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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

私の大好きな御言葉の一つです。何という朗報でしょうか。この宇宙を作られた方がおられ、その方がいつも私たちを見ていて下さり、私たちを守り、正義を行ってくださる。決して人を偏り見ることのない、義なる公平な方が確かに存在しておられ、神を求める者に、神ご自身は必ず報いて下さる、これを知る以上の喜びがあるでしょうか…。

礼拝でも痛感させられたことは、私たちの信仰生活は日曜日の礼拝を中心として回っているのではないということです。教会の中で何らかの重要な役割を果たし、人から立派な信仰を認められようと願うことなど、主の御前でほとんど意味を持ちません。日曜日は一週間の内のたった一日に過ぎないのです。

残る月曜日から土曜日まで、私たちがそれぞれの生活の与えられた持ち場で、どのように世の光として世に遣わされ、キリストを知らない人たちも含め、周囲の人々にキリストのまことのいのちを豊かに届けることができたのか、私たちの信仰が私たちの存在を通してどのように働き、暗闇の世に光をもたらすに至ったのか、やがて主の御前に立たされたとき、そのような私たちの地上での人生の一つ一つの歩みが問われることになります。そこに、私たちが主から受ける報いと、栄光がかかっているのです。礼拝中にどのような仕方で賛美をしていたか、とか、どのような言葉で祈っていたか、などという姿勢は、それに比べれば全く瑣末なことであり、うわべの現象に過ぎません。神は私たちのうわべではなく動機を問われるとともに、人目につく部分ではなく、残る隠された人生の大部分を問われます。その方がはるかに主の御前で重みがあり、来るべき日に重く問われる時間かも知れないのです。

神は一人ひとりにその人でなくてはできない召しと役割を与えておられます。この知られざる人生を、日々、主の御前に信仰によって生きるということなくして、私たちが神から与えられた召命をまっとうすることはできません。私たちの地上での隠された一歩一歩が、天での宝を積み上げるものとなるかを決めるのであり、この極めて個人的な人生の中で、神は私たちが絶えず神と共に生き、神と共に歩み、その信仰と生き様によって、一歩一歩、御父に栄光を帰する者となることを願っておられるのです。

私がこの教会に来るよりも前から、ここにいる兄弟たちを通して学んだ最も重要なことの一つが、キリストのいのちの健全さに生きよ、ということでした。善悪の議論については、人は正しさをいくらでも装うことができます、しかし、いのちの健やかさを装うことはできないのです。病人が健康を装うことはできないように、真にキリストの健全ないのちに生きているのか、そうでないいのちに生きているのかは、言葉によらず、その人自身から流れ出てくるものによっておのずから周囲に証明されてしまいます。キリストのまことの命に生きていれば、生活の中に、自ずからその命の健全さ、その豊かさが溢れ流れ出ます。そして、そのいのちの流れが周囲を潤します。喜びは言葉にならない形で周囲に伝わり、周囲の人々に何かを気づかせるはずなのです、ここに世にないものがあると。この人の内には世の人々には通常ない極めて重要な何かがあると。

ですから、神のために何かしよう、とか、絶対的に自分を捧げよう、と意気込むよりも前に、私たちはまずただ神から愛される子供として、信仰によって、キリストのまことの命の豊かさ、健やかさの中に思う存分に浸され、そこに安息した方が良いのではないかと私は痛切に思います。なぜなら、自分自身が真にキリストのまことの命に浸され、潤され、復活の命の統治する大胆な力を知らないのに、他者にその法則をもたらす人となることは決してできないからです。もしかすると、神のために役立とうと願う心や、神のために絶対的に自分を捧げようという熱意よりも、はるかに重要なことは、ただ何もできない人として、信仰によって、神に全てを率直に願い求め、安心して母の乳房にすがる乳飲み子のように、神が願ったものをお与え下さり、私たちに答えて下さることを喜び、この愛に満ちた交わりの中に休む能力かも知れません。それが神の御前で自分のわざをやめて休むということだからです。

休むことは願うことまでやめてしまうことではありません。神に願い求め、神からの供給を絶えず受けずして私たちは生きていくことはできません。願いを起こして下さるのも主、そのはかりごとを立てさせて下さるのも主です。神は私たちの願いに耳を傾けて下さり、私たちの思いを尊重して下さいますから、私たちが何を見、何を願うかは、信仰生活において極めて重い意味を持っています。

ともあれ、日々、主との絶え間ないいのちの交わりの中で、主の霊との絶え間ない結合の中で、何一つ隠し立てなく、この方との交わりの中に生きるとき、その絶え間ない交わりの中から、生ける水の川々であるいのちの流れが生まれて来ます、愛が生まれ、御霊の実が実際に見える形でも結ばれてきます。それが私たちを世に対しておのずから真に衝撃力のある人とするのです。

ですから、繰り返しになりますが、日曜日の礼拝中の出来事だけに最も注目しているような信仰生活の姿勢では、決してこの先、健全に生きてはいくことはできなくなってしまうばかりか、神の御前で来るべき日に、賢い花嫁として主から受ける褒賞をも逃してしまうことでしょう。エノクのように、極めて個人的な知られざる人生の部分において、日々、着実に神と共に歩み、天に宝を積み上げ、世に遣わされた者として、暗闇に光をもたらす人となる必要があります。

私たちはいのちの言葉を堅く保って、世の光として、星のように輝いている。主に見える日に恥じ入らない花嫁として、自分に与えられた地上の人生の一歩一歩を本当に大切に踏みしめながら、喜んで世に遣わされる者として生きたいと願うのです。

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