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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父のみこころなのです(2)

ここ数日、記事を書けなかったのですが、それにも関わらず、主は生きておられ、私を呼んで、次々と御業をなして下さっています。私が寝込んでいても、交わりに起こされるほど、主は生き生きと働いて下さっています。ハレルヤ! エクレシアは今日も稼働中です。

「イエスがまだ群集に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言った、『ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます』。イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、『わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか』。

そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、『ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである』。」(マタイ12:46-50)


最近、天の家族はものすごい勢いで拡大しています。肉にある家族がどんなに遠く離れ、その恩恵をこうむることができなくても、次々と、主の愛によって結ばれた私の母や兄弟たちが現れて来るのです。思いの丈を分かち合うことができ、一体どうして私のためにこんなに良いことをして下さるのかと思うような恵みを分かち合うことのできる人を主が起こされるため、驚きに目を見張ります。

このように目の前でリアルに回復され、建て上げられて行く交わりを見、その中に生きることの面白さ、喜びを知らされると、ブログ記事には何と限界があるのだろうかと思わずにいられません。この渦の中に飛び込んで、誰でも、実際にエクレシアを体験してみるべきです!

主と共に24時間エクレシアの中を生きるということを始めてから、私にとってはそれが日々実際となりつつあります。以前には物乞いの衣装を着て、ひがな門にすわり、あてどもなく日を過ごしていたような者に、主は王族の衣装、祭司の衣装を着せて、自ら仕事を与えておられます。私には感じられます、これからの日は、これまでの日と同じようではないと。

私は一つのことを主に願いました。それはこれから先、いのちのある限り、主と共に生き、主の愛の素晴らしさを知ること。至聖所に生きて主の愛の深さ、広さ、高さを実際に知ること。まずは主イエスの懐に飛び込んで、その愛に思い切り甘えさせてもらい、その愛の深さを知りたいと願うのです。しかし、このことと、主のために最後までいのちをお捧げすることは、不思議なことに、私の中では何ら対立しないのです。いや、両者は同じことなのです。

自己を否んで十字架を負うとは、主が私たちのために用意して下さった喜びや楽しみを全て捨て去り、自分の願望さえも捨て去り、自分の個性までも捨て去って、貧しく、つらい人生を送ることを意味するのではありません。これはただ、キリストにあって私たちの自己が霊的に死に、キリストの復活の命という全く異なる原動力によって新しく生かされ、健全に生きることを意味します。つまり、自己がなくなるのではなく、自己が健全にされる必要があるのです。私たちの自己が主と共なる死によって罪から解放され、そして、神に対して生きる必要があるのです。それができるのは、キリストの十字架の死と復活の命だけです。

さて、礼拝を通しても感じさせられることは、今、取り扱われているのは私の生来の気質であり、また、これまで私の思考の中に形造られてきた常識であり、固定概念ではないかということです。私たちが十字架の下に置かなければならないものの実に多くのものは、私たちがネガティヴなものだと自覚しているものよりも、大抵、私たちが自分では良いものだと思い込んで、手放さないでいるものではないかと思います。

その「良いものの」の最たるものが宗教的固定概念なのです。実に多くの思想が人間の恐れから発生しています。神の愛を知るに当たり、実に大きな妨げとなっているのが、その恐れによって造られた固定概念や思考なのです。知らず知らずのうちに私の中に造られている常識や固定概念が、どれほど神の愛を率直に受ける妨げになっているのかということを思います。ただし、主は私たちに急激な変化を要求したり、全ての疑いを一挙に捨て去るように要求したりはせず、少しずつ、しかも、私たちが自分で納得し、理解できる形で導いてくださいます。

たとえば、様々な偽りの聖会の熱狂を見て来た私には、感覚的な熱狂を強く警戒する思いがあります。悪魔は人間の感覚に働きかけて外側から人を誘惑するということを知っているだけに、一種の禁欲主義的な思考にとらわれて、恵みとして与えられた感覚的な働きかけまでも含めて、一切合財を拒絶してしまうことがあります。また、人間には本能的に統一的な跪拝の対象を求める心があり、それがやがて反キリストへの集団的礼拝へとつながっていくのだとの警告を何度も聞かされて来たことから、集団的な礼拝そのものへ警戒心を抱いて拒絶することもあります。

