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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

もしわたしたちがキリストと共に死んだなら、彼と共に生きることを信じる

キリストにある新しい人とは何かを考えるにつけ、キリストこそが、神が私たちにかくあれかしと願っておられる、神によって贖われた真に健やかな人の原型であるということが分かって来ます。そして彼はこの贖われた人の原型としてのご自分を私たちに分け与えられたのです。

 まだ十分に時間を割いて読んでいませんが、オースチンスパークスの「贖いの八階調」の第六章の中にこのことがよく書かれています。

 受肉には三つの極めて明白な意味がありました。一つ目は、人を贖うことです。人の性質について、また人は何から贖われなければならないのか、私たちは見ました。二番目は、神の当初の原型に従って人を再構成することです。三番目に、人を完成することです。神の御子は「人の子」という称号を帯びてこの三つの目的に取り組まれました。そして、彼ご自身において、この三つの目的は個人的に実現されました。彼は贖い主であっただけでなく、彼ご自身が贖いだったのです。贖いは人格的なものになりました。贖いとは彼が行われたことだけでなく、彼ご自身でした。彼は贖われた人の原型なのです。いま述べていることを補う必要があるでしょうか?繰り返すと、イエスは贖い主であっただけではありませんし、贖いとは彼が行われたことだけでもありません。イエスは贖いの個人的化身であり、代表者なのです。彼は贖われた人の代表者であり、贖われる時に出現する人類の代表者なのです。

次に、彼は神の御心にしたがって再構成された人でした。再構成されて別人になった人を代表する人でした。彼ご自身、「苦しみを通して完成されました」(ヘブル2:10)。彼は苦しみと試みを通して完成された人を代表しておられます。

 私たちはキリストを信仰によって受け入れ、自分の内に主として迎え入れました。今や、私たちはこの方とともに生きる者とされています。しかし、十字架の贖いはそこで終わらず、私たちは彼に似た者へと変えられていくのです。キリストが御霊によって私たちの内に住んで下さることにより、私たちはますます彼の命によって生かされ、彼に似た者へと変えられるのです。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18) それが神の意図しておられることなのです。

 しかし、考えるだに不思議です、これは、私がキリストになることでもなく、キリストが私になることでもないのです。一体、一人の人のうちにどうやって二つの人格が存在しうるのでしょうか? しかも、キリストのパースンと私のパースンは決して互いを排除しあったりせず、一つに解け合って混ざり合うこともなく、調和と一致の内に共に住まうというのです。キリストは私たちのパースンを尊重してくださいます。キリストの個性が私たちの個性を圧殺することはなく、彼の意志が私たちの自由意志を侵害することはないのです。それなのに、調和と一致の内に私たちは住まい、同労するのです。あの御霊の九つの実に代表されるような彼のへりくだって愛に満ちたご性質が、神の霊を通して、私たちの霊に触れて伝わります。主との霊における交わり、そして、この地上における共同生活を通して、彼のご性質が私たちの性質へと伝えられ、造りこまれ、私たちはキリストに似た者へと変えられていくのです。しかし、これらは主として霊の内側で行なわれることであり、外側からの感化や矯正ではないため、上手く説明の言葉が見つからないのです。

 さて、私たちはこれまで主と共なる十字架における肉の死、自己の死、古き人の死について見て来ました。私たちは自分の古い自己がキリストの十字架で裁かれ、死んだことを見て来ました。私たちはこれまでずっとアダムの命の絶望性について、私たちの生まれながらの自己の醜さについて、肉の改善不可能なことについて入念に見て来ました。今やもうちょっと先へ進まなければなりません。

 私たちはこれまで人の自己というものを主として否定的なものとしてとらえてきました。人の生まれながらの自己が神に逆らうものであり、十字架で死に渡されるしかないこと、私たち自身が十字架において自己を否み、魂の命を憎むべきことについて確認しました。これは紛れもない真実であり、私たちは古い自己に対する死の判決を受け入れました。

 しかし、ここで終わってはなりません。神が望んでおられるのは、この死を土台として、キリストにあって、私たちの自己が新しく生かされることであるという点に思いを馳せる必要があるのです。言い換えると、神は決して、私たちの個性が滅却されることや、私たちの自我が滅亡することや、私たちの自己が消滅することを望んでおられるわけではないのです。ですから、私たちの自己は、キリストの命にあって新しく再形成される必要があり、私たちはただ自分の古い自己が十字架で裁かれて死んだ、という事実だけで終わってはならないのです。

 私たちの自己がキリストにあって真の調和を取り戻すことこそ、神の意図されたことです。私たちの自己は十字架において裁かれ、死の土台に立ちました。今や彼の復活の命によって、私たちの自己はキリストとの調和の中でよみがえらされ、彼とともに生きるのです。

