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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)


以下でキリスト教の歴史がいかに恐るべき出来事に満ちているかということについて書きました。背教のはびこる今日であればなおさらのこと、こういった出来事に憤慨する人々は多いでしょう。しかし、残念ながら、それを止めることはできないのです、終わりの時代、どうしてクリスチャンの間にヒューマニズムなど期待できるでしょうか。

終わりの時代には、聖書にある通り、多くの人たちが主の御名のゆえに会堂を追われ、憎まれ、迫害されます。そして、こうした出来事をきっかけに、多くの人たちが互いに裏切りあい、傷つけあい、憎み合い、そして、失意と落胆のあまり、信仰から落ちてしまいます。

そのようにして信仰を揺さぶられる出来事は、これまでにも、絶え間なく起こって来ました。以前には、本当に何も分からなかったがゆえに、私はただ起きる出来事に憤慨し、問題となる現場を離れるだけでなく、同時に信仰をも棄て去ることで問題解決しようとしたことがありました。また悪しき環境を変えねばならないと思っていたこともありました。

思い起こせば、初めから、主の御名を信じたゆえに、恵みに満ちた幸いなときを過ごしたよりも、もしかすると、苦しみの時の方が多かったかも知れません。しかし、それが私の不信仰のゆえの過ちであったにせよ、未熟さのせいで起こった損失だったにせよ、あるいは、本当に背教のせいであり、あるいは、主が真実お与えくださった試練であったにせよ、何が原因で、どれほど理不尽な出来事の中を通らされたとしても、今、分かることは、信仰者は涙を流しながらでも、その剥ぎ取りに同意するしかなく、全ての出来事の背後には、やはり神の主権が及んでいることを覚えて、主に従うと申し上げるしかないことです。そして、仮にどんなに追いつめられたり、窮乏したり、誤解されたとしても、そんな中でも、神がどれほど憐れみに満ちた、愛なる、誠実な方であるかだけをひたすらに信じ続け、この方のみにすがり、生きるならば、そうしているうちに、神は必ず再び、個人的にあなたに栄光を見せてくださること、御旨を告げ知らせ、恵みを現して下さることを信じています。

ですから、いかなることが起きようとも、二度と、信仰を捨てることで問題解決することはできないのです。また、周囲を変えることで、問題解決できるとも思わないのです。確かに、理不尽だと叫ばずにいられない時があるかも知れません。御旨を最後まで信じ続けることが困難なときがあるかも知れません。しかし、それでも解決は、環境を変えることにはなく、周囲を糾弾することにもなく、ただ主を信じ、従うことだけにあるのです。すべては人との関係においてではなく、神との関係において解決されるべきことなのです。右も左も前も後ろも八方塞のようなときでも、上(天)は開いており、この天からのみ解決はやって来ます。

「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、
あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、
まどろむこともなく、眠ることもない。

は、あなたを守る方。
は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、
夜も、月が、あなたを打つことはない。

は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
あなたのいのちを守られる。
は、あなたを行くにも変えるにも、
今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇第121篇)


そうは言っても、多分、これから先、人間的な力では主に従う決意を貫き通すことは無理でしょうから、ただ内なる御霊がそれを全うさせてくれることを願うだけなのです。

もしかすると、私が愚かであるがゆえに、分かっていないことも多いのでしょう。しかし、愚かであっても、主に従おうと心から願っている人に対して、無理やり人の心をこじ開けて、土足でそこに踏み込み、その人に公に恥をかかせた上で、自分が真理だと確信しているものを、人の理解もかえりみず、有無を言わさず上から押しつけるような行為はもうこりごりなのです。主はそんなやり方を好まれません。御霊は決してその人の理解の限界を超えて人に何かを強制することはありませんし、各自はそれぞれが達しえたところに従って進むことしかできず、置かれている状況も人により様々であることを主はちゃんとご存じであり、(しばしば主の奇妙な取り扱いは、本人にも理解できないものであり、まして周囲には全く理解できないことが多いのです)、神は神ご自身にしか決してできない方法で、その人を教え、必要な理解と慰めを送ることがおできになります。

