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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしの生きるかぎり

今晩、ある姉妹との思いがけない素晴らしい交わりがあった。

ここのところ、ちょうど研究室に閉じこもって実験を続けている博士のように、私は仕事に没頭していた。おかげさまで作業はかなり順調にはかどり、困難なところはすでに通りすぎた。だが、それにしても、最後の総仕上げがまだ足りない。どのようなシナリオでこれを完成させるか、ストーリーの全貌がまだ見えないのだ…。

パウロは言った、「…わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」(Ⅰコリント9:26)と。

空を打つような拳闘はしないというこの言葉の意味は何か。それは必ずや、天に朽ちない収穫がもたらされるような形で、私たちは種を蒔くべきという意味だ。エクレシアの経済という言葉を以前の記事で私は使ったが、いのちの御霊の法則とは、天に必ずや収穫をもたらす法則性のことである。「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」(マタイ13:23)

聖書は言う、「まちがってはいけない。神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取ることになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラテヤ6:7-10)

この善を行うということは、私たちが自分で良かれと思ったことを行うことではなく、御旨に沿って行動することだ。御霊の統治の中では、霊にまいたものは永遠に残るいのちの実を結び、蒔かれた種が少ない場合でも三十倍、多い時には百倍になる。だが、天に収穫をもたらすためには、「聞く耳のある者は聞くがよい」(ルカ8:8)――耳がなくてはならない。真理の御霊の教えに聞く耳がなくてはいけない。御霊の知恵が必要である。その知恵なくして私たちに何ができよう。

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

そこで、私は思いめぐらしている、主よ、知恵を下さい、私にはまだ分からないからです、なぜ主があえてこの課題を私に与えられたのか、これは今の邪悪な時代にあって何を意味するのか、私がどのような態度でそれに解決を示すことがあなたの望みなのか…。どのようにすれば全てがあなたの栄光となるのでしょう? 私は何をしたら良いでしょう?

そのようにして、今後について思案しているとき、主は本当に素晴らしい方なのだが、この忘れられた研究室にも、密やかに、溢れるほどの愛のプレゼントを届けて下さる。それも、私と同じような閉じ込めの中にいる方から。

エクレシアの交わりが、最近、だんだんひめやかな愛の語らいのようになって来ているので、それを公の場に記すことはためらわれる。私はただその溢れる喜びの余韻を書き留めるだけである。ああ、主は何とユーモラスでチャーミングな方だろう。何と不思議な方法で、必要を感じる人々の声を聞いて、ご自分の羊たちのもとを日々訪れられるのだろう。

偽善とプライドに塗り固められて、もはや本音も見えなくなった人々との交わりに比べ、兄弟姉妹の口を通して、隠し立ても、取り繕いもない率直な言葉を聞かされるとき、どれほど喜びが私の心に満ちるだろう! 真実のない交わりはただ人を疲れさせるだけだが、真実のある交わりがもたらすいのちの喜びの大きさよ! 主の愛が互いの間を駆け巡るので、双方がもらい泣き(?)している始末…。

ああ、主はこんなにも、私に天の贈り物を届けずにいられないようなのだ。こんなにも私を愛する人たちを起こして下さらないわけにいかないようなのだ。しかも、その人々をあえてきらびやかな場所から隠し、誤解されるような、蔑まれるような、地味で、注目の集まらない場所にそっと導かれ、そこでこっそりと出会わせて下さる采配の不思議さ、見事さよ…。

主がご自分のために脇に取っておかれた人々が、ただキリストのいのちだけによって、どんな垣根をも越えて、一つに結び合わされる瞬間を私は見せられている。御霊が私たちの飢え渇きに応えて、思いもかけない形で、私たちを一つに結びつけて下さる、そのことを日々切望し、待ち望んでいる。

エノクが生きたように、日々、神と共に至聖所の中を生きること! 生活の隅々にまで渡って、ただ神と共に生きること! この死ぬべき肉体の幕屋の中にあって、与えられたいのちを、キリストの復活の証人として、主に注ぎ尽くし、エクレシアの只中を、日々、いのちの御霊の法則に生きること…。私はひたすらそのことに思いを馳せている…。

こうなると、仕事のなりゆきなどどうでも良い。不遜な言い方かも知れないが、私にはエクレシアを駆け巡る愛が、私へ向かっても、また、あの兄弟姉妹、この兄弟姉妹へ向かっても、流れ出たくてたまらないというその勢いが感じられてならない。

そのエクレシアとは、もはや四隅の囲いにはとらわれておらず、目に見えるいかなる組織とも関係がない。古い形式は自然に廃れゆき、それは一切の押しつけや強制とは関係がない、自由のあるところ、キリストの溢れるほどの豊かないのちが満ちている場所であり、生ける水の川々の流れる場所だ…。

「わたしは一つの事を主に願った、
 わたしはそれを求める。
 わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、
 主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

 それは主が悩みの日に、
 その仮屋のうちにわたしを潜ませ、
 その幕屋の奥にわたしを隠し、
 岩の上にわたしを高く置かれるからである。

 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に
 高くあげられる。
 それゆえ、わたしは主の幕屋で
 喜びの声をあげて、いけにえをささげ、
 歌って、主をほめたたえるであろう。

 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、
 聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
 あなたは仰せられました、
 『わが顔をたずね求めよ』と。
 あなたにむかって、わたしの心は言います、
 『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます』と。

 み顔をわたしに隠さないでください。
 怒ってわたしのしもべを退けないでください。
 あなたはわたしの助けです。
 わが救いの神よ、わたしを追い出し、
 わたしを捨てないでください。
 たとい父母がわたしを捨てても、
 主がわたしを迎えられるでしょう。

 主よ、あなたの道をわたしに教え、
 わたしのあだのゆえに、
 わたしを平らかな道に導いてください。
 わたしのあだの望むがままに、
 わたしを引き渡さないでください。
 偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、
 暴言を吐くからです。

 わたしは信じます、
 生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。
 主を待ち望め。」(詩篇27:4-14)


P.S. さて、姉妹とは近日中にデートの予定。将来の展望や、色々なことをまた分かち合えるでしょう。どんな惨事が地上で起ころうとも、こうして思いを超えて、日々、交わりが拡大していることは言い尽くせない喜びです…。 「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。」そうです、至聖所は拡大しています、主は必ず迎えに来て下さいます。

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