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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、またあなた方の喜びが満ち溢れるためです

「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)

エクレシアはいつも本当に生き物のように動く。助けはいつも思いがけない方面からやって来る。昨日(日曜)も愛する兄弟姉妹から大いなる助けを受けた。愛する兄弟姉妹、私たちはただキリストの頭首権に服するだけだ。どんなことがあっても、ただキリストの頭首権に服するだけだ。これは感情の問題ではない。行くところどこででも、信仰によって主を認める。すると、私たちがキリストのからだとされているとはどのようなことか、キリストのからだである教会を通してどれほど神が多様な知恵を示されるものであるか、思いもかけない形で、主は実際に知らせて下さるのだ…。

主ははっきりと知らせて下さる、私たちがもはや独りではないこと、主がともにおられ、兄弟姉妹もともにいてくれ、キリストの一つのからだとして、私たちが結ばれていること。私たちはともに悩み、ともに痛み、ともに苦しみ、ともに喜びを分かち合い、ともに慰め合い、ともに収穫を分かち合う仲間とされていること…。

それにしても、私は独りではなく、キリストの身体の一部なのだと知らされる時の何と嬉しいことだろう。もしも私が全ての面において豊かに恵まれていたとすれば、キリストの身体から供給を受けるという恵みに喜んであずかることはできなかったろう。もしも私が貧しさを知らなければ、満たされる喜びを知ることもできず、孤独を知らなければ、慰められることの意味も分からなかったろう。しかし、それは決して私たちが隣人に依存していることを意味しない…。私たちは一人ひとりが主にあって自由である、にも関わらず、御身体として一つに結ばれているのだ…。

神は「今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至る」(エペソ3:10)ことを願っておられるのだと御言葉は言う。キリストの御身体なる教会は「神の多種多様な知恵」を現す宝庫であり、教会を通して、神の中に世々隠されていた奥義、キリストにある無尽蔵の富が明らかにされるのである。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:17-23)


それにしても、私たち一人ひとりはこんなにも弱い存在にも関わらず、主にあって自由とされ、完全とされていることの意味! 欠けだらけの者に対して、何ら欠けることのないキリストの絶大な贖いの御業よ! 私たちはキリストにあって自分が完全に贖われたことが何を意味するのか、生きて実際に知る必要がある、つくづくそう思う。

キリストが私に対して完全な贖いを達成されたことの意味を、さらに、このお方が我が内に住んで下さることの絶大な意味を知らなければ! キリストはどこか私たちがはるか遠くに目を注ぐべきところにおられるのではない。我が内におられるキリストこそが、栄光の望みなのだ! パウロは書いている、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(ピリピ3:8)と。

「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」(ホセア6:3)

これまですべての信仰者が切に求めて来たのは、主を知ることであった。この主を知るということは、主との霊による交わりを指しており、キリストと花嫁たる教会の結婚の奥義である。予め主を知っているからこそ、花嫁として迎えられるのだ。私たちは、神の国をつぐことの保証として与えられた聖霊を通して、いかなる目に見えるどんな仲介者もなしに主を直接知ることを許されている。

主イエスは言われた、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」(ヨハネ14:16-17) 

この真理の御霊こそ、栄光化されたキリストの御霊、キリストについて証する霊であり、この御霊によって私たちはキリストを直接知ることが許されている、「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」(ヨハネ15:26) 

「…真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」(ヨハネ16:13-14)

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

 
「主は言われる、見よ、
わたしがイスラエルの家およびユダの家と、
新しい契約を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、
わたしも彼らをかえりみなかったからであると、
主が言われる。

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう。
彼らは、それぞれ、その同胞に、
また、それぞれ、その兄弟に、
主を知れ、と言って教えることはなくなる。
なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、
彼らはことごとく、
わたしを知るようになるからである。
わたしは、彼らの不義をあわれみ、
もはや、彼らの罪を思い出すことはしない。」(ヘブル8:8-12)


さあ、今日は仕事にでかけますので、長い記事は書いていられません、が、最後にひとこと。皆さん、アダムの命に死のう、死のうなどとしてはいけません。自分の目をただ主だけに注ぎたいがために、ことさらに世を避けることで、自分の潔癖を保とうとしたり、自己を喜ばせることを恐れて、自分の望みを滅却することで、主に仕えようなどとしてもそれは無理です。そんなものが信仰の道ではないのです。なのに、どれほど多くのクリスチャンが主以外のものを見てしまう恐れに縛られて、外見的に自分を正そうとし、主が恵みとしてお与え下さった数々の祝福をさえ捨てて、自ら苦行にいそしむという罠に落ちて行ったでしょうか。しかし、その行き着く先は隔離病棟なのです。主が私たちに望んでおられるのはそんなことではないのです。このことについては私自身が多くの失敗を経たのでまた書きますが。

「女が子を産む場合には、その時がきたというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはやその苦しみをおぼえてはいない。ひとりの人がこの世に生れた、という喜びがあるためである。」(ヨハネ16:21)

さあ、この事実を見ようではありませんか。私たちはキリストによってすでに新しく生まれた一人の人のであると! すでに彼の新しいよみがえりのいのちによって生かされているのだと! ですから、キリストにある天の無尽蔵の富を知らせていただき、彼のいのちの豊かさを思い切り享受して生きましょう! 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。


教会とはキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしている方がみちみちているものに他ならない! いいですか、これは私たちのことですよ! ですから、私たちは自分が何を受け継いだのか知るべきなのです、至聖所にはばかることなく入り、神の栄光を知らせていただき、折りにかなった助けを受けて、そのいのちの豊かさを味わい、喜んで生きましょう。私たちはただこの事実だけをしっかりと信仰によって受け取ります、私たちは主とともにすでに死に、よみがえらされ、天に座しているのだと。キリストは万物を足の下に従わせられたのです。ですから、私たちは彼の御名により、この御座から行使する権威を持って、大胆に世に出て行くのです…。

どうか彼のよみがえりのいのちの豊かさを知り、御霊の絶大な統治する力を知りましょう、主イエスは私たちに彼の名によって求めなさいといわれたのです、それは私たちの喜びが満ち溢れるためです。私たちの喜びが満ち溢れることを主が望んでおられるのです…!

「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:11)

「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16:24)


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