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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

キリストのからだなる教会の一体性の根拠(2)

第二章 一体性の根拠
 

さて、私たちが共にあることを見たので、この一体性の根拠についてさらに見て行きたいと思います。レビ記二十三章を思い出すなら、おそらく最大の助けになると思います。この章は、主の祭りを確立することを含んでいます。さて、これらの祭りのおもな特徴、支配的特徴は、神の民の団体生活、教会の団体生活を表していることです。それらは主の民がみな集まる集会であることがわかります。これらの祭りは聖なる集会と呼ばれています。民が招集され、こうした機会に、またこうした機会によって、彼らの一体性が現されます。ですから主要な要素は、これらの時に示される神の民の団体生活なのです。

それが見せているのは次のことです。すなわち、祭りの時、人々は個人的な生活を送るのをやめ、はなればなれの個人生活を送るのをやめます。自分たちの家庭生活や、内輪の社会生活を送ることすらやめます。こうした祭りの時、部門的なものはすべて放棄されます。そし て、民が一つであることがわかります。彼らを一つにしているものが何か考えるなら、祭りであることがわかります。そうです、しかし、主の民の団体生活と交わりの根拠は、異なる種類の祭りをすべてひとまとめにしたものなのです。

ですから、これらの祭りを見渡すことにします。(詳しく詳細に扱うことはしません。ただ、それらに言及し、たぶんその顕著な特徴を述べるだけです)。最初は過ぎ越しの祭りです。
 

過ぎ越しの祭り

<…>過ぎ越しが象徴し、表しているのは、血によるいのちの契約と いうこの原則です。すべてはこれに集約されます。神は契約を立てられます。彼はその契約を血によって立てられます。この契約の血は、裁きと死からの解放であり、裁きによって死がはびこっている時にいのちを保ち、滅ぼす者を無効にします。これが、流されて振り注がれた血の力による、死のただなかにおける、悪魔に対する勝利のいのちです。そこには、神とその民との間の契約があります。これが神の民の団体生活を生み出す第一段階であり、最初のものです。

<…>今日とても多くの人が、主イエスの血の価値と効力の教理、血の教理に基づい て、教会の一体性を実現しようとしてきましたし、そうしようとしています。なんなら、「あらゆる角度から宣べ伝えられ、あらゆる方向に適用される、贖い、 血の価値、主イエスの血についてのすべての教え」と言い換えることもできます。彼らは、それを本質的教理として確立することによって、教会の一体性を実現 しようとしています。「それを信仰の教理の一つとして受け入れるなら、あなたは教会の一体性の中に入ります」と彼らは言います。しかし、教理が一体性を実現できたためしはありません。<…>あなたは経験という根拠に基づいて、力という根拠に基づいて、造り込まれたもの、もたらされたものの根拠に基づいて、一体性を持たなければならないのです。

多くの人々は、主イエスの血の永遠の無限の効力と価値をすべて信じているのですが、その血の力を内外の死の力に対して働く 大能の力として、自分の生活の中で少しも経験していません。主イエスの血は天的なものですが、教理は極めて地的なものでありえるのです。まったく健全で正しかったとしても、教理は地的な団体向けの極めて地的なものでありえるのです。教理は霊の領域では役に立ちません。

血の真の価値は、霊の宇宙に刻印されている、血の霊的な力です。その中に入る時、あなたは――信条的にではな く霊的に――教会の真の一体性の中に入ります。これは経験的なことであって、教理的なことではありません。それはいのちであり、積極的で力強い強力なものです。健全な教理に忠実であることではありません。この違いに注意することがとても重要です。

愛する人よ、
キリストのからだの一体性を維持するには、健全な信条や正しい教理を無限に超えたものが必要なのです。それには力、恐ろしい力、この宇宙の他のいかなる力よりも強力な力が必要です。血こそ、その力なのです。

この血の土台の上に、教会は生み出されました。キリストは今、ご自分の血の効力によって生きておられます。そ して、その効力によって生きておられる彼は、その血の同じ効力によって、すべての肢体たちをご自分との天的交わりの中にもたらされました。この血は生きており、働いており、作用しています。

過ぎ越しとは、私たちがキリストの中で、この契約の彼の血の力により、経験的な、生ける、能動的な、相互の合一の中に入ることにほかなりません。これがキリストのからだである教会の一体性です。それが少しも機能していないあいだは、天的なからだである教会のいのちの力強 い働きの中に私たちは入っていないのです。

