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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

それはからだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのです

「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。」(エペソ5:30)

「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体 が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御 霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものから できている。…

…神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだが あるのか。ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。目は手にむかって、『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって、『おま えはいらない』とも言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣り がすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。

神 は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うため なのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであ り、ひとりびとりはその肢体である。」(Ⅰコリント12:12-27)


いつも助力は思いがけない方向からやって来る。私が想定しているのとは別の方向からだ。私たちはいつも偉大なもの、きらびやかなもの、饒舌なもの、手練手管に長けているもの、力があって、挫折知らずで、社交に長け、見栄えが良く、欠けのないものにばかり注目する。

しかし、なぜ神がエクレシアに家族の成員を多く配置されたのか、なぜ肢体がそれぞれ別の働きをしているのか、なぜ「むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要」(Ⅰコリント12:22)なのかが今日分かったような気がした。

私に対する主の御助けはいつも十分である。しかし、他よりも弱く見える肢体を通して、主は私を十分に助けられる。ところが、他よりも劣って、弱く見える肢体に、誰が助けを借りようと思うだろうか。そうするためには心が砕かれていなければならない。自分は強いのでそんな人からの助けは要らないという心が取り除かれていなければならない。それがないために、必要な助けを得る機会を逸することが私たちにはどれほどあるだろう。エクレシアはそれぞれ異なる肢体からなる一つのキリストのからだだというのに。むしろ、私たちが十分に弱くなった時、神の強さが私たちを覆うのだというのに。

最近、職場やその他の場所でも色々と心を煩わされることが多かったが、どのようにしてそれを乗り越えたらよいだろうかと思案していたところ、今日、ある素朴な兄弟との交わりを通して、色々思いつく限りの手腕を行使するよりも、自分自身の手練手管により頼む心など早く尽きた方がはるかに幸いなのだと思い知らされた。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

主が私の弱さを彼の完全なる強さで十分に覆ってくださることに比べて、自分の不完全でちっぽけな強さにより頼んで生きることに何の意味があろう。しかし、私たちはいつまでも弱いままではいない、何しろ、主がご自身の強さで私を覆って下さり、主の勝利で私を飾って下さるのだから。

今日、私はその兄弟に向かって憤りと悲しみをこめて話したのだ。最近、大勢のクリスチャンが良心を失って、極悪非道な偽善の道へと落ちていき、うわべだけきれい事に塗り固めたもっともらしい信仰告白の裏で、卑劣で恥知らずな愚行に堂々と手を染めて、無実の人々をいわれなく圧迫し続けていると。しかも、自分の歩んで来た道が間違っていることがたとえ分かったとしても、自分がいわれなく踏みにじり、傷つけた人に対しては何の謝罪もないままに、今度は堂々と強い方に寝返って、自分に有利な人々の側につくほどの卑劣さであると。

もしもこのような理不尽に対して答えを出せないようなものが信仰生活や交わりであるなら、もしもそれに対して誰も手を差し伸べないようなものがエクレシアだというのならば、もしもそんな変わり身の早さが高く評価されるのがクリスチャンの世間ならば、そんなものは私にとっては不要である、そういう理不尽は世でさんざん見て来たので、信仰者の間でまで目にしたくない、もしもそんなことが全ての回答だというならば、私はもう交わりなどに一切の期待を抱かない、全ての望みを捨ててもう世を去っても構わないと。

このような話をすると、普通ならば角が立つため、クリスチャンの間でも煙たがられ、話を逸らされたり、主から平安を得なさいとお説教されたりするだけに終わるだろう。ところが、その兄弟は朴訥な言葉で率直にこう答えたのだ、「最近、インパクトのあるクリスチャンのブログが本当に少なくなった。自分もリンク先を大幅に整理しようと思っているところだ」と。

