忍者ブログ

私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える

そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。(マルコ10:5-9)

最近、雪のちらつく寒い日が続きます。今日は安全策をとって公共交通機関で通勤でした。

最近、キリストにあっての圧倒的な平安がずっと私の心を覆い、守っています。ニッポンキリスト教界はもう本当に病理の極みにあるようです。もうかなり前から、ニッポンキリスト教界は私たちの信仰とは全く無縁の別の宗教であると私は思っているので、そこで何が行なわれ、誰が何を議論し、私たちがどのように評価されていようとも、全く注意を払うに値しないと思っています。

人生は限られているのです、あの五人の賢い乙女のようになるために、無駄なことにあえて自ら時間を割く必要はないでしょう。何を読み、何を信じ、何に生きるかはますます自己の責任とされています。虚偽により頼んでつまずいたその報いはその人自身が受けるのです。身体を殺すことができても、魂を殺すことのできない肉なる人をなぜ恐れなければならないのでしょうか。殺した上で、なお地獄に投げ込むことのできるお方こそ恐れるべきでしょう。

誤解のないように言いますが、私は以下の記事において、ニッポンキリスト教界を批判することを偽善の罪と呼んだのではありません。また、霊的姦淫を擁護したり、罪を正当化したのでもありません。いのちの御霊の法則に生きる者が姦淫を犯したり、むさぼったり、偶像崇拝を行なうことはできません。御霊に従って生きる者とされたなら、肉の欲を満たすために生きることはもうできないのです。

ニッポンキリスト教界こそが、偽善の殿堂なのです。ニッポンキリスト教界こそが、行いによる義を打ちたて、肉による善行によって神にいたろうとする塔を建て、セルフを義とし、セルフに生きるという罪を犯しているのです。彼らは善悪の路線で生き、アダムの命を改良してキリストにたどり着こうとしているのです。

しかし、この人々はエクレシアを憎み、讒言により、何とかして兄弟姉妹の一致を壊そうとして来ました。指導者崇拝の罪に陥らないようにというまことしやかな口実を用いて、愛する兄弟姉妹から早急に離れるようにと私に忠告したり、陰で悪し様に言うことにより、私と兄弟姉妹を絶え間なく引き離そうとしたのは、まさにニッポンキリスト教界に属する偽善者のクリスチャンたちだったのです。しかも、彼らは私への愛や友情に見せかけてそれを行なったのです。

その当時、彼らも私にとっては愛する兄弟姉妹でしたので、私は彼らの言い分にも真摯に耳を傾けようと努力しました。しかし、彼らの忠告にわずかでも耳を傾けたことが、どんなに大きな誤りだったかは、その後、分かりました。それが分かった頃から、私はもうキリスト教界とはいかなる形でも関わらないようにしています。関わりたい望みも全くありません。

以下の記事でも書きましたが、主イエスが地上に来られた当時のユダヤ教と同じ有様が、現在のキリスト教界においても展開されているのです。神が廃止された「肉の規定」(ヘブル9:10)を守り抜こうとする人々と、神が打ち立てられた新しい御霊の秩序を擁護する人々との間で激しい相克があるのです。律法学者、パリサイ人たちが、あれほど執拗な虚偽の非難をもって、主イエスを罪定めしようとしたのと同じ有様が、今日も私たちをめぐっても展開されているのです。古い形式を守り抜こうとする人々の憎悪に私たちは取り巻かれています。偽善者らは私たちの行くところどこにでも着いて来て、ありとあらゆる非難を捏造して、罪でないものを罪と呼んで、私たちを罪人に数えようとします。もしくはなめらかな言葉を用いて、私たちを裏切るのです。

しかし、このような人々の行く末はどんなものでしょうか。虚偽の讒言を繰り返し、主が義とされたクリスチャンを絶え間なくそしり、この世の権威と秩序にさえ逆らい、真理を曲げ、真実を覆い隠し、主が結び合わせたエクレシアを分裂に至らしめようとしたキリスト教界とその偽善者たちが裁かれないはずはありません。

「彼らは相結んで正しい人の魂を責め、罪のない者に死を宣告します。しかし主はわが高きやぐらとなり、わが神はわが避け所の岩となられました。主は彼らの不義を彼らに報い、彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。われらの神、主は彼らを滅ぼされます。」(詩篇94:21-23)