教会は有用なものとなって、自分の召命を成就し、支配たちと権威たちとこの暗闇の世の支配者たち、悪の軍勢に対して衝撃力を及ぼして、自分の宇宙的な使命、予め定められていた自分の目的を果たさなければなりません。

それを可能ならしめる根拠は、主イエスの尊い血のこの凄まじい力以外にありません。これは真実であり、この血を離れて教会は存在することはできません。したがって、この血を離れたら使命もないのです。

すでに述べたように、私たちはこれを認識し、すでに真実であるものに近づかなければなりません。しかし神の御心においては、彼の尊い血のあらゆる恩恵に浴して立っていない人はキリストのからだの肢体ではありません。「キリストのからだの肢体たちはこの 血の意義をすべて知的に理解している」「彼らはこの血の何たるかの完全な啓示を受けている」という意味ではありません。

「主イエスに対する彼らの関係はこの血の効力 によって生じており、その血が天で彼らを彼に結合し、互いに結合した」という意味なのです。教会が究極的に勝利するのは、その力によります。「彼らは小羊の血のゆえに打ち勝った」(黙示録十二章十一節)

<…>ですから、キリストのからだの団体的真理を知り、認識し、享受し、 それから益を得るには、血の力の何たるかを学ばなければなりません。また、交わりを破壊するために悪魔が用いようとするものに対して、その血が私たちの生活の中で認定済みの力とならなければなりません。

ああ、主の民が悪魔のそのようなあらゆる働きに対する、この血の力と効力とを認識してさえいれば、分派や分裂という道筋に沿った悪魔の働きが功を奏することはずっと少なかったでしょう! もし敵の何らかの働きの結果、あなたと私が緊張関係になるなら、愛する人 よ、私たちを交わりの中に連れ戻す唯一のものは、敵が行ったあらゆることに対する血の力の申し立てです。これこそ、教会は血の効力により、始まりも、途中も、終わりも一つである事実の完全な証拠なのです。過ぎ越しはこの初歩的真理を生み出します。

ですから、旧約で主の民が一緒に集まったこと、彼らの団体生活、彼らの交わりは、第一に、死と滅ぼす者に勝利する血の契約という土台に基づいていました。これが彼らの交わりの第一段階です。これらの祭りの二番目は 種なしパンの祭りでした。


 

種なしパンの祭り

種なしパンの祭りは丸七日間続けなければなりませんでした。七日は完全な期間、完全な霊的期間を表します(七 は霊的完全の数字です)。それは完全な霊的期間であり、この間ずっと、肉に属するものはすべて取り除かれ、排除されます。なぜなら、パン種は肉の発酵であり、肉の働きであり、腐敗した肉の潜在的要素だからです。腐敗のもとはパン種であることを私たちは知っています。肉は腐敗しています。霊的生活の全期間にわたって、肉は取り除かれ、排除されなければなりません。

私たちは
ローマ人への手紙の六章に来なければなりません。そして、主イエスの十字架により肉の体は活動を停止したこ とを見なければなりません。その所で、この肉は神によって取り除かれたことを私たちは認識します。主は肉を捨てることを要求されます。 私たちは肉を拒否し、「肉が所を得てはいけない」という肉に関する神の立場を受け入れなければなりません。これは、「私たちは決して肉という道筋に沿って誘惑されることはない」「私たちは決して肉の存在を意識することはない」ということではありません。そうではなく、「たとえ肉に触れられることがあって も、私たちは肉を拒否しなければならない」ということです。

私たちはその土台を取り戻し、肉を拒否して言わなければなりません、「私は悔い改めて、それを戻します。これが腐敗していること、そして、これがすべてを腐敗させることを、私は認めます。私はそれを下ろし、それを追い出します。自分はそれに対して死んでいる、と私は勘定します」

過ぎ越しの前の晩、ユダヤの家庭の父親は、ランプに明かりをともし、部屋から部屋へと家を行き巡り、すべての角や食器棚、通路から外れたすべての場所を調べて、パン種を見つけようとしました。そして、徹底的調査で見つかったパン種から家を掃き清めました。しかしそれでも、神の御前で父親は満足しなかったのです。彼は宣言しました、「私は自分の家を調べ、見つかったパン種を取り除きました。しかし、私の徹底的な調査と検査をのがれたパン種がまだあったら、私はそれをも拒否します」。

