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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主は私を全ての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さいます

「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。」(Ⅱテモテ4:18)

主は素晴らしい。主はどんな状況でも働いて下さる。エクレシアは今日も私たちの思いを超えて稼働中だ。

ここ数日、とても心を混乱させられる出来事があった。前途について深く憂え、悩まされた。しかし、神が私を憐れんで下さっているがゆえに、荷を下ろすことのできる場所が与えられている。私がどんなに不完全で未熟であれ、いつも主が私に手を差し伸べて下さり、なおかつ、私を愛し続けてくれる兄弟姉妹がいるありがたさよ…。

私には地上で必要な時に助けを求められるような絆はいつも不足しているように感じられてきたが、天にある家族はいつもすぐそばに用意されているのだと、最近になって分かった。これはすべて主がなして下さったこと、主がお与えくださった余りあるいのちの供給。だから、栄光は主に帰して、困った時には天にある家族から迷わず供給を受けよう…。

地上にあるものを見る時、絶望が私の心を襲う。もしも地上にあるものに注目するならば、そこには私たちの居場所は全くないこと、もう逃げ場がないことだけが分かる。だが、地から目を離そう。信仰によって、神の約束された事実を見よう。そうすれば、どれほど測り知れない宝が私たちに与えられたのかが分かるだろう。朽ちるものよりも、朽ちないものの方がはるかに勝っており、地上にあるものよりも、天にあるものの方がはるかにリアリティを持っていることが分かる。そして、主は私が思うよりもはるかに多くのものを、私に豊かに与えたいと願っておられることが分かる…。

最近、ある方との電話での交わりがあった。私のブログを読んで、以前から交わりたいと願って下さっていたのだそうだ。このような人がいると知らされるだけでも、大きな喜びである。

その方は集会で大きなつまずきを感じられたようで、「誠実な人たちが次々と教会から追われるようにして去っていくのに対し、平然と教会に残っていられる人の方がむしろおかしいように見える」との厳しい指摘をされた。

私も何度、目に見えるものにつまずかされてきただろう。自分自身の不完全さ、兄弟姉妹の不完全さ、目に見えるものの混乱に目を奪われて、絶望に至りそうになったことが幾度あったろう。だが、そんな度重なるつまずきがあったにも関わらず、本心を偽ることなく主にぶつかって行くと、不思議なことに、主ご自身が扉を開いて下さるのだ。

「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』。

八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。」(ヨハネ20:24-28)


トマスの物語は私にとって他人事ではない。私も主の御手の釘跡に自分の指をさしいれ、わき腹の傷跡に自ら触れてみなければ、その御業を信じないほどに不信な者なのである。しかし、主は私の不信感を一つ一つ丹念に払拭して下さった上で、「これはすべてあなたのための贖いなのだよ、私の血潮はあなたのためのものだ、私の死と復活はあなたのものだ、これら全てをあなたのものとして受け取りなさい」と言って下さるのだ。

罪のないお方が尊い血によって私たちを贖って下さったことの絶大な意味。私たちはその価値を本当に知っているだろうか? 時々サタンの矢を受けて私たちは倒れそうになる。目に見えるものの不完全さや混乱に目を奪われ、自己の内に潜む罪を見て恐れ、周囲の人々の罪を見て恐れ、疑わしいものすべてから遠ざかろうと願い、これから起こる地上の混乱を考えて、どこへ逃げたら良いかと思案する。

だが、そんな動かされやすい私にも、真摯な疑問さえ失わないならば、主はきちんと答えて下さり、主が天に打ちたてられた御業は不動であり、天にある私のためにもうけられた住まいは決してなくならないのだと教えて下さる。何と心強い約束だろうか。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」(ヨハネ14:2) 

ハレルヤ! 地上にあっては苦難が多いかもしれないが、キリストにあって私たちはすでに天に居場所を得、私たちのいのちはキリストとともに神の内に隠されている。私の不信感や、未熟さや、つまずきでさえ、主の御業を覆すことはできず、主が結び合わされた兄弟姉妹の絆を断ち切ることはできない。

エクレシアは、キリストの頭首権に服している人たちの間で、主ご自身が打ち立てておられるものであって、私たちの思いを越えて、私たちの不完全さを超えているのだ。

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:23)

それにしても、キリストのからだには主の愛が何と溢れていることだろう。主がご自分のものとされた人たちに働きかけて、肢体のすみずみにまで命を届けられる時の見事さ! みなし子や、やもめにも等しいこの私さえ、そこからいのちの供給を受けられることの不思議さよ!

外見的には、教会はみすぼらしく、衰退しており、正常に機能していないように見えるかも知れない。混乱し、打撃を受け、末期的様相を呈しているように思われるかも知れない。ところが、そんな外見とは関係なく、血潮によって結び合わされた目に見えない絆を通して、主は確かに働いておられるのだ!

