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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう

ある信仰者が、信仰の道を行く中で、ひとつの分岐点にさしかかりました。目の前には二つの分かれ道が伸びており、分かれ道には、これまでに彼が何度も目にして来た御言葉が標識となって立てられています。

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ16:26)


信徒の目の前にある一方の道は、自分の命を保つ道であり、他方は自分の命を失う道です。一つの道は地獄へ通じており、もう一つの道は御国へと通じています。これらの二つの道は常に私たちの心の中にあるのですが、ここではたとえでお話しましょう。

信者はむろん、すぐに魅力的な道へ向かって一歩を踏み出そうという衝動に駆られますが、主はそれを押しとどめられます。そして、何度も、信者に問われます、本当にこれでいいのかと、御言葉は果たしてそう言っているのかと。

さて、お分かりのように、自分の命とは、私たちの古いアダムの命、魂の命のことであり、自分の命を保つ道の中には、私たちの天然の魂が恋い慕う地上の全ての利益が含まれています。その中には、自分の名誉もありますし、自分の主張もあります。魅力的な交わりや、素晴らしい友人たちも含まれています。優れた分析能力、博学な知識、人としての道徳性、愛すべき容姿、美徳なども含まれています。中には、ただ普通の人として、平和に普通に暮らしたいというささやかな願いもありますし、人々に受け入れられて、理解され、愛されて生きたいという願いもあります。

それらすべての願いはまことに人間らしいものであり、世間の道徳にもかなうものです。世間の人々は大手を振ってその道に生きていますし、信者も、これまでのクリスチャンとしての歩みの中で、すでにそれを得ているかも知れません。もしも彼がまだその内の何一つ得ていないとしたら、彼がその切ない地上の利益を追い求めたところで、誰がそれを非難するでしょうか? もしかしたら、彼は今まで虐げられ、不当に扱われ、絶えず苦境に瀕して、隅に追いやられてきたかも知れません。人々はその不幸を指差して笑って来たかも知れません。そのような哀れな人が幸福になる権利を誰がおしとどめられるでしょうか?

いや、もしかしたら、その信者は素晴らしいクリスチャンとして今まで立派に歩んで来たかも知れません。すでにこういった全てのものは全部彼の手の中におさまっているかも知れません。しかし、この標識が明らかに告げて言います。この先、あなたはこれらのものと一緒には歩めませんと。

今まで、主はあなたの心にある願いをそのままにしておかれたかも知れません。しかし、もしもこの先、これまでの歩みで培われたあなたの全ての知識も、経験も、名誉も、思いも、感情も、役に立たなくなると言われたらどうでしょうか? それどころか、あなたの手にして来た全ての美徳や長所が悪しきものとして退けられ、あなたの美が損なわれ、あなたは恥を負わされるかも知れないとしたら? それでも、あなたは主に従うのでしょうか?

信者は困惑します。それは自分の命を捨てる、とか、主に従う、と言われても、具体的にそれが何を意味しているのか分からないからです。どれほど多くのものを失うことになるのかも、よく分からないからです。ただ一方の道は自分の命を保つ道、もう一方は自分の命を捨てる道と書いてあるだけで、その先、その二つの道がどうなっているのかはまだ分からないのです。しかし、信者は問われていることが分かります、どちらが御心なのか、今、判断せよと。そして、主が喜ばれる道が何であるか、わきまえよと。

場合によっては、この選択の誤りは致命的な損失をもたらします。

その損失についてはこのような話があります。以前にある信徒が、まだキリストを知らなかった頃に行った自分の言動について、自ら始末をつけようとして悪魔のもとへ出向いて行って失敗しました。その人は、クリスチャンでしたが、まだ信仰が浅かった頃に行った罪深い数々の言動の証拠が、悪魔の宝物庫に宝としておさまっているという噂を聞きました。そこで、自分自身の過去が悪魔の質物にされているのは許しておけないと思い、それを自力で取り戻して、自分が今は立派な信仰を持っている落ち度のない信者であることを仲間のクリスチャンに見せようと、悪魔と交渉するために地獄へ出かけて行ったのです。

その人が辿っていったのは、当然、自分の命を保つ道でした。彼は大急ぎでその道を辿って地獄までたどり着きました。しかし、その人は悪魔と直接、交渉しようとした結果、大変な戦いに巻き込まれて、深い痛手を負って、動けなくなりました。分岐路で彼を待っていた仲間のクリスチャンは、友人が戻って来ないので、助けようと思い、悪魔のところに出向きましたが、彼も大変な痛手を負って追い返されました。またその友人も出かけて行って、彼らを助けようとした結果、痛手を負いました。