この地上生活について述べると、ここに人なる方、神が求めておられる種類の人がいます。そして、聖霊は私たちをこの種類の人に、神の御子のかたちに同形化するために来臨されたのです。一言で言うと、私たちをキリストに似た者とするためです。これが聖霊の働きです。このために聖霊は来臨されました。これは私たちにとって栄光の望みです。

十字架について述べると――そうです、次のことが同様に言えます。すなわち、聖霊の働きは常に、排除された古い人に反対して証しすることなのです。もしあなたや私が本当に聖霊によって内住されており、治められているなら、この古い人に触れる時それがわかるでしょう。この古い人は立ち入り禁止区域であることがわかるでしょう。「立ち入り禁止――近づくな!」という標識が掲示されていることに気づくでしょう。この古い人に触れる時に受ける痛みや反動に気づかないクリスチャンはみな、聖霊に対する感受性に欠けています。

しかし、これには他の面もあります。聖霊は私たちを積極面に保って言われます、「さあ、これが道です。命の道です。その古い土地から離れなさい――この命の土地にとどまりなさい!」。

親愛なるクリスチャンよ、これを心にとめなさい。
その古い人と手を切りなさい 古い人を掘り返して、それを見つめてばかりいてはいけません。古い人の所に行ってその周囲を巡り、その中に――すなわち自分の中に――何か良いものを探そうとしてはいけません。なぜなら、そうしようとしてもできないからです! 神の判決は「古い人の中には『良いものがなにもない』」(ローマ7:18)なのです。ですから、この古い人という土地を離れて、この新しい人という土地にとどまりなさい。この古い人は暴露されました。きっとあなたはすでに、この古い人がどれほど悪いか御存知でしょう。どうしてこの古い人に関わる必要があるのでしょう?

聖霊が来臨されたのは、私たちがその上で生活するべき別の土地があることを私たちに知らせるためです。聖霊が来臨されたのは、十字架の働きを有効化するためです。十字架は古い人を取り除き、新しい人をもたらします。言いかえると、十字架は復活のために道を拓くためなのです。あなたや私は今、彼の復活の土地の上で復活の命によって生きるよう、聖霊によって召されています。復活はこの経綸の偉大な特徴です。古い人を取り除いて新しい人のために道を拓くこと――これは二つの対をなす真理です。聖霊はこの土地の上で働くために来臨されたのです。

 これは恐るべきと言っても良いほどの衝撃的な事実を告げているのですが、まずは、分かりやすいことから説明を始めましょう。私たちは十字架において古い人の受けた判決を決して忘れませんし、古い自己に対する十字架の死の土台から離れることはありません。が、しかし、私たちをあの古い自己に引き戻そうとする全ての力に対抗して、それを拒否し、復活の土台において、キリストにあって私たちが与えられた天的な新しい人としての地位にとどまるのです。

 私たちを古い人に引き戻そうとする最も大きな力は罪定めです。サタンはささやくでしょう、「おまえはかつてあれやこれやの醜悪な罪を犯してきた。思い出す限り、おまえはどこへ行っても、問題ばかり引き起こして来たし、罪の問題を対処できなかったではないか。どこへ行っても、おまえは嫌われ者であったし、トラブルメーカーであった。今、それがどう変わったというのか? おまえがどう新しくなったというのか? おまえを見ても、新しくなった要素など何一つ見いだせない。おまえは以前と同じく利己的であり、罪深くて、肉的であり、魂的で、人を迷わせる有害な人間なのだ。他のクリスチャンもおまえを指してきっとそう言うに違いない。言ってみなさい、おまえのどこが以前と変わったというのか? いい加減にこれが事実だと認めなさい、おまえがどれほど神を信じても無駄なことだ、おまえの内に新しい要素など一つも見いだせないし、これからもきっと永久に何一つ見いだせないだろう。」

 私たちはこのような悪質な言いがかりをすべて血潮においてきっぱりと退けて、サタンに対しては堂々と神の事実を宣言しなければなりません。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」(ローマ6:6-8)

 私たちはこの宣言において、罪の奴隷としてしか生きられなかった古き人を脱ぎ捨てて復活の土壌に生きる新しい人へと旅立つのです。私たちを罪定めすることで、もう一度、古き人の中へ、あの罪の奴隷とされていた古き人人の中へ引き戻そうとする全ての力に全力で抵抗して宣言するのです、私たちはもはやその古き人の罪に対して何の責任も負っていないと! なぜなら、その古き人はもはや十字架で裁かれ、死んだからです。死刑を受けた者に対してどうしてそれ以上の罪の追求が可能なのでしょうか? それはもはや裁かれ、私たちから切り離されたのです!

