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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうでないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。

しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)

改めて以上の御言葉が心に思い起こされる。

いくつか前の記事に、私たちは裁判官も含め、地上で立てられたすべての権威に服すべきということについて書いた。そうしないことの恐ろしさがどんなものであるかを、筆者はすでに結審した裁判の過程で十分に思い知らされたと言える。
  
今回、被告となった人々は、すでに結審したその訴訟のみならず、他の裁判においても、幾度も裁判所の判断を信頼しない姿勢を示して来た。彼らは自分たちにとって不利な判決が出ると、早速、「裁判所はこの世の機関であって、信仰の世界には疎いから・・・」という言い訳がましい弁明を持ち出し、自分たちにとって不利な判決を尊重しない姿勢を示して来たのである。

そのように、ご都合主義的に地上の裁判所の権威を利用して来た被告らの一人は、筆者の提起した裁判では、ついに裁判所の決定を「不法行為」であるとまで言い立てた。

詳細はここには記さない(それを記すのは、すべてが終結してからのことになろう)が、筆者が行ったある申請が裁判所によって許可されたことが許せないがために、被告はついに裁判所が「不法行為」を働いているとまで言い始め、裁判官の権威をさえ否定するような主張に及んだのである。

その主張を書面で読んだとき、筆者は、ついに来るべき瞬間が来たなと感じた。彼らはこれまでにも自分たちにとって不利な決定は何であれ、認めない態度を取って来たが、今となっては、ただこれまでのように、教会の権威に逆らうだけでなく、地上の権威にも逆らい、ついにおよそ自分の上に立てられた権威という権威をすべて否定して、自分はどんな裁きにも服さず、自ら裁き主となって、神に等しい権威者になろうとしていると筆者は感じ、そのような発言を非常に恐ろしいものであると感じたのである。
 
そして、その恐るべき発言を聞いたからこそ、筆者は、決してその姿勢にならってはならず、そのために、我々は信仰を持たない人々の決定であっても、自分の上に立てられた権威の前に、己を低くして、徹底的に従順な姿勢を貫かなければならないと固く心に留め、そうすることを決意したのである。
  
我々の上に立てられた信仰を持たない権威者は、彼らも人間であるから、しばしば、弱さも見せるであろうし、判断を誤りかけることさえあるかも知れない。しかし、もし我々が誰かを自分の上に立てられた権威者として選んだのであれば、私たちはたとえ彼らの弱さや限界を知ったとしても、それにつけこんだり、利用したりすることなく、彼らの人格を理解し、受け入れた上で、彼らが我々との関わりの中で、共に正しい判断へと至り着くことができるよう、最大限の努力を払わなければならない。私たちはそのために、仕える人々とならなければならないのである。

筆者はちょうど裁判が結審した日に、裁判官のみならず、自分の職場の上司に従うのかどうかも試されていた。その日、出勤するのか、それとも欠勤するのか、という選択が、死活的重要性を帯びる問題となったのである。

職場にはそれぞれ異なるルールがあり、自由に欠勤できる職場もあれば、欠勤が非常に厳しくマイナス評価される職場もある。その職場は、早退の許可を得ることさえ容易ではなかった。
  
筆者は、期日よりも前に早退の許可を願い出ていたものの、期日当日の朝になってから、審理の時間に遅れてはならないことを考え、いっそ大事を取るため、何か理由をつけて欠勤した方が良いのではないかと思いめぐらした。しかし、仕事も重要な時期であったので、やはり申告通り、勤務を早引けして審理に駆けつけることにした。

そして、それが正解だったのである。その日、出勤してから、改めて早退の旨を上司に告げると、不思議なことに、筆者が何も願い出ないうちに、上司から前もって申告していた時間よりも30分早く前に早退して良いと許可が出た。そのおかげで、筆者がいつもと異なる駅で降りたために、出口を間違えて道に迷ったにも関わらず、予定時刻に全く遅れることもなく、余裕を持って期日に到着することができたのである。

しかも、その日、裁判所の周辺では、パトカーが不法駐車を取り締まっていた。それは筆者が初めて見る光景で、これまで裁判所付近の道路には、広い駐車場もないため、常に色々な(業者も含め)車が止まっていた。そして、取り締まりなど一向に行われている気配もなかった
 
それなのに、その日には、パトカーが来てラウドスピーカーで停車中の車に向かって立ち退きを呼びかけていた。明らかに、その後、立ち退かない車には罰金が科されていたか、強制的に撤去・移動させられていたに違いない。従って、もしもこの日、筆者が職場を欠勤し、車で裁判所に向かうようなことがあれば、その後、何が起きていたかは保証の限りではない。

そうした出来事や、すでに書いた通りの結審の運びを見て、筆者は、この日、地上で立てられた権威者に従うかどうか、筆者の内心が試されていたのだと理解したのであった。
 
それは天から筆者に下されたテストのようなものであった。もしも筆者が、突発的な欠勤の一日くらい大したことはないと考えたり、もしくは、職場の上司であれ、裁判官であれ、あるいは警官であれ、誰か一人に対してでも序列および信頼関係を崩すような行為に出ていたならば、それだけでこの日受けられた一切の輝かしい勝利の結末を失わせるに十分な効果を発揮したであろうと疑わない。
 
 繰り返すが、我々の上に立てられたさまざまな身近な権威者には、人間としての弱さや限界も存在するかも知れない。たとえば、職場にたくさんの上司がいたとして、その全員が、私たちの気に入るわけではないであろうし、過度に厳しいルールが課されているかのように感じられ、改善が必要と思うこともあるかも知れない。あまりにもがんじがらめの自由のない規則に対しては、私たちの心は反発を覚えるであろう。

だが、そういった問題と、我々が権威そのものに従うかどうかという問題は別問題なのである。ルールは運用が変わったり、改善がなされたりして、変化して行く可能性がある。上司の顔ぶれも変わるであろう。

