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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(3)

最後に、これまで当ブログでは、掲示板とは、グノーシス主義の「鏡」に当たるものだと主張して来た。この「鏡」とは、本質的に「虚無の深淵」であり、本体の像を盗み、これを歪んだ形で映し出し、出来損ないの贋作を大量に作り出すことによって、本体の尊厳を奪おうとする、悪意ある鏡である。

この贋作は、言い換えるならば、「なりすまし」である。グノーシス主義における神々の誕生は、「存在の流出」という概念に基づくものであって、これは被造物が神になりすますものであることも述べた。

聖書には次のくだりがある。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


この御言葉を読む限り、鏡とは、被造物である私たちであり、私たち自身が鏡のように主の栄光を反映する存在であることが分かる。

しかし、グノーシス主義はこれとは反対に、創造主である神を「鏡」と規定する。そうすると、本体(造物主)と影(被造物)との関係が逆転し、神は虚無となり、その鏡には、もろもろの被造物の姿が映し出されることになる。

結局、それは、被造物が、自分の姿を鏡に映し出し、それを指して「これが神だ!(私が神だ!)」と言っている状態を意味するのであって、それは虚無に過ぎない被造物が神になりすました世界であるため、その世界をどこまで旅しても、虚無以外のものは見いだせない。

匿名掲示板、おびただしい数のミラーサイトなどは、どこまで行っても、鏡に映った映像以外の何物でもなく、決して「本体」に巡り合うことのない世界である。しかも、その映像は、本体の性質を盗み取って出来た質の悪い模造品であり、自分では何も創造する力がなく、他人のエネルギーを吸い取り、奪い取ってしか生きられない人々の作り出した虚無の世界である。

 * * *

今ちょうどディプログラミングの問題性について書いているところです。(掲示板でおそらくカルト被害者救済活動の支持者と見られる人々の行っている)著作権侵害も、強制脱会活動の一環とみなすことができるかも知れません。

ディプログラミングというのは、米国では70~80年代に行われ、数々の民事・刑事訴追により信教の自由の侵害及び人権侵害の犯罪行為と認定されて、とうに違法となって廃れた強制脱会活動のことですが、日本ではこれが2016年になるまで、プロテスタントのキリスト教会の複数の牧師たちによって続けられて来ました。

要するに、これは「カルト問題の専門家」を自称する人々が、「カルトのマインドコントロールの被害を受けている」と勝手に決めつけた信者の「誤った宗教洗脳」を「解除」しようと、彼らを拉致したり、監禁しながら、彼らが自らの誤りを認めて「棄教」して、脱会カウンセラーにとって都合の良い考えを「正しいもの」として受け入れるまで、無理やり人権侵害を繰り返し続けながら、棄教を強要することなのです。


日本では、統一教会の信者を対象に、ディプログラミングに基づく拉致・監禁を伴う信者の強制脱会・棄教運動が行われて来たことは、すでに述べました。拉致や監禁といった人権侵害を繰り返すことで、「その考えを捨てねば、おまえをもっと苦しめてやるぞ」と圧迫を加え、ディプログラマーが自己に都合の良い「再プログラミング(再洗脳)」をその人に施すのです。

まあ、平たく言えば、拷問で自白を強要して罪を認めさせるようなものです。拷問を受け続ければ、誤った考えを持っていない人でも、いつかは降参して自分の考えを誤ったものとして捨てることになるでしょう。


米国のディプログラミングも、専門家でない人々によって行なわれていたようですが、日本はもっとそうです。たとえば、「脱会・救出カウンセラー」を名乗る村上密、ジャン・ドウゲン、パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド、これらの人々はみな専門的なカウンセラーでも臨床心理士でもない。カウンセリングは、通信教育などで学んだ程度で、大学教育で専門的に学んだわけでなく、実践的な訓練を受けていない。そうして専門家の資格を持たないまま、牧師や宣教師の立場から、カルト問題に関わるようになり、「脱会・救出カウンセラー」を名乗るようになった。いわば、自称専門家であって、真の専門家とは言い難い人たちが中心に、カルト問題を扱って来たのが日本なのです。

さらに、被害者の代理人などという立場は、もっと何者であるか、よく分かりません。私から見れば、ドッペルゲンガーとでも呼ぶべき不気味な存在で、他人の分身になることによって、その人をマインコドントロールするのに非常に都合の良い立場です。

たとえば、誰かの後見人になれば、その人の法的権利まで取り上げられますから、後見人制度を悪用する人たちもいるわけですが、代理人には権利は取り上げられないが、誰かの意思を代弁することはできるのです。


しかも、代理人が、本当にしかるべき代弁をしているならまだしも、鳴尾教会に対する裁判の時のように、代理人が信者を敗訴に導いているのであれば、いかに敗訴は、提訴した信者の責任であると言っても、信者を裁判へ焚き付けた代理人にも、「道義的責任」が生じることは、免れられないでしょう。

なぜ代理人に関する話と、主任牧師引退の話が結びついているのか、すごく分かりにくい不思議な記事ですね。代理人が、信者に訴訟を勧めても、訴訟の途中で、約束した和解を蹴って、加害者が逃亡する例もある。そういう加害者にも、真に「応分の酬い」を受けさせているのであれば、代理人には、道義的責任など生じるはずもないことですが、勝てると思った訴訟で、加害者に逃げられてしまった被害者たちは、無念を噛みしめざるを得ないでしょう。

さらに、代理人が訴訟を勧めても、信者が敗訴した場合、敗訴という不名誉な事実を覆い隠すために、加害者とみなした人間にいつまでもブログで誹謗中傷を重ねることは、不法行為でしかなく、加害者に対する「応分の報い」とは全く呼べないことは言うまでもないですね。


掲示板も、それ自体が、ドッペルゲンガー(グノーシス主義の悪意ある鏡)であり、本体を凌駕して滅ぼすための「分身」なのです。

私に対して悪意を持つ者(おそらくカルト被害者救済活動の支持者)が、ディプログラミングの手法に基づき、このブログを私が更新し続ける限り、嫌がらせをやめないぞという意思表示をしているわけなんです。

被告Aは私が異端者であるとブログにも準備書面にもあからさまに書いていましたが、掲示板の著作権侵害も、私の考えが「異端的教説」であるとみなし続ける人間が、「俺たちを批判するおまえの口を封じるまで、権利侵害に及ぶぞ」と言って加えている懲罰だと私は受け取っていますよ。


被告Bのブログが引用されて締めくくられるところを見ても、こうした権利侵害を繰り返す人間が、カルト被害者救済活動を擁護したいがためにやっているという目的は明らかではないですか? 常に被告Bに更新をリードさせておきたいから、私のブログを引きずりおろし、かつ、被告Bの記事を見せつけるために、コピペを繰り返しているのではないでしょうか。

被告Bは自らのブログで、法的措置が難しい場合には、社会的制裁として、自らのブログでカルトの疑いのある人物や団体を批判する、と書いていませんでしたか? これと同じように、もしくは、これにならって、掲示板で、カルト被害者救済活動の敵対者とみなした人物に「社会的制裁」を加えたい人たちがいるということだと私は思っています。


日本のプロテスタントの牧師らが行って来た強制脱会活動については、まだ全体が裁かれたことがなく、統一教会からは多数の批判と裁判例があり、さらに書籍も出てますが、まだまだ世間にこの問題が一般に周知されたとは言い難い状況にあります。

そこで、今回、このような運びになっていることには、運命的な巡り合わせを感じます。これまで強制脱会活動の違法性を訴えて来たのは、主に統一教会の信者でした。しかし、カルト被害者救済活動が違法であることを、キリスト教の中からも、誰かがはっきりと証明し、キリスト教徒の側からも、この運動を真に終わらせることが必要な時期に来ているのだと私は思っています。


掲示板の権利侵害は、毎回、これまで、裁判の判決などが近づくとやたら激化して来ました。この度、控訴審が始まろうとしていることが、よほど怖いのではありませんか。まあ、私としては、ネット上の嫌がらせを行っている人物を特定する材料が提供されて手がかりが増えるのは、ありがたい限りなんですが・・・。

それにしても、「応分の報いを受けている」。これはすごく怖い言葉だと思います。こういう言葉をさらっと言える人って、人間としてどうなのかと思います。私は勝訴した人物からも、賠償金を払われてないですから、加害者は応分の報いを受けていません。でも、それがかえって今の私にとっては良き効果を生んでいると思うんですよ。

これは賠償金を払わないことを正当化したり、免罪するために言うわけではありません。ただし、勝訴したからと言って、相手を完全に叩き潰すがごとく、執拗に追い続けて「応分の報い」を受けさせるなどということは、私には到底、許されてもいないことを言っているのです。


たとえば、家や土地があれば、わずかな賠償金で家を追われる事態にもなりかねないわけで。職が分かっていれば、仕事もクビになる可能性があるわけで。やろうと思えば、債務名義を片手に徹底的に相手を追い詰めることが可能なわけですし、それができるなら、そうなっていたかも知れませんが、そういう運びになっていないこと、そうなる前に各種の制止があり、かつ、控訴審も始まり、あくまで裁判所が許可した範囲でしか動かないよう道が限定されていることも、私にとっては極めて幸運であって、私が神に愛されていることの一つの証明なのです。

「応分の報い」を受けさせるって、とても怖いことです。加害者を追うのも、あくまで法的に許容された範囲で、判決に基づく強制執行くらいでとどめておかないと。鳴尾教会に対する裁判のように、敗訴した人間が、法的措置も及ばないはずの領域で、自ら相手に「社会的制裁」を加えるなどということは、絶対にやめた方がよろしい。

報復される方は神ですからね。勝っても負けても、自分自身で相手に報復した場合、その人も、悪魔と同じ報いを受けることになりかねません。


ですから、私は当ブログを巡る裁判では、一度で全部勝たなかったことも、争いが控訴審に持ち込まれて長引いていることも、私自身は何の栄光も受けていないことも、すべて神の采配と思いますよ。私には慢心するまで勝利を喜ぶ暇すらも与えられておらず、踏みつけられ、苦難が続いているだけなのですが、そのこと自体が、最大の防御であり、神の恵みと憐れみの証拠なのです。

