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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上を生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、一つ前の記事は、今から何年も前に起きた出来事を指しており、その後、筆者はこの世の不正に巻き込まれず、むしろ、それを拒み、理不尽には毅然と立ち向かうことを続けて来た。そうして立ち向かう仕事は、だんだん筆者の真の意味での「お仕事」になって来たと言える。

多くの人は知らないが、世の中では、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、臆することなく、公然と根気強く主張し続けることによって、無益な騒動が起きるどころか、失われた利益が豊かに戻って来ることが多い。

むしろ、どんな理不尽に巻き込まれても、何一つ苦言も呈さず、抵抗もせず、ただ暗闇の勢力のなすがままに翻弄されているからこそ、一方的に奪われるだけに終わるのであって、嘘や不正には毅然と立ち向かうべきなのである。それをしない限り、人は自分を犠牲者とする道を自ら選んでいるも同然なのである。(ただし、このことは事実を公然と主張することを意味し、力づくで復讐を果たすこととは全く訳が違う。)
 
特に、我々の年代以下の世代は、きちんと声をあげて自分の権利を世の中に主張することをしなければ、この先、未来永劫、強欲な経営者(や年長世代ら)によって踏みしだかれ、犠牲とされていくだけである。筆者は世代間の対立を煽るためにこう言うのではない。それが高齢化社会の避けられない構図だからである。(また、それは先祖崇拝や儒教などの精神のもたらす弊害でもある。)
  
そこで、たとえ自分よりも年長であったり、力の強い人間を相手にする時であっても、自己の尊厳を守るために、自分自身の命を守るために、嘘は嘘であり、不正は不正であり、誤ったことは誤っていると、公然と主張すべきであって、それをするかしないかは、生死を分ける問題なのである。

そんなわけで、筆者はかつて信仰の友が語ってくれた通りに、反対に遭っても、あきらめないで根気強く訴え続けることの重要性について、今に至るまで大いに学ばされている。神に対しても、人に対しても、その原則は同じである。

時には、神に対しても、一歩も退かない覚悟で、自分の望みを切に申し上げ、答えを得るまで、直談判を続けねばならない。そして、神はそのように強い願いを持って、ご自分を信頼して御許にやって来る人々を、決して無碍に退けられることなく、むしろ、その願いを喜んで受け止めて下さる。

そのため、私たちはただ自分が生き延びられさえすればそれで良いなどという、あまりにも低い目標で満足して生きるのではなく、決してあきらめることのできない崇高で切なる願いを、誰しも持つべきである。そして、それをこの社会に、人々に訴え、まことの神に訴えながら、根気強く実現を目指して生き続けるべきなのである。

ところで、話題は変わるようだが、筆者の地上の家系には、求道者の血筋が流れていると言えるかも知れない。

筆者は現在、キリストにあって、地上の生まれとは全く異なる新しいアイデンティティを生きているが、それでも、時折、地上の生まれにも、深い意味があったのかも知れないと思いめぐらすことがある。

そう思うほど、筆者の家には、宗教に関わりのある人々が多く、キリスト教徒も、数は少ないが、祖先にいないわけではない。どうやら筆者の地上の家系には、飽くことなく道を探求する血筋が受け継がれているようである。

しかし、筆者は中途半端な求道者にはなりたくない。どうせならば、生涯に渡り、本気で道を究め、真剣勝負で生きたいものである。

筆者の遠い親戚のある一人は、若い頃に、尼僧になろうとして禅寺に出家した。本来ならば、この世を最も謳歌していて不思議ではない娘時代のことである。

彼女は少しも引っ込み思案でもなければ、厭世的な性格でもなく、むしろ、幼い頃から活発で、怜悧で、いつも大勢の友達に慕われ、成績も抜群で教師からの覚えもめでたかった。

それにも関わらず、俗世での成功をすべて捨てて構わないと決意したのには、おそらく、戦後、敗戦の根本的な反省もないままに、経済成長だけを至高の価値のように目指していた当時の時代の風潮や、物資と愛情に不足しながら育った家庭環境への疑問が影響していたのではないかと思われる。

彼女は、自分の生まれ育った家庭を見て、一体、これが真の幸福だろうかと疑問に思い、家庭に入って妻となり母となるという役割は、人生のゴールたりえないと思ったのであろう。また、受験競争や就職戦線を通して、何なく勝ち得られそうなこの世のもろもろの成功も、移ろいゆく表面的な有様に過ぎず、真の満足を見いだせないものと見たのであろう。

目に見えるものよりも、もっともっと本質的で、永遠に消えることのない確かな価値を求めて、か細い希望を辿りながら、暗闇の中を手探りするように、俗世における幸福をすべて捨てる覚悟で、修行に入ったと見られる。

しかし、その探求は中途で止まってしまった。修行中に、生涯独身を貫くことを覚悟していた彼女に、熱心にプロポーズする人が現れたのである。その人もまた修行僧であった。「あなたには尼さんのような孤独な生活は向かない。ぼくが住職になるから、ぼくの妻になって、ぼくをサポートしながら、幸せな生活を送りなさい」

真面目で働き者だった彼女は、人を助けることには向いていたと思われる。そのプロポーズの言葉を、真摯な愛情だと思い、尼僧になる道をあきらめ、住職の妻となり、家庭に入った。

しかし、その後、歩んだ道は、およそ道と呼べるものではなく、彼女が当初、探求していた目標とは、大きくかけ離れていた。

苦しい修行の時代が終わると、黙っていても、死者が出る度に、寺にはいくらでも収入が入ってくるようになった。夫も遊び好きで、贅沢な別荘を買い、国外へ進出し、豪奢な生活をほしいままにした。

子供たちにも何不自由ない暮らしをさせて、良い大学に進学させ、良い就職先に送り出した。あるいは、寺に嫁がせたりと、ちょうどキリスト教界における牧師の師弟らが政略結婚を重ねているのと同じように、血縁とコネがものを言う、世俗にまみれた特権的生活が築き上げられたのである。
 
それは、外見的には大きな成功であったかも知れないが、若い頃に彼女が真剣に探求していた道とは随分、異なっていただろう。本当にそんな生活を送るために、寺に入ったのだろうか。これでは俗世と何の違いがあろうか。しかし、その疑問は、心の奥底に封印されてしまった。

そのうちに人生の引退を考えるべき年齢になり、夫も病に倒れ、以前のように精力的な活動ができなくなった。幸福という幸福は手に入れたので、人生でやり残したことはもうないかのようであった。だが、幼い頃からずっと抱えて来た心の飢え渇きは、答えを見つけて解消しない限り、老人になっても、ずっと満たされないまま持ち続けられる。

夫に尽くし、子供に尽くし、寺を発展させるという選択肢がもはや人生の第一目的ではなくなった時、彼女は、生まれ育った家庭の両親を振り向いて、親の必要を満たすために尽くし始めた。

しかし、それは自分がすでに出て来た家庭であり、そこでは、すでにほかの兄弟が親に仕えていた。

にも関わらず、彼女は夫に仕えるようにかいがいしく両親に奉仕し、湯水のように使える金を惜しまず介護に投じた。
 
だが、その奉仕は、兄弟には喜ばれなかった。むしろ、やればやるほど、兄弟との間にライバル関係が出来上がって行ったのである。それはただ幼い日の生活の再現でしかなかった。

彼女の親は、彼女の熱心さ、親切さを大いに利用したが、それは娘を評価するがゆえではなく、自分が有利になれる保険を常に用意しておくことが目的だった。

悪い親は、子供たちを自分の利益の道具として競争させて、ライバル関係に置く。兄弟姉妹の信頼関係はそのせいでズタズタに壊され、もしそのことに気づかなければ、生涯に渡り、血を分けた兄弟姉妹の間で、親の評価を奪い合う骨肉の争いが続くことになる。
 
彼女はそれが分からず、親に仕えた。それはちょうど彼女が、尼僧になる道を捨て、夫の人生のサポート役として、自ら夫の出世を実現するための道具となって仕えたのと同じである。
 
彼女はそれが善意であり、親切だと考えていたのであろう。しかし、彼女が仕えた相手にとって、彼女は保険でしかないことを考えてみなかった。
 
彼女が彼らに仕えれば仕えるほど、ますます彼らはわがままになって行き、彼女の誠意を軽んじるようになった。それは彼らがいつも、彼女とは別な誰かを天秤にかけて、彼女と競争させることで、自分に有利な結果を引き出そうとしていたからである。
 