 ですから、宣言するのです、私たちは古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。」(コロサイ3:9-10)。そして、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着」(エペソ4:22-24)たのです。

 私たちはこの絶大な事実を受け取ります、「すでに死んだ者は、罪から解放されている」と。

 ですから、こうして私たちは古き人と手を切ります。あのなじみ深かった罪の土壌を離れ、しみもしわもその類のものが一切ない、罪の痕跡を持たないキリストの栄光の花嫁へと向かって旅立ち、この朽ちゆく肉体の上にキリストにある新しい人を着るのです。このことは決して私たちが地上において完全に聖化されることを意味しているわけではありません。しかし、私たちは罪の奴隷としての古き人のアイデンティティとは完全に手を切り、新しい復活の土壌へ旅立つのです。

 古き人は裁かれたのですから、もはやそれは私たちに属しておらず、私たちの責任範囲の外に追い出されています。私たちはそこから目を離し、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人」を一心に見つめます。今や自分がキリストにあって完全に新しくされ、神にかたどって造られた新しい者とされたことを認識し、この事実を受け入れ、その新しい人を信仰によって自分自身のものとして受け取るのです。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)

 これを何とお手軽かつ無責任な理論なのだろうと思って嘲笑ってはいけません。この神の事実に立つことしか、私たちの自己を真に生かしうるものは他にないからです。決して、古き人に対していつまでも責任を負おうとすることが誠実さなのだと思ってはなりません。そんな種類の"責任感"や"道徳性"は無用です。地上において古き自己を改良するために作り出されたいくつもの理論、心理学的カウンセリングや、インナーヒーリングや、自己改善の努力の一切が無意味であり、そんなものは私たちを一歩たりとも古き自己から解放できません。ただキリストの十字架だけがそれをなしうるのです、彼の十字架における死とよみがえりだけが、私たちに古き人の死と、新しい人とは何かを見せてくれるのです。ですから、神が私たちに実際として見せて下さるまで、私たちは御言葉の事実にしっかりと立ち続けるべきです。

 さて、キリストにあるこの新しい人の中に、彼の復活の命の中で建て直され、調和を回復された私たちの新しい自己が含まれています。これは命の源が変わることによって、私たちが真に神に対して生かされる者となったことを意味します。適切なたとえかどうか分かりませんが、あえて説明を試みるならば、私たちをかつて生かしていたアダムの命は、ちょうど腐ったエンジンオイルのようでした。この劣悪な油は、どんなに精巧に作られた性能の良いエンジンをも、ただ壊すことしかできません。それはどんなに注ぎ込んでも、束の間、エンジンを作動させるかに見えて、その実、ますますエンジンを破壊し、調和を失わせ、死に近づけるだけでした。それなのに、以前には、私たちにはこのアダムの命という腐敗した絶望的なエネルギー源しかありませんでした。

 ところが今や、キリストの御霊という正常な油がエンジンに注ぎこまれたのです! もちろん、肉体の幕屋としての私たちのエンジンは決して完全ではありません。以前の油が腐っていただけでなく、肉体も罪を帯びており、絶えず死へ向かっているのです。しかし、今やキリストの新しい油により、私たちの肉体に働く罪と死の法則をも覆す新たな法則が与えられています! それがいのちの御霊の法則なのです!

もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:11)

キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、
あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである

だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」(ローマ6:10-14)


 何ということでしょうか。聖霊はキリストが達成されたものを受けて、それを私たち自身のものとして下さるのです。この御霊によって形造られる新しい人がどれほど罪の痕跡を離れているか、地上のものから超越しているかに思いを馳せて下さい。これがキリストにあって私たちが与えられている新しい地位なのです。

最後に、これはみな栄光のうちにある人なる方に集約されます。彼はこうしたあらゆる神聖な事柄の化身です。彼は天で就任しておられ、地上のあらゆる危険を超越していて、地上から介入されるおそれはありません。この世は状況を変えようとしていますが、彼はこの世の手の届かない所におられます。彼はこの世を全く超越しておられます。そして聖霊が来臨されたのは、彼の中に化身されているこれらすべてのものを引き継いで、それを私たちや教会の中で成就するためなのです。

ですから、「なぜ聖霊なのか?」という問いに対する答えは次の通りです。すなわち、人類に関する主の受肉の意義をすべて有効化するためであり、主の地上生活の意義を有効化し、主の十字架の意義を有効化し、主の復活の意義を有効化し、主イエスの昇天と栄光化の意義を有効化するためです。聖霊はこれをすべて引き継がれるのです。その目的は、それをすべて信者の内に実現させることです。

