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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父のみこころなのです(1)

「この王国の福音は、すべての諸国民に証しするために、全世界に宣べ伝えられます。それから終わりが来ます」(マタイ24:14)。

私たちは自分の宣べ伝えている福音の本質が何であるか、そのはかりしれない偉大な力をもっと知る必要があるのではないでしょうか。先にオースチンスパークスの言葉を引用しながら、福音とは良い知らせであると記事の中に書きました。何の良い知らせでしょうか? それは御子の十字架の死と復活を通して、御霊によって、天の御国が到来し、神の国、キリストの主権的統治が私たちの只中にまさに到来したというニュースです。

さあ、暗闇の世の主権者の支配は終わりが近づき、御子キリストの光なる統治が確立する時が近づいています、それを告げ知らせる良いニュースを私たちは聞いて信じたのです。

私たちは、自分たちが告げ知らせている福 音とは、単に罪人に対する赦し以上のものであることを見る必要があります。それは御子の圧倒的な力のある統治なのです。キリストの栄光ある統治なので す! パウロが「神の国は言葉ではなく、力である。」(Ⅰコリント4:20)と言ったことを思い出しましょう、力がなくてどうして統治が成り立ちましょう か、神の国とは死を打ち破られた方の圧倒的な力を伴う霊的支配力です。天の王国は義なる方が王の王として統べ治めている霊的な領域なのです。

(ところで、天の王国、神の国、御国、これらは全て異なる定義を持っているとする説がありますが、それぞれの定義の細かい差異についてここで論じることはしません。機会があれば別の項目で語ることにします。)

御子はやがて再び来られます。その時には栄光を帯びて、天と地にある全ての ものの主権者として、王の王として来られます。「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい。」(黙示5:12)。私たちは次のような光景が実際となる時へと近づいています。

「…わたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、『御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように』。」(黙示5:13)

これが来るべきキリストの統治です。神の国は今、キリスト者一人ひとりの内側にありますが、それはやがて千年王国、新天新地へと至る、キリストの統治への序曲です。やがて天地万物一切について御子が完全な主権を取られる日が来ます、暗闇の主権者による不法占拠、横領と強奪は終わり、一切が神へと帰され、神がすべての者の中ですべてとなられる日が来るのです。「…万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:28) その日に向けて、私たちはこの壮大なドラマに立ち会い、激しい戦いの中に置かれているのです。

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)

私たちはかつては闇の主権者の支配下にあって、自らの罪のゆえに奴隷とされて死の恐怖に脅かされていましたが、今や、愛する御子の支配下に移され、天の王国の住人となりました。これは天的な王国であり、神の正しい統治の行われるところです。そこでは心の貧しい者も、安息を得、悲しんでいる者も慰めを受け、義に飢え渇いて来た者も神の公義を見て満足するのです。これが御霊による統治の実際です。私たちはその只中に置かれています。私たちはまことの命なる方によって安息を得ました。

しかし、天の王国はそれだけでは終わりません。それは罪人が救いを得、私たちが死の恐怖から解放されて、個人的な安息を得るだけにはとどまらないのです。それは壮大なドラマのほんの一部です。というよりも、肢体としての個人の内面で起こっていることは、からだ全体(人類)で起こっていることに相応するのです。ちょうど悔い改めて神に立ち返った一人のキリスト者の内で、暗闇の王国の支配が駆逐され、キリストの光の統治が確立するように、やがて、すべての造られたものにおいて、サタンの暗闇の軍勢の支配が駆逐され、キリストが完全な主権を取られる日が来ます。その時まで天の王国は激しい戦いの中で拡大しているのです。

主イエスは最初に地上に来られた時、ご自分の完全な統治が近づいていることを指し示して人々に言われました、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイ4:17)と。これは断じて死後の慰めの話などではありません。主イエスが示されたのは、御子を通して、死の力を持つ者、悪魔、この世、肉は打ち破られており、キリストが主権を持って統べ治める王国が私たちの只中に来ており、やがてその霊的な統治が拡大して、死ぬべき全てのものを飲みつくし、御子が全ての全てとなられる時が来るということです。バプテスマのヨハネも、主のために道を整えてこう語りました、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)

これは天の王国というものが、神にとってどれほど重要な関心事であるかを示している出来事です。ですから、私たちも単に罪人の悔い改めという地点で満足して終わらないようにしなければなりません。キリストの御霊の統治というものに、実際に心を向ける必要があるのです。

神のご計画における天国のはかりしれない重要性に気づいた人たちは、良い真珠のために持ち物の全てを売り払ったあの商人(マタイ13:45-46)のように、すべてを捨ててこの王国の福音に飛びつき、天国を激しく襲ったのです。そこで、主イエスは言われました、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12)

