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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

光の中を歩くならば、私たちは互に交わりを持ち、御子イエスの血が、全ての罪から私たちを清めるのです

「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。

あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(Ⅰペテロ2:1-5)


この一週間、大きな戦いがあった。その戦いとは、身体の外側にある戦いだけでなく、私の心の内側の戦いでもあった。主はある交わりを通して、私の心の中にあるものをあぶりだされ、その中で十字架の下に置き去りにしなければならないものを一つ一つ丹念に示して下さった。

エクレシアに入るためには一つの条件がある。それはエクレシアの敷居をまたぐ前に、生まれながらの私たちは死んでいなければならないということだ。キリストと共なる十字架を通して自分自身に死んで、生まれながらの自分に属するものを焼き尽くされていなければならない。なぜなら、エクレシアはキリストの復活の命が治める場所、アナニヤとサッピラの例を見ても分かるよう に、旧創造、生まれながらの自分自身に属するものは、エクレシアの手前で焼き尽くされていなければならないからだ。

今、オリーブ園ブログに重要な記事が連載されている。そこで示されていることは、サタンの王国も、キリストの王国も、ともに私たちの心の内側にあるということである。

私たちは自分では神に従いたいと告白する。その決心は嘘ではない。だが、主は私たちの心の中には本当に何があるのかを教えて下さる。キリストにあって新しい人とされ、兄弟姉妹を愛し、エクレシアの只中に生きたいと切に願いながらも、それに反する思いがまだ私たちの心の中には気づかずにいくつも残されていることを示して下さる。

神は、私たちの心の中には、神に敵対する思いや、神から独立して自分自身を建て上げようとする気持ちや、兄弟姉妹を告発しようとする思いや、サタンに利するさまざまな思いがあることを 示される。はっきり言うならば、神を憎み、エクレシアを憎み、兄弟姉妹を憎む心さえ、私たちの内にあることを示される。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)とあるように、人の魂の欺きはまことに深いのだ。だが、私たちは自分の心を恐れるのではなく、ただ主に従順でありたい。自分の心の中にあって十字架の御下に捨て去るべきものを主に示されたときに、それを従順に除き去るかどうかが、私たちが本当に光の中にとどまることができるのかを決定していくことだろう。

サタンの王国の根拠も、キリストの王国の根拠も、どちらも私たちの心の中にあり、私たちの心こそ、最も激しい戦場、戦いの最前線なのである。

終末の様相が深まるにつれて、今までは曖昧なまま放置することが許されたような事柄についても、今、厳粛な取り扱いを求められていることを私は感じる。もしもこの取り扱いに同意しないならば、エクレシアの外へ投げ捨てられるということさえ起こるだろうと思う。

私には、ちょうどノアの箱舟の戸が閉ざされたように、エクレシアの戸も閉ざされるときが近づいているように感じられてならない。このようなことを言うと、早速カルトだというお叱りを受けるであろうが、まだ出発の時は来ていないが、その間に、目に見えないふるいわけが進み、キリストの内にとどまることを選んだ人々とそうでない人々との間で霊的な線引きが明確に引かれつつあるように思われてならない。

あの映画マトリックスのように、十字架の死の向こう側にある箱舟(エクレシア)の生活は、ある人たちには至極みすぼらしくて、味気ない、冒険の欠ける、リアリティの薄いものに思われるのだ。虚偽の生活の方がよほど現実感があるように思われるため、箱舟を捨て去って、マトリックスの中に生きることを自ら選んでしまう人もいる。

しかし、恵みの時代には終わりが近づいている。エクソダスの時も今やもう終わり、戸は閉ざされつつある。暗闇に残ることを選んだ人々は未だ無意味な議論に喧々諤々時間を費やしているが、その議論のための時間さえ、もう多くは残されていない。互いに食い合い、かみ合っているうちに滅ぼされてしまうだろう。

悪魔の策略とは、何とかして私たちを箱舟の外へ、兄弟姉妹との光ある交わりの外へ、至聖所の外へと引き出すことにある。私も迷いやすい者であるが、そろそろ、未熟さゆえの右往左往が命取りになりかねないようなときが来たのではないかと感じる。

私にはこれまで、兄弟姉妹や交わりについて、意見が沢山あった。今までは、その中の多くの事柄を実際に言葉にして伝えたり、冗談めかして語ることもできたし、義憤や、失望や、自己憐憫や、悲しみといった形で持ち越すことも出来た。だが、今、それらの魂のさまよいをすべて捨て去らねばならないときが来ているのを感じる。ただ主を信じ、tただ主の主権に服し、ただ愛だけにより、エクレシアに身を投じたい。

これから先、何よりも十字架の下に置き去りにしておかねばならないものの一つが、兄弟たちを告発する思いではないだろうかと私は考える。

「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。」(Ⅰペテロ4:8) とあるように、私たちは愛によって兄弟姉妹の罪をさえおおう者である。私たちは互いに助け合い、赦し合う者であり、決して「われらの兄弟らを訴える者」(黙示12:10)ではない。だが、心せよ! 訴える者は私たちの心の中にもいるのだ。そして、何よりもそのような思いをはぐくむ土壌となるのが自己憐憫なのである。

私たちは命じられている、「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」 

兄弟姉妹への悪意や、偽りや、偽善や、妬みに基づいた無意味な議論に決して身をやつしてはいけない。欠乏があるように思えても自己憐憫に陥ってはいけない。キリストが私たちの全ての全てとなられたのだ。どうして私たちが欠乏の中に置き去りにされることがあるだろう。たとえ箱舟の生活の中にどんな不足があるように見えたとしても、主は生きておられる、神は全ての欠乏を天の余りある供給によって補うことのできる方であり、神がこの箱舟の主権者なのであり、私たちの感情や魂が主人なのではないのだから。

神が血の代価を持って一人ひとりの兄弟姉妹を選んで下さったのに、誰がその兄弟姉妹の価値を否定できようか。もしもエクレシアに働く主の尊い采配を信じることができないならば、私たちは偽りの生活の只中に出て行くことしかできない。

「たしかに、あなたがたの中でほんとうの者が明らかにされるためには、分派もなければなるまい。」(Ⅰコリント11:19)

「彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまってい たであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」(Ⅰヨハネ2:19)


「ほんとうの者」が明らかにされるための試金石は、兄弟を愛するかどうかという点にある。

『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。この戒めを、わたしたちは神から授かっている。」(Ⅰヨハネ4:20-21)

信仰は主との一対一が基本だが、しかし、エクレシアの中で独立した一匹狼でありうる人はいない。私たちは互いに補い合い、役割を果たし合っている一つの身体であり、必要不可欠な肢体だからである。この家の主はキリストであり、キリストがそれぞれの生ける石を自ら切り出されたのであるから、私たちは互いにおまえは要らないと言い合うことのできる関係にはない。もしそのようなことをするならば、私たちは主の主権に逆らってまで、自分を押し通そうとしていることになる。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。」(Ⅰヨハネ3:1)

だから、今、全ての悪意、偽り、偽善、妬み、悪口を捨て去って、キリストの愛の内にとどまろう。互いに愛を熱く保ち、兄弟姉妹の交わりを保とう。何か不足があれば、はばかることなく恵みの御座に進み出て助けを受けよう。不足があるからといって、兄弟たちの告発者になってはいけない。この先、己が魂の命ずるままに歩むのか、それとも、自分の思いを十字架に置いて、ただキリストの主権に服するのか、それが私たちの歩む道を決めるだろう。

「『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。」(Ⅰヨハネ2:9-11)

「神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っている のであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、 御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(Ⅰヨハネ1:5-7)




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