彼女の奉仕は、平和ではなく争いを生んだが、彼女はそのことに気づかなかった。
 
出家したにも関わらず、彼女がそのように自分の家を重んじ、人の関心や評価を勝ち取るために、人の利益に仕えて生きて来たのは、おそらく、まだ日本が豊かさの中に入っていなかった幼い時代に、彼女が両親から十分に振り返ってもらえず、物質的にだけでなく、精神的にも貧しい家庭生活を送ったことに原因があると見られる。

その時代、同じような幼少期を送った人々は多かったであろう。彼女は決して親を煩わせることのない、よく出来た子供であったが、そのように優秀であったがゆえに、余計に、必要な時に親に助けを求めることもできず、振り返ってもらうことのできない寂しさを心に抱えていたと考えられる。

その満たされない思いが、大人になり、老人になっても、持ち続けられ、そのせいで、人からの評価や関心が欲しいという心の飢え渇きが、出家後も、我が道を貫くことを邪魔して、彼女を常に人の思惑の方へとひきつけて行ったのである。
 
それは、彼女が出家しながらも、真の意味での「出家」ができていなかったことを意味する。生まれ育った家庭からのエクソダスが、心の中で完了していなかったからこそ、自分の心の探求よりも、地上の「家」を優先して生きる道に舞い戻ってしまったのである。
  
筆者はこの人に直接、聞いてみたことはないが、心の中で次のように問うてみる、禅寺であなたが探していた答えは見つかりましたか。そこで人生の本当の満足は得られましたか。裕福な家庭を築き上げることが、あなたの出家の真の目的だったのでしょうか。それから、あなたを幸せにすると約束した人は、本当にその約束を果たしてくれたと思いますか。むしろ、あなたを道から逸らして、あなたが目指していたのとは全く違う目的のために、あなたを都合よく利用しただけの可能性があるとは思いませんか。
  
もしもその推測が当たっていたとして、あなたを取り巻く人々が、あなたに対して心から忠実でなく、あなたの親切心や善意を利己的な動機で利用したのだとしても、それは他ならぬあなた自身が、自分の心が最も求めていた答えに忠実でなかったから、周りの人々も、あなたに対して同じように振る舞ったのだとは思いませんか?

あなたは道を究めようとしながら、同時に世俗の幸福を追い求めた。それは二心ではなかったでしょうか。豊かに生きることが悪いことなのではない。しかし、禅の道に入ったのは、決してこの世の成功を第一に目指して生きるためではなかったはずです。あなたにはそれ以上に求めていた目的があったのではないでしょうか。

人から真に評価を勝ち得たいと思うなら、そのためにも、我が道を貫かねばならず、望んでいる最高の答えを見つけ出さねばならないのです。

しかし、あなたは本当の答えを見つけるために、孤独な生活を耐え抜いて、納得がいくまで、すべての物事を見極めるという探求に、自分は値しないという人の言葉を信じてしまった。

あなたはそのような高い犠牲を払える人間ではないから、その道は早々にあきらめた方が良いという他人の言葉を信じてしまった。その人は、その言葉をあなたのために発したのではなく、自分のために発したのに、あなたにはそれが見抜けなかった。そして、求めている最高の価値に、自分は値しないと思い込み、他者のサポート役に徹し、自分の目的をあきらめたから、あなたの探求は、世人と同じように、中途で終わってしまったのです。

だからこそ、現在のあなたの生き方の中には、俗世の人々と同じ価値観の他、出家して初めて得られたという知恵と喜びが見受けられないのです。
 
* * *

上記の話は厳しい批判の言葉であるが、一種の比喩である。クリスチャン家庭にも、似たような事例は数えきれないほどある。真理を探究しながら、途中で別の道へ逸れていく人は、いつの時代にも後を絶たない。
 
人の目には、この世で成功しているように見えさえすれば、心の探求を置き去りにしたことなど、誰にもとがめられないであろうが、神の御前には、自分の心をごまかすことはできない。

私たちは、道を探し求める時、自分自身の心の飢え渇きに対してどれほど忠実に歩めるかを試される。そして、その問題にまだ答えが見つかっていないうちに、それ以下のもので満足させられて、探求をやめてしまうことには、重大な危険が伴うことを知らなければならない。

筆者は、キリスト教徒として、「自分の心に忠実に歩む」のでなく、「神の御心に忠実に歩む」と言わなければならないが、しかし、神に忠実であるとは、そもそも自分自身の心の求めに忠実でなければ、できない相談である。

自分で自分の本心を偽っておきながら、神に対してだけは忠実に歩むなど、不可能だからである。

そこで、真実に神に従うためにも、自分で自分の心をごまかさず、偽らず、自分に対しても、他者に対しても、神に対しても、正直でなければならない。

しかし、多くの人々は、人の目に評価されるために、自分で自分の心を偽り、自分の本当の願いを後回しにし、自分を押し殺して生きている。そのような不真実な歩みの中で、神に対してだけは忠実に生きるとか、あるいは、真剣に真理を尋ね求めるなど、土台、無理な話なのだが、それを知らないのである。

自分で自分の心をごまかしている人が、真理に到達するなどということは、いかなる宗教であろうと、絶対にあり得ない相談である。

しかし、自分の心を偽らないで生きることは、かなりの犠牲を要し、他者が何と言おうとも、一切、その言い分に引きずられたり、心惑わされることなく、わき目もふらずに、自分の心の願い求める利益だけを第一優先して生きる姿勢がなくてはならない。

納得のいく答えを得るまで、絶対にあきらめず、困難にぶつかっても一歩も退却せずに、目の前にある課題とずっと取っ組み合わなくてはならない。
 
それはこの世の人間関係のしがらみにとらわれず、他者の思惑を全く意に介さない生き方であるがゆえに、この世の価値観とは全く異なり、わがままだとか、非常識だとみなされることが多い。そして、そのように誤解を受けたり、反対を受けたり、その探求をやめるよう説得されたり、世の賛同や理解を失うときにも、他者からの評価をすべて置き去りにしてでも良いから、自分の心の願い求めを最優先して生きることには、相当な犠牲が伴う。それを貫徹できるかどうかで、求めている答えが人生で得られるかどうかが決まるのである。
 
しかし、それを果たしてこそ、求道生活なのであり、答えを得るためには、自分の心が真に求めているものに対して、徹底的に正直な姿勢が必要である。

伝統的なキリスト教においては、自分の利益を最優先して生きることは、罪深いことだと教えられている。しかし、そのような考え方の中には、ある種の危険が伴う。キリスト教徒の間でも、物欲が罪だとか、年長者の意見に従わないことは罪だとか、フルタイムの献身者になりたい人がペットを飼うのは罪だとか、ありとあらゆる愚かしい誤解が飛び交っている。

しかし、真の罪とは、人が神でないものを神として最優先して生きることであり、人がこの世の事物や思惑によって、自己決定権を奪われ、自分の意志により御言葉に従うことができなくなった状態を指す。

もしも物欲や、欲望それ自体が罪だというならば、人間は地上に生存する術すらもなくなるであろう。何かを欲することそれ自体が罪なのではなく、その欲望が、神に従うことと両立しないまでに、その人の心の王座を占め、人が己が欲望の奴隷になるとき、罪が発生するのである。

筆者は記事冒頭で、禅寺に出家した人が、世俗的な享楽を謳歌することを批判したが、それは決して禁欲的な生活を奨励するためではなく、裕福な生活を送ることや、家庭を持つことが罪だと言いたいがためではない。

そうではなくて、人は自分が願い求めている最高の価値を、まず第一に追い求めて生きる姿勢を貫かねばならず、その原則は、キリスト教に限らず、すべての物事に共通するということを言いたいのである。

金メダルを目指していた人が、それ以下の賞で満足できるだろうか? 「あなたには金メダルは無理だから、目指すなら、最初から銅メダルくらいにしておいたらどうですか?」という言葉が、人を真に尊重する言葉であろうか?

