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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

私たちはキリストの辱めを身に負って、宿営の外に出てみもとに行こうではありませんか

モーセが若い頃にファラオの娘のもとに住んでいた頃、血肉の思いでエジプト人を撃ち殺したことが誤りであったことを私たちは見て来ました。モーセはイスラエルの民を苦しみからかばおうとしてそうしたのです。その目的と動機そのものは、神から来たものであり、利己的なものではなく、正しいものだったのです。

ところが、肉の方法を用いたためにモーセの行動は裏目に出ました。彼は同胞から非難され、それをきっかけにして、ファラオからも殺意を抱かれるようになったので、エジプトを去らざるを得ませんでした。モーセの行為はすべてにただ害しか及ぼさなかったかのようであり、彼はまるですべてに失敗してミデヤンの地に逃れたかのようでした。人間的な目で見るならば、これは何と損な生き方だろうと思って、この青年の浅はかな正義感を笑う人もいるかも知れません。

しかし、ヘブル書を見るならば、この出来事の背後には、明らかに神の主権が及んでいたことが分かるのです。ヘブル書においては、このことでモーセが失敗したとは全く書かれていません。それどころか、次のようにあるのです。

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍びとおしたからです。」(ヘブル11:24-27)


そうです、モーセが自分の思いでエジプト人を殺したことは、神のご計画を遂行するという観点から見るならば、確かに時期尚早であり、方法も誤っていたかも知れません。しかし、信仰の目で見るならば、その行動は、逆説的に、モーセが何者であるかが証明され、断ち切るべき一切のものが、彼から断ち切られるために必要な役割を果たしたのです。

その行動は事実上、モーセのエジプトへの絶縁状となりました。それはまず、彼の出自を証明しました。彼が神の民であり、それ以上、ファラオの娘の子ではい続けられないことを証明しました。さらに、その行動は、モーセにエジプトで受けられるはかない罪の楽しみを捨てさせ、神の民とともに苦しみを受ける道を選び取らせました。彼はファラオから憎まれることによって、この時から、エジプトに対して敵となりました。彼はエジプトとの縁を切り、そこで受けられる一切の利益を捨て去るよう迫られました。しかしモーセはその代償を惜しみませんでした。彼はエジプトで得られる絶大な地上の富よりも、キリストのゆえに受けるそしりを価値あるものとして選んだのです。

あたかも彼は全てを失ったかのようでした。しかし、御言葉は言うのです、「彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」と。

イスラエルの民全体が出エジプトをなす前に、まず、モーセ個人の人生において出エジプトが成就せねばなりませんでした。そのために、主の主権の下で、モーセがエジプトの敵とならざるを得ない状況が用意されたのです。彼はファラオの娘に育てられたにも関わらず、ファラオに憎まれ、エジプトからのエクソダスを迫られたのです。

* * *

話が変わるようですが、何度か紹介した小説家の言葉をもう一度、思い出していただきたいと思います。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?」


私たちにもモーセのようにある日、選択を迫られる日が来るかも知れません。目の前で一つの卵が壁に激突して割れます。それを見た時、私たちの内側で何かが起きます。今まで何の不思議もなくよりかかり、私たちを守ってくれるものと思って受け入れて来た環境が、壁であったことが分かるのです。壁と卵、この二つは相容れない敵対的なものであり、壁は体制(この世の霊的体系)であり、いのちを押しつぶす力を持っていたことが初めて明らかにされるのです。

それから私たちは悩み始めます。それは私たち自身も卵であり、いのちだからです。壁と卵、もしこの二つのものの間で迷ったら、決して壁の側にはつかないことだと私は思います。壁は厳然たる正当性を主張して、世間の信頼も得て、権威となってそびえたっているでしょう。壁につけば、多くの人から支持を得られ、色々な便宜も受けられ、味方も失わずに済むでしょう。しかし、壁につくことは真実な命を失うことを意味するのです。

他方、卵であることには代償が要求されます。それは人が全ての地上の権威を捨て去り、神の御前で裸一貫で生きることを意味するからです。それは私たちが己の美を失うことを意味し、砕かれ、割られ、損なわれることを意味します。卵には世間に主張できるだけの正当性がなく、卵には、人の見とれるような姿や、輝きがなく、人の慕う見栄えもないかも知れません。卵は、悲しみを負い、人にさげすまれ、のけ者にされ、尊ばれない道を行かねばなりません。しかし、これが一粒の麦が死を通らされるために避けては通れない原則でもあります。

信仰の観点から見るならば、壁につくことはこの世につくことを意味し、卵につくことは、キリストの苦しみにともにあずかることを意味します。もし壁につくのなら、人々の寵愛も、この世の富も、あなたのものです(しかしサタンは嘘つきですから、約束を守らず、あなたは途中で裏切られるかも知れません。「彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」(エレミヤ17:11)ことがないとは限りません)。壁につくならば、信仰も妥協的なもので済まされます。この地上に立派な居場所を堂々と占め、この世の富を存分に謳歌し、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに存分に生きた上、他方では教会内で要職を担って、宗教的権威として人前で認められ、自らの信仰の立派さを誇ることも可能です。

しかし、卵につくならば、そんな妥協は許されません、あなたの地上の居場所は失われ、あなたの信仰の立派さを誉めたたえる人はいなくなり、あなたは世に憎まれて地上の富も失って、同胞からさえもさげすまれて、たった一人で神と差し向かいにならなければならないかも知れません。

ヘブル書にあげられている信仰の偉人たちの人生の共通点は、神の召しに応じて地上の故郷を出発し、地上の利益を手放して、まだ見ぬ天のふるさとを求めて旅立っていったことにあります。彼らはキリストのゆえに地上で受ける苦しみを喜んで耐え忍びましたが、それは彼らがはるかにまさる天の報いを仰ぎ見ていたからです。

キリストの苦しみに共にあずかるように! 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないように! エジプトの富になぜ未練を持つ必要があるのでしょうか。キリストのゆえに受けるそしりは、本当に、エジプトの宝にまさる大いなる富なのです。だから、報いとして与えられるものから決して目を離さないように! 目に見えない方を見るようにして全てを忍びとおすように! 聖書はどれほどそのことを私たちに繰り返し強調しているでしょうか。

「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」(ヘブル12:2-3)

ヘブル書には多くの預言者たちがどれほど過酷な試練を通ったかが記されています。彼らにはおよそ地上での居場所というものがなかったことも記されています。しかも、彼らは地上において褒賞を受けることが全くなかったのに、約束されていた天の報いを確信しているがゆえに喜んで苦しみを耐え忍んだのです。見えない都を待ち望むために、どんな忍耐が必要とされたかを考えてみましょう。なぜパウロが「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)と言ったのか、そこから理解することができます。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

も し、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)


* * *

「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:12-15)

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