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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主を知ることを切に追い求めよう

やはり、3月は予想通り無事に過ぎました。一部の予想と異なるかも知れませんが、私は今年はそんなに物騒な年にならないのではないかと思っています。どちらかというと、試練は世にではなく、エクレシアに属するのではないでしょうか? (けれども、私は預言しているのではありませんので、当たらなくとも責めないで下さい。)

さて、これからは土日も仕事になるかも知れませんので、今までのように頻繁にブログの更新はできなくなります。残念なことに、礼拝に赴くことも困難になるかも知れません。これは不真面目さのゆえではありませんので、どうか私を責めないで下さい。私はこの先、しばらくの間、本当に主だけに耳を澄まして聞き従いたいと思っているので、この静寂は好都合なものです。通勤の長い道のりの間には、ウォッチマン・ニーの著書にじっくりと目を通すことができますので、その間にも深い慰めを受けています。

ただ御霊だけに聞くように! 目に見えるいかなる仲介者にも心を奪われないように! これは兄弟たちが私に教えてくれたことでもあります。ですから、私は今、しっかりとこの原則に立って、全てのことを脇において、いかなる仲介者からの助言も忠告も廃し、ただ主ご自身とだけしっかり向き合いたいと思っているのです。

人から教わることが無意味だと言っているのではありません。けれども、人からやってくる実に多くのものが信者をかえって惑わせ、議論を紛糾させてしまうことがあるのです。私は知っています、人から教わることと、主から直接教わることは比べものにもなりません、人が何万語も費やして何時間もかけないと教えられないようなことを、御霊は啓示によって私たちに瞬時に示すことができるのです。そこでは死んだ文字から教わった知識など役には立ちません。御言葉は生きた霊的知識となって私たちを生かさなければなりません。御霊の啓示によらなければ、誰もキリストを知ることはできません。私たちは誰でも、霊においてキリストを知ることを切に追い求める必要があるのです。

「さあ、に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。
主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。

私たちは、知ろう。
を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)


ただし、本当に御霊に教えられたいならば、へりくだって心砕かれていなければなりませんし、長い時間をかけて神の御前に進み出て、沈黙が続いても、忍耐強く主を待つことが必要です。私は主を待ちたいのです。たとえ答えがすぐになかったとしても、ただこのお方だけを待ちたいのです。賛美や祈りの中には大いなる感奮があるかも知れません。しかし、活動の中には何かしらアダムの自己満足と自己中心性が潜んでいるように思われてなりません。以下の論説の中で、一般的な教会の一極に集めようとする精力的な活動が、「内にこもること」だと表現されているのは言い得て妙ではありませんか。

それもこれも大切かも知れませんが、さらに大切なことは、自分自身は死の内にとどまり、主の訪れを静かに待つことではないかと私は思うのです。多くの人は主と一対一で向き合うことこそが、内にこもることなのだと勘違いしていますが、そうではないのです。アンドリュー・マーレーは再三に渡り、祈るために密室へ行け!と語っています。隠れたところで、私たちがどれほど主に心を捧げ、心を注ぎ出したか、隠れたところにおられる神は、確かにご覧になって評価しておられると思います。与える、注ぎ出す、とは、ただ目に見える場所で目に見える人々に何かを分かち与えること(伝道、奉仕活動、慈善活動など)を意味するだけでなく、まず神ご自身のために、あなたがどれほど自分の魂を残らず注ぎ出したかを意味するものと私は思います。

ですから、まず神ご自身のためにどれほど豊かに魂を注ぎ出したか、この唯一のお方を愛するためにどれほど心を砕いたか、人目につかない所でどれほど多くの時間を主のために注ぎつくしたか、それこそが、私たちが命を豊かに受ける大いなる秘訣ではないかと私は確信しているのです。

その意味で、私は葬られた麦粒になりたいのです。今、それ以外のことは望んでいないのです。なぜ葬りなのかと言えば、神を愛するためには他のものから注意を引き離し、他の活動を終わらせる必要があるからです。それは死の中にとどまることなのです。密室も私たちの旺盛な活動意欲から見ると一つの死です。その他にも、色々な試行錯誤が死ななければいけません。それもこれも全て死を経て主の領域に渡される必要があります。