だが、現時点で定められているルールが不完全なものであったとしても、私たちはそのことを口実に、その背後に存在する権威を認めないことはできない。同じように、上司の人間性に限界が見えたとしても、私たちはそれを口実にして、その人に与えられた権威そのものを否定するという行動に出てはいけないのである。

言い換えるならば、神が立てられた権威はすべて、その権威者の人間性と、実に不思議なユニークな形で一つに結びついている。人間であるからこそ、長所もあれば、短所も存在するが、生きた人格を持った人間が、権威を行使し、決定を下すからこそ、その権威にはかけがえのない価値があると言える。

私たちは、権威者はいくらでも交替が可能であるように思っているかも知れない。首相も交替すれば、大臣も交替し、政治家も変わり、役所の職員などは、すべて交替可能な要員に見えるであろう。機械でも代行できるような仕事だと思う事さえあるかも知れない。誰が決定しても、同じ結果が出ると思うこともあるだろう。

しかし、実際にはそうではないのだ。私たちがさざまなところで出会う権威者は、実は一人一人が、人格を持ったユニークな存在であり、彼らの権威の行使は、彼らの人格や、彼らの人間的な判断と一つに結びついており、それは決して他の人々に真似ができるものではないし、二度と繰り返せるものではない。しかも、それは我々との関係性の中で行使される権威なのである。

従って、彼らが行っていることは、単なる職務上の処理や、偶然に過ぎない出来事のように見えたとしても、実際には、その一つ一つが、彼らの人間性の発揮であり、我々との人間関係なのであり、そうであるがゆえに、それは非常にユニークでチャーミングな権威の行使であると言える。しかも、それには我々の側からの関与も求められる。

そこで、どんなに些細な決定であれ、それは人間の自由意志の行使、また自己決定・自己表現の一つの形態であり、人間社会の方向性を決定づける上で、見逃せない意味や効果を持つものなのである。

そのため、我々はただ単に、権威者が自分にとって有利な決定を下せるからという理由で、彼らが持っている権威だけを恐れ、尊重するわけではなく、あるいは、自分に有利な決定が欲しいから、面従腹背の態度を取り、うわべだけ従うわけでもなく、その権威者の人間性にも注意を払い、彼らを全人格的な存在として敬い、認める必要がある。

それは、我々がちょうど神に仕え、神を愛するように、自分の上に立てられた地上の権威者たち、上司たちを敬い、仕えるべきことを意味する。ただし、これは私たちが、人間に過ぎない者を、まるで神のように思って絶対服従するとか、一切の不服を申し立ててはいけないという意味ではない。

私たちは地上の人間に対していかなる異議申し立てもしてはならないわけではない。変えるべきルールというものも存在する。しかし、権威者に対する異議申し立てを行う上で、重要なのは、上司への異議申し立ては、まず部下の側から上司への心からの敬意と従順と信頼の裏づけがあって、初めて効力を帯びるということである。信頼関係が構築されていないのに不服を申し立てることは、序列の転覆、人間関係の破壊につながり、本質的には反逆という要素をはらむ行為である。

そこで、私たちは、自分の上に立てられた権威者の人間的な欠点や弱さや限界をも理解した上で、彼らに心からの従順を示す必要がある。彼らに言いたいことがあるならば、信頼関係が損なわれない方法で、彼らの人格を尊重しつつ、助言や忠告を上に上げる必要がある。そのような配慮が必要なのは、私たち自身も、彼らと同じように、欠点や弱さや限界を持った存在であり、彼らの権威によって、尊重され、守られるべき立場にあるのに、その保護を失わないためである。

このような話を持ち出したのは、筆者が審理を抱えていた日に、単に一日、仕事を欠勤するかどうかという問題でさえ、心の深い所では、筆者の上司に対する態度、職場全体に対する態度、自分の上に立てられた権威者に対する態度を如実に示していたと思うためである。

その日から今日に至るまで、テストはずっと続いている。そのテストとは、筆者が自己の力を誇るためのものではなく、むしろ、自己を手放すことを求められるテストであり、自分の都合、自分の事情、自分の思い、自分の手柄を失い、自らの栄光を手放してでも、自らの上に立てられた権威に従えるかどうかを試すテストである。

私たちは一人一人が不完全さを持った人間であり、自分の事情、自分の都合、自分の利益を最優先したいと考える思いが出て来る時がある。そして、上に立てられた権威者に向かっても、まずは自分の事情を訴え、それを理解してもらうのが当然、という態度を取ろうとする。

だが、権威者は部下の事情を真っ先に考えて行動すべき立場にはない。そして上司と部下は、互いの弱さや欠点をも知りながら、共に協力して正しい決定を下して行かねばならない関係にある。そこで、もし私たちが自分の上司に対して、もっと我々のために自由を与えて欲しい、理解や配慮を示してほしいと願うならば、まずは部下としての私たちの従順が、正真正銘、心から真実なものであることが証明されねばならない。

そうすれば、その従順は、信仰を持たない上司にも、大きな影響をもたらし、彼らの心を動かす力となり、彼らが私たちを信用して、私たちの言い分を耳を傾け、正しく権威を行使して、私たちにより多くの自由を与え、さらに世の中をあるべき正しい方向へ向かわせる決定を下すきっかけとなりうるだろう。

だが、それとは逆に、もしも私たちが上司たちの人間的な限界、弱さ、欠点といったものにばかり目を向け、それを口実にして、彼らの人格だけでなく、彼らの権威までも否定し始めるならば、結果として、正しい決定が下される大きなチャンスが失われてしまうだけでなく、その権威者と私たちとは信頼関係を失って、互いが疑心暗鬼に陥り、あるいは離反し、ついに双方ともに暗闇の勢力に引き渡されるということが起きうる。

その結果、上司たちは部下を憎むようになり、部下に対して悪を行使するために、自らの権威を濫用するようになり、部下の側でもいつまでも上司に対する不服だけを心に抱え、いつか秩序を転覆してやるなどとクーデタの機会を伺うようなことが起きかねないのである。