そういう現状があればこそ、なおさら、一審判決は、私にとって価値ある尊いものなのですへブル人への手紙のごとく、。「まだ見ぬ約束」であればこそ、私は約束のものをはるかに仰ぎ見て、信仰によってこれを喜びを持って迎え、自分がこの地上では寄留者であって、目に見える都ではなく、見えない都を目指して歩んでいることを、尽きせぬ憧れと、誇りと、感謝を持って言い表すのです。

私たちの「応分の報い」は天にあるのです。そのことを考えれば、仮に約束のものに到達せずに死ぬことがあっても、決して恥とは思いませんね。なぜならば、天にはもっと大きな報いが待ち受けているからです。


しかも、神はいつでも私たちに必要なものを、別のルートで、すべて必要なタイミングで供給して下さいますので、苦難があれば、豊かな慰めも伴うのです。このように、判決を得ることには多くの犠牲が伴うものの、それだからこそ、なお一層、判決は尊く価値あるものと私には見えるのです。

* * *


名誉毀損により刑事告訴されたカルト被害者救済活動を率いる牧師が、ブログ記事を非開示にしたと言いながら、一部、閲覧可能なまま放置している。判決で削除を命じられた記事についてもそうだが、ブログが削除されたのか、非開示にされたのか、閲覧者が限定されただけなのかは、実に大きな違いである。

さらに記事の一部が残っていた場合、削除したことになるのか。こうした問題については、慎重な見極めが必要である。

掲示板の著作権侵害は、犯人が特定されるまで、続行された方がむしろありがたいかも知れない。終わったと思ってもまたぞろ出て来るのは、やはり特定せよという天の声とみるべきかも知れない。
 
 筆者は大々的な権利侵害のネットワークを何としても徹底追及しようとは考えていないのだが、これだけ執拗に繰り返されるのは、やはり追及せねばならない理由が存在するからではないのかと思わずにいられない。

筆者は、賠償金の回収を自分の責任として負わないこととしている。この問題には、裁判所が何らかの応答をするであろうし、それは筆者にとって、決してマイナス要因としては働かないだろう。

払おうとしなければ、払わない人間の信用が下がるだけである。一審判決を重んじない人が、何を目的として控訴するのか。二審でも自分に不利な判決が下った場合、それも無視するのかと、問われることは間違いがない。


カルト被害者救済活動を率いる牧師も、他人には謝罪と償いを要求しながら、自分自身が責められる段になると、賠償を払わないダブルスタンダードを容認するのでは、これから先、社会的信用は得られないだろう。

当ブログを巡る今回の裁判によって、カルト被害者救済活動の本質がとことん明らかになった、と筆者は考えている。この運動を今になっても正義の活動のように考えている人は、世間ではほぼ見当たらなくなったのではないか?

警察でさえ、牧師が信徒を名指しで非難するなどあり得ないと発言していた。まして告訴するなど言語道断な所業と言って差し支えない。宗教を知らない一般人から見ても、こうした牧師のしていることは異常と映っているのだ。

こうして、2009年から筆者の指摘した通りの過程を、カルト被害者救済活動は辿っている。めくらめっぽうの異端狩り、無実のキリスト教徒の粛清、魔女狩り裁判・・・。

当時から、被害者意識などに溺れていては、何も始まらないと、筆者は何度も警告している。自分には甘く、他人には厳しく、自己の責任は何も負おうとしないで、ただ他者だけを延々と責め続けるなどのことをしていれば、とんでもなく甘えた人間になって行くだけである。他人を責めるなら、なおさらのこと、自分自身も責められたとき、潔く責任を取らなくてはならない。

被害者意識、特に、神と教会に対する被害者意識は、人間を狂わせる。教会が教会に戦いをしかけ、互いに潰し合うなど、悪魔の所業としか言いようがない。

* * *

昔、学校では風紀員会などというものがあり、校則に違反したり、掃除をさぼっている生徒がいたら、先生に報告する「チクリ屋」の生徒がいましたが、カルト被害者救済活動に従事している人たちは、どこかしらそれに似ていると思いませんか。

当初から予想していたことですが、この運動は、初めは「カルト化した教会」だけを取り締まるなどと言いながら、いつの間にか、役所や、安倍政権批判をする人たちまでも「取り締まる」ようになっているようです。

自分たちは、過去の罪を反省して、清く正しく美しい生き方を目指してリハビリを重ねているという自負(実は束縛されているだけ)が、自由に生きている他者へのバッシングに向かうのでしょか。

掲示板は、役所への批判には過敏に反応しますね。(カルト被害者救済活動の支持者たちは)、自分たちは権力に勇敢に立ち向かっているかのように見せかけながら、いつの間にか、権力に迎合し、弱者や、権力になびかない変わり者をバッシングするようになったのです。私は当初からそうなるとずっと予告して来ました。

政権は自分になびかない国民を攻撃するために掲示板を都合よく利用しているともっぱらの噂です。こうした状態が続けば、いずれ宗教の枠組みを超えて、秘密警察か、隣組のような自警団だって出来かねないと思います。ディプログラミングの手法を使って、自警団のごとく集まった人々が、何の資格も知識もないのに、政権に不都合な人たちを「カルト」や「狂人」に仕立て上げるといったことも、起きかねないのです。

皇帝ネロが今風にキリスト教徒を迫害するとしたら持ち出しそうな理屈ですね。本当は何がカルトかなんて問題はどうでもよく、現政権に都合の悪い人物を迫害したいだけだとすればどうでしょう?

ところで、なぜこの時期に主任牧師引退の話など持ち出して来たと思いますか? 自分は引退なんてしていないぞと、アピールせずにいられない動機があるからでしょう。いつも権力を振りかざし、地位を誇りに思い、いつでも自分が相手よりも優位に立っていることを確認しないと気が済まないからではないでしょうか? 

こういうタイプの人は潔く引退しません。引退を求められても、しぶりにしぶり、引退したように見せかけて、陰の実権になったりして、あとを濁すのですね。どこかの教会ですでにそういう事件が起きました。そんな風に地位にしがみつくのは、自分が他人から権力を持たない無力な人間、人々の支持を失っていると見られることを何より嫌うからです。地位を誇示していないと自信が保てないのです。

すでに書いた通り、ディプログラミングに基づく強制脱会活動に携わっていた人々には、ほとんど専門家としての資格がありませんでした。無資格か、もしくは、通信教育などで学んだ程度のにわか知識で、カウンセラーを名乗っていたのです。真に専門家としての教育を受けていないからこそ、肩書や地位にこだわるのではないですか?

さらに、専門的な資格がなくても、教育訓練を受けておらずとも、代理人という立場を使えば、いくらでも他者の紛争に介入することができる。これはとても恐ろしいことです。無報酬で働いているから、非弁行為ではないというのは、表向きの弁明ではないでしょうか。弁護士のような報酬を受け取らずとも、「献金」ならば、受け取り可能だからです。謝礼金に等しいものを受け取っても、それを他の名目で献金扱いし、無報酬で働いているように見せかけることは、いくらでもできます。被害者が裁判に勝訴してから、報酬という形ではなく、「献金」を受け取れば、それは表向きには成功報酬とはなりません。

しかし、そんな問題は放っておきましょう。私はこういう生き方とは真逆の道を行きます。常にダビデの石つぶて以外には何も持たない無名の市民として、徒党を組まず、権力にすがらず、地位をふりかざさず、富をひけらかさず、自分の手で敵に報復せず、困難な道を行き、裁きは神に委ねます。「応分の報い」を自分から要求しますまい。でも、そうしていれば、必ず、神はその人を高く上げて下さる時が来るのですよ。これは本当のことです。自分で自分を高める人は低くされ、自分を低くする者が高くされる。これが聖書の原則です。

私が神に愛されていると信じられるのは、慢心するよりも前にしたたかに打たれるからです。ひっきりなしの苦難が降りかかり、勝利さえ束の間にしか喜べないのは何のためでしょう? 訓練のためです。そうして十字架を絶え間なく負わなければ、人間というものは、必ず自己過信に陥るのです。それは誰しも同じです。次から次へと好ましい事件だけが起きて、何もかもが順風の時は、人間は必ず慢心します。勝訴も人を高ぶらせるきっかけになります。そういうことが許されない環境を、自分自身が作らなければならないと同時に、主が采配されるのです。

だから、私には勝訴しても、手柄も無ければ報いもなく、誰かがそれを共に喜ぶわけでなく、喜んでくれるはずだった友までも離反し、もう一方の被告からは敗訴だとさんざん踏みつけられ、賠償金は支払われず、取立もむなしく非難されるばかりで、相も変わらず、疑われ、讒言され、迫害を受け続けているのですが、それは、私が打ち立てる勝利は、私のためではなく、主に栄光が帰されるものでなくてはならないからです。そうなった時に、初めて勝利が確立するからなのです。

ダビデが、勇士の部下たちが敵陣で彼のために取って来た水を、自分では飲まず、神に捧げたのと同じですね。その域に達すれば、戦いは完全に終わります。

神は私が自分のための利益と栄光を求めているのか、それとも、主の栄光を求めているのか、どちらなのかをご覧になっておられます。そこで、私が誤った道へ迷い込む前に、適宜、警告や制止や軌道修正がなされることは、私は恵みであると思っています。一番怖いのは、人前に徹底的に踏みにじられて、自己の栄光や誇りを傷つけられることではないのです。むしろ、高ぶりと自己過信に陥り、自分を誇大に見せかけて、嘘に嘘を重ねる生き方から後戻りできなくなることなのです。

ですから、そのような誤りに陥るよりは、恥をこうむっていた方がまだましでしょう。人には何が自己から来るもので、何がそうでないのか、自分で見分けることはできず、神だけがその違いをご存じで、神はこれを切り分けることができます。だから、人は、御言葉の剣に身を委ね、その手術を甘んじて受けねばならないのです。そうして人は、神の力強い御手の下でへりくだらされ、自分自身を練られ、訓練されることが必要なのです。

