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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

私の願いではなく、御心のとおりにしてください

「こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。

あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか」と言った。するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさとしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。

そこでモーセは恐れて、きっとあの事が知れたのだと思った。パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。」(出エジプト2:11-15)


以下の記事では、霊的戦いなしには光は得られない、という話をしました。さて、霊的戦いを無事に戦い抜けるには私たちはどうすれば良いのでしょうか。装甲から決して出ないことです。この装甲とは、キリストと共なる十字架の死と復活の命のことです。また、神が私たちの義となって下さるという確信のことでもあります。

私たちは自分が立脚している目的さえ正しければ、どんな手段を用いて戦っても正しい結果が出ると思うかも知れません。しかし、そうではありません。いかに神の子供たちの目指す目的が、御言葉に基づいたものであり、御霊によって始められたものであったとしても、その実現の手段を誤ってしまったがために、目的さえ損なわれて終わるという失敗がおびただしい回数、繰り返されているのです。

暗闇の軍勢との霊的な戦いに、神の子供たちはアダムの命(旧創造)を用いて勝利することは決してできません。肉は何の役にも立ちません。肉はサタンの家財道具であり、肉の方法を用いて霊的な戦いに勝利することは不可能なのです。しかし、私たちが霊的な戦いを戦い抜く上で、最も危険となるのが、私たちの肉です。もっと言うならば、神の義に基づかず、主から出たのでない、私たちの人間的な正義感に基づいて戦うことこそ、最も危険なのです。

肉は条件反射的に反応します。いいえ、正確に言うと、肉は肉に対して反応するのです。私たちの周りにうっとうしくてうるさい蝿や、蚊がしつこく飛んでいたらどうでしょう? 私たちの手は瞬時に動いて、それを追い払ったり、しとめようとするでしょう。それは自分を守るための本能的な行動ともいえます。目に見える世界では、それでいいのです。ところが、私たちの肉は、霊的な領域においても、古い命を守るために、同じように条件反射的に、本能的に、自己防御的に反応しようとするのです。これが私たちに致命的な危険をもたらすのです。

肉は肉に反応します。肉は挑発に弱く、性急に自分の望みをかなえようとしますし、自分の正当性を主張してやまず、物事の背後にある主の主権が明らかになるまで、忍耐強く待つことができません。そして、神が定められた時よりも前に、神が働いて下さるよりも前に、物事の背後にある主の主権を見ようとせずに、自分の方法で、自分の正義感に基づいて、自分の安全のために、自分の有利になるように、急いで物事を解決しようとします。そこには百や二百通りもの正当で道徳的な言い分があるかも知れません。なおかつ、周りの人々も私たちの決断を勇気あるものとして評価してくれるかも知れません。もしそのように対策を打っておかなかったら、一体、私たちはどうなるのでしょうか、と。しかし、サタンが狙っているのはまさにこのことなのです。肉は待つことができないという点をサタンは大いに利用したいのです。

サタンは彼らの家財道具である肉を用いて、どのようにでも神の子供たちを刺激したり、挑発したりすることができます。彼にはありとあらゆる極悪非道な方法が許されています。しかし、我々の防御となるものはたった一つ(キリスト)のまことの命だけです。これ以外の方法で戦うことは、事態を解決するように見えて、かえって紛糾させてしまうのです。

私がある兄弟から伝え聞いたことなので、多少、表現や状況が違っているかも知れませんが、ウォッチマン・ニーが説教をしていた頃のあるエピソードがあります。彼の説教には毎回、ある信者が出席していたそうですが、その信者は、ニーの説教内容に最初から最後まで全く同意できないという風に、しかめっ面をし、両腕を組み、目をつぶって、あからさまに頭を振りながら、しかも、聞き取れないような反対の言葉をつぶやきながら、説教を聞いていたそうです。このような信者が自分の集会に毎回通ってくるなど、説教者にとっては悪夢のようではないでしょうか。さて、ニーはどうしたのでしょうか。その不愉快な信者の態度を正すために、公衆の面前で信者に注意を与えることはいとも簡単だったでしょう。もしくは、その礼儀に反する態度を非難して、その信者を集会から追放することも簡単だったでしょう。そうしておきさえすれば、集会の雰囲気をかき乱す障害物はなくなり、彼は自分の思う通りに集会を指揮することができたはずです。

