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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか…

ある交わりの中で、月曜日から土曜日までの間にも有志が集まって共に礼拝を捧げることが出来ないだろうかとの提案が出た。緑のビルに、集会を何とかしてもうちょっと増やすことができないだろうか? 実は、これはかねてからの私の願いでもあったため、まるで渡りに船のような提案に、ちょっっぴり驚かされた…。

現在、せっかく自由に礼拝を捧げることのできる場所が与えられているのに、その場所があまり活用されていない。さらに、職場の同僚など御言葉を伝えたい人がいても、いきなりその人を日曜日の礼拝に連れて来ることはちょっと難しいのが現状だ…。

集会という形式がなくても良いのだ。兄弟たちが時間を気にせず思いきり賛美をささげ、人前で話しにくい人でも、気兼ねなく声を出して祈ることができ、メッセージに疑問があれば、その場で疑問を分かち合うことができ、心から互いの重荷を分かち合ってともに祈ることのできるような、アットホームで飾り気のない交わりを、月曜から土曜日までの間に構築することができないだろうか…?

もちろん、これは理想論だから、現実はすぐにこんなわけにはいかない。何か新しいことをしようとするときに、あれやこれやの問題が持ち上がらないことの方がまれだ。だが、戦後の焼け跡で捧げられた礼拝のように、あのホームビデオで撮影された他国の礼拝風景のように、ただ心から、自由に、主を讃えたいという人々が自ずから集まって作り上げられる安息の場所、人は誰も注目されることなく、ただ主だけが自由に誉め讃えられる喜びの場所、24時間フル稼動するエクレシア、そこに何とかして近づけないだろうか…? それは私たちの悲願として、私の心に火をつけてやまない…。

エクレシアは神出鬼没、変幻自在、伸縮自在、だ。場所がどこであれ、主の御名の中に集まる2、3人と共に主はおられる。今、私たちは何か新しい出発を遂げるべきときに来ているのかも知れない…。

何も持たずに、心を希望で燃やしつつ、ただ身一つでエクレシアに向かって旅立ったかつての日と同じように、ただ兄弟たちに会いたいという一心で、遠い距離をものともせずに越えたあの日の心に立ち戻って、私はもう一度、自らの意志で、次の一歩を歩き出したい。正直に言って、今のままでは私は耐えられないほどに寂しい。おいおい泣き出したいほどに寂しい。

エクレシアの活動に、もっともっと自由に積極的に参加することができれば! だが、そのためには視点を少々変えて、今までのように、ただ一方的に誰かに何かを提供してもらおうとするのではなく、自ら願い、祈り、信仰によってすべてを獲得し、積極的に新しいものを作り出していく姿勢が必要ではないかと感じられた。日曜以外にも交わりの機会を増やしていくというのはその有効な手段かも知れない。

いずれにせよ、形式は重要ではない。この暗い時代の最中にあって、エクレシアの燃える炎が十分な明るさに達していないことが、耐えられないほどに寂しいと感じているのは、きっと私だけではないはずだ…。

兄弟たちよ、私はもっともっと主の臨在に自由に触れて、もっともっと主の御姿を子供のように単純に見上げたい、もっともっと主と共に生きるその喜び溢れる幸いを、思い切り享受しながら、安息の内に生きたい。ともに手を携えて、この苦難の多い地上の人生を助け合いながら、歩んでいきたいのだ…。

どうか、主よ、あなたが名もなき2、3人といつもともにいてくださいますように。どうか主がこの小さき者たちの願いを懇ろにかえりみて下さいますように。どうか、主の御心にかなう交わりがこの先、地になりますように。あなたの御名が誉めたたえられますように。

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