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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

天から出て神から下ってくる新エルサレムについての考察

私たちはキリストのはかりしれない深い愛に目を留めます。私たちを罪の負債から贖い出しただけでなく、彼のよみがえりのいのちによって立たせ、新エルサレムに至るまで、この地上の幕屋における生活を通して、今も贖い出し、絶えず召し出して下さっている方の絶大な愛を思うのです。

もしもキリストの愛の内にとどまるならば、この地上生活において受ける苦しみは、今までよりもずっと耐えやすいものとなるでしょう。神の子供たちはしばしば理解のできない困難に遭遇し、初めのうち、私たちの目はその出来事にすっかり奪われてしまいます。巨大な問題に対してどのように対処すれば良いのか、どのようにしてそこから抜け出せば良いのかを考えることで精一杯となります。

けれども、信仰を通してすべてを見るとき、それらはまるで違った意味を持っていることが分かるのです。この地上生活の軽い苦しみが、永遠に至る重い栄光へと連なっているその意味を知るとき、私たちの心はたとえ苦しみや誤解があっても、安らかになります。どのような苦難も、キリストの愛から私たちを引き離すことはできません。どのようなときにも、私たちはキリストの愛に包まれ、その愛の内に隠れることができます。たとえ事態がどれほど混乱しているように見えたとしても、物事の真の有様は、決して人の目に見えるようなものではなく、多くの人々が心で考えているようなものでもなく、神ご自身が私たちを弁護して下さり、何が真理であるかを最終的に明らかにして下さることがはっきりと分かるのです。

ですから、私たちはどのような立場に置かれたとしても、望みの確信を最後まで持つことができます。そして、その確信に立って、自分の心を悪しき思いから守り、神の愛の要塞として守ることができます。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。しかし、すべてがきちんと証明さ れるまでには少しばかりの忍耐が必要です。

こうして、私たちがただキリストの愛の内に隠れ、喜びを持ってすべての杯を受けることができるようになり、信仰の目で事態を見るようになるそのとき、私たちの内におられる方が、私たちの信仰を通じておのずから働かれます。そして、真実が明らかにされるために、当初考えていたほど長い時間は必要ないことが分かるでしょう、神ご自身が、ご自分のために子供たちを守って下さいます、そして、私たちの口から出て来るハレルヤは本当に地を揺るがすものとなるでしょう。

オースチンスパークスの以下の考察は、新エルサレムの聖なる性質が何であるかという観点だけからでなく、何がその聖を妨げるものであるかという文脈でも読む価値があります。これをただ愛らしい新エルサレムの心象風景としてとらえても意味がなく、主が必要としておられる教会(エクレシア――キリスト者)とはどのようなものであるのかをそれぞれが心に問うべきであると思います。

天から出て神から下ってくる新エルサレムについての考察 オースチンスパークス

聖書朗読:黙示録21、22章

神のカレンダーにおける次の大きな出来事は、御子イエス・キリストが栄光の中で戻って来られることです。「天 から出て神から下って来る」この天の都の形で私たちに示されているのは、この来臨の成就とキリストの栄光の最終的啓示です。この花嫁の都は、諸々の時代に わたる神の御業の総計を示しています。

その多くの象徴が示しているのは、御名のために諸国民の間から召し出された民の中に造り込まれた御子の諸々の特徴 と、キリストとその教会――教会は永遠にわたって宇宙に命を供給する役割を果たします――の素晴らしい合一です諸国民はその光の中を歩み、その木の葉に よって健康を維持します。王たちは自分の宝をこの都にもたらし、神の栄光がその輝きを供給します。

ヨハネは、この都が神によって自分に示されたことを、「彼は私に示された……」というように二回確証していま す。おそらく、へりくだって読み、黙想するなら、神は私たちにその意義と重要性を示して下さるでしょう。また、その諸々の象徴によって、目に見えない永遠 の事柄に関するいっそうはっきりした観念を私たちに与えて下さるでしょう。私たちはそれを常に視野に入れておかなければなりません。それは、「私たちの軽 い艱難」が私たちのために働いて、「ますます卓越した永遠の重い栄光」をもたらすことができるようになるためです。

通り

欽定訳では黙示録22章の最初の二つの節の間に区切りを入れていますが、これは誤解を招きます。改訂訳では、 川がこの聖なる都の通りの中央にあることを示しています。一本の通りが中心であり、一つの川がその通りの中央を流れ下り、命の木が川の両側で成長しています複数形のものは何もありません。この木は川の両側にありますが、それでも単数形です。この時点に至るまで、物事は複数形でした。エゼキエルの川の多く の木が示しているように(エゼキエル47:4)、命には多くの表現方法があります。しかし最終的に、すべてが絶対的一の中にまとめ上げられます。一つの 都、一つの通り、一つの川、一つの木。これは、最終的にすべてが完全な一、キリストの一の中へと集約されることを、象徴的に思い出させるものです

