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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神は知者たちを彼らの悪賢さの中で捕える

「『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵によるのです。」(Ⅰコリント1:19-21)

今まで繰り広げられて来たさまざまな議論がどれくらい神の知恵から出たものであり、どの議論が人自身から出たものに過ぎなかったのか、今後、時間経過とともに神ご自身が明らかにされることと思います。私たちはたとえどんな不正を目にすることがあっても、それに対するアンチテーゼに生きてはなりませんし、自らが裁き主となろうとしてはいけません。主と共なる十字架の死にとどまり、血潮にとどまり、御言葉と証しの言葉により、信仰だけによって勝利を得る必要があります。

人間が自己の正義をふりかざし、教会の裁き主となるような運動はこれまでにも多数生まれて来ました。が、その末路はすでに多くの人たちの前で明らかになっています。アンチテーゼの色合いを強力に打ち出した改革運動は、しばしば、自分自身が敵として訴えていたものよりももっとひどい腐敗に陥って内側から瓦解しました。外なる敵との絶え間ない戦いを繰り広げた運動は、その戦いが内部へと転化し、内なる敵との戦いで滅びたのです。なぜそのようなことになったのでしょうか? 教会にたとえ駆逐されるべきサタンの働きが多く見られるにせよ、それに人間の力で立ち向かおうとして、立ちおおせることのできた人はいません。「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)との言葉通り、もしも裁判を使うなら裁判で滅ぼされ、この世の力を用いて戦うならば、その力によって自ら滅ぼされます。神の義が現われ出るまで、自らを御手の下に低くして待つことができない人は、自ら用いた手段によって滅ぼされることになります。

御霊の働きはいつもカルバリの死と一体です。聖書は言います、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるために愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。』 また、次のようにも書いてあります。『主は、知者の論議を無益だと知っておられる。』 ですから、だれも人間を誇ってはいけません。」(Ⅰコリント3:18-21)

これまでに何度も兄弟たちの口を通して発せられてきた警告は、私たちは自己栄化の霊に惑わされてはならないということでした。御霊は決して人を高ぶりに陥らせたり、その人自身に栄光を得させるようなことをしません。「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14) 

しかし、自己栄化の霊はその人を高ぶりに陥らせます。それはその人がいずれ自分自身を神の代弁者、もしくは神ご自身のようにみなすように仕向けます。

人に過ぎない者が、私の言った言葉は必ずその通りになる、と宣言することには非常に重大な危険が伴います。キリストの御霊はただキリストの栄光だけを証するが、そうでない霊は、たとえ神の事柄を語っているようであっても、語っているその人自身に栄光を得させようとするからです。「自分から語る者 は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」(ヨハネ7:18) 

ですから、私たち自身も自分をかえりみる必要があります。たとえクリスチャンであっても、「高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにな」る(Ⅰテモテ3:6)可能性があることは御言葉が告げている通りだからです。

悪魔は「いと高き方のようになろう」(イザヤ14:14)としました。その思いは神ご自身に近づこうとする思いと紙一重のところにあるものです。クリスチャンに対してやって来る誘惑は、自分では主に従っているのだと思いながら、神の偉大なご性質や、霊的な知識や力だけを獲得しようとして、カルバリの死から離れてしまうことです。キリストと共なる十字架の死にとどまらず、偉大な復活の力の現われだけを追い求めたりしながら、キリストご自身ではなく、自分自身に立脚して神の御業を行なおうとすることです。そのようにして、神の御前での自分の真の状態を見失ってしまうことにあります。

主イエスは言われました、わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」 そして、主は自分たちには神に関する知識があると思って高ぶっていたパリサイ人に向かって言われたのです、もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39,41)

このようにして神はしばしば、自分では見えると思っている人たちをあからさまな霊的盲目と惑わしに引き渡し、容赦なく打たれます。御霊は肉の上には注がれません。私たちが本当に主と共なる十字架で自分自身の死を見るまでは、御霊が私たちの上に大胆に働くことはないのです。

神に近づきたいと願う願いが、自分自身が神のようになろうとする、もしくは、自分自身を神に等しい者とみなすという高慢さにつながってはいけませんし、神はそのようなことをお許しになりません。霊と魂との切り分けはこのレベルで行なわれる必要があるのです。自分自身から来るものと、神から来るものとが、明確に切り離されなければなりません。残念ながら、それを私たちは失敗を通して学ばされることがあるかも知れません。キリストは十字架においてご自分を完全に否まれました。十字架の死に至るまでご自分を低くされ、神としての栄光を捨てて仕える姿勢を取られたのです。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子がきたのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28) 

ですから、あくまで十字架の死の中にとどまりましょう。定められたときまで、力強い御手の下に自分自身を低くしましょう。(これは悪魔の思うがままに翻弄されることを意味しません、それらもろもろの事柄に対して、自分自身から来る力によって立ち向かうことを拒み、ただ神ご自身だけの力によって、信仰だけによって立ち向かうことを意味します。)そうすれば、定められた時が来れば、神ご自身があなたを高く引き上げてくださいます。

私たちが本当に主と共なる十字架の死に服しているかどうかは私たちの態度に表れ出ます。望みに反した仕打ちを受け、悪評をこうむり、そしられ、排斥されるような時にも、あなたは喜んで主の主権を認め、主と共に重荷を負うことができるでしょうか?

この先、一人ひとりが何の霊によって語っているのか、誰の主権に従っているのか、それが己からきたものなのか、それとも、真にキリストであるのか、事実を通して明らかにされていくと思います。とりこにされていく者はとりこにされるでしょう。私たちはすべてを御言葉に照らし合わせながら、慎重に吟味していく必要があると思います。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(Ⅰテモテ4:1) 

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)


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