でも、ふさわしい時が来ればすべてが成就し、嘘は跡形もなく消し去られ、自由と解放が訪れます。栄光ですら与えられます。今、確かめられているのは動機なのです。 


 * * *

さて、これを書いた後、筆者は実際に、書いた通りの出来事に遭遇した。神は大いなる方であり、約束を違わない方であり、へりくだる者を尊ばれる方である。

筆者は新しい目的を見つけたと書いた。船の右に網を降ろせば、いっぱいに収穫があると書いた。本当にそうなったのである。


正しい道を行けば、豊かな報いがある。神の国とその義とを第一として生きるならば、異邦人たちが切に願い求めているようなものは、何一つ苦労することなく与えられる。問題は世の情勢にあるのではない。我が国の情勢や、世界の情勢がどうあろうと、神は私たちの心を直接、ご覧になり、私たちの信仰による確信と願い求めに応じて働かれる。

筆者の第二の人生の始まりである。筆者のみならず、多くの人々が恩恵にあずかることを目指して、自分のためだけでない、新たな生き方の始まりである。この生き方は今後、変わらない。10年くらいのスパンで、筆者はなすべき仕事を果たすであろう。その後、真の大きな挑戦が待っている。その計画が開始したのである。

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私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(2)

ところで、当ブログを巡る訴訟で、筆者が得た最も大きな収穫の一つは、訴訟そのものに対して、また裁判官に対して、それまで持っていた印象が完全に変わったことであった。

訴訟を提起する前、筆者はADRと民事調停しか経験したことはなく、ADRでも民事調停でも、判決文は出ない。

そこで、それらの小さな紛争しか知らなかった頃の筆者にとって、裁判官や弁護士といった法律の専門家は、厭わしい紛争で束の間、やむなく関わるだけの、よそよそしく、近寄りがたい人々であって、そもそも他人の争いを糧にする職業に従事する、可能な限り、関わりたくない人たちとしか見えていなかった。

そこで、その当時の筆者には、そんな紛争の関係者のために、親切心から、読みやすい書面を提出しようなどというサービス精神は、ゼロどころかマイナスであった。筆者にとって、紛争は、可能な限り、関わるべきではないもので、関わっても、1、2回の期日でさっさと終わらせるべきで、長く時間をかけて取り組む価値などないものであった。

そこで、そのような場所に提出する書面は、とにかく審理を早く終わらせることだけを念頭に置いて、短期間で、可能な限りの主張を出し切ってしまうのが最善と見えていた。
 
筆者は当ブログを巡る訴訟が始まった最初の頃にも、可能な限り、早く審理を終えられるよう、書面を圧縮して出していたのである。

もちろん、フォントサイズは10.5以上にしようとは思わない。行間も、文字数も、最大限、一枚の紙面に詰められるだけ詰めて、書面の分量を圧縮する。できれば、期日の回数を減らしたいので、期日直前であっても、追加書面を提出するのは当然である。

それを受け取った人たちが、読みにくいと感じる方がむしろ良いのだ。誰もそんな厭わしい書面を丹念に読み続けて、この紛争を続けたいと願わない方が効果的である。世に陽気な紛争などというものがあるわけでなし、誰にも笑顔を見せる必要などない。とにかく正しい理屈が書かれてさえあればそれで良いのだ。

そういう考えが、はっきりと変わったのは、何度目かの弁論準備手続きが進められている最中のことであった。

一審を担当してくれた裁判官は、相当な時間をかけて、何度も書面を読み直す几帳面なタイプの人物であったらしく、まず筆者の訴状を読了するまでにも、約1ヶ月近くの時間が必要だと言われた。本当に1度や2度でなく、書面を読み返しているらしいことは、後になって分かった。

そこで、早くまとめて書面を提出したからと言って、早く終われるという雰囲気ではなかったため、筆者は急いでもあまり意味がないことに気づき、腰を据えて取り組まねばならないと理解した。

幸運なことに、筆者が生涯で初めて行ったこの訴訟は、そのほとんどの期日が法廷ではなく、電話会議という形でなされた。裁判官と書記官とは、筆者と同じ目線で毎回、テーブルについたので、回を重ねるうちに、筆者には、彼らが筆者のために払ってくれている労の大きさが、目に見える形ではっきりと理解できた。

電話からは、相手が飛び出して来ることはないとはいえ、こじれた紛争の最中、自分が独りぼっちでそこに置かれているのではなく、裁判所の人たちがそばにいてくれたことは、筆者まるで心の防波堤を得たように、頼もしく感じられた。

次第に、紛争がこじれたものであればあるほど、その解決に協力してくれている人たちに、敬意を払わないわけにいかなくなった。

そこで、第一審も終わりに近づく頃、筆者の心に、以前には考えたこともなかった書類の出し方に対する注意も芽生えた。

筆者は、以前にはまるで高い壁を築くように、とっつきにくい書面を作り上げ、頑なにフォントサイズも行間も文字数も変えまいとしていたそれまでの姿勢を改めた。以前には、誰に宛てて書いているのかさえ自覚がなかった書面が、人格を持った裁判官に宛てて出すラブレターのようなものだと気づいた。

被告への反論がすべてではない。被告との終わりなき議論に溺れるのは危険である。むしろ、書面は、裁判官に宛てたものだということを忘れないようにして、判断を仰ぐべき時をきちんと見極めなければならない。

人間相手の書面であるから、そこには当然、人としての思い、配慮、理念のすべてがこめられていなければならない。論理構成や法的根拠だけが重要なのではなく、自分は誰で、何を思い、どういう気持ちでその書面を書いているのか、文字には表れて来ない姿勢も、どうでも良いことではないのだ。

ようやく念願の判決を得たときには、世にこんな判決があるのかと、その分厚さに驚いた。55ページもあった。審理終結から判決までは3ヶ月間あったが、分厚いファイル4冊分にまで達した事件記録を網羅し、対立する双方の陣営の主張を比較衡量して、公平な判決を書くことは、その当時、筆者には、頼まれても、自分にはできそうにない仕事だと思わされた。

筆者はこれまで自分のためにしか書面を書いたことがなかった。何事においても、一方の当事者としてしか生きて来なかった。筆者の世界には、筆者以外の人間が、いなかったと言っても良い。束の間の訪問者はたくさんいたのだが、彼らは筆者の最も言いたい事柄を、結局、理解することができず、それに応える力をも持っていなかったため、入れかわり立ちかわりやって来たすべての人が、この事件については、何一つ理解できないまま、立ち去ることしかできなかったのである。

しかし、この訴訟を通して、筆者には初めて、自分の主張を受け止める誰かが存在することが分かった。紛争の関係者が、それまでとは違って、生きた存在として視野に入った。

そして、自分のためにではなく、他者のために書面を書く仕事が存在すること、しかも、弁護士のように一方の当事者だけを擁護するのではなく、対立する双方の言い分を考慮しつつ、当事者ではない立場から、客観的に、公平にこれを裁く仕事の意味を知らされた。

これは今までに筆者が見たことのない仕事、新しい世界、新しい分野であった。
 
筆者は、どれほど長い間、こうした世界の出現を願っていたであろうか。誰も裁く者がいないという暗闇が、どれほど絶望的に感じられたろうか。ただ当事者同士と野次馬だけが、ずっと延々と終わりなき議論を繰り広げ、いつまでも互いの要求と限界を突きつけ合いながら、見かけ倒しの譲り合いや妥協を求め合うしかない、疲れ果てる泥沼のような紛争から、どれほど救い出されたいと願って来ただろうか。
 
泥沼の争いに力強く終止符を打ち、その深い沼から筆者を引き上げてくれる存在を、どれほど長い間、待ち望んで来ただろうか。

判決は法そのものではないとはいえ、その宣言は法的拘束力を持つ。解放の宣言を手にした時、筆者は法体系へ一歩近づいたような気がした。この判決の向こうにあるもの、これを生み出した根源となるもの、筆者を真に解放する力を持っているものに、もっと近づいてみたいという気持ちが生まれた。

それはまるで何か見えない世界への招待券をもらったような具合であった。

裁判官の存在を介して、筆者が目に目えない法の世界へ向かって書き送った大量のラブレターに、片思いではなく、返事が返って来たのである。膨大な書面は、もはや筆者の独り言では終わらず、報いが与えられたのであった。

その時、筆者の周りを牢獄のように覆っていた高い壁に、ダイナマイトが撃ち込まれ、大きな穴がぶち開けられた。筆者は壁が壊れたのを見て、自分が解放されたことを知り、壁に開いた穴の隙間から、その向こうに広がっている自由な世界に目を凝らした。

今までの果てしない堂々巡りは終わったのだ。だが、壁に穴を開けた者の正体は何なのか。筆者を今、招いている世界は何なのか。筆者はどうしても知らずにおれなくなった。

裁判官が異動して去って行った後、筆者は自分が何をすべきか思案した。事件は控訴審に行った。しかし、もはや重要なのは事件だけではない。筆者に招待状を送って来た存在を見極めるために、そのあとを筆者は追いかけることにしたのである。

* * *

判決文を書くのは実際のところ、ものすごく大変だと思います。私は判決文の10倍をはるかに超える分量の書面を出しています。控訴理由書だけでも数百ページにのぼります。こうした膨大な書面をすべて網羅・整理して、わずか数ヶ月の内に一つも項目をもらさず判決を書くというのは、至難の業と思います。しかも、いくつもの事件と並行しながらその合間にこれを行うわけですから。それを考えれば、確かに判決に不備があったとしても、それは仕方がないという気はしてきますし、判決を書いてくれた裁判官を責めることなどすまいと思いますが、そうした事態が起こらないためにも、書面の出し方には気を使わなくてはいけないと思います。

訴訟を知らなかった頃は、私は弁護士も裁判官も大嫌いで、紛争など関わりたくないし、見向きもしたくないという心境しかなく、そういう場に出す書類は、とりわけ心情的にも厭わしかったので、当事者にとっての読みやすさなど全く度外視して、決して嫌がらせではないですが、ただ紙の分量が減って、送付代がかからないことだけを考え、極力、分量を圧縮して書いていたんです。当然ながら、そういうわけで、フォントサイズも小さくなるし、行間も行数もすし詰めのようになる。読みにくいことこの上ない書面になったはずですが、そんなことは完全にどうでも良く、まさかフォントサイズで不利になるはずもないし、そんなまがまがしい紛争なら最初から何も期待などできはしないと心に決めて、弁護士が大きな字で読みやすい書面を出すのを、裁判官への媚びだと内心馬鹿馬鹿しく思っていたくらいでした。

