そして、村上の娘婿は、前にも述べた通り、教会からリフォームの仕事を回してもらったにも関わらず、事業がうまくいかなかったのか、不明な理由で自殺を遂げている。

村上の発言から見えて来るのは、カルト被害者の指摘の通り、村上が、自分は牧師であるにも関わらず、「宗教なんか信じるから、幻覚が見えるようになったりして、精神を病んで行くのだ」などと、幻覚を見たという相談者の例を無限大にまで拡大しながら、宗教そのものを蔑視し、あるいは断罪し、信者たちを蔑視し、異常者扱いするような結論を記事で示唆していることである。

だが、実際には、何十年も前に見聞きした、シャルル・ボネ症候群に相当しない相談者を、あたかもこの病名に当てはまる患者であるがごとく、根拠もなく断定したり、オリヴァー・サックスの著書が全く述べてもいない結論を、まことしやかに著書の結論であるかのように提示したり、無いものをあるように「見てしまっている」のは、村上自身ではないのか?

ここに筆者は、キリスト教を敵に回すことの恐ろしさがある、と思う。前々からずっと述べている通り、 主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」のであって、宗教が精神的な病の根源なのではなく、むしろ、逆に、神を畏れないことこそ、精神崩壊の始まりなのである。

それなのに、村上は聖書とは真逆の結論を述べて、神など信じるから、人は精神異常に陥るのだと言いたげな結論へ読者をいざなう。

だが、聖書の御言葉を知ってさえいれば、村上がこの記事で最も述べたい結論は、要するに、聖書とは真逆の唯物論なのだということが分かる。

なぜなら、聖書は言うからだ、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(へブライ11:3)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)

聖書は、この世界は、見えるものからではなく、見えないもの(神の言葉)から出来ていると言う。そして、見えるものではなく、見えないものこそ、すべての根源であって、永遠に続くものであると教える。そのような聖書的世界観は、村上から見れば、まさにないものを「見てしまう」という、「精神を病んだ人々」として、蔑視の対象にしかならないのであろう。

ところが、現実は真逆であり、神を畏れ、尊ぶ人たちは、まっとうな生き方をするのに、宗教を侮蔑し、神を畏れない人間、そして、諸教会を断罪しては、信者同士を争わせ、神の教会を侮蔑してはばからない村上たちの活動の支持者らは、どういうわけか、自分は正しいと言い張りながら、判決に逆らって、賠償金を踏み倒したり、あるいは不明な理由で自殺に至ったり、刑事事件で訴えられたり、人権侵害の記事を書き連ねながら、全く反省がなかったりするのである。

神の教会を冒涜し、あらゆる宗教を敵視し、見えるものの根源は見えないものにあるという霊的法則性を否定して、見えるものこそすべての根源であるかのように主張するこの人たちが、彼らの論とは裏腹に、自分たちこそ、精神異常に落ちかかっている様子が見えて来る。
 
そこで、私たちは、村上がすべての宗教に「害悪や、病をもたらすもの」、「胡散臭いもの」、「カルト的なもの」、「悪」というイメージを植えつけようとして、根も葉もない虚偽のプロパガンダを言い広め、キリスト教のイメージを貶めようとしていることを十分に理解した上で、これを鵜呑みにしないように、警戒しなければならない。そして、牧師であるにも関わらず、このような記事を書く人間は、決して、真実なキリスト教徒ではあり得ず、まともな牧師でもあり得ないという結論も、おのずと見えて来よう。

つまり、村上は、聖書66巻が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定した杉本徳久と同様に、偽牧師であり、偽教師であり、偽クリスチャンであり、要するに、反キリストの精神に導かれる人間だということが分かるのである。

ちなみに、筆者は、物事のうわべのありようではなく、その本質を見ている。そして、クリスチャンには、聖書に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあながたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)と記されている通り、御霊によって、将来的に起こることをも、ある程度、予知する力が備わっている。

たとえば、以前にも書いた通り、筆者が2010年に杉本徳久をラスコーリニコフになぞらえ、カルト被害者救済活動が不法行為の温床になっていると記事で警告したときには、まだ明白な不法行為と言えるものは明らかになっておらず、杉本が犯罪行為に問われていたわけでもなかった。

しかし、その後、物事は筆者の予想した通りの展開を辿り、杉本は今やラスコーリニコフからそう遠くない地点に立っている。さらに、筆者が昨年、仮処分の申立てを杉本・村上・唐沢の3名に対して提起したとき(これは一部訴訟に転じる予定で取り下げている)、筆者はこの訴えの中で、3人が共謀しているなどとは全く主張していなかったが(3者の行動にそれぞれ接点があったため、3者を債務者として同時に申立を出した)、1年後にはほとんどそれに近い状況が出来上がっている。

 唐沢などは、自分たちに共謀関係などあるはずがないと、筆者の論を嘲笑っていたが、今、村上が唐沢治の陳述書を公開している有様を見ても、その当時いはなかったネットワークが、今、出来上がっている様子が分かるのである。

こうしたことも、筆者が約1年前にほぼ確実な未来予測をしていたことを示している。

とはいえ、これは筆者自身の予知能力などではなく、何ら不思議な現象でもなく、彼らの活動が本質的に聖書に反するものであることを理解すれば、遅かれ早かれ、この人たちが聖徒らを迫害する目的で、手を結ぶに至るであろうことも、十分に予測しうるのである。

誰であろうと、物事の本質をきちんと見極めれば、将来的にどのように事態が展開するか、実際にその出来事が起きるよりも前に、一定程度、予測できる。

つまり、これは無いものが「見えてしまう」という幻覚の類とは全く異なる事柄なのである。信仰を持たない人々が、いかに否定したとしても、世界は、厳然たる霊的な法則性によって造られており、また、それに従って動いており、その法則は、物理法則と同じくらいに変わらないものである(正確には物理法則を超える)ので、ある人の思想を緻密に分析すれば、その人がどういう人生の最期を迎えるかまで、大体分かってしまうのである。

だから、筆者には、村上も、杉本も、唐沢も、決して平和な人生の終わりを迎えないであろうことが予想できる。KFCは特に、地上のエルサレムの崩壊や、マサダの集団自決などを彷彿とさせるような、ひどい最期を遂げるだろうと予想している。

* * *

掲示板でも引用されていたが、唐沢は記事「最期で分かる男の価値-いかに地上を去るべきか- 」の中で、このようなことを述べていた、「われわれは思索によって生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。その言葉こそが究極の存在であり、いのちの実体なのだ。で、唐突だが、男の死に方。」

この冒頭を読んだだけで、クリスチャンには、何かがおかしい、ということが分かるだろう。「いのちの実体」を語っているはずが、唐突に「死」へ話が結びつけられる。しかも、その間に、復活がない。そもそも、復活という概念が、一度も出て来ないまま、生と死とが結び付けられるだけで話が終わっているのである。

このような世界観を、グノーシス主義的な対極の概念の融合という。「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」なるウロボロスの輪というシンボルに象徴される、初めも終わりもない永遠の循環の概念である。

この循環の概念については、過去に三島由紀夫の映画の分析記事(「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤」)などで詳しく記した。

実際、唐沢が述べているものが、グノーシス主義的世界観であることは、「生と死の間は浮世狂言、脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。まともに思索したところで空理空論の無限ループ。」という記事冒頭の言葉からも分かる。
 
つまり、唐沢から見れば、世界のすべては存在しないも同然の無であり、生も死も結局は存在しない無限ループでしかなく、本質的に同一だというのである。

そして、唐沢はローマ帝国時代の殉教者たちを、神への愛のゆえに命を投げ出しても信仰の証を守り通した勇敢な信仰の先人たちとは見ずに、むしろ、殉教に死の美学としての肉体の完成を見いだそうとする。

「ローマ時代のようにライオンと戦って殉教するような華々しい場面はないとは思うが、【その時】、ブヨブヨの肉体を晒さないために、これまで鍛えてきた。葉隠にいわく、武士道とは死ぬことと見つけたり・・・。主も言われる-わたしのために魂を捨てる者はそれを得る。得ようとすれば失い、失えば得るのだから。-Jesus」

しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠の言葉が、決してキリスト教とは両立しない、むしろ、正反対の大変、危険なものの考え方であることは、記事「肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~」などで再三再四、指摘して来た。

戦前・戦中の国家神道においても、天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。などと説かれ、天皇のために死を遂げることが、「真生命の発揚」などという言葉でごまかされ、生と死とが、まるで根本的に同一であるかのように、一つの概念へと結びつけられていたのである。

こうして、対極の概念を融合する考え方は、東洋思想の基本である。そして、東洋思想は、本来的にグノーシス主義と同じであることも述べて来たのであって、これは絶対にキリスト教と混じり合うことのない異質な思想である。

というよりも、東洋思想は、それ自体が、キリスト教の「対極にあるもの」であって、キリスト教と己を合体させることで、キリスト教を堕落させることを真の目的としている教えだと言って差し支えない。
 
唐沢はまんまとその罠にはまり、キリスト教と武士道の精神をごちゃまぜにしている上、最近は、禅までも融合したらしい。一体、いくつの非聖書的な思想を無分別に取り込めば気が済むのか、唐沢の信仰は、もはやキリスト教からは遠く遠くかけ慣れた、異端のデパートのようになっている。
 
東洋思想には、復活という概念がない。死を打ち破ることのできる力は、その世界にはどこを探しても、存在しない。そこでは、物質的なものが、本質的なものとされ、一切が究極的には無である、とされる。つまり、唐沢の言葉で言えば、何もかもが「脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。」という結論に至り着くのである。むろん、人間もである。

従って、本来的に無であるものが、どういう扱いを受けようと、損失も、痛みも、発生するはずはなく、また、見えている有様は、本来的なものでなく、無こそが本来的な姿であるとされるので、この世界観にとらわれた人は、己の無なる本質を証明するために、生きているうちから、死を目指すことになる。
 
唐沢は、かつては十字架における死と復活を頻繁に語っていた。しかし、それも借り物の教義に過ぎなかったのか、今やあからさまに肉の思いは死であり、」(ローマ8:6)との御言葉が示す通り、生を語っているようでありながら、あからさまに死を語るようになっている。

