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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主にあってその偉大な力によって強くなりなさい!(1)

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)


今日も快晴である。窓からいっぱいに差し込んでくる太陽の光は、いつもまことの太陽である方を私に思い起こさせる。私は古い生活を後にして、主が与えて下さる新しい生活へ向かって歩き出す。私の心のすべてを主に注ぎ出し、この愛にのみ生きるために…。

まだ疲れや不安がないと言っては嘘になる。しかし、この方への愛が私を満たすとき、不思議な感動が生まれ、自然と、歌がこみあげて来る。目に見える何者に頼るのでもない。この世の体系が私を生かすのでもない。私を愛する子供として愛し、生かして下さるのは主である! この方以外に頼るべき岩はない。

我が愛する主、私の真実な保護者、私を花嫁として迎えて下さるまことの夫、必要の全ての供給者、あなたこそ讃えられるべき方、私はあなたへの賛美を歌います…。

我が主への愛を告白する時、心は切ないほどの甘さと感動に満ちる。たとえ自分を取り巻く状況がどのようなものであれ、この地には、ただ主と、私とがいるきりだ。まことの岩なる方、私の高きやぐらよ、私はいつまでもあなたと共にいたいのです。私の心をあなたに捧げ切りたいのです。私のすべてをあなたに捧げたいのです。

ですから、私の思いにどうか応えて、私の心を受け取って下さい。天の御座より降りて来て下さり、あなたの復活の素晴らしさを私に知らせて下さり、あなたと共に生きることの素晴らしさを知らせて下さい…。

ある兄弟が、私がかつてとても困難な状況に置かれていたときに、重要なアドバイスをくれた。それは神の胸ぐらをつかんで一歩も退かないくらいの覚悟で、天に直談判せよということであった。全ての理不尽を神ご自身に向かって訴え、御座に向かって大声で呼ばわり、直接、神ご自身から助けを受けるまで、退かないようにと。神の十字架の判決を地に引き下ろして下さるよう呼び求め、全ての供給をこうして信仰によって、御霊によって天から受けるようにと。

その当時、私はそれを聞いて、一人で店に行き、ノートに何ページにもわたるこの世の理不尽に対する苦情を書き連ねて、主に向かって叫んだ。私の目にした全ての不当な事柄の上に、神の裁きが実際として下されるように、神の公正と正義がこの地に実現し、キリストが打ち立てられた永遠の十字架が、私の人生に実際となり、私の内なる霊に十字架が明確に啓示されるようにと。そして、主は確かにそれに応えて下さったのである。

実際のところ、キリストの十字架をより深く知ること、キリストの十字架の御業がよりはっきりとこの地に現されること、サタンと暗闇の軍勢が敗北し、キリストの主権がこの地に打ち立てられること、神の子供たちが地上で帯びている使命の中でそれ以上に重要なものはない。だから、暗闇の軍勢よ、恐れるがいい。神はこのような小さき者たち、みどり子、乳飲み子たちの信仰を通して、それを現されようと願っておられるのだから…。サタンに対する判決はすでにカルバリで下されているのだから…。

しかし、この戦いを戦い抜くためには、私たちの側にも相当な覚悟がなくてはならない。主よ、私はためらいを捨てて言うのです、あなたを愛するために支払わねばならない代価に同意しますと。私は十字架において自分の魂の命を拒むことに同意します。死に至るまで自分の魂の命を惜しまずに、子羊の血潮と、証の言葉に立って戦います。ですから、どうか主よ、あなたの十字架における判決を実際として地に引き下ろして下さい、迫り来る悪の軍勢に立ち向かい、御座の統治を実際とするために私たちに必要な知恵と力とを下さい…。

「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。
 心おののく者に言え、
 『強くあれ、恐れてはならない。
 見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
 神の報いをもってこられる。
 神は来て、あなたがたを救われる』と。

 その時、見えない人の目は開かれ、
 聞えない人の耳は聞えるようになる。
 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
 口のきけない人の舌は喜び歌う。
 それは荒野に水がわきいで、
 さばくに川が流れるからである。
 焼けた砂は池となり、
 かわいた地は水の源となり、
 山犬の伏したすみかは、
 葦、よしの茂りあう所となる。」(イザヤ35:3-7)


オースチンスパークス(オリーブ園ブログ)は書いている、クリスチャンにとって最も肝心要となる問題とは、「…神の王国すなわちイエス・キリストによる神の大能の主権の影響を、この地上の王たちや支配者 たちの上に及ぼすことであり、さらにそれ以上の影響を主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、天上にいる悪の霊の軍勢の上に及ぼすことです。」と。

私たちは次から次へとこの世と暗闇の軍勢からやって来る問題にひしがれそうになる時があるかも知れない、しかし、「神は、この民の間にいる私たちを、ある地点に連れて行こうとしておられるのです。その地点に私たちが到る時、私たちはこの霊の領域で今より遙かに値打 ちのある者となり、この世の体系の背後にいる悪の軍勢は私たちのことを考慮せざるをえなくなります。この経綸時代、神にとってどれだけ価値があるかは、こ れによって決まります。」

「これは救いとは別の問題です。あなたが神に対してどれだけ価値ある者と なるかは、これによって決まります――神に敵対するこの宇宙のこの霊の軍勢の領域で、あなたは神に対していかなる価値があるのでしょう? 悪魔はあなたのこ とをどれだけ考慮しているのでしょう? あなたは悪魔の王国に対してどれだけ脅威となっているのでしょう? 

あなたがどれだけ多くの奉仕や集会に参加している か、どれだけ多くのメッセージを与えているか、どれだけ多くの活動をしているかは問題ではありません。こうしたキリスト教の種々の活動はすべて問題ではあ りません。この暗闇の悪の王国に対して、あなたがどれだけ多く衝撃を与えているかが問題なのです。まさにこれによって、神に対するあなたの価値が決まりま す。

ですから、悪魔があなたを散々な目にあわせて、あなたを要注意人物と見なしていることをあなたに知らしめる時、むしろ慰めを覚えて下さい。それは、あ なたが神にとって価値ある者であることを示しているのです。しかし、私たちは常にこれを覚えているわけではありません。私たちが悪魔の手の下でひどく惨め な時を過ごして打ちひしがれる時、私たちは「悪魔は何と恐ろしい邪悪な者なのだろう」と思って、その思いで一杯になってしまいます。そして――これは謙遜 の一種なのかもしれませんが――結局のところ、自分は何かしら重要な存在であることを忘れてしまうのです。

この経綸時代、神に対する物事の価値はこれに よって決まります。大事なのは、どれだけ多くの組織をあなたが設立できるかではありませんし、この地上でどれだけ大きな組織を造り上げることができるかで もありません。この一時的な領域にあるいかなるものも重要ではないのです。大事なのは、神の王国に敵対しているこの王国に対して、全体でどれだけ脅威を与 えているかということなのです。これが私たちが真剣に直面すべき課題です。」

 

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