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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためです

「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」(Ⅱコリント5:4)

以下の記事で、キリスト者の使命とは、キリストの御霊による統治をこの地にもたらすことである、と私は書きました。それによってこの地が贖われ、回復されることが神の御心なのです。神の御心は、あのなじみ深い主の祈りの中で私たちがあまり意識せずに唱えているこの言葉にもはっきりと表れています、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ6:10)

「みこころが天に行なわれるとおり、地にも行なわれますように」! これは、天にある統治が私たちの存在を通して地に引き下ろされるべきことを意味しています。天にある御心にかなった聖霊の統治が、御名をもって呼ばれる者を通して地にもたらされるべきことを表わしています。

「はじめに神は天と地とを創造された。」(創世記1:1)、聖書はこの言葉で始まります。そして、黙示録において新しい天と地とが示されて終わります。このことにより、天と地とが神にとってどれほど重要性を帯びているのかが分かります。この天と地とは神が創造されたのであり、神のものであり、神に帰するべきなのです! 神が天と地とを創造されてから、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあ」(創世記1:2)るようになりました。この過程に何があったのか私たちは分かりません。しかし、それでも、神はこの地に対してずっと働いておられます、「神の霊が水のおもてをおおっていた。」(創世記1:2)。御霊は創造の当初からずっと地の上で働いておられます。それはこの地に対する御子の贖いの御業が成就するためです。

今、オリーブ園ブログの最新記事において、オースチンスパークスの重要な考察が掲載されていますが、その中でも、キリスト者――団体の人としての教会―ーの使命が、キリストの御霊の統治をこの地にもたらすことであることが示されています。

イエスは十一人の弟子に向かって言いました、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:18-20)

全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を…、これは目に見える教会の組織拡大や、人員増加を指しているのではありません。人間の考案した宗教的プログラムにあてはめようとして人を再教育することでもありません。これは、アダムにあって失われた嗣業が、キリストにおいて人類に回復されるべきことを指しています。

神はアダムに言われました、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)、神はこの時、アダムに向かって全世界に出て行く(=ふえ広がる)ように、と命じられました。しかし、この当初、これは純粋に肉における繁殖を指していました。文字通り、人の子孫が地に増え広がり、彼らが地を治めることを指していました。しかし、この肉による統治の方法は、人が罪によって堕落したことにより絶望的となりました。

そこで、神はこの肉にある統治という方法を廃棄され、キリストの御霊による統治を確立されました。それはキリストの御霊によって生まれた神の子供たち、キリストと共に十字架で死に、よみがえり、天に座す者とされた神の子供たちによって成し遂げられます。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」 

これは、リスト者が全世界に出て行き、彼らを通して、キリストにある子供たちが増えること――キリストの御霊によって生まれた新しい人々のさらなる出現を指します。これは、主イエスが律法学者やパリサイ人たちを厳しくとがめて、「あなたがはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする」(マタイ23:15)と言われたような、肉の努力によって作り出される偽りの回心や信心のことでもなければ、人の思惑により考案された何らかの宗教的教化訓練プログラムのことでもありません。

肉によって生まれただけの者は神の子供たちには換算されません。「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。」(ヨハネ3:6) ですから、このことは純粋に霊の事柄を指しています。水と霊によって生まれた者、神の聖霊によって生まれた神の子供たち、キリストにある新しい種族がさらに生まれ、この地に増え広がり、彼らが栄光化されたキリストの御霊によってこの地を御心にかなって統べ治めること、それがキリストにあって人類に回復された嗣業です。それは、「それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうため」なのです。

私たちはここで個人の内面におけるキリストの贖いの御業の成就と、全地における贖いの成就が同時進行していることに気づくのです。この贖いの御業は、聖書においては、「産みの苦しみ」(マタイ24:8)にたとえられています。次の御言葉は、主としてキリスト者個人の内面において贖いが成就するための「産みの苦しみ」を表わしています。「この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。」(Ⅱコリント5:4)

しかし、これは個人の内面における贖いだけでなく、全被造物の贖いに密接に関係しているのです。この二つは同時進行するほとんど同じ過程である、と言ってもいいかもしれません。それは次の御言葉からも明らかなのです。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。」(ローマ8:22-23)

黙示録において、私たちは、「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のみもとを出て、天から下って来」(黙示21:2)るのを見すが、これが、天が地にもたらされることの究極の姿です。全てが堕落した旧創造から解かれ、全てが復活の土台に立ちます!