どうせ高い目標を打ち出すならば、高望みしただけで達成できなかったと言われないために、最後まで犠牲を払って目的を追い続けなければならない。自分が目指している目標のために犠牲を払うこと怖さに、自分で自分の心を偽り、二義的な利益で満足してしまうと、最も価値ある探求がやむことになり、結果として、地上的利益が、真理を退ける罠となってしまう。

裕福な生活を送ることそれ自体が罪であるわけではない。しかし、そうしたこの世的な価値を至高の価値であるかのように錯覚して、この世の事物を超越した、真理を求める自分の心の探求を、二義的なものとして扱うときに、目に見えるこの世の事物が、人間の心を誘惑し、堕落させる罠となるのである。

だから、もう一度、以下の御言葉を挙げておこう。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(6)

 

「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。

主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ12:42-48)

一つ前の記事で触れた天に召された夫婦のことを書きたい。筆者はこの夫人から生前、一度だけ、有意義な叱責を受けたことがあった。

夫人が三渓園に筆者を誘い出してくれて、いつものように親しく交わりのひと時を持とうとした際のことである。その日は、筆者の霊的コンディションがそれまでと違い、交わりのために整えられておらず、最悪の状態にあった。

私たちは出店のテーブルに着き、夫人は道すがら買った筆者の大好きな桜餅を取り出して、団らんのひとときを持とうとしたが、その時、

「あら、お茶がないわね。あなた、買って来てくれる?」

と、気づいて筆者に言った。

筆者は立ち上がって、近くにある出店をいくつか覗いてみたが、目ぼしいものがなく、早々に引き返して来た。筆者が手ぶらで戻って来たのを見て、夫人は呆れて言った。

「あら、どうしたの?」

筆者が見つからなかったと言うと、夫人は呆れた様子で、

「お茶を売ってないわけないじゃない。もっとよく探さなきゃ」

と言ったが、筆者があまりに疲れ果ててもう行きたくない様子なのを見て言った。

「もういいわ、あなたはそこで待ってなさい、私が見つけて来るから」

夫人は自分で店を回り、すぐに戻って来て、ペットボトルのお茶を筆者の目の前に置いて言った。

「ほらね、すぐに見つかったでしょう。一体、あなたはどこを探したのよ?」

夫人はそれから筆者に向かってお説教を始めた。

「あなたには言わなくちゃいけないことがあるわ。このお茶のことだけじゃないのよ。あなたはいつもこんな風に、ちょっとした困難にぶつかったら、もう自分の望みを早々と簡単にあきらめてしまうの? この世のことなら、まだそれでも許されるかも知れないけれども、神様に従うに当たって、そんな姿勢では、この先、あなたは進んで行けなくなるわよ。
信仰を立派に守り通すためには、どんな困難があっても、それを突破して、最後まで望みを捨てずに進んで行く勇気と強さが必要なのよ。それがこんな情けないことでどうするの。あなたはもっと強くならなくちゃいけないわ。自分の目的を最後まであきらめずに貫き通すことをもっと学ばなくちゃいけないわ」

夫人が筆者に説教などしたのは、後にも先にもこの時一度限りであった。しかし、それを聞いている間にも、筆者はただぼんやりと力なく笑うだけであった。

実は、そのようなことになったのには原因があった。

この頃、筆者は、夫人からの再三に渡る忠告を無視して、仕事に打ち込み、毎日のように終電近くまで会社に残って残業していた。専門の仕事で実力を発揮し、自分で自分を支えなければならないというプレッシャーがあり、また、他の人々の負担を軽減することが期待されていたのである。

そのため、ようやく休日が来て、夫人に交わりに呼び出されても、疲労のあまり、指定された外出先に出て行くのがやっとで、美しい風景にも、心ここにあらずの状態で、ペットボトル一本の買い出しを頼まれても、果たせないほどに、疲れ切っていたのである。

残業だけではない、ほんのわずかな人数しかいない狭いオフィスで毎日のように変わる不安定な力関係、経営者からの無理筋の要求、愚かしい紛争にも、辟易するまでに心を疲弊させられていた。そして、それがまるで筆者の人生の中で重大事件のように心の座を占めていたのである。

夫人はそれまで常に率先して気前よく他者を助ける側に回っていたため、信仰の交わりにおいて、筆者は夫人から何かを要求されたことがなく、苦言を呈されるなどのこともそれまで一度もなかった。夫人はすべてにおいて満ち足りており、いかなる形でも、誰にも助けを求める必要がなく、筆者に買い出しを頼むどころか、いつも自分から交わりに必要なものを持ち寄っていたので、年少者に使いを頼むなどのこともなかったのである。

しかし、この時ばかりは、事情が違った。夫人は、筆者が主の道から逸れかけていることを知っており、筆者の陥りかけている悲惨な状況の危険性を指し示すために、あえて筆者に買い物を命じた(ものと考えられる)。そして、筆者はそのどうでも良いような些細な買い物をさえ、遂行する力がなくなっていたことを示されたのである。

その事件が示していた結論は、筆者が、このままこの世の価値観に没入し、神の国とその義ではないものを第一として生きる方向へ進めば、デリラに欺かれたサムソンに勇士としての力が失われたのと同じように、筆者の内なる力と尊厳は完全に消え失せ、筆者はわしのように翼をかって、天高く舞い上がるどころか、ペットボトル一本のお茶さえ買う力がないほど、弱々しい人間となり、地を這うように生きるしかなくなるということであった。そんなことでは、やがて夫人にも呆れられ、交わりからも脱落し、ついには自分の生活も失って、命さえなくなるであろう。

そういった方向性を、夫人は暗に指し示したのである。そして、どちらを選ぶのか、筆者に選択を迫ったのであった。 しかし、筆者は、その当時、そのような忠告は、働かなくて良い立場にある夫人の浮世離れした生活スタイルに過ぎないかのように思い、自分のような者に他にいかなる選択肢があるのかと、心の中で弁明するだけであった。

そんな考えが根本的に誤っていたことは、その後すぐに判明した。会社は残業代を支払わなくなり、残業代は定額制に移行し、それに同意しない社員は、愚痴や不満を経営者に告げ口されて、栄えある記念行事の前夜に、密室で契約打ち切りを言い渡されるという残酷な仕打ちに遭わされたのである。

そういう出来事を見て、筆者もようやく目が覚めたのだが、こうした結果を実際に見るまでは、夫人の忠告の正しさが分からなかった。自分で自分を支えなければならないというプレッシャーはそれほど大きく、筆者はこの世の仕組みがいかに御国の法則とかけ離れているか、まだ具体的にほとんど学んでいなかったのである。

夫人はそうしたことを見越した上で、筆者に様々な忠告をしてくれた。その当時、筆者はまだ多くのことを理解していなかったとはいえ、筆者は、故意に神の御心に反したわけではなく、ただ考えが甘く、経験が不足していただけであったので、神は筆者の正しい導き手として、その後も、忍耐強く、筆者に幾度も教訓を与え、筆者が天的な法則を学び、それを理解し、それに沿って生きられるよう手助けして下さった。

天的な法則と言っても、何もそれは神秘的な漠然としたものはない。それはただ神の国とその義、および、神を第一とする信徒の交わりを、この世のすべての関係や価値よりも優先して生きよというものである。筆者の内なる力、人としての尊厳、自由なゆとりある生活は、このように天の御国の権益を第一として生きる時、初めて保たれるのである。
 
命を保ち、自由と豊かさに至り着きたいならば、神の国とその義を第一として生きなさい。地上での生活や利益を最優先する態度では、囚人同然の生活が待っているだけであり、最後には、必死でつなごうとした命さえ、失われて終わるだけである。
 
そのように、それから今日まで何年間もかけて、筆者は御言葉の正しさを実地で試し、ことごとく証明して来たのである。
 
筆者の人間としての力は、地上にある限り、いつでもごく限られたものに過ぎないが、それでも、真に神を第一に尊んで生きるならば、筆者の限界の中でも、十分にすべてを行うことができるよう、神ご自身がすべてを整え、按配して下さる。

主ご自身が筆者の知恵と力となって下さり、決して筆者が行き詰まりに達して立ち止まることがないよう、守り、育て、養って下さる。

このように、天的な法則に従っている限り、人は雄々しく、強く、気高く、賢い、すべてに不足のない、自由な人として生きることができる。この世の問題に巻き込まれて疲弊し切ったり、行き詰まり、方々に助けを求めて人としての尊厳を失うことはない。

主イエスは、父なる神の御心を行うことが、ご自分の隠れた糧だとおっしゃられたが、それはこういうわけであり、私たちは天の雇用主にこそ喜ばれる生活を送らなければならず、そのことが私たちの地上生活において真のサラリーとなるのである。

