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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい

霊的戦いに勝利するためには、霊的装甲にとどまらなければならないことについてお話しましたが、補足しておきます。この装甲はキリストと共なる十字架の死と復活のことです。私たちは復活の命の力を生き生きと知るとき、十字架の死にとどまることの必要性を忘れてしまう危険があります。その逆に、十字架の死にとどまることばかりを強調して、復活の命を軽視する危険もあります。主と共なる十字架の死と復活、この両方が私たちの基地とならなければなりません。

また、肉の力を使って問題解決してはならないと言いました。神はキリストが打ちたてられた勝利が揺るぎないものであることを示すために、あえてサタンがあらゆる方法を使って、神の子供たちを試みることを許されます。しかし、私たちの肉は全くそのようにして試されることを喜びません。私たちの肉は自分にとって敵と見えるものを早急に排除することにより、不快な状況からはいち早く脱しようとします。そうして反対者を排除し、自分にとって理想と思われる秩序を築き上げることが、御国の統治を地にもたらすことであり、神の喜ばれる解決だとさえ思ってしまうのです。

しかし、そこで自制して立ち止まらなければ、本当に大変なことになります。私たちは自己の義に基づいて御国を地上にもたらすことは決してできないからです。肉の力を使って御国を地上に建設することは絶対的に不可能です。むしろ、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」(使徒14:22)と言われているのはなぜなのか考えてみる必要があります。御国が真に地にもたらされるためには、まだどれだけの代償が払われなければならないのか、どれほど忍耐強い戦いが必要とされるかを私たちは知らないのです。主があえてサタンの活動を許しておかれていることの意味はそこにあるのです。この点について、オースチンスパークスが記事の中で書いています。

「主イエスは十字架でサタンを退治されたのに、なぜサタンを完全に除き去ってしまわれなかったのでしょう? もし主がそうなさっていれば、どれほど多くのことを未然に防げたことでしょう!<…>」と、あなたはたびたび自問するかもしれません。その答は、サタンを滅ぼすより残して置く方が主にとって有益だったからです。主は私たちに、神の命のこの素晴らし い可能性を試す機会を与えて下さったのです。最終的にこの命が死のあらゆる力に勝利する点に至るまで、私たちはこの命を試すことができます。この命は新生と共に始まります。上から生まれることには、途方もない結果と内容が伴っているのです。」

何と驚くような返答です。もしかしたら、今、あなたは溜息をつきながら自問しているかも知れません、なぜ私の信仰の道にはいつもいつもこれほどまでに大勢の反対者が立ちはだかるのだろうかと、一体、この試練は何なのだろうかと。ダビデも書いています、よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない。』。と。」(詩篇3:1-2) 

しかし、ダビデが続けて書いている事柄に注目しましょう、「しかし、よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。<…>よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。救いはにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。」(詩篇3:2-3) 

ダビデに敵対する者は大勢いましたが、ダビデはそれらの人々に対して、全く自分自身で応答していないのです。ダビデは何万語も費やして自分の正当性を人前に主張することもできたのですが、彼はただ主だけを持って敵に答えたのです。このことは、私たちが反対者によって苦しめられるとき、肉の力に頼らず、ただ信仰によってのみ、その問題が対処されねばならないことを示しています。

敵の作戦の狙いは、あなたを急かして、あなた自身の義によって応答させることにあります。なぜなら、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)と言われている通り、自己の義というものはおよそ罪に汚れ切っているため、もし私たちが自分の正当性を主張し始めるなら、それは敵のいかなる訴えをも跳ね返す力を持たないばかりか、さらに敵にとって有利な材料を与えてしまうからです。あなたは何とかして自分の正しさを周囲にわかってもらいたいと願うでしょうし、それができなければ、力づくで反対者を排除することをも考えるでしょう。しかし、あなたはその時、その出来事の背後にある主の主権を認め、徹底的に自己の義を捨てて、真に十字架の死に服することに同意せねばなりません、そうしなければ、あなたには勝利がありません。

