忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたがたは罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない

「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリント4:4)

今日、この世を恐るべき暗闇が覆っていることについては、信仰を持たない人々でさえ否定しません。この暗闇は真理をも正義をも全く見えなくさせてしまうものであり、ますます激しく、深くなっています。この暗闇とは、神を見えなくさせる力そのものです。この世の神がキリストの栄光の輝きを見ることから人々を妨げているのです。

この霊的盲目は、霊的に目が開かれるのと同じくらい超自然的であることを、以下の論説
「神を見えなくさせる力」(オースチンスパークス、straysheepさん翻訳を転載)が告げています。神を見えなくさせる力とは何でしょうか。それは霊的盲目であり、心の思いの鈍化であり、また、霊的な覆いであると聖書は告げています。その覆いは古い契約を朗読する時にやって来ます(Ⅱコリント3:14)

古い契約とはアダムの命に対して結ばれているものです。もしこの契約に生きるなら、私たちには死ぬ他ありません。今日多くの人々が善悪の議論に明け暮れており、いのちの御霊の法則を見出せません。一般的な教会や交わりや兄弟姉妹の状態がいかに嘆かわしいものであるかについては、クリスチャンは何万語も費やして議論します、あらゆる改革運動を提唱します、ところが、それらがことごとく失敗に終わるのです。どれほど善悪の議論を尽くし、どれほど正当な主張を並べ、どれほど不完全な兄弟姉妹を裁いたとしても、そこから、キリストのいのちには全く至りつかないのです。むしろ、目に見えるものの不完全さを見つめ、善悪の議論に没入していくとき、たちまち私たちの目には覆いがかかってしまい、私たちは暗闇に導かれるのです。

では、私たちが霊的に目が開かれ、キリストの栄光を見る者とされるために何が必要なのでしょうか。自分を徹底的に退けて、主の主権を勝ち取るための戦いが必要となります。この戦いにおいて、生まれながらの自己、魂の命を否むことができなければ、私たちは戦いに勝利することはできません。しかし、生まれながらの自己、魂の命を否むとは、私たちが自己の利益を最後まで捨て去ることを意味するかも知れません。利益だけでなく、自分の価値判断、善悪の判断をすら捨て去り、御旨に従うことを意味するかも知れません。

生まれながらの自己は全力でそれに反抗するでしょう。キリストがゲッセマネの園で祈られたときのことを思い出して下さい。キリストご自身でさえ、御旨が何であるかを知りながらも、その杯を受けることを喜ばれなかったのです。主はその心の葛藤を御父の前で隠されませんでした。自己を否んで十字架を取ることは、キリストご自身にとっても、まことに恐ろしい戦いを要したのです。少しでも、少しでも、自分の利益を地上に残したいとの思いがあれば、キリストは十字架へ向かうことはできませんでした。ただ生きたいという願いをさえも、放棄する必要がありました。十字架は彼の全てを捨て去ることを要求したのです。

私たちはそのような戦いをほとんど経たことがありません。そのような激しい戦いの話を聞くと、それは狂信に違いないと思って遠ざかるのです。私たちが安易な道を行きながら、霊的視力が得られると思っているそのさまは、まさにこう言われている通りなのです、「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)

単数形の罪の根源となるものは、私たちのアダムの命の内にあります。神の御旨が何であるかが指し示されるとき、このアダムの命(旧創造)全体がその妨げとして私たちのうちで起き上がります。自分の命を保ちたいと願う、そのけなげでささいな願いが、まさに罪に直結することがその時に分かるのです。誰が自分自身の命をことごとく退けることができるでしょうか。どうしてそのようなことが可能でしょうか。しかし、キリストは誰よりも激しい戦いに勝利されました。彼は人としての願いを自ら退け、最終的に、御旨だけが勝利したのです。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)

ただすでに勝利されたキリストによらなければ、私たちはその戦いを戦うことはできません。しかし、肉、自己、この世と訣別することを迫られる時、私たちは少しも喜ばないでしょう。それは苦しみを伴う戦いであり、私たちにとって非人間的で、不合理で、無意味な損失に思われます、一体、他の人が安楽な生活を楽しんでいるときに、なぜ私たちがそのようなところを通らされなければならないのでしょうか、他の人たちは何も手放さないように見えます、なぜ私たちが幾多の自己の正当性を主張してその道を逃れてはいけないのでしょうか。