この天的な道から逸れるや否や、私たちの力はすぐに失われる。地上では、この世の弱肉強食の原理が働くだけで、自力で自分を保つ力のない弱い人間は、真っ先に残酷で容赦のない結末へと追いやられるだけである。何らこの世における後ろ盾をも優位をも持たないキリスト者の存在などは、地の塩たる役目を失えば、まるで吹けば飛ぶ木の葉のように、この世の事件に翻弄された挙句、世人よりももっとひどい残酷な結末に追いやられるだけである。

そこで、私たちは、無駄な損失を避けるためにも、ただ神の力によって支えられ、守られて生きることこそ、この地上で人としての尊厳を保って生きる唯一の道であることを、できるだけ早期に学ぶ必要がある。天の父なる神に喜ばれる仕事をしてこそ、この世におけるすべての必要が満たされ、生存が保たれることを早期に知らなければならない。

いや、ただ生存が保たれるだけではない。もしも天的な法則に従って生きるならば、私たちは自分の肉体的限界、精神的限界、時間的な制約といったすべての物理的限界の中にありつつも、それを超えて、いかなる限界によっても脅かされることなく、何にも不足することのない、自由と豊かさの中を生きることができるのである。

それが天高く、わしのように翼をかって、自由に雄々しく舞い上がることの意味である。地上の限界に満ちた法則を、はるか足の下に踏みしだき、一人の有限な人間でありながら、一人ではとてもなし得ないような数多くの有益な仕事を果たすことができる。

そこに私たちの尊厳、高貴さがある。しかし、そういう人生が実現するためには、私たちが、まことの命であり、すべての供給源であるキリストに頼り、御父の喜ばれることが何であるかをわきまえて、私たちの真の雇用主を喜ばせるために生きねばならない。

キリストは、人間として地上に来られたとき、罪の他は、私たちと同じようにすべての人間的な弱さと限界を持っておられたが、それにも関わらず、彼はその限界によって、一切、神の御旨を実現するに当たり制約を受けられなかった。

キリストは、地上的な制約の中を生きられたにも関わらず、それによって全く損なわれず、不足することもない完全な人だったのである。キリストは万物を足の下に統べ治める方として、この世の物理法則もご自分に従えることのできる、真に完全な人である。そのキリストにある私たちは今日、自分も彼と同様に生きられることを知る必要がある。

実のところ、物理法則は、私たちを縛るためにあるものではなく、かえって生かすために存在している。
 
考えてもみれば良い、もしも私たちが見栄えの良い鳥かごを買い、そこに美しい鳥のヒナたちを買って入れるとすれば、それは一体、何のためであろうか? まさか様々な限界によって鳥たちを脅かし、苦しめるためではあるまい?

神が目に見える万物を人間のために創造され、その中に私たちを置かれたのも、本来は、同様の目的と配慮からである。それは決して幾多の限界によって私たちを脅かし、苦しめることが目的ではなかったのである。

この地球だけでなく、時空間を含め、すべての造られた被造物は、本来は、人間を生かし、人間に奉仕するためにこそある。しかし、アダムの堕落後、そのような創造の本来的な目的は失われたので、これを回復するには、私たちが真に完全な人であるキリストと霊的に一つに結び合わされ、この世を超えた新たな御国の法則の中を生きることが必要である。

この天的な法則は、この世の言葉で言い尽くすことはできないが、肝心なのは、何をするに当たっても、まずはただお一人の神に栄光を帰することを第一優先し、そのためにこの世的な利益や価値観を二義的なものとして扱う態度を貫くことである。

そうして御国の権益を第一とする姿勢を保つならば、その生き様に対しては、神が最終責任を負って下さる。しかも、それはこの世を超える永遠の保証である。

この世の経営者は、あなたがどんなにその意に従って奉仕してみたところで、あなたの生活を微塵も保障してくれず、むしろ、あなたから取れるものをすべて取り上げ、もう取るものがなくなったと判断した時点で、あなたを捨てて路頭に迷わすであろう。しかし、良き羊飼いである神は、あなたがその御声に忠実に聞き従うならば、あなたに命を与え、あなたを緑の牧場に、憩いの水際へ導いて下さる。あなたはそこで安らかに眠り、安らかに食べ、安心して好きなだけ駆け回ることができる。
  
人間に過ぎない者の栄光のために、自分自身をなげうてば、ただ破滅が待っているだけであるが、天の雇用主であり、まことの羊飼いなるお方の支配下を出なければ、自由が約束されている。

そこで、私たちは、神に栄光を帰するために、毎瞬、自分の力によって生きるのでなく、神の知恵と力に頼って、天的な法則に従って生きることを選び取るのである。

筆者は、この安らかな恵みをもっとよく知りたいと思っている。神の愛と憐れみの深さを、その恵みの大きさを、生きてもっとよく知りたいと思っている。何よりも、キリストにある新しい人の麗しい尊厳、高貴な生活をもっとよく知りたいと願っている。

以前の筆者は、困った時に神に助けを求め、神がもしも助けて下さるならば、その代わりに自分の人生を神に捧げても良いなどといった、まるで取引のような祈りをよくしていたものだが、今はそのような祈り方はもうしない。

むしろ、神は私たちの同労者であり、最も忠実な相談役であり、慰め主である。もちろん、神は私たちの主であり、私たちはその僕であるから、私たちが神と対等になることは決してなく、私たちが、御言葉に服従しなければならない立場にあることは変わらないとはいえ、神はへりくだっておられるので、私たちに必要な時に、いつでも喜んで助けを与え、私たちを支えて下さる。神は忠実な僕にとっては、決して僕を脅かす恐ろしい主人ではない。私たちが心の最も奥底まで信頼して打ち明けることのできる、最も親しい相談役、確かな助言者である。

筆者は夫人が世を去って後、様々な困難を突破して、決して望みを捨てずにあきらめることなく前進する方法を少しずつ学んだ。今はもう悪しき経営者のために、身を粉にして残業するなどの愚かな振る舞いはしない代わりに、御言葉の正しさを生きて証明するためならば、どんなにでも時間を費やし、困難を乗り越え、決してあきらめずに結果を勝ち取りたいと願っている。

こうして、だんだん「お茶」のストックにも、バリエーションが出て来たような気がする。今ならば、筆者は夫人から意志薄弱で弱々しい人間であるかのように叱責を受けることはないのではないか? 

もしも主がお要りようならば――。もしも主が本当に私をお要りようならば、そのためにこそ、喜んで自分の持てるすべてを捧げよう。スカルの井戸で、イエスのために水を汲んだサマリヤの女のように、あるいは、ダビデの渇きを癒すために、決死の覚悟で敵陣に乗り込んで飲み水を獲得した僕たちのように、私たちは神の御心の満足のためになら、地上で自分の限界ある存在をすべてなげうってでも勇敢に進んで行くべきである。その働きが私たちの地上での糧となって行くのである。

私たちの心も、体も、すべては神の栄光のために聖別されて捧げられた生きた供え物である。他の誰のものでもない。そこで、もしも誰かが働いて豊かな報酬を得たいと思うならば、まずは主のために、御国のために、神から栄誉を受けるために働きなさい。フルタイムで御国のために働きなさい。そうすれば、やがて思いもしない豊かさにあずかり、どんな困難に遭遇しても行き詰ることなく、常に幸福に満ち足りて生きることができるだろう。

こうして、私たちは、地上で天の権益のために身を費やす代わりに、それによって失われるものとは比べるべくもない、巨大で重い天の報酬にあずかる。その報酬とは、御父、御子、聖霊の交わりの中に入れられること、そして、私たちの主なる神からの誉め言葉である。

キリストが再び地上に来られる時までに、大いなる祝賀式典に備えて、彼のために栄光の花道を整え、豪勢な食卓を用意せねばならない。
 
だが、神が喜ばれる祝宴の食卓とは一体、何だろうか? それは神の御心を満足させるべく整えられた人の心である。かつてバプテスマのヨハネが人々を悔い改めに導き、主イエスの到来のために道を整えたのと同様、地上にあるすべてのものが、御前に膝をかがめ、すべての思いがとりことされてキリストに従う日のために、私たちが道を整えなければならないのである。

そのために、私たちは自分自身を叱咤激励し、忍耐しながら、奮闘を続け、幾多の戦いをくぐり抜けて、収穫を勝ち取っている。地上にける信徒の交わりのためにも、いくつかの物品を持ち寄るが、何よりも、主の満足を勝ち得るために、日々、働いているのである。
 
わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものにあるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅱコリント10:3-6)

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(5)


 夕べに田園風景の中を散歩すると、コスモスが見事に風に揺れていた。日暮れが早くなったので、我が家の動物たちとの散歩時間も早めねばならない。もうしばらくの間である、こうして静かに散歩できるのも。あと少しすれば、寒い冬がやって来る。

上記の写真は、鎌倉に住むとある(信仰にある)兄弟が生前、筆者を植物園に案内してくれた時のものだ。この兄弟は、夫人に先立たれ、筆者が仕事や人生で色々な困難にぶつかり、信仰の交わりのために連絡を取ることを控えていた間に、いつの間にか天に召されていた。

それまでの間にも、その兄弟はいくつもの大病を患い、何度も生死の境をさまよいながら、夫人に看病され、支えられ、何とか命を取り留めていたが、その夫人の死後、一人で地上に残されても、まだ元気そうな顔を見せてくれていたのは、筆者のための神の憐れみであったのだろうかと思い巡らす。

もしも筆者が、あの頃、この兄弟をもっと必要として、しばしば連絡を取って、もっと多くの回数、交わりに呼び出していたならば、神はもう少しの間、この人を筆者の必要のために、地上に残しておいてくれたのだろうか?

何しろ、そう考えても不思議でないほど、この夫婦はどちらもが地上に未練というものがなかった。ただ人のために役立つこと以外には、自分自身のためには、この地上で何一つ要求するものも、し残したこともないというすがすがしい人生を送る人たちだったのである。ある意味で、非常に恵まれた環境を生き、多くの人々が地上で執着するような事物には、全く関心がなかった。

だから、彼らは、身近に彼らを必要とする人がいなくなると同時に、ただちに天に召されて行ったのだという気がしてならない。多分、筆者が彼らにとって、地上に残るための最後の必要だったのではないかと思わずにいられない。

さて、我が家の小鳥のヒナたちは、朝から晩まで騒がしい。まるで赤ん坊の世話のように手が抜けないが、何羽もの小鳥が、けたたましく鳴きながら、大きな口を開けて飛びついて来るのを見るのは、何とも言えない喜びであり、愛らしさである。
 
鳥には春と秋に産卵期があるが、鳥のヒナを育てるならば、春でなく秋がお勧めだ。なぜなら、日本の夏は、素人には気温の調節が難しいからだ。特に、猛暑の終わりから秋にかけての気温の変化は、人体にとっても大きな負担だが、小鳥のヒナにとっては致命的な負担となりうる。

小鳥が体調を崩すにはほんの半日あれば十分で、特に成鳥になるまでの一年間は油断がならない。個体差もあるので、他の鳥にとって何でもない変化が、ある鳥にとってだけ大打撃となったりもするのだ。

とはいえ、小鳥がまだ活発に反応を返している間は、多少、具合が悪そうに見えても、処置はまだ十分に間に合うと期待して良い。成鳥でも、ヒナ同様の保温と、強制給餌とで、回復させることができる。我が家には強制給餌用のカテーテルはないが、鳥にまだ食べる力が残っているうちは、挿し餌と同じ要領で対応できる。固形物ではなく、流動食を与えること。とにかく絶食の状態が続かないようすることである。

これまで筆者には、子供の頃から、鳥に関してはさまざまな思い出があり、悲しい別れやつらい失敗談も数多くあった。特に、子供の頃に最初に見た光景は、人間の無知のゆえに、せっかくかえったヒナも育たなかったという悲しい結果であった。

そういうこともあって、多くの愛鳥家たちは、繁殖をこそ重視して、珍しい鳥のヒナをかえすための研究に日夜、心血を注いでいるが、筆者はそのような研究に没頭する気になれず、まだ卵からヒナを返し、無事に全羽を育て切る自信がないため、巣箱を入れる気にはなっていない。

来年には文鳥よりももっと高価な鳥たちの間で、新たに愛らしく美しいペアが生まれるだろう。新たな学習のチャンスで、美しい色の羽を持つ貴重なヒナたちを育てようと思えば育てられる。そろそろ、巣箱を入れることも、考えてみようか。文鳥あたりから始めるのが良いだろうか。そう思いめぐらしながらも、まだ決断がつかないでいる。

* * *

最近、霊的な戦いにおいて、一つの大きな山場を超えたことがよく分かる。多くの人たちが、まるで正気を取り返したように、最初から至極まっとうなものであった筆者の意見に、大きく頷いてくれるようになった。

一体、この国はもう滅びるしかないのだろうかと幾度も考えたが、崖っぷちのようなところで、何とか正気を取り返し、踏みとどまっている現状だと思う。これから、ここまで退却させられたすべてを押し戻さなければならない。
 
筆者は人からの理解や賛同を求めているわけではないが、主が送ってくれる援軍はとても心強い。その一言一言に勇気づけられ、心の尊厳を回復し、心を奮い立たせることができる。

だが、気は抜けない。最後の決戦までの大詰めの準備作業が残っているからだ。神は筆者にこの準備のために必要な期間をわざわざもうけて下さった。誰も知らないが、予定が先送りされて猶予が与えられているのは、理由のないことではない。

主のために、教会を守るために、公然と訴えを出せる立場にいながら、生計を維持するために、その作業を先送りしている人たちがいる。だが、筆者は彼らに言いたい、生計を維持することが、私たちの第一優先課題ではないのだと、真に天の御国の権益に寄与する仕事をすれば、すべてのものは添えて与えられると。生計を維持するためにも、まずは御国の権益のために働くことだと。

実際に、御国の権益拡大のために種を蒔くことが、私たちの地上における生存を豊かに保つための最大の秘訣なのである。この原則は、私たちが地上に生きている限り、決して変わらない。だから、勇気を奮って、この原則を試してみることをお勧めする。真に神に喜ばれる仕事を第一とするならば、生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、筆者が鳥を好きなのは、地に足をつけない(根差さない)生き物だからである。

天高く、空高く、わしの翼のように、翼をかって、復活の命の統治の中を生きていきたいと願う。そう考えながら、ふとイザヤ書の第40章の節を思い出して、御言葉を調べると、何とタイムリーな内容ではないか。

この一章は今、まるで詩のように筆者の心に響いて来る。そうだ、主の回復の時を告げる幸いなニュースが、今、筆者の耳元にも聞こえて来ている。まだ何事も起こらないうちから、麗しい音楽のように、その調べが耳元に届くのである。

まるで訴えを出した人が、正義の判決文が読み上げられる瞬間を待ち望むように、筆者は、主の深淵な取り計らいに、その解放を告げ、自由をもたらす宣言に耳を澄ます。まことに草のようにはかない筆者の存在を、神は御心に留めて下さり、筆者の受けた他愛もない苦難のために、大いなる慰めを与えて下さったのだ。

そこで、筆者は羊のように神の懐に抱かれ、その腕の中で安らぐ。神は乳飲み子のような羊さえ、傷つけることなく優しく導かれる。万物の創造主であるからこそ、私たちすべての被造物の弱さと、そのしかるべき取扱いを心得ておられ、一つの命も絶やすことなく、私たちの呼び声に耳を傾け、適宜、助けの手を差し伸べて下さることができるのである。

自由を告げる福音が、今、私たちの耳に届いている。今日が恵みの日、救いの日である。解放の宣言に耳を澄まし、これを受け入れる人は幸いである。私たちを囚われ人の立場から自由にして下さった、大いなる主の御名の前に畏れかしこみなさい。主の御名を誉めたたえなさい、エルサレムよ、あなたの苦難はすでに終わったのである。
 
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。


こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。

主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。 見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。

それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。

あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。

聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

このイザヤ書の御言葉に、主よ、本当にその通りです、と、筆者は心から言うことができる。

我が主よ、あなたは私が弱った時に力を与え、私に勢いのない時に、強さを増し加えられました。私が若くても弱り、疲れ、倒れ果てそうになった時、あなたが私を支えて下さり、新たなる力を与え、わしのように天高く舞い上がる力を与えて下さったのです。

だからこそ、誰が私を見捨て、裏切ろうとも、どれほど援軍が少なくなろうとも、どれほど数多くの誤解が生まれようと、そんなことには一切、関係なく、私は頭を上げて、あなたのお与え下さった義と聖と贖いに立って、あなたと共に大胆に前進し続けることができたのです。そして、あなたは地上のどこからでも新たなる援軍を、私のために呼び起こして下さることができました。そのことを私はこの目ではっきりと見たのです。

