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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたの僕を裁きにかけないで下さい。生ける者は誰一人、御前に義と認められないからです

深いうめきを持って以前に書いた記事を読み返すのです。御霊に従って生きることの最も大きな障害となりうるものが、私たちの天然の命だということを見て来ました。そして、この天然の命の中で、まことに取り去りがたいものが、自己正当化と、自己憐憫の思いなのです。

自己憐憫というものがどれほど警戒すべきものであるか、どんなに強調してもし足りないでしょう。今日、なぜ、多くの人が健全な教え、正常な福音から簡単にそれていってしまうのか、その最たるきっかけを作っているものが自己憐憫であるということを確認する必要があります。

これは、神の御前に自分が居場所を得られないという思い、自分が神の御前から追放された者であるという思いと深く結びついています。その思いが真理に向き合うときに出て来ると、真理を拒否するという結果に至ることがあります。ところが、この自己疎外の思いは全ての生まれながらの人の魂の奥深くにまで根付いているもので、アダムの系列の生まれにある全ての人間は、たとえクリスチャンであっても、この思いと無関係でないのです。

神の御前に生まれながらの人は立ちおおせないという思いを、人類の内で最もはっきりとした形で神に言い表したのは、殺人を犯した後のカインでした。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」(創世記4:13-14)

アダムとエバも罪を犯した後、神の御顔を避けて逃げたことは誰しも知っている通りです。その時、アダムは言いました、「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(創世記3:10) カインも罪を犯した後、同様に御顔を避け、地上をさまよい歩くさすらい人となったのです。

なぜ人は御顔を避けなければならなかったのでしょうか。それは真実の自分の姿が、神の御前に立ちおおせないものであることを知っていたからです。しかし、神の御顔を避けることは、人が自分自身の罪と向き合うことを意味せず、逆に避けることを意味します。それは人が本当の自分自身を認めず、虚偽によって自分の裸を覆い隠すことを意味します。カインの台詞は神に直接、向き合っているのではなく、自分は神の御前にもはや立ちおおせないという恐れや、自身の犯した罪に対する内的な恐れを言い表しているに過ぎません。

さらに、カインは自ら殺人を犯したので、その報いとして自分自身も殺されても仕方がないということを知っていました。しかし、彼は自ら犯した罪から逃避しただけでなく、その報いとして裁きを受けることからも逃避したのです。こうして、神の御顔を避けるということには、無限とも思われるような現実逃避の連鎖が続いていくのですが、やがてそのような生まれながらの人自身による自己防衛は、都市や、一大文明にまでなり、疎外された者の哲学とすらなっていきました。最後にはそれが終末のバビロンを形成します。それは何かと言えば、神を自己弁明の手段とする偽りの宗教です。

しかし、これが私たちにとって他人事だとは決して思わないようにしましょう。アダムの命にある限り、誰一人としてこの恐れや疎外感や現実逃避や自己弁明と無縁でいられる人はいないのです。ダビデもはっきりと言い表わしています、「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」(詩篇143:2) 

まことにアダムの命にある限り、私たちは誰一人として、神の御前に立ちおおせないのです。私たち一人ひとりが、天然の命に生まれた者としては、一人ひとり、御前から追放された者なのです。ダビデはそのことを言っています。

しかし、ダビデの言葉は、アダムにある者の絶望の呻きであると共に、キリストのとりなしの言葉とも重なっていることを見ましょう。キリストは十字架にかかられた時に言われました、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

これがとりなしです。これが神と人との間をとりなす唯一の仲保者が最後まで取られた態度でした。キリストは、生ける者は誰一人、神の御前に義とされないことを知っておられました。そうであるがゆえに、彼はアダムの罪を全てご自分の身に負って、十字架にかかられたのです。それは、神の僕が裁きにかけられないためです。御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためです。ただこの御子の十字架のとりなしのゆえに、私たちはカインのように御顔を避けなくて良い立場に置かれたのです。

しかし、そうは言っても、私たちはこの立場で満足して終わることはできません。キリストの救いを受け入れただけでは、私たちのアダムの命はまだ死んではいないからです。そして、アダムにある私たちの自己は、主とともに十字架の死に服していないならば、いつでもサタンの家財道具とされて使われるのです。霊的な敵はひとときたりとも神の子供たちに休みを与えません。