しかし、本来、上司と部下はそのような存在ではない。それはキリストと花嫁なる教会がそうであるように、協力して正しい行いを成し遂げるべき関係である。

今はあまり時間がないので、この程度にとどめるが、これは非常に奥が深く、かつ重要なテーマなので、この先も、何度か繰り返すことになるのではないかと思う。

結論をもう一度述べる。私たちはクリスチャンとして、地上で立てられた権威に対して、従う姿勢を見せるべきである。それは主に従うように、上司に従うことを意味する。改善すべきところは提案し、不正には決して加担しない態度を取りながらも、私たちは上司に何か提案する時にも、権威そのものを決して否定しない態度を取るべきである。そして、自分の上に立てられた権威者も、弱い人間であって限界があり、いつ誤った判断に陥るか分からない恐れがあることを十分に理解して、彼らの弱さを助長したり、つけこむようなことを決してせずに、むしろ、彼らがその弱さを乗り越えて、真にあるべきふさわしい形で己が権威を行使し、大勢の人々に正しい影響を及ぼすことができるよう、絶えず祈り、願い続け、それを助ける姿勢を持つべきなのである。

私たちには、自分の上に立てられた権威者のためにとりなし続けることが必要である。だが、そのためには、私たちが口先だけで、自分以外の他人の振る舞いだけを正そうと、もっともらしい言葉を並べることが必要なのではなく、何よりもまず、私たち自身が、日々自分の十字架を取って、主の死を共に身に帯びることが必要である。我々自身に、主と共なる十字架が適用されていないのに、我々が何千、何万語を費やして正しい主張を語ってみたところで、そのすべての言葉はむなしい。私たちがどれほど神に従順であるかという度合いが、地上の権威者への従順の度合いをも決定するのである。

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主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話、福音の神秘を大胆に示すことができるようん、わたしのためにも祈ってください。

わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)
 
オリーブ園の直近のオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (11)」も依然としてタイムリーな内容である。

この論説は、今日の弱体化した教会(エクレシア)が主の霊によって力づけられ、上から生まれた人々によって構成され、霊的な戦いに対して十分に備えられ、訓練された戦闘員となる必要性を訴えている。

前回の記事にも書いた通り、今日、クリスチャンと呼ばれている民の多くは、戦争が勃発しているのに、そのことを知らされずに非武装のまま土地に残された民間人のようである(まして非クリスチャンは戦いがあることなど全く知らされていない最も無防備な人々である)。

しかし、彼らが知らなくとも、戦いの火蓋はすでに切って落とされており、暗闇の勢力の欺きの活動が存在し、敵の襲来が迫っているのは事実であるから、彼らがずっと無防備のままであれば、やがて捕えられ、捕虜として引いていかれ、緩慢な死に追いやられるか、たちまち暴虐に見舞われるか、いずれにしても、悲劇が待ち構えているだけである。

そのような結果に至らないために、我々は戦って勝利をおさめなければならない。だが、今日、戦いがあることを知って、神の武具で武装して、きちんと戦闘に備えているクリスチャンはほとんど見当たらない嘆かわしい現状がある。

そこで、一部、ごくわずかに訓練を受け、戦いに備えて武装することを知っている信者が、無防備な民のために見張り人となり、防御兵の役目を果たさなければならない。

バビロンの倒壊はすでに始まっているのであり、私たちはその滅びに巻き込まれないよう、自分だけでなく、多くの人々をも避難させる役目を担っている。サムソンは最期の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を倒壊させ、自分もその下敷きとなって死んだが、今日、私たちはキリストの十字架の死と復活を帯びているから、自分自身と人々を倒壊する火宅から生きて助け出す力を持っている(ただし霊的には絶えず死をくぐらなければならない)。

私たちが激しい戦いの中で、自己の安寧を最優先して、さっさとあきらめて退却するのか、それとも最後までその戦いの中に踏みとどまって、勝利を確信し、人々を説得して避難させ、彼らが川を渡り終わるまで、そこで最後まで契約の箱を抱えあげて立ち尽くせるかどうかで、多くの人々の命運までが決まってしまう。

エクソダスは一人だけで成し遂げられるものではなく、多くの人々がそれに続くのである。彼らが紅海を渡り終えるまで、海を切り開き、道を支えている誰かが必要である。

筆者は長い間、そのことを知らず、筆者自身も、自分が戦闘員として立たされていることに気づいていない一人であったが、それでも神の子供の一人として、さまざまな訓練を受けることになり、それが戦闘員とされるための訓練であることが、徐々に分かって来た。そうこうしているうちに、ついには、自分の生まれながらの弱さや限界、あるいは知恵の不足をすべて補って、自分のものではない、神の上からの力が私たちの内に働き、どんな激しい戦いをも最後までくぐり抜けることを十分に可能にしてくれるため、私たちはそれを最後まで信じて立ちおおせなければならないことが分かったのである。
  
オースチンスパークスが以下で「非戦闘員」と呼んでいる人々は、ほとんどが、いわゆる既存のキリスト教の組織や団体の枠組みの中にいる人々である。それらの団体の構成員は、血縁や、友人関係や、その他の地上の生まれながらの魂の情愛による絆や、縁故によってほとんど占められており、神の命によって生まれたのでない大勢の人々、また、地上的な人間関係の絆でがんじがらめとされている。その団体は全く霊的な戦いがあることも知らず、その戦いに巻き込まれないために、垣を巡らし、城壁を作り、その中に閉じこもってしまった人々である。

しかし、聖書におけるエクレシアはそのようなものではなく、神の新しい命によって上から生まれ、キリストの頭首権に服する人々によって構成される目に見えない共同体である。そして、私たちは自己の安全のために、自分の団体の中に閉じこもるのでなく、絶えず全世界に出て行って、福音を宣べ伝える使命を帯びている。