腐敗させる要素である肉を徹底的に拒否することが、種なしパンの祭りです。キリストのからだである教会の一体性は、私たちの罪を取り除くことだけでなく、私たちの肉を取り除くことをも要求します。生まれながらの人は物事を腐敗させ、駄目にし、対立します。からだの一体性に反対して働き、分裂を生じさせ、霊的一体性による主の民の積極的な霊的機能を覆すのは、肉の発酵であることを私たちは知っています。それをすべて行うのは肉なのです。

ですから、すべての民が神にある自分たちのいのちの一体性を表そうとするなら、肉を拒否し、パン種を取り除かなければなりません。
嫉妬、ねたみ、個人的感情、利己的熱心、個人的怒り――私と他の人との間に影を落とす、原則や正義に基づかない個人的怒り――が少しでも芽生えたなら、それについてすぐに立ち返って、真心を込めて言わなければなりません、「これは間違いでした。私はそれを悔い改め、このパン種を抽出して取り除くことを求め ます」。

私たちはみな、こうしなければなりません。私たちは依然として、狼狽やつまづきにあいやすい、この天然の命の中にあります。私たちは依然としてとても短気なのです。そうです、私たちはこれをとてもよく知っています! 狼狽する権利があると感じるかどうかは問題ではありません。問題は、自分の肉がその状況の中に入り込んだかどうかなのです。もし入り込んだのなら、それは私たちと他の人々との間に隔てを生じさせます。 私たちは行って、自分に非があるその過ちを告白しなければなりません。

「自分が行った悪以上に酷い目にあわされた」と 言い訳ばかりしていてはいけません。 また、それが悪いことだからといって、自分の悪を隠してばかりいてはいけません。私たちは戻って言わなければなりません、「私は自分がしたように応答する べきではありませんでした。善をもって悪に報いるための恵みを求めるべきでした」。私たち全員が常にそうするわけではありません。しかしそうしないなら、 すぐに注意しないなら、私たちの間に隔てが生じるでしょう。

キリストのからだの団体的一体性は、ローマ人への手紙六章コロサイ人への手紙二章十一~十二節の、 肉の体の割礼と除去という実際的事実に基づいています。<…>イスラエルの団体生活はこの二番目のもの、肉を取り除くことに基づいていたことがわかります。祭りの三番目は初穂の祭りで す。

 

初穂の祭り

<…>初穂の祭りに来る時、あなたはまさに、代表者である主イエスの復活という大いなる真理に来ているのです。最初に実った実は、それに続くすべての実を代表しています。初穂が全体を代表して取られます。祭司は最初に実った麦の穂を主のところに持って行き、収穫全体のために主に感謝します。それは収穫の保証です。パウロがこれについて何と言って いるか、私たちは「コリント人への手紙」から知っています。

主イエスは初穂であり、ご自分のパースンにより復活の中で教会を代表しておられます。
「エペソ人への手紙」「私たちは彼と共に復活させられた」と言っています。私たちは彼と共に葬られました。すなわち、古い人は取り除かれました。今、私たちは彼と共に復活させられています。キリストの肢体たちの真の一体性、キリストのからだの一体性は、復活による主イエスとの合一に対する、その生ける証しの中にあります。一粒の麦の単純で有名なささやかなたとえ話の中で、彼がこの原則をどのように確立されたのか、私たちは知っています。

「一粒の麦が地に落ちて死 ななければ、それは一粒のままです。しかし、死ねば多くの実を結びます」(ヨハネによる福音書十二章二十四節)。ここに百倍の増殖があることがわかります。一粒の麦が死んで、生ける百粒の麦という結果になります。これは彼の死による、キリストにある復活の団体性です。

ああ、私たちはキリストのからだとして、その実際の力の中に入らなければなりません。私たちは彼と共に彼の復活の様の中に植えられました。そして、彼の復活の力が私たちの内に働いています。こ の事実の中に経験的に生き生きと真に入り始める時、何という交わりの感覚があることでしょう。私たちの関係に何という変化があることでしょう。自分たちの内に働く復活のいのちの力を知っていたら、私たちは何という交わりを持つことでしょう。死に勝利するいのち、私たちの内に働いているもの、経験の相互性を互いに知るなら、この相互性は価値を持つようになります。それはすでに天上における証しであり、死と暗闇の軍勢に対して働いているのです。

