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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されています

あまり時間がないので十分に解説を加えられませんが、非常に重要なテーマであると感じている事柄について語らせて下さい。

以下の記事では、私たちは古き人を離れるべきことについて見ました。今や私たちのアイデンティティは罪深い古き人ではなく、キリストにある新しい人です。本当に信じがたいことですが、新創造なる新しい人には罪の痕跡がないのです。肉体の内には依然として罪の法則が働いていても、この新しい人は神の聖なるいのちによって生きているのです。

主が言われるのです、「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない。」(イザヤ43:25)と。古き人に対する十字架の死の判決を受け入れた以上、私たちはもう過去の罪の問題に立ち戻って、それを掘り起こそうとしてはなりません。古き人に責任を負おうとしてはなりません。

ですから、たとえサタンの燃え盛る罪定めの火矢が、どんなに私たちに向かって盛んに放たれ、私たちを過去の古き人の中に引きずり戻そうとしたとしても、私たちは「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ3:13)、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(ヘブル12:1) 

罪は地に属します。余計な重荷や、からみつく罪は、地からやって来て私たちを地に縛りつけようとします。しかし、神は私たちを天へと、上へと召して下さるのですから、そうした地のものをかなぐり捨てるべき時が来ています。私たちは古き人と訣別し、新しい人として天に向かうのです。

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:1-2)

もはや地を見てはなりません、罪の中を歩んではなりません、過去のもろもろの罪を思い出して、そこへ何度も立ち戻ろうとしてはなりません。そのなじみ深い古き人を自分の実際として受け入れてはなりません。彼は裁かれたのです、罪の奴隷だった古き人と私とはもう何の関係もありません、かつてわたしそのものであったこの古き人は、今や永久にカルバリで死の中に釘づけられ、さらしものにされています。

「生きているのは、もはや、わたしではない。」(ガラテヤ2:20)――それはもうわたしではありません。今、私たちが生きているのは古いアダムの命によるのでなく、罪汚れとは一切関係のないキリストの聖なるよみがえりの命によるのであって、私たちが立っているのは復活の土壌なのです。「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」

復活は私たちを古き人から引き離し、もろもろの罪から引き離し、高く天へと引き上げます。いのちの御霊の法則が、罪と死の法則を上書きし、この死ぬべきからだをも、罪と死の法則から救い出し、神に対して生かすのです。ですから、私たちは堂々と宣言します、もし彼と共に死んだなら、彼と共に生きると!

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)

これはものすごい威力を持つ宣言です。この奴隷解放宣言を大胆に受け取りましょう。私たちの手には御子が十字架で流された血による解放の証書が配られました、私たちはアダムにあってキリストと共に死んだので、もう罪の奴隷ではありません! こんなに素晴らしい解放宣言が出されたのに、これ以上、どうして奴隷として、罪のうちに、以前の主人のもとにとどまる必要があるでしょう。どうしてこの暴君の下へ引きずり戻され、彼の支配を認めなければならないのですか? 私たちを買い取られ、暗闇の圧制からから解放した新しい主人がおられます。今やその方の光に満ちた支配が私たちに及び、その方が私たちの新しい主人です。そして、その方は私たちに圧制を敷いたり、君臨したりすることはなく、私たちを尊重し、自由にしてくれるのです。

「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:15)

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。」(コロサイ1:13-14)


私たちは御子にあってあがないを受けています。この贖いの中に、キリストがもっておられた全てを私たちが合法的に受け継ぐ資格が含まれています。分かりますか? キリストがその尊い人格の中に持っておられた全てを受け継ぐ資格を私たちは本当に与えられているのです。一体、そのうちどのくらいのものを私たちは実際に受け取ったでしょうか? いずれにせよ、これがキリストにある新しい人です、これが私たちが贖われたことの意味です。

キリストのよみがえりの命の中で、神は私たちをキリストに似る者になさろうとしておられます、これは、いのちの性質において、私たちがキリストと同じ性質を持つ、真に健やかな人間らしい人間になることを意味しています。キリストを長兄として、私たちは彼と同じ神のいのちによって生まれた兄弟であり、キリストと同じ出自を持つ、キリストに似た者なのです。それは十字架で死なれ、よみがえられた方の霊であるいのちが、信仰を通して私たちの内に宿ったことによるのです。

「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」(ローマ8:29)

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。」(Ⅰヨハネ3:2)

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)


キリストにある新しい人が、どのようにキリストに似た者とされるのか、キリストに似た性質とは一体、何なのかについて、場を改めて考えることにしましょう。今はそのことよりも、私たちがキリストと共に死んでよみがえらされ、天に座す者とされたことにより、私たちがキリストと共に統治する者、天の支配をこの地にもたらす者とされたことの意味について考えてみたいのです。

これは、私たちがこの地をサタンと暗闇の軍勢の支配から神の実効的支配のもとへ取り返す使命を帯びていることを示しています。確かに、目に見える万物は呪いの下にあり、滅びに定められています。地は堕落しており、回復不可能です。目に見える万物(旧創造)を旧創造のままで滅びから救うことが御旨なのではなく、目に見える全てが滅んだ上で、新しい天と地が来ることが御旨なのです。しかし、今の時代、神の子たちの現われによって、この目に見える滅びゆく地にさえ、天の支配が及ぶということの意味を考えてみる必要があります。