自覚があろうとなかろうと、一人一人のクリスチャンは、常に新しい霊的領土を獲得するための戦いの中に置かれているのであり、私たちの信仰的態度は、私たちが身を置いている見えない領域に、誰の支配が及ぶのか、すなわち、キリストの主権が打ち立てられるのか、それとも、それに反する者の主権が打ち立てられるのか、激しい支配権の争奪戦の行方を決定する。

私たちはそこで暗闇の勢力の支配を駆逐し、彼らが恐怖によって人々を従わせようとするわざを打ち壊して、そこに自分たちが掲げているキリストの御名の旗を打ち立てて、キリストの主権を確立せねばならず、その作業によって、私たち自身のみならず、大勢の人々が、暗闇の支配下から解放され、まことの命なる方の支配へと移し出されるのである。

しかし、それは決して、私たちがこの世の力によって支配権を奪還するというクーデターによって成し遂げられるものではない。むしろ、私たちが最も弱くされて主と共に十字架の死を通ることによって、そこに逆説的に復活の命が働くという方法でなくてはならない。

その時、私たちの弱さの中に、私たちのものではないはかりしれない神の力が働き、私たちが霊的に経由した死と復活が、すさまじいまでの衝撃力となって、これまで暗闇の勢力の欺きにとらえられて盲目とされていた多くの人々にも波及し、人々は自ら事の本質を悟り、神に直接、連なって、愛する御子の支配下にかくまわれ、そこで御名のために命をかけて戦うことのできる戦闘員へと変えられて行くのである。

次の御言葉は、今日の荒廃した状態の教会にも、当てはまるものであり、終末の時代のことだけを指して言われたわけではないと筆者は信じている。

シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。
 

打ち場は穀物で満ち、石がめは新しい酒と油とであふれる。 わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年をわたしはあなたがたに償う。

あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされたあなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。

わが民は永遠にはずかしめられることがない。 あなたがたはイスラエルのうちにわたしのいることを知り、主なるわたしがあなたがたの神であって、ほかにないことを知る。わが民は永遠にはずかしめられることがない。


その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
 
だが、上記の御言葉を、聖霊を受ける必要性だけをことさらに強調する運動と混同することはできない。私たちの信仰生活の中心に位置するものは、いつでもキリストの十字架の死と復活でなくてはならない。十字架を中心に据えず、自分への祝福や、霊的現象ばかりを追い求めれば、必ずや別な目的へと逸れて行くことであろう。

必要なのは、万民祭司の時代にふさわしく、私たち一人一人の信者がキリストに直接、連なり、神の霊によって上から生まれ、直接、御霊から教わる民となることである。そして、日々、自分の十字架を取って主に従い、子としての訓練を受け入れることである。
  
私たちは地上的な団体に所属して形骸化した信仰生活を送ることを神に従うことと同一視するのではなく、上から生まれ、神の教会の中に、直接、上から置かれ、そこで使命を与えられ、果たすことの意味を考えなければならない。

戸口で自己を焼き尽くされた上で、目に見えない共同体であるエクレシアの中に入れられ、そこで神が望んでおられる役割を果たすことの意義を考えなければならない。エクレシアはただ単にキリストが再び来られるのを待ち望んでいる聖なる花嫁であるだけでなく、頭首なるキリストの意を受けて、それを地に実現するための神の最強の軍隊でもある。神の多種多様な知恵が、教会を通して、天上の諸々の主権や権威に対して知らしめられ、教会を通じて、サタンのわざが打ち壊され、サタンが天から投げ落とされ、神に栄光が帰されるのである。

エクレシアには主の安息が満ちていると同時に、これは花婿の栄光のために戦う花嫁でもある。そして、そのような役割を確実に教会が果たせるようになるためには、幾度も述べた通り、一人一人の構成員が真に主と共なる十字架の死と復活を経て、神の命によって上から生まれ、エクレシアの中に上から入れられ、それぞれの場所に置かれる必要がある。そうなって初めて、それぞれに置かれた場所で、自分にどのような召しが与えられているのか、各自が理解して、これを果たせるようになるのである。

私たちは、主の御名によって呼ばれる軍隊の一人として、目に見えない霊的なミッションを担う戦闘員として、自分に与えられている召しが、確かに自分自身の思いから来たものではなく、神から来たものであることを確信し、どんな犠牲が伴っても、それを最後まで貫徹して勝利をおさめ、成果を勝ち取るまであきらめないという強い願いを持つ必要がある。

そのような召しを与えて下さることは、ただ神だけに可能であるが、私たちクリスチャンは一人一人が本来、みなそのように神の武具で武装し、戦いに熟練し、霊的に訓練された戦闘員となる必要があり、エクレシアはそのように整えられた戦闘員によって神の栄光のために大胆なわざがなされるべき場所なのである。
 
以下、オースチンスパークスの論説から。

  最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。

主に私たちの心を探ってもらって次のように自問しましょう。「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神が御自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。

神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうかまったく確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

 私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。


この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。

「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)

 
  
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。


あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。


天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての者よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:13-23)

今朝のオリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (9)」は、キリストと共に十字架で人の自己が死に渡されることがどれほどエクレシアにとって重要な事柄であるかを語るものであるため、以下に掲載しておく。

なお、一つ前の記事にキリストのからだとしてのエクレシアの働きについても、必要な聖書箇所を補っておいた。

これまで筆者は繰り返し、エクレシア(教会)に参加するためには、それぞれの信者の自己が戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないことを書いた。以下の論説も、ちょうど同じテーマを扱っており、キリストと共に自己を十字架に死に渡すことなく、キリスト者の交わりに参加しようとする者が、どれほど神の福音の証しを損ない、交わりを害してしまうかについて言及している。

主と共に真に十字架に赴くことがない人々は、いわば、ただクリスチャンに偽装しただけのような存在であり、交わりをかく乱するだけでなく、真に主と共に十字架に自分を同形化しているクリスチャンにも多大な悪影響を及ぼす。