そこで、私はあなたの民でない人々に助けを乞うことは金輪際しますまい。主の民が、異邦の民に助けを求めるのでなく、異邦の民が、主の民に仕えるのです。私の助けは、ただあなたお一人からやって来るのです。
 
我が主よ、あなたがおられるからこそ、今、私は自由であることができるのです。あなたの知恵に満ちた深淵なお取り計らいに、私は心から感謝せずにはおれません。あなたのはかり知れない知恵とご計画は、私の理解を超えているとはいえ、私は自分の訴えがあなたに顧みられていないとはもう申さないことでしょう。私の道があなたに隠れているとも申し上げません。

どれほど私の道が不確かに見える時であっても、主よ、あなたが私の同伴者である限り、あなたは必ず、目的地まで正しく私を導いて下さることがおできになると、私は確信しています。私のこの言葉は、信仰による宣言としてこの先も私の人生に残り続けるでしょう。あなたが私の決意を心に留めて下さり、私を最後まで御言葉の内に保って下さいますように。

我が主よ、私は頭を垂れて言います、あなたこそ、私たちの期待に応えて下さることのできる方、あなたこそが、私たちにとっての真の解決であり、助け手であり、希望なのです。あなたは私たちの期待を決して裏切られることのない方です。私たちを失望に終わらせない方です。どうか、あなたにふさわしい大いなるヴィジョンを、この枯れた骨のような、死んだような民にお与え下さい。

そして、私たちが、もう一度、生きた者として立ち上がり、あなたの大いなる御名に、栄光を帰する存在となりますように。あなたの御名にのみ、栄光が帰されますように。地上のもろもろの事物、すべての生きとし生けるものたちが、こぞってあなたの御名を讃え、あなたに服し、あなたに感謝を捧げますように。


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(4)

 

いつの間にか、横浜は紅葉して秋の美しい風情となっていた。
ついこの間まで、冷房が必要だったのに、今は動物たちのために暖房が必要である。

朝晩の寒暖の差が激しくなり、あやうく小鳥が体調を崩しそうになったので、遠赤外線ヒーターを小鳥のヒナたちのためにつけてやった。
 
言い尽くせない激戦の一年間であった今年も、もう終わりに近づいている。
 
懸命に走り抜けている間に、気づかぬうちにすっかり季節が変わっていた。
上は分厚い書類の束を抱えて幾度も訪れた裁判所の光景であるが、去り際に、思わず見事な銀杏に見とれた。

心の重荷は過ぎ去り、喜びと、平安とが訪れる。
 
我が人生の中で、類例のない大きな試練の年であったが、なすべきことを立派に成し遂げ、立ち向かうべきものに毅然と立ち向かい、守るべきものを守り通したという、形容しがたい平安と満足感が心に溢れている。

もちろん、まだ何も終了したわけではないが、それでも、本当に第一とすべきことを第一として生き、それによって、神の恵みの大きさを知り、神が愛する子供たちをどれほどはかりしれない配慮をもって守り、導いて下さるか、その一端を知ったというすがすがしい満足感があるのだ。やはり、神の国の前進のために生涯を捧げること以上に、有意義な生き方はなく、神と同労して生きる以上の満足は地上には決してないと自信を持って言える。

だが、そのために大きな犠牲が存在したことは言うまでもない。何しろ、手探りで前進し、一切、人間的な助けを受けずに、神だけを頼りとして、二人三脚で進んだのである。一人の不慣れな人間としては、言葉に言い尽くせない試練があったことは間違いない。

まさに「死の陰の谷」のような暗いトンネルを通過したと言っても良いだろう。

しかし、その間に生じた著しい犠牲さえも、神はただちに安息のうちに補償して下さった。「主が与え、主がとりたもう、主の御名は誉むべきかな」という姿勢を貫徹したときに、失われたものが、わずかなうちに前よりも豊かに回復されたのである。

これは筆者にとって、天からもう一度与えられたヨブの子供たちに等しい。

神にはこの世の経済や物流を支配することなど何でもなく、私たちが損失だと思っているようなものはいくらでも回復することがおできになる。

だから、試練があっても、筆者の人生に損失は生じなかった。そして、追い詰められて窮するということもなかった。その結果はこれから徐々に表れて来ることであろう。

しかし、目に見える結果がはっきりと現れるよりも前に、筆者自身の人間としての内なる尊厳が、完全な回復軌道に乗ったことが分かる。このことが何より最も肝心である。

たとえば、普通の人々は、脅されれば恐怖におじ惑い、いじめられれば泣いて逃げ、中傷されれば、悩み苦しむだけの、弱く、臆病な人間であろうが、そのようなどこにでもいるありふれた人間とは異なる、キリストと共に天の王国を統治するにふさわしい力と威光と尊厳を備えた真に「新しい人」が、筆者の内側に姿を現し始めているのである。

この新しい人格は、どのような試練が起きようとも、御名の栄光のためにすべてを捧げて前進することができる勇敢な新しい人格である。だが、それは勇敢な兵士のようであると同時に、言葉に言い尽くせない平安に根差した実にチャーミングな人格でもある。

それをクリスチャンの用語では「キリストが内に造り込まれる」と言う。しかし、キリストの人格が私たちの人格の内に彫り刻まれ、形作られるために、まず必要なのは、試練である、と言うと、多くの人たちがそんな苦しみは御免だと、ためらって去って行くかも知れない。

しかし、この試練をくぐりぬけずして得られるものは何もない。試練の只中で、忍耐して希望を持ち続けて信仰によって進むとき、初めて、この世のすべての有様を超越した、何によっても揺るがされることのない新しい人格が内側から生まれて来るのである。この世のどんな利益とも引き換えにならない神への愛と従順が生まれて来るのである。

だが、それは一足飛びには行かない、本当に少しずつ、少しずつの進歩である。

そして、この原則は全ての信じる者たちに共通する。当初は状況に翻弄され、きりきり舞いさせられ、四方八方に助けを求めているだけのように見えたか弱い人の中から、少しずつ、信仰によって、神の強さが発揮され始める。束縛されて苦しめられているだけのように見えた人の中から、自由と尊厳が回復される。混乱し、悩みに満ちていたように見えた人の中から、揺るぎない平安と喜びが生まれて来る。

今日が恵みの日、救いの日、日々、囚われ人が解放され、悲しむ者が慰めを得、キリストにある新しい人が、弱った人々の中に、徐々に姿を現し始める。

もちろん、キリスト者は信仰を持った時から、御霊が内に住んで下さるのだが、それだけではすべてが完了ではなく、その人自身の人格、考え方、気質、行動が、長い時間をかけて、人間的な水準から、御国の水準へと、変えられなければならないのである。

こうして生まれる新しい人格には、力と権威と尊厳が伴っている。それは幼い日のヨセフではなく、キリストの御丈まで成長し、霊的に成人に達したヨセフである。神の御心が何であり、何をすれば、神に喜ばれるのかを知っている熟練した神の僕である。

その新しい人格がはっきり姿を表せば表すほど、信仰者の内側から、キリストのまことの命の支配権が発揮され、行使されるようになる。筆者はそう確信している。
 
筆者はまだまだ御霊による支配を十分に知ったとは全く言えないが、少しずつ、御国の前進が、目に見える形で地上に及んでいることを感じつつある。そこで、この先の歩みは、これまでとはかなり違ったものになるだろうと予感する。

さて、そろそろスローテンポにしていたブログ更新をリアルタイムに戻したい。
 
これまで幾度となく述べて来たことの繰り返しになるが、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば、すべては添えて与えられる、という御言葉は本物である。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

この御言葉が真実であることは、筆者が生きて来た行程のすべてを振り返っただけでも、十分に分かることである。もしも神の国とその義を第一として生きるということをしなかったならば、筆者は今、ここに存在することさえきっとなかったのに違いない。

そこで、読者にも言いたい、もしもあなたがこの困難なご時世を、最後まで無事にそして勇敢に高貴な人として生き延びたいと願うならば、神の権益に関わる仕事をしなさいと。

真に御国の権益に関わる戦いを始めなさい。そのために持てるすべてを投じなさい。そうすれば、それを実現するために必要なすべてが、天から与えられる。誰にも助けを求める必要はない。このことは間違いのない教訓である。

だが、一体、何をすれば、神の御名に栄光を帰することができるのか? その方法は人それぞれに異なる。重要なのは、人間の利益のために奉仕するのではなく、神の利益のために奉仕することを第一に目指すことである。

私たちクリスチャンは、神の栄光が損なわれ、御名が傷つけられている現場を見たとき、これを素通りするのでなく、御名の栄光の回復のために働くべきである、と筆者は強く主張する。真実が曲げられ、正義が曲げられ、嘘と虐げと搾取がはびこり、何よりも神の花嫁たる教会が告発され、穢され、傷つけられ、蹂躙されているのを見たとき、これを素通りするのではなく、神が贖われた者を告発する者には、小羊の血潮に立って毅然と立ち向かうべきである。

キリストの花嫁なる教会は、キリストにとってご自分と同じほどに価値ある存在である。キリストがその命を捨ててまで愛され、贖われた花嫁である。その教会が蹂躙され、混乱に陥り、主の民が離散し、行き場を失うことを、果たして神が望まれるであろうか?
 