ああ、私たちがもしも忠実にカルバリの死の中にとどまってさえいるならば、復活は神の側の仕事です! この復活の命の領域を生きること! 復活の命の大胆な現われを実際に知らせていただくこと! ただ焦がれるほどにそのことだけを願うのです。もしも復活がなくては、アダムの命だけしか知らないのだとしたら、一体、私たちは何のために召されたのでしょうか、一体、この地上の人生に何の意味があるというのでしょうか。どんなに教会活動にいそしんでも、私たちは一歩たりとも人知によって知りうる領域を離れることはできないでしょう。

どうか主イエスがご自分の死を持って私たちに分かち与えて下さったその聖なる尊い価値ある命を、その絶大なよみがえりの命を、私たちが生きて知ることができますように! 今まで知っていると思っている事柄で私たちが決して満たされることがありませんように! 神の御旨を生きてつかむことができますように! その御旨とは、十字架の死を経て栄光化されたキリストの御霊であり、神の復活のいのちの領域を私たちが実際に生きて知ること、そしてそのことにより、その復活のいのちが私たちを通して分与されることなのです!

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。<…>

互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:3-10)


オースチンスパークス、「生ける水の川々」

いのちの川

ヨハネによる福音書七章三十七~三十九節に鍵となる御言葉が見つかります。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、『だれでも乾いている者は、私に 来て飲むがよい。私を信じる者は、聖書が言っているように、その人から生ける水の川々が流れ出るであろう』。しかし彼はこれを、彼を信じる者たちが受けよ うとしている御霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ与えられていなかったからである。」

この段落にある、「生ける水の川々」という句に特に注意を払いましょう。

この句に関連する聖書の他の箇所を示したいと思います。

最初は、創世記二章十節です。

「一つの川がエデンから出て園をうるおしていた。そしてそこから分かれて、四つの川となっていた。」

次はエゼキエル書四十七章一節です。

「彼は私を宮の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が宮の敷居の下から東の方へと流れていた。宮の正面が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。」

この章に目を通して、この川の詳細を思い出して下さい。

そこから再びヨハネによる福音書にやって来ます。四章十四節

「しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して二度と乾くことがない。私が与える水は、その人の内で泉となって、永遠のいのちへとわき出るのである。

最後は黙示録二十二章一、二節です。

「そして彼は、水晶のように光り輝く命の水の川を私に見せた。それは神と小羊の御座から出て、通りの中央を流れていた。その川のこちら側にも向こう側にも命の木があって、十二の実を結び、毎月実を実らせた。その木の葉は諸国民のいやしのためにあった。」

「生ける水の川々」。このイエスの御言葉に関するヨハネの注釈――この注釈は、イエスがその御言葉を語られた ずっと後に記されたものであり、使徒の長きにわたる豊かな経験がその背景にありました――は、「彼はこれを、彼を信じる者たちが受けようとしている御霊に ついて言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ与えられていなかったからである」でした。

この注釈の最初の部分は、聖書全体における川々の意味と性質について鍵を与えます。それは聖霊です。先ほど示した川々と泉、泉と流れる水に関する引用をすべて聖霊の象徴として受け取るなら、神の御旨をいとも容易にはっきりと知ることができます。

 

ご自分の民に対する神の意図

最初に、これはご自分の民に対する神の御心であり、御心に反するものではありません。神の意図は、聖霊が「生 ける水の川々」のようになることです。これが神の御心です。これ以外のことは神の御心に達しないか、御心に反するかのいずれかです。聖書はこれで始まり、 これで終わります。ある意味、全聖書はこれに集約されます。神の御旨、神の御心は、生ける水の川々が意味するところのものです。すなわちこれはみな、与え ることを願う神の偉大な性質を表しているのです。

これを神の「気前よさ」と言うことができるでしょう。神は与えることを願う御方、その性質が与えることで あり、豊かに与えることである御方として描かれています。これは信仰によってとらえるべき、神に関する単純な基本的事実です。

