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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

事実、神は彼らのために都を用意されていたのである

補足:

偶像崇拝という霊的姦淫の罪について、もう一言つけ加えておかねばならないことがあります。この先、霊的姦淫の罪により、最も厳しく裁かれなければならないのは、ニッポンキリスト教界であり――中でもとりわけアッセンブリー教団であると私は確信しています。心あるクリスチャンはキリスト教界に関わらない方が良いことはもちろんですが、このような教団に至ってはいかなる形でも関わらず、またこれを弁護しないことを勧めます。

これは私一人だけの見解ではないことでしょう。AG教団に関してはあまりにも大勢のクリスチャンがずっと以前から深い危惧を抱いてきました。私もまた、この教団の只中で苦難を通って来た証人であり、なぜこのような主張をしているのかについては、すでに記事の中で詳細に根拠を示してきました。

AGこそが、他の教団にまさって、霊的姦淫の罪を犯してきたのです。そのことは、この教団が、繁栄の神学、教会成長論など、自分たちにとって金儲けの材料になると判断したありとあらゆる偽りの教えを何のためらいもなく、聖書に照らし合わせて検証することもなく、恥知らずに、無制限に受け入れて来たことを見れば分かりますし、さらにベニー・ヒンを初めとして、どれほど多くの偽預言者らを歓呼して迎え入れ、自らのビジネス・チャンスに変えていったか、どれほど多くの偽りの教えと偽りの個人預言で多くのクリスチャンを惑わし、つまずかせ、滅ぼしたか、それが多くの人々の証言により明らかになっても、なおまだ反省なく、未だに偽りの偉大な「霊の器」を招いて聖会を開き、偽りの教えを拡大し続けているその有様を見ても分かります。

この教団には、自ら受け入れてきた偽りの教えの嘘が何度明確になっても、真摯な反省と罪の悔い改めの表明がなかったばかりでなく、さらに、――考えられるでしょうか――こともあろうに、この教団こそが、カルト被害者救済活動という、キリスト教の歴史始まって以来、世界のいかなる国にも類例のない、クリスチャンの誰もが心に思い浮かべることさえしなかったほど、醜悪かつ甘えと憎悪に満ちた、神に反逆する運動を生み出したのです。

AG教団が生み出した最悪の罪の一つであるカルト被害者救済活動は、日本のキリスト教史の最悪の汚点として今後名を残すでしょう、これはニッポンのクリスチャンの名折れであり、戦後のキリスト教史最悪の恥と言って過言ではありません。世界のキリスト教界も、これを見ていたく驚き、首を振ってこの愚行を嘲笑うでしょう。このような恥を生みだす母体となったのがAG教団なのです。

カルト被害者救済活動の支持者たちは、神の義を退けてまで、生まれながらの自己の正義を掲げ、神に逆らって真理を曲げ、十字架と血潮を否定してまで、人間本位な弱者救済の思想を掲げて、自分で自分を救済しようとして失敗しました。解放神学などに見られるような共産主義的イデオロギー宗教の構図をそのまま換骨奪胎して、暴力革命ではなく、裁判を通して、ニッポンキリスト教界内の秩序転覆をはかり、自らが神となってキリスト教界に君臨し、教界を監視し、支配し、裁こうとして、神の怒りをその身に積んだのです。

カルト被害者救済活動の支持者らは自ら神になりかわろうとしたのです。彼らは多くの教会を滅亡させる目的でいわれなく裁判をしかけ、個々人に至るまでの聖徒らにありとあらゆる中傷と濡れ衣を着せては無実の者を罪に定めて迫害し、エクレシアを憎んでその一致を破壊し、執拗に分裂させようと試みたのです。教団をあげてこれを支援・助長し、この愚行を止めようともしなかったのです。その罪はどれほど重いものでしょうか。

今や彼らは失敗し、この運動とともにAG教団の名も地に堕ちています。が、それに懲りようともせず、ニッポンキリスト教界は、まだ自らの犯してきた霊的姦淫の罪から目を背けて、その罪をさえ、今までと同様、無実のクリスチャンとエクレシアに転嫁しようというのです。そんなことが許されるはずがありません!

言っておきますが、霊的姦淫の罪はニッポンキリスト教界に帰します。偽預言者らを恋い慕い、彼らと堂々と霊的姦淫を行ない、未だに恥じることもなく、偽りの教えを受け入れているニッポンキリスト教界こそ裁かれるべきなのです! 