悪魔は立ち向かえば、逃げ去る、そう聖書に書いてある通り、そうして回復される権益は、この世のすべての利益にまさる、御国の権益である。このようにして、御国の権益を地上で拡大して行くことが、神の喜ばれる奉仕なのである。

とはいえ、各自が主の御名の栄光のために奉仕する方法は、様々に異なるので、御国の権益を守り、拡大するための戦いの方法には、決まった型があるわけではない。だが、いずれにしても、その戦いに共通している点は、一人一人が、自分が生き永らえることだけを第一目的として生きるのではなく、真に神の栄光を回復するために、御国の拡大のために、自分の人生を残らず捧げることである。

そうするときに、どんな困難が起きようとも、神があなたの人生に最後まで責任を持って下さり、平安のうちに必要のすべてが備えられる。あなたの望みを実現に至らせて下さるのは神である。明日の苦労といったものは、本当に些末な問題でしかないことが分かるだろう。もちろん、兵士である限り、戦いは激しく、厳しいかも知れないが、それを切り抜けるために必要な知恵も、助けも、慰めも、物資も、すべて天から供給される。

だから、あなたは自分が一人ですべてに立ち向かっているのでは決してないことが徐々に分かって来るだろう。それどころか、私たちを中心として、すべてのものが、やがて私たちの内におられるキリストの権威と支配に服従するようになるのである。

キリストが万物を足の下に統べ治める方であるというのは、絵空事ではなく、私たちキリスト者一人一人の生き様を通して実現する事柄なのである。だから、私たちは、キリストの支配が本当に自分の身の周りで実現するまで、彼がすべてを足の下にするのを見るまで、ずっと十字架を貫き通さなければならない。試練があったからと言って、決してあきらめて退却してはいけない。

天から竜を投げ落とすための秘訣は、小羊の血(贖いによる義認)に固く立って、試練があっても、死に至るまで証の言葉を降ろさないことである。

また、ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるサタンが罪に定められたように、今日も、神は、クリスチャンを訴える悪魔に対してこそ、有罪を宣告される。

そして、神は私たちの汚れた衣を脱がせ、新しい祭服を着せられ、清い帽子をかぶらせて下さる。ちょうど帰って来た放蕩息子が新しい服を着せられたように。これは私たちの人格の内なる造り変えを象徴する描写である。

そして、この造り変え、聖別は、日々行われる。このように神に守られ、愛され、義とされ、とりなされ、聖別されるために必要なことは、日々、神の戒めを守り、御言葉に従って歩み、祭司としてのつとめを果たすことである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:18-19)

このようにある通り、全き愛は、恐れを取り除く。だが、そのような完全な愛は、神への愛、何よりも、神が私たちを愛して下さる愛の中にしか存在しない。御霊によって、その交わりの中に入れられるとき、私たちの心の中から、恐れは取り払われる。そのように神の愛を知る時、私たちは初めて、どんな試練にも臆せず、自分の残るすべての生涯を、御国の前進のために捧げることができるようになる。それは決して自分自身の決意や力にはよらない。

だが、同時にその愛は、私たち自身の人格を造り変え、私たちを神にあって、他者との関係にも、御心をもたらすことができる人へと変えて行く。ヨセフはエジプトに売られた後、自分の生まれ育った故郷とも、父とも兄弟たちとも関わりがなくなり、長い間、彼らとは二度と会うことさえないと考えていたであろうが、それにも関わらず、神はその当時から、ヨセフを通して、彼の一家に恵みをもたらそうと決意されていたのである。

私たちが本当に神に対して自分を捧げるならば、似たようなことが起きる。私たちの存在は、そのものが「キリストによって神に献げられる良い香り」(Ⅱコリント2:15)となり、私たちの自覚とは関わりのないところで、他者を生かすために用いられるだろう。私たちは自分で何かをしてやったなどとは全く思わないかも知れないが、私たちの存在そのものが、神のご計画の成就のために欠かせない一部となるのである。(しかし、滅びる者にとっては、「死から死に至らせる香り」であり、救われる者にとって「命から命に至らせる香り」である。)

* * *

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

* * *


「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。  主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」(ゼカリヤ書3:1-6)


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(3)

「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。
ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。 兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。

ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したので、彼らは、ますます彼を憎んだ。ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。 すると兄弟たちは彼に向かって、「あなたはほんとうにわたしたちの王になるのか。あなたは実際わたしたちを治めるのか」と言って、彼の夢とその言葉のゆえにますます彼を憎んだ。

ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。 彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。  兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 」(創世記第37章1-11節)

ヨセフはキリストにあって統治する新しい人の予表である。ヨセフが子供の頃に見た夢は、将来起きることの予表であった。それは彼の高慢さが生んだ幻ではなく、主が彼に与えられたビジョンであった。

だが、そのビジョンが実現するために、ヨセフは長い長い苦難の月日を通らねばならなかった。彼は非常に幼い日に、自分がやがて一家の中で最高の地位につき、支配者になることを予見したにも関わらず、その直後に起きたことは、兄たちに妬まれ、奴隷としてエジプトに売られるという痛ましい事件であり、その後も、僕として仕えていた家で讒言を受けて投獄されるなどし、その高貴なつとめが明らかになるまで、長い長い苦難を経過した。

その試練の後で、初めて、ヨセフが幼い日に予見した彼の本来的なつとめが実現するのである。

ヨセフの他に抜きんでた高貴なつとめ、これはキリストのつとめを予表するものである。むろん、ヨセフはイスラエルの民、そして今日の主の民の象徴でもある。闇の中にあって、またたく星のように命の光を堅持する者、人類の中から初穂として贖われる者たちの象徴である。

そこで、今日のキリスト者の歩みも、ヨセフや、あるいはヨブの人生に似たものとなる。神が与えられた幻が、非常に高貴で崇高なものであって、この世を超越したものであればあるほど、それには十字架の霊的死という代価が常に伴う。

復活の命が働く前に、大きな死の力が働く。主の僕らには必ず、十字架の死に甘んずるべき期間が存在する。しかし、その死の只中から、失われたものを回復して余りあるまことの命の力が働き、それがやがて強くなって、死を飲み込んでしまう。後者の結果がはっきりとキリスト者の人生に結実せねばならない。
 
私たちはこの復活の命の力の統治をまだまだほとんど知らないのである。

キリスト者は誰しも万物を足の下にしておられる方を内にいただいているため、この世のすべてを超越して生きる者である。ところが、キリスト者を取り巻く現実はまるでそれとは逆に見える。むしろ、キリスト者の方が、絶えずこの世から攻撃を受け、圧迫されているかに見える。

しかし、それこそが、私たちたちが何を信じるかの戦いである。この世が優勢で、キリスト者が持ち運んでいる御子の支配にまさっているかの有様が覆り、キリストの御霊による命の支配が、現実となって現れるまでに、信仰者は幾多の苦難や試練を信仰によって通過し、勝利をおさめる術を学ばなければならない。

さて、人は一体、何を目指して激しい試練を通過することができるのだろうか。それは望みによる。これまで、御霊に導かれて生きる生活において、人の望みがどれほど重要な役目を果たすか、幾度か触れて来た。しかし、このことを理解するためには、ある意味で、キリスト教の従来の常識の枠組みの外に出てみなければならない。福音伝道やら、日曜礼拝やらといった形式を守ることを敬虔さと取り違える宗教的な枠組みの中では、個人の望みが持つ大きな意義と可能性はほとんど忘れ去られるだけに終わるためである。

