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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主よ、あなたの名は地にあまねくいかに尊いことでしょう

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)

最近、キリストにある新しい人、というテーマを考え続けているのですが、このテーマを考える時に、神が意図された人間性の真の回復ということを思わずにいられません。

神がどうして被造物としての人間を通して、ご自身の栄光を現すことに決められたのか、その不思議ははかりしれません。とにかく、神はご自分の思いを託すことのできる存在、ご自分の願いを感じ取り、それを選び取り、ともにかなえる助け手(同労者)となる存在を求められたのです。

「私は有る」(出エジプト3:14)と言われる神は、きっとただお一人だけでも十分に御業をなすことができただろうと思います。神は決して被造物の助けに依存するようなお方ではないのです。それにも関わらず、アダムのためにエバを造られたと同じように、神はご自分のために助け手となる花嫁を求められ、塵から造られた弱い土の器を通して、ご自身の栄光を現すことに決められたのです。

アダムの創造の当初から、人という被造物を通して、神は全地を治めさせようと計画しておられました。アダムは罪を犯して失敗したため、人類は絶望に至りましたが、今はそのことを脇に置いて、そもそも神が人に対してどのような計画を持っておられたかを振り返りましょう。

塵に過ぎないアダムについて、「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)と言われています。私たちは堕落したアダムの命の中には、今はもうこの「神のかたち」と呼ぶにふさわしい要素が残っていないことを知っています。ですから、これを根拠にアダムの命を神聖視することはできません。けれども、ここから、神が人に託された御思いを十分に伺い知ることができます。アダムが神に似せて創造されたという事実は、私たちに、神がご自分のために迎えたいと願っておられる花嫁は、まるでご自分の分身のように、ご自分によく似た者である、という事を告げているのです。

神は当初から人をご自分の分身のようにすべく意図して創造されたのです。このことは決して、人が神を離れて何かしら偉大な存在であることを意味しません、これは人が自分の思惑によって神のような偉大な者になろうとすることとは全く違うのです。人は神の同労者として造られました。人は神の御思いを現すための存在、神の願いを感じ取り、ご計画の成就を助ける存在、神の栄光と愛を一身に受けて、御思いを体現する存在として創造されたのです。

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9) 神の御思いは人の思いよりも高いのです。それなのに、一体どうして人が神の思いをはかり知ることができるでしょうか。どうして人が神の助け手になることができるのでしょうか。それなのに、夫が自分よりも「弱い器」(Ⅰペテロ3:7)である妻を愛するように、神は人を愛され、この弱い被造物にご自身の願いを託し、ご計画を成就するための助け手と決められたのです。

神は人をどんなにか愛されたことでしょう。人の創造当初、神は人を祝福し、万物をその手に預けるほど多くの財産を人に託されたのです。この地そのものを人に託されたのです。「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」(創世記1:28) そして、神の御思いは何と愛に満ちており、神が創造された全てのものは何と麗しい調和を保っていたでしょうか。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)

これらすべては悪しき者の介入のために失われました。サタンの誘惑を受け入れて人は堕落し、神が創造された万物の調和は失われ、全ての目に見える被造物が暗闇の勢力の手に渡りました。そして、人も神に反逆する存在となったのです。神はこの目に見える全てを滅ぼすことを決定されました。しかし、神は人を取り戻そうとされました。神は人を決してあきらめられませんでした。神はノアの一家を洪水から救われ、人類の中からアブラハムを選ばれ、イスラエルを人類の代表としてご自分の民に選ばれました。そして、モーセを通してこの民に数々の規定からなる律法を与え、まず、罪による人と神との断絶という事実を人に対して示されました。

律法は人間に罪を自覚させるために与えられたのです。これは人が神に逆らい、自ら神を捨てて罪を犯したことを認めさせ、人は堕落して「肉」(創世記6:3)となり、人自身の力によっては、どんなに努力しても、決して神に立ち戻ることができない、という事実を人に認めさせるためでした。

律法は神が人の前に正しくあるために与えられたのに、その示す結論は、肉なる人には神の御前で正しくあることは決してできない、ということだったのです。「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」ローマ3:20)

長い苦悩と挫折の年月が続きました。この間、神が選ばれた民が思い知らされたことと言えば、ただ「自分にはできない」ということだけでした。ちょうどアブラハムとサラがイサクを得るまで、(アブラハムが)100歳になるまで待たねばならなかったのと同様に、神は人類が肉の無力を徹底して知らされて「死んだと同様な人」(ヘブル11:12)になるのをずっと待っておられたのだと言えます。

「…ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。」(ヘブル11:12)

主イエスは言われました、「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24) 一つの命が死を通るからこそ、多くの命が生まれるのです。これは今日もあらゆるキリスト者にあてはまる神の原則なのです。まさにキリストが代表としてこの十字架の原則を通られたのです。

しかし、今は先走ることなく、話を戻しましょう、神はイスラエルの民に律法を与えることで、人は生まれながらの肉の努力によっては、決して神の義と聖に達することができず、自分自身を贖うこともできないという事実を示されたのです。律法という負いきれない重荷を背負って、人が絶望にあえいでいる時、キリストが人を救うために地上に来られました。しかし、このとき、神の御思いをとらえた人と、そうでない人たちがふるい分けられました。

