忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、 あなたのみ名をほめ歌います

「みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。信者たちは一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意をもたれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」(使徒2:43-47)

 「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。」(使徒4:32-35)


何という慰めと平安だろうか。心の戦いは終わり、主が御手で私を天高く引き上げ、その懐の中に引き入れて下さった。全ての悪の力と軍勢ははるか足の下である。「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:3)

すでに死んだということは、主と共に復活したということを意味する。この復活の証に対し、敵は黙らざるを得ない。旧創造に対して敵はどんなことでもやりたい放題だが、復活に対して、敵にはできることがない。復活はキリストの十字架の向こう側にあるサタンの全く及ばない領域である。キリストは天のこの復活の領域に揺るぎない勝利を打ち立てられ、この復活の領域で、私たち兄弟姉妹は一つに結び合わされたのである。

ある姉妹が、今のままの薄い交わりでは寂しすぎて、とても満足できないと語った。その寂しさは人のものであるだけでなく、主の寂しさであるとも。主イエスは言われた、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」(ルカ12:49) そうなのだ、この火が十分に燃えていないのに、どうして寂しくないわけがあろう。姉妹は、日曜日だけでなく、月曜日から土曜日まで途切れることのない熱い交わりが欲しいと、多くのしるしと奇跡が伴い、人々の心が一つとなって、皆が喜んで生活をともにし、一切の持ち物を共有にして助け合うほどに一つとなれる真のエクレシアが欲しいと言っていた。初代教会の再現を熱心に待ち望んで、それを熱心に祈り続けているのだと言った。

この初代教会の再現という話を聞いてから、何かが私の心の中で動き始めた。これはまさに皆が待ち望んでいるものではないか? エクレシアを待ち望む神の飢え渇きはここにあるのではないか? 私たちが孤独の中で重荷を負って呻きつつ切望しているものがこれではないのか?

私たちは間もなく反キリストの時代が来ることを知っている。それはバビロンと本質的に同じ偽りの霊による統治であり、この世の経済や文化や宗教などを含む霊的複合体である。それは獣の刻印がなければ売ることも買うこともできない国である。「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。」(黙示13:17)

私たちはこのような恐るべき時代が本当に近づいていることを知っている。以前に私は昔の友人と語り合ったものだ、サタンは嘘つきなので、悪魔と取引はできないと、彼は約束を守らないから、獣の刻印を受ければまるで生き延びられるかのように教えても、その約束は守られない、だから結局、それは人が生きられない国になるのだと。

すでにこの国の経済が人が生きられないようなものへと変わりつつあることにあまり異論はないのではないかと思う。原発事故の後処理だけを取っても、この国は未来永劫に渡っても、払いきれないほどの負債を抱えてしまった。後戻りは不可能だ。到底、帳尻の合わない経済の中へと落ち込んでいる。さらに地震や噴火などがそれに追い討ちをかけようとしている。いずれそのうち反キリストの王国がその延長線上に姿を現したとしても不思議ではない。私は思うのだが、獣の国の経済は負債によって成り立っているに違いなく、刻印のデータを入力すれば、国民一人ひとりが抱えさせられている借金の大きさが割り出されるのではないだろうか。この刻印を受けた者は、生きるという名目で、一生かけても返しきれない負債を背負わされるのだ。これは人類が巨大な罪の債務証書を連帯責任で負うことを意味し、たとえ色々な美徳によってカモフラージュされていたとしても、結局、その負債は律法による「負い切れない重荷」(ルカ11:46)そのものなのだ。この罪の負債の大きさを直視するなら、「人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。」(ルカ21:26)

しかし、私たちは反キリストの王国だけでなく、エクレシアもやはり霊的な統治であり、経済を含む生活共同体であることを見る。そして、この世がどれほどの負債の中に落ち込んで行こうとも、エクレシアにおいては、罪の債務証書はキリストの十字架で無効にされていると知っている。エクレシアの経済は負債に基いてなどいない。そこには負債がないばかりか、その富はこの世を貫いて、永遠にまで至るものなのだ。先に引用した使徒行伝の文章は、キリストの御霊の統治がどのようなものであるか、その実際を記したものに他ならず、それを見るならば、エクレシアの経済はどうであったのか、生活はどうであったのか、人々の思いはどうであったのかがよく分かる。

まず、「彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。」 これは驚くべきことである。しかし、「いっさいの物を共有にし…」という言葉を聞いて笑う人もいるかも知れない。またもやありもしない共産主義ユートピアの話かと。しかし、私にはすでにこのことが非常な現実味を帯びて感じられてならない。人々が気づいていないだけで、すでにこれは始まっているのではないかと。

初代教会のようなエクレシアが早く実現してくれないと、私たちの世代はとても困るのだと、私は先の姉妹に語った。私たちは自力だけでは生きられないような現実に直面しているため、エクレシアがもっと初代教会のように正常に機能してくれないと、生きのびられないかも知れない。だが、そんなこの世の圧迫にも関わらず、私たちの思いをはるかに超えて、エクレシアの機能の拡大はすでに始まっており、私の生命はすでに天的な供給によって養われているように思われてならない。

それが、至聖所の中を生きるということだ! そこにはすべてがある――なぜなら、そこにはありてあると言われる方(出エジプト3:14)の臨在が満ちており、キリストのからだなる教会は、「すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:23)からだ。 「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」(ヨハネ1:17) キリストは父のひとり子、「めぐみとまこととに満ちて」おられる方(ヨハネ1:14)「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。」(ヨハネ1:16)のである。

