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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神の安息に入った者は、神をみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだ

キリストにある新しい人、その概念が今は私を惹きつけてやみません。キリストにある新しい人!このことを思い巡らすだに、私の霊の内側に大いなる喜びがこみあげるのです。

主は今までもよく私をこうした不可解な分析へと導かれました。グノーシス主義の一連の分析もそうだったのですが、初めはそれが何のために必要なのか誰にもさっぱり分からないのです。しかし、やがてなぜそれをせねばならなかったのかが分かるようになります。

私の経験から言えることは、主は私たちにいつも重要なテーマを順を追って与えて下さり、そして、私たちの目を開かせるために、それについてまず私たちが自ら思い巡らすように仕向けられるということです。世間には理解できないかもしれません。しかし、体裁は脇に置いておきましょう。ここで必要なのは、神が本当にそれを教えて下さるまで、決してあきらめず、引き下がらないことです。その重要性がどこにあるのかをはっきりと知るまで、あきらめないことです。

霊的な実際は、肉眼で見られる実際と違って、誰もが目にできるわけではありません。肉眼で見られる風景は誰でも見られますし、しかも、それを見たほとんどの人たちが同じような感想を持ちます。しかし、主が私たちの目を開いて下さらなければ、霊的実際はたとえ存在していたとしても、人の目には見えず、ないも同然です。御霊による秩序こそ、まことのリアリティですが、私たちに切に願い求める気持ちがなければ、それは決して開かれません。飢え渇きのない人には、そんなことに時間を費やすのはただ徒労です。霊の目を持たない人はその願いを共有することができません。霊の事柄は、生まれながらの人にはまるで愚かなものにしか思われないのです。

しかし、それは何と寂しい生き方なのでしょう。ある兄弟が言ったように、イサクの人生は全てを父アブラハムから受け継ぐだけの順風満帆なものでしたが、しかしながら、晩年のイサクは信仰者としてはそれほど輝いていませんでした。なぜならば、イサクは霊的実際を神と共に見ることができなかったからです。

イサクはヤコブを祝福した時、自分が何をしているのか分からず、妻と息子に騙されていることにさえ気づきませんでした。イサクは気づかずに神の御旨を成就していたとはいえ、目に見えるものしか見られなかった点で、御旨からはある意味、置き去りにされていたと言って良いのです。彼は自分が何をしているかを理解した上で、主と同労し、御旨の成就をともに喜ぶことができませんでした。これは悲しい事実です。信仰はあっても、主の御思いをとらえることができなかったからです。これに対して、ヤコブの人生の前半は、全く無用な紆余曲折に満ちているようでしたが、晩年のヤコブは霊的実際をはっきりと見ていたのです。見て、知った上で、主と共に同労し、自らその道を選び、歩んだのです。

さて、話を戻せば、キリストにある新しい人、これは私たちの目の前に開けている大海原のような未知のテーマです。ここに分け入った人はそんなに多くありません。これまで人類は何とかしてこの新しい人を自力で造り出そうとしてきました。共産主義者さえも、このテーマに熱中しました。その背後には暗闇の勢力の思惑がありました。サタンと暗闇の勢力は神のこの偉大な御業に嫉妬し、それを何とかして自力で模倣し、奪い取ろうとして来ました。暗闇の勢力にとってさえ、新しい人類を生み出すというテーマが死活問題だったのです! サタンがそれを追いかけるのは、ここに神の御思いが結集しているからです。

ですから、サタンと暗闇の勢力が人類の絶望的な自己改造の努力を通して、幾度となく新創造に達しようとし、致命的な失敗を繰り返して来たならば、それにもまして、真理の御霊によって私たちの内に新しい人を形作ることが、どうして神の切なる願いでないと言えましょう。もしそうでないなら、キリストの十字架は何のためでしょう。あの大勢の白い衣を着た数え切れない群集のような新しい人々を得るために、キリストはわき腹から水と血と霊によって洗い清めた聖なるエバである教会を生み出されたのです。