暑い国に出かけて観光をする時、水を見つけることが時々必要になります。これに関して長い経験があるなら、水 を求めて探しに出かけはしません。目を上げて新緑や葉の茂みがある所を見れば、水は遠くないことがわかります。ですから、青々とした葉の茂みを探します。 そうすれば、ほぼ確実に水の流れがみつかります。主が実際にどこにおられるのか、あるいはどこにおられたのかは、いわば霊的新緑によって、みずみずしさによって、葉の茂みによって、いつも言い当てることができます。主はこのような方法でご自分のしるしを残されます。それは主の性質であり、主の性格そのもの なのです。

このように、これが神の御心です。私たちが読んだ聖書の箇所から、神の御心に関して他にもわかることがあります。それはとても単純です。個々の信者に対する神の御心は次のことです、「だれでも乾 いている者は、(中略)だれでも私を信じるなら、その人から生ける水の川々が流れ出るであろう」ここの「だれでも」は単数形です。私たち一人一人に対す る神の御旨は、私たちから生ける水の川々が流れ出るようになることなのです。この個人的な面は、スカルの井戸で主が女と話された会話の中にとてもはっきり と述べられています。「私が与える水は、その人の内で泉となって、永遠のいのちへとわき出るのである」

しかし、これは教会に対する彼の御旨でもあるのです。私たちは黙示録の最後の数章で、「通りの中央」に水が流れている都を見ます。もしこれが、まさに私たちが信じているように、教会の象徴的表示であるとするなら、教会に対して神が最後に示された幻は、この豊かな流れ、この奔流、このいのちの水の川が、教会から諸国民に向かって流れて行くことです。これを成就するために神は常に働いておられるのです。

そして、教会全体に普遍的にあてはまることは、もちろん、その各地の表現にもあてはまります。ご自分の民からなるすべての団体に対する神の計画は、彼らがどこにいても、彼らから生ける水の川々が流れ出るようになることなのです。黙示録と創世記には対応関係があります。創世記には、主なる神が園を植えられたことが記さ れています
(創世記2:8)。黙示録にはこう記されています、「勝利を得る者に、私は神のパラダイスにあるいのちの木から食べさせよう」(黙示録 2:7)。黙示録の最後の数章は、いのちの水の川のほとりにあるいのちの木を私たちに見せています。こういうわけで、創世記の中の園は教会の予表であり、 神のパラダイスの予表です。神の永遠の御旨は、彼の川々が園から流れ出ることなのです。
 

流出は流入の秘訣

これをはっきりと理解しましょう。もし私たちが、個人的に又は団体的に、地元において又は普遍的に、生ける水の川々の流出を失うなら、私たちは自分の存在意義を失うのです! この流出という点は大事に守られなければなりません。危険なのは、個人的だけでなく団体的 にも、内にこもること、自分自身に向かうことです。人々を集めようとすることや、どこかを満員にしようとすること、集めて何かをしようとすることのために、なんと膨大なエネルギーが費やされ、なんと多くの活動や企てなどがなされていることでしょう! 人々をどこかへ連れて行って何かを建てあげるために行わ れている、ありとあらゆる催し物や努力をご覧なさい。これが一般的な方法ではないでしょうか? 実に、これ以外の方法は知られていないかのようです。

しか し、これは神の方法ではありません。これが神の命令だったことは決してありません。聖書の中にこのようなことは見いだせません。神の方法は、
「注ぎ出しな さい。そうすれば受けます。あなたが注ぎだしたものは戻ってきます」です。

1954年にロンドンでマルチン・ルターの映画が上映される前、かの偉大な芸術家レオナルドダビンチを描いた映画が上映されました。その映画は終盤、彼が生涯で最後に取り組んだ仕事を描いていました。晩年、彼がほとんどかかりっきりだったことは、水、水、水―― 激流となって恐ろしい力で打ち寄せる洪水・奔流――でした。これが彼の芸術的想像力をとらえ、彼の筆を走らせたのです。しかし、(特にこの今回のテーマを 心にとめていたので)私に感銘を与えたのは次のことでした。すなわち、激流となって大量に流れ出し、溢れ出ている水は、ある一定の限界に達すると、反転 し、幾重にも連なりあった大波となって、同じ力で戻って来るのです。その美しい光と影、渦や旋回といったものすべてが、どのように一人の芸術家の想像力を とらえたのか、理解するのは容易です。