私たちの肉体が罪により堕落し、死へと向かっているように、全地はアダムの罪のために回復不可能なまでに堕落しました。そして、滅びへと向かっています。しかし、この死ぬべきものをいのちが覆ってしまうことが神の御心なのです! 滅びゆくものは滅びへ渡されます。それは変えられません。旧創造を助けることはできません。しかし、死を覆い、飲み込むいのちがあります! それが復活です。そのいのちはカルバリにおいて「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」た方が持っておられます(ヘブル2:14)この方のいのちによって、「最後の敵として滅ぼされるのが、死である。」(Ⅰコリント15:26) ですから、主は言われたのです、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」と。「それゆえに、あなたがたは行って、…父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し…」

今、全地は産みの苦しみにさしかかっています。地は酔いどれのようにふらつき、もだえ苦しんでいます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。」(マルコ13:8)、「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。」(Ⅰテサロニケ5:3)。これから地を襲おうとしている全ての患難が産みの苦しみ(地の贖い)と関係していることを聖書は随所で示しています。

肉によって歩み、滅びゆく人にとっては、それは何も産むことのない無意味な苦しみです。「見よ、王らは相会して共に進んできたが、彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。」(詩篇48:4-6) 堕落した肉にある者にとって、産みの苦しみはただ呪いの結果です(創世記3:16)。「主よ、はらめる女の産むときが近づいて苦しみ、その痛みによって叫ぶように、われわれはあなたのゆえに、そのようであった。われわれは、はらみ、苦しんだ。しかしわれわれの産んだものは風にすぎなかった。われわれは救を地に施すこともせず、また世に住む者を滅ぼすこともしなかった。」(イザヤ26:17-18)

しかし、キリストの贖いの御業の成就を待ち望んでいる人々にとっては、これは無意味な苦しみではありません。ちょうどパウロが、「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ4:9)と言ったように、個人における贖いの御業も、これから地の通過しようとしている苦しみも、神の子供たちにとっては、ともにキリストの贖いが実際に完成するための過程なのです。

「主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえられるべき方である。シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。そのもろもろの殿のうちに神はみずからを高きやぐらとして現された。」(詩篇48:1-3)

やがて天と地が回復されるときが来ます。やがて天の統治が地にも確立され、「新しい天と新しい地」(黙示21:1)が来ます。肉にあるものが滅び、霊にあるものが確立され、栄えます。これまでの教会の度重なる敗北さえも、次の御言葉のもたらす喜びをかき消すことができないのです、「喜べ、不妊の女よ。声をあげて喜べ、産みの苦しみを知らない女よ。ひとり者となっている女は多くの子を産み、その数は、夫ある女の子らよりも多い」(ガラテヤ4:27)

霊によって産むことは肉によって産むことに比べ、一見、困難に見えます。霊によって産むことには戦いがつきもので、しばしば、肉による実だけが栄えているように見えます。しかし、霊にまいたものは永遠に残るのです。私たちは雅歌において歌いあげられているキリストの花嫁であるあの美しい乙女が、上なるエルサレムを母として生まれた者であることを知っています、「自分の愛する者によりかかって、荒野から上って来る者はだれですか。…あなたの母上は、かしこで、あなたのために産みの苦しみをなし、あなたの産んだ者が、かしこで産みの苦しみをした。」(雅歌8:5)

「シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。だれがこのような事を聞いたか、だれがこのような事どもを見たか。一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。一つの国民はひと時に生れるだろうか。しかし、シオンは産みの苦しみをするやいなや その子らを産んだ。わたしが出産に臨ませえて産ませないことがあろうか』と。主は言われる、『わたしは産ませる者なのに胎をとざすであろうか』とあなたの神は言われる。

『すべてエルサレムを愛する者よ、彼女と共に喜べ、彼女のゆえに楽しめ、すべて彼女のために悲しむ者よ、彼女と共に喜び楽しめ。あなたがたは慰めを与えるエルサレムの乳ぶさから乳を吸って飽くことができ、またその豊かな栄えから 飲んで楽しむことができるからだ』。」(イザヤ66:7-11)


そこで、私たちはこの肉体の幕屋の中にあって、キリストの御霊の統治をこのわたし自身とこの地にもたらすべくうめいています。そして、キリストの花嫁たる教会の出現と、新しい天と地の出現というキリストの贖いの成就を待ち望んでいます。それはやがてキリストが来られて彼の主権の下にこの地が返されるためです。すべての被造物が膝をかがめて、イエスを主と告白するためです。サタンと暗闇の支配が追放されて、愛する御子の光の統治が永久に打ちたてられるためです。「『わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地が わたしの前にながくとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名はながくとどまる』と主は言われる。」(イザヤ66:22)

再びオースチンスパークスの『贖いの八階調』、第8章より

最後に主は来られます!なぜでしょう?これをすべて成就するためです!人の贖いを完成させるためです!主が最初に来られたとき行われたことをすべて、あらゆる領域にわたって完成させるためです!ローマ人への手紙第八章は、この贖いの究極的完成の二つの面について取り扱っています。