ニッポンキリスト教界がどのような方法でクリスチャンの交わりを支配し、自分たちにとって不都合な人間を交わりから排除して来たかを私は知っています。私は、キリスト教界において多くの偽りの個人預言や、偽りの預言者のメッセージなるものの存在について見聞きして来ましたが、偽預言者らは講壇に立つ時、聞いている人に漠然とした恐怖を抱かせるようなメッセージを用いて、自分たちに好ましくない人物を暗に断罪したり、その人の名誉を貶めて、彼を辱め、孤立させ、集会から追放しようと試みます。そのようにして集会を恐怖によって支配し、自分の配下に置こうとするだけでなく、気に入らない人物への敵対心を煽り、兄弟姉妹を分裂に至らしめようとすることがあるのです。

真の牧者として立てられた教師や指導者は、羊の霊的状態によく目を留めて、羊の世話をし、羊を休ませる方法を知っています。彼らは迷いや過ちの中にある羊をも見捨てず、決して、自分のもとに休息を求めてやって来る羊を自分のメッセージを使って断罪するようなことをしません。彼らは羊の魂の良き監督者であり、根気強く、羊を自由と安息へと案内します。

しかし、偽預言者は自分の羊であるはずの者に君臨し、支配しようとします。彼らは恐怖によって支配しますが、言質を取られないために、わざと曖昧な表現を使って、自分たちが誰を批判しているのか、人物や団体を言特定できないように言葉を濁しつつ、さまざまな道徳律や、もっともらしい口実を用いて、集会の中で自分にとって都合の悪い人間を排除していくための「空気」を作り上げます。

ある集会で漠然とした恐怖を抱かせる断罪のメッセージが語られるようになると、一部の兄弟姉妹は自分も同じように批判されたくない恐れから、その雰囲気に同調し、批判されているらしい兄弟姉妹を避けるようになったり、その人にかけられたありもしない嫌疑を本当だと思いこんだり、ついに心が硬化して、皆で一致団結して、無実の人を集団的に断罪するまでの残酷さを発揮したりします。

このようにして、恐怖が伝染し、虚偽が本当であるかのようにまことしやかに流布され、偽りに基づく集団心理が作り上げられていくのです。私はキリスト教界において、何度、このような風景を見せられて来たか知れません。偽預言者らは、曖昧にぼかされた非難のメッセージという爆弾を講壇から投げ続けることによって、どのように人々を疑心暗鬼に陥れ、愛による交わりを引き裂き、集会の「空気」を支配したら良いかを知っています。彼らは自分たちは決して責任を取らされることなく、ただ受け取った人の自己責任になるような当てこすりのような表現を巧みに駆使しながら、自分の目的をかなえるために必要な「空気」を作り上げていくのです。それは自分自身の手によらず、他人の手で、自分にとって都合の悪い人を排除するためでもあります。

しかし、少しでも冷静になってみれば分かるのですが、そのような悪しき目的で語られるメッセージは、一度でもきちんと検証しようと試みるならば、占いと同じで、見かけがどんなに立派そうでも、全く具体性に欠けており、根拠にも乏しいことが分かるのです。どんな聖句がちりばめてあっても、それは無責任で曖昧な批判を鵜呑みにして信じる愚か者にとってしか効力を持ちません。

それは劇場型犯罪と同じく、虚偽をまことしやかに見せるために作り上げられた「空気」なのです。軍国主義時代には、様々な操作により、お国のために死ぬ事が多くの人々にとって正義であるかのように感じられる「空気」が作られ、それに同調しない人々は国民自身の手によって国民から排除されていき、死をもって脅されたのです。それと同じように、クリスチャンの集会でも、偽のイデオロギーがその「場」を支配すると、虚偽をまことしやかに本当のように見せかける「空気」が作り出されることがあるのです。その場の雰囲気に流されるだけの人は、何も確かめないで、それを信じてしまうことでしょう。また、仲間内で立派な人と見られたい、決して公に批判されたくない、という恐怖に駆られる人も、その場の雰囲気に同調し流されていくことでしょう。しかし、平安に座し、どんな恐怖によっても動かされない人、完全な愛の守りの中に立つ人、事実をきちんと確かめる勇気を持つ人、語られた言葉を鵜呑みにせずに、御言葉と内なる御霊の油塗りによって検証することのできる人にとっては、嘘は初めから無効です。

偽預言者は卑劣です、彼らは実にもっともらしい言葉を語って一時的に注目を集めますが、彼らの語った言葉がことごとく嘘であることが公に判明する頃には、すでに行方をくらましていなくなっているのが常です。もう滅んでいなくなってしまっているかも知れません。そして、残された兄弟姉妹だけが、虚偽を信じて無実の同胞を疑い、断罪し、互いに傷つけあったと分かって、深い心の傷を負うのです。

