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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしたちはこの安息に入るように努力しようではないか

愛するということは、愛する対象のために心の全てを捧げ尽くすということだ。主を愛するということは、主のために全てを捧げつくすことを意味する。何もかも手放して、ただ神への愛にのみ生きること…。この愛を、まず私たちに先立って、主ご自身が実践された。キリストは十字架において私たちへの愛のために、ご自分の魂を注ぎ出され、命を捨てられたのだ。

ある人は学問に身を捧げ、ある人は音楽に身を捧げ、ある人は人を愛することに身を捧げるだろう。しかし、私たちが自分を捧げる相手は神ご自身であり、キリストである。私たちは全てをキリストの御名のゆえになし、キリストのために生き、キリストのために死ぬ。キリストが私たちのために命を捨てられたのだから、私たちもキリストのために全てを捧げるのはごく自然なことだ。

しかし、改めてそのことの意味を思いながら、私はその敷居の前でまだ色々と思いめぐらしている。これは本当に大きな決断だ…。

私の心にエクレシアのために24時間を捧げたいという思いが生まれ、このところ、それがますます強まっている。ある人は御言葉を学ぶために24時間を捧げたいと願い、ある人は神に仕え、また伝道するために24時間を捧げたいと願うだろう。しかし、私は、ただ神と共に生きるために、24時間を捧げたいと言わずにいられない。

「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」(ヘブル4:9-11)

最近になって、もうこれ以上、こんな暮らしを続けていてはいけないという切迫した思いが、私の心に到来するようになった。この生活はあまりにも不当な取引、もしくは罠のようなものであって、神と共に生きることは、こんな生き方を意味するのではないと思わずにいられなかった。

だが、一体、他にどういう生き方があるというのだろうか…? そう思って色々と思いめぐらしていたとき、以下の記事にも記した姉妹が、全てを手放して、ただ御言葉を学ぶために神学校へ行った時のことを語ってくれた(神学校では何も学べなかったそうだが、主は彼女の心をちゃんと受け止めて全てを備えて下さったのだ…)。彼女は何の恐れもためらいもなく、ただ全ての重荷を降ろすようにと私に言ってくれた。

今までの私は、エクレシアという天の快適なリビングルームが用意されたことをただ単純に喜んでいた。いつでも天のリビングルームがあって、私を迎えてくれる神の家族である兄弟姉妹がいることが嬉しくてならず、疲れを覚える度にそこへ出かけては休みを得ていた。

だが、ある日、私は不意に尋ねられたのだ、あなたはなぜいつも疲れ切っているのかと。それに、いつも自分の用事ばかりリビングルームに持ち込んでいるのはなぜなのかと。リビングルームはそもそも一家の団欒のためにあるのに、あなたはそれを事務所に変えようとしていると。

しかも、最も嘆かわしいことは、リビングルームは24時間、解放されているのに、あなたの方ではほんのわずかな時間しか、そこへ来ようともしないことだ。いつもあなたのために特別に用意された団欒があるというのに、他でもないあなたのための宴が設けられているというのに、あなた自身がそれを拒んでいるのだ。これでは一体、どうやってあなたを祝福できようか? それなのにあなたは私の恵みが足りないと言っては駄々をこねている。あなたは私の心を無にしているばかりか、あなたを迎えようとしている全ての兄弟姉妹の心をも無にしているのだ。そんなことでは、何も生まれはしないばかりか、いつかあなたは神の家族の一家団欒から叩き出されるだろう。

それを聞いて、鳩が豆鉄砲を食らったように私は立ち止まった。まさか、こんなにも一生懸命に生きてきたのに、なぜ私が責められなければならないのか? 重荷に次ぐ重荷、課題に次ぐ課題、誰がそれを与えたというのか? 意図せずして降りかかった苦難の全てに、私は勇敢に立ち向かって来たではないか? それは何のためであったのか? 私たちの世代がどんなに多くの困難に直面して来たか、どれほどの苦労を重ねて生きてきたか…。

…しかし、そうした言い訳は自分でも馬鹿らしく、みっともなく思えたので、とにかく全てを脇に置いて、私は主に叫んだ、すべてはあなたのおっしゃる通りです、本当にこんなことはもう沢山ですと。

生きるということを名目にして交わされる数え切れない不当な取引。一つの不当な要求を受け入れると、次から次へと押し寄せて来る要求の数々。いつの間にか、それにがんじがらめにされ、極度に圧迫される私の自由。そんな風にして成り立っているこの世の体系には希望がなく、それについて言えることは次の言葉だけだ。

「見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。」(ヤコブ5:4)

「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。」(黙示18:4) 