むろん、広告代理店ではありませんので、今でも、まさか書面のフォントの種類や紙面の読みやすさで媚びを売ろうとは決して思いませんが、それでも、一年近く訴訟をすれば、裁判官であろうと、被告であろうと、当事者に対する思いやりと配慮は当然、生まれて来ます。(もちろん、弁論は対決の場ですから、そこで当事者への思いやりなど公然と述べはしませんが、心情的には当然、そういう配慮は生まれるのです。)

ですから、書面の書き方も、フォントサイズも、紙面の分量も、送付にかかる料金についても、一切、以前とは考えが変わりましたね。紙と代金の節約だけを念頭に、読みにくいことをかえって自慢にするようなことは全く考えられなくなります。今回も、第一審では、エクセル表で出した記事が一つ、削除対象から漏れるという「事故」が起きましたが、あの書面の分量では、そういう事故が起きるのも、全く仕方がないことだったと思います。事件記録は分厚いファイル4冊分に達し、審理が終わった時には、ものすごい量のふせんがつけられていたのだとか・・・。それを書き上げて3日くらいで慌ただしく裁判官は関東から西日本まで異動して行きました。その間に一度だけ更正決定をお願いしましたが、それを果たす以上の時間と余力はきっとなかったでしょう。

そういう有様を見ますと、今後は、分かりやすさ、読みやすさに気を使って書面を書かねばならないと心させられます。もちろん、これは主張のレベルを落とすことを意味しないし、裁判官にはしっかりやってもらわねばなりませんよ。ミスなどあってはならないのです。でも、とりわけ、訴訟では決して、よほどの場合を除き、エクセル表で自らの主張を述べることはすまいと決意しました(笑)。訴訟はもともと文系にとっての得意分野ですから、純粋に文系のやり方で勝負するのが一番かと・・・。

当ブログの文面もそうでしょうし、私自身もそうでしょうが、「人受け」を狙って、見やすいもの、分かりやすいもの、人の目に好ましいものを作ることには、ものすごく抵抗感があるわけです。内実の伴わない、うわべの印象だけで勝負したくない。だからこそ、あえてぶっきらぼうに、近寄りがたく、理解されがたい、回りくどくて、不親切な方法を取ることがある。それが孤高の人のように見え、あるいは、高慢さであるかのように見え、誤解されやすいので、損と言えば損な性格でしょう。

しかし、そんな人でも、さすがに自分の心の最も重要な部分を開示して人と付き合うとなると、不親切な態度は改めざるを得なくなります。誰もが見向きもしたくない紛争を自分自身で提起しているのですから、それを慎重に取り扱ってくれる人たちには、当然ながら、それなりの敬意を払わないわけには行かないですし、愛着も湧きます。弁護士はともかく、裁判官が嫌いなどと自ら言うことはもはや決してありませんね。判決がどういう内容なのかは、出てみるまで分からないとしても、そして、むろん、それに異議を唱える可能性は予め100%排除はできないとしても、少なくとも、自分の心を大事に扱ってくれる人たちを粗末に扱おうとは全く思えなくなります。

そういうわけで、私が訴訟を通して学習させられた最も大きなものは、勝ち負けだけではなく、勝つためのロジックでもなく、むしろ、その内容であり、人間関係だったかも知れません。紛争そのものは人生で他にも遭遇するかも知れませんが、この訴訟には、一生忘れられないほどの重さがあったことは確かなのです。第二審は、もっとシビアに理論上の勝負になるかも知れませんが、第一審は少なくともドラマでした。目に見える判決以上の、理論以上の収穫を得たと思います。

こうした現象はおそらく書面の出し方やら紛争当事者だけにとどまらず、やがてはすべての人間関係に波及して行くでしょう。壁は崩される時が来るということです。しかし、その時、多分、世界が白黒反転し、壁を築いているのはこちら側ではなく、むしろ、あちら側であったということが分かって来ると思いますが・・・。

* * *

もちろん、世には悪徳裁判官としか言いようのない人々も存在する。高圧的だったり、不親切だったり、人を辱めるような詰問口調で話したり、強引に自分の願う解決を押しつけて来たり、果ては、証拠もないのに、印象だけで、誰かを悪者と決めつける裁判官もいないわけではない
 
筆者はそういう人たちのことまで擁護するつもりは決してない。だが、たとえそんな人たちに出会ってしまうリスクがあったとしても、それでも、やはり、筆者は訴訟を起こし、戦い抜いて、判決を得ることには価値がある、という意見を変えないつもりだ。

裁判所は市民にとっての最後の砦である。そして、筆者は、信仰者としても、神と人との前で、飽くことなく正しい裁きを求めることには、絶大な価値があると思わずにいられない。

地上の裁きは不完全であるが、それでも、筆者は地上の法廷に訴えを持ち出すことによって、神に向かって、正しい裁きをも願い求めているのである。

呼び求めれば、答えがあること、神が願い求める者たちに、正しい裁きをなして下さると信じることができなければ、誰にも訴えなど出すことなどできはしない。

そこで、世にどれほど不正な裁判官が存在していようとも、筆者は、正しい裁判官に会うという願いを捨てないであろうし、同様に、地上の裁判官をはるかに超えた、まことの裁き主である神は、私たちの叫び求めに必ず答えて下さる方であるという確信を捨てない。

ただし、誰かを訴えることには、それなりの重さが伴う。自分だけは正義であるかのように思い上がり、我がふりをかえりみることなく、他者だけを一方的に責め続ける人間とならないためには、やはり、自分自身がリスクを負って、最後まで矢面に立ち続ける覚悟が必要である。

だからこそ、筆者は、誰の代理人にもならないし、誰かに代理人になってもらおうとも思わないのだ。リスクは他の誰かに都合よく押しつけて、自分だけは矢面に立つことなく、栄光だけをせしめようと考える人たちに、チャンスを与えるつもりもない。

筆者の主張の全責任は、最後まで、筆者自身が負う。だからこそ、真剣かつ全身全霊の訴えになるのである。その覚悟と決意があって、初めて、その訴えは人を動かすものとなり、神の御心にも届くものとなるだろうと筆者は考えている。

* * *

少しつけたしておきます。ひとこと欄に書いた「膨大な資料を基に判決文を書くのは大変だ」という話ですが、悪意がない過失であれば十分に許せますが、悪意ある「事故」までは、正当化できないでしょう。これは判決であれ、決定であれ、同じですね。

やっぱり、私たちが人を赦せるかどうかの最も大きな分かれ目は、どのくらい故意性があったか、意図的なものであったか、誤りを謙虚に認めるかによるものと思いますよ。これはどんな場合の誰であれ、すべてに共通しますね。

懸命に事件を裁いてくれた裁判官は何らかの落度があったところで、責めようとは決して思いませんが、ぞんざいに事件を扱い、あからさまに高圧的で人の意見も聞かないまま、証拠もないのに一方だけを悪者にする裁判官がいれば、やはりこれは過失では済まされない・・・となるでしょう。他の人たちの場合も全く同じです。故意性のない単なる過ちはいくらでも許せますし、修正もできますが、悪意によって他人を陥れるがごとき行為は、赦そうと思っても赦せるものではありません。だから、赦す赦さないの問題以前に、まずはそうした行為があったことを公然と明るみに出すことからすべてが始まるでしょう。

私はそういう意味で厳しすぎるというか実直すぎるのかも知れませんが、裁判官であろうと、どんな有名人、権力者、企業であろうと、相手によって態度を変えるつもりは全くなく、原則は同じと思います。また、問題を明るみに出したところで、すぐにそれを認めて責任を取る人を、決してそれ以上責めるつもりもありません。まして償いをし、謝罪をした人を責め続けるようなことは酷と思います。ですから、問題を明るみに出すことで「解毒」できると分かったなら、その時点で、すべてが終わります。私はただ筋を通したいだけで、悪事を暴くことをライフワークにするつもりもありませんし、人の罪を訴えることを稼業とする人々と同じ道を行くつもりもありません。

そして、他人の問題だけに熱中するつもりもなく、まずは自分自身をきちんとかえりみ、修正すべきところは修正し、神と人との間で透明性を保てるように生きるべきと思います。自分を吟味する姿勢がないのに、他者だけを責めるのは、それ自体、とても恐ろしいことです。

そのような暴走が起きないための策としては、➀行き過ぎに陥ることがないよう、自分自身が常に主の御手によって打たれ、へりくだらせられることを拒まない。②他者を非難する際、必ず自分自身が矢面に立ち、犠牲を他人に負わせない。などのことは最低限度、必要かと思います。だから、私は他者の代理人にはなりません。もしも私の言い分に瑕疵がある場合に、決してその責任を他人が負わされずに済むようにしておくためです。このように、自分の主張の全責任が自分にふりかかるようにしておけば、下手なことはできず、失敗も許されませんから、当然ながら、行き過ぎに陥るよりも前に必要な警告を慎重に受ける姿勢が保たれます。慢心による暴走や行き過ぎは、多くの場合、周りからおだてあげられたり、担ぎ上げられたりすることによるのです。

ただし、キリストに立っていれば、失敗というものは基本的にないのです。何もかもすべてを主が覆って下さるからです。それから、私の場合は、あまりにも外見的に弱そうに見えることが一つの防御かと思います。私が本気で怒っても、取るに足らない無力な人間と思われるのか、真に受けて立ち向かって来る人の方が少ないので、感情にまかせた戦いに発展せず、まずは筋を通して地道に主張して行く以外にもともと方策がないことですね。だから、物事を訴えるのにすごく時間がかかります。しかし、その間に、数多く学ばされることがありますし、軌道修正もできます。時間がかかるだけに、極端な主張は生まれて来にくいのです。