この禅問答のようなやり取りを通して、私は兄弟から流れて来る深い理解を感じ、思わず、笑いながら涙さえ出て来た。それはうわべだけ取り繕った、きれいごとで塗り固めて、物事の本質を曖昧にごまかそうとする返事ではなかったからである。世間での上手い立ち回り方、波風立てない生き方を模範として、そこから全てを推し量ろうとするようなうわべだけの返答ではなかったからである。かといって自己の義に基く義憤でもなかった。兄弟は怒ってもいなかったし、義憤を感じていたわけでもないのである。

そこには、その兄弟が私の心の叫びに本当に寄り添おうとしてくれた姿勢が感じられた。長年に渡り、ずっと誤解され続け、理解されなかった私の孤独を、兄弟が深く理解し、ともに背負おうとしてくれていることが分かった。たとえ私の見解が、現時点でかなり不完全なものであったとしても、それでも心の深いところで共感を示し、本当に心からこれが真実だと胸を張って言える狭い道をともに行こうと、言葉にならない言葉で言い表してくれたのだ。

もう世間のご機嫌は取らない。権勢に生きるのでも、能力に生きるのでもない。できるだけ失敗のない生き方を目指すのでもない。人に嘲笑されないように、自分の力や賢さを見せられるように、そつなく、損失ができるだけ少なくなるように、人に嫌われないように、見栄えの良い生き方をめざして、クリスチャンらしい、もっともらしく取り繕った信仰告白を並べるのでもない。

外面的にどのような評価を受けようとも構わないし、どれだけ大勢の人に見捨てられようとも構わないのだ、ただ、自分が神と人との前に本当に真実味のある真っ直ぐな生き方をしたい、それが出来たと胸を張って言えるような生き方をしたい。そのためならば、何人の友人や理解者を失っても少しも構わない、あなたと同じところに落ちるばかりか、それよりさらに下にだって喜んで行こう――兄弟はそう語りかけているように感じられた。

自己犠牲も、苦しみも、孤独も、喜んで耐えよう、いや、もうその何もないところに自分は立っているというのに、あなたにはまだそれが見えないのだろうか? まだ私が世間のご機嫌取りをするために、簡単にあなたを売り払い、自分だけ見栄えの良い、楽で広い道を大手を振って進んでいくと疑っているのか? あなたを孤独の中に打ち捨てて、自分一人だけ世間に媚びて注目を浴び、賞賛を浴び、大勢の理解者を誇り、自分の栄えを有頂天になってあなたに見せつけると思っているのか?

あなたが信じるために、どれくらい私は犠牲を払えばいい? どれくらいの痛みを負えば信用してくれる? 何があなたのさらなる望みだ? どうぞ遠慮なく言ってみなさい、どれだけのものをあなたのために売り払っても、私には多すぎはしない、あなたの満足はどこにあるのか? 言ってご覧なさい、私にはもう何も惜しいものなどないのだから、どんなものでも喜んで売り払ってみせよう、見なさい、それがあなたの価値であり、あなたのための代価であり、あなたがどれほど疑っても、私たちの道は変わらなく一つなのだ、それがキリストによって結ばれた兄弟姉妹の道なのだから。

あなたの疑いがどんなに深くても、そんなことで天の家族の絆は解けないのだよ、これをなしたのは神なのだから! 天のリアリティがどれほどのものか、私の生き方を見ていれば、今後、あなたにも分かるだろう、すべては新しく変わり始めており、私ももう今までと同じではないのだから――。

…まるで兄弟が、言葉にならぬ言葉で、私にそう語っているかのように感じられた。いや、すでに兄弟は誰にも告げずに、淡々と一人でその道を生き始めていたのだ。

これには私は驚嘆し、瞠目せざるを得なかった。こんな愛がどこから生まれて来たのか。これはずっとずっと私がクリスチャンたちやエクレシアに待ち望んで来たことではないか。こんな願いを共有できる人は今までほとんどいなかったし、今も数少ないだろうが、兄弟が確かに御手によってカーテンのこちら側に入れられたことが分かった。主よ、感謝します、あなたは私の叫びを聞き届けて下さいました、私の拙い言葉ではなく、私の心を受け取って、心強い味方をまた一人与えて下さいました、あなたはこの私にまたもや理解者をお与え下さったのです、本当にありがとう! ハレルヤ!