苦痛を避けて、美しい人生の終わりを迎えたいなどと書いているが、彼の信奉する三島由紀夫の終わりも、ウォッチマン・ニーの終わりも、決してそんなものではなかった。

筆者は、唐沢のこうした思想を見るにつけても、彼とKFCは決して平穏な終わりを迎えないことを心から確信せざるを得ない。
 
唯物論とは、見えるものと、見えないものの秩序を逆転させて、見えるもの(物質)を見えないもの(神の御言葉)よりも重視し、神の神殿たる人間を、神ご自身以上に高く掲げる聖書に対する反逆の思想である。

それは男と女との秩序をも覆し、人自身における霊魂と肉体の秩序をも転覆し、肉体を魂や霊以上に重視し、最終的に、人間を自己破壊へと至らせる。肉体を重んじる、と言いながらも、最後は己の肉体の破壊で幕を閉じる思想である。これは決して変えられない法則性であり、数多くの人たちがこの思想の虜となって、非業の死を遂げて来た。だからこそ、それは死の美学を形成するのである。

自分たちはエロヒムだ!と豪語する唐沢は、自分たちを神々だと称して、諸教会に君臨し、教会を「ニッポンキリスト教界」と呼んで、盛んに侮蔑・罵倒することで、エクレシアを蹂躙・冒涜している。そして、自分に刃向って来た信者や、自分のもとを去った信者を呪い、断罪し、罵倒している。

だが、そうすることで、結局のところ、唐沢は、神の神殿として造られた宮である自分自身を否定・蹂躙・冒涜しているのである。

キリスト教徒の殉教は、決して肉体美の誇示のためではない。にも関わらず、唐沢は、これを信仰の完成としてではなく、肉体の完成であるかのように受けとる。そして、殉教者たちが、神を愛するがゆえに、命がけで信仰を証したのではなく、自分の肉体美を保存するために死へ赴いたかのようにとらえる。そして、自分の肉体を老いさらばえる前に保存するために、その死にならいたいと憧れている。ものの考え方としては、三島と同じである。

唐沢の考え方には、ただ見える世界だけがあって、見えない世界は存在しない。
 
だからこそ、筆者は余計に、唐沢がいかに「脳内空転的に三島のように腹を切るのもグロ。今回の西部氏の老人性鬱病と間違われるような最期もね。要するにキレイに逝きたいと思うのだ。」などと言っていても、彼の生涯の終わりは、非常に象徴的な自己破壊となり、苦痛を免れられないであろうと思うのだ。村上の愛読書がフィリップ・ヤンシーの『苦痛』であって、そこには次から次へと激痛に呻く人々が登場して来ることも、よく似ている気がする。

唐沢は、死は肉体の完成であるとして、「死の美学」を語りながら、己の肉体を破壊する方法を絶えず思いめぐらしているようにしか、筆者には見えない。死のカタログのページをめくって、どのような死に様が自分にとって良いかを絶えず思いめぐらし、絶えず死に憧れて、生を語りながら、死へと至り着かずにいられない唐沢の中に、すでに彼の最期が明白に表れていると思うのだ。

しかし、私たちは断じて、このような唯物論的「死の美学」を信奉する者ではない。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。」(ローマ8:6)
「義人は信仰によって生きる。」(ヘブル10:38)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。<略>わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:5-8)
 
私たちは、キリストと共に十字架で死んで、彼と共によみがえった者として、すでに死の脅威からは解き放たれている。とはいえ、日々、自分の十字架を負って、主の霊的死を身に帯びるからこそ、そこによみがえりの命が働き、私たちは生きる。

そういう意味では、私たちに霊的死は必要であるが、それはあくまで霊的死であって、肉体的死を目指すものではない。だから、筆者は、自分がどのように死ねば、満足を得られるのか、と、死に様を思いめぐらすようなことはない。むしろ、生きている間に、何を成し遂げれば、御心の満足になるのか、と思いめぐらし、時間を惜しんで、御国の前進のために働いている。

筆者は、キリストと共なる古き人に死んで、もはや自己満足のために生きているのではなく、筆者のために死んでよみがえって下さった方のために生きているのであるから、束の間に過ぎない地上における自分の美を保存するために、まるで自分を冷凍保存するように、死というガラスケースの中に閉じ込めようなどとは間違っても思わない。

いずれにしても、キリスト教を罪に定め、神を信じる敬虔な信者たちを「精神異常者」呼ばわりし、信仰を侮蔑し、教会を冒涜するこれらの牧師たちは、自画自賛し、信者たちを病人呼ばわりした舌の根も乾かないうちに、自分たちは、率先して、病どころか、激痛や、死を慕い求めながら、罪に罪を重ね、破滅へ向かっているのである。
 
 
<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(21)―すべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。

さて、本来ならば、筆者は「休養」していると言いたいところだが、 山のような仕事に追われ、突貫作業中だ。どれもこれも投げ出すわけにいかない重要な仕事だ。主がどのようにこれを達成させて下さるのか、信仰によって期待するのみ・・・。
 
さて、村上密に告げる。唐沢治とは早急に手を切り、杉本徳久が賠償金を支払えるよう、無利子・無期限でお金を貸してあげなさい。
 
京都教会は重大な危機を迎えている。長澤牧師もいなくなり、次には必ず、村上密も失うことになる。この教会は、やがて壊滅的な打撃を受ける。唐沢になど関わっていれば、存続さえできなくなるだろう。悪いことは言わない、今のうちに筆者の忠告を聞き入れなさい。

杉本徳久という人物は、今やフィクションのように消えかかっている。彼はすでに商工会議所も脱退しており、東京銀杏会の正会員でもないことが分かった。未だブログには偽情報が掲載されたままだが、どこからどこまでがフィクションで、何が実体なのかも分からない。 


 
このまま行くと、杉本という存在そのものが、当ブログに飲み込まれて伝説として消えるだろう。警察も、杉本には支払い能力がないとみている。筆者の目から見れば、杉本は村上のためにすべてをやった。
 
だから、村上が彼に賠償金を貸与してやり、杉本が府中支局でこれを供託しなさい。

村上が手を貸してやれば、筆者に対しても、少しくらいは良い仕事を果たしたことになろう。手続き方法を確認しておいた。ただし、本人でも確認されたい。

筆者の考えをメルヘン小説のごとく善意に期待していると嘲笑うのは勝手だが、今、ほんのわずかでも良いことをすれば、神はあなた方が苦難を受ける日に、もしかすると、それを覚えておいて下さることがあるかも知れない。

取り調べに当たっても、社会的責任は負うつもりがあるという恰好くらいはつけることができるだろう。
    
* * *

さて、筆者は、少し前に村上密の推薦図書を通して、村上の神観がどのようなものであるかを分析しようと、フィリップ・ヤンシーの二冊の著書を取り寄せた。
 
 

だが、グノーシス主義の文献を分析する時とは違い、これらの書物は、あまりにも不健全なほどに痛み苦しみにこだわっているため、読んでいるだけでめまいがし、読了できそうにもなかった。
 
ただ一つ極めて印象に残った話がある。それは、この書物の中で、ハンセン病患者のことが取り上げられていたことだ。ハンセン病者の体に変形が起きるのは、断じて潰瘍などのせいではなく、痛みの感覚がなくなることが原因だと記されていた。

つまり、ハンセン病患者は、痛みの感覚がなくなるがゆえに、自分の体を自分で防御することができなくなり、体に対する過酷な扱いをした結果、体の正常なかたちをどんどん失って行くというのである。
 
この書物は、そうした話から始まり、痛みの感覚が、人の自己防御のためにはどんなに有益なものであって、必要不可欠かという結論に読者を導きたいようであった。そして、次から次へと不幸な事故で重度の障害を負った人々や、激痛に苦しんでいる人の例を引き合いに出して来るのである。

だが、筆者は、人間の苦痛をあまりにもクローズアップしすぎているこの書物の内容に、同意することはできそうにもない。危険を告げ知らせるための信号として、痛みの感覚は必要かつ有益である。だが、絶え間のない苦痛と不自由に苦しめられる状態は、痛みのないハンセン病患者の生活の危険とは種類は違えど、それもやはり、「人のかたち」を脅かし、歪め、失わせる脅威であることは間違いない・・・。

そういう意味で、苦痛という人間の感覚を通して、神を探り究めようとするこの書物には、筆者は著しい違和感を覚える。痛み苦しみに勇敢に立ち向かっている人がいるという例話にはなっても、この書物を通して、神を知ることは難しいものと思う。しかも、同書にはほんのわずかしか、聖書の御言葉が登場もしない。

だが、筆者は、なぜ村上が、そこまで苦痛にこだわるのか、その理由を知りたいと考えて、この本を手に取った。なぜ彼らが被害者に心惹かれ、なぜ可哀想な人々を次から次へと引っ張って来ては、相談に乗り、絶え間なく彼らのためにという口実で、紛争を起こして来たのか、その理由を知りたいと思った。

なぜそんなにも苦痛が彼を引きつけるのか? その苦痛の根源にあるものは何か・・・。

とはいえ、そうした分析を行おうとしていた矢先、村上が唐沢治の陳述書を投稿した。これはまさに村上密という人物の終焉となるにふさわしい記事である。だから、村上の思想分析の仕事はおあずけだ。控訴審で名誉毀損等々の権利侵害を訴えるための理由書の作成をせねばならない。
 
ちなみに、レビ人の剣を取って、これを兄弟と呼ばれた人々に向けなければならないのは、筆者自身にとっても、つらい仕事である。

しかし、最後までその仕事は貫徹せねばならない。だから、筆者の休養はまだまだ先のことである。だが、一つだけ言えることがある。この責任の重い仕事を果たすまで、筆者はその責任から決して逃げはしないと。

筆者の休養のことなどに配慮してくれるなら、お返しに告げよう。あなたたちこそ、人間の死んだわざをやめて休みなさい。地上の働きを失っても、魂を失わないでいられるなら、その方が良い。神は何人の死も喜ばれない。だから、すべてのとがを離れ、心を翻して生きなさい。

もしかしたら、まだ悔い改めの余地が残っているかも知れない。筆者はそのために最後の呼びかけを行う。悪しき死んだわざを離れて、新しい心と新しい霊を受け、翻って生きなさいと。
 
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

* * *

さて、人はあまりにも長く苦しみ過ぎると、痛みに慣らされ、もはや苦痛を感じても、苦痛と思わないほど、痛みのセンサーが鈍磨してしまうということは、健康な人にも起きうる現象だ。

ハンセン病者は、痛みが分からなくなると、自分の体を過酷に扱い、どんどんすり減らして行ってしまう。

だが、キリストの体なるエクレシアの場合、どうなるだろうか?