当ブログを巡る事件は、10年近い月日を経て裁判にまでなりました。その紛争も1年を超えようとしています。膨大な証拠の積み上げと、緻密な論理構成なしに主張できないものです。一審で足りないものをさらに二審で補い、主張を補強し続けているわけです。このような根気強さできちんと物事を訴えることが、紛争解決の基本です。裏づけのない正義感やら、慢心やら、単なる非難やら、報復感情では、決してできない根気の要る作業です。感情論ですと、多分、途中で息切れになると思います。そして、感情論でないからこそ、筋を通して物事を明らかにするだけの価値があるのですね。

とにかく、本人がどれほど深く犠牲を負ったか、その事実がはっきり周囲に見えるようになれば、誰も私が感情論だけでものを言っているなど、到底、考えられなくなり、攻撃もできなくなります。私には基本的に協力者はいませんし、被害者同士の連帯などもなく、紛争に巻き込んだ人もいません。支援者も募りませんし、負うべきものは私一人が負っています。牧師が信徒を名指しで非難すること自体、世間ではあり得ない事態と見られる中、私は牧師含め複数名を、弱い立場から、一人で相手にしています。その上これだけの期間が経過していますから、遊びや悪ふざけや私怨や空想では決してできない作業ですよ。そのことは、この先、もっと明らかになるでしょう。何のためにこのようなことをするのか。それが自己の利益のためでないことは、時と共に明らかになるでしょう。

おそらくは、内心の恐怖を完全に克服した時、この紛争は朝露が光を浴びて消えるように、跡形もなく消失するのではないかという気がします。歴史としては残るでしょうが、もはや全く人の心に影響を与え得ないような領域へ追いやられるのではないでしょうかね。私は人間の生活を曇らせるもの、恐怖で脅かそうとするものをすべて排除して、神の贖いの完全性を証明するために紛争を起こしたのですよ。贖いが完全なら、私の完全な無実が証明されるはずなのです。最後の敵である死が、命にのみ込まれて消えるとは、そのことなのです。

裁判官も人間ですから不完全さや、不備も当然あると思います。人間的なプライドを持ち過ぎた人も中にはいるでしょうし、印象に流されることもないとは言えない。しかし、そういうことを考慮しても、やはり私は、裁判官に判決を求めるという行為は、神に向かって真実な裁きを求める姿勢とどこか重なるように思うのですね。重なるというより、それをやめてしまうと、踏みにじられた弱い者が、真実と正義を求める心の願いには、全く行き場がなくなってしまうことになり、私はそれだけは決してあきらめるわけにいかない願いだと思わずにいられないのです。その願いが真剣であればあるほど、裁判所という場所には敬意を持たないわけにいかないのですよ。そうして本気で正しい裁きを求める者を、神も、人も、決して無碍には扱われないと信じるわけです。ですから、地上の人間を介しつつ、神に向かって真実な裁きを呼び求めているというのが実際のところでしょう。

* * *

<続く>


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(1)

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

さて、再び著作権侵害の証拠として、ひとこと欄の文章を掲載しておこう。
 
筆者は年々、絶望的になって行くこの国の雇用情勢の中で、谷川を慕い求める鹿のように、どこへ行けば、命の泉を見いだすことができるのか探りつつ、ただ信仰によって、居場所を探し求めて来た。

前にも書いた通り、昨今、筆者が専門していた分野では、ますます搾取と排除のし合いが横行し、もはや活路を見いだせそうにもない状況となったため、筆者は新たな分野を切り開く必要に迫られた。

その時、考えたのは、残る生涯を、自分のためにだけ生きるのでなく、より多くの人の益になることをして過ごしたい、ということであった。

では、どんな目的のために身を捧げて生きるべきか?

新たな分野が存在することに気づかせてくれたのは、訴訟であった。裁判は、法というものへの尽きせぬ興味を筆者に抱かせた。訴訟を通して、新しい物事のありようを切り開くことができる。歪んだ現実を変え、失われた権利を取り戻せる。

しかし、裁判の途中で気づいたのは、現存する法そのものにも、実に多くの欠陥や不備があり、それが多くの問題を引き起こしているということであった。そのため、真に物事を是正するためには、法そのものを変えて行かねばならない場合が存在する。

戦い抜いて手にした判決は、尊い価値あるものである。だが、何とかして、もっと法体系そのものへ近付けないだろうか? 何とかしてその中へ入り込み、内側から変えて行くことができないだろうか? どうすればそれができるだろうか? 筆者の関心はそこに集まった。

法改正は、一部の代議士や、政治家たちだけの仕事ではないだろう。大臣や官僚に任せておけば良い話ではない。法律家だけがそれをやれば良いわけでもない。

社会を大きく変えて行くような画期的判決は、無名の市民たちがリスクを払って戦い抜くことで、初めて得られるのだ。だとすれば、目指している目標がどんなに遠大なものであっても、筆者の立場から、今できることが必ず存在するはずだ。

筆者は、これまで新たな政党が生まれる度に、期待しつつ公募条件を見て、常にがっかりさせられて来た。どれだけ政党が生まれようと、政治の門戸は貧しい人たちには開かれていない。「何人支援者がいますか?」、「供託金は払えますか?」、「どれだけ資金がありますか?」

そんな文言を見る度に、ああ、これではどんな候補者が立とうと、結局は同じだ・・・と筆者はいつもため息をつくのだった。なぜって、何一つ従前と変わっていないからだ!!
 
変わっているのは、舞台で踊る俳優たちの顔ぶれだけだ。それはショーなのである。人目を惹く候補者が立てられても、それは何百人ものオーディション落選者を土台に選ばれたごくわずかなうわずみのようなものである。注目を集めている複数の政治的トピックに関して、その問題を象徴してくれそうな強烈な個性の持ち主を選べばよい。

これは何かに似ている、と筆者は思う。そうだ、ペンテコステ運動の指導者たちの集会だ。TVチャンネルをつけ、あるいはインターネットの動画で、自分の好みに合いそうな指導者を選んでその説教に耳を傾ければ良い。感動的な讃美歌、心揺さぶるメッセージ、壮絶な人生の体験談・・。

筆者はリモコンを操作して、画面の前から立ち去る。去り際に、誰かが言っているのが聞こえる、「ああ、2000年前のイエスが現代に現れたようだ」と。

そんな馬鹿馬鹿しい話があるか、と筆者は心に思う。主イエスは、どんな方であったか。筆者がよく記憶している新改訳から、イザヤ書42章1~9節を引用しよう。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。

彼は叫ばず、声をあげず、
ちまたにその声を聞かせない。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。


彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、そのおしえを待ち望む。


天を造り出し、これを引き延べ、
地とその産物を押し広め、
その上の民に息を与え、
この上を歩む者に霊を授けた神なる主は
こう仰せられる。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、
あなたの手を握り、あなたを見守り、
あなたを民の契約とし、国々の光とする。

こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、
やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

わたしは主、これがわたしの名。
わたしの栄光を他の者に、
わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

先の事は、見よ、すでに起こった。
新しい事を、わたしは告げよう。
それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」


「国々に公義をもたらす」との箇所は、新共同訳では「 彼は国々の裁きを導き出す。」とある。
主イエスこそ、この地に正しい裁きを下される方である。
そして、この方は、叫ばず、巷に声を響かせない。

メガホンを持って自分の名を連呼することもなければ、怒りのメッセージを轟かせることもない。むしろ、ご自分が十字架にかけられる時でさえ、屠り場に引いて行かれる羊のように声を上げなかった方である。
声をあげることさえできない者の弱さを知っておられるからこそ、いたんだ葦を折らず、くすぶる燈心を消さず、弱った者を力づけ、倒れかかっている者を起こすことができるのである。

筆者は、 新たに登場して来る候補者の街宣に耳を傾け、これに期待しているようでは、また同じことの繰り返しでしかないと思う。
 
まやかしの、めくらましの時間稼ぎに心を奪われ、代議士になど期待を託している場合ではない。誰かが始めた政治運動に希望を託すのではなく、自分が今できることを、地に足をつけて行っていかねばならない。

動物は、自力で餌のありかを探し出し、寝床とすべき場所や、憩いの水際を探し出す。誰にも教わることなく、自分でどう生きるべきかを定める。

私たちは、信仰者であるならば、なおさらのこと、キリストの復活の命という心の羅針盤を頼りに、自分でどう進むべきかを決められるはずではないか。

誰かに道を指し示してもらうのではなく、誰かに代わりに助け手もらうのでもない。ただ主にあって、自分の内なる霊の命の只中から、自分自身の生きる力を使って、あるべき場所を見つけ、なすべき仕事を見つけることが必ずできるはずであり、そうすべきである。
  
* * *

(ひとこと欄から)

暗闇の勢力には毅然と立ち向かうのみ。今日も実に実に大きな収穫がありました。これから何を目的に目指すべきか、どこへ向かうべきか、はっきりと分かって来たのです。

やはり私は法体系に近づき、できればこれと一体化して、それを内側から変える作業に携わりたいと思うのです。 それがただの願望で終わらず、実人生と結びついて一歩一歩、前進して行く時が来ました。前々から法体系という大きなビルの地下に降りて構造を確かめていると書いていますが、それは後々これを変えるための下準備なのです。今行っている戦いも、すべてそのための予行演習です。

私が目指しているのは、現存の法を物事に適用して違反を是正し、そこから自らの利益を得ることだけではない。それ以上に、法体系(というよりもっとその根源となっている見えない秩序)そのものに限りなく近づき、これとずれなく一つとなること、そこから自分の命を汲み出すこと、また多くの人たちが命を汲み出せるようにすることなのです。

法体系は家の基礎構造のようなものです。もし屋台骨が腐れば、家が崩壊する。ですから、この基礎構造を堅固なものとし、実際にその骨組みによってあらゆる物事をきちんと支えられるようにすることが、家を安全に保つ第一の秘訣です。しかし、我が国という家にはいくつも屋台骨の腐食が見られる。土台の交換が必要となっている部分がある。

死文化した法というものが存在します。現実にはいくつもの違反があるのに、それを取り締まるための法が、ほとんど機能しなくなったような例があります。特に行政法はそうです。こうした法を現実に適用可能にしていくためのプロセスが必要なのです。