もしもその人の召命が本当ならば、そして、もしもその人が正真正銘、主に信頼しよりすがっているならば、どのような状況の中からでも、必ず、主はその人自身に分かる形で御旨をお示し下さり、栄光を輝かせて下さることがおできになります。ヒューマニズムは人に求めても無駄ですが、神に慰めと憐みを求めることは決して無駄には終わりません。神は私たちの心のすべてをご存じであり、ただ一人、私たちの心を最も慰めに満ちた方法で適切に取り扱うことがおできになる方なのです。

ジェシー・ペンルイス著、つまずかない者は幸いです、より

私につまずかない者は幸いです。
(マタイによる福音書11章6節)

バプテスマのヨハネは義のゆえに牢獄の中にいました。孤独な囚人はキリストの御業を聞きました。ヨハネはかつ て、彼を神に油塗られた方として証ししました。しかしその彼が、二人の弟子に質問を持たせて主のもとに遣わしたのです。このことは、ヨハネの魂の中に鉄のような疑問が入り込んでいたことを示します。神に見捨てられたかのような状況の中で、彼は過去を熟考しました。そして、「私が神の御子として証しした方 は、結局のところメシヤなのだろうか?」という恐ろしい疑問が、言いようのない困難の時に、彼の心の中に入り込みました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」。これが主に対する短信でした。

「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネによる福音書1章34節)と大胆に証しした彼が、本当にこのような質問をしたのでしょうか?

ヨハネはまた、(神の)霊に教えられて、「彼は必ず増し加わりますが、私は必ず減少します」(ヨハネによる福音書3章30節(訳者注)と 言いました。彼はキリストの先駆者であり、彼の働きが成されたあかつきには、必ず視界から消え去らなければなりませんでした。それは、すべての注意が主に集中するためです。しかし、聖霊は彼がどのように「減少する」のかに関する知識を差し控えられました。ヨハネは、自分の奉仕の道が投獄と殉教の死で終わろ うとは、夢にも思いませんでした。

ある日、牢獄の中で、「結局、私は間違っていたのだろうか?」とヨハネは考えたかもしれません。「あの方はメシヤなのだろうか。それとも、偉大な預言者の一人にすぎないのだろうか? イスラエルは、別の方を約束された方として待つべきなのだろうか?」

ヨハネは弟子たちを遣わしました。主イエスは、ヨハネの短い質問に対する返事として、「あなたがたは行って、 自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と彼らにお命じになりました。ヨハネは確かに預言者イザヤの書によく通じていました。そし て、彼の弟子たちは今、神の霊が明らかにガリラヤの預言者の上にとどまっていることを彼に告げることができました。彼らは、盲人は見えるようになり、足の 不自由な人は歩き、らい病の人は清められ、耳の聞こえない人は聞き、貧しい人々には福音が宣べ伝えられているのを見ました。

イエスはヨハネの弟子たちに、「自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」と言われまし た。主は、孤独な囚人にこれだけ言い送れば十分だと判断されたのです。しかし主は、ヨハネ自身の心の必要のために、短い個人的なメッセージ――優しく意義 深い言葉――を付け加えられました。そのメッセージは、さらに深い苦難――主はヨハネの前途にさらに深い苦難が待ち受けていることをご存知でした――の中 で、ヨハネの信仰の錨として働くであろうものでした。「ヨハネに言いなさい。・・・私につまずかない者は幸いです。」(マタイによる福音書11章6節)

あたかも、厳しい試みを受けている僕に対して、キリストは次のように言っておられるかのようでした。「私は他の人々の必要を満たしています。しかしヨハネよ、あなたの必要を忘れたわけではありません! 私はあなたのために、特別な祝福を取ってあります。それは、私の周りにいる人々に与えているものよりも、遙かに高度な祝福です。それは、現在の試みや現在の苦難からの解放よりも遙かに優っている、永遠の祝福です。

それは、私がどんなに奇妙な取り扱いをしても、私につまずかない人々のために取ってある、特別な祝福です。私は他の人々を解放する一方で、彼らを牢獄、暗闇、孤独、苦難、死の中に取り残します。それは、私の現れの時に、彼らの信仰が栄誉を受けるためです。