キリストのからだの中には次の事実に対する証しが造り込まれています。すなわち、悪魔の力は打ち砕かれてお り、キリストは死を征服して勝利のうちに死を飲み尽くされたのです(コリント人への第一の手紙十五章五十四節、ホセア書十三章十四節)。 霊の領域でこれを経験的に知っていないなら、私たちは物質の領域でもこれを知ることはないでしょう。神の順序では、物質的なものが霊的なものに続きます。霊の中で復活をすでに知っているのでなければ、私たちは決して永遠のいのちに至る体の復活を知ることはないでしょう。教会の活動と機能の存立基盤そのものを構成しているのは、実際の力です。からだの一体性という事実の中に入るには、復活の力の経験の中に入らなければなりません。四番目は贖いの日です。

 

贖いの日

他のすべての祭りと同じように、多くの原則が含まれています。しかし、一つの原則が支配しています。主は言わ れます、「これはあなたたちの安息日である。何の働きもしてはならない」これは主の民が共に集まって安息に入る祭り、贖いの日です。さ て、他の要素はすべておくことにして、この時点で登場する安息日の意義に注意することにしましょう。<…>ここでは安息日の休みが、贖いの日に関する特別で独特な特定の箇所に登場します。これは私たちに次のことを告げます。

すなわち、私たちは三つの根拠に基づいて安息の中に入るのです。第一は、契約による神との合一です。これは死に勝利するいのちによってであり、流されて振り注がれた血によります。第二は、私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられたことであり、肉の体が取り除かれたことです。第三は、復活したキリストとの合一、 彼の復活の力を私たちが知るように なったことです。私たちは安息の中に入ります。

私たちの働きは終わり、私たちは神の安息日、神の安息の中に入ります。私たちはもはや目標を達成するためにもがきません。すでに目標に達しています。神を満足させようとする奮闘はやみます。神は満足しておられます。神は全き満足をもってご自分のわざをご覧になります。私たちは神の満足の中に入ります。

この贖いの日は、主イエスの贖いと、神の御前にある恵みの御座の上に振り注がれた彼の血の贖いの価値を表して います。この贖いの日に、神の願いと要求はすべてかなえられます。そして、神は安息し、御子に完全に満足されます。彼の血を通してすべてはなされ、完了しました。主イエスの完全忍者ブログ 管理ページ - 忍者ツールズな達成により、神は安息されます。もはや奮闘はありません。この事実の証しとして、この血は神の御前にもたらされます。

主イエスの完全な贖いの働きを理解する時、私たちは安息しなければなりません。神を満足させるための悩ましい配慮は、すべて取り除かれなければなりません。そして、キリストが私たちのために御父の御前ですべての必要を満たして下さることを知らなければなりません。

漸進的聖化についてはどうでしょう? それに関して内側になされるべきことは何もないのでしょうか?あります。 しかし、主イエスは御父の満足のためにすべてを私たちに与えて下さいました。この土台が完全に据えられない限り、あなたは決して完全と聖潔に向かって漸進 的に進むことはないでしょう。キリストは私たちのためにすでにこの働きをすべて成就して下さいました。聖化のための彼の働きに付け加えうるものは何もありません。この根拠に基づいて、私たちは恵みの中で成長するのです。

ルターは任務を帯びてローマに遣わされました。彼はその都と特別な懺悔の場所を訪問することを熱望していまし た。それは、その階段を手と膝でのぼることにより、特別な恩恵や罪の赦しなどを得るためでした。「この恐ろしい苦行を自分に課せば、義とされて安息を得るだろう」と彼は考えたのです。彼はのぼり始めました。のぼるのが大変になってきた時、何かが「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はふたたび進みました。すると、あの声がふたたび、「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はさらに階段をのぼりました。すると、また声がして、一つの単語を強調 しました、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書二章四節、ローマ人への手紙一章十七節、ガラテヤ人への手紙三章十一節、ヘブル人への手紙十章三十八節)。これが彼を回心に導き、行いによる義というローマの体系全体を放棄するよう彼を導いたのです。