神の意図されたことは、目に見える世界がただ滅びに飲まれて終わるのを私たちがじっとたたずんで見るように、ということではありませんでした。神の子供たち、この新しい人々が地上に現われることによって、滅びゆく限られた時空間の中でさえ、永遠である天の支配が拡大し、神の御霊の主権的支配が拡大することが神の意図されたことだったのです。これは決して、私たちが目に見える世界を物理的・領土的に奪回しようとすることを意味しません。私たちがこの地上において帯びている使命は、旧創造を旧創造のまま救うことではなく、キリストの十字架の死を土台として、この地に天をもたらすこと――この世の支配をはるかに超越するキリストの永遠のいのちの統治をこの地にもたらすことです。この悪しき時代の只中で、暗闇の支配下にあるこの地に、私たちを通して御霊の光の支配が及び、この地に永遠に翻る神の主権の旗が打ち立てられることなのです。

引用が前後しており、文脈が分かりづらくなっているものと思いますが、キリストと共に統治するこの新しい人について、再び、オースチンスパークスの『贖いの八階調』、第八章から引用させて下さい。

(*ここでは、キリストにある新しい人々が全世界に出て行くことの最も重要な意義は、(キリスト教界においてよく誤解されているように、旧創造を惜しみ、旧創造に向かって滅びはないと偽りを宣告することではなく)、旧創造に対しては十字架の死を宣言することにより、この地を暗闇の支配から奪回し、キリストのまことの復活のいのちの統治をもたらすためであると解釈されていることに注目したいのです。)
 

「地は主のものである」

神の御子が人の子としてこの地上をご自分の足で歩まれたことには、何かとても重要な意義があったのです。前の学びで詩篇二十四編を引用しました。この詩篇は「地とそれに満ちるものは主のものである」という言葉で始まっていることがわかります。…

第二区分(3節)は
「主の山に登る者は誰か?」で始まり、その答えが続きます。「手が清く、心の純粋な者、その魂を空しいものに向けない者、偽って誓わない者こそ、その者である」キリスト――この方こそ、その者なのです!

次に第三区分です(7節)。
「門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王が入られる」(A.S.V.)
。この流れをご覧になったでしょうか? 地は主のものです。主はご自分の足で地上を歩み、実際にこの地上に立たれたのです。主は手や心を汚すことなくこの地上で生活されました。それゆえ、主、ただ主だけが、主の山に登るのにふさわしい方なのです。主が地上に来て、このような生活を送り、このように勝利されたがゆえに、とこしえの戸が開きました。主は入ることができます。

さて、要点はこうです。地は主のものであり、主はこの地上を歩んで言われました、「この地はこのような種類の人のものであり、天はこれを証しします!」。これが詩篇二十四篇の意味です。これが、主がこの生涯を送り、勝利を収め、勝利のうちに復活された時、弟子たちに「全世界に出て行きなさい。全地に行って、あなたたちの足で歩み、『地は主のものです。主は創造者であり、贖い主だからです』と宣言しなさい。あなたたちは出て行って、地上を自分の足で歩みなさい。地は私のものです。これはみな贖いの行程の一部なのです」と言われた理由です。

十字架は、この受肉の目的であるこの贖いを有効なものにすることでした――主はご自分の足でこの地上を歩み、そこで勝利の生活を送られましたが、十字架はこの地の贖いを有効なものにすることだったのです。十字架により、主は地をこの世の君の手から取り上げて、ご自分の合法的所有として取り戻されました。主は言われました、「今、この世の君は追い出されます」(ヨハネ12:31)

復活した主は地を所有しておられます。そして四十日のあいだ、主はご自分が生きているというこの偉大な事実を確かなものにされます。主は生きておられます!主は「死にました」が、「永遠に生きて」おられます。主は「死とハデスの鍵」(黙示録1:18)を持っておられます。そして主はこの事実を彼の教会の数々の核により、まさにそれらの核の存在そのものにより、常に確かなものとしておられるのです。

次に、主は弟子たちの前で栄光に入りました。そしてこれらすべてのこと――意義深い受肉、輝かしい勝利を収めた地上生活、悪魔の働きを滅ぼした素晴らしい十字架――これらすべては地上から取られて、人であれ悪魔であれ、この地上の何ものの手も届かない所に、何ものも触れたり変更したりできない所に置かれました。すなわち、天に置かれたのです。主ご自身が天について私たちに告げておられることは覚えておられるでしょう、「そこでは虫も食わず、さびもつかず、盗人らが押し入って盗み出すこともありません」(マタイ6:20)。それは彼方にあります。

「あなたたちの命はキリストと共に神の中に隠されています」(コロサイ3:3)。それは上なる天にあります。地上の何ものもそれを妨げることはできません。これが昇天です。

御霊は天で栄光を受けたキリストの霊として降臨しました。御霊が遣わされたのは、これらの真価をすべて――潜在的に――天から地にもたらすためであり、それらをこの経綸のあいだ弟子たちの内で有効なものにするというこの働きを引き受けるためでした。

教会は「ひとりの新しい人」である器として誕生しました。これについて、「教会はキリストが再び受肉したものである」とは言っていないことに注意しましょう。御霊が来臨したのは教会に内住するためでした、また、主ご自身が成し遂げて栄光にもたらされたすべての御業を表すために、教会をキリストのからだとしてキリストの伴侶とするためだったのです。
 

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