体のある部分が病むと、他の部分が共に呻き、苦しむことで、互いに助け合い、命を分け合って、かばい合い、一つの体を支え、守るのである。どの部分もすり減らされて、体から切り離されたりすることがないよう、体のかたちを守るのである。

筆者は昨年の年明けごろから、当ブログを巡って起きた紛争と真正面から向き合い、解決を得るために、あらゆる犠牲を払って戦い抜くことを決意した。

しかし、訴訟を起こすに先立ち、多分、その意味を理解してくれる人は誰もいないだろうと、筆者は思った。多くの反対を受け、憎まれ、孤立することをも覚悟せねばならないだろうと。

だが、たとえ全世界がこの戦いの意味を全く理解しなかったとしても、筆者は信じている結果が出るまで、一人で戦い抜こうと覚悟を決めた。生きているうちに、理解を得られずとも構わない。ただお一人、真実なる神の目に義と認められればそれで良いではないか。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

そこで、筆者は、ただ神の正しい裁きを得るためにに、自分を投げ捨てよう、と覚悟を決めた。何もしなくとも、圧迫から逃れられるわけではないのだ。それならば、とことん向き合い、決着が着くまで、真実が何かを争おう。そうして、自分を振り返らずに進んで来た。

だが、訴えを提起すると、不思議な現象が起きた。筆者の心の内面にあったものが、徐々に外に持ち出され、他の人々に分かち合われるようになり、筆者にとてもよく似た、まるで筆者の分身のような人たちが、筆者に代わって、筆者の内面を表現するようになったのである。

筆者は彼らを見ているうちに、自分がどれほど巨大な苦しみを内に抱え、押し殺して生きて来たのかが分かった。だが、不思議なことに、それを筆者に代わって他者が表現してくれた時、もはやそれは苦しみではなくなり、慰めとなり、筆者は深い感謝と尊敬の念をその人たちに感じずにいられなかったのである。

そうして、筆者の心の最も深いところにあるものを分かち合ってくれた人々は、筆者にとって、まるで自分自身も同然となった。どうしてそのような人々を、憎んだり、非難したり、敵に回すことができようか。「我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)という御言葉が思い出される。

そうだ、彼らはもはや筆者自身なのだ。

いつの間にやら、そういう筆者自身のような人たちが、二人、三人と増えて行き、数えきれないほどまでに拡大した。
 
一体、どういうわけで、そういうことが起きたのか知らないが、全世界の人々の理解を置き去りにしてでも良いから、ただ一人、真実なる神の裁きを求めようと思った筆者には、いつの間にか、全世界の人々が、まるで自分自身のような存在として、取り戻されつつある・・・。

そして、この人々を自分自身のように思えばこそ、彼らをいつまでも苦しみの只中に留め置きたくはないのである。ただ筆者の内面を分かち合ってもらったというだけで、満足して終わりたくはない。皆で協力して敵の圧迫に立ち向かい、すべての分裂・敵対・争いを毅然と退け、互いを守り合い、いたわり合う関係を取り戻し、自由に至り着かねばならない。

聖書には、キリストのからだなる教会について、次のくだりがある。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(一コリント12:12-27)
 
ここで言及されている「苦しみ」とは、決して体の一部としての自分が、ただ自分だけを守るための自己防御のセンサーではない。

それはむしろ、互いに労り合い、共感し合い、助け合うためにこそ生まれる感覚である。

キリストの御身体には、ハンセン病者が痛みの感覚を失って、自分自身の体を過酷に扱い、体をすり減らして失って行くようなことは、起きない。なぜなら、体に危機が迫っているときに、一つの部位が痛みを感じなくなっても、他の部位がそれを感じ、体全体が、最も弱い部分が感じている痛みを、全体で共有するからである。

だが、痛みを共有するとは、決して、体全体が絶えず激痛にさいなまれ、活動もできなくなるということを意味しない。その苦しみは、全体で共有されることにより、慰めに変わる。

弱い部分が苦しめば、強い部分が、それをいたわり、弱い部分に集中してエネルギーを注ぎ込む。すると、弱さは強さで覆われ、痛みの原因が取り除かれて、苦痛が解消して行くのである。

筆者の訴えが世間に持ち出されたとき、筆者は自分より少しばかり強い人たちに、重荷を分かち合ってもらった。それによって、筆者の荷が軽くなったので、心に余裕が生まれ、その代わりに、筆者も他の人々をかばうことができるようになった。

強い者が弱い者をかばうように、時には、弱い者が強い者をかばうこともできる。

信仰を持たない人々の間でさえ、こうして重荷を担い合うことができるのであるから、キリストの御身体は、確実にそのような連帯を行うに足るのであって、それこそが、エクレシアの機能なのである。

こうしたことが分かった時、筆者はなぜキリストが十字架につけられた時、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのか、なぜステパノが群衆からの石打ちに遭って殉教する直前にも、ひざまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と叫んだのか、幾分か、理解できた気がした。

筆者は、自分自身のような誰かを、もはや一人として、敵に渡したくないのだ。人々が心傷ついて、失意に落ち込み、自分はプライドを傷つけられたという屈辱の思いから抜け出せなくなり、生涯、争いと、憎しみと、敵意の中に身を投じるところをもう見たくない。

聖書の神は、誰一人、滅びに至らせることなく、すべての人を救いに導き、そして、すべての人に、ご自分の友として御心を分かち合って欲しいと願っておられる。だから、我々はそのためにこそ、罪人らの反抗を耐え忍ばなければならない。

クリスチャンが擦り切れるほど暗唱しているあの聖句がそのことをよく物語っている。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

<略>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

自分自身のような誰か。自分の半身のような誰か。その誰かを、憎しみと敵意と怒りに引き渡し、生涯、争いの中に生きる地獄の業火に渡し、ついにはレビ人の剣で自らその者を敵として刺し通さねばならないような事態にはなりたくない。

だが、多分、筆者がそう思っている以上に、神はその人を惜しんでおられるはずである。

創世記にはこうある、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 」(創世記2:18)。そうして、神は人(男)のために、助け手として女を創造された。

だが、これはいわば、神の独り言であって、本当は、ここで言及されているのは、人間の男女のペアのことよりも、霊的な文脈における、神(キリスト)と人類(エクレシア)との関係なのだ。

つまり、神はご自分の助け手となるべく、人を創造されたのである。神は強い方であって、人間の助けなど必要としておられず、ただお一人で、栄光に満ちた存在として、何の不足もなかったはずであるにも関わらず、「独りでいるのは良くない」として、人を創造されたのである。

そうして神は、人をご自分よりも少し弱い存在として、助け手として創造された。詩編にはこうある、

「人の子は何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
 その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ダビデは驚きに満ちて言う、神よ、あなたはどうして人を創造されたのですか、と。強い者は、弱い者の助けなど必要としないはずで、強さこそ、栄光と威光の源であるはずで、弱さの中には、栄光も威光もなく、見劣りのする要素しかないはずではないか。

それなのに、なぜ神は人に栄光と威光を冠として抱かせ、御手によって造られた万物を統べ治めるという栄光ある仕事を任せられたのか。なぜ弱い人をかえりみ、懇ろに世話をし、ご自分の助け手として立たせられたのか・・・。

この詩編の箇所は、以上に挙げたキリストの体なる教会を指した聖書箇所とも響き合う。
神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ・・・
神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて・・・
体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


お気づきだろうか、キリストの体としての教会の一体性について言及されている聖書箇所の中には、神と人との関係も表現されているのである。強い者が弱い者をいたわり、見栄えのする部分が見劣りのする部分を引き立たせ、他よりも弱く、不必要に見える部分がかえって必要となり、各部分が互いに配慮し合って、喜びと悲しみを共有し、一体性としての体のかたちを保っている・・・。

これはまさにキリストとエクレシアの配偶の関係を表現したものなのである。

我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)との御言葉にも、キリストと教会の愛の関係が表されている。

つまり、神は誰からも支えられたり、助けられたりする必要のない強い方であるはずなのに、見劣りのする、見栄えのしない、必要とも思われないような弱い人間を召し出され、人の弱さをご自分の強さで覆い、人の見劣りのする部分をご自分の栄光と威光で覆われ、人がご自分と同じ思いを分かち合って、すべてのものを治めることができるよう、使命を与えられたのである。

神の強さとは、そのようにへりくだった強さであるからこそ、そして、キリストが十字架の死に至るまでも砕かれ、へりくだって、身をもって弱さを知って下さったからこそ、神の強さは、人の弱さを覆い、その命は、多くの弱い者たちを生かし、力づけ、立ち上がらせることができるのである。

それは自己充足のための強さではなく、他者をいたわり、かばうための強さである。

「そこで、あなたがたにいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ重いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

キリストが神でありながら、御自分の栄光あるかたちを捨てて、むなしい人間と同じ姿になられたこともまた、「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」という個所と響き合っている。

神は栄光ある方なのに、その栄光を、ご自分のために保存するのではなく、かえって、ご自分よりも弱く、卑しい者に、その栄光を分かち与えるために、命を投げ出されたのである。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」とは、人間のことである。そのようなものが、賞賛に値するだろうか? 誰が恰好が悪く、見苦しく、見劣りのするものに注意を払うのか?

