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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

律法を定め、裁きを行なう方はただ一人であり、その方は救うことも滅ぼすこともできます

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

最近、雲のような証人に囲まれていることを痛感させられている。

「本当につらかったでしょう。ずっと心配していたんですよ。」との言葉を聞いたとき、初めはぽかんとしている自分がいたが、しばらく経ってから合点がいった。ああ、そうか。あの状況ではつらいと感じて当然だったのだと、初めて納得がいった。私が苦しんでいるに違いないと心配して、言葉をかけてくれた人の温かさに触れて、初めて自分の気持ちに気づいたのだ…。

私を愛してくれ、気遣ってくれる人の言葉によって、初めて、苦しみや、悲しみを、感じていないかのように振舞う必要がないことに気づいた。恐怖を押さえ込んだり、誰かがいなくなっても、苦しむことも、泣くこともせず、これで当然の結果なのだと自分をごまかす必要もないことを知った…。

その人は言った。「神様はどこにいても働くことができます。私もそうだけれども、あなたがどこにいようと、いまいと、そんなことに関わらず、私はあなたを信じていますからね(あなたを導かれる神を信じていますよ)!」

また別の人は言った。「世も宗教界もこれからますますおかしくなるでしょうね」と。「…それは、どんな仲介者も介さず、ただ主だけに従えということですか?」との問いに、答えはなかった。が、多分、沈黙が肯定を意味しているのだろうことは感じられた。

本当に、主に、ただ主にだけ従って生きたい。兄弟姉妹から受けた光が真実であったことは否定しないし、そして主にあって御身体が永遠に一つであることも否定しないが、もう何者をも間に挟む必要はない。ただこの方への愛に、ただこの方の排他的な愛に応えるために生きていきたいのだ…。

* * *

聖書には、御霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ6:22-23)とある。

聖霊はそれが内住している人におのずから律法を全うさせるものだ。かの有名なコリント人への第一の手紙の中で、愛の名で呼ばれているものは、キリストを、御霊を指している。それはいのちの御霊の法則が信じる者に結ばせる実のことでもある。もしキリスト者の内側に住まわれる聖なる御霊がその人を正真正銘、真理に導いているならば、必ず、その人のうちでキリストの品性が実となって結実するだろう。なぜなら、御霊は神の愛をその人に伝えるのだから、どうしてそうならないわけがあろうか。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(Ⅰコリント13:4-8)

だから、まず、私たちは御霊について語るならば、その結ぶ実としての品性についても、十分に考えてみる必要がある。もちろん、私たち一人ひとりは甚だ不完全な欠けだらけの者であるため、互いに裁きあうためにこの問題を提起するべきではない。だが、いずれにせよ、キリストに似た者となるために、試練や苦しみを通して、内面に深い造り変えが必要であることに同意しないような人はほとんどいまい。

もしも何らかの大義名分の下に、誰かが神や聖霊の代弁者のように振る舞い、その言説の絶対的な権威を認めない人々が公然と交わりから絶たれ、それによって人間らしい温かい感情が抑圧されたり、愛による交わりの分断が奨励されたり、反対者への残酷な仕打ちが正当化されたり、見せしめ的な断罪が行なわれたり、それを目撃した人々が苦痛を押し殺して、その言説を疑うことも、異議を唱えることもできないままに、これは正しいことなのだと自分に信じ込ませて従わねばならないような状況が作り出されているとしたら、それが御霊が人に望んでおられることなのか、もう一度、各自が心の中で検討してみた方が良いだろう。

理屈の上ではどんなに人は自分をごまかせても、人の魂が辿っている痛み苦しみはごまかせない。大勢が同じように一つのことを信じて行動しているからといって、それが必ずしも正しいとは限らない。多数同調の心理がどんなに恐ろしいものであるかは、スタンフォード監獄実験などという古典的な実験を引き合いに出すまでもなく証明されている。宗教の世界でも、虚偽がまるで真実のように大手を振ってリアリティにすりかわろうとする怖さはあまたの出来事を通して確認できる。それが虚偽であったことが公に判明する頃には、人々は不信に引き裂かれ、互いに裁き合ったために、すっかり傷ついてしまっているのが常なのだ。

ある宗派では、聖職者の権威を絶対化するために、聖職者の権威に逆らうことを聖霊を汚す罪と同一視するということが行なわれている。だが、このようなことは歴史上、絶え間なく繰り返されてきたことであり、少しも特筆すべきことではない。プロテスタントにおいても、その昔には、異端の教えを宣べ伝えたがために、聖霊を汚し神を冒涜したとの罪に定められて火刑に処された人もいた。今ここでの問題は、その人の異端思想の内容ではなく、その冒涜思想を持った罪に対して、神ご自身ではなく、人間が人間に対して直接、裁きを、懲罰を下してしまったことにある。