なぜ神の子供たちにそのような試練がやって来るかと言えば、神のいのちが本物であることが証明されるためです。どんな製品も、あらゆるテストに合格しなければ、その品質がどれほど確かであるかは証明されません。信仰も、不純物を取り除かれ、何度も炉で洗練され、試されて初めてその真価が分かります。キリストの復活の命にはあらゆるテストに耐える力があります。しかし、私たち自身は少しもまだそのことを知らないのです。そのために、いつも自分自身に頼って敵に応答しようとして敗北しているのです。私たち自身が、キリストがお与え下さったそのいのちの力を知らなければなりません。ですが、私たちにとってとても喜ばしくないのは、まず、私たちの弱さ、醜さ、脆さ、罪深さがとことん露呈せねばならないことです。私たちが自分の無力を思い知らされて、光によって打ち倒されて、自分の方法を手放さざるを得なくなるまで、神の大能の力が私たちを通して明らかにされることは決してありません。

神は決してご自分の栄光を他の者にお与えになりません。キリストの復活の命は、それがただキリストご自身にだけ属するものであることが明らかにされる必要があります。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7) とある通りなのです。私たちを追いつめ、中傷し、あらゆる不当な目に遭わせるサタンの活動がなぜあえて許されているのかと言えば、それはあなたの内でキリストの命の性質が明らかにされるためなのです。

このことは個人の内側だけでなく、全世界についても言えることです。時代が進むに連れて、サタンの活動は一つの究極へ向かってますます激しさを増しています。「…まず背教が起こり、不法の人、すなわち、滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」(Ⅱテサロニケ2:3) しかし、これらのことの背後にも、御座からの支配があり、主の主権があります。すでに紹介したように、オースチンスパークスは「王国の福音 第1章」でこう述べています。

「キリストの主権の内在的力がことごとく示されるには、それ以外のあらゆる力が現れるのを許す必要があるからです。悪魔は遠い道のりを行くことを許されますが、その背後には常に御座があります。

やがて現われる反キリストはあらゆる悪を行なう力を持つことでしょう。しかし、その背後には神の御座からの支配が、キリストの主権的統治があるのです。キリストの勝利がどれほどの絶大なものであるかが証明されるために、まず、サタンの力がことごとく明らかにされねばならないのです。こうして神は悪魔が長い道のりを行くことをあえて許しておられるのです。

ですから、神の義が現われ出るまで忍耐することができず、性急に他者を裁き、早急に自己の義をふりかざすことで問題解決しようとする私たちの肉は徹底的に十字架において死に渡される必要があります。たとえ私たちが御霊によって力づけられ、たとえ何が真理であり、何が真理でないかを見分けることができるとしても、気をつけなければならない危険があります。それは、私たちが霊的高慢に陥って、気づかないうちに、御霊の導きであると信じ込みながら、恣意的に人を裁くようになる危険性です。真理の御霊は確かに私たちを教え、導いてくださいます。私たちはその教えが偽りでないことを知っています。しかし、だからといって、一人ひとりはその達しえたところに従って進むことしかできず、私たちは自分に与えられている度量を超えてはなりませんし、御霊がともにいて下さることが、霊的な高ぶりにつながってもいけないのです。

何よりも大切なことは、真に聖霊によって導かれることを願うならば、主と共なる十字架の死の立場から一歩たりとも動いてはならないことです。決してどんな時にも、自己の無謬性を信じたり、主張してはならないことです。たとえあなたが人の異言や、御使いの異言で話し、預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、山をも動かすほどの完全な信仰をもち、惜しみなく施しや奉仕をし、第三の天にまで引き上げられた経験があったとしても、霊的高ぶりに陥ってはいけません。このためにこそ、私たちはいつまでも主と共なる十字架の死にとどまることが必要なのです。

信仰の創始者であり完成者である方はどのようにして御父の栄光を現されたのでしょうか。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6-9) 

