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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたがたはキリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのです

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」(Ⅰペテロ2:9)

ある交わりを通して、ずっと前から感じていたが、なかなか言い表せなかったことについて、背中を押されたようであった。それは、これからは「キリストの無尽蔵の富」(エペソ:8)に思いを馳せ、キリストのいのちの豊かさを神が十分に私に知らせて下さるように大胆に求めつつ、そのいのちの豊かさの只中を生きようということであった。それは私たちが「心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知るためである。キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:2-3)からである。これまでの知識や人生経験から来る狭い人間的理解という乞食の衣装を捨てて、王族の衣装を着るべき時が来ている…。

「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。」(ルカ2:52)

主イエスが地上で持っておられた性質を見るにつけ、私たちは自分がキリストにあってどのような者にされたのかを知ることができる。だが、上記の御言葉は私たちに疑問を抱かせる。これは一見、矛盾に満ちているような御言葉ではないか?

なぜなら、イザヤ書にはこうあるからだ、「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:5) ところが、前述の御言葉を通して、主イエスが神と人との両方から愛される真に健やかな人間らしい人間であったことを私たちは知らされる。

前述のルカによる福音書の御言葉は主イエスの少年時代を指しているが、公生涯を始められてからも、主は人々に愛されたし、主に従おうとする人は後を絶たなかった。確かに、主は十字架の場面においては全ての人に捨てられたが、それでも、そこにおいてさえ、悲しみながら御跡を追っていく女たちがいたし、弟子たちも逃げ去ったとはいえ、主を愛することをやめたわけではなかった。そこで、主イエスが神と人から愛されていたことに変わりはなかったのだと言える。

私たちは主が侮られて人に捨てられたというのは、おもに世からの反応だったことを知る。世から分かたれた人々、いのちの中に入れられた人々の間では必ずしもそうではなかった。主はご自分のために愛する人々をひそかに取っておかれたと言えるのかも知れない。そんなにも大勢の人々ではなかったが、彼らにとって、主はとても愛すべき方、肉の弱さのゆえに当初は十字架に従えなかったとはいえ、どこまでも従っていきたいお方であった。

エクレシアについても同じようなことが言えそうである。「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」(使徒2:44-47)

ペンテコステの日には、聖霊によって異言を語り出した人々を酒に酔っているのだと嘲笑う者たちがいた。エクレシアを迫害する者たちもやがて出現した。しかし、「信者たちは…すべての人に好意を持たれていた」。これは何かしら説明不可能な魅力がエクレシアに連なる人々に備わっていたことを物語っている。その上、この人たちは心を一つにして集まらずにいられないほどに固い愛の結束で結ばれていた。キリストのいのちによって、互いに一つに結びつけられていたのである。

キリストにある新しい人は、キリストの持っておられた不思議な魅力を恵みのゆえに受け継いでいる。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38) とのマリヤの言葉は、何よりも私たち自身が、キリストにあって生まれ、内にキリストを形作られることにあてはまりそうだ。これは私たちが主のために何かしようとして頑張ることではなく、何よりも、私たち自身が古き人を脱ぎ捨て、キリストにある新しい人とされることにあてはまるのではないか?

最近、私は古き人の土壌を遠く離れ、復活の命にある新しい人を生き始めている。この新しい人は、神と人とに愛される者であり、私の知らなかった新しい私である。この新しい人をもっと知りたいと思わずにいられない。それは私の経験から来る理解をあまりに超えているので、説明も追いつかないのだが。

これは自己宣伝ではないし、「きみは神のVIPだ」とか、「ありのままのあなたは高価で尊い」などという認識とは異なる。ありのままの私は主と共に十字架で死んだ。そして、私は主と共に復活し、主と共に天の御座に座す者とされた。今や私の霊は神に対して生かされ、神は聖霊を私の内に住まわせて下さった。それゆえ、神は私を高価で尊い者として見て下さり、私を愛していると言って下さるのだ。

主にあって私の自己は新しく建て直され、アダムにあって生きていた時とは全く別のものとなった。これは神にあって形作られた新しい私である。それがどれほどの価値を持っているかを知っているわけではないが、この生まれたての赤ん坊のような新しい人を、神が喜んで下さることを私は知っているし、私自身が驚きながらその人を眺めている。それはキリストのいのちによって生まれた新しい自己であり、今はまだとても弱いかも知れないが、やがてこの内なる人はキリストのいのちによって強められ、キリストと同じ形へと完成されていく。

この新しい自己というものの尊さは、私が主にあって兄弟姉妹をどれほど愛しているかを通しても確かめられるのだ。私は身近にいる兄弟姉妹の未熟さや欠点をこれまでよく知っていたし、以前はどれほどそれに苛立たせられていただろう。にも関わらず、今は何かしら不思議な愛が流れていくのを止められない。私は彼らを主にあってとても愛しており、彼らが罪定めされることを望まない。いや、彼らを罪定めしようとする全ての力に対して猛烈な怒りを感じ、それを虚偽として退けるために立ち上がらずにはいられないほど、主にあって彼らが完全であることを知っているのだ。どうしてと言われても上手く説明できない。それが、十字架におけるキリストの贖いの御業の逆算なのである。

何と血潮は完全に弁護することだろう。「新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」(ヘブル12:24)! キリストの贖いは、私に対しても、彼らに対しても完全である。「『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』」(ルカ10:35)と言われたあの良きサマリヤ人の心、それが主の御心なのであり、主は私たちの不器用さ、不完全さ、愚かさ、失敗にかかる余計な費用の分まで、完全に支払って下さったのである。ただ私たちのもろもろの罪の負債を完済されただけではない。余計な出費の分まですべて支払われたのである。勝ち得て余りある贖いを成就されたのである。それがキリストの贖いの御業なのであり、まだまだ私たちはそれをほんのわずかしか知らないとはいえ、これから、それを生きて実際のものとして知っていく。御子の完全な贖いにより、キリストの似姿へと変えられていく。

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

しかし、こんなことが本当にあって良いのだろうか? こんな上手すぎる話があるだろうか? この私たちが、まさか本当に? 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。」(Ⅰペテロ2:9)と確かに御言葉は言う。だから、今までの自己の経験と認識にとらわれるのはやめよう。

霊の乳によって生かされている乳幼児のような私たちの新しい人を、血潮がしっかりと守っている。この血潮の守りの中で、私たちの内なる人は御霊によって育てられ、力強く成長していく。やもめであったルツがモアブの民から召し出され、モルデカイに育てられたみなし子のエステルが王宮に召されたように、私たちは王の王、主の主に召し出された花嫁として、整えられ、磨かれ、飾られていく。神はどれほどご自分の花嫁たる栄光の教会の出現を待ち望んでおられることだろう。主イエスはこの教会のためにいのちを捨てられたのだ。だから、私たちも自分の魂の命を十字架で否み、彼のまことのいのちによって生きよう。

さらば、乞食の衣装よ! さらば、罪なる古き人よ! 私たちが今肉にあって生きているのは御子の信仰によるのであり、アダムの命ではなく、御子の汚れない復活のいのちによるのであり、私たちは御子と同じように上から生まれた者、上なるエルサレムを母とするあの美しい愛すべき乙女、神の花嫁、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民なのです…。

「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威のかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」(コロサイ2:9-11)

「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する(彼の)信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。」(エペソ3:10-12)



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