仮にどれほどクリスチャンの言い分に正当性があろうと、火刑という結果を見るならば、どう考えてもその所業は御霊から来たものとは言えまい。だが、キリスト教の歴史とはおよそそのようなことの連続なのだ。真理を巡って絶えまない傷つけあいが正当化されて来た。真理の担い手を標榜する人間がそれを口実にして他者を断罪し、不法な懲罰を加えるということが平然と行なわれて来た。それなのに、そのことのおかしさを指摘する人々が、なぜ他人のふりを見てわがふりを直すことができないままに、同じ霊的盲目に落ちてしまうことが繰り返されるのかということが本当に気がかりなのだ…。

兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。<…>だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」(ガラテヤ6:1-4)

そのようなことが起きるのは、クリスチャンがキリストの十字架の本質を見失い、キリストのへりくだりや、柔和さも忘れ、むしろ、真理を自己の威信を保つために、生まれながらの自分を擁護する手段として使おうとするからなのだ。自分自身を光の下で吟味するためでなく、兄弟を裁くために真理を用いてしまうことが危険なのだ。

キリストの十字架の働きは、御霊による人間の内側からの変革である。生まれながらの人間はせっかちに自己の義をふりかざして、敵対する他者を裁こうとするものだが、御霊の働きは決してそのようなものではない。御霊はその人の自主性を侵害しないし、恐怖によって脅したり、強制することもない。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)と聖書に書いてある通りである。

キリストは罵られても罵り返さず、脅かされても脅かすことをせず、正しい裁きをされる方にすべてを委ねておられた。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7) キリストご自身が地上でどれほどの忍耐を持って罪人らの反抗を忍ばれたかを振り返れば、なぜ主が次のように言われたかも分かるだろう。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29) 

御霊はキリストのご性質を受けて、それを私たちに伝達する。御霊により、私たちは御父に従うために、十字架の死に至るまでご自分を否まれた主のへりくだりを学ぶよう勧められている。

キリストの十字架の死とよみがえりを経て栄光化されたキリストの御霊は、信ずる人の信仰の度量に応じて、その人の内側の最も深いところから、その人の同意とともに働く。人が信仰によって同意するならば、御霊は御言葉を通して、人を内側から変革することができる。この内なる霊的な造りかえこそ、人がキリストに似た者とされるために必要なものであり、それは真理が苦しみを通してその人の内面に造り込まれることをも意味している。

この地上での生涯、苦しみや、試練を通して、信仰者の品性が練られる必要があることは、聖書が随所で述べていることであり、全ての霊的先人たちが一様に唱えていることである。これは決して苦行の勧めなどではなく、神ご自身が私たちの人生に様々な出来事を按配されることにより、外側の出来事と、内側からの御霊の啓示の両方を通して、私たちの信仰を洗練され、鍛えられることを意味する。これによって、私たちは子として訓練を受け、外なる人を砕かれ、へりくだった、柔和な人へと変えられていく。

だが、それは決して強制されたり、脅されて起こることではないのである。繰り返すように、御霊による人の変革(十字架の働き)は、人間の内側の最も隠れたところ(霊的領域)でその人の自主性に反しない形で行なわれる。それは神とその当事者だけが知っている行程で あり、人の目からは隠されて、他者の判断することのできない事柄である。

だが、サタンは霊的な領域に打ち立てられるべきものを、魂の領域(目に見える領域)に置き換え、模倣することで、人間を支配しようとする。しばしば神や聖霊の名を用いて、サタンはこのキリストの十字架の働きを目に見える領域に偽物として作り出そうとする。

ある人々は、信仰者を名乗っていても、決して日々の十字架の試練や苦しみを受け入れようとはしない。そして、心の命ずるままに欲望に従って歩むため、何年経っても、内面的に砕かれることも造りかえられることもなく、生まれながらのその人自身に属するもの以外、生じるものがない。

それだけであればまだ良いのだが、なぜか逆説的な現象が起こって、試練や苦しみを通して砕かれ、へりくだり、日々キリストの十字架を負うということをしなかった人々が、むしろ、そのような変革を外側から実現しようとして、人工的な十字架を目に見える領域に演出しようとすることがある。これが、サタンから来る思想の怖さである。

御霊の真の働きは、その人の内側深くからその人自身の信仰に応じて働くため、人の自主性を脅かさず、強制することがないし、人を脅かすこともない。さらに、聖霊と十字架とは車の両輪のように切り離せないものであるため、御霊が人を高ぶらせることはないし、御霊の働きは常に十字架のへりくだりと一体である。