このとき、神の願っておられたことは、人が肉の努力によっては何も達成できないことを悟り、ただキリストのいのちにすがることだったのです。そのために御子が来られたのです。しかし、依然として律法を守りぬくことにより、自分の力によって義と聖と贖いに達することができると信じていた人々は、御子を受け入れることを拒否しました。拒否しただけでなく、律法という古い形式を死に物狂いで擁護することによって神の御前で自分の義を主張しようとし、その忌むべき努力が高じて、ついにいのちの君を殺すにまで至ったのです。神は人に向かって、「あなたたちには決してできない」と言われたのですが、人類は神の事実に逆らって、「いや、わたしたちにはできる」と言い張り続けたのです。

キリストは神の御子であられましたが、人として被造物の形を取り、地上に来られました。そして、被造物である人が神に対してどのような態度を取るべきかを生涯に渡って示されました。キリストはただ十字架にかかられたその瞬間だけでなく、生涯、十字架の原則を負われました。この十字架の原則とは、人がアダムの命に対して死の立場を取ること、肉に対して死の立場を取ることです。すなわち、善良な性質も悪い性質も含めて、人間の生まれながらの全ての性質が神に対して死んでおり、「肉はなんの役にも立たない」(ヨハネ6:63)ことを認め、自分自身の肉が主とともに十字架で罰せられたことを信じることです。人の生まれながらの命は腐敗しており、どんな努力を持ってしても改良不可能であり、それはただ十字架の死の刑罰以外のなにものにも価しないと認め、生まれながらの自己をキリストと共なる十字架で死に渡し、神のいのちによって生きることです。

主イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)とはっきり言われました。キリストは生涯を通して、「人にはできないが、神にはできる」(マルコ10:27)ことだけを表わされたのです。

肉の働きとは、人の目に悪く見えるものばかりではありません。確かに、ガラテヤ書5:19-21にはこうあります、「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。」と。

「あの人は肉の人だ」とクリスチャンが言うとき、それは道徳上あまり思わしくない外面的な行為を指していることがほとんどです。しかし、私たちは、そういった見解は非常に誤っており、肉とは必ずしも人の目に不道徳と見える行為を指すのではないのだと知るべきです。人の目に腐敗しているように見えるものばかりが必ずしも肉なのではないのです。ガラテヤ書の言葉も、肉の各種の外面的現われのほんの一例に過ぎません。

肉とは、人が生まれながらに持っているすべてなのです。ウォッチマン・ニーの表現を借用するならば、善良な肉であろうと、上品な肉であろうと、教養ある肉であろうと、道徳的な肉であろうと、人が生まれながらに持っている全ての性質が、肉に属するのであり、神の御前に堕落した無価値なものなのです。

さらに肉の最も巧妙で中心的な働きは、自分で自分を義としようとすること、生まれながらの自分自身により頼むことであると私は考えています。

肉の働きの最高の形態が偽善であると言って良いのではないでしょうか。偽善とは、人が本来改良不可能なはずの自分の生まれながらのアダムの命を改良して、キリストの聖なる命にまで自分を高めようとする不可能な努力のことであり、その結果、必然的に生まれて来る二重性のことです。主イエスが地上に来られた当時、律法学者、パリサイ人たちは感服に価するほどの努力を払って、神の御前に義とされるために律法を守っていたのです。まさに行ないの上では落ち度がないほどにまでに律法を守り通していたのです。彼らほど宗教的な人々、道徳的な人々、外見的に落ち度のない人々はいませんでした。

ところが、この宗教性は、ただ外面的な行為によって存在するかのように見えていただけであり、その実、人間の堕落した本質を全く変えることができませんでした。それはただ外側だけのものであり、内側にある腐敗した命を何ら改良することができなかったのです。むしろ、外側から体裁を整えれば整えるほど、ますます内側にある腐敗との対比がひどくなり、内側はますます汚れに満ちていったのです。

主イエスは、こうして外面的な行為を通して義や聖潔を追求しようと、肉による善行に励んでいる人々の二重性を指して言われました。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」(マタイ23:25-28)


これは今日のいわゆる善良に見える多くのクリスチャンにもあてはまっているように思います。主イエスはこの言葉により、どんな善行や道徳的行為を持ってしても、アダムの命が改良不可能であることを示されたのです。むしろ、外側から宗教性を装うとますますその人の内で著しい自己矛盾が生じ、異常が進んでいくのです。

主は、人が外側から清められることは不可能であり、内側から清められるしか方法がないことを示されました。内側から清められるとは何を意味するのでしょうか? 内にキリストが来られることです。御子を信じ、受け入れることによって、人は水と霊によって神から生まれなければ神の国に入れず、内に住んで下さる御霊によって清められ、罪と死の法則ではなく、いのちの御霊の法則によって生かされる必要があるのです。

主イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)こと、ただ神によらなければ人には何一つできないことを知らせるために十字架にかかられ、死なれました。律法学者、パリサイ人、ユダヤ人たちはこぞって「わたしたちにはできる!(We can)」と叫んだのですが、主イエスは身を持って、「人にはできない」ことを示されたのです。神の御子であられた方が、被造物として十字架に向かわれ、「弱さのゆえに十字架につけられた」(Ⅱコリント13:4)のです。キリストの十字架は神が全てのアダムに対して下された死刑宣告だったのです。

しかし、ハレルヤ! 人にはできないが、神にはできるのです。律法を守ることによって義とされようとし、肉による善行に生きた人々は、「人にはできない」という主イエスの言葉を打ち消して、「わたしたちにはできる!」と叫び、神の義に対抗し、ついにキリストを十字架につけて殺しました。しかし、キリストはよみがえられました! このキリストの十字架の死と復活こそ神のご計画の中心であったのです! 

ハレルヤ! 「キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。」(Ⅱコリント13:4) 彼は「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放」(ヘブル2:14-15)ちました。

「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものにされたのである。」(コロサイ2:14-15)

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

…肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ8:1-6)


キリストが十字架にかかられた後、弟子たちはユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもっていました。彼らは恐れと失意のどん底にあり、どうすれば良いか分かりませんでした。彼らの主は残酷な処罰によって取り去られました。「わたしたちにはできる!」という生まれながらの人類の叫びが、いのちの君を殺したのです。しかも、弟子たち自身が、その決定的瞬間に、自分の命を守るために主を見捨てて逃げ去ってしまったのです。もういかなるミニストリーもありません。希望もありません。自分自身には絶望以外の何も見いだせません。しかし、そんな弟子たちのところに、主は復活の姿で現れたのです。

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

イエスはまた彼らに言われた、『安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』。(ヨハネ20:19-23)


主イエスは、まさに死んだようになっていた弟子たちに現れて、その傷を見せて彼らを慰めただけでなく、息を吹きかけて聖霊を受けるように言われたのです。そして、彼らを遣わす、と言われたのです。これは神が土の塵で造られたアダムに息を吹きかけられて、アダムが生きた者となったことを思い起こさせます。アダムは罪を犯して死んだ者となりました。しかし、キリストが、死んだ私たちにいのちを与える方として来られたのです。「聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」(Ⅰコリント15:45) 

「人を生かすものは霊」です。キリストはいのちを与える霊です。主は十字架の死を通られたからこそ、ご自分を信じる人々に永遠の命を与えることができるのです。

「…死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(Ⅰコリント15:21-22)

これは、アダムの罪のゆえに失われたご計画を、神が最後のアダムであるキリストを通して回復されたことを意味します。アダムは罪のゆえに神に対して死にましたが、アダムにあって死んでいた私たちは、キリストにあって神に対して生きる者とされました! 「…キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。」(Ⅱコリント13:4)

神は当初、人をご自分の御思いを表わすための助け手、同労者として創造されました。そして今、キリストを通してそのご計画を回復しようと、私たちを選んで下さり、私たちをご自身の助け手とし、ともに統治する者にしようとして下さっているのです。私たちはキリストとともに十字架で死んで、よみがえり、彼と共に天に座し、彼とともに統治する者とされたのです。

「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」(テモテ2:11-13)

神はキリストを通して人を本来あるべき姿に回復しようと願っておられます。御子のいのちを通してのみ、人は、神がかくあれかしと望まれたような真の人間へ回復することができるのです。「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)のです。アダムにあって、この栄光のかたちは失われましたが、キリストにあって、それを私たちが回復することを神は願っておられるのです。神は人をご自分の助け手として、花嫁として、ご自分に似た者とするために造られました。アダムにあって失われた被造物のあるべきかたちを、キリストが死に至るまでの従順によって回復されました。そして、私たちは神のご計画に従って、キリストのいのちにあって神に対して生かされ、キリストに似た者とされているのです。「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」(ローマ8:29)

私たちは神が初めアダムをどのような存在として造られたのかを思い出すのです。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31) 「神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。」(創世記1:28) 

今やキリストにあって、私たちにはアダムにはるかにまさる約束が与えられています。死を打ち破ってよみがえられた方、いのちを与える霊である方が私たちとともにおられます。このキリストにこそ、神が意図された真に健やかな人間の姿があるのです。キリストにある新しい自由な人、神が意図された人間の本来あるべき姿としての新創造。神とともに生き、神の助け手として、キリストとともに統治する新しい人。神がご覧になって、「はなはだ良い」と言われる人間の姿。私は、神が意図されたキリストの命にある真の人とは何かを知りたいと思わずにいられないのです。なぜなら、御子のいのちにあっての人の回復こそ神が願っておられることであり、「キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられた」のは、彼のいのちによって全てが新しくされ、「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。」(エペソ5:27)からです。

それにしても、神のご計画の中で人という被造物がどんなに大きな役割を占めているかを思うだに、神がどれほど人を愛され、人を顧みられたかを考えて、私たちはこう言わずにいられません。

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。
人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄と誉とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。
すべての羊と牛、また野の獣、
空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。

主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、
いかに尊いことでしょう。」(詩篇8:4-9)


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