しかし、これから私に思い浮かんだことは、「十分強い力で十分な量を注ぎ出すなら、注ぎ出したものは戻ってくる。溢れ流れる大波となって、すべて戻ってくる」ということでした。

主はこれを別の言い方で述べておられます、「与えなさい、そうすれば与えられます」。主はさらに続けて言われ ました、「彼らは量りをよくし、押し込み、ゆすり入れ、あふれるほどに、あなたがたの懐に入れてくれます」(ルカ6:38)これが神の原則、いのちのための原則であることがおわかりになるでしょう。あなたは受けることを欲しておられるでしょうか? 豊かさを欲しておられるでしょうか? 拡大を欲しておられる でしょうか? 「いのちの水の川々」が意味するものすべてを欲しておられるでしょうか? 

これは与えることから来ます。これは注ぎ出すことの見返りなのです。 もちろん、あなたは注ぎ出すもの、与えるものを何か持っていなければなりません。しかし、これは私たちを神の御旨とこの御言葉に連れ戻します。ヨハネのことを思うと、私はとてもうれしくなります。この老人は、務めと働きと奉仕の長い生涯の後、最後に主イエスのこの御言葉を取り上げて、「主が言おうとされたのは、これです!」と言いました。これが意味するところをすべて読み取りなさい。何年も与え続けて、今おそらく欠乏の中にあるであろう一人の老人(無駄に 力を費やしたものだ、とあなたは思うかもしれない)が、最後の最後に、「これがイエスが言おうとされたことです! 聖霊は信者の中で生ける水の川々のようになって注ぎ出ます」と言っているのです。願わくは神が、私たちをついにはこうならせ、決して乾かないようにして下さいますように。

これが主の御心であり、奉仕の真の性質です。これが人生の秘訣です。もし自分の殻にこもるなら、私たちはおし まいです。しかし外に向かって、与えることのできるものをいつも主に求めているなら、その結果は豊かさと拡大です。これが人生の秘訣です。これが奉仕の秘 訣です。エルサレムでいのちの水の川が流れだしたペンテコステの日以来、「与えること」が皆の特徴でした。ペテロとヨハネは宮に上り、施しを求める足萎え の男を見て、「金銀は私にない。しかし、私の持っているものをあなたにあげようと言いました(使徒3:6)。初期の教会を特徴づけていたのは与えようとする性格です。なぜなら、いのちの水の川が流れ出ていたからです。

トマス・アキナスと、彼と同時代に法皇だったイノセント二世について、こういう話が伝えられています。ある日のこと、トマスは法皇のところに出かけて、法皇が莫大なお金を数えているのをみつけました。法皇は言いました、「見るがいい、トマスよ。教会はもはや、 『金銀は私にない』と言うことはできない」。トマスは悲しそうに答えました、「おっしゃる通りです。教会は『起きあがって歩け』と言うこともできません」。

人生と奉仕の真の秘訣は、与えることの効力にあるのであって、受けることによる単なる自己満足にはありません。もし私たちが、個人的に又は団体的に、自分の殻にこもろうとするなら、万事は人為的なものになるでしょう。すなわち、自分たちですべてを行わなければならなくなり、ありったけの知恵と機知を用いざるをえなくなるでしょう。しかし、与える性格、注ぎ出す性格、他人の益を求める性格が私たちにあるなら、万事は人為的ではなく、自然なものになるでしょう。
 

生ける水の特徴

さて、これまで述べてきたことはみな、機能と関係があります。御霊の機能、教会の機能、個々の信者の機能は、 注ぎ出された神の豊かさとなることなのです。この生活、この務めについて、すなわち水としての御霊の特徴について、もう少し述べることにします。この特徴 はとても単純です。その水の定義は、生きている水である、ということです。信者の生活の効能、教会の地域的・世界的効能は、いのちの状態を 創り出すこと「生き生きとした状態」に向かって進むことです。そして、常にこれが試金石です。常にこれが真理の証拠です。