主は、試みを受けている先駆者に、非難の言葉を一言も送られませんでした。主は、「すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われる」(ヘブル人への手紙12章11節)(訳者注)ことをご存知でした。それゆえ、主はメッセージを送って、永遠の平和の実を結ぶ「将来」を信じるよう、ヨハネの信仰を引き上げられたのです。

あのさらに暗い日――神の僕が殉教の死へと追いやられ、悪魔が明らかに勝利したかのように見えたあの日――、ヨハネは「私はつまずきません、主よ」とささやいたのではないでしょうか? ヨハネが「釈放されなかった」のは、彼が「さらにまさった復活」*、殉教者の冠を得るためでした。

*ヘブル人への手紙11章35節「他の者たちは、さらにまさった復活を受けるために、釈放されようとはせず、打たれて死にました。」(訳者注)

ヨハネの弟子たちがメッセージを携えて帰った時、イエスは群衆に向かって、ヨハネについて証しされました。かつてヨハネがヨルダン川のほとりで主について証ししたように、主もヨハネについて証しされました。

「『見よ、私は私の使者を遣わす・・・』と書き記されているのは、この人のことです。バプテスマのヨハネよりも大いなる者は、起こったことがありません。」(マタイによる福音書11章10~11節)

ヨハネは「大いなる者」だったので、主はヨハネを信頼することができました。公の「成功した」奉仕に関してだ けでなく、説明無き投獄と苦難に関しても、信頼することができましたキリストはヨハネを信頼していたので、短いメッセージを送るだけで、ヨハネは屈辱的な死に向かうことができる、と考えられたのです

主がヨハネに送ったメッセージは、ヨハネが厳しい試みと困難の中にいたことを明らかにしました。しかし、主がヨハネにメッセージを送られたまさにその時、主はヨハネについて、「彼は燃えて輝くともしびです」と証しされたのです。牢獄の中にあっても、ヨハネは彼の神にとって「輝くともしび」でした。そのともしびは、彼を取り巻く暗闇の中で、いっそう明るく燃えていました。

主はヨハネの忠実な心をご存知でした。そして、「主の奇妙な沈黙と取り扱いにつまずいてはならない」と命じる短信を送るだけで、現在の苦難から解放されることを求めない信仰、試みの時に、

「私は何と言いましょう?父よ、この時から私をお救い下さい」、「父よ、あなたの御名の栄光を現して下さい」(ヨハネによる福音書12章27、28節)

と叫ぶ信仰を引き出せることを、主はご存知でした。

主はヨハネに祝福を与えることを約束されました。主がヨハネを牢獄から解放せず、その中に残すとき、もし彼が つまずかないなら、彼はその祝福を受けるでしょう。主がヨハネに送られたメッセージの中の「誰でも」という言葉は、彼の足跡に従う神のすべての子供たちに も、この祝福が約束されていることを示します。「私につまずかない者は誰でも(バプテスマのヨハネだけでなく)、幸いです」

ヨハネに約束されたこの特別な祝福、そして「誰でも」という言葉によって私たちにも開かれたこの特別な祝福にあずかるために、聖書の他の節に行き、今日「つまずかない」者となるための方法を学ぶことにしましょう。

まず最初に、メシヤが来られる時、彼が「つまずきの岩」となるであろうことを、イザヤがはっきりと預言していることに注目しましょう。

「この方が聖所となられます。・・・そして、つまずきの岩となられます。・・・彼らの中の多くの者がつまずきます。」(イザヤ書8章14、15節)

私につまずいてはいけません」が、ヨハネに対する主のメッセージでした。そして、主の御言葉はイザヤ書の節を解き明かします。

すべての魂にとって、キリストは「聖所」であるか、「つまずきの岩」であるかのいずれかです。私たちは主を避け所とし、彼の御心を学んで彼に「つまずかない」者となるか、さもなければ、彼の要求、彼の救いの道、彼の十字架、彼の御旨、彼の私たちに対する取り扱いに憤慨する*かのいずれかです。彼は不従順な者に対しては「つまずきの石、妨げの岩」ですが(ペテロ第一の手紙2章8節)、彼を信じ、彼の中に隠れる人々に対しては尊いお方です。
 

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