このような一は御霊の交わりの中でのみ実現されえます。しかし、これは将来のためだけでなく今日のためでもあ るにちがいありません。この都はいま霊的に形成されつつあります。そして、やがて明らかになる大いなる究極的完成に備えて、その働きはいま進行しつつあり ます。教会は宇宙の中心で永遠の使命を帯びた神の首都となります。そうである以上、教会は今ここで、キリストとの一、キリストにある一を学ばなければなり ません。一つの通りです!  教会のまさに核心であるこの一は、永遠の使命の基礎であるだけでなく、現在の証しの基礎でもあります。

この一つの通りには一つの 川があります。これは、キリストとの交わりの内なる領域から命が流れ出ることを意味します。もちろん、この都は聖霊が向かっておられる究極的目標ですが、 この同じ法則がつねに成り立ちます。この地上における今の私たちの使命は第一に、多くの良い働きに携わることではなく、キリストの命が他の人々に流れ出る ことができる道を用意することです。もしこれがいま始まっていないなら、どうして最終的に起こりうるでしょう? もし今ここで御霊の一を保つことに私たちが 勤勉でないなら、どうして究極的一に従事することができるでしょう?

こういうわけですから、指摘するまでもなく、教会による神の御旨に反対する敵の策動は、教会を分裂したままに しておくこと、根本的に分裂したままにしておくことです。敵は口先だけの一は気にしませんし、一に関する外面的幻想にもたいして煩わされません。しかし敵が反対するのは、神の大いなる命の川を解き放って貧しい世へ流れ出させる、内側深くに造り込まれた一です

「私は小羊の妻である花嫁を見せよう」。この言葉が、栄光の一の中にある大いなる天の聖なるエルサレムを見るよう、ヨハネを導いた案内の言葉でした。花婿に対する花嫁の愛のように、キリストに対する二心なき愛だけが、サタンの策略に対する唯一確実な対抗手段であり、真の一の唯一の基礎です

金の葦

この都は金の葦で測られ、その中にあるすべてのものが神の寸法に合うことがわかりました。この概念はすべて神 聖なものであり、神聖な尺度によってのみ測ることができます。なぜなら、この都は神聖な御旨を表現すべきものだからです。キリストによる私たちの召しは、 私たちに多くのことを要求しますしかし、それらの要求を永遠なるものの光の中で見ることができさえするなら、それらに直面することがとても容易になるで しょう

私たちの人間的性質を神聖な尺度であるこの金の葦にしたがって取り扱うことは常に容易である、ということではありません。神の目的を視野に入れて おくなら、その代価をもっと容易に耐えることができる、ということです。
この都の顕著な特徴は、その絶対的透明さですこれは、その命の道にも言えます。 その川の水は水晶のように透明だからです。これは、その素材にも言えます。その素材は透明なガラスのような純金からできています。これは、その光にも言え ます。その光は「水晶のように透明な碧玉のよう」であると描写されています。この碧玉は「最も尊い」とも言われています。これは、そのように透明な状態は 主にとってとても尊いものであることを示唆しています

これはまた、その性質を得るには代価が必要であることを、彼の民である私たちが見いだすであろうことを暗示し ます。そのような性質を経験しうるのは、神の御手の下で訓練を受け入れて、洗練されたキリストのような者とされる霊的教育を施される時だけです。この透明 さは、しみのない状態という消極面だけではありません。影のない曇りなき光でもあります。神は光です。キリストは世の光であり、教会の務めは彼の光を受け 入れることと伝えることの両方です。この都は神の栄光で輝いています。栄光の反対は何でしょう? 暗闇、曇り、ほの暗さです透明ではなく、影があって混合 している、この領域全体です

あなたがある人と取り引きをしなければならなくなったとしましょう。その人には隠し事があるので、あなたはその人を信頼する ことができません。その隠し事は、実際のところ欺きというわけではないものの、どうやら澄んだ透明さに欠けています。あなたはこれが不愉快な経験であるこ と、栄光の正反対であることがわかるでしょう。神の栄光がすべての場所を満たすとき、そのような疑問や影はまったくなく、公然たる完全な確信しかありません
「神の中には少しの暗闇もありません」(1ヨハネ1:5)。この栄光は恵みによって私たちのものであり、私たちのすべての道を支配しなければなりません。