言葉は生きています。それを生きたものとして現実に当てはめるために、蘇生して命を通わせる方法論を編み出すことが必要なのです。その蘇生措置でも死文化した法が生きて来ないなら、法そのものの改正が必要です。

こうした問題はあらゆるところに転がっています。屋台骨が腐食しているから、多くの人々が困っているのに助けを求められない。そういう事例があることさえ、人々は知らない。今すぐに交換作業はできませんが、いつか未来にこの腐食部分を交換するための下見と点検を私は行っているのです。問題を取り上げて指摘する人がいなければ、そこに光が当てられることさえない。私が行っているのは、まずは問題を光の下に持ち出し、やがて来るべき改正に備えて議論の土台を作ることなのです。

* * * 

私は訴訟をやってみて、裁判所に関わり、人々に命や解放を与える判決を書く仕事はやはりものすごく尊いものだと思います。私は法律家ではなく、生涯、専門家にもならないと思いますが、彼らとは全く異なる立場から、自分なりに、目に見えない法秩序の中から、目に見える命や自由を具体的に汲み出す方法をよく知り、それを通して自分のみならず、自分以外の人々をも解放する作業に貢献したいと思うのです。

この作業は、信仰によって御言葉を実際とするという生き方とすごく共通するものがあります。 クリスチャンは、御言葉から命を引き出す秘訣を知っています。たとえば、この世でも、一つの画期的な意味を持つ判決が下れば、それに伴い、多くの違反が是正され、かつ、未然に違反が防止されます。判決はすでに起きた違反を是正して権利侵害を克服するにとどまらず、将来起きうる違反に対する抑止力ともなります。画期的な判決は、多くの類似した事件を裁く際の前提となります。 

信仰の世界でも、同じように、何よりも、主がカルバリで取られた勝利の判決が、我々が実生活で遭遇するすべての問題を克服する根拠となっています。しかし、その他にも、一つ一つの小さな御言葉を現実生活に適用することで得られるさらに具体的な勝利があるのです。

目に見えるものは、目に見えるものによって規定されているのではなく、見えないものによって規定されています。人々の現実生活は、見えない法によって規制を受け、また、それによって違反を是正されています。

しかし、上記の通り、私は現存の法によって違反を是正したり、 人の生活を自由にする方法を知るだけでなく、法そのものの改正により、 将来的に、人々の生活にさらに自由度を増し加える必要があると感じています。私の取っている方法論は、他の人々が通常取る方法とは異なりますが、これから長い長い時間的スパンで、ライフワークとも言える形で、その解放の作業に関わることになると思います。

たとえば、レジ袋の有料化などという無意味な法整備をするくらいなら、死文化した労働関係の行政法規の文言を一つ変えるだけで、どれほど大勢の人たちが恩恵を受けるかはかりしれません。法規の一つ一つはこれまで人類が勝ち取って来た自由の歴史でもありますから、そこに歴史的後退をつけ加えるのではなく、前進と言える成果を勝ち取ってつけ加えなくてはいけない。ただ飾っておくだけでは法律も無意味であって、これを現実に適用し、さらにその内容を前進させて行くのは一人一人の市民の役目なのです。

そのために、飽くことなく戦って困難に立ち向かい、成果を勝ち取らなくてはならないのです。
今私がしていることはすべてそのためであり、将来の解放のための土台作りです。 

* * *
 

これだけ労働関係の行政が腐敗すれば、この国の労働市場が悪くなるのは仕方がないですね。
厚労省でもデータの改ざんが問題となりましたが、その下の役所はもっと徹底的に腐敗しています。 

やはり日本の労働市場はあまりにも遅れていますね。 役所は取締を放棄しており、ブラック企業は溢れ、 法改正も遅い。毎年、毎年、役所がブラック企業への罰則をもうけるという話が出て来ては、立ち消えに なっている。おそらく企業側からのものすごい反対があるのだと思います。そして、労働関係の多くの法はあまりにも企業側に有利にできすぎており、役所は違反があってさえこれを取り締まらない。 
だから、こうした現状を変えるためには、裏技のようなテクニックが必要となり、労働者は役所には泣きついても無駄という現状がある。さらに、ユニオンや労連からNPOから始まり、労働者の問題をさらに食い物にする様々な団体が控えている。 まして外国人技能実習生などは、日本語も日本の法律も分からないのでは、どこにも訴えることもできない。 そうした声も上げられない弱い人たちを容赦なく踏みにじり、犠牲にする日本という国。この精神性のものがすでに亡国を示すものだと言って差し支えない。

* * *

しかし、私はこうした事情から、特に絶望は感じません。むしろ、雇用情勢を色よく見せかけ
この国の様々なデータを改ざんして来た大本営発表がもうすぐ終わる気配を感じます。彼らは下々の者に責任を押しつけて、自分たちは悪事を隠して逃げる時を待っています。営利が目的の民間企業だけでなく、役所の腐敗が何よりも労働者を搾取し、日本の雇用情勢の悪化の原因を作って来たのです。なるほど国が外国人技能実習生を見殺しにするはずです。

しかし、恐ろしいほどの知性の崩壊を目の前に、この国の終わりが近いと感じます。日本がかつて敗戦した時、責任を取れるリーダーは一人もいなかった。破滅へ向かっていることをみな知りながら、それを止める力もなかった。権威が、権力が、正しく行使されなかったのです。今はその状況に似ている。お偉いさんたちが、私利私欲のことしか考えなくなり、弱い者たちを平気で見殺しにした結果、国ごと理性を失っいるのです。私は一度労働関係の役所が企業と意を通じて徹底的に腐敗していることについて、記事をまとめてみたいですね。 

* * *
 

私は個人的にいつかこの状況を変えたいし、変えねばならないと思わずにいられません。ただし、これは社会運動などではだめなのです。法律そのものが必ず将来的に変えられなければならないからです。労働関係法のみならず、他にも似たような抜け穴だらけの法はいくつもあります。 しかし、それを変えるための最前線となるのは、毎年法整備を行おうとしては挫折している役所ではないでしょう。
国会前の座り込みだのビラまきだの街宣だのが完全に無意味だと馬鹿にするつもりはありませんが、しかし、物事を形作っているおおもとは法の規制にあり、法自体が空洞化しているのでは、
規制のしようさえもないという問題について、もっと大勢の人たちが立ち止まってきちんと考えてみなくてはならないのです。

しかし、デモや街宣で他人の説教を聞いて熱狂している限り、このような問題に人々が着目し、取り組むことはないでしょう。法整備が一部の議員や役所の専売特許と考えられている限り、 人々は法改正こそが現状を変えるための有効な策だということにずっと気づかないままだと思います。

そういうわけで、私は多くの政治運動には、キリスト教会のお祭り騒ぎ的な礼拝や集会と似たような要素をいつも感じるのです。そこにあるのは束の間のまやかしのような熱狂であって、何かを根本的に変えて行く原動力ではない。ワーっと騒いで、理想を語り、愚痴を吐き出して、現状は1ミリも変わっていないのに、何かをしたような気分になる、一種の現実逃避なんですね。

むろん、極論と分かって言えば、プロテスタントと資本主義が根本的に同一の起源から出て来ているとすれば、どちらも双方がまやかしなんです。労働市場が遅れているというにとどまらず、
労働市場それ自体がすでにまやかしのマーケットになりつつあると言った方がいい。ザル法、スポンジ化した法の破綻はそのまやかしから、これをごまかすために生まれて来ているわけです。
そして、キリスト教会に対して反キリスト教界の運動が存在するように、デモも街宣もそのまやかしの変種のようなもの。
では、一体、この鏡の中の鏡のように連綿と嘘の続く世界で私たちがなすべきことは? 鏡に映った映像の中に命を探し求めるのをやめて、真実な実体を探すことですね。本体に近づくべきなのです。それが結局、新しい判断を求め、これを自ら打ち立てることなんですね。 

ただし、こうした情勢を終わりに近付けるのも、私たち一人一人の努力で可能です。個人の力で様々な事柄を明るみに出せますし、それなりに是正することもできるのです。私が訴訟を提起したのは、まず法律の専門家としての肩書がなくとも、個人の力で物事をはっきりさせることに貢献できると示したかったから。法令順守の精神を、行政や役所が失った代わりに、個人が持ち続けることができると示したかったから。

私は弁護士でも法律家でもありませんが、法律に対する畏敬の念はあります。現行法が完全だとは言わない。しかし、今あるものを守ろうとしない人たちが未来に向けて規則を制定してみたところで、これを守るはずがない。法律は義務も定めているが、私たちの自由の根源であり
存在を深い所で規定しているのです。

私は違反に対しては、裁判所の判決や行政による罰則の適用を求めると同時にできるなら、もっと法律そのものに近づき、中へ入り込みたいという気持ちがあります。なぜなら、法それ自体が変わることによって、多くの人たちの生活が根本的に変わりもっと解放される見込みがあるからです。法律家の観点とは異なる立場から、私は未来に向けての法整備に人生のどこかで関わりたい気持ちがあるのですね。 そのための試行錯誤が現在であり、現行法の抜け穴や欠陥と言える部分についても学習を重ねているのです。

私は、命令が私自身のうちですなわち実行となる時、約束された保障が値引きなしに実現される世界を求めています。私たちは憲法で保障されている権利さえ、まだ値引きなしに自分の手にしたことがない。多くの保障が絵に描いた餅で終わっているのです。その観点から見ますと、法体系からは、まだまだ汲み出せるものが無限にあると共に法に保障された私たちの権利が実現しないように妨げている中間搾取者の排除も必要です。牧師階級からの信徒の自立が不可欠であるように国民が肥大化した役所の助けを不可欠とする時代も終わりつつあるように思います。
私たち自身が自立へ向かうことが肝要なのですね。

ただし、私の取り組みは一歩一歩ですよ。法改正などは壮大な問題ですから、
これから十年以上のスパンをかけて、この問題に対してじっくり向き合うことになるのではないかと思います。

しかも外側から。資本主義とプロテスタントを脱出する不思議な道が開けていますから、私はこれから先、この問題の内側から取り組むのではなく、外側から取り組むことになるのではないかと思います。おそらくこのまやかしの世界に後戻りすることはもうないかと。