この問題をよく分からないまま放置していると、激しい霊的戦いの中を通らされる時、私たちはいつでも転落する可能性があります。そればかりか、その転落に他者をも巻き込むかも知れません。ですから、いつまでも敗北と失敗ばかり繰り返しているのではなく、戦い方を知らなければなりません。御霊に立脚するのか、それとも、アダムの命に立脚するのか、その違いが、再び御顔を避けるだけでなく、真理そのものからから逃避するという過ちに私たちを陥らせる危険性を十分に持っていることを理解する必要があります。

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:11)

この言葉は何のためにあるのでしょうか。死に至るまで魂の命を惜しまない(=拒む)とは何を意味するのでしょうか。その意味の一つが、私たちは暗闇の軍勢からどんなに卑劣な攻撃を受けても、自己憐憫の思いを最後まで拒否せねばならないということです。敵のあまりにも不当な攻撃を受けたときに、自己憐憫の思いは、巧妙に私たちの内に入って来る可能性があります。確かに、暗闇の軍勢の行う全ての所業はまさに不当であり、卑劣なのです。そのことは否定できません。しかし、その不当さに私たちが目を奪われて、天然の命を持ってそれに憤り、悲嘆に暮れ、立ち向かおうとするならば、その瞬間に、私たちは御顔を避けて、キリストを退けてしまうのです。

私たちは自分の力で自分を守ろうとすることが全く不可能で絶望的な所業であるばかりか、完全に御心に反する行ないであることを実際に知らなければなりません。天然の力を持って自分を守ろうとする試みは、全てキリストご自身を退けることにつながるのです。このことの厳しさを、よく理解する必要があるのです。しかし、私自身もそうですが、恐らく、このことを十分に知っていると言える人はほとんどいないと思います。神の憐れみなしには誰もこの天然の命の忌まわしさを見ることのできる人はいません。

自己憐憫は、人が天然の力で自分を守ろうとして守りきれなかったところから生まれて来ます。一旦、この思いを受け入れるならば、ただサタンに対する憤りが残るだけでなく、神がその人に与えられた数々の試練も不当であったという憤りがその人の内に残ります。それは人に御顔を避けるように仕向け、ついには真理を避けるようにさせ、カインの道へと導いてしまいます。

ですから、私たちはたったいちどきたりとも、敵の攻撃の不当さゆえに、自己憐憫に陥ってはいけないのです。また、それに対してアダムの命に立って自己正当化しようと立ち上がってもいけないのです。正直に言うと、これは信仰の初歩的な兵士にとってはとても難しいことです。多分、一度も失敗したことのない人はほとんどいないと思います。

私たちは生まれながらの自分があまりにも弱いことを知っています。その上、私たちはあれやこれやの問題を背負っているかも知れません。そんな時に、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練」(Ⅰペテロ4:12)が降りかかるのを、どうして喜ぶことなどできましょう。天然の命にあっては、悲嘆に暮れるしかないでしょう。しかし、そこで悲嘆に暮れるならば、こんなにも不当な攻撃を絶え間なく受け続けなければならない福音というものをも、投げ捨てる結果にしかならないのです。全ての人を偽りとしても、神を真実な者とするために立ち続ける兵士であることをやめるしかないのです。私たちはその結論を拒否せねばなりません。

御言葉はこれらの試練が必要なものであることを告げています、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、へりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6-7,10)
 

私たちはこの全ての苦難にどのようにして立ち向かったら良いのでしょうか。ただ、キリストの復活の命によってです。アダムの命によってはいかなる勝利もありません。アダムの命によって立ち向かうことはただ罪に罪を増し加える結果にしかならないのです。ただ復活の命に基づいて立つ時にのみ、私たちは圧倒的な勝利者となるのです。

さあ、今、主の御前にいかに私たちが自分で自分を守ろうとして来たか、自己憐憫の思いに陥って来たか、自己正当化を繰り返して来たかを振り返り、そのようにしてアダムの命によって自分を守ろうとしてきたことそのものが罪であったことを見せていただくよう願い求め、悔い改めましょう。そして、この終末の時代をこれ以上、無益な失敗と浪費と損失を繰り返さず、真理からそれずに生き抜くために、これらの生まれながらの自己から来る全ての思いを十字架において否み、魂の命そのものを十字架で拒むということの意味を知らせていただけるよう、主に願い求めましょう。私たちがただ御子の復活の命の土台だけに基づいて戦うことができるように、アダムの天然の命の腐敗と、復活の命の何たるかを、主が私たちに真に見せて下さるように祈りましょう。神の光がなくてはなりません。霊的な真実を見せていただかないのに、そのことが分かる人など一人もいはしないのです。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。』
と書いてあるとおりです。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロ-マ8:31-39)


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