私たちが前進し続けられる原動力は、各自が心の中で抱いている望みにこそある。その望みは、人それぞれに異なり、キリストにあって自由とされた私たちが、自分の人生をどう生きるのかという極めて個人的な人生設計を意味する。牧師になることや、宗教指導者になることや、偉大な伝道者、偉人となることが目的ではなく、神の御前で、人知れず、自分の人生をどう生きたいのか、どうすれば神の御心にかなう人生を送れるのか、各自が心の中で、他者とは全く異なる独自のビジョンや、目標を持ち、率直に自分の願いを神に申し上げ、それを神と同労して実現に至らせることである。

その中で、もしもキリスト者として与えられた高貴な使命が本物であれば、どんな試練があろうとも、やがてヨセフのように抜きんでた崇高な霊的使命――祭司としての使命――が明らかになるはずである。

* * *

不思議なほど、心に静寂があり、すべての必要が備えられる。

もしも神が味方して下さるならば、すべての必要は備えられ、心配しなければならないことは何もない。しかし、神が味方して下さらないならば、私たちの存在はたちまちに塵灰のようになってしまう。

だが、真に神が味方して下さる戦いを戦いたいならば、私たちは心の中からデリラを追い出し、神の御前に祭司として敗れ口に立ってとりなす姿勢を保たなければならない。

ここでは、デリラとは全人類(旧創造)のことである。私たちは、人の賞賛、人の理解、慰めを求めるのではなく、それらすべてを退けてでも、ただお一人の神からの栄誉だけを求め続ける。

しかし、そうして行く時に、人の理解や慰めも、あるいは賞賛でさえ、ちゃんと後から着いて来るのである。人間の利益を最優先して生きるのではなく、ただお一人の神からの栄誉、神の(御国の)権益を第一に求める姿勢を貫くことで、必ず、この世においても、ヨブに失われたすべての子供たちや財産が取り戻されたように、神は必ず必要な助け手、援護者、理解者、友を送って下さる。

神は私たちが人間に過ぎないことを知っておられ、私たちのこの世での生存がいかに短いものであるかも知っておられ、地上での生存に必要なすべてを備えて下さる。

だが、困難な局面に、神はただ味方して下さるどころか、余りある祝福を与えて下さったことを、時が過ぎても、筆者はきっと忘れはしないであろう。

地上にいる間は、まだ何もかも終わったと言って安堵できる状況にはないが、ヨブの失った子供たち――は、確かに、また新しい子供たちとして、神の手から彼に返されたのだ。すさまじい戦いの中で失われたものが何であれ、キリスト者の人生にはそれを補って余りある豊かな回復がある。そのことを、私たちは生きて示さなければならないのである。

神がどれほど信じる者を祝福して下さろうと考えておられるか、どれほど大きな恵みを用意して下さっているか、どれほどはかりしれない大きな愛で、私たちを守り、包み、見守り、そして助けて下さるか、私たちは自分で想像することもできないが、これを生きて示さなければならない。

エステルに向かって王は言った、あなたが望むなら、王国の半分でもやると。王国の半分をやるとは、全部をやるのと同じことだ。王と共に共同統治者になるという意味である。だが、私たちは、それがキリストを通して、私たち自身に宣告されている言葉だと気づいているだろうか?

私たちはあまりにも死の恐怖におののきすぎて、金の笏が述べられても、まだ命へと入れられたことを自覚していないのではないだろうか。「あなたは何を望むのか」――そう問い尋ねられても、まだためらって答えられないでいるのではないだろうか。

しかし、心の内で答えは決まっている。

王よ、私が望むのは、財宝でもなければ、土地でもありません。あなたの正義をこの地に実現していただきたいのです。私たちの民を脅かしている勢力があります。その者たちは、主の民に泥を浴びせ、あなたの名を穢し、ついに主の民を殺そうと計画しています。しかし、彼らは自分で掘った穴に落ちなければならないのです。

王は問う、そのような狼藉者がいるとは。一体、それは誰なのか。

王妃は答える、それはあなたの名を使って、あなたの代理人のように振る舞って栄光を浴びているあの高慢な大臣ハマンとその取り巻きです。彼は自分にひざまずこうとしないモルデカイを憎み、モルデカイが属している主の民を圧迫し、殺しさえすれば、自分に逆らう者は誰もいなくなると考えています。しかし、その次には、彼はあなたの玉座を狙おうとしているのです。彼が目指しているのは、自分が王になること、自分が神のような絶対者になることなのです。

王は言う、王は私一人だけだ。他に王はいない。

王妃は答える、その通りです。ハマンは大臣であって、王ではありません。その大臣としての権威も、あなたが授けたのでなければ、彼は自分では何も手に入れられません。しかし、彼はあなたの代理人のように振る舞う中で高慢になり、自分の分を超えました。彼は心の中で、自分こそ王だと思っているのです。私たちは自分たちの命が惜しいからこのように申し上げているわけではありません。ハマンがあなたの統治を奪い、覆そうとしているからこう申し上げるのです。王よ、もしこの国を、この民を惜しんで下さるならば、ハマンに好き放題させることをやめて、あなたが支配者であることをぜひとも表していただきたいのです。

* * *
私たちはまだまだ戦いの初歩にあるが、新しい時代が来ようとしている。

人々はこの悪しき時代にほとほと嫌気がさしており、新しい時代を切に求めている。

おびただしい量の嘘と、不正と、不信と、陰口と、猜疑と、分裂分断に対抗して、真実、正義、信頼、協力が取って代わる。

どれほど嘘や陰口を触れ回り、分裂分断工作をしかける人々が現れても、なお消えない、しっかりした愛情、信頼が生まれ、言葉にも態度にもよらない、心の深いところでの信念に基づく協力や連帯が生まれる。

それは人工的に作り上げられた絆ではない。私たちは、連帯している大きな勢力だと、メガホンを持って声を大に叫ぶことはない。たくさんの旗を立てて、我ここにありとアピールすることもない。しかし、この連帯は、さざなみのように静かに広がって行く。心ある勇士はこの指にとまれ、共に最後まで戦い抜こうと、言外に呼びかける声が、理解者を呼んで行く。

今回、幾人もの人たちから協力を得ている。決して細部まで明らかにすることはないとはいえ、実に大勢の人々が、この件のために奉仕することになったのである。そこには、明らかに天の采配としか言えない様々な巡り合わせがあった。その中には、協力したなどとは一切考えていない人たちまでも含まれる。ただ筆者にはよく分かるのである、それが確かに主の御助けであることが。
 
長い歴史の間に起きたことをすべて明らかにすることに意義があった。むろん、まだ証明作業はこの先も続くのであって、それは生きている限り、私たちがキリストの復活の証人であり続けることを意味するのだが、神が人間を創造された目的は、人々をソドムとゴモラの住人のようにして町ごと、国ごと滅ぼすことにはないと、筆者ははっきり言える。

敗れ口に立ってとりなす作業は、峠を越えた。バアルにひざをかがめない民を、神はどこからでも必ず呼び起こして下さることがおできになる。ただし、招集をかけるのは私たち自身の仕事であって、常に主の山に備えがあることを信じて、進んで行かなければならない。だが、そんなにも遠くまで探し求める必要はない。ささげもののための羊は、振り向けばすぐそこにある。

私たちの愛する御子キリスト、彼こそ神を満足させる生きた永遠のささげものの小羊であり、私たちが神の御心を満足させるためにささげねばならないものは、すべて彼を通して供給される。

筆者は今まで知らなかった新しい法則を学びつつある。それは、およそ地上のすべてはキリスト者のために備えられたものだということ。そこには、地上の物流、経済だけでなく、人も、人の心も含まれている。ハドソン・テイラーは祈りだけによって、他者の心を動かす術を学んだが、筆者も、同じように、天を経由して人の心に働きかけるだろう。

神が僕のためにすべての必要を備えて下さり、必要を天から直接、供給される。我々の目の前にあるものは、すべて征服すべき霊的領土なのである。日々、新たなる収穫を勝ち取って行かねばならない。そして、そこに目に見えない復活の旗を立てて行かなければならない。神の勇士たちよ、奮い立ち、力を取り戻して立ち上がり、大胆に前進し続けなさい。御国を地にもたらすために。地に平和がなるように。