神ご自身がどんなにか私たちをこの新しい人として得たいと願っておられるでしょうか! しかもそれは個々人であるばかりでなく、団体の人でもあるのです。私たちはすでにそのようなものとされている、と御言葉は告げているのです。ですから、私たちは今や大胆にこの事実をつかみとり、この事実の中へ実際に入り、キリストにある団体の人として、地的なものを離れて、天へと進みます。絡みつく罪を離れ、聖なる王族の衣装を着せられて、天の実際の中に入りましょう。

目に見えるものがより一層、破壊と混乱を極めるからこそ、この時代のコントラストは、これから先、地と天とのコントラストとなっていくと思うのです。天とはどのような場所であるか、地とはどのような場所であるか、次の御言葉が告げています。 

「今や、われらの神の救と力と国と、
神のキリストの権威とは、現われた。
われらの兄弟らを訴える者、
夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、
投げ落された。
兄弟たちは、
小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、
彼にうち勝ち、
死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
それゆえに、天とその中に住む者たちよ、
大いに喜べ。
しかし、地と海よ、
おまえたちはわざわいである。
悪魔が、自分の時が短いのを知り、
激しい怒りをもって、
おまえたちのところに下ってきたからである」(黙示12:10-12)


これから先、地はもはや人の住みたくないような場所になっていくのではないでしょうか。ですから、私たちは今から目に見えない天を生き、御霊の統治の霊的な実際の中を生き、天の秩序を地にもたらす者となります。キリストにある新しい人は、キリストとともに死に、よみがえり、天に座し、彼と共に統べ治めている人、神の霊的な実際の中で神とともに生き、神の御業に安息している人です。

イサクはついに真の安息を得られないまま息を引き取り、ヤコブは様々な試練の果てにようやく霊的実際を見るようになりました。ヨセフも多くの苦しみを見なければなりませんでした。しかし、彼らよりももっと前に、安息した人の例としてエノクがいます。もしもアブラハムが律法を飛び越えて、その当時から約束によって与えられる安息の国をはるかに仰ぎ見ていたならば、エノクは人類に先立って、すでにキリストの安息に歩んでいたのだと言えます。

エノクは地上をまるで至聖所の中にいるかのように歩んだ人でした。驚くべきことに、エノクにとって至聖所は全く限定されておらず、隠されてもいなかったのです。モーセでさえ、燃える柴の前で靴を脱がなければならなかったことを考えると、これは私たちにとってかなり衝撃的です。このように臨在の只中を生きるとは、彼は何者だったのでしょう? 人類のあの苦しみに満ちた神との格闘の歴史の始まるはるか前に、エノクは神の御心の中心をとらえていました。そこで、彼は御旨の只中に引き入れられ、聖なる神の臨在の只中を生涯に渡ってごく当たり前のように生きたのです。ある意味、エノクはすでに永遠の都にいたのです。彼は新エルサレムの中を毎日のように主と共に生きていたのです。そしてその日常の延長として、当たり前のように天に取り去られていなくなったのです。

エノクにあってはまるで天と地との境がほとんどないかのようになっているのを私たちは見ます。それはエノクが地上にある時からすでに天の秩序の中を生きていたからなのです。

キリストにある新しい人のモデルを考えるとき、私にはなぜかエノクが真っ先に頭に思い浮かびました。神が私たちに望んでおられる新しい人の姿は、このようなものではないかと思わずにいられなかったのです。

ジョージ・ミュラーは信仰によって多くの孤児を養い、ハドソン・テイラーは命をかけて中国に伝道に出かけ、ウォッチマン・ニーは、ガイオン婦人がそうしたように、獄中で自分の命をすべて主に向かって注ぎ出しました。これらの人々の偉業は賞賛に値しますし、彼らは何と愛すべき聖徒たちでしょうか。これらの人々が信仰によって一粒の麦としての自分を徹底的に十字架の死に差し出したがゆえに、多くの人々の中で信仰によって命の実がを結ばれたのです。そのことを私は否定しませんし、私たちも彼らの遺産を受け継いでいるのです。