完全な義である方が、罪人の一人に数えられ、裁かれて死なれたのです。彼はご自分の義を誰よりも主張することができたのに、その義を捨て去りました。それは人間の義が退けられて、神の義だけが人を救うことを証明されるためです。ですから、私たちも不当な苦しみを受けたとしても、自己の義をふりかざして立ち上がるようにとは勧められていません。キリストの苦しみに私たちはならうように勧められています。

人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。<…>善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:19-24)


ですから、霊的な啓示や知識を受けたからと言って、誇ってはならないのです。どんなに多くの霊的な啓示が明らかにされたとしても、人が知らされている真理とは、神のはかりしれない知恵のほんのわずかな部分に過ぎません。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:1-2)

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)と言われるように、神の知恵は人にはまことにはかりがたいものです。にも関わらず、御霊の啓示を受けたことによって、私たちが慢心し、自らが聖霊の代弁者であるかのように振る舞うようなことが決してあってはなりません。まして、自分の拙い言説を御霊から来ているものとみなして絶対視し、その言説に服さない人々を真理の御霊に逆らったと言って性急に裁くようなことがあってはなりません。
 
確かに真理を巡るふるいわけは存在するのです。御霊に逆らう罪というものもれっきとして存在しているのです。私はそのこと自体を否定しているのではありません。御言葉を否定し、血潮を否定し、十字架を否定し、神の知恵に逆らって立った人が正常な意識を保ち得たという話は全く聞かないのです。しかし、そのことは神ご自身が明らかにされます。私たち自身は、人に過ぎない者であり、訓練を受けている最中の僕に過ぎません。そして、神の憐れみは人の生きている限り注がれており、御霊は決して人の自主性を侵害したり、人を恐怖によって脅かしたり、強制することがありません。御霊は私たちが謙虚に教えを乞うならば、必ず、理解できる方法で働いて下さいます。ですから、私たちは自分たちの言説が甚だ不十分であることをわきまえ、自分の考えや言説に従わないことを真理の御霊に逆らうことと同一視するようなことが決してあってはなりません。それは自分自身と御霊とを同一視することに等しく、自分を神としていることと同じなのです。私たちには何が神の霊から来たもので、何がそうでないかを試すことが許されています。しかし、何が御霊に従うことで、何がそうでないかは、御言葉を通して入念に検証されなければなりません。さらに、私たちは真理をめぐるふるいわけに関しても、極めて慎重である必要があります。それは神の領域に属する事柄だからです。

そのことはマタイによる福音書にある麦と毒麦のたとえを通しても、はっきりと確認することができます。神の子供たちは、自分の畑に敵のまいていった毒麦が生えているのに気づいて、それを抜き集めようかと思案します。しかし、主人はこう答えます、「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかも知れない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」(マタイ13:29-30)

神の子供たちはしばしば敵の仕業に違いないと思われる出来事に遭遇します。その時、私たちは毒麦と思われる人間を排除することで、被害が大きくならないうちにその害を食い止められないだろうか…と考えるかも知れません。しかし、そのようなことは思いとどまらなければなりません。神の主権が及ぶ前に、私たちが自己の義に基づいて神の選びについて介入するようなことはあってはなりません。

以前に「己を義とする者は無実の他者を断罪する」ということについて書きました。これは法則性です。私たちはあまりにもひどい罪人を目の前にすることがあるかも知れません。その人に比べれば、自分はまるで聖人のように見えるかも知れません。その罪人さえ取り除かれるならば、すべてが上手く行くように思われるかも知れません。しかし、そんな時でも、間違ってはなりません、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(Ⅰヨハネ1:8) 

もしも私たちが罪というものを己の内に見ることをやめ、他人や、自分以外の何か(環境)に罪を見いだすようになり、その外側の状況を断罪したり、自分の望むように改変することで罪を取り除くことができると考えるならば、私たちは大きな霊的盲目に陥っているのです。そして、罪を取り除くという名目で、私たちが建設しようとしているものは、何かとても恐ろしいものなのです。やがてその霊的盲目はあなたを駆り立てて、自分のしていることが神の御前に絶対的に正義なのだと思いこませたままで、麦も毒麦も全て一緒に刈り取ってしまうようにさせるでしょう。あなたは自分が神の意志を遂行しているのだと思い込みながら、己の正義に基づいて、次々と実際に目の前にいる人々を断罪し排除していく結果になるでしょう。これはとても恐ろしいことです。そうこうしているうちに、あなたは神の敵となり、聖徒らの敵となってしまうかも知れないからです。

