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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか、神が義と認めてくださるのです

私たちは自分が贖われたことの絶大な意味を再び考えてみる必要があると思います。

ああ、贖われたということ! この喜ばしい解放宣言をかみしめてみましょう。この贖いは、今私たちの置かれている時空間を貫いて、永遠にまで至るまで効力を発する絶大な威力を持ったものなのです。

もしも自分を肉眼で見るならば、私たちは未だに欠点だらけに映るかも知れません。何と自分たちの姿はみすぼらしいのか、と溜息つかずにいられないかも知れません。たとえ兄弟姉妹が私たちの欠点を指差して笑っても、誰がそれを止められましょう――たとえ訴える者がやって来て、私たちの失敗をあげつらって責めたとしても、誰がそれを止められましょう――そう思って落胆してもおかしくないほどに、私たちは未熟かも知れません。

それにも関わらず、主は私たちをご覧になって、完全に贖われた!と言われるのです。

この贖いを私たちがどの程度信じるのか、どの程度受け取るのかによって、私たちの内面における十字架の働きや、地上における生活のあり方が決まっていくでしょう。残念なことに、贖いを完全なものとして受け取りたくない大勢の人たちがいるのです。私たちは主イエスの贖いの完全さを信じるでしょうか? それとも、自分自身の欠乏を信じるのでしょうか? 自分の姿を鏡に映して、自己憐憫と失意のうちに自分の欠乏がいつまでもなくならないことを願うのでしょうか?

ハレルヤ! 主イエスは私たちにこれらのものを補って余りある命を与えて下さいました。彼自身がよみがえりの命として私たちの内に住んで下さいます。御子が私たちの全ての全てとなられました! 主イエスの与えて下さった絶大かつ完全な贖いを思いましょう! このことを考えるだに、私の心は躍ります。こう叫びたくなるのです。私たちは贖われた集団です、と。私たちは主イエスの尊い血の代価によって、主イエスの尊い命によって買い取られた集団です!

あの御座と子羊の前に立つ白い衣を着た大勢の群衆――彼らの白い衣は子羊の血で洗われていました――彼らは叫ばずにいられなかったのです。
「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

彼らは大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。』」(黙示6:9-10)


救いは、御座にある私たちの神にあり、子羊にある! 贖いは世の基が据えられる前から定められており、この時空間を貫いて、永遠へと至るのです。主イエスの血は、私たちがこれまで犯してきた罪だけでなく、将来においても、この地上で犯すかも知れない全ての罪の負債に対して十分な支払いなのです。

これは決して罪を犯すことの言い訳や奨励として言っているのではありません。主イエスの贖いは、私たちの複数形の罪に対してだけでなく、単数形の罪に対する取り扱いとしても与えられています。単数形の罪の完全な取り扱いには、身体の復活を待たねばなりませんが、キリストの十字架の贖いは、私たちを罪に対して殺すことのできる力を持っているのです。

「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

さあ、少々長いですが、私たちに対する神の贖いの計画がどんなに絶大なものであるか、エペソ書の言葉を読んでみましょう。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、このときのためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」(エペソ1:4-12)


この壮大な御言葉の意味を解説することはしませんが、何という絶大なご計画の中で私たちは選び出されたことでしょう。世界の基が据えられる前から、御心により、ご計画に従って、私たちが贖われることは神によって予め定められていたのです。私たちがキリストにあって御国を受け継ぐ者とされることは、神の御心の中で、永遠のご計画の中で定められていました。それは一切のものがキリストにあって一つに集められ、私たちがキリストにあって、神の栄光を誉めたたえる者となるためです。

私たちが贖われたことは、神に栄光を帰します。ですから、完全な贖い、この福音の良い訪れを受け取ろうではありませんか。「きょう」と言われているこの日に、心を頑なにせず、神が私たちに与えられた贖いを完全なものとして受け取ろうではありませんか。この贖いだけが、御子の血の代価だけが、訴える者に答えうる全てなのです。御子は私たちのために必要な代価をすでに払われたのです!

ですから、私たちは自分の心の中から兄弟たちを訴える思いをことごとく取り除きます。主が血を持って贖われた兄弟たちを告発することが、どれほど恐ろしい行為であるか考えてみましょう、それは神の判決に人が自ら異議を唱えることを意味するのです。そんなことをして無傷で立ちおおせる人はいません。「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」(使徒26:14)

私たちは主イエスの血潮によって、神の愛によって一つのからだとして堅く結び合わされたのです。このキリストの御身体に連なる兄弟たちを罪定めしようとするあらゆる訴えに対して、私たちは御子の血潮の代価を持って、主イエスの完全な贖いを持って答えるのです。これに対して、告発者には答える術はありません。なぜなら、主イエスが兄弟たちを贖うために流された血潮、この完全な代価を覆すことのできる根拠は、天にも地にも全く存在しないからです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:28-39)


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