ところが、神は人を弱さと惨めさと孤独の中に打ち捨てては置かれず、弱い人間を「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」するために、ご自分の聖なる性質を、信じる者一人一人に十字架で分かち与えられたのである。

そのようにされた目的は何か。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

神と人との敵対関係が終わり、神と人とが互いに助け合い、いたわり合う関係が回復されて、健やかな時も、病める時も、共に喜び、共に苦しみ、互いを尊ぶという、配偶の関係が回復されるためである。

神は人の創造の初めから、人をご自分の友として、すべての御思いを人に分かち合ってもらいたいと願われ、そのために人を造られたのである。

そんなことが本当にあるのかと問われるだろう。神と人とでは、あまりにも何もかも違いすぎるではないか。どうしてそこに理解が成り立ちうるのか。まして、友だとか、パートナーシップなどが成立しうるのかと。

もう一度、創世記に戻ろう。神は人を創造されるとき、ご自分のかたちに似せて創造されたとある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 」(創世記1:26-27)

ご自分のかたちに似せて、とはどういうことだろうか。

まさか人(アダム)を塵から造られ、息を吹きかけられたということだけを意味するわけではあるまい。(塵は死を象徴するものであり、アダムが最初に神から吹き込まれた霊は、永遠の命ではなかったのである。)

創世記第2章27節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」とある。

実は、ここには書かれていない、隠れた飛躍した文脈がある。それは、神がご自分にかたどって人を創造されたプロセスは、神が男と女とを創造されたプロセスに類似しているという点である。

前にも引用したが、もう一度、男から女が造られたプロセスを振り返ろう。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。
「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 」(創世記2:21-24)

これはキリストと教会の関係を暗示している。このことは霊的文脈において解釈する必要がる。

キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた。十字架につけられたとき、彼はわき腹を刺され、そこから血と水が流れ出した。

そうして、キリストの死と復活にあずかり、彼のわき腹から、そのよみがえりの命と、血潮と、水(バプテスマ)を経由して生まれて来たのが、聖なるエバ、すなわち、キリストの花嫁なる教会なのである。

つまり、最初のアダムは、予表であり、次に来るアダムが正真正銘の人であり、最初のアダムとエバの創造は予表であり、キリストとエクレシアの誕生こそ、真の意味での男女の誕生なのである。

だからこそ、キリストは聖書において、第二のアダム(最後のアダム)と呼ばれている。

「「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:45-49)

つまり、創世記において、神がご自分のかたちに似せて人を造られた、と言われるプロセスの中には、キリストの十字架を通してエクレシアが生まれたプロセスが、ある種の飛躍的な暗示によって、重ね合わされている。

そして、アダムとエバの創造よりも、後に来るもの(キリストとエクレシアの誕生)という隠れたプロットの方が、実は本物なのである。

神がアダム(男)に「命の息」を吹き入れられたことにより、アダムが「生きる者」となったように、アダム(男)から造られたエバ(女)も、神が人に命を与えられた関係と類似して、アダムに吹き込まれた命を受け継ぐ者となった。

「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 」(創世記3:20

しかし、エバが命名されたこのくだりは、アダムとエバの二人が神に背いて堕落した出来事の直後に記されている。従って、このことを見ても、この命は非常に不完全なものだったことが分かる。
 
まず、アダムが神からもらった命は、神の非受造の命ではなく、永遠性のない、天然の動物的命に過ぎない、不完全な命(魂の命)であった。
 
次に、エバは、アダムが堕落して、人類が死を免れられなくなった後で、堕落したアダムの命を受け継いで、「すべての命あるものの母」となったわけであるから、エバの持っていた命は、アダムが堕落以前に神から与えられた命よりも、もっと不完全で、劣った命であったと言うことができよう。

(おそらく、アダムとエバが創造された当初、彼らには罪がなく、死も予定されていなかったので、二人には、自分たちが死ぬ代わりに、子孫を残すことによって、命を次世代につなげるという使命もなかったものと見られる。そうした役割が付与されたのは、明らかに二人が堕落して死を免れられなくなってからのことではないかと考えられる。)

だが、第二のアダムであるキリストの命は、十字架で死を打ち破り、よみがえられた神の霊なる命であるので、これはもはやいかなる堕落に脅かされることもない、永遠性を持つものである。その聖なるよみがえりの命を、キリストは十字架においてエクレシア(教会)に付与されたのである。

そして、私たち信じる者は、地上の生まれとしては、堕落した人間の一人として、朽ちゆく「アダムの似姿」として生まれたが、信仰によって、やがて栄光あるキリストの似姿になることが約束されている。

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

こうして、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、神の聖なる性質にあずかり、キリストと共に万物をその足の下に治め、「栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。」という御言葉が実現する時が来る。

もはや私たちの「母」は、朽ちゆくアダムの命を継承するエバではない。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(ガラテヤ4:25-26)

前にも説明した通り、ハガルとは、アダムの堕落した命を受け継ぐエバと同じであって、堕落した人全体の総称である。シナイ山とは、律法を指す。

エバの命は、律法によって死に定められ、罪と死の奴隷として生きることしかできない、朽ちゆく堕落した卑しい命であったが、キリストのわき腹から生まれたエクレシア(天のエルサレム)は、キリストの死と復活にあずかり、罪と死の法則から自由にされた、聖なる永遠の命によって生かされている。

私たちはキリストを経由して、この新しい母(教会―エクレシア)に属する、キリストに属する新しい人類とされたのである。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25-27)

こうして、キリストの体なる教会は、すべての堕落から清められ、もはやその痕跡さえも残らない、完全に聖なるものとして贖われる日が来るのである。

パウロはエペソ書でそのまま続ける。

「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ人は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、我が身を養い、いたわるのです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:28-32)

だが、おかしなことである。ここで語られているのは、夫婦がどのように互いを愛し、いたわり、尊重すべきかという話なのか、それとも、キリストがどのように教会を愛されたかという話なのか、それとも、キリストの体なる教会に属する一人一人の信者(兄弟姉妹)たちがどのように互いをいたわり、愛を示すべかということなのか、この文脈からは分からない。

いや、分からないのではなく、この文脈にはそのすべてが込められている。

つまり、キリストの体なる教会は、キリストが教会を愛して命を捧げられたように、体の一部である互いの信者を愛し、尊重しなければならないということが示されているのである。その愛は、当然ながら、地上の夫婦にも適用されなければならないが、ここで言われているのは、それ以上の事柄であり、夫が妻を自分自身のように愛するように、キリストの体なる教会は、それぞれ体の一部である一人一人の信者が、互いにねぎらい、いたわり、尊重する関係になければならない、ということが言われているのである。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この御言葉に込められているのも、私たちが、堕落したアダムとエバを父母とする地上の朽ちゆく出自を離れ、キリストのわき腹から生まれた聖なる教会として、天に属する者として、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」られ、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、「天に属するその人の似姿にもなる」、すなわち、いつか贖いが完成して、キリストの栄光ある似姿にまで変えられるプロセスのことを指しているのである。

堕落のために、人に当初、予定されていた栄光ある神のかたちは失われた。痛みの感覚がなくなり、自分で自分の体をとことん傷つけても気づかないハンセン病者と同様に、罪のゆえに、自己を防御することさえできなくなって、互いに憎み合い、争い、互いを傷つけ始めた人類からは、正常な「かたち」がどんどん失われて行った。生まれながらの人類の姿には何ら、人が神の栄光あるかたちに創造されたという痕跡はない。

しかし、そのように滅びに向かっている人類を救うべく、神が人の卑しい「かたち」を取られて、地上に来られた。神が神の栄光ある「かたち」を捨てて、むなしく、卑しい人の姿を取って地上に来られたのである。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

そうして、キリストが全人類の代表として、人のすべての痛み苦しみを担って、十字架の死に赴かれ、よみがえられたからこそ、彼を信じる人は、みな彼と同じ死を経て、よみがえりの命にあずかり、創造された当初の目的を取り戻し、いや、当初の予定を超えて、「栄光ある神のかたち」、すなわち、キリストの似姿とされるのである。
 
キリストは十字架において、人々に憎まれ、弟子たちに裏切られ、父なる神に見捨てられ、ただ一人でその死を負われたが、それでも、不思議なことに、最後までただ一人で十字架を負われたわけではなく、ほんのわずかではあるが、そこに人の関与もあるのだ。
 
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカ23:26)

ここに神の「助け手」としての人類が、ほんの一瞬だけだが、イエスを見捨て、裏切る側の登場人物としてでなく、姿を見せている。十字架の贖いは、もちろん、神の側からの一方的な恵みであって、人類の自己努力による達成ではない。それは神の側から一方的に提供された贖いであって、そこに、一切、人類の手柄の入り込む余地はない。

それでも、その十字架の御業の達成の中にさえ、神はこうして不思議な形で、取るに足りない人類を参与させていたのである。

ここにも、神がご自分の喜びと悲しみ、嘆きや苦しみのすべてを、人類に友として分かち合ってもらいたいという願いが、反映しているのではないだろうか?

むろん、今日も、神は信じる者に、少しばかり、ご自分の苦しみを分かち合ってもらいたいと願っておられる。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

そう、イエスが十字架にかかられてから、少しばかり時間は経過したが、私たちは後に続く者として、彼が経験されたのと同じ戦いを戦っているのである。

もちろん、勝利はすでにカルバリで取られた。とはいえ、私たちは今日も、サタンのわざを打ち壊して後退させ、より多くの人々の魂を獲得して救いへ導くために、イエスにならって、日々、十字架の死に服し、キリストのために苦しむことが、恵みとして与えられている。

神はそうしてご自分のために、信じる人々が、喜びだけでなく、悲しみも、痛みも、苦しみも、すべての御思いを友として分かち合うことを望んでおられ、人々が御名のために耐えた労苦のことを決して忘れられることはない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正し者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

このように、神の強さとは、その強さを自己のためだけに使い、自分の強さに固執して、これを手放すことを嫌がり、その強さによって弱い者を圧倒し、弱い者を高みから見下ろして、勝ち誇るような強さではない。

むしろ、キリストはご自分が強いからこそ、徹底してへりくだり、弱い者を生かすために、死に至るまでの従順によって、父なる神への愛を人々に示されたのである。それだからこそ、夫は妻に対し、信者は信者に対し、自分が強いからと言って、その強さによって、弱い者を脅かすことなく、かえってキリストがそうされたのと同じ愛で、いたわり合い、慰め合い、補い合い、いたんだ部分をかばい、弱さを強さで覆い、互いを尊重し、仕え合い、互いを自分自身のように愛するようにと教えられたのである。