しかし、こうした思考を全て脇において、ただ御座にいる子羊が崇められるべきことを考えるとき、どんなに大きな喜びが私たちを捕えるでしょう。疑いは去り、ただ主の御名だけが、全ての造られた者の名にまさって高く掲げられる日が来ることを私たちは願いつつ、やはり大声で叫ばずにいられません。

「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」(黙示5:11)
「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」(黙示5:13)


ああ、子羊への賛美は私たちの喜びであり、力です。私たちは御名をもって呼ばれる民です。私たちの主に栄光を帰すことこそ、私たちの力なのです。ですから、疑いやためらいを捨てて、大声で叫ぼうではありませんか、イエスは主であると!

さらに、主がこのところ、沢山の兄弟姉妹を通して私に語りかけておられるのは、「求めなさい。そうすれば与えられるでしょう。恐れずに、主の恵みを大胆に受け取り、豊かになりなさい。敵の妨害を恐れずに、大胆に証の言葉を語り出しなさい。沈黙して、おとなしくしていようなどと考えてはいけません。恐れずに、エクレシアの中であなたの役割を大胆に果たしない!」ということなのです。

私たちの世代は、これまで世においては、概して自分の役割や自己主張の機会を奪われて来ました。何か自分の役割を世で果たそうとすると、必ず大きな妨害が起こって、打ちのめされ、健全な意味での自己の確立さえできないで来たのです。ちょうど私たちの親に当たる世代が、子供に当たる私たちの世代を力づくで抑え込んで来たと言っても良いのです。父と子との世代の間に重いくびきが置かれ、さらに孫の世代までも未来を奪われるような、悲しい現実が私たちの目の前にあります。

しかし、キリスト者の間では、明らかに今、状況は変わりつつあります。みなし子、やもめの保護者である主は、寄る辺なき私たちの叫びをも聞き届けて下さり、このむなしい闘争を終わらせ、父と子の両者に十字架の和解をもたらし、そして、子供たちを生き延びさせ、孫の世代も守るべく、手を打って下さっています。いや、私はそれをすでに見ているのです。

思い出しましょう、主はどのような方であると聖書に書いてありますか? 「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出エジプト20:5-6) 

恵みは千代まで! 孫の世代まで守られることなど、当然ではありませんか。さらに、「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。」(イザヤ40:11)

と言われているように、主自らが私たちを懐に抱いて育てて下さいます。そして、私のためにも、天の無尽蔵の宝の中から、天にあっての父母、兄弟姉妹を選び出して下さり、この天の家族の中で生きるようにと私を召し出して下さっているのです。何と素晴らしいことでしょうか。天の家族が与えられているとは!

これから先、私たちはキリストにあって、私たちのために御国に備えられている無尽蔵の宝を味わって生きねばなりません。(そうでなければ生きられなくなるでしょう。)きっとまだしばらくの間は、「何事にも急ぎすぎる」習慣は消えないでしょうが、私たちは「キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示す」(エペソ2:7)民とされたのです。神がキリストにあって私たちのために天に用意して下さった宝の大きさを知るならば、私たち人知によって造り出された物乞いの衣装など喜んで捨て去り、主が着せて下さる王族の衣装を着ることを喜ぶに違いありません。

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント2:9)

「主はわたしに言われた、『おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の造る器物のように彼らを打ち砕くであろう』と。」(詩篇2:7-9)

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。」(エペソ1:17-21)


どうか主が私たちの霊の目を開いて下さり、私たちがキリスト・イエスにあって受け継いだ天の栄光ある御国がいかに富んだものであるかを知らせて下さいますように! 私たちがこの御国の中を、キリストの統治の中を実際に生きることができますように!

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