しかし、それにも関わらず、エノクはこれら全ての人と異なる何かとても不思議な魅力を放っているようです。それは上記の人々がキリストのために魂を勝ち取る戦士として、十字架と血潮と証の言葉に立って、前線で立派に戦い抜いたことにより、ある意味で、自分のわざに生きたのに対し、エノクは自分のわざというものを何も持たずに、ごくごく普通に神の臨在のただ中を当たり前のように生きた、言い換えれば、彼にはただ神と共に歩んだ、自分のわざをやめて休んだ、というただ一つのことしかなかったからです。

「なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。」(ヘブル4:10)

エノクは徹底的に自分のわざを持たない人でした。それは聖書にエノクが神のためにどんな偉大なわざをなしたのかが一切、書かれていないことでもよく分かるのです。このことは、神にとって重要なのは、エノクが神のために何をなしたかということではない、という事実をはっきり物語っています。私たちがエノクについて知りうることはあまりにも少ないのです。多分、彼はとりたててどうこう言うこともできないほど、極めて普通の人だったのではないかと思います。

「エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:21-24)

エノクが死を見ずに地上から取り去られたことにより、神が彼をどれほど愛されたかを私たちは知ります。神はエノクとともにおられ、死も二人を引き離さなかったのです。しかし、なぜ神がそれほどまでにエノクを愛されたのか、その唯一の手がかりは、ただエノクが「神とともに歩んだ」という事の他にありません。

しかし、「神とともに歩んだ」――実は、ここに全てがあります。エノクは他のどんな事柄にもまさって、ただ神と共にいることだけを望んだのです、エノクのわざとは、ただ神とともに生きたことだけです。しかし、そのことによって、彼は御心の中心をとらえたのだと言えましょう。あのイスラエルの長い神との断絶と反逆の歴史が始まるよりもはるか前に、神がまさに人に対して最も願っておられたそのご計画の核心をエノクがとらえたのです。それゆえ、エノクは歴史を飛び越して神と共に歩み、神の住まう幕屋とされ、主の御許へ引き上げられたのです。

ですから、私たちも自分の眼差しの照準をここに合わせるのです。天地万物が滅び去ろうとも、ただ神の御思いに一心に思いを馳せたいのです。なぜ黙示録においては、これほどまでに幾度も、神の幕屋が人と共にあり、神と人とが共におり、神と人とが共に住まうということが繰り返し強調されているのでしょうか? 

「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)

しかも、「神自ら人と共にいまして」、これは積極的な事実です。これは神の側からの極めて積極的な行動を表わしているからです。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)と言われた神は、ここでは自らもう二度と人から離れないとおっしゃっているようです。不承不承共にいるのではなく、ただ離れず、捨てない、というだけでなく、自ら共にいると言われるのです。ここにはもうあの背信の苦悩と悲しみはありません。神と人との結合は完全です。「それとも、『神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」(ヤコブ4:5)

まだそのような聖なる都は来ていませんが、その前触れとして、御霊によって生まれたキリストにある新しい人がいます。この新しい人の中で、神の霊と人の霊が調和して共に住んでいます。この人は神が住まうための神殿とされています。この新しい人の中では、神と人とが共に生き、調和の中で同労し、共に交わり、歩み、憩うのです。しかも、私たちはすでにいくらか前味としてこのことを知っています、死や、悲しみや、叫びや、痛みは、もはや過ぎ去りました、今や安息があります。なぜならキリストが私たちの内に来られたからです。私たちの安息はキリスト、安息日の主が人の内に来られたので、人の中での長い戦いはもう終わったのです。

ですから、私たちの心は地を離れます、地上がどんな場所になっても関係ありません、キリストにあるこの新しい人の中には天があります! この新しい人は地上を生きながら、主と共に天を生きているのです。彼は神が住まうための幕屋、神の花嫁であり、神と人とが共に住まう都です。彼は天の統治を地にもたらすために神が選び出された人です。その統治とは安息なのです。エノクは神と人とが共に住まう安息の都の原型のような人でした。主が彼と共に住んでおられたので、彼は天に引き上げられたのです。


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