真理の究極的証拠は、合理的で あることではあり
ません。私たちは真理を論じ尽くすことはできませんし、議論によって自分たちの正しさを人に納得させることもできません。真理の究極的証 拠は活力なのです。たとえ真理であっても、その究極的証拠はそれ自身にあるのではなく、その効力にあります。真理の効力は常にいのちとなり ます。いのちと真理は共に進みます。あることが正しいかどうかを決めるのは、結果として生じる状態が「生き生きとしている」かどうかです。私たちの存在、 私たちの人生の総計は、他の人々が生かされ、生き生きとした状態――いのちの状態――が創り出されるものでなければなりません。これが主の御旨です。

川のもう一つの証拠は豊穣さです。聖書全体にわたって紹介するまでもなく、すぐに該当個所が思 い浮かぶでしょう。豊穣さは生ける水の主要な特色・特徴です。「死せる水」とも呼べる、生きていない水の例が、聖書の中に少なくとも一つあります(列王下 2:19-22)。その水にはある要素が欠けていたため、熟する前に実はすべて落ちてしまいました。達すべき目標・目的に達したものは一つもありませんで した。それは死せる水でした! エリコの人々は「ここの水は悪い」と言いました。預言者はその状況を正常化しました。

私たちは何を与えているのでしょうか? 死せる水でしょうか? そしてその結果、何事も進まず、何事も完成せず、 何事も実を結んでいないのでしょうか? そのようなことは神の御旨ではありません。

生ける水が意味するものは豊穣さであり、産出と再生産であり、豊かさなの です。「川の岸に非常に多くの木があった」(エゼキエル47:7)「非常に多くの木」です。神の御旨は、あなたや私が世を去る時、多くの 「木」すなわち多くの人々の人生の中に、一つの証しを残すことです。その証しとは、神はこのような方法で働いて、この水が私たちを通して多くの人々に及んだ、というものです。これもまた、個人的・団体的に真実でなければなりません。

それから新鮮さです。生ける水は新鮮な水です。毎月実る木の実は新鮮さを表していないでしょうか? まるで、何ものも古びることを許されていないかのようです。老年もしくは「古さ」が予見・予期されていたのに、古さが感知される前に、何か新鮮なものが生じたのです。

新しさと刷新についてのこの同じ原則を示す他の描写・比喩が聖書中にあります。「鷲のように翼をかって上 る」、「走ってもたゆまない」、「歩いても疲れない」。ご存じのように、これらの御言葉は、「若者も疲れ、たゆむ」(イザヤ40:30,31)から始まり ます。ですから、これは何か不自然なことです。人は走ってもたゆまないこと、歩いても疲れないことを若さに求めます。しかしここに、それとは異なる何か、 それに勝る何かがあります。全行程にわたって新しさ、新鮮さ、刷新があるのです。「主を待ち望む者は新たな力を得る」。これは信仰によって理解すべきもの として、私たちに与えられているものです。

さらに、永続性です。御言葉は「生ける水の川々」です。大きな川には大いなる耐久性があります。私はユーフラテス川とチグリス川を見たことがあります。その起源は創世記二章十節に述べられています。この二つの川では、何と膨大な量の 水が流れ下っているのでしょう。凄まじい力であらゆるものを流し去り、進路に立ちはだかるものを何一つ許しません。それはいつまでも持続し、抗うことがで きません。これを象徴からその実体に移すなら、もちろん、聖霊がこのような御方であることがわかります。聖霊は絶えず進み続ける生ける水の川々です。

しか し、憶えていてください。聖霊は私たちの中に宿らなければなりません。次に、
聖霊は私たちの内側から流れ出なければなりませんこれを実現するために私たちは真に召されているのです私たちを前進させるために何度も何度も繰り返される聖霊の刷新のゆえに、神に感謝します! 聖霊 の永続性のゆえに神に感謝します! もし聖霊がおられなかったら、私たちはどうなっていたでしょう? この永続性がなかったら、今日私たちはどこにいたでしょ う? 聖霊は私たちを訪問して下さり、さらに訪問して下さいます。