多分、私はきっとキリストのからだの内で他の肢体よりも見劣りのする、弱い部分なのであろう。麗しくない部分なのであろう。世では「おまえは要らない」と何度、言われて来たか知れないし、キリスト教界からもそうである。しかし、開き直るわけでないが、そういう不要に見える肢体がかえって、エクレシアには必要であり、からだ全体が機能するために欠かせない重要な役割を果たすと聖書が言っているのだ。実際に私自身が、そういう弱くみえる肢体から思いもかけない豊かな助けを受け取るにつけても、神の配剤の偉大さに思いを馳せずにいられない。エクレシアを駆け巡る主の愛を感じさせられてならない。

最近、私はなぜか嬉しくて泣いてばかりだ。何だかよく分からないが、爆発的な愛がエクレシアを行き巡っており、それがエクレシアから私に向かって流れ、私からエクレシアへ向かって流れていくのだ。これは私へ向かって押し寄せてくる、流れたくてたまらない愛のようである。全ての世の圧迫も、蔑みも、嘲笑も、孤立も、困難も、ここには届かない、何もかも打ち捨てて、この渦の中にただ身を投じ、神の望まれる花嫁を建て上げるためだけに身をささげたいと思わせられる――。その切迫した愛を、何よりもこの私に対する主の愛を通して感じる、主はあらゆる機会に兄弟姉妹を通しても私に愛を届けて下さるのだ。

キリストが教会を愛してご自分の命を捧げられたことの意味を、私は終日、思わされている。この弱い兄弟姉妹一人ひとりのために、主が死なれたことの意味を思う。かばうに値しない私に対し、寄り添うに値しない私に対し、理解にも値しない私に対し、黙って寄り添い、犠牲を惜しまず、ともに泣き、ともに痛み、ともに苦しみ、ともに喜んで、ともに十字架を担ってくれる兄弟姉妹たちの存在の不思議さを通しても、主の愛の深さを思う。

信じるためには、私にはまだまだ犠牲が必要なようである。生まれてこの方経験してきた苦難があまりにも大きかったし、それは今も終わってはいないのだ。私の手には余ることばかりである。しかし、振り返るとそこにいつも神の家族がいて、天のリビングルームがあり、その住まいに、素朴な兄弟姉妹が喜んで私を招いている。ここに荷を下ろしなさいと言っている。私は不信な者であるが、しかし、キリストの十字架を経て、新創造とされた自分自身が、主の御前にどれほど価値ある者であるか、自己満足でも、自己顕示でも、強がりでもなく、日々感じさせられているのだ、しかも、いつもいつも窮地に陥って自分の弱さを思い知らされながら――! 私は自分をまだアダムにある人のように見ていることが多いが、しかし、キリストはそうはご覧になっておられない。私自身もエクレシアを慕い、エクレシアの出現を切望しているとはいえ、エクレシアの方でも、どうやら、私を愛して手放さない(=私たちは分解できない)らしいことが感じられてならない。これは私へ注がれるキリストの愛でなくて何なのだろう。

「神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになっ たのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一 つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」

キリストにとって、愛しくて、愛しくてならないもの、それがエクレシアだ。たとえ不完全であっても、不十分であっても、弱くても、挫折ばかりしていても、みっともなくても、愛しくてならず、いつでも理解を示し、手を差し伸べ、救ってやりたいと願わずにいられない、放って置くことのできない存在、それがエクレシアなのだ。多分、それはエクレシアが神ご自身にとって「自分よりも弱い器」(Ⅰペテロ3:7)であるためでもあろう。

それが主の目から見たときの私たちの姿であるということを、私は驚きながら見せられている。そして、だんだん私自身も、そのような目で兄弟姉妹を見るように変えられている…。しかし、そんな大それたことが本当に私たちにあって良いのだろうか? 信じがたいことであるが、ただ主の御業を待ち望む。

兄弟よ、私の愛する兄弟たちよ、あなた方の助力に感謝します。

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