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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

望みがかなうことはいのちの木です

「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」(箴言13:12)

「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」(箴言3:18)

「正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。」(箴言11:30)


新しい出発をせねばならない時が来ている。これまでの形態にさようならを告げて、もっともっと自由に御霊が流れることのできるように、今まで知らず知らずのうちに積み上げてきた囲いを取り払うべき時が来ているのではないか…。

今、私の人生もちょうど個人的変化を迫られており、これまでとは視点を変えて、本当に自分の心の底からの願いとは何なのかを自分で確かめ、それを主の御前に申し上げ、つかみとるように求められている。これまではこのようにしか生きられなかったから、明日も、きっと同じようにしか生きられない、などという固定概念を捨て去り、キリストの与えて下さった自由を真に味わうように求められている。

願いがあるならば、大胆に恵みの御座に願い出て、それを祈り求めるようにと。あなたの本当の願いは何なのか。あなたは自分の心の最も奥底の願いを、正直に主の御前に告げてきただろうか? 今、恵みの御座の前に進み出て、あなたの願いを御前に単純に言い表せ、主はあなたの味方である、ただ信仰によってすべてを祈り求めよ、そして、つかめ!と。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」(ヘブル11:1-4)


自分の思いの中でさえ、まだ色々なことがぼんやりとしているが、それでも、人生が新たに回転し始めたという手ごたえを受けている。母が私の出発を記念して、早速、小包を送ってくれた。多分、母は私の心の深いところにある真剣な求めを感じ取って、それを応援してくれているように思われてならない。私がこれまでとは違い、何かとても重要なもの、大切なものを求めて、自ら立ち上がり、自ら歩き始めようとしているということに、気づいてくれているに違いなかった。

だが、日常生活のことよりも、私の思いはエクレシアに置かれている。神出鬼没、変幻自在、伸縮自在のエクレシア。24時間稼動するエクレシア。主の御名だけが高く掲げられる礼拝。兄弟姉妹とひとつに解け合うことのできる礼拝。一切の個人的な隔てが取り払われたところで、天の御座から流れ下るキリストの命が、よどみなく、絶え間なく、どこまでも溢れ流れていく新しい交わり…。

キリストの復活のいのちの流れる場所。一体、それはどのようにして可能だろうか。ただ祈りを通し、信仰だけを通してすべてを獲得するという姿勢によらずには無理だ。主の御心にかなう礼拝と交わり、一体、神ご自身の他に、誰がそのようなものを提供できるのか。そういったことを思いめぐらしているときに、かつて書いた記事ハドソン・テイラーの信仰を思い出した。信仰によってすべてを願い求めよ、と。

実は、横浜に来る前に私に全く資金がなかったことはすでに記事に書いた通りである。エクレシアに連なりたいと願ったとき、その出発の元手となるものは私には全くなかった。そして、エクレシアに連なりたいというその切なる願いさえも、私の古き自己から出て来たわがままに過ぎないのか、それとも、主の御心にかなった願いなのか、判別がつかなかった。しかし、ただそれだけが、その当時、私の心の願いの全てだった(今もそうなのである)。そして、一歩も退かずに私は自分の願いを主に申し上げた。

その頃、無一文に近い身分でいたときに、莫大な金額の奨学金という借金の証書が送られて来た。返済どころか、自分の生きる方法さえも絶えかけているときのことであった。こんなにも長期間にわたって学費をおさめたのに、学位は何の結果にもつながらなかったのかと思うとむなしかった。その上、キリスト教界のことがあった。もしも私に何か起これば、この借金はきっと返さなくて良くなるとの思いさえ心をよぎった。

だが、まさかそんな解決が主の御心にかなうはずがない。だとすれば、主の御心にかなう方法で、私が人として健全に生きる方法がきっとあるはずなのだ。どうすれば良いのか、何が主の御心に触れる生き方なのだろうか、もうこれ以上、中途半端な生き方はしたくない、健やかに生きるのか、それとも、死ぬのか、そのどちらかにして下さいと、主に切に願い求めたことを覚えている。どうか生きさせて下さい、私を健やかな人として生きさせて下さいと。

主は私の求めに応えて下さった。主は十字架を通して、確かに私の罪の債務証書を完済して下さり、山々を裂くようにして降りて来て、私を死と滅びの縄目から解いて下さり、御子の復活の命を与えて、新たに生かして下さった。私は霊と魂がはっきりと違うものであることを知り、霊のうちで、いのちの御霊の統治を知らされたのだった。

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:20-21)

「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたを愛しておられるからです。」(ヨハネ16:26-27)


何ということか、とにかく一切の説明も理屈もなしで、分かったのだ。御国が到来しており、その只中を私が生きていること、すべてはキリストにあって終わっており、神の子供たちは彼にあって安息に入れられていること、この統治の中にある限り、神の子供たちの必要は、全てイエスの御名によって信仰により願い求めることにより、御座から供給されることを。

しかし、私は個人的な信仰を知っていても、キリストの御身体全体で共有するいのちがあることをまだ知らなかった。御身体で分かち合ういのちが不足したために、また、何度も善悪の路線に戻りそうになったために、欠乏状態に陥ったのである。

「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)と神は言われた。どのくらいの人々が知っているだろうか、エクレシアはただキリストの助け手であるだけでなく、そこに連なる兄弟姉妹自身の助け手でもあるのだと。

エバは悪魔に誘惑されて善悪知識の木を選ぶことによって、自分自身ばかりか、夫アダムをも堕落させた。エバの選択はいのちではなく死をもたらした。しかし、キリストはもう一度、神聖なエバであるエクレシアにチャンスを与えておられる。今度こそ、善悪知識の木ではなく、いのちの木を選べと。エクレシアはキリストの助け手として、死ではなく、いのちを選び取り、自分自身の古いいのちを主に捧げ、キリストの死を打ち破られた復活のいのちにより、主とともに生きるのだ。人類を堕落させるためでなく、まことのいのちによって主とともに生きるために、夫のふさわしい助け手として、いのちを選び取るのだ。

どんなに窮地に立っていたとしても、人はただ自分自身のためだけに生きたいとは願わない。人は自分ひとりだけのために生きることはできない、まして、キリスト者はそうだ。ともに生きて、喜びと苦しみを分かち合い、ともに願いを共有し、ともに結果を分かち合うことのできる仲間がいればこそ、彼らといのちを分かち合うために生きたいと願えるのだ。この世の朽ちゆく肉によって結ばれた絆でさえそれほど賞賛されるならば、まして神が永遠に結んで下さったキリスト者の絆が栄光あるものでないはずがあろうか。私たちは主がお与えくださり、主が永遠に結んでくださる兄弟姉妹とひとつとされており、彼らといのちを分かち合うことなしに、生きていくことはできない。

キリストは教会を愛し、教会のためにその命を捧げられた。今、そのような愛で、兄弟姉妹が結ばれる必要があるのだ。そのようなものを私はまだ一度もこの目で見たことはないが、信仰によって、それを願い求めるべきであることが分かる。なぜなら、それこそ、御父が願っておられることだからだ。そのことは聖書の随所で確かめられる。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:5-10)


あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(ヨハネ15:17)

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