それは筆者が繰り返し書いて来た、神の最善を退けて、人間の思いを優先する次善であり、しかも、自分たちが次善であることが暴かれないよう「最善」を攻撃する「次善」であり、神の教会から真に衝撃力の伴う御言葉の証を取り去ろうとする。

ところが、嘆かわしいことに、今日、教会と呼ばれている団体の8~9割はこうした人々で占められているのではないかと思われる。それほどに、今日の教会は真に霊的衝撃力の伴う神の証しを失って、弱体化しかけている。

その状態が回復されるためには、やはり真に主と共に十字架を通る人々が新たに起こされる必要があり、キリストと共なる十字架とは何であるのかが、人々の目に公然と証される必要があろう。

今更、説明の必要もないとは思うが、信仰によって前進する過程で、私たちは、自己の安寧、自己の都合、自己の名誉・・・といった生まれながらの自己の必要性を、自分の手から離して、神に明け渡すことが、どうしても必要になる。その戦いは、個人個人によって性質が異なるものであり、何をどこまで主のために手放すのかは、人に要求されてすることではなく、各自が神との間で相談して自主的に決めることである。

今日、暗闇の勢力が行っている欺きはこういうことである、「主と共に十字架で死ぬですって?十字架で自己を手放すですって?何を言っているんですか。そんなのカルトですよ。あなたは日常生活も放棄して、自分の願いを自分で滅ぼして、自分で自分を否定して、自分の楽しみや喜びを放棄して、一体、何をしようとしているんですか。クリスチャンがそんなみすぼらしく、みっともない貧しく孤独な生活を送る必要はありません。日曜日に教会に通い、牧師の説教を聞いて、献金をしていれば十分ではありませんか!後の時間は、自分の幸福のために使えばいいんですよ。」

だが、神は私たちの全存在を求めておられ、私たちが全身全霊で神を愛し抜き、従い抜くことを願っておられる。それが代償なしに達成されるはずもない事柄であることは明白である。神が先にその愛する独り子を地上に送り、私たちのために犠牲とし、命を捨てて下さったのに、私たちの方は、自己の安寧を微塵も手放さず、ただひたすら自分のことだけを考えて、一つの痛み苦しみも味わうことなく、神に従えるというのだろうか。そんなことを考える方がどうかしているだろう。

しかし、もちろん、神は初めから私たちの理解も及ばないような著しい代価を求められることは決してない。神は私たちの弱さを知っておられ、あくまで私たちの同意に基づいて、ご自分のみわざをなさる。クリスチャンの従順は徐々に完成に向かうものであり、神の子としての訓練を受けることで、キリストの御丈まで成長するのである。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:5-9)

主と共なる十字架を知らない人々は、神に従う上で、自分自身にも払わなければならない代価があるということを知らず、肉を十字架において死に渡すことを知らないし、これに抵抗する。オースチンスパークスは書いている、

「新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

 これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字通りの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。

あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。
ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。


 十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛で深刻な問題です。肉は十字架に付けられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行くことができますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の軍勢はまったくの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそれをすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架に付けられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架の経験を実際的な方法で経験したことがありません。」
 
十字架の死と復活の働きは、神が御言葉を人に啓示されて初めて理解されるものであって、人が人に対して教えられるものではない。主と共に屠られるためには、人はしばしば大きな苦難を通らなくてはならない。苦難の中で自分を低めること、自分の主義主張を脇に置き、自分の願望を投げ捨てて、ただ神を信頼して御言葉に従う道を選ぶこと、それだけが、主と共なる死に自分を同形化する道である。

そして、クリスチャンが主と共なる十字架に自分を同形化することに失敗するとき、ある団体がまるごと暗闇の勢力に渡されるという悲劇的な結末がしばしば起きる。

上記の論説に書いてある通り、一つの団体の中に、似て非なる二つの異なる勢力が混在している。そこには、ハガルとイシマエル(肉によって生まれた者)と、ハンナとイサク(御霊によって生まれた者)という、全く異なる勢力に属する人々がいる。

御霊によって生まれた者は、常に「人にはできなくとも、神にはできる」と信じ、大胆に御言葉の証しを掲げ、神のみわざを待ち望んでいる。しかし、肉によって生まれた者は、口先で御言葉を唱えることはしても、そこに信仰がないので、神のみわざを信じて待ち続けることをしない。そして、試練に見舞われれば、すぐに退却し、「人には限界ばかりで、できることは何もない。人をこのように惨めな存在に造られた神は理不尽である」と不満を表明する。

肉とは、言い換えれば、死へ向かう滅びゆく人間が、自己の力で何とかしてその死の決定に逆らおうとする悲痛な努力の総体であり、堕落した人間の命の限界そのもののことである。

人は自分の生まれながらの生命を維持するために、絶え間なく外界からエネルギー源を摂取しなければならず、そこに各種の欲望が生まれる。しかし、これらの欲は、満たしても、満たしても、決して飽かされることがなく、その満足はすぐに消えて行き、またしても渇望が起こるだけであって、人間は生きる限りその欲望の奴隷状態から抜け出せず、自己を満たそうとするすべての努力が、死によってしか報いられないという恐るべき悪意ある逆説の中に置かれている。

肉とは、このように絶え間ない欠乏状態に置かれ、絶えず自己の生存を死によって脅かされ、死を避けるために、自分を救う力のない己の欲に踊らされ、自分の欠乏の惨めで屈辱的な奴隷状態から抜け出せない生まれながらの人間の腐敗・堕落した有限なる命の働きである。

しかし、御霊によって生まれた者は、この滅びゆく肉に対して、主と共なる十字架で死んでいるので、以上のような罪の奴隷状態から自分が解放されており、神の朽ちることのない永遠の命によって自分が新たに生かされ、神の命によってすべての必要が上から供給されることを知っている。