そして、何度も言っているように、私は専門家としてこうした問題に取り組むことはなく、どこまで行っても、権力を持たない無名の市民の立場から取り組みます。でもいつかはその道を貫徹することによって、必ず大きな目的を達成する時が来るものと考えています。
責任を持たされるのも一歩一歩ですから。

* * *

<続く>

 


私ではなくキリスト―主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

ここ数日間、悩みに悩んでいた問題があったが、突如、その重荷が肩から転げ落ちた。

やはり、解決は、自分を手放すことにあると分かった。自分自身の力で戦うことをやめ、主の解決を信じ、それにすべてを委ねることである。

改めて、最も困難な道を行こうと覚悟した。

その瞬間、心の羅針盤の針が再び目的地をはっきりと指し示した。筆者は道に迷っているのではなく、まさにいるべき場所、立つべき場所に立っていることが分かった。

私たちが心に抱えている問題の中には、本当は、私たちが引き受けるべきでない問題がたくさんある。どこかから押しつけられて、いつの間にか負わされることになった重荷がたくさんある。弱い者同士が、その重荷を互いに押しつけ合っては、互いに滅ぼし合っている。

そのような重荷を一つ一つ、手放すところから私たちの歩みは始まって行く。自分で解決しようとしていた問題を手放した度合いに応じて、心の自由も増える。

訴訟では、勝ちたいという思いや、賠償をきちんと払わせようとする思いも、どこかの時点で手放す必要がある。これは決して判決を放棄することではないし、白黒つけることを放棄するわけでもない。

主の御心にすべてを委ね、すべてが自然になるときが来ることを信じて待つのである。実際、それ以外に解決の手段は存在しない。どんなに自分で望む方向へ物事を引き寄せようと考えたとしても、成らないときには成らない。

当ブログを巡る訴訟では、前から書いている通り、和解はあり得ない。なぜなら、これは人間的な観点に基づく紛争ではなく、神の御言葉を巡る論争であり、白黒つけることを避けて通れない問題だからである。

だが、そうしてきちんと物事に決着をつけることと、自己のプライドを立てようと、物事を自分の望む方向に強引に引っ張って行こうとする態度は異なる。

自分のプライドと感情を満足させるよりも、もっともっと静かで深い意味を持つ解決を求めることは実際に可能なのだ。
 
筆者は、当ブログを巡る訴訟の一審判決に到達できると分かった時の大いなる喜びのことをよく覚えている。

一般に、訴訟においては、悪質な被告と、そうでない被告が存在する。もしもあなたが原告となって悪質でない被告を相手に戦うなら、いたずらに紛争をこじらせるような発言を受けたり、行き過ぎた侮辱を受けることもなく、早期に解決を見いだせ、あるいは和解も可能であろう。

しかし、悪質な被告は、いつまでも自分に不利な判決が下らないように、無益な論争を続けようとしたり、裁判官と原告との信頼関係を引き裂いて、協力が成り立たないようにしたり、反訴や控訴などを持ち出して、心理的な圧迫をかけようとする。

そして、原告であるあなたがそのような心理作戦に踊らされていたのでは、いつまで経っても、議論は終わらず、判決にたどり着くこともない。

当ブログを巡る訴訟の第一審で筆者が得た解決は、最終解決ではなかったとはいえ、筆者は、やはり、あの時と同じように、どんな時でも、重荷を自分の手から放し、自分で背負おうとしない態度が必要になるのだと感じさせられている。
 
訴訟というものは、格闘技にも似ており、これを続行するための多大なるエネルギーが必要になる。書面を書き上げるためには、膨大な労力が必要で、怒りのエネルギーも、その原動力になる。当事者感情も、すぐに克服できるものではない。人は嫌なことをされて、すぐにそれを忘れることもできず、怒りや敵意をすぐに手放すこともできない。何かの折に、心にため込んだ不満や悲しみが一気に噴出することもある。

だが、そういう感情はやがて冷めるものであり、すべて一時的なものでしかない。そして、神は、私たちが語り終えるときを静かに待っていて下さり、私たちがようやく自分の発言を終えて、自分を手放したとき、おっしゃられる。

「あなたの気持ちはよく分かりました。そう考えるのももっともでしょう。でも、今、目を上げて周りを見てご覧なさい。私があなたのためにすべてを成し遂げました。あなたの敵はもういません。私が一掃したからです。だから、あなたはこれ以上、怯える必要もなく、自分の力で戦って、懸命に何かを成し遂げる必要もありません。あとは私に任せなさい、私がやります・・・。」

どれほど困難に見える瞬間にも、事実は、ただ一つしかない。それは、神がどれほど私たちを愛しておられ、私たちのためにあらゆる瞬間、すべてを良きにはからって下さっているかということである。

人の心も、周りの状況も、何もかも私たちのために恵みとして与えられたものばかりである。

前回の記事で、散歩中にダンプカーが通り過ぎるかどうかは、私たちの心次第だということを書いた。そこから少し進んで、人の心も、私たち次第であると言いたい。

他人の心など、コントロール不可能なものでしかないように見えるだろう。まして敵対している人たちの心など、どうやってコントロールするというのか。

筆者は長い間、人々の離反や、裏切りや、誤解は、防ぎようのないものだと考えていたが、実はそうでないことが分かって来た。

主イエスはイスカリオテのユダの裏切りを予め知っておられた。ユダの裏切りも、イエスの許しなしには起きなかったのである。神はアブラハムのもとに御使いたちを送って、ソドムの滅亡を知らされた。神は今日も私たちの心に全く何も知らせずに突然、予期せぬ出来事を起こしたりはなさらない。

だから、キリスト者の人生に起きて来ることの一つ一つは、神とその人との共同の歩みの中で起きることであり、主は必ず、ご自分に聞き従っている人に必要な事柄を知らせて下さる。

そこで、私たちは人々の離反や、裏切りを防げるだけでなく、場合によっては、紛争の激化を防ぎ、敵対的な陣営にいる人たちの心でさえ、取り返すことができるのである。

真の敵はサタンであり、私たちは敵に渡したくない人々、手放してはならないもの、最後まで守り抜かねばならないものを、はっきりと境界線を定めて、自分の心の中で、これは自分たちの陣営にあるものだと宣言せねばならない。

他人がどう行動するかを考えては悪い想像を心に巡らすよりも前に、まずは自分の心の中で、しっかりと、どこまでが自分たちの陣営に属する領域であるのか、どこまでが決して敵に触れさせてはならないものであるのか、境界線を引いてしまわなければならない。

そうするとき、人々と敵対関係に陥ることを防げるだけでなく、そのような状態になりかかっていた人たちでさえ、取り戻せる場合がありうる。
 
前回、書いた通り、敵の攻撃をどこまで許すかは、私たち自身にかかっているのである。そして、私たちは攻撃を未然に防ぎ、これを撃退することが可能なのである。その原則は、人の心にも当てはまる。

私たちが愛しているものを、絶対に敵に渡してはいけない。私たちが必要としている人々を、決して離反させてはいけない。私たちは、自分を見失って、終わりなき無益な戦いに引き入れられることなく、自分自身も、自分に関わる全ての人たちをも守り抜かねばならない。

そのためには、事実に先だって、まずは自分の心の中で起きる戦いに勝利し、恐れを征服して、人々をも、物事をも、自分たちの陣営に取り返し、しっかりと所有権を宣言しなければならないのである。

紛争の行く末も、当事者の思いも、時も、環境も、状況も、すべてはキリスト者の心の支配にかかっている。

そういう意味で、筆者は自己のプライドや感情を満たすために戦うつもりはないが、この地に正義と平和がなるために必要なことをせねばならないと考えている。
 
そのために、必要な知恵を神に希う。そして、すべての戦いはすでにカルバリで決着がつけられて終わっていることを宣言し、それゆえ、すべてのものが御名の支配に服すべきことを宣言し、それを立脚点として、現実に必要なあらゆる物事を采配する。

私たちの栄光のための勝利ではなく、主の栄光のためにこそ勝利に至り着くことができるように。


私ではなくキリスト―どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

さて、今回は、人の心から恐れの暗がりを取り払うことの必要性について書きたい。

当ブログでは、毎回、裁判の話題に熱中している。書いても書いてもテーマが尽きないほどに、訴訟を提起したことにより学んだ内容が多かったためである。

たとえば、物事を光の下に晒すことの重要性に改めて気づされたのも、訴訟の最中である。

人の記憶の中には、しばしば、自分でも光の下に持ち出すことがためらわれる多くの事柄が存在する。誰にでも、できれば語りたくない、人の目にさらしたくないと思う様々な出来事が存在するだろう。だが、そうした出来事も、かえって公然と光の下に持ち出すことで「解毒」できる場合がある。
 
裁判で取り沙汰されるほぼすべての事件は、それ自体、誰にも明るみに出すことがためらわれるような出来事ばかりである。

だが、事件をあえて人の目の前に持ち出し、裁きに委ねることで、悪しき影響力が焼き尽くされるようにして消失し、無効化される場合がある。
   
こうして人前に持ち出されなくとも、人の心には、誰しも、自分で気づいていない暗がりが存在する。それはちょうど部屋の中で、照明が行き届いていない、埃っぽく暗い片隅のようなものだ。暗がりの度合いも様々で、真っ暗闇のこともあれば、薄暗がりの場合もある。

この暗がりは、人の心の恐れと直結している。外からやって来る様々な良からぬ思念や影響力がこの一角に吹き寄せられる。思いがけない不安、良からぬ想像、悪い予感、悲嘆、失意、落胆、様々なネガティブな思念が、この一角に吹き溜まりのように寄せ集められるのだ。
 
だが、どんな暗がりであろうと、心の中に暗闇を残しておくことは望ましくない。そこで、心の大掃除をして、自分でも気づいていない恐れを払拭・克服することは重要である。

筆者が最近気づいたことは、人生に起きる様々な出来事は、それが良いものであろうと、悪いものであろうと、(特にクリスチャンの場合)、その人自身の意識的・無意識な許しのもとでしか起きないということである。