クリスチャンたちは命からがら戻って来て、この出来事について協議しました。その結果、一人のクリスチャンが、自分の命を保つ道を行って、地獄で悪魔と直接交渉することで質物を取り戻すのはやめねばならないと言いました。それらのものは取り戻すべきではなく、むしろ、十字架を通して縁を切るべき古き天然の命に属しているから未練をかけてはいけないと彼は言ったのです。その発言の後、三人のうちに分裂が起こりました。一人は、あくまで質物を取り返さない限り、身の潔白を証明することはできないと言って、地獄へ引き返して行って、帰らぬ人となりました。あとの一人は計画が挫折したことや、悪魔によって質物とされた過去があまりに多すぎることに落ち込んでいました。その人は失意から立ち上がれなかったので、彼のところには毎日、悪魔の使いがやって来ては、過去の愚行を責め立てては失望を煽るようになったので、その人は引きこもりがちになり、その後どうなったのかは誰も知りません。

幾人かのクリスチャンたちは、この出来事を通して、いかに信仰浅かりし頃に迷いの中に生きていたとしても、過去の失敗とはきっぱり縁を切って、ただ血潮だけに頼って生きねばならないと知りました。悪魔の質物とされたものを取り返すことで自らの正当性を主張しようとしてはならないと分かりました。むしろ、それらの質物は、古き人の所有物であり、古き人はキリストと共に十字架につけられて死んだのですから、現在の自分の所有物ではないのです。そのような他人の、しかも、無価値な持ち物を取り戻そうとして悪魔のもとへ赴くことは無意味であるばかりか、危険なのでしてはいけないという結論に至ったのです。

クリスチャンたちは理解しました、悪魔の宝物庫にどれほど忌むべきものが溢れていたとしても、そこに質物を取りに行くという行為は、命取りなのだと。なぜなら、その質物が自分のものだと名乗り出ることは、質物のみならず、自分自身がサタンの所有物であると認めるに等しいからです。魂の命というものは、死んだものであり、もし一部であっても、それを自分のものとして認めるならば、自分の全身が死んだものとなり、火に焼かれてしまうことに彼らは気づきました。「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。」(マタイ18:8) と聖書に書いてある通りなのです。そして、彼らは自分の命を捨てることにして、悪魔にではなく、神に直接交渉する方法に切り替え、キリストのもとへ出向いていきました。そして、キリストの御許で、死んだ過去の代わりに永遠のいのちを受けて、その後、信仰に生きたので過去の恥さえも栄光へと変えられました。

これとは別の失敗談があります。あるクリスチャンが、キリストを知りながらも、誤った教えにそれていった同信の仲間を説得してもとの道に立ち返らせようと、友人の後を追いかけていきました。友人を愛していたし、このままでは友人の命が失われると恐れたからです。誤った教えにそれていった友人は、自分の信じた教えの間違いを指摘されるや否や、腹を立て、公衆の面前で侮辱されたと言って、泣きながら自分の命を保つ道を大急ぎで走り去って行きました。信者は憐憫の情に駆られて、その人を追いかけているうちに、いつの間にか、自分も、自分の命を保つ道に入り込んでいることに気づきませんでした。

クリスチャンは道の途中で友人に追いつき、正しい教えに戻るようにと懇々と説得しましたが、友人はそのクリスチャンの言葉にさらに腹を立てて、あらゆる方法で彼を罵りました。そして、彼がこんなにも非情で冷酷で思いやりのない人間になったのは、彼こそが誤った教えにとりつかれているからに他ならないと言って、自分の教えはそのように人を公然と侮辱するような思いやりのないものではないから、彼こそ、自分の教えとその教えを信じる全ての友人たちと手を切って、心を改めるべきと言いました。その時、誤った教えにそれた友人は、慌てて走って行ったために転んで大きな怪我をして傷だらけになっていました。彼は言いました、私がこんなに傷ついているときに、なぜあなたはそんなに心ない言葉をかけて私を責めるのかと。

友人の痛々しい姿を見て途方に暮れ、彼を介抱しているうちに、夜が来て、そのクリスチャンは自分の命を保つ道から出られなくなってしまいました。そこへ吼えたけるししがやって来て、二人はその餌食になって、帰らぬ人となりました。死ぬ間際にクリスチャンは次の御言葉を思い出しましたが、後の祭りでした。「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(マタイ8:22)、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。 あなたは、わたしに従ってきなさい」(ヨハネ21:22)
 
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