キリスト者が地上で生きるためのすべての必要性は、衣食住を含め、すべて自分で自分の生存を保とうとする自己の努力によってではなく、信仰によって、キリストの復活の命を経由して上から与えられる。従って、キリスト者は地上を生きる上で、自分を救う力のない己の欲によって自分を満たさなければならないという恐るべきパラドックスから解放されているのである。

しかし、肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者と自分が同じ存在であるかのように見せかけながら、御霊によって生まれた者に巧みに話しかけ、神に対する不満を吹き込もうとする。そして、決定的な瞬間に、「人であるあなたにはできない。神は理不尽だ。あなたは無駄なことを信じているのであって、あなたの希望はかなわない。」とささやき、信仰をくじこうとする。

肉の思いは、つまるところ、自己の力で自己を満たそうとしても、それができない人間が、神に対して不服を表明し、憤る思いである。その思いを、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者に吹き込み、御霊によって生きる者の思いを穢すことで、神に対する信頼を失わせ、大胆な証を損なおうとする。

このようにして、一つの団体の中に、同じクリスチャンのように見える二つの勢力が併存し、やがてこの二つの勢力が、激しく敵対し、争うようになる。霊御によって生まれた者を、肉によって生まれた者が、堕落させ、迫害し、追い出そうとするが、御霊によって生まれた者は、その激しい迫害を乗り越えて、御言葉の証を保たねばならない。そのためには、十字架の装甲の中から決して外に出ない姿勢が必要となる。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)
 
だが、信者たちはしばしば失敗して、十字架の装甲から外に出て、証を失ってしまう。被害者意識や、神に対する不満の思いを心に注ぎ込まれ、思いを穢されてしまう。そして、一心に信頼して神だけを見つめることをやめて、神はすべての苦難から私たちを救い出して下さるという確信を失い、自己の限界を見つめるようになり、自分を不憫がるようになり、ただ自分の弱さに同情してくれる人々だけを周りに集め、その弱さの中に閉じこもって、前進することをやめて立ち止まり、そこに人の生まれながらの自己を守るための一大共同体を作り上げてしまう。
 
すると、御言葉の証は失われ、信仰による神の働きはやみ、御霊によって生まれた者は、ちょうど髪をそられたサムソンのように、勇士としての力を失って、捕虜とされ、外に追いやられ、苦役に従事させられることになる。

私たちは、悪魔の虚偽の訴えに対しては毅然と立ち向かい、御言葉の証を守らなければならない。公正、真実、正義に立って、御言葉の真理を高く掲げることをやめてはならない。しかし、同時に、その戦いは、決して私たちの生まれながらの自己を守るためではなく、それを超えたところにある神の御国の権益のためでなくてはならず、そうして私たちの掲げる目的が、真に自己のためでなくなるためには、私たち自身が、絶えず十字架の死をくぐる必要がある。自己憐憫や被害者意識を心に抱え、神の権益のために自己の利益を手放すことを惜しみ、自分の限界を取り払うことができないものと考えて、これを哀れんでいると、主と共に十字架の死を通過することができなくなってしまい、信仰の前進がやむのである。
 
そうして聖徒らが十字架を回避して、生まれながらの自己を保つようになると、彼らの証は力を失い、彼らは聖徒としての特長を失うことになる。そして、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を追い出して、団体の頂点に立ち、一つの団体がまるごと敵の手に渡されてしまう。もしくは、彼らは出て行っても、暗闇の勢力の支配下で、また新たな腐敗した別な団体を作るだけである。

筆者はこうした現象を幾度も目撃するうちに、ようやくこれがクリスチャンと暗闇の勢力との間で繰り広げられている霊的な支配権の争奪戦であることを理解し、一体、これに対してどのように打つ手があるのかを考えるようになった。

もちろん、主と共なる十字架の装甲から一歩も出ないで、自己を十字架に死に渡すことこそ、勝利の秘訣であるが、勝利というからには、死で終わるのではなく、そこに復活が現され、瞠目すべき神のみわざが現され、明白な勝利を勝ち取らなければならない。それだけでなく、ただ真理を知らないだけで、故意に御言葉に逆らっているわけではない人々を、敵の欺きから取り返すことが必要である。

そこで筆者はようやく、祈りの防衛の盾をはりめぐらし、激しい戦いの中でも、そこに踏みとどまって、決して支配権を自ら放棄することなく、霊的領土を明け渡すことなく、なおかつ、そこに残っている人々を、自分たちの陣営にかくまい、保護するまで、あきらめずに戦いを続行することを学び始めた。

その団体に残っている人々のほとんどは、しばしば、何が起きているのかを全く理解しておらず、戦いがあることさえも分からないでいる人々である。彼らはちょうど戦争が勃発しているのに、そのことを知らされないまま、自分たちの土地に残された非武装の住民のようなものである。敵が襲撃して来れば、彼らに命はないことを私たちは予め知っている。そして、私たちは武装しているが、彼らは自分を守る術を知らない。

そこで、もしもこのような状況で、私たちが自分の命を惜しんで、真っ先に彼らを捨てて安全なところに退却するならば、彼らはみな敵陣に捕虜として引いて行かれることになり、そこでさまざまなひどい目に遭わされて、神は理不尽だという思いに生涯、とらわれ、憎しみと憤りと不満の中に生きることになりかねない。何よりも、彼らは自分たちを危険の中に捨てて行ったクリスチャンを憎み、許さないことであろう。

そのようなことが起きないために、私たちは最後まで戦って、真理を知らない人々を敵の襲来から保護し、むしろ、敵の勢力の方こそを、キリストの勝利の凱旋の行進の中に捕虜として引いて行かねばならない。

そのように激しい戦いを、神の武具で武装してすべてをキリストの支配下に置くまで決してあきらめないで戦うことを決意した人々が、勝利を得るまで忍耐強く信仰によって続行したときに、初めて、一つの団体が、罪の束縛の中から解放され、肉の支配下にある者ではなく、霊の支配下にある者の指揮権の下に置かれるということが起きるのである。