しかし、肉の思いで、生まれながらの自己の正当化の手段として真理を悪用しようとする人々が現われると、彼らは共通して、ある行動に出て来た。それは、その人々が、霊的盲目に陥って、罪というものを己の内に見ることをやめ、むしろ、真理を使って自己を絶対化し、義とし、聖とした上で、罪を他者の内だけに見るようになっていったことである。いつしか、当然、己の内に見いだすべき罪をさえ、その人たちは、次々と他者に転嫁するようになった。そればかりか、ついに高ぶりが昂じて、自らを神の地位に置き、あるいは聖霊の代弁者を自称し、自分には社会を罪や悪から洗い浄め、社会を浄化へと導くために、他者の裁き主として君臨する資格があると思い込み、偽物の十字架に相当する大がかりな裁きを繰り広げて来たのである。

それは要するに、神の国を打ち立てるという名目で、人間が目に見える領域において、何らかの偽りの思想やイデオロギーに基づいて、人間の選別(ふるいわけ――粛清――裁き)を行なおうとする試みであった。しかし、どんなにそれが聖書の言葉で飾られて、御霊の働きを装っていても、それが決して御言葉にも従っておらず、御霊の働きでもないことは、その実現の手段が外的な強制力によるものであり、脅迫的なものであることを見ればすぐに分かる。神の御名を用いているのはうわべだけであり、実際には何らかの権力を持った人間が自らの意志によって不法な裁きを行なっているだけなのである。

しかし、一旦、このふるいわけが始まると、動き始めた歯車はもう誰も止めることができない。やがて次から次へと罪に定められる人間が続出し、排除されていくことになる。疑心暗鬼と不安が拡大し、本当に罪があるのかどうかさえ疑わしい、無実の大勢の人々に対する大迫害が起きるのは必至である。それまで内側に隠されて知られることのなかった憎しみが爆発的な形で外に放出される時が来る。(こうして偽りの十字架がもたらされると、迫害が大規模化していくことは一つの避けられない法則性のようなものである。なぜなら、権力者の定めた聖の基準に耐え得る人間が一人もいない以上、人工的な十字架の下では、全ての人が罪に定められて排除されねばならないことは明白だからだ。何度も述べて来たことだが、人間による人間の裁きは、ただ全ての人を罪に定めて罰するだけに終わる、全く救いのないものであり、最も不公平で残酷なものである。)

だからこそ、人間が神の代弁者となって他者の裁き主になるようなことがあってはいけないのだ。人が自ら聖霊の代弁者であるかのように振る舞い、兄弟同士が裁きあうことを奨励したりしてもいけない。私たちはすでにそのような運動の末路を目の前に見て来たはずであり、どうしてこの先、同じ失敗を繰り返す必要があろうか。

主イエスは言われた、「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6:37)

ヤコブの手紙は言う、「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。<…>律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」(ヤコブ4:11-12)

さらに、御言葉は、キリストの十字架において、兄弟同士の敵意は廃棄されたとはっきり告げている。兄弟たちはキリストにあって一つの御霊を飲んで、一つのバプテスマを受け、一人の新しい人に造りかえられたのである。どうしてその兄弟たちが互いに一致することを助け合うどころか、むしろ分裂を奨励したり、排除しあったりして良い理由があろうか。

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまな規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」(エペソ3:14-18)

このようにキリストの御身体において、敵意や分裂は憎むべきものとされている。器官には優れたものもあれば、劣ったものもあるが、それぞれは互いを尊重し、補い合い、助け合うべき存在であり、互いを不要なものとして、排除しあったり、分裂することは、御身体が自分で自分を傷つける行為に等しい。もしもそのようなことが肯定されるならば、御身体は崩壊に至るだろう。

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです。もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5:13-15)

* * *

さて、歴史は繰り返すので、参考までに記しておきたい。

カルヴァンはセルヴェートを異端者とそいて火刑に処したが、そのような裁きを正当化する根拠の一つとして、彼は次のような見解を持っていた。


「神の栄光のためにたたかわなければならないときに、あらゆる人間的な感情よりも神への奉仕を重んじるのでなければ、親族であろうと血族であろうと、そのほか誰の生命であろうと無視し、あらゆる人類を忘れるのでなければ、私たちは神に当然ささげるべき尊敬をささげているとはいえない。」

これはもし神の栄光を守るための戦いに必要ならば、クリスチャンは人間的な感情など率先して後回しにすべきであり、被造物に対するどんな友情も愛情も積極的に断ち切ってしかるべきであるばかりか、神の栄光を汚し、罪を犯した人間に対するどんな侮辱や害を加えることも正当化されうるという考えである。むしろ積極的にそのようにしなければ、神の主権に真に服しているとは言えず、神に当然ささげるべき尊敬を捧げているとはいえない、とまでカルヴァンは結論づけているのである。