ところが、その兄弟は私に語ってくれました、ニーは何もしなかったのだと。ウォッチマン・ニーはその信者には全く注意を払わなかったのです。ただ淡々と、御言葉だけを語り続けたのだそうです。兄弟は私に言いました、いいですか、自分の力を用いて状況に対抗しようとすることはいとも簡単だし、そうするための言い分はいくらでもあります、しかし、この不愉快な状況もまた、主の主権の下で、ニーを試みるために、神が許されて起こった状況であることを彼は分かっていたのです、と。自分の力で状況を解決しようとすることが、かえって事態をますます紛糾に導き、彼を深いもつれの中に落としてしまうこと、それが敵の作戦であることを彼は知っていたのです。

そう言って、兄弟は一粒の麦の原則について私に語ってくれたのです。ニーの実行した原則は、いかなる状況においても、自分の義に基づいて行動せず、信仰を通して神が義を現して下さるまで、彼自身は死を通らされることに同意するものであったと。

私たちには、失敗の連続しかなかったかも知れません、しかし、この失敗から見えて来るものがあります。それは肉による衝動に基づいて霊的戦いを戦おうとすることが、どれほど致命的な損失を私たち自身にもたらすかということです。ひとたび私たちが肉の衝動に基づいて、神の解決を待たずに、自己の義をかざして、自分を守るために条件反射的に行動すると、たとえそれがただ一瞬の、うるさい蝿を振り払おうとするような、ごく些細な行動であっても、すぐ後になって、必ずあなたを糾弾する者が現われるのです、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさとしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」

そして、この声はいつまでもやみません。たとえは悪いですが、ちょうど蜂の巣をつついたような混乱が持ち上がり、ただ一匹の蜂をきっかけに、ついには果てしない数の蜂を相手にするような、収拾困難な事態となるのです。そんなにも多くの蜂を相手にはできませんから、あなたはそのもつれた状況を捨てて逃げ出さなくてはならなくなるかも知れません。(40年も絶たない内に神が再びあなたを呼び戻して下さるならば幸いです。)

こういった失敗が繰り返された後に、神の子供たちがようやく理解するのは、私たちが相手にしているものは、特定のあれやこれやの人間ではないし、特定のあれやこれやの状況でもない、ということなのです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12) 私たちの肉眼に映るのは、ただ私たちに嫌悪感を催させるあれやこれやの特定の状況であったり、我慢できない方法で私たちを追いつめてくる特定の挑発的な人たちかも知れません。それがなくなりさえすれば、問題は解決する、と私たちは思います。しかし、私たちは見なければならないのです、その人の背後にはこの世という大きな霊的体系が控えていること(もしかすると、ある一人の人が、巨大な悪しき要塞をなしているかも知れません)、この敵の要塞の中に神の知恵と武具なしに無防備で足を踏み入れていくことは危険極まりない行為であり、また、その状況を変えようと自ら状況に介入していくことは、この世の神と直接交渉することと同じであり、全く希望のない作業であること。

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:13) 私たちはあらゆる問題をこの世の神との間でなく、ただ神との間で解決しなければなりません。私たちの内に沸き起こる、私は不当に追いつめられており、こんな状況は理不尽だという思いさえ、目に見えるものに向けず、神に向けて訴える必要があるのです。解決は、私たちの自己弁護や自己正当化の思いや、この世との交渉にはありません。肉、この世、魂の命を使ってサタンとは戦えません、「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。」(マルコ3:23) 

主は言われました、「まず、その強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。」(マルコ3:27) 