ステパノが殉教に際しても、喜びに満ちていたのは、そのようにして、自分を無にしてへりくだることこそ、他の人々を救うための鍵であることを知っていたからである。

彼は知っていたのである、自己を捨てること、それだけがキリストと同労する道であること。もしもキリストへの愛のゆえに、人々に誤解され、離反されて苦しむならば、そこには必ず深い慰めが伴うこと、必ず、それには報いがあって、損失は損失に終わらないこと、彼自身は、葬られても、他の人々がそれによって必ず命を得ることを――。

誰よりも主イエスこそ、その秘訣を知っておられた。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしのいる者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)

イエスは、神の栄光を捨てて人の姿となられ、ただ一人十字架に向かわれる時にも、ご自分の耐えておられることが、単なる損失に終わらず、その霊的死の中に、復活の命が働いて、多くの人たちに命が分け与えられる結果となることを予め知っておられた。それはイザヤ書に次のように預言されている通りである。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」 (イザヤ53:11-12)
 
 * * *

<続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(20)―悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。

・自分に不都合な信者の言動はすべて「被害妄想」として片付ける牧師たち

➀ 村上密の一家によるアッセンブリー京都教会の私物化と教会のカルト化

  
アッセンブリー京都教会(京都七條基督教会)は、事実上、村上ファミリーによって私物化され、カルト化してまっている様子が見受けられる。

一つ前の記事で筆者は、当ブログを巡る事件の一審を担当してくれた裁判官が、4月1日付で福岡へ異動になったのと同時期に、村上密のいる京都七條基督教会で短期間で主任牧師から退けられた長澤聖志牧師が、博多へ異動になったことを追記した。

この人事については、長澤牧師自身が長年執筆していた「元気です! ながさわです!!」の中で発表している。博多へ転任後は、ブログも移転した様子である。



さて、村上密が主任牧師を引退したのは2015年3月末頃のことである。村上は当時のブログ記事「残りの人生」の中で、「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。」と明言し、40代の長澤氏に主任牧師の地位を譲り、20年以上の長期的な視野に立った安定した教会運営を目指すとしていた。



このように、京都教会では、20年も先を見据えて主任牧師の交替が行われたはずが、なぜ、それからわずかたった数年で、長澤牧師が主任の地位から外され、村上の妻である恵子が主任牧師に就任する運びとなったのか、さらに、それで終わらず、なぜこの4月に、長年、村上の下で働いて来た長澤牧師が博多へ異動になったのか、村上のブログでは一切、その説明がないことは極めて奇妙に感じられる。

だが、村上の息子である渡伝道師が同教会で奉職していることを考えれば、これは要するに、ファミリー経営の企業のごとく、村上が同教会でゆくゆくは息子を主任牧師に据えて、教会を世襲制にしたいという私物化の願望が強く働いていると見られておかしくない。いずれにしても、それ以外に何らの理由も示されていないのだから、不信感を誘う人事であることは言うまでもない。
 
京都教会で起きた、村上の後継者を巡る不審な人事の動きについて、当ブログでは、繰り返し言及して来たが、それに対しては、村上本人から、筆者に対して、実に些細な問題を取り上げては揚げ足取りをするような非難の記事が発表されただけでなく、掲示板にも、村上の支持者と見られる人物が、次のような投稿をして、筆者をいわれなく非難している。

こうした投稿を見ても、事実上、この教会はカルト化の道をひた走っていると見るのが自然ではないだろうか。



ちなみに、「法人に対する殺人行為」などといった言葉は、聞いたこともない用語であるが、このような根拠も不明な用語を用いて、村上の教会を擁護するために、筆者に対する非難が行われていることに、筆者は、この教会の深いカルト化の現実を思わないわけにいかない。
 
これは「国体の変革」を試みる行為を、死罪に相当するとみなした戦前・戦中の国体思想とほとんど変わらないものと見える。要するに、牧師夫妻(一家)を神格化し、法人(教会)というものを、牧師夫妻という「現人神」を祀るための「神聖な入れ物」とみなし、京都教会をメシアを受け入れる神聖不可侵な入れ物とみなせばこそ、生まれて来る発想なのだと言えよう。

こうした記述を通して、京都教会は、牧師一家を現人神のごとく信奉し、教会全体が牧師のファミリーによって私物化されることを当然視するという重度のカルト化状態に陥っている様子が見受けられる。
 
だが、長澤牧師の転任に伴い、早速、こうした問題は、掲示板でも指摘されるようになり、当ブログで過去に指摘した、鳴尾教会において、村上の義理の父である津村昭二郎牧師と、村上密が協力して起こした、津村氏の後継牧師夫妻の事実上の追放という忌まわしい事件との類似性も指摘されている。


 
鳴尾教会で村上密と義理の父である津村昭二郎牧師がどのような形で、密室の話し合いだけで、鳴尾の後継牧師と目されていた夫妻に異動を迫ったかという事実の経緯については、「正義の仮面を被り、教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀」にまとめているため参照されたい。





 なお、掲示板でも指摘されている通り、村上は2017年4月1日付のブログ記事「京阪中央教会 異常な役員構成」 では、「民主的な教会運営を心がけしている教会は、は(ママ)三親等以内が3分の1を超えないようにしている。」と指摘している。

しかし、村上の教会では、津村昭二郎、村上密、村上恵子、村上渡と(津村かほる氏を除いたとしても)村上ファミリーだけですでに4名もの教職者がいることになり、その他、同教会に常時、奉職している牧師たちが全員で何名いるのか、ホームページには公表もされていないため、不明である。

そんな中で起きた長澤牧師夫妻の転任である。これでは、京都七條基督教会は到底、「民主的な教会運営」をしているとは言えないのは当然である。

  
 
* * *

② 一体、あなたは誰を「被害妄想」としたいんですか、村上密さん?

ちなみに、掲示板でこうした指摘がなされるようになると、当ブログには、村上支持者が不都合な記事のランキングを押し下げることを目的としての行為と見られるが、不明なアクセスが集中しただけでなく、村上自身のブログに、早速、5月6日に「被害妄想」という記事が投稿された。

ちなみに、この記事には、日時、人物、状況の特定はない。従って、この記事が何を目的として投稿されたのかは、読者に明らかではない。
 
だが、この記事に「最近、被害妄想について聞かれることが多くなった。」などと書かれていることは、あまりにも唐突でしらじらしく不自然な出だしである上、「被害妄想」や「妄想性障害」などの言葉は、村上のブログの過去記事を検索しても、過去に一度も使われたことがない事実を見ても、これが「村上用語」ではないことがすぐに分かる。

そこで、筆者は、心理学を専門に学んだわけでもない村上が、いきなりこんな心理学者めいた用語を振り回し始めたのには、必ず、他者からの影響があるはずだと推察した。そこで、この問題を解明するために、村上は唐沢治とは異なり、精神医学や心理学を学んだ学者でもないのに、なぜ一牧師としてこんな記事を投稿するのだろうという疑問を、故意に当ブログのひとこと欄に残しておいた。

そうしたところ、以下にも記す通り、その後まもなく、村上のブログには唐沢の陳述書に関する一連の記事が投稿され、村上が唐沢と水面下でやり取りしていた事実が判明したのである(唐沢からの許可がないのに、村上が唐沢の陳述書の公表に及ぶことはあり得ないと考えられるため、両者の間にやり取りがあったと理解される)。

そこで、筆者は、以上の「被害妄想」の記事は、村上が唐沢の影響を受けた上で、筆者への当てつけの意味を込めて投稿したものなのだろうと推察する。

なぜなら、筆者は一つ前の記事で、次のように書いたからである、「以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。

筆者はそこで、己の罪から目を背けたい人々は、往々にして自分の目から真実をごまかすために、事実認識そのものを歪め、現実ではないことを、現実であるかのように、あからさまに信じ込むことがあり、村上も、自己の罪から目を背けてごまかしに満ちた弁明を重ねているうちに、いずれそうなる可能性がある、ということを書いた。

なぜなら、杉本徳久にも、同様のことが起きたからである。筆者は2009年から、杉本の行為をクリスチャンにあるまじきものと主張し、2010年頃からは権利侵害であると主張して来たが、己が不法行為を認めたくなかった杉本は、常に筆者を「精神異常」と決めつけることで、筆者による罪の指摘から逃れようとして来た。
 
杉本がこれをあくまで言い逃れのための嘘と分かった上で主張していたのであれば、まだしも事態は軽く済んだかも知れないが、一審で杉本が提出した準備書面のすべてを読む限り、杉本は本気でそのように思い込んでいたと確信できる。
 
筆者はこれまで幾度も、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)という御言葉を引用しつつ、聖書のまことの神への信仰を保つことこそ、人の精神の健康の秘訣であると述べて来た。

人が己の罪を認めたくないがゆえに、嘘に嘘を重ねて自己弁明していると、そのうちいずれ、事実認識そのものが根本から歪んで、正常な判断を保てなくなって行くのである。

村上のブログ記事には、村上が自分にとって不都合な現実を見ないで済ますための多くのトリックや、ごまかしが見られるこを、筆者は、再三再四、過去の記事で指摘して来た。そのようなごまかしを重ねていれば、やがて精神にも異常をきたす可能性があるというのは当然である。

従って、村上が発表した以上の記事は、このような指摘がなされたという文脈の中で、投稿されたものであることを考えると、村上がここでまたもや白黒反転論法に陥り、「精神に異常をきたしているのは、おまえだ、ヴィオロン」との皮肉を込めてこの記事を投稿したと考えたとしても、さほど不自然ではないと言えよう。

しかし、心理学用語を使って信者に病名を診断するような行為は、村上の過去の行動には見られないものであることから、筆者は、村上以外の人間が、村上にそのような話を示唆することがない限り、以上のような記事の投稿はあり得ないと推測した。

とは言うものの、村上は病名診断のような行為を過去に行ったことはないかも知れないが、同様の考え方は、以前から保持して来たものと見られる。

なぜなら、上記した通り、村上一家による鳴尾教会の人事の私物化問題を指摘した記事でも紹介した通り、かつて津村氏の下で働いていた伝道師夫妻は、猛暑の中、クーラーが壊れた狭い部屋で過ごし、体調を崩したため、妻が流産するという出来事が起きたことを手紙で訴えている。ところが、津村氏が過酷な環境で二人を働かせていたという伝道師夫妻の悲痛な訴えに対し、村上の義理の父である津村氏は、