ツヴァイクはこのような考えに対して自らの筆で厳しく反論している、


「これは、日ごろ明晰な頭脳をもった人間でも狂信によってどんなにひどい盲目にさせられるものかということを示すおそろしい言葉であり、悲劇的な証明である。なぜかというと、『教義』――カルヴァンの教義――のためには自分の胸のなかにある『あらゆる人間的な感情』をおし殺す者でなければ、たとえ妻や友人、兄弟や親類縁者であっても、彼らが正統信仰のただひとつの点、あるいはごく瑣末な点について宗教評議会と意見を異にした場合、すすんでこれを異端審問所にひきわたす者でなければ、カルヴァンのいう信仰のあつい人間の名には値いしないという意見が、ここにはおそろしくむきだしな形で語られているからである。

しかもこのように血なまぐさい主張を攻撃する者が出ないように、カルヴァンは彼が愛用している最後の議論である恐怖手段(テロル)に訴え、異端者を弁護したり容赦したりする者は誰でも彼みずから異端の罪を犯しているのであって、処罰される必要があると宣言したのであった。

反対論を我慢することができないので、カルヴァンはあらゆる反対論者をあらかじめおどしつけたというわけである。黙って服従するか、でなければ自分も火刑への道をえらぶか、二つにひとつだぞとセルヴェートのたどった運命で脅かしながら。彼は、セルヴェートの殺害についてのこの厄介な議論からきれいさっぱりとのがれたかったのだ。」(『ツヴァイク全集17 権力とたたかう良心』、高杉一郎訳、みすず書房、pp.197-198)


セルヴェートの異端思想に同意していたわけではないのだが、カルヴァンによるセルヴェートへの暴力的迫害(火刑)に異議を唱えたカステリオンは、カルヴァンから同様に異端者と名指しされて迫害されることになった。その迫害の非道さを訴えて、カステリオンは言う、

わたしを攻撃するあなたがたの態度のどこに、キリストをひきあいにだせるところがあるというのか? 裏切り者によって捕吏の手にひきわたされたその瞬間でさえもキリストはその裏切者にやさしい言葉をかけたし、十字架にかけられたときでさえも自分の絞刑吏のために祈られた。ところが、あなたがたはどうか? わたしがいくつかの教義についてあなたがたと意見を異にしているからという理由で、あなたがたは世界のあらゆる国々でわたしを憎しみをもって迫害し、そればかりか、ほかのひとたちにもおなじように憎しみをもってわたしを迫害するようにけしかけている……

あなたがたの態度がキリストから『
おのれの兄弟を憎む者は人殺しである』というような徹底的な判決を受けた場合、あなたがたは心のふかい底の方でどんなに苦い思いをすることであろうか……この言葉こそ、あらゆる神学的な屁理屈にわずらわされさえしなければ、誰にでもはっきりとわかる真理の教えである。あなたがたも言葉や書物によってそれを教えているのに、なぜ自分の生活のなかではそれを実行しないのか?」(pp.281-282)

さらに、カステリオンはカルヴァンに向かって反論する、

「あなたは自分のことを、キリスト教徒であって福音を信ずるといっている。あなたは神を恃み(たのみ)としていて、神の計画をなしとげるのはあなただと言いふらしている。あなたは福音書の真理を知っていると主張している。それならば他人を教えるあなたがなぜ、あなた自身を教えようとはしないのか? 説教壇の上から他人を中傷してはいけないと説教するあなたが、なぜ自分の書物を中傷でみたすのか? 

あなたはわたしの思いあがりを徹底的にとりのぞいてやろうとしているように見えるが、そのあなたはなぜ、自分はまるで神の後見をうけていて神の心のなかにある秘密をなにもかも教えられてでもいるように、尊大、不遜、うぬぼれな態度でわたしを裁こうとするのか?……

もういいかげんで正気にかえり、手おくれにならないように気をつけるがよい。できるものならば、ほんの一瞬間でもいいから自分自身を疑ってみるがよい。そうすれば、たくさんのほかのひとたちにはすでにわかっていることがあなたにもわかるようになるだろう。あなたを呑みくだしてしまおうとしている自己愛、他人――とくにわたし個人にたいする憎悪を棄てさるがよい。

わたしたちはおたがいに思いやりの競争をしようではないか。そうすれば、わたしの不信心なるものが、あなたがわたしになすりつけようとしている汚名とおなじく、実際には存在しないことがわかるだろう。教義に関するいくつかの点で、わたしの意見があなたの意見とすこしちがうことぐらい我慢するがよい。敬虔なひとたち同士が、たがいに意見のくいちがいがありながらもなお心の一致を保とうとするのは、はたして不可能なことであろうか?」(pp.282-283)


(カルヴァンの宗教改革は今日に至るまでクリスチャンの間で高く評価されている。だからこそ、他方でなぜこのようなことが起こり得たのか、理解に苦しむのだ。パウロに高ぶらないようにと肉体のとげが与えられていたように、霊的に偉大な啓示を受ければ受けるほど、人が高ぶりに陥らないように真に主と共なる十字架の死にとどまる必要も増すということなのだろうか…。)

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