そんなことにならないためにも、私たちはどこまでも主と共なる十字架の死に服さねばなりません。どんなに自分の判断が正しいように思われる時にも、自分の正当性を証拠だてるものが山ほどある時にも、私たちの見ている風景は一時的な有様に過ぎず、最終的な判決は決して私たちの及ばないところにあるのだと知らねばなりません。収穫の時期が来たならば、神が選別を行なわれます。それは神の領域に属する事柄です。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛がとどくのです。」(Ⅰコリント4:5)

神はあえて今の時代に麦と毒麦が混在して生えていることや、実を結ばない枝が刈り取られずに残っていることや、敵の誘惑や攻撃が起こって、聖徒らが苦しみに遭うことを許しておられます。解決は肉の力によらず、信仰によらなければなりません。ですから、主がサタンの誘惑に対してなされたように、私たちも一つ一つの試練に対して、ただ御言葉なる方の命だけを持って立ち向かう術を学ぶべき時に来ています。今、人前に正当性を認められようとするよりも前に、主が来られて隠れた事柄を明らかにされる日に、神の賞賛を受けられるように歩むことの方がはるかに重要なのではないでしょうか。

さらに、今まで兄弟たちが再三に渡って述べて来たように、神はいつも多数者ではなく、少数者をご自分のために選び出されるという原則があります。そしてこの少数者を荒野に置いて訓練されるのです。ヘロデ王が幼子らを殺すように命じたとき、マリヤとヨセフは幼子を連れてエジプトへひっそりと逃れていました。主の御心にかなう人々がイスラエルを追われ、排斥され、忘れられているように見えたのです。さて、多数者とは何でしょうか、それは事物、人、運動、制度、組織などにより頼む人々です。これらの宗教組織や制度はまことに正統なもののように世に認められており、その枠組みの中にとどまることで信仰の正統性が保障されると考えている多くの信者たちがいます。

しかし、聖書の原則はそれとは異なるのです。これらの目に見えるものによっては信仰の正統性は保障されないばかりか、それらのものがキリストのまことのいのちを閉じ込め、制限する結果になるのです。多くの兄弟たちがすでに教団や教派や宗派といった区分が真理に逆らうものであることを主張していますが、さらに私たちは会堂というものについても考えてみる必要があります。

主イエスは会堂という場所について次のような警告を与えなかったでしょうか、人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16:2-3)

このことから、終わりの時代、主が選び出されたまことの聖徒らが、会堂の内と外のどちらにいることになるのかは容易に想像できます。会堂の内側にはきっと多数者が残り、外側には少数者が残ることでしょう。会堂に残った人々は自らの信仰の正統性を誇ることでしょう。しかし、聖書の原則とは、神の民は地上でどこまでも寄留者であり、居場所を持たない民だということです。地上に居場所を持つことの本質は次の言葉に表れている通りです、「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」(黙示18:7)、地上に居場所を持つことは、本質的に神が聖徒らに望んでおられることとは反対であることが分かります。

先に述べたように、オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、時代が終末へ向かって進むに連れて、目に見える媒体(事物、人、運動、制度、組織、指導者、メッセンジャー、メッセージ、聖書注解書など)に頼ることが、キリストのいのちを知る妨げとなる危険を述べています。

「聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、
少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

これらの目に見える媒体(事物、人、運動、制度、組織などの媒体)には、本質的に御言葉を否定して、自らが神と人との仲介者になろうとする力があります。「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