㉚ なぜ、クーラーが故障していることを牧師に言わなかったのか。これは被害者意識の強い文章ではないか。

と指摘していた。これに対し、筆者は、

「被害者意識の強い文章だ」という津村氏の弁明には呆れて笑ってしまう。しかも、これはプロテスタントのキリスト教界の牧師たちの不祥事を告発し、教会のカルト化を憂い、被害者となった信徒らを「救済する」という名目で、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている村上密氏の義理の父の言葉なのである。

 これが、カルト被害者を救済すると言っている人たちにふさわしい言葉なのであろうか。他の牧師たちの悪事だけは厳しく告発しておきながら、いざ自分たちの冷淡さが咎められる段階になると、たちまちそれを他人の被害妄想だと言い訳して、無責任に逃げを決め込むつもりだろうか。そんな彼らがどうやって被害者を理解し、助け、「カルト被害者救済活動」など行えるのだろう。他人の被害者意識を否定するならば、信徒の被害者意識を利用して自らの儲けの手段とするなどナンセンスである。そんな活動はさっさとやめればいいことである。


と書いた。つまり、この頃から、村上ファミリーが、自分たちにとって不都合な事実は、「被害者意識が強い(被害妄想と言っているのとほぼ同じ)」などのレッテル貼りをしては耳を塞いで退けて来たことを指摘したのである。

掲示板では折しも、この記事が再び注目を集めていたところであるし、一つ前の記事で、筆者は、村上はよほど自分の活動の支持者たちが、掲示板で筆者一人に対して行った集団的なリンチ(権利侵害)に罪悪感を持っているのではないか、それだからこそ、サイバーカルト監視機構は実在しない、などと繰り返し否定せざるを得ないのではないかと書いた。
 
掲示板で起きた事件は、通常であれば、人を自殺に至らせていてもおかしくない出来事であるが、筆者は一審の間に、筆者のことを気遣い、紛争を解決に導いてくれる人たちに出会い、彼らを決して悲しませたくないし、負い目を負わせたくもなかったので、そうした圧迫には断固、立ち向かって、心の平安を保つ秘訣を学んだと書いた。

しかし、村上は掲示板で起きていることなど、筆者の「被害妄想」に過ぎない、と言わんとした可能性は考えられるし、そもそも筆者が村上を訴えた行為自体が「被害妄想」に過ぎないと言いたいのだろうとも推察されるし、また、筆者がキリストにあって、心の平安と喜びを保つ秘訣を知った、と書いていることが何より許せず、杉本同様に、「おまえは人格障害だ、心の平安などあるはずがない」というレッテルを貼ろうとしている可能性も、なきにしもあらずだ、と考えられる。

しかし、名指しであからさまにそのように書くと、名誉毀損に問われる可能性があるため、暗示にとどめたのではないかと。

その推測は、この記事の投稿後、村上が以下にも示す通り、ただちに「唐沢治の陳述書1~4」というブログ記事を投稿し、そこで筆者を断罪したことから、当たらずとも遠からずと言えるのではないかと見られる。つまり、「被害妄想」という記事は、筆者を断罪するための皮切りとして投稿されたと考えるのが妥当なのである。

だが、すでに述べた通り、心理学は唐沢の専門分野であることから、筆者は、村上が以上の記事を発表した背景には、最初から、唐沢の影響があるものと疑っていた。そこで、唐沢の陳述書が村上のブログから公開された事実は、まさにそれを裏づけるものであったと言えよう。
 
* * *

③ 自分に刃向う信者をみな「精神異常」と決めつける唐沢治
 
ちなみに、唐沢はこの春、杉本徳久が筆者に敗訴したことにより、過去に唐沢を偽預言者呼ばわりした記事を削除せねばならなくなったことをきっかけに、「杉本徳久氏の『現代の風景-随想 吉祥寺の森から』における事件の報告」と題していたブログ記事を、「ニュッサ&ヴィオロンに関わる事件について(2版)」と題名を書き換え、その記事の内容からも、杉本に向けた非難の言葉を削除し、改めて、唐沢治のミニストリーを批判して、唐沢の集会から離れ去った筆者とニュッサ氏、れん氏の三名をまとめて断罪するという内容に書き換えを行った。



唐沢を非難した杉本の記事が削除されたのは、筆者が杉本に勝訴したがゆえであり、筆者の手柄と言っても良いにも関わらず、唐沢が筆者には一言の感謝もなく、かえって筆者を、唐沢が告訴したKFCの元信徒と同列に並べて断罪し、杉本を無罪放免したことは、唐沢のものの見方の根本的な異常をよく示す事実であると言えよう。

ちなみに、筆者はこの記事が公表されるまで、ニュッサ氏の存在(面識はない)を伝聞によって知っていただけで、れん(ミルトス)なる女性の存在も、その女性の投稿記事のことも知らなかった。

唐沢が「ニュッサ事件」と呼んでいるKFCの元信徒の事件については、以前に書いた通りである。2010年当初、筆者は、唐沢が「密室で呪いの予言を行った」などとKFC元信徒が杉本ブログへ投稿した内容を、真実であると認める気にはなれず、唐沢を擁護していたが、その後、筆者自身が、2012年に唐沢からKFCを追放されるに当たり、鵜川夫妻と三人で「呪いの予言」と呼んで差し支えのない罵倒の言葉を浴びせられたことから、ニュッサ発言は真実だったのではないか(つまり、唐沢は虚偽告訴をした可能性がある)という強い疑いを持つようになった。

ちょうどそのような記事を筆者が投稿した頃、唐沢が前掲記事を更新し、そこで「なお、HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。 」などと記したのである。

つまり、唐沢がそう書かなければ、筆者も気づかなかったものを、唐沢は、筆者の他にも、ニュッサ発言は事実であり、「呪いの予言」はあったと認める人物が現れたことを、自らのブログで宣伝してしまったのである。
 
唐沢はここで、「ミルトスも<略>精神障害を隠れ蓑に偽りを語るべきではないであろう。 」などとして、あたかも「れん」と名乗る女性が、精神障害者であるかのように決めつけている。

筆者はこの女性のことを唐沢の記事で知り、さらに、掲示板でも彼女のブログが紹介されたので、その所在を知ったが、筆者は掲示板における誹謗中傷に他人を巻き込みたくないので、今に至るまで、彼女の詳細は知らない。

ただ一つ、直接確かめたことがあるとすれば、それは唐沢が彼女とニュッサ氏の結婚の司式をしておらず、英国キャンプに同行した他の信者のカップルの司式を行ったという事実だけである。それはかつて、KFCの元信徒が筆者に向かって、唐沢がニュッサ夫婦の司式を行ったかのような証言をしていたので、筆者はそれが事実でないことを確かめたものであった。おそらく、その信徒が筆者にこのエピソードを話してくれた際、昔のことなので、別のカップルの結婚の話を混同していたものと見られる。

さて、筆者がれん氏のブログを見る限り、彼女が心の病を患っていたのは、もうずっと昔のことであり、現在は健康そのものとなり、さらに、彼女は「破戒」したと書いている通り、宗教界を去ったようであるから、現在はキリスト教信仰を持っているかどうかも分からず、その点で、筆者とはかなり異なる歩みをしている様子が分かる。

にも関わらず、唐沢は、「HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。」などと記し、まるで彼女が筆者と歩調を合わせた人生を歩んでいるかのように書いている。
 
まるで第二のヴィオロンが出現したとでも言いたげなニュアンスを感じる記述だが、これを読むと、唐沢は、この記事の発表当時、筆者が存在も知らなかったれん氏を、まるで筆者のドッペルゲンガーか何かのようにとらえているのでは?という気さえしてならない。

というよりも、唐沢はここで、かつて精神障害を患っていたというれん氏の経歴を、筆者と意図的に混同し、さらに、そこに精神不安定になり(唐沢の用語だと「自己崩壊」した)ニュッサ氏もごちゃまぜにして、要するに、唐沢治に刃向う信徒など、みな精神障害者に決まっている、妄想性障害だ、被害妄想だ、と言いたげな決めつけを、一緒くたに行うために、あえてこのように三人を並べて印象操作に及んでいるのではないかと思われてならない。

だが、れん氏が現在、精神障害に陥っておらず、健康である以上、唐沢のそうしたトリックは成立しないし、むしろ、彼女が「呪いの予言」があったと証言している限り、唐沢の側のアリバイが崩れたと言うのが事実であろう。

ちなみに、筆者は生まれてこの方、精神科にかかったことは一度もなく、現在も、いかなる精神疾患にも陥っておらず、心理学者のカウンセリングも受けたことはない。そこで、杉本がそうしたように、医者でもなく、カルテもないのに、他者をいわれなく精神異常者と断定するような話を押し広げていれば、いずれ、そのようなことをした人間が真っ先に責任を問われるだけのことである。

証拠もないのに、そうして人を罵倒したいと願う人々がいるなら、あえてその愚行を止めるつもりは筆者にはないが、そのような都市伝説や怪談のような類の話が、訴訟で大真面目に取り上げられることはないであろうということは断言できる。むろん、ネットの読者も今日、そこまで侮られる存在ではなかろう。

* * *
 
④ 唐沢治の防衛の盾として都合よく利用され、使い捨てられる道を歩もうとする村上密

さて、こうした中で、村上が発表した一連の「唐沢治氏の陳述書1~4」の記事は、村上が一方的に唐沢の肩を持って筆者を断罪する内容となっている。

しかし、おそらく、村上がこの記事を発表した本当の動機は、ただ筆者を断罪するのみならず、長澤牧師の異動や、村上ファミリー(特に村上の息子に注目が集まる)による京都教会の私物化といった問題から、掲示板の話題を含め、読者の目を逸らすことが主たる目的であるものと見られる。

しかし、初めに断っておくと、村上はこの記事の公開によって、非常に危険な賭けに出たことになる。

まず、唐沢治という人物を、実際に知っている経験に立って、筆者が言えることは、唐沢は自分が窮地に陥ったときに、常に自分を支持する信徒などの他者を巧妙に盾のように用いて、自分だけが都合よく危機を乗り越えて来た男だということである。