この都の門は、どれも真珠でできています。真珠は苦難から生じる尊さの比喩です。なぜなら真珠は、宿主である 生き物の苦しみの結果、形成されるからです。この都の中に入る道は、苦しむ愛以外にありませんキリストと共に治めることになる選びの民は、まず彼の苦難 にあずかった人々だからです。この種の交わりの中に入るために、楽なやさしい道を選んでも無駄です。あらゆる不純物から清められている、神にとって尊いものであるキリストの愛が、たとえその代価が激しい試みや深い苦しみであったとしても、彼の至高の御旨が成就されるために、彼への明け渡しを要求するからで す。この代価に妨げられることなく、「神の栄光を持っていた」というその結末に目を留め続けましょう。これが私たちの運命です。

城壁

この神の思想のさらなる特徴は、この都には「大きな高い」城壁があったという事実です。その土台、寸法、強度 は繰り返し述べられており、この城壁について多くのことが述べられています。城壁はこの都の示差性を描写しているように思われます。城壁がしばしば防衛の 目的のために使用されることは事実ですが、そのような必要はこの天の都にはありえません。ですから私たちは、この城壁は特別な方法で区別されることを神が 願っておられるものの境界である、と結論します。

今日のキリスト教は証しと命の示差性に欠けているせいで多くの弱さを抱えていることに、あなたは同意され るのではないでしょうか? 霊的欺瞞やうぬぼれにひたることを神は許される、ということではありません。贖われた民の生活を常に支配しているべき、「自分に は特定の目的があり、そのために取り分けられている」というあの意識を、決して失わないことが重要であるということなのです。

この城壁は麗しいです。それは高くて頑丈です。城壁は神にとって特別な意味を持つものを明確に画します

飾られている

「飾られて(中略)天から出て神から下って来る」。この都は永遠に価値あるものの化身であり、物ではなく民で ある以上、このような状態が可能になるために、民を形造って整えるための何かが起きているにちがいありません。都の城壁が飾られていること、そしてまた、 この都の飾りは花婿にふさわしいと述べられていることに、あなたは気がつくでしょう。城壁は醜い境界ではなく、その土台はあらゆる宝石で飾られています。 この高価な宝石は多くの面にわたるキリストの尊さにほかなりません「ですから信じるあなたたちには尊いものです」(1ペテロ2:7)。キリストご自身の尊さそのものです。

また、花嫁も飾られています。彼女の飾りは、着たり脱いだりできる外面的壮麗さ以上のものです。彼女の美は、 天の花婿の心を喜ばせる諸々の内なる性質から成っています。「王の娘はその内側が全く栄光で満ちている。その衣には黄金が縫い込まれている」(詩篇 45:13)。私たちは霊的な事柄においてですら、外側のものに注意を払いがちです。しかし神の目標は、キリストの愛らしさという純金により美しい内なる 生活を営む民です。キリストは「聖徒たちの内で栄光を受け、信じるすべての者たちの内であがめられる」(2テサロニケ1:10)ために来られるからです。

もしこれらの飾りが天から下って来るなら、それらは最初どうやって天に到着したのでしょう? これらの飾りは、 この地上における神と共なる私たちの歩みの産物です私たちはこの地上で生活しており、しばしば落胆しますが、神の恵みの新たな経験の中に入り、ますます御子について学びます御言葉は、私たちの地上生活と関連して常に何かが起きていることを私たちに教えますそれは私たちの前に先だって行き、私たちがつ いて来るのを待っている宝に相当します私たちの道を主と共に進み続けるとき、天的に価値あるものが将来のために積まれていきます。主イエスは、「自分の ために天に宝を積みなさい」(マタイ6:20)と私たちに言われなかったでしょうか?

ですから一時的な生活がある一方で、彼の都を飾ることになるキリストの特徴という宝が天に積まれつつあります。いわば、私たちの霊的成長、霊的特徴が、私たちに先立っているのです。それらは永遠であり、時間には属しませ ん。このような備えがすべて進行中であり、それゆえ、
「私たちは目には見えないけれども永遠のものに目をとめます」と述べられています。

「花婿のために花嫁として飾られている」。私たちは恵みと謙遜の新しい学課を日毎に学んでいますが、その日、 主がいま私たちの内でなさっていることが現されます。これは私たちに満足を与え、他の人々に喜びを与えますが、第一にキリストの喜びのためです。教会の霊的飾りは、彼の忍耐と苦しむ愛に対する、私たちの花婿-贖い主への褒賞です

この都は天から下ります。すなわち、天に同形化されています。天にふさわしくないので天から追い出されるのではなく、天の宝を神の宇宙の残りの部分にもたらすために下って来ます私たちは地上のすべてのものを、天的な霊的価値によって測らなければなりません。これは私たちを神の尺度である金の葦に連れ戻します。この葦は、神の御旨の光の中ですべてを測ります。神の御旨は、驚嘆する宇宙に御子の偉大さを示すことであり、彼との生ける愛の交わりの中にある教会によります。これが万物の目的です。聖書はここで閉じます。そして、これがキリストにある私たちの使命です。

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