ここで重要なのは、冒頭の御言葉が、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と述べていることである。戦いには初めから決着が着いており、御子はすでにカルバリで勝利を取られた。問題は、地上にいる主の民がそれを最後まで信じられるかどうかである。


わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)

「体は一つでも、多くの部分から成り、 体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:1-26)

休暇中の時間は筆者にとって黄金の時だ。この時間をぜひとも活用して、忙しいときにはできない正しい仕事を果たさなければならない。

今年の新年は警察との連絡で幕を開けた。新年早々の仕事が、告訴状の文面の練り直しとは。しかし、思い起こせば、ここ何年間も、年末年始をゆっくり過ごした記憶がない。大勢で観光地を訪れたり、家でくつろいで料理を作ったり、TVでスポーツ観戦することもなく、常に何か波乱の出来事に見舞われて、日常生活が中断していたような気がする。

そんな年が続いた挙句、今年はもはや普通の正月を過ごすことに未練がなくなった。人生はそんなにも長くはない。大切な仕事を果たすには、時間が限られている。どうせ同じ時間を使うならば、束の間で消えて行く個人としての地上の幸福を享受することよりも、むしろ、御国に到達してから神に褒められ、永遠の収穫として残る仕事を果たしたい。

これは2017~2018年に激しい戦いを乗り越えた後で、筆者が心に確信することだ。とはいえ、年末年始をくつろいで過ごせない職業の人々は、筆者の他に多数、存在しており、警察官もその一人である。

年末年始に警察は当直体制となり、少ない人数で管轄の全域を担当する。筆者の事件を担当してくれている警察官も、奇跡的に当直していたが、呼び出しても、呼び出しても、全くつかまらない。ようやく連絡が入って来たのは、当直明けのこと。つまり、勤務中ではなく、勤務外で、要するに、筆者の順番は、区内で一番最後なのだ。
  
とはいえ、勤務が終わったから、ようやく電話できるのだと言われるのは、勤務中だから時間がないと言われることに比べてかなり嬉しい。一番最後の順番とはいえ、最もほっとできる瞬間に電話がつながったのだと思える黄金の時。まさにボアズがルツのためにわざわざ畑に残しておけと命じた落穂を拾うルツの心境である。

当ブログに対する様々な権利侵害を事件化することを決めてから、こういうコミュニケーションを関係者との間で取れるようになるまで、何カ月もの歳月を要した。警察官は、下手をすると、一日、二日どころか、一週間以上もつかまらない。黙って電話を待ち続けることには未だに慣れられず、当初はそのことでどれほど巨大な不安に陥れられたか分からない。

しかし、担当者は、ない時間をひねり出すようにして、時には休日出勤して対応してくれたり(つまり、通常の勤務時間にはこの事件に向き合う暇がない)、近くの交番まで書類を届けてくれたりし、それを見ているうちに、筆者は考えが変わり、長い時間、待たされても、それが怠慢や悪意によるものではないことを理解し、やがて彼らの誠意を尊重しないわけにいかなくなった。

それは裁判所の人々との関わりも同じであった。不愉快な事件をきっかけに人々と関わるのは、誰にとっても気が進むことではなく、それだけで関係者一同に大きなストレスとなりかねない。しかし、この事件に関わってくれるすべての人々も生きた感情を持つ人間であることを理解し、筆者はついに自分の感情を乗り越えて、事件の影響を乗り越えて、互いをよく知って、理解・尊重し、信頼関係を築くことが最後には可能となった。

そうなるまでには、多くの時間がかかった。何度、取っ組み合ったことであろう。その間に、彼らにも、筆者の心の弱点などは、きっとお見通しになったはずである。だが、筆者は、どんな時にも、心から正直であり、目指している高い目標から決して目を逸らさなかった。だから、人々は筆者の心の弱さや限界を見ても、それが悪意によるものでも、怠慢によるものでもないことを理解してくれ、筆者の弱さを彼らの強さで補い、覆い隠してくれるようになったのである。

こうして、最後には互いが互いの限界を理解した上で、相手を尊重する術を学んだ。筆者はこのような体験を通して、絶望的な状況下で、どれほど様々な波風が起きても、目的を見失いさえしなければ、最後にはその波乱をすべて乗り越えることができると言える。

たとえ一時的にものすごい痛み苦しみを味わうことになったとしても、その犠牲があって初めて、新しい関係が生まれて来る。何が生まれて来るのかは、苦しんでいる当初には分からない。だが、信仰のあるなしに関わらず、人が命をかけて訴えていることを、無碍に扱うことができる人はそう多くはない。あきらめないで前進していれば、少しずつかも知れないが、理解者は増えて行く。そして、それがついにはやがて固いチームワークのような結束になって行くのである。

かつてあるクリスチャンが、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったことを思い出す。ここで言う「関節」とは、私たち一人一人、エクレシアの構成員のことである。キリストのからだなる教会の成長は、節々がしっかりと組み合わされ、補い合うことによると聖書にある。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

その信者は、筆者には必要な関節と関節を出合わせ、互いに結束させる働きがあると述べたのであった。今、筆者は、いわゆる教会と呼ばれる建物の外で、その頃と同じような働きをしているのかも知れないと思う。

なぜそうなったのか。それは教会と呼ばれる団体があまりにも神の働きから逸れてしまったことによるものと筆者は思う。そこで、初めはユダヤ人に福音を宣べ伝えたパウロが、異邦人に向かねばならなかったように、筆者はいわゆる教会と呼ばれる信仰を持った人々の外に、関節や節を見つけるはめになったのである。

そうして、筆者が一人で始めた信仰を守るための戦いという目に見えない事業に、今や数多くの人たちが関係するようになった。そして、その人々は、嫌々ながらではなく、自らの意志で、自発的に積極的に事態に関与しており、筆者は彼らに大いに助けられている。