唐沢はKFCの元信徒を刑事告訴した際にも、筆者に警察での証言を頼んだり、和解の呼びかけを推敲するよう依頼するなどして、筆者の手を借りて元信徒を追い込むことで、この事件を自分に有利に解決しようとした。つまり、自分が矢面に立たなくて済むように、巧妙に他人を盾にしながら立ち回って来たのである。

そうした唐沢の利己的な行動は、その後、唐沢が杉本に筆者の個人情報を渡した時にも同じように見られた。唐沢は自ら矢面に立って筆者と対立せずとも、杉本が自分に代わってその役目を都合よく果たしてくれることを見込んだ上で、あえて杉本に情報提供したのである。その結果として、杉本がその責任を負わされて敗訴に追い込まれている。

また、それ以前に坂井の裁判の時にも、唐沢はこれと同様の行動をしている。唐沢は坂井を陰ながら支援するという立場を装って、坂井の裁判を通じて、筆者の個人情報を杉本に提供させた。しかし、その裁判に坂井自身は敗れている。唐沢の「支援」は何の効き目も無かったのである。
 
このように見ると、唐沢の言い分を真に受けて、唐沢を擁護したり、協力する目的で動いて来た人間は、誰もが敗北に追い込まれるか、もしくは、欺かれて、罠に陥れられるような結果になっている様子が分かる。

そうした唐沢の行動が、今になって変化することは考えられない。筆者は最近、唐沢に対する訴訟を間もなく提起することで、唐沢の前掲記事を削除させるつもりだという意図を明らかにしたことから、そろそろ訴訟の時期が近くなって来たと考えた唐沢は、この度、この事件に一人で立ち向かうことを避けるために、今度は村上密を利用しようと考えた可能性があることを断っておく。
 
筆者から見れば、唐沢は村上よりも知的に上手であるため、そういうことは十分に起こりうる事態である。

しかし、そのような提案にまんまと乗せられたのであれば、村上は、したたかな報いを受けるだけである。ちなみに、唐沢は周知の通り、ニッポンキリスト教界に尽きせぬ憎悪を抱き、とりわけあらゆる牧師に対する憎しみを燃やし、罵倒を続けていることで有名である。

唐沢のニッポンキリスト教界の牧師に対する口汚い非難と嘲笑は、筆者と出会う前から始まっていたので、もうかれこれ15~20年くらいは続いているのではないかと見られる。その上、、今度は、村上密をもターゲットにすることにしたのかと呆れるのみである。

だが、村上も杉本を盾のように利用した趣が強いことから、そうなったとしても、自業自得と言う他ない。次の御言葉を引用するのみである。

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(二テモテ3:13-17)

唐沢はすでに東洋思想、ニューエイジ、オカルト思想とキリスト教を合体するなどして、正統な聖書の教えから完全に逸れてしまっている。その上、ニッポンキリスト教界に対する尽きせぬ憎悪を燃やし、牧師たちに対する罵りの言葉を日々、語り続けている。このような人物と提携して、誰がどうして無傷で済まされようか。

筆者はニュッサ氏の事件の際にも十分に学んだが、キリスト教徒には、まことの弁護者であられる神が着いておられるわけだから、他人の弁護という仕事は、決してやってはいけない仕事である。他人を弁護しようとすると、どうしても、人は加減が分からず、一線を超えてしまい、行き過ぎた発言を行って、過ちを犯す傾向がある。しかも、自分が庇いだてしている人間が、本当に正しい、弁護に値する人物かどうかは、神でなければ分からない。そこで、もしも弁護しようとしている人間が、悪人であった場合、その人間を弁護する者は、同じ罪に自分もあずかることになるだけなのである。

筆者がかつて唐沢のために証言した際には、筆者は故意に偽証したわけでなく、また、ニュッサ氏が書き込んだ先が、杉本ブログだったために、筆者自身も被害を受けた身であり、そういうこともあって、神は筆者を助けて下さり、さらに信徒も不起訴となった。

だが、唐沢があの時、有利な立場を保てたのは、明らかに筆者の助力があったことによる。それが今はなく、また、他の証言者も現れたわけだから、唐沢は、前よりもっと苦しい立場に立たされながら、筆者に敵対しているわけであり、唐沢には勝ち目がない。むろん、その弁護を引き受けた者も、都合よく防衛の盾とされるだけで、率先して負けて行くことになるのは避けられない。

少なくとも、自分が陥れられていることさえ分かっていない人間には、まず勝ち目はないと言えよう。筆者から見れば、唐沢の弁護は、到底、村上にできる仕事ではない。

* * *

⑤ 唐沢治の言い分を真に受けた村上密によるデマ拡散と権利侵害とそれに伴う厳しい報い
 
さて、筆者が2012年にどういう経緯でKFCを追放されたか、そこで鵜川夫妻が何を行ったのか、唐沢の陳述書にいかなる虚偽が書かれているかは、「村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。」に詳しく記したので、こちらを参照されたい。
 
村上は以上の記事を一切読むことなく、唐沢の主張した虚偽を鵜呑みにして、筆者を中傷する記事を発表した。そのようなことをすれば、一方的に唐沢の言い分を鵜呑みにして虚偽を言い広めた村上が、唐沢の分まで、その責任を控訴審で問われることになるだけである。何と愚かかつ軽率な行動であろうか。

さて、筆者は唐沢に対して将来的に記事の削除を求める訴訟を提起する意図であることを、当ブログで隠していないので、村上の書いた「唐沢治氏の陳述書 1 」には、新事実はないと言えよう。また、筆者が「神の啓示を受けた」として横浜へ転居した事実もなく、これは唐沢の作り話であることも、上記の記事に書いた。横浜案内その他についても、上記記事に通りである。

唐沢治氏の陳述書 2 」も、村上の人格権侵害の記事等と合わせれば、プライバシー権の侵害他の人権侵害が成立する可能性がある。ちなみに、「ルークさん」という言葉を、村上がわざわざ引用しているところに、筆者は村上の唐沢に対する深い嫉妬を感じざるを得ない(この頃、唐沢は杉本に対しても、村上に対しても、敵対的な立場にあったため、筆者と唐沢との親交は、村上から見て非常に忌むべき不快なものと映ったであろうことを疑わない)。

村上は愚かにも、ここで、唐沢の言い分を鵜呑みにして、筆者が坂井と「協力体制」にあったかのように思い込んでいる。しかし、筆者は当時から現在に至るまで、坂井といかなる協力もあった試しはなく、坂井とは面識も、連絡のやり取りもないまま、2012年にKFCから追放されたため、坂井との「協力」など構築される間もなく、唐沢との関わり自体が終わったのである。

従って、村上が事実でないことを根拠に、「これでヴィオロンを援護するために坂井氏が私にしつこく絡んできたことがわかった。」とか、「なぜ債権者が根拠もなく債務者Aと債務者Bの私と結びつけるのか、それはヴィオロンたちが組んだ「協力体勢(ママ)」の投影だったと思われる。」と断定していることは、筆者に対する人格権侵害と合わせれば、名誉毀損が成立する恐れが非常に高い。

ところで、 杉本徳久が2018年3月28日に送りつけて来た迷惑メールの中にも、以下の内容が書かれていたことが思い出される、「ヴィオロンさんが書かれるとそれは多くの方が読まれるわけですが、唐沢治や坂井能大らの目にも触れるわけです。ヴィオロンさんは坂井とは面識はないだろうと思いますが、あなたが別に調停を申し立てた村上密さんにも散々、嫌がらせ中傷をしてきた人物が坂井です。聞いてみたことはありませんが、村上さんもおそらく非常に迷惑を被っただろうと思われます。」

この時点で、杉本は筆者が坂井を焚き付けたなどとは主張していなかったが、その後、杉本は自分が坂井に対して起こした裁判さえも、あたかも筆者が陰で糸を引いて坂井を焚き付けたせいであるかのように主張を翻し、坂井と筆者との間に「協力関係」が存在していたかのように事実に反する決めつけを行った。
 
現在、村上は、かつての杉本と同様の見解に立って、以上の記事で、唐沢の言葉を利用しつつ、2012年から今日に至るまで、存在したこともない「協力体制」を理由に、あたかも筆者が坂井を焚き付けて、村上に対する挑発行為に及ばせたかのように断言しているのである。杉本との驚くほどの思考の類似性が見られるだけでなく、むろん、正当な根拠のないこの記述が、名誉毀損に相当する可能性があることは、繰り返す必要がない。
 
さらに、村上がここで「「協力体勢(ママ)」の投影」などとして、坂井と筆者との間の存在しない「協力体制」を根拠に、これを筆者が、債務者A、Bに「投影」して、A,B,Cの間に「協力体制」があると思い込んだかのように主張していることも、極めて不可解な独自の論理の飛躍と言う他ない。一体、これらの両者(両グループ?)の間に、何の関係があるからそのような結論に至り着くのか、さっぱり理解できない話である。(しかも、筆者は一切、A,B,Cの三者が共謀関係にあるという主張を行った事実はない。)
 
いずれにせよ、杉本と同じように、他人から吹き込まれた悪口を、見境なく信じ込んでは触れ回る愚かな人間には、相応の報いが待ち受けているだけである。
 
村上は「このヴィオロンの謝罪を信じていた唐沢氏はやがて攻撃を向ける立場になった。」などとするが、不可解な主張である。自分たちは信者の謝罪を本気にしていた分だけ馬鹿だった、信頼を裏切られ、欺かれたのだ、と言いたげな自己憐憫の思いが透けて見える。
 
だが、前掲唐沢の記事の内容を読んでも分かる通り、唐沢は、信者をあからさまに断罪したり、信者に理解できない不可解な行動を繰り返すことによって、信者を戸惑わせ、信者が罪悪感を抱いて、唐沢に対して謝罪せざるを得ないような状況を作り出すのが巧みな人間である。
 
一度でも信者から謝罪があれば、それをいついつまでも引っ張り、「あの時、あなたは謝ったんだから、このことについても、あのことについても、どうせあなたが悪いんでしょ」と、一つの謝罪を拡大解釈しながら、諸々の行動を責めるための根拠としていく。和解するためでなく、言質を取るために謝罪へ追い込むのである。そのことは、唐沢が、れん氏やニュッサ氏の謝罪のメールを「必要があれば公開する」などと告げて、脅しめいたやり方で、自己正当化の証拠として提示しようとしている態度にも、はっきり表れている。