そのようなことが、キリスト教界では幾度にも渡って、繰り返されてきたのです。ですから、私は、キリスト教界だけは別として、今後、講壇から兄弟姉妹に向かって語られる、人に漠然とした恐怖を抱かせるようなメッセージを鵜呑みにして、身近な愛する兄弟姉妹を裁くことは決してすまいと思うのです。「優しさ」や「思いやり」を口実にして、具体的な実名を伏せたまま、自分たちとともにいる兄弟姉妹に対して曖昧な非難を繰り返す人は、名指しで非難する人よりもはるかに危険であることを知るべきです。

もしもある集会に行ったとき、そこに列席している特定の誰かが――しかも、私たちの愛する兄弟姉妹の特定の誰かが――厳しい言葉で暗に批判されているように感じられたならば、はっきりとメッセンジャーに問うてみた方が良いでしょう、「失礼ですが、あなたが非難しておられるのは具体的に誰のことなのか、公に名を挙げていただけませんか? そしてそのようにあなたが思われる根拠を明確にして下さい」と。

主イエスでさえ、(弟子たちはその当時悟らなかったとはいえ)、ユダの裏切りについてきちんと弟子たちに予告されたのです。誠実なメッセンジャーならば、当てこすりのような非難は用いず、自分が具体的に誰のどのような行為を指して非難しているのか、きちんと答えるでしょう。

「夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして、一同が食事をしているとき言われた。『特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている』。弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに『主よ、まさか、わたしではないでしょう』と言い出した。イエスは答えて言われた、『わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう』。

イエスを裏切ったユダが答えて言った、『先生、まさか、わたしではないでしょう』。イエスは言われた、『いや、あなただ』。」(マタイ26:20-25)


さらに、これまで無実の聖徒に濡れ衣を着せるためのたとえとして、しばしば悪用されているのを私が見聞きして来た偽預言者イゼベルの例について、もう一度、きちんと振り返っておきましょう。聖書において偽預言者イゼベルはどのような命運を辿っているでしょうか。

偽預言者イゼベルは、その子供たちとともに病の床に投げ込まれると、はっきり聖書に書いてあります。これは目に見えない霊的病のことではなく、(なぜなら霊的病とは偶像崇拝に他なりませんから、それとは別個に言及されているこの病が霊的なものではないことは明らかです)、死に至るほどの肉体的病を指しています。イゼベルは死病に陥るのです。イゼベルとそれに関わる子供たちはみな致死的な恐るべき病に陥り、主によって打ち殺されるというはっきりした特徴があります。

ですから、これを通しても、私たちはイゼベルについて、その人物像をかなり具体的に絞り込むことができます。この記述にあてはまらない人物を断罪するためにこの箇所を用いることはj決してできません。イゼベルとその姦淫の霊につかれた人が、内なる霊においても、外なる肉体においても、健康を失うというこの記述を通して、私たちは、誰が内側で真に霊的健康を保っているのかを真に確かめるための一つの有力な手がかりを得ていると言えましょう。

「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。」(黙示2:20-23)

* * *
私たちは、クリスチャンの交わりや集会においても、「その場の雰囲気」を巧みに支配することによって、嘘をまことしやかに現実のように見せかけようとする偽りの霊力がはっきりと存在していることを知るべきです。兄弟姉妹を中傷したり、その名を貶めて信頼を失わせたりして、互いを疑心暗鬼に陥らせることで、エクレシアの一致を妨げようとする力があることを知るべきです。このような偽りの力を見抜いて、拒否し、打ち破るべきです。すでに何度も述べて来たように、ニッポンキリスト教界こそ、この世の偽りの霊力の結集したものであり、ニッポンキリスト教界はこの世の霊力の支配に自ら身を委ね続けて来たのです。

災いなるかな、キリスト教界、主が遣わされた預言者らを迫害し、無実の聖徒らに濡れ衣を着せ、神と教会の名を貶め続ける者たち。自己の罪から目を背け、罪もない者をいわれなく追いつめて迫害すればするほど、あなた方には、アベルが殺されてからこの方、主が遣わされた数え切れない預言者たちの血をいわれなく流し続けた先祖たちから受け継いだ罪の目盛りが増し加わるでしょう。