しかし、生まれながらの魂の命に属するものは、何一つ、御国にふさわしくありませんし、持って行くこともできません。ただキリストから生まれたもの、新創造だけを神は喜んで受け入れられるのです。生まれながらの自己は死をくぐらされなければならないのです。何度もです。だから、お言葉通りになりますように、私の思いではなく、御心がなるようにして下さいと言う必要があるのです。代償を受け入れなければ、決して霊的に目が開かれることはない、そのことをオースチンスパークスは以下で述べています。

イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。 (新約聖書 2コリント3:14)
 
 霊的盲目である(訳注:神を信じられない)ことの理由
 
原因については一つ二つのことば(が考えられます)「この世の神がくらませた」その句には二つのことがらがあります。まずこの盲目とは結局は単なる自然な ことではなく、超自然的なことであります。生まれつき盲目であると言うのはすべてを言ったことにはなりません。そうなのです、この盲目についてはそれより もはるかに邪悪なものがあるのです。超自然的な盲目ではありますが、邪悪な超自然的な盲目であります。それは悪魔の働きです。それが一方で霊的な視力が与 えられるには常にそのような恐ろしい闘いがなぜ伴うのかという理由であります。
 
誰も闘いなしには、また価を払うことなしには、そして恐ろしいまでの苦悩なしには、決して本当に御霊によって見え、理解するようにとはならないのです。<…> 真の霊的照明と啓蒙はいかなる部分も犠牲をともなうものです。そのためにパウロは聖徒に関して膝を屈しなければならなかったのです。

「私はひざをかがめ て」「私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるように」祈ります。(エペソ 1:17) それは祈り抜かれなければならないものであります。エペソ人への手紙が6章で啓示されることと関連が大変重きをなすことに意義があるのです。
 
「私たちの格闘は主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから神のすべての武具を取りなさい」あれやこれや「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:12〜18)「この暗やみ」「絶えず祈る」「私は神があなたがたに神を 知る知恵と啓示の御霊を与えてくださるように祈る」ご存知のように全部一つのことです。

説明はここに、すなわち
「この時代の神」にあるのです。私たちはこ の霊的盲目のうちにある超自然的なものと対決しているのです。私たちはまさしく悪魔という全宇宙的な力、すなわち人々を盲目の状態に維持するように働く霊 的存在と戦っているのです。)
 
真に霊的な視力を持つことは小さなことではありません。それは驚くべき勝利をあらわしています。そのことは単に受動的に座っていて、見えるように口が開く こ とによって実現するものではありません。このことに関する訓練がなければなりません。あなたが本当に霊的理解を求めようとする時、この時代の神の完全な力に抗して立っているのです。それは超自然的な闘いです。ですから、真の啓示の宣教となることはいかなる宣教の部分も闘いに巻き込まれます。前にも闘い、渦 中にあっても闘い、後々まで闘いがあります。闘いとはそのようなものです。
 
それで、ここで光について訓練される必要があるのです。それはあなたが聞いているとは言え、聞いたならわかったと鵜呑みにしないことです。その後、あなたは主に対して明確に処理しなければなりません、また、主があなたに打ち破るように求めておられることが始められねばなりません、そしてことばを聞いたから と言って今や知っていると思い込んで自らを欺かないことです。あなたはそれを知らないかもしれないのです。まだ光が生み出されていないかもしれないので す。このことに必要な闘いがあるかもしれないのです。
 
もし私たちがそれを知るに留まっているのだったら、生活において生ずるたくさんの闘いは、神が私たちの目をご自身に向かって開かせ、御子の光へと私たちを 連れ込むための道に私たちをもっと連れて行こうと求めておられるからです。神は私たちの霊的水準が広げられることを望んでおられます。それに対して敵は反対し、助けることができたとしても助けるつもりはありません。闘いが発 生するのです。私たちはそのことを理解できないかも知れませんが、極めてしばしばそのとおりなのです。すなわち主は物事の背後におられます。サタンは言い ます、もし私がそれを助けることができても彼らは見ないであろう、と。そこで大きな衝突が生ずるのです。この目が見えないことは、ちょうど光が照らされる ことが超自然的であるのと同様に超自然的なことであります。<…>
PR