第一に、神の息子たちの出現、現れです(ローマ8:19)。彼らは秘密にされ、隠されてきました。神格の三位の間でのみ、誰がキリストのものか知られています。しかし、彼らは公表され、明らかにされます。これが贖いの究極的完成です。それは神の息子たちを公にして明らかにすること、彼らを公に知らせ、栄光の内に示すことです。

私はいつも思うのですが、この点に関して使徒パウロがテサロニケ人に述べた言葉はとても素晴らしい言葉です。
「主が来られる時、主は聖徒たちの内で栄光を受け、信じるすべての者たちの内で驚嘆されます」(2テサロニケ1:10)。その時、受肉の目的が完成されます。贖い、再構成、成就、栄光化、これはみな主の再来のとき満ち満ちたものとされるのです。…これは受肉の働きと目的の究極的完成であり、主の地上生活の意義が信者たちの内ですべて究極的に完成されることです。

しかし次に、ローマ八章は贖いの他の面にも触れています。「全被造物は神の息子たちの出現を待ち望んで」おり、「共にうめき、苦しんでいます」(19、22節)。現にそうなのです。「被造物自身も解放されます」(21節)と使徒は言います。主は御足を地上に置いて、「地は私のものです」と言われました。主はこの地上に来て、そこで生活し、そこで勝利を収め、地のために全地にわたる勝利を獲得されました。

そして今、主が再臨される時、贖いの究極的完成として地が贖われます。
「被造物自身も腐敗の縄目から解放されます」。しかし、解放されるのは被造物だけではありません。私たちの体もまた、この贖いの究極的完成の恩恵を受けるのです。「私たちもまた内側でうめきつつ、私たちの体の贖いを待ち望んでいます」(23節)。信者の肉体も「腐敗の縄目から解放される」のです。

これはみな、主が来て行われたことです。主がご自分で行われたこと、主ご自身について真実であることを、主はいま信者たちの内ですべて実際化しておられます。次の御言葉はもっぱら主の神性に関するものであることを私は知っていますが、それでもこの御言葉には二次的な意味があります。「彼が死に支配されていることは、ありえないからです」(使徒2:24)「あなたはあなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しになりません」(27節)。主は聖者だったので、死に支配されていることはありえませんでした。なぜなら、死は罪の刑罰だからです。前に述べたように、この御言葉はもっぱら神の神聖な御子に関するものです。御子は朽ちることのない、罪のない御方です。

しかし今、主は信者たちを罪と腐敗から解放し、それゆえ罪から解放されます。また、主ご自身について真実であることを信者たちの内で実際化されます。主は信者たちを神にするのではありませんが、恵みを通してご自分の勝利のあらゆる価値を信者たちに賜ります。そして、これには体の贖いも含まれるのです。

なぜ再来(=再臨)が必要か、おわかりになったでしょうか? 主がそのために来られたこと、初臨のとき主が行われたことを、すべて実際化するためなのです。そして、これがすべてではありません。十字架において、主は罪の問題全体を取り扱っておられました――主はご自身で罪の問題を完全かつ決定的に取り扱われました。その間、主はそれ以上に、サタンの問題全体を取り扱っておられたのです。

十字架の真の戦いが行われたのは、主権者たちや権力者たちというあの宇宙的領域においてであるという事実を、私たちは強調しようとしてきました。その領域で真の戦いが繰り広げられたのです。それはあらゆる悪、邪悪さ、サタンの王国の暗い事柄に対する、恐ろしい戦いでした。そしてそこにおいて、主イエスは完全な勝利を勝ち取られました。主の再来はこの勝利を絶対的な最終のものとするためであり、教会をこの勝利の恩恵にあずからせるためなのです。

私たちは戦いの中にあります。そして、私たちがカルバリの立場、十字架の立場に立てば立つほど、この戦いはますます激しくなります。これはまぎれもない事実です。サタンは十字架を憎んでいます。もしあなたが本当に霊の中で十字架の立場に立つなら、あなたは戦いの中に入ります。サタンはあなたをこの立場から引き離すためにあらゆることをするでしょう。

主イエスが戻って来られるのはまさに、ご自身の内でこの戦いを完全に終わらされたように、教会のためにこの戦いを完全に終わらせるためです――あるいはおそらく、主が教会のためにこの戦いを終わらせたように、教会の内でこの戦いを終わらせるためである、と言うべきかもしれません。主が来られる時、サタンの統治と暗闇の王国は、一度限り完全に終わります。これが主が来られる理由です。


 

 

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