災いなるかな、キリスト教界、神の聖潔を捨てて、偽りの教えとの姦淫の道を選び、聖徒らを迫害し、多数のカルト化教会を生んだだけでなく、カルト被害者救済活動という史上最悪の甘えに満ちた運動まで生み出した盗賊の巣。もしもニッポンキリスト教界との接触がなければ、私は、愛や友情や善意や道徳を装って、滑らかな言葉とまことしやかな敬虔さを装いながら、お人よしで無実のクリスチャンを堂々と罠に陥れ、迫害し、罪に定めて、あわよくば死にまで至らしめようとする偽善というものの恐ろしさ、狡猾さ、卑劣さをきっと知ることはなかったでしょう。次の言葉はまさに腐敗したキリスト教界の有様にこそそのままあてはまるのです。

「あなたがたはおのおの隣り人に気をつけよ。
どの兄弟も信じてはならない。
兄弟はみな、押しのける者であり、
隣り人はみな、ののしって歩く者だからである。
人はみな、その隣り人を欺き、
真実を言う者はない。彼らは自分の舌に偽りを言うことを教え、
悪を行い、疲れても悔い改めるいとまもなく、
しえたげに、しえたげを重ね、
偽りに偽りを積み重ね、
わたしを知ることを拒んでいると、主は言われる。

それゆえ万軍の主はこう言われる、
『見よ、わたしは彼らを溶かし、試みる。
このほか、わが民をどうすることができよう。
彼らの舌は殺す矢のようだ、
それは偽りを言う。
その口ではおのおの隣り人におだやかに語るが、
その心では彼を待ち伏せる計りごとを立てる。
主は言われる、これらのことのために、
わたしが彼らを罰しないだろうか。
わたしがこのような民にあだを返さないだろうか。

山のために泣き叫び、野の牧場のために悲しめ。
これらは荒れすたれて、通りすぎる人もない。
ここには牛、羊の鳴く声も聞えず、
空の鳥も獣も皆逃げ去った。
わたしはエルサレムを荒塚とし、山犬の巣とする。
またユダの町々を荒して、住む人もない所とする」。

知恵があって、これを悟ることのできる人はだれか。主の口の言葉をうけて、それを示す人はだれか。この地が滅ぼされて荒野のようになり、通り過ぎる人もなくなったのはどういうわけか。主は言われる、「それは彼らの前にわたしが立てたおきてを彼らが捨てて、わたしの声に聞き従わず、そのとおりに歩かなかったからである。

彼らは強情に自分の心に従い、また先祖の教えたようにバアルに従った。それゆえ万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、見よ、わたしはこの民に、にがよもぎを食べさせ、毒の水を飲ませ、彼らも、その先祖たちも知らなかった国びとのうちに彼らを散らし、また彼らを滅ぼしつくすまで、そのうしろに、つるぎをつかわす」 。」(エレミヤ9:4-16)。


しかし、ニッポンキリスト教からどのような襲撃を受けようとも、何度、ステパノのようにいわれのない罪定めの石で打ち殺されそうになっても、まだ主が定められた時が来ていないならば、私たちは何度でも立ち上がって、そこを後にして、再び、前に向かって進み続けるのです。

主イエスの弟子たちがどれほどユダヤ人たちから執拗な襲撃を受けたかを考えるとき、私はとりわけ、パウロの受けた次の迫害のことを思い出さずにいられません。

「ところが、あるユダヤ人たちはアンテオケやイコニオムから押しかけてきて、群衆を仲間に引き入れたうえ、パウロを石で打ち、死んでしまったと思って、彼を町の外に引きずり出した。しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に、彼は起きあがって町にはいって行った。

そして翌日には、バルナバと一緒にデルベにむかって出かけた。その町で福音を伝えて、大ぜいの人を弟子とした後、ルステラ、イコニオム、アンテオケの町々に帰って行き、弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、『わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない』と語った。また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。」(使徒14:19-23)


それにしても、ここには何というキリストの復活の命のはかりしれない力が、主が信じる者にお与えくださった圧倒的ないのちの力が現れていることでしょう! 私たちは死んだようになっても、また立ち上がるのです。主ご自身が私たちをいのちの中で立たせて下さるからです。これまで全てのキリスト者が、悪しき者たちからの度重なる襲撃を受けながらも、なお勇敢に立ち上がり、兄弟姉妹を勇気づけ、励ましながら、まだ見ぬ天のふるさとを目指して歩いて行ったのです。パウロは書いています、

「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい

あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。

神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。…しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。

わたしは、更に進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。

兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。」(ピリピ3:1-15)


「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13-16)


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