信仰者と呼ばれていないこの人々から、どれほど多くのことを筆者は学んだであろうか。彼らとの関わりは、本当に切実なメッセージを筆者の心に伝えてくれる。

この事件を進めるうちに、筆者は、人々から助けられることを学んだ。これまでの筆者はほとんどの作業をただ自分一人だけで成し遂げ、他者の力を借りることがなく、他者の知恵によって自分の知恵の不足を補われることもなく、そのような可能性があるという期待すらも持っていなかった。あまりにもすべてを自力で背負い、自力で処理することに慣れており、人を信頼する必要性にさえ見舞われなかったのである(それは裏切りや離反が横行していたためでもある)。

だが、今、筆者は、そうした離反を克服する方法を学び始め、自分の弱さを他人の強さによって補われる術を学び始めた。しかも、筆者が途中まで書きかけた歌の、見事な続きを書く人々が現れた。筆者が一人だけで行って来た途方もない気の長い作業が、他の人々の手に委ねられ、他の人々がこの作業に参加し始めたのである。

筆者はこのことに非常に驚いている。筆者は自分の肩から重荷が取り去られるのを感じ、初めて自分の知恵を超える知恵が存在すること(これは神の知恵のことではなく、神が地上のもろもろの人々を通して筆者に表して下さる知恵のことである)、その知恵に信頼して自分を委ねることを知った。人々を信頼して自分の仕事を託すことの意味を知った。こうして自分の知恵が限られていることを思い知らされ、他者によってそれを補われるのは、非常に嬉しく楽しいことである。

こうして、新たな関係性が生まれ、筆者が一人で編んでいた歌に、多くの人が参加するようになり、共同作業が生まれた。やがてはそれが大きな流れになり、合唱のようにまで至るのではないかとさえ思う。

これは実に不思議な関係性である。この世のほとんどの人たちの人間関係は、どんなに広いように見えても、地上的な絆の中に束縛され、そこから出ることがない。その人間関係は、自分の家庭、自分の職場、勤務上で生じた関係、所属団体の枠組みなどにとらわれている。

しかし、筆者が他者に関わるのは、そういう地上的な枠組みによるものではなく、信念に基づくものであり、信仰に基づく関係性である。そして、その関係性が、今や信仰を持たない人々にまで波及しているのである。

これまでもそうであったが、信仰のために必要なことならば、筆者は地上的な絆の束縛を超えて、どこまででも出かけて行く。そして、これまで知らなかった新しい人たちを見つけ出し、これらの人々を、一つの信念によって結びつける。

そうして彼らを目に見えないチームのように結束させるまで、根気強く説得する。だが、筆者は目に見えるチームを作っているわけでなく、そのリーダーでもないし、筆者が計画的にそのようなことを行って人々を感化しているわけでもないので、以上のような現象が起きているとは、はた目には分からない。

だが、筆者が命がけで人々に関わり、命がけで信念を訴えているうちに、いつの間にか、それまで敵対していたような人々にさえ影響が及び、協力してくれる人々や、筆者が目指しているのと同じ目的に向かう人々が増えて行くのだ。

このように、筆者の場合、人間関係を築く土台となる要素が、通常の場合とは全く異なる。それは個人としての筆者の利害に立脚するものでなく、それにとらわれるものでもない。それよりももっと広く、もっと高く、もっと大きな目的のために、筆者は人々に関わっている。そして、そうであるがゆえに、人々はその中で筆者の限界を見ても、それを寛容に扱ってくれ、筆者が目指している目的は、互いに立場の全く異なる人々を、個人的な限界を超えて、一つに結びつける原動力となりうるのだ。

このような人間関係が生まれるためには、やはり筆者自身はどこまでも十字架の死に身を委ねるしかない。一粒の麦として絶えず死に続け、自己を放棄する以外に手立てがない。

このことを指して、以上の信者は、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったのである。

そういうわけで、またも書面の練り直しである。世の人々は告訴状と聞いて眉をしかめるかも知れないが、これも公益のためであって、筆者個人の利益のためだけではない。この他にも大量の書面作りの作業が残っている。そして、筆者に関する事件の後処理が終われば、次に筆者と同じような被害を受けた人々の権利の回復を手伝う作業が待っている。それに着手できるのは、今年の春以降であろうか。気の長い仕事である。

味気ない新年であるが、自己の信念に基づく作業であるから、これで良しとせねばならない。こうして、筆者の心は地上を離れ、御国へと階段を上って行く。

だが、最後に一つ述べておきたい。聖書は、神のためにどんなに巨大な犠牲を払っても、愛がなければ一切は無意味だと述べている。ただ関節と関節をつないで、建物を作るだけでは不十分であり、そこに最後の総仕上げとして、上から神の愛が注がれなければならない。それはちょうど美味しそうな焼きたてのパンケーキに特上の甘いメープルシロップを注ぎかけるような具合で、エクレシアには上から下まで滴り落ちるほどに神の愛が溢れていなければならないのだ。
 
その愛は、私たち人間から生じるものではなく、まさに上から、神が注いで下さる愛である。ちょうど預言者エリヤが、死んだ子供を生き返らせた時のように、全焼のいけにえとなっている筆者の上に、新たに上から御霊によって吹きかけられる復活の息による。

人々は、死んでいたも同然の筆者が、生き生きとよみ返らせられるさまを見て、初めて神が今日も生きておられること、信じる者をあらゆる窮地から大胆に助け起こす力を持つ方であることを知る。

その御業は神のものであって、筆者の力によるものではない。だが、地上では極めて弱く限界ある存在に過ぎない筆者の神への信仰による愛と従順、そして、筆者に注がれる神の愛の深さを見ることにより、筆者の周りにいる人々も、神が生きておられること、そして、筆者のみならず、神を呼び求めるすべての人々に力強く応えて下さること、神が愛であり、すべての人間に対して、どれほど深い配慮を持っておられるかを知らされるのである。

筆者が行っていることはすべてそのためである。

そういうわけで、もう一度、以下の御言葉を引用しておく。

「「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:36-39)