 私たちの自己は今や新しい油によって生かされています! キリストは聖霊を通して私たちの内にパースンとして住んで下さるのですが、それによって、私たちの人格、私たちの自己が侵害されることはありません。今や新しい油が私たちを生かし、私たちの自己はキリストにあって真に調和の取れた自己として新たに生かされるのです。私たちはキリストとともに生きますが、私たちがキリストになるのではなく、キリストが私たちになるのでもなく、私たちはキリストと同労する実にユニークなわ・た・し・た・ち自身であり続けます。

 今や私たちの個性は、もはや古い自己に属する、裁きにしか値しない忌まわしいものではありません。私たちの自己は、彼にあって建て直されたのです。以前には罪に縛られ、罪に捧げられていた自己が、今やキリストと共なる十字架における死を土台として、彼のよみがえりの命によって義の武器として神に捧げられ、生きた聖なる供え物として、新しくされ、生かされたのです! そして、このキリストの御霊という新しい油によって生かされる新しい自己を持って、私たちは神に仕え、生きるのです!

 キリストと同労する新しい自己の出現、キリストがこの私たちの朽ちゆく肉体の幕屋の中に共に住んで下さるという事実は、私たちを世から見て非常に不可解な、クリスチャンから見てさえも、説明のつかない、形容しがたい不思議な人にしてしまいます。私はある兄弟をじっと観察しますが、彼は何と不可解な側面ばかりから成っているのでしょう! 全く私には理解不可能に見えます。見れば見るほど、一体、この人はどういう人なのかが分からなくなるのです。私の知性ではまるで判断できません。時々、異常なのかしらとも思います。本当にクリスチャンなのかしらと思い、ちょっと試してみたりもします。しかし、この兄弟は何かしら理解を超えた不思議な魅力を放っており、愛さずにいられない人なのです!

 そして、その不可解さは、決して調和を失った危険な類のものではなく、ただ私の未だかつて知らなかった何かであるとしか言えないのです。私自身の内側におられる方のいのちによって、私はその人の持っているいのちへと惹きつけられます。また、神の愛がその人に注がれていることが感じられてなりません。私はじっと兄弟を覗き込み、彼をじっくり観察し、色々と試してみますが、一つの結論にしか達しません、やはり、ここには私の知らなかった何かがあるのだと、それはとても貴重な何かであり、この人の中にあってこの人を内側から動かしているこの不思議な原動力を、私も得たい、いや、得なければならないと。

 理解不可能、それにも関わらず、惹きつけられてやまない愛すべきユニークな命、それがキリストの命であり、また、キリストにある新しい人の持っている魅力なのです。キリストにあって彼とともによみがえらされ、彼の復活の命によって生かされることは、決して私たちを飛躍的に超人めいた偉大な人物に変えるのではありません。そんなことでは全くないのです。しかし、この新しい人を形容する言葉を私はほとんど持たないのです。言えることは、私たちは生きてそれを実際に知るべきだということです。

 私たちキリスト者は一人ひとりが、このような不思議な人となるべきなのであり、また、実際にそうなのです。私たちの内側でこの新しい人はまだ十分に育っていないかも知れません。しかし、もしも私たちが彼とともに死んで、彼とともによみがえらされたなら、この不思議な魅力を放つユニークな新しい人は、すでに私たちの中にあるのです。私たちは古き人の死を土台として、今やキリストと手を携えて、この復活の土台にある新しい人へ向かって進みます。それが、キリストが十字架を通して私たちに与えて下さった愛による最大の贈り物であり、彼はまさに十字架を通してご自分を私たちに分け与えて下さったのですから。

彼は他の人と何と異なっていたことか――まったく異なっておられ、すべての人が不思議に思ったのです。「あなたたちの間に、あなたたちの知らない方が立っておられます」(ヨハネ1:26、A. S. V.)。これは、彼は肉において現れた神聖な神の御子だったということだけではありません。繰り返し明らかになったように、人々は人としての彼すら理解することができなかったのです。最も親しい友人たちですら彼を誤解し、理解できませんでした。人としての彼には何か他の人と異なる、説明できないものがありました。しかし、彼こそ神が得ようとしておられる種類の人なのです。

…これは…、とても現実的です――すべてのクリスチャンもそうでなければならないのです。この世は彼を知らなかったので、私たちをも知りません(ヨハネ1:10、16:3、1ヨハネ3:1b)。真のクリスチャンは、世には理解不能な何らかの特徴を帯びているべきです。世に理解させようとしてもできない何らかの特徴を帯びているべきです。何かが異なっているのです。私たちは人々と異なる独特で奇妙な存在になろうと努める必要はありません。なぜなら、主と共に進み続けるなら、私たちは確かにそのような者になるからです! 
 

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