「義人は信仰によって生きる大事なのは私たちの信仰そのものではなく、私たちの信仰の対象である主イエスの御業です。私たちは自分の信仰の度量をあまりにも重んじますが、大切なのは私たちの信仰の対象なのです。私 たちが安息の中に入るのは、キリストと、私たちのための彼の完全な御業という対象の上に、自分の信仰を据える時です。私たちはもはや、手と膝で石段をのぼることはしません。これは主の民の団体生活にとって基本的なことです。不安、発酵、不満足の要素は去って行きます。そして、私たちは神との平和を持ちます。調和を得ます。なぜなら、調和は平和の別の言葉に他ならないからです。これが安息です。聖書の中の平和は、何らかの雰囲気ではなく、完全な調和の内に全ての要素が互いに適切に調整されていることです。

祭りの最後は仮庵の祭りです。

 

仮庵の祭り

これらの祭りの順序は何と適切なのでしょう。仮庵の祭りに来る時、これらの祭りの順序がいかに正しいかわかり ます。集会の間、人々は自分の家を離れ、外に出て、行って木の枝を切り落とし、庵を造るよう命じられます。祭りの期間中、人々は自分の家の外のこれらの庵の中に住みます。これは団体行動です。旧約聖書中の仮庵の祭りをネヘミヤ記に至るまで辿るなら、それが過去を指し示すことがわかります。仮庵の祭りが回復されたレムナントの場合、その回復とイスラエルのエジプト脱出との間に、明確な関連付けがなされています(レビ記二十三章四十二~四十三節)

この仮庵の祭りはイスラエルのエジプト脱出の記憶を永遠に保つためである、と述べられています。しかし、彼らがエジプトを出た時、仮庵の祭りは設立されていませんでした。仮庵の祭りは、出エジプトの記憶をながらえさせるための手段です。彼らは石の家――地と直接 的に関係しています――を出て、荒野の中に入りました。荒野では、地的なものはなにもなく、すべてが天的でした。大祭司の青い衣と、老若男女の衣の裾の同 じ青は、天の象徴でした。ですから、天的性質がこれらの民の特徴だったのです。彼らはこの地上に属していませんでした。彼らは神のために天上に向かって出て行ったのです。仮庵の祭りは、神の民の天的性質のことを言っています。

愛する人よ、これが彼のからだである教会の重要な基本的要素です。これまで述べてきたように、神はこの経綸時代、この地上に何かを構築するようなことを公に何もなさっていません。しかし人々は、神のために何かをこの地上に設立するため、懸命に努力しています。

このクリスチャン時代の二世紀の終わり頃、おそらくそれよりも前に、あるものが入り込みました。ある手段や方法が採用されました。それらの手段や方法は、教会をこの地上のものとするためであり、教会をこの世の勢力として組織するためでした。また、教会を人々に訴えるような形に、この世の人々に感銘を与えるような形にするためでした。それは、この世が教会を重んじるようになり、「教会は大きな力であり、無視できないものである」と言うようになるためでした。これがこの経綸全体に渡って進展してきたことであり、神の原則を絶えず徹底的に破ってきたのです。

神が行っておられるのは、天的な教会、天上のからだの建造です。神の教会は目に見えるものではなく、目に見えないものです。それは人目に触れない民であり、霊的です。世はこれを知りません――世は彼を知りませんでした
(ヨハネによる福音書一章十節)

これが私たちの一体性の基礎です。この地上に何かを設立しようとする傾向が生じるやいなや、分裂が生じます。 それがどれだけ霊的かは関係ありません。地に触れるやいなや、分裂が生じるのです。神からの最も麗しい動き、天からの神の真の動きといえども、それが人の手に渡って地上のものとなるやいなや、分裂が生じ、さらに多くの分派が生じます。

唯一安全なのは、地から離れていることです。唯一の安全は、神のなさっていることを認識することです。この世には証しがあるでしょう。しかし、世に証しがあることと、世に組織があることとは違うのです。

この地上に何かを設立しようとする動きに、主はまったく共感されません。彼は来たるべき時代にはそれをなさるでしょうが、この時代にはなさいません。この地上に何かを設立するという方法で私たちが物事を行うなら、たとえそれが神のためであっても、やがて主は私たちがその責任を負うようにされるでしょう。 主はその責任を負って下さらないでしょう。彼は、この時代におけるご自分の御心にしたがっているもの、すなわち 絶対的に天的なものについては、すべて責任を負って下さるでしょう。


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