これが、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と祈られた主イエスの祈りなのです。これは自己の義を徹底的に退けて、ただ神の義だけが現されることを願う祈りです。私たちがわずかでも自己の義や、自分の魂の命を守ろうとして戦っているうちは、ただ失敗だけがあり、何事も成就することはありません。

強い人を縛り上げるとは、私たちがキリストと共なる十字架において自分の魂の命を拒み、自分自身の内にサタンの家財道具となるものがないようにすることとも関係しています。サタンの足場となるべき肉が完全に死に渡されないうちは勝利もありません。恐らく、肉に基づいて戦って失敗している間も、神は私たちを助けていのちを保って下さるでしょうが、状況はますます悪くなるだけで、そこに勝利はないのです。神が私たちに望んでおられるのは、戦い方を全く変えることです。私たちが完全に自分の利益を離れ、自分で自分を守ることをやめ、一粒の麦として完全に葬られるときに、神の義が私たちの内側から輝き出ます。これは私たち自身によるのでなく、私たちの信仰を通じて神の側から働くキリストの復活のいのちによる超自然的な作用です。これによらなければ勝利はありません。すべてが肉の方法によらず、信仰により、復活の命によって成就されなければなりません。アダムの古い命に基づく義ではなく、キリストが十字架でこの世をすでに打ち破られたという神の義が実際に現されることだけによって、あらゆる状況が解決されなければならないのです。

また、信者の生活においては、これよりもさらに小さなレベルでも、霊的な戦いが絶え間なく繰り返されます。それは私たちをキリストの復活の命から逸らそうとするあらゆる誘惑と挑発です。これもまたアダムの命に従って私たちを歩ませようとします。私たちを神のいのちの統治から逸らそうと挑発する多くの誘惑がやって来るでしょう。高慢、虚偽、不誠実、肉の欲、地的なものへの執着、自慢、悪意、妬み、争い、怒り…。それに応じるならば、私たちは死に触れていのちから転落します。そうなると、復活の命の只中を歩むことができなくなります。このことについて、オースチンスパークスは記事(オリーブ園ブログ)の中で書いています。

「神聖な命の数々の法則を破らないよう注意するために、神の子供たちは何と多くの知恵を必要とすることか!この命を何とかして抑圧し、阻止し、妨げ、制限すること、これを行うことが敵の目的なのです。

 他方、この命の道について、また死が宿っているものに触れてはならないことについて、主の民は理解して学ぶ必要があります。この必要は何と大きいことか。 これは全行程に及ぶ現実的戦いです。「死に触れること」という言葉で私が何を言わんとしているか、きっとあなたは御存知でしょう。あなたは自分の心の中でこれを経験しておられるでしょう。

もしあなたが高ぶった言葉を一言でも発するなら、もしあなたがクリスチャンなのに何か地的で個人的なものを自慢し始める なら、もしあなたが神の子供にふさわしくない方法で何か言ったり行動したりするなら、あなたはどう感じるでしょう? あなたの内側で何かが死んだように感じ ます――まるで何かが死んだように感じるのです。あなたの喜び、安息、平安、主の親密さの感覚は陰ってしまいます。

何かが起きました。
あなたはそれを知っ ています。あなたは死に触れたのです。そのようなことをしてはいけないことを、命の道は要求します。あなたは学びます。命の霊が内側にあって、この道に よって教えて下さいます。これには信者の学びが必要です。ここでこれを見ることは助けになるでしょう。

これはこの大いなる宇宙的戦いと関係しているもので す。それは命です。この命が到来して自分の道を進むことができるなら、また主の民がこの命の法則と協力してそれに応じるなら、彼らの中で、それゆえ彼らの ゆえに、サタンは常に自分の地歩を失って、神の愛する御子のこの別の王国が地歩を得ることになります。なぜなら、この王国は外側の組織ではなく、私たちの 内なる命と関係する霊的なものだからです。」



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