もしも今、あなたの望みは何なのかと主に問われるなら、あなたと共に生きることですと私は切に答えたい。主が安息の中に私を入れたいと願っておられるのと同じように、私の望みも、主と共に安息することにある。神の臨在の中で、神と共に生き、神の安息のうちに休むこと。この安息をどんなに私は待ち焦がれ、慕い、待ち望んで来ただろう…。私をいつでも休ませて下さろうとする主の柔和でへりくだった御心があることを信じなければいけない。主はこう約束して下さったのだから。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

さて、話が変わるようだが、私はアベルの礼拝についても考えてみないわけにいかなかった。(創世記4:2-8)

アベルは自分の所有している群れの中から、最良のもの(羊の初子、最も肥えたもの)を選んで神に捧げた。ところが、日常生活の中で、私が神に捧げているものとは、一体、何だったのだろうか。私は自分の魂の最良の部分を何に一番、傾けて来ただろうか。私の最も尊い愛は何に捧げられていたのだろうか。また、私は心の真実な叫びを主の御前に率直に持っていっていただろうか。

私は心のほとんどの部分を、神ではなく何か他のもののために捧げ尽くした挙句、残る最もどうでも良い部分を神に捧げているのではないかと思わずにいられなかった。

「あなたがたは自分のために、虫が食い、錆がつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:1-2)


さらに、私たちはアベルがただ自分の持っている最良のものを神に捧げて、神に受け入れられたことを見るだけでなく、その尊い礼拝の続きとして、彼が自分の命を捨てることになったという経緯も忘れることはできない。

神に受け入れられ、主の臨在の中に引き入れられ、恵みを受けることは、私たちクリスチャンに与えられたとてつもない特権である。私たちは不従順な民であったのに、キリストのゆえに神に選ばれて、祭司とされた。「あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。」(Ⅰペテロ2:9)

祭司とは神のために選び分かたれ、区別された民であり、私たちは主イエスの新しい契約の血によって古い人類から分かたれた。しかし、旧創造から分かたれ、新創造として聖別されたゆえに、もはや旧創造に後戻りする道は絶たれているばかりか、旧創造全体からの激しい憎しみの前に立たされている。主イエスは言われた、「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22) と。

このことは旧創造と新創造との間にある神の御前での峻厳な区別を物語っているだけでなく、私たちのすべてを求められる神の愛の激しさ、深さをもよく物語っているのではないかと私は思う。

私たちは神に愛されることばかりを歓迎するが、神を愛するために自分に求められている代価については、あまりよく考えてみない。「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:26-27)

「…あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:33)


神 は私たちを旧創造に属する全てのものから引き離し、私たち自身から旧創造の痕跡を十字架の働きにより除き去り、私たちのすべてをご自分のために所有したいと願っておられる。神の民に対するカイン(旧創造)による嫉妬も憎悪も、神自らがアベルを旧創造から分かたれたことを意味するだけでなく、神がご自分のためにアベルのすべてを得ようとしておられることを意味する。アベルの死は、アベルがその命をことごとく神のために捧げきることを、神ご自身が欲してお られたことを物語っていると同時に、キリスト(アベルはその型である)の十字架を通して旧創造(カイン)を滅びから救い出し、新創造のいのちへと至らせたいと願っておられる神の愛をも示している。

「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」(ヨハネ10:17-18)

今はまだ上手く言葉にできないものの、ここに私への非常に深い主からの語りかけがあるように感じられてならない。キリストは鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘づけられ、血を流された。他方、私たちは無傷である。私たちが負うべき十字架の刑罰を御子に負わせたことは神の御心であり、仮に私たちが人類の救済のためにどれほど血を流したところで、それは少しも贖いにはならない。

しかし、それとは別の文脈で、御言葉は、神が私たちからはっきりと代価をお求めになっておられることを示している。それは、キリストが神の御旨のためにご自分の命を捨てられたように、私たちも御旨のために自分の命をことごとく捧げきることを、神が欲しておられることを示している。

別の言い方をするならば、神は私たちの心のすべてを得ようとしておられる。だが、私たちは本当に、私たちのすべてを求めておられる神の排他的な愛に応答する用意が出来ているだろうか…? 神の妬む愛の深さ激しさを思ってみたことがあるだろうか? また、神のご計画のために十字架でご自分の命を捨てられたキリストにならう準備が出来ているだろうか…?

主よ、それが私にとって何を意味しているのかはまだ分かりません。けれども、申し上げたいのです、私が願うことは、生きるにも死ぬにも、あなたと共にあること、あなたのために生き、あなたのために死ぬことなのです…。

それはとてつもない生き方のように見えるかも知れません、けれども、私の望みはただ一つそこにしかないのです。私は信じています、そこにこそ、私の安息があり、私のすべてがあるのだと。あなたの満足の中にこそ、私のすべてがあるのです。あなた自身が言われました、あなたのくびきは軽く、あなたの荷は負いやすいと。ですから、どうかその意味を私に知らせて下さい…。


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