多分、兄弟たちは何も気づいていないだろう。だが、私はすでに(個人の所有という)地上の分厚い垣根が誰も気づかないうちに取り払われつつあるのを見ているような気がしてならない。なぜなら、私はエクレシアの中を自由に行き来して、兄弟姉妹の持っている富にあずかっているからだ。主がそれを許しておられるのだ。我が家にはリビングルームはないが、天のリビングルームに私はいつでも自由に入っていけるし、そこに行くと絶えず交わることのできる兄弟姉妹がいる。私は貧しいが、少しも乏しくなく、孤独なようで、いつも一人ではない。

主は天地万物に対する全ての所有権を持っておられ、暗闇を貫いて働くことがおできになる方だ。以前、インターネットはサタンのツールになるに違いないとささやかれていたことがあったが、しかし、サタンが使えるものならば、どうして神が使えないことがあろうか。いや、一切のものの所有権は御子にあるのだ。御子の光が来る時、サタンの暗闇の不法占拠はもはや成り立たなくなる。従って、私たちが行くところどこででも、主イエスの御名により、キリストの主権を宣言するならば、光の統治が及ぶのだ。虚偽の暗闇は駆逐され、兄弟姉妹の信頼は強化され、御子の統治が確立されるのである。

「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつきけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け た。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされ ていることを喜びなさい。」(ルカ10:18-20)

「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。」(Ⅱコリント10:3-6)

これまでニッポンキリスト教界に巣食う邪悪な悪霊どもはインターネットに悪の要塞を築いて、さんざん虚偽をまき散らして来た。教会を破壊し、聖徒らをいわれなく追いつめ、迫害し、辱めて来た。彼らは神の御名を汚し、教会の名を汚し、聖徒らの名を汚し、十字架を否定し、血潮を否定し、御言葉を否定し、疑心暗鬼によってエクレシアを粉砕し、神の聖霊を汚そうとして来た。しかし、彼らの悪事はことごとく暴かれ、彼らはもみがらのように吹き飛ばされ、恥と恐怖のうちに逃げ去るであろう。

私たちは主イエスの御名によってこれらの悪霊どもを縛り、彼らを追放し、聖徒らに触れることを禁ずる。サタンよ、おまえはさんざん無実の兄弟たちを訴えて来たが、訴えられて敗北するのはおまえだ。「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。」(ゼカリヤ3:2) サタンと暗闇の軍勢よ、おまえたちはカルバリでキリストの十字架によって打ち破られた。そこで、この地上においても、おまえとその軍勢は恥を見、敗北のうちに逃げ去るのだ。

全地よ、知るがよい、主はご自分の選ばれた民を全ての悪と悪の軍勢からかくまわれ、救われることを。神ご自身のために、主は御名の栄光を揺るぎなく打ちたてて下さることを。神の主権の旗はすべてのものの上にひるがえり、インターネット上にもキリストの主権の旗がひるがえるだろう。私たちはキリストの復活の証人であり、御子の復活の命によって生かされた者、私たちは永遠に主の御業を讃え、御名を誉め歌い続けるだろう。主はまことに賛美されるべき方。サタンと闇の軍勢が駆逐され、御子の統治が確立し、とこしえに御名に栄光がありますように!

「主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、
大水からわたしを引きあげ、
わたしの強い敵と、わたしを憎む者から
わたしを助け出されました。
彼らはわたしにまさって強かったからです。

彼らは災いの日にわたしを襲いました。
しかし主はわたしのささえとなられました。
主はわたしを広い所につれ出し、
わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。<…>

神はわたしに力を帯びさせ、
わたしの道を安全にされました。
神はわたしの足をめじかの足のようにされ、
わたしを高い所に安全に立たせ、
わたしの手を戦いに慣らされたので、
わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。

あなたはその救の盾をわたしに与え、
あなたの右の手はわたしをささえ、
あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。
あなたが私の歩む所を広くされたので、
わたしの足はすべらなかったのです。

わたしは敵を追って、これに追いつき、
これを滅ぼしつくすまでは帰らなかったのです。
わたしが彼らを突き通したので、
彼らは立ちあがることができず、
わたしの足もとに倒れました。

あなたは戦いのためにわたしに力を帯びさせ、
わたしに立ち向かう者らをわたしのもとに、
かがませられました。
あなたは敵にその後をわたしに向けさせたので、
わたしは自分を憎む者を滅ぼしました。
彼らは助けを叫び求めたが、救う者はなく、
主にむかって叫んだけれども、
彼らに答えられなかったのです。

わたしは彼らを風の前のちりのように細かに砕き、
ちまたの泥のように打ち捨てました。
あなたは民の争いからわたしを救い、
わたしをもろもろの国民のかしらとされました。<…>

主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。
わが救の神はあがむべきかな。
神はわたしにあだを報いさせ、
もろもろの民をわたしのもとに従わせ、
わたしの敵からわたしを救い出されました。
まことに、あなたはわたしに逆らって
起りたつ者の上にわたしをあげ、
不法の人からわたしを救い出されました。

このゆえに主よ、
わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、
あなたのみ名をほめ歌います。
主はその王に大いなる勝利を与え、
その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、
とこしえにいつくしみを加えられるでしょう。」(詩篇1:16-50)


PR