そうです、このような激しい熱意を持って、私たちは神の国の統治を実際に生きて知るべきなのです。地上における全ての欠乏は、そのための信仰的な入口に過ぎないと知るべきなのです。この荒廃に向かいつつある世において、天における御霊の正しい統治を、主がこの地にも引き下ろして下さるように、私たちは御手から奪い取るようにして、執拗に、熱心に願い求めるべきなのです。他の全ての関心事を脇においてでも、この天の王国の支配を実際に知らせていただくことを神に求めるべきなのです。なぜなら、神の関心がそこに置かれているからです。

だからこそ、主は次のように言われました、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33) 神の国とはキリストの統治であるばかりか、キリストご自身です。私たちがキリストの心を無にしながら、どうして神の御旨に従うことなどできるでしょう。

しかし、これと正反対の態度を取ったのが、主イエスが神の国の晩餐会のたとえ話の中で語られた人々でした。多くの人が神の国での盛大な晩餐会に招かれたのですが、人々の心はその他のものに奪われていたので、自分が招かれた宴会の絶大な価値を理解できなかったのです。「わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません」、「わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです」、「わたしは妻をめとりましたので、参ることができません」(ルカ14:15-35)

このような人々が神のご計画の外へ打ち捨てられ、滅ぼされさえすることは、次の御言葉にはっきりと書かれている通りです、それは彼らが神の御心を損ない、無にしたからです、

「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう。」(ルカ17:26-30)


御子は世を救うために世に来られましたが、この時代(世代)の人々は、キリストを拒み、キリストを捨てました。やがて来臨の時にも、この時代の人々の関心は別のものに奪われ、やはり同様なことが起こるだろうと主は言われたのです。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)。

前述のルカ第14章のたとえ話では、この世へのこだわりが、私たちに神の御心を損なわせてしまう危険を十分に持つことが示されています。主はこのことを指して、「招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもいないであろう」(ルカ11:24)とまで言い切られたのです。(これが私たちには一切無関係な警告だとは思わない方が良いでしょう。)

そして、神の国に入るために何が必要であるかについて、主は言われました(これは救いそのもののことではなく、私たちが御国で受ける報いのことを指していると考えられます)、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。…あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」」(ルカ14:25-33)

以上の記述は、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」(マルコ10:23)という主イエスの言葉や、天国という良い真珠を買うために、全財産を売り払った商人のたとえとも共通しています。「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(マタイ13:45-46) 

主イエスはこれらのことを通して、私たちが神の国に入るために「財産」が大いなる妨げになることがありうることを示されました。しかし、これは単に全財産を私たちが形式的に投げ打てば良いというような単純な話ではありません。「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ12:34)と言われているように、この「財産」とは、私たちの宝、私たちの心です。つまり、目に見える財産のみならず、私たちの関心そのもののことをも指しているのです。ですから、最も肝心な問題は、私たちの(魂の)愛が何に捧げられているのか、私たちの心がどこに向けられているのか、私たちの心がどれくらい神の御心と一致しているかということなのです。つまり、私たちの心こそ戦場なのであり、最も激しい戦いは、私たちの心の中から始まるのだと言えましょう。

もしも地上の財産が私たちの宝であるとするならば、私たちの心は地上の財産に縛りつけられて、神の国に招かれながら、そこに出席を拒んだ人々のようになってしまいかねません。もしも自分の生まれながらの家族への愛や、娶ったり、嫁いだり、飲食したり、植えたり、建てたり、商売することが最大の関心事だったとしても、やはり、御心を損なってしまうでしょう。しかし、地上の宝が存在するように、天の宝もあるのです。そして、主は言っておられるのです、天に朽ちない宝を蓄えるために、天の王国に投資し、天に財産を築きなさい、と。その投資分は決して無駄になることはない、と。

「ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。

自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」(ルカ1228-34)


これも単なる形式的な、あるいは、やみくもな慈善や喜捨の勧めではありません。これは御霊の導きに従って、御霊の統治の中で、天にあなたの心と財産を捧げなさいという意味なのです。私たちは天に投資するためには、天とは何か、また天的な法則性とは何かを知る必要があります、つまり、いのちの御霊の法則を知る必要があります。それは御霊によらなければなりません。すべては神の御旨に従って行われる必要があります。とにかくも、この御言葉は、私たちが自分の心の関心を地上の思い煩いから引き離し、私たちの心をまず神の国のために捧げ、私たちの地上の財産を、時間も、労力も、金銭も、その他全てのものも、地上の朽ちゆくものを捕らえるためにむなしく使い果たすのではなく、朽ちない天に向かって投資せよ、そうすればそれがどんなに豊かな報いで報いられるかを私たちは実際に知り、御国に働く法則がどんなものであるかを知るだろう、ということを現しているのです。ですから、御国を求めようではありませんか!

恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである!


(2012.2.25)
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