(しかし、暴力を用いて自白させても、それが有力な証拠とならないように、心理的圧迫を与えて、何を謝っているのかすら限定されていない漠然とした謝罪を取りつけても、それが相手に非があることの有力な証拠とならないのは言うまでもない。)
 
唐沢にとって信徒からの「謝罪」は、鬼の首を取ったぞ、という証拠なのである。こういう人間には、間違っても謝罪すべきではない。しかも、村上が言及しているメールは、筆者自身が一度も公開していないもののため、当然のことながら、人格権侵害の記事と合わせれば、プライバシー権の侵害に当たるだろう。

唐沢治氏の陳述書 3 」も同様に、「土下座」などそもそもクリスチャンの習慣にはないことから、唐沢が作り話をしていることは、信者にはすぐに分かることはすでに述べた。村上はあえてそのように明々白々な事実をも否定したいようである。

KFCは開かれた集会場であり、その場には、鵜川夫妻と筆者以外の他の兄弟姉妹もいたのであって、鵜川夫妻はメッセンジャーであり、筆者はメッセンジャーでなかったわけであるから、何の権威も肩書もない平信徒の立場にあった筆者が、いかなる権限に基づき、鵜川氏に土下座を命じたり、強要することなどできようか? また、何を根拠に、鵜川夫妻がその「命令」に従う義務があるのか?

村上は牧師としてこの疑問に訴訟でどう答えるのだろうか。筆者から見れば、笑い話であるが、見ものである。

しかも、村上自身が引用している唐沢の言葉に、「ヴィオロンを追放するように迫るU夫妻に対して、債務者Cは聖書的根拠がないと言っている。」とある通り、当時、唐沢にも、筆者をKFCから追放するような理由は何一つ見当たらず、鵜川夫妻が、筆者に対して行き過ぎた主張を行っていたことは明白だったのである。

にも関わらず、村上は、唐沢の記述を鵜呑みにして「土下座」の話題を引っ張り、「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」と根拠もなく疑いを書き立て、「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的な根拠にはなる。」などとして、唐沢が筆者をKFCから追放した行為に、後付けで正当性を持たせることが可能であるかのような飛躍した論理を展開する。

このように、事実かどうかも分からない話を、想像だけで果てしなく膨らませて、自分が所属してもいないよその教会で、信者を追放する牧師を擁護するとは、村上の悪意に満ちた性格、特に、他の教会における分裂騒ぎや、裏切りや、離反の話が好きでたまらないという、異常とも言って良い嗜好をよく物語る記述ではないだろうか。

常日頃から、とことん他人の悪口が好きで、誰かを悪者にできそうな話には、正義漢ぶって、見境なく飛びつき、これを言い広めることで、達成感を得るような性格でないと、こうはならないであろうと筆者は思う。
 
つまり、これは「お互い信徒に見捨てられた哀れな牧師同士」、互いに涙を注ぎ合って、信徒の悪口を言い合って、被害者意識に溺れましょうね、ということに他ならない。
 
しかし、唐沢も「U夫妻が土下座する事件が起きました。」と書いて、(土下座の事実そのものが存在しないことは言うまでもなく)、これをあくまで鵜川夫妻の自主的土下座としていることからも分かる通り、ここには「強要罪」などという言葉を思わせる事実は、一つも口にされていない。

そのようなことが読み込める文脈ではないことは明らかであるにも関わらず、この場面に、村上が行き過ぎた想像をめぐらせて、唐沢を擁護すべく、また、鵜川夫妻を何とかして「被害者」に仕立て上げるべく、これを筆者の強要であったかのように捏造・誇張する発言をしているわけだから、その記述はただでさえ虚偽である唐沢の記述を前提に、これを想像によって膨らませて筆者の名誉を傷つける発言として、権利侵害に問われる恐れは十分にある。
 
村上が悪意により、筆者を貶める目的でこれを書いていることを、筆者は疑わないが、たとえそうでない場合にも、正体もよく分からない、信頼できない他者をかばおうとすると、行き過ぎが必ず生じて、悪人を弁護した者が、悪人よりもさらに重い罪に問われる可能性が高いのである。

そこで、クリスチャンは他者の弁護を浅はかに引き受けることは絶対にせず、そのような仕事をキリストに任せるべきだと筆者は言うのである。村上のしていることは、その点で、愚かさの極みと言えるであろう。
 
さらに村上は、「U夫妻に対して「教会の乗っ取るための工作員」と言い張る。この陳述書には債務者Cの債権者に対する性格描写が書かれてある。」などとしているが、陳述書は、そもそも性格描写を記すための書面ではない。しかも、鵜川夫妻がクーデターを起こしたことは、唐沢自身が記事にしたためているので、村上は、唐沢の自己矛盾に満ちた記述によって板挟みとなり、罠に陥れられることとなる。

さらに、村上は「債権者が横浜に転居してきた平成21年夏頃から、債務者Cとは3年数ケ月の信仰的に共に歩んだことがわかる陳述である。「同志」の関係は、第三者的には結構続いたと思える。」などと、悔し紛れのような記述を行っている。

だが、筆者から見れば、筆者は子供の頃からアッセンブリー教団にいたのであり、それに比べ、KFCで過ごした時間など、何と短かったのだろうかと思うが、村上にはそうは見えないらしい。もっと早く決裂に至らせたかったのに、3年も続いたのか、という悔しさをにじませる記述である。やはり唐沢に対する嫉妬のような思いが感じられる。

唐沢治氏の陳述書 4 」も同様で、唐沢は自分で鵜川夫妻による「クーデター」が起きたことを認めているのであるから、唐沢の主張それ自体が、自己矛盾によって成立しないものである。また、筆者は横浜に来たときに孤独感を唐沢に訴えたことなど全くないと主張しているにも関わらず、唐沢の言い分を一方的に信じ込んで嘘を記述しているわけであるから、村上はその責任も問われるだろう。

「かつては裁判を否定していたヴィオロンはこここそ自分の戦いの場であるかのごとく、準備書面の準備に多くの時間をかけている。債権者はいつ休息しているのだろうか。」
  
筆者が訴訟を起こすかどうかについて、村上はそもそも何かを言える立場にない。訴訟を起こすことは市民の権利であるが、これを否定するつもりだろうか。
  
しかも、これが昨年の一審が開かれていた間に発せられた言葉ならまだ分かるが、なぜ今、こんな言葉が出て来るのか、理解に苦しむ。何しろ、筆者は今、控訴中であって、村上に対する準備書面を書いていない。唐沢に対する訴えも、訴訟に転じるという名目で取り下げされたと、村上自身が認めているわけだから、この申立についても、準備書面の作成などなかったことになる。

それなのに、筆者が「準備書面の準備に多くの時間をかけている」かどうか、なぜ村上に分かるのか? 実におかしな話である。そもそも他人のパソコンを覗いたりでもしない限り、いかなる文書の作成に誰がいかなる時間を費やしているかなど、分かるはずもないことではないだろうか。

さらに、筆者は信仰があればこそ、他人の何倍もの仕事ができるようになると、前々から主張している。筆者の休息のことを心配するなら、そもそも村上がブログ執筆をやめることが一番の休息となる。

以上、残る部分は訴訟にて主張すれば良いが、まさしく墓穴としか言いようのない村上の記事である。どうしても、村上は軽微な罪では飽き足らず、より重い罪で自分を裁いてもらいたいらしい。
 
もしもこれらの記事が、唐沢のブログから発表されたものであれば、唐沢はあからさまな人格権侵害を犯しているわけではないので、人権侵害が成立するための要件は、少しこみいったものとなっていたであろう。しかし、村上はすでにあからさまな人格権侵害に及んでいるため、これを権利侵害として訴える前提は揃っている。

自分が控訴されている立場でありながら、このような記事を発表するとは、筆者から見れば、果てしない愚行であり、またしても唐沢に嵌められる人間が出現したというだけの笑止千万な話でしかない。今まで唐沢に関わって、さんざん負の影響を受けて来た者が、複数名乗り出ており、幸せになった信徒が見当たらないことを知りながら、なぜわざわざそんな愚行に走るのであろうか。

やはり、村上が杉本の発言を自分に都合よく利用した行為が、村上自身に報いとして跳ね返っているのであろうと言わざるを得ない。
 
もしも村上が、唐沢と組んで筆者を追い詰めれば、筆者に心理的打撃を与えられるだろうと考えているのだとすれば、それは愚かな間違いである。そもそも悪人と詐欺師がタグを組んでも、より悪に落ちて行く時間が縮まるだけで、何の勝算の見込みもない。

筆者がまことの神により頼んでおり、これらの牧師たちが、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨てている以上、彼らがどれだけの嘘を懸命にばらまいたとしても、厳しい報いが待ち受けているだけで、一切勝ち目がない。もはやそのような嘘に騙される人数も、非常に限られている。
 
それにしても、悪人と詐欺師が互いに信頼も協力もできず、自己憐憫や打算に働きかけて、互いに騙し合い、責任をなすり付け合って、互いを破滅させる形でしか、共に悪事を遂げられないというのは、実に興味深いことである。これが悪人流の「協力体制」ということなのかも知れない。
 
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いずれにしても、村上が以上のようにいきなり、唐沢の陳述書の話を持ち出したのは、長澤牧師の追放に近い転任や、村上一家による京都教会の私物化という問題を、これ以上、読者に追及されないためのスピンである可能性が高いということを何度でも断っておきたい。 

筆者が一連の記事を発表したことにより、唐沢の陳述書の問題などはほぼ終わっている。今、注目されるのは、カルト化して、現人神と化した牧師たちを祀り上げる母体となった京都教会とKFC が、これからどういう末路を辿るのかである。

これらの教会にはしたたかな報いがあるだろう。バビロンの倒壊には巻き込まれないようにせよと聖書にはあるから、左遷であろうと、追放であろうと、転任であろうと、このような忌むべき場所から遠ざけられた者は幸いであろう。