それはごく些細な事柄から大きな事件に至るまで、すべて同様である。特に、信仰者の場合にはそれが当てはまる。なぜなら、クリスチャンはすでにサタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられているため、クリスチャンの人生に起きる一つ一つの出来事は、信仰によってコントロールが可能であり、決して、この世の人々のように、不可抗力に翻弄されることはないためである。

たとえば、筆者はペットと田舎道を散歩している時に、危険な大型ダンプカーがそばを通り過ぎることに危機感を募らせていた時期があった。

しかし、何度も散歩しているうちに、いつどんな車とすれ違うかまで、自分の無意識的なコントロールを及ぼせることがだんだん分かって来たのである。

むしろ、いつ危険な車とすれ違うかと、常にびくびく警戒しながら散歩していることで、かえって散歩の時間を無益な心配に浪費してしまう。そういう恐れを克服し、安全な散歩時間を「自ら創造する」ことが実際に可能なのだということが分かり始めたのである。

一体、ヴィオロンは何を言っているのか、気でも狂ったのだろうかと、信じない人々は信じなければ良いが、いずれにしても、人は自分の人生に起きる出来事の多くを、自分自身の心に恐れによって自ら招いている部分がある。
   
多くの人々は、自分の人生の未来について、ああなると困る、こういう出来事が起きるといけない、などといった様々な悪しき想像を巡らし、これを常に心の負担としながら、自分自身が人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩いて行く権利を自ら失っているのである。
 
堂々と安全に散歩するために、まず排除しなければならないのは、こうした様々な悪しき思念である。

これはもちろん比喩である。筆者は、人の人生におきるすべての出来事が自業自得だと言って、不運な事件に遭遇した誰かを責めたいがために、このようなことを書いているわけではない。
 
たとえそうした出来事が起きても、人は必ず自分の心の中で、その出来事と取っ組み合って、これを昇華せねばならないのであって、さらにもっと言えば、そのような出来事に見舞われるよりも前に、まずは自分で自分の心の恐れの暗がりを取り払い、悪しき思念を、それが実現するよりも前に、道の脇に退避させなくてはならない必要性があることを説いているだけである。

退避せねばならないのは、私たちではなく、ダンプカーの方なのである。いや、もっと正確に言えば、ダンプカーに遭ってしまうかも知れないという恐れや思念自体に、道の脇に退避してもらわなくてはいけないのである。

こうして、心に不安を抱かせる思念、無意識に沸き起こる不安などを征服し、これを自分で道からどける作業が必要となる。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4:23) 
  
初めのうちは、方法論が分からないので、不安を交わすだけで精一杯であろうが、そのうち、散歩中の対向車を「未然に」撃退する秘訣が分かって来る。

この方法論は、すべてに当てはまる。たとえば、当ブログで前々から書いて来た通り、訴訟などにおける被告の行動は読めないし、反訴や、提訴、控訴の可能性などを、予めコントロールするなど誰にも不可能に思われるだろう。

しかしながら、これも道を通りかかるダンプカーと同じで、すれ違いを未然に阻止した上で、道の真ん中を堂々と歩いて行くことは可能なのである。
 
つまり、敵の攻撃をどこまで許すか、許さないかといった問題も、実はすべて私たち自身の心にかかっているのである。

もちろん、すべての戦いを最初から何もかも避けて通ることができるわけではない。むしろ、真正面からぶつかり、戦いに挑むことで、初めて心の恐れを克服、征服、撃退することが可能となる場合もある。

初回からすべての悪しき不運なすれ違いを完全に避けて通れるなどとは考えない方が良いであろう。
 
だが、そうこうしているうちに、戦いは目に見える形となって現れるよりも前に、「もし・・・したら」という悪しき思念の形ですでに自分の心で起きていることが分かって来る。

相手がダンプカーであろうと、人間の集団であろうと、方法論は変わらない。すれ違う相手が誰であれ、あなたが窮屈に道の端に幅寄せされることもなく、かと言って彼らと真正面からぶつかって事故になることもなく、自分の散歩時間を安全に守り抜いて、彼らに全く心乱されずに堂々と安全にすれ違うことは可能なのである。

あなたがそうして自分の人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩ける日が来るまで、何度も、何度も、あなたは奇妙なすれ違いに遭遇し、それが自分の心のシミュレーションであることに気づいて恐れを征服する方法を学ぶまで、訓練を続けさせられるだろう。

人の人生の主人は、自分自身なのであって、あなたはその主導権を守り抜く術を学ばなければならない。そうでなければ、いつまで経っても、あなたは自分の人生において脇役にしかなれない。招かれざる客や、思いがけない不運な訪問者や、好ましくないすれ違いが、常にあなたの人生の主役であるかのように王座を占めて良いものであろうか。

しかし、人生の主導権を他人に奪われないためには、あなた自身が、自分の心をコントロールする秘訣を学ばねばならない。その秘訣とは、目に見える物事と取っ組み合うよりも前に、まずは、自分自身の心の目に見えない恐れを把握して、これを征服する秘訣を学ぶことである。
 
初めからすべてがコントロールし切れるわけではないので、失敗と見えることも多々、起きて来るかも知れないが、人間的な観点からは間違いと見えることさえも、キリスト者にあっては、安全の中で修正される。

カーナビが運転手がどれほど道を間違えても、目的地を指し示すことをやめることなく、運転手を叱りつけることもないように、私たちの主イエス・キリストは、根気強く私たちの行く先を示し続けて下さるからだ。

クリスチャンの人生は、ナビゲーターである御霊の導きのもとに、変わらない目的へ向かって進んでいる。そこに損失と言える出来事はない。どんなに損失や、回り道や、遅延や、停滞のように見えることがあっても、それも信仰ある限り、キリストの無尽蔵の命によって修正され、覆われて行く。

むしろ、遅延や損失だと考えていた事柄が、逆に後になってから、目的地までにかかる時間を大幅に節約する秘訣に変わっていたりもする。だから、失敗を恐れる必要はなく、停滞や、遅延や、損失や、回り道を恐れることはない。

筆者は、当ブログを巡る訴訟や掲示板に対する取り組みの中で、どれほどひどい迫害や中傷が起きようとも、これを心の中で完全に征服する術を学んだ。

これらはすべて散歩中に道ですれ違うダンプカーのようなものである。何一つその問題と本質的に変わるところはない。従って、それらはすべて起きるよりも前にコントロールすることが可能なのであり、ダンプカーが到来するよりも前に、これを阻止する方法が存在するのだと分かれば、目に見える現象に振り回されることはもはやなくなる。

そういう意味で、筆者は、当ブログを巡る訴訟の第二審が始まるよりも前から、すでにこの訴訟がほとんど決着してしまっていることを感じている。理論的には、これから提示しなければならない内容は数多くあるし、書面を作成するのは相当な時間と手間がかかり、かなり面倒にも感じられるが、霊的には、もはや戦いのほとんどの部分がすでに終了してしまっていることが分かるのだ。

それは、自分の心に沸き起こるすべての葛藤と恐れを克服するという、最も厳しい戦いがすでに終了しているためである。残るは緻密に理論を構築し、争点を漏らさず提示して行くことだけである。

これは昨年の今頃、第一審を提起した時とよく似ている。実は、その当時の最も重要な目に見えない争点は、第一審の最中に争われたような事柄ではなく、筆者がそもそも訴訟を提起するかどうかというアクションにかかっていた。

筆者の側から、訴訟が提起されることを恐れたからこそ、暗闇の勢力からはその当時、とりわけ激しい妨害が起来て来たのである。正直な話、暗闇の勢力は、ネット上でどちらが本当のことを言っているか分からないような中途半端な論争が行われている限り、誰から何を言われたところで、痛くも痒くもない。

だが、訴訟となれば、社会的影響力が及ぶ、はっきりした決着がつくことになる。

だからこそ、妨害が起きて来たのであり、同様のことは、クリスチャンが何か一つの決定的なアクションを起こそうとする前には必ず起きて来る。

たとえば、訴訟を提起すれば、判決を得るかどうかが次なる決定的なアクションとなるだろう。勝訴の見込みがあるならば、当然ながら、判決に至り着かせまいとする様々な妨害が起きて来るのは必至だ。

敵はささやくだろう。あなたの理屈には弱いところがあるのではないか。前例のない争いで、冒険をするのは危険ではないのか。裁判官は本当に味方か。当事者の誰かが控訴すれば、争いが長期化するのではないか。賠償が認められても、支払われなければ意味がないではないか。そんなリスクを負ってまで、戦い抜いて白黒決着をつけることに、本当に合理性があるのか、云々・・・。
 
こうしたささやきは、すべて「心のダンプカー」である。あなたは一体、何を望むのか。どんな目的にたどり着きたいのか。目的地を思い浮かべるより前に、すれ違うかも知れない様々なダンプカーを恐れて散歩を取りやめるのがあなたの第一目的なのか。

むしろ、実際に目に見える出来事が起きる前に、このダンプカーに道を通らせないことが重要である。もしもそれでもダンプカーが通ったら? 意に介さないことだ。二回目、三回目に、同様のことが起きそうになっても、二度と通らせない秘訣を一度目のすれ違いの時にしっかり学んでおくことだ。

その道は、あなたの道であって、ダンプカーのための道ではないのである。

そして、その道は、キリストがその命を投げ打って、あなたのために切り開いて下さった道なのだ。あなたはこれを邪魔者に譲ってはいけないし、誰にも塞がれてもいけない。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6).

いずれにしても、私たちが人生で遭遇するすべての戦いに共通することは、敵はあれやこれやの目に見える人間ではなく、もしくは、目に見える様々な悪しき出来事でもなく、私たちの心に暗闇の勢力から直接もたらされる各種の恐怖にあるということだ。
 
恐怖や悪しき思念が、心の中に吹き寄せられる一角を作らないように、私たちが自分の心を点検し、これを光の下に持って行き、すべての暗がりを取り払って、恐れを無効化する必要性がある。
 
暗闇の勢力の用いる最も主要な武器は、死と恐怖である。そこで、私たちが自分の心を見張り、恐れを征服する秘訣を学ぶことこそ、人生において様々な戦いや困難に勝利するために、第一義的に重要な課題なのである。