もう一つのことを述べましょう。川のほとりにある、健康を与える木々の存在についてです。「その木の葉は諸国民のいやしのためであった」。ここに、健康を与える性質を持つ、生ける水があります。健康な状態をもたらす聖霊の働きについて、御言葉は何と多く述べていることでしょう! これだけでも多くの時間を費やせるでしょう。

聖霊は、彼の方法を取るとき、常に健康な状態をもたらされます。聖霊が自由な道を取る時、教会を悩ます霊的病や疾患は除き去られます。不健康な状 態は、聖霊がどこかで妨げられていることをまさに示唆します。この神のいのちの豊かさは、私たちを共に活気と活力に満ちた健やかな民にするのです。

それから、「一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせる」(詩篇46:4)その川による喜びがあります。
 

要求

さて、これはみなとても単純であり、始まり、基礎にすぎません。しかし、これは要求であり、実に非難ですらあ ります。これはあなたを責めないでしょうか? これは私の心を責めます。これは私に迫り、私に命じます。これは言います、「これが主の望んでおられることで あり、主が備えて下さったことです。これが、ご自分の道を行く時に主がなさることです」

しかし、私はあなたに主ご自身の御言葉を示しましょう。主は「
私を信じる者は誰でも」と言われます。これは信仰への挑戦です。あなたは、これが自分に対して可能である、と信じるでしょうか? あなた自身に ついてです。これは単なる一般論、美しい壮大な観念にすぎないのでしょうか? これはあなたの脇を通り過ぎているのでしょうか? これが自分に対して実現される可能性を、あなたは理解することも考えることもできないのでしょうか?

主イエスはあなたに向かって個人的に、
「私を信じる者は……」とはっきりと語りか けておられます。あなたは乾きを感じておられるのでしょうか? 乾いておられるのでしょうか? 信仰はその状況を変えることができます。神が言われたことを信じる信仰です。これは信仰によって握るものであり、あなたが信仰によって握るべきものです。「私を信じる者は、その人から生ける水の川々が流れ出るようになる」

さらに、先に述べたように、この要求は次のことを意味します。すなわち、もしこの要求が主の民である私たちに ついて個人的・団体的に満たされないなら、主の民であるという私たちの主張は根拠を欠くことになります。

黙示録の冒頭にある、アジアの諸教会に対する主の要求と叱責の核心はこれだと思います。
うぬぼれと自己満足と自己充足に陥ってしまった教会や、別の仕方で内にこもってしまった教会がありました。主の要求 は、「生ける水の川々が流れ出ていない」ということを意味していたようです。主は言われます、「生ける水の川々が流れ出ていないなら、『自分たちは教会で あり、神の民である』というあなたたちの主張には根拠がないことになります」

しかし、慰めと励ましがあります。神がこれをご自分の御旨として示し、これを私たちの存在意義そのものとし、彼の御霊を与えて確かに備えをして下さった以上、これは可能です。
これは可能なのです!

私は信じていますが、これを新たな方法で主の民の間に回復することを主は願っておられます。しかし、私たちは 常に自分たちの根拠を確信していなければなりません。「主の意図はこれなのか、主の意図・御旨がこれであることを私たちは本当に示せるのか」という一点に ついて、私たちは確信していなければなりません。これが神の御旨であることを完全に確信できさえするなら、私は進むことができます。本当に前進することができます。

そして、確信を持つべき根拠が存在します。主は限りなく「与える」神であって、ちまちまと与える神ではないこと、主は私たちを通してご自身を注 ぎ出すことを願っておられ、私たちを通してただひたすらご自身を注ぎ出すことを願っておられることを、主は示しておられます。
「その人から生ける水の川々が流れ出るようになる」。これが彼の願いです。

どうか私たちの共同の黙想が、このような結果をもたらしますように。干上がった水路はみな満たされ、乾いた土地はみな潤され、霊的干潮はみな満潮に場所を譲りますように。私たちは個人的にも団体的にも自分がまったく取るに足りない民であることを知っていますが、それでも、
主はこの道を歩まれるということが新たに知れわたりますように。

「国々や地の果てにも届くほど、水の量が増し加わることは可能である」と言っても、言い過ぎではありません。それは主が私たちにあってなさることのためです。これが現実となるよう、信仰にとどまりましょう。

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