この目に見えない御身体を通じて、神がどんなに豊かな知恵を持って働かれるか、それが分かり始めると、もう自分自身の限界を恐れたり、目に見えるものの不完全さを恐れなくなる…。神は私の疑いや、未熟さをはるかに超えて、敵のかく乱をさえはるかに超越して働くことができる方であり、敵の力の及ばないはるか高みに、十字架上で永遠に勝利を打ち立てられたのだ…。

そこで、人の自己の内に潜む単数形の罪の問題がどれほど根深かったとしても、私たちはそれにキリストが完全な答えを十字架で用意して下さったと信じることができる。人は誰も、神の御業を妨げることはできない。暗闇の軍勢のどんな策略や罠も、神のご計画を挫折させることはできない。主は生きておられ、今も力強く働いておられる。十字架において完成された御業が実際として天と地に実現されるまで、まだ激しい戦いがあるかも知れないが、しかし、十字架において戦いは終わっているとの確信に私たちは立つ。そして、私たちは自分のわざではなく、御子の達成された業に立ち、そこから全てを信仰によって引き出す。目に見えるものがどうあろうとも、御子がすでに私たちに必要な全てを達成された、それを信じられるところに私たちの安息がある。

「「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」(ヘブル4:10)

さて、最後に、教会の外見的混乱について、かき乱す者たちの存在について、毒麦の存在について、「王国の福音」第二章より、オースチンスパークスの言葉を引用して終わります。これは神の子供たちとそうでない者たちとの相克にあてはまると同時に、私たち自身の内側で死ぬべきものがいのちに飲まれてしまう過程にも幾分かあてはまるように思うのです。

私たち自身の内には、キリストのまことの命とアダムの命のもつれがあります。両者は十分に切り分けられていません。前者は神に、後者はサタンに栄光を帰そうとします。私たちは自分についてはよく分からなくとも、他の兄弟姉妹のうちに何らかのもつれがあることを知っているでしょう。しかし、この深いもつれは、私たちが自分で解こうとして解けるものではないのです。このもつれを切り分けるのはあくまで神の側の仕事なのです。

霊と魂とを御言葉によって切り分けるのはまことの大祭司である主イエスの役目です。それは悔い改めと同じように御霊によって与えられる奇跡です。私たちにはできませんが、神にはできます。ただ神ご自身だけが、ご自分に属するものとそうでないものを切り分けることができるのです。人の知性や道徳性、宗教性によっては、これらを切り分けることはできません。むしろ、人知によってそれをなそうとすることは、とても恐ろしいことでさえあります。ですから、私たちは自分の力で教会や人を浄化しようとしたりはせず、自分をも兄弟姉妹をも神の主権の下に信頼して委ねるのです。

次のたとえは、一般的に小麦と毒麦のたとえと呼ばれているものです。ここで中心思想は御言葉から人々に移ります。今まかれるのは御言葉ではありません――蒔かれるのは人々です。王国の子供たちが地に蒔かれ、次に夜、敵がやって来て、自分自身の子供たち、自分の王国の子供たちを蒔きます。彼らは悪魔の子供たちです。悪魔の方法はその目的にふさわしいものです。悪魔の目的は神から出たものを無に帰すことであり、悪魔の方法はその真似をすることです。

神の子供たちに似ている偽物たちを神の真の子供たちの間に混ぜてそれを無にすること――これがサタンの邪悪な知恵による策略です。働き人たちは畑の所有者のもとに行って、自分たちが見たことを告げました。すると、畑の所有者は言いました、「ああ、敵がそれを行ったのです」。働き人たちは言いました、「私たちはどうしましょうか?この毒麦を引き抜きましょうか?」。

畑の所有者は答えました、「いいえ――主の主権に委ねなさい! 両方とも一緒に育つままにしておきなさい。そうするなら天の主権、天の支配により、少しずつどれがどれか明らかになり、最後には容易に安全に見分けがつくでしょう。もしあなたたちがいま引き抜き始めるなら、あなたたちは見分けるための天の知恵を持たずにそうすることになります。どれが本物でどれが偽物か選り分けて、この悪魔の深い働きのもつれを解くことは、あなたたちの仕事ではありませんし、あなたたちにはそのための機能も能力もありません。これはあなたたちの仕事ではありませんし、あなたたちにはそれを行う資格もありません。ですから、成り行きにまかせなさい。そうするなら主権的支配により、何が小麦で何が毒麦か明らかになります」。

この主権的支配により、この問題はすべて解決され、決着が着くでしょう。天の王国もしくは神の王国はこのたとえが描写しているようなもの――恐るべき混合――である、とは言えません。そうではありません。神の王国、天の王国は一つのことであり、神の主権的支配だけが神から出ているものを明らかにすることができるのです。

しかし私たちが前進するにつれて、これが起きます。私たちはこの主権的支配に信頼することができます。この主権的支配はとても実際的であり、次のように働きます。真に神に属する人たち、天に属する人たちがいます。すると、そこにある人たちが入り込んで来ます――彼らは詩歌を歌い、同じ言い回しを使い、同じ方法で振る舞い、王国の者たちと関わりを持ちます。しかし、そこには一つの相違があるのです。内側深くでは彼らは実は「私たちに属する者ではない」のです。彼らは偽物です。本物ではなく、純粋な者でもありません。何か同じではないもの、何かなじまないもの、異質で奇妙なものがあることに彼らは気づきますし、私たちも同じように気づくかもしれません。私たちはどうすればよいのでしょう? 彼らを追い払って、出て行くように告げるべきでしょうか?

いいえ、いいえ! 十分長い道のりを行きなさい。そうするなら、彼らは自分たちの道を行くでしょう。この二つのものは自ずから明らかになって、長期的にはかなり容易になるでしょう。ヨハネは言いました、「彼らは私たちの間から出て行きました。それは、彼らが私たちに属する者ではないことが明らかになるためです」(1ヨハネ2:19)。これが天の原則であることがわかります――いずれ正体が明らかになるのです。内なる根っこの部分が異なると感じられる人々――非戦闘従事者――のことを忍耐強く我慢するのは難しいことです。しかし、イスラエルと共にエジプトを去った雑多な群衆について言うと、時や試みによって彼らは選り分けられました。これが王国とその主権が働く方法であり、かなりの信仰とかなりの忍耐が必要とされるのです。


 

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