さらに、こういった目に見える媒体は、次の御言葉にも本質的に対立しています。聖書は、内なる油塗りである御霊が私たちに全てを教えるので、私たちは誰からも教えを受ける必要がない、とはっきり言っています。ところが、目に見える媒体は、人を目に見えるものに依存させ、それに聞き従わせようとし、内なる油塗りから外へ逸らしてしまう効果を持つのです。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについて、あなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

私は、目に見える媒体には全く御霊が働く余地がないと言っているのではありません。また、兄弟姉妹の交わりを通して信徒が得られる光を否定しているのでもありません。しかし、事物、組織、制度、運動、人に頼ることはそれとは別のことなのです。目に見える世界は、この世に属しており、この世の事物は私たちの知ることのできないはるか遠くに至るまで堕落によって影響を受けています。目に見えるものに頼れば頼るほど、信者の信仰が弱体化し、御霊の油塗りの感覚がなくなることについて異論はあまりないでしょう。神が喜ばれる信仰者の立場がこれとは正反対であることは明確です。「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(Ⅱコリント5:7)

この世の事物、人、組織、制度は、初めは信者の信仰の成長の手助けになり、安楽な居場所を与えてくれるように見えますが、決まって、やがてはそこから抜け出られないように、恐怖によって信者を拘束、支配していきます。最後には、その目に見える居場所を離れると、信仰も失われるかのように説かれるのが定番です。多くの信者が恐怖に駆り立てられて、その場にとどまらねばならないように感じます。

しかし、御霊の本当の働きは、そのように恐怖によって人を支配するものではありません。まして、神は特定の時空間や、特定の媒体に限定して働かれるような方ではありませんので、いついつのどの時間にどこそこの場所にとどまらなければ、いのちの道からふるい落とされるという恐怖に支配される必要はありません。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(Ⅱコリント3:17) とある通りなのです。

オースチンスパークスが述べているように、この終わりの時代の信者は、キリストのまことの命だけに頼り、その命だけによって全てを切り抜けるのか(内なる油塗りだけにとどまるのか)、それとも、それ以外の何か(目に見える媒体)に頼って、それに依存して生きるのかという二者択一を迫られることでしょう。恐らく、神と人との仲介者が唯一であることを否定するような要素を含んでいる全ての媒体が、偽りと化し、信者がまことのいのちに生きる制限となっていくのではないかと思います。聖書は言います、

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

終わりに、参考としてオースチンスパークスの次の記事も紹介しておきます。

「第二の面は「命」という言葉に集約されます。これが焦点であり、この問題は実際それに集中していました。命! 主イエスは、ご自分がすべてに応じ る強力な力と徳を帯びて来たことを自覚しておられました。

「私が来たのは彼らが命を持つためです」(ヨハネ10:10)。「私は(私の羊に)永遠の命を与えます」(ヨハネ10:28)。

主は、ご自分があらゆる問題を解決できる強力な力と性質と能力――いわゆる神聖な命――を持っていることを自覚しておられました。この命はただの力ではなく、その性質ゆえに力があるのです。その力はその性質にあります。それは神聖であり、命です。

敵が攻撃しようとしている一つのものはこれです。敵の活動はみな、この命の上に集中しています――敵は第一に、人々がこの命を受ける邪魔をします。敵は人々がこの現実の純粋な命を得ることがないよう、その代替物や代用品や偽物を提供するために何と長い道のりを行くことか! 敵は何と壮大な宗教組織を打ち立てて、この一つのことの道に割 り込もうとすることか――それは人々が神聖な命、まさに神ご自身の命を受けることがないよう邪魔するためなのです。

また、人が敵を出し抜いて内側にこの命 を受け入れた場合、敵は何としてもこの命を抑圧しようとします。敵はこの命の器、すなわちその命が宿っている体そのものを滅ぼそうとし始めます。それをするための手段は何とたくさんあることか! 神聖な命の数々の法則を破らないよう注意するために、神の子供たちは何と多くの知恵を必要とすることか! この命を何とかして抑圧し、阻止し、妨げ、制限すること、これを行うことが敵の目的なのです。


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