ハレルヤ、主は偽りの告発者らを滅ぼされます! 私たちの神は彼らの不義を彼らに報いて下さる方です! 彼らは自らの不義と悪のゆえに滅ぼされます! 本当に、エクソダスの時期はとうに過ぎたのです。私の大切な友人だった兄弟姉妹は、キリスト教界に残ったがために正常な信仰を失ってしまいました。もう二足の草鞋を履くことのできる時期は過ぎ去りました。今後、キリスト教界と関わり続けることで自らの居場所を確保する道を選んだ人々が、どんな霊的悪影響をこうむったのかは、それぞれの信仰の歩みの中ではっきり明確にされるでしょう。ただし、毒麦を刈られるのは主の仕事ですので、これ以上のことは私たちの仕事ではありません。

「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。

したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。…

そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざることをなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行なっているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。

…あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために、神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」(ローマ1:18-31,2:1-6)


しかし、このような恐るべき時代にありながら、私はただキリストとの結婚という喜ばしい未来について思いめぐらしているのです。どんな悪しき出来事も、一切、私の心に触れることができず、ただ主の愛と平安と、兄弟姉妹から与えられる圧倒的な愛が私を包むのです。

キリストの血潮のものすごい効力を思います。私の心を守る信仰の圧倒的な大盾! いのちの御霊の法則が私をあらゆる罪から守り、私の心をしっかりと平安のうちに、聖潔のうちに保つのです。罪定めしたい者はどのようにでも罪定めすればよろしい。しかし、すべて偽りを口にしたものがその言葉を最後の一句まで刈り取らされる時が来ます。肉に対して絶えず十字架の死の立場を取る者に対し、死に至るまでも魂の命を惜しまずに、子羊の血潮と証の言葉に立つ者に対し、サタンの火矢は意味を持ちません。サタンはすでに敗北しているのです!

さらに、誰もエクレシアを引き離すことはできないというほどまでに、主が兄弟姉妹を愛によって堅く結びつけておられる力を感じるのです。事実、圧倒的な愛が私に向かって流れ、また、私から流れていくのです。

最近、私が示されていることは、私は二度と独りにされることはない、という事実です。主が私とともにおられるだけでなく、兄弟姉妹も私とともにいるのです。私たちは一つのからだなのです。驚くなかれ、これは永遠の事実なのです。私は今までこのような認識に立ったことが一度もありませんでした。肉の家族においてさえ、一致などというものを見たことはないので、その概念が信じがたいのです。それなのに、お分かりになりますか? 永遠にいたるまでともに兄弟姉妹と結びつけられているということのはかりしれない意味を。私はそれを今生きて実際に見せられているのです。

そのことは何よりも、私自身の兄弟姉妹への愛と、兄弟姉妹から私に示される愛によっても確かめられるのです。どんなに虚偽によって罪定めされようとも、私はもはや恐れません。エクレシアから私に与えられる愛が、どんなに私を強くしてくれるでしょう。今や私がどんなに論争しても、根気強く受け止めてくれる兄弟がおり、誤解の多い話題についても、丹念に理解を示してくれる仲間がおり、愚痴を言うことのできる仲間がおり、毎日、私の名を呼んで仕事と将来のために真剣に祈ってくれる夫妻がおり、私のブログを気に入って読んでいてくれる姉妹がおり、ついに、私を気に入ってどうしても私を我が家のお嫁に欲しいというご婦人まで現われる始末なのです。

この先も、どれほど味方が現われるのか知りません。悔い改めのない人々が兄弟姉妹を憎み、讒言を繰り返しながら真っ暗闇に落ちていく一方で、主の愛によっていのちの光を輝かせる人々が明確に現れ初めているのです。いまや助け手は一人や二人ではありません。今は主が周りでなして下さる一連の冗談のような出来事を、私はただ子供のように微笑みながら見ています。

神は本当にユーモラスでチャーミングな方です。私には考えもつかないような不思議な事をいつもなして下さるのです。横浜へ来たとき、借家の賃貸契約をしていたその時にフランクのヴァイオリンソナタがかかっていたことは忘れもしません。私にとっては主の復活と再臨を歌っているとしか思えない第四楽章。そもそも横浜行きを私が願ったときには、誰にとっても、それは冗談のような話にしか思われなかったのです。何しろ、その当時、私は無一文と言っても良かったのです! 人生最大の窮地の中で、支援はその当時、どこからも期待できませんでした。私はただ主を呼び求め、ただエクレシアに連なりたい、兄弟姉妹に会いたいという切なる思いを御前に言い表しただけです。

そして、私の願いを主が聞き入れて下さり、奇跡的御業によってそれを実現して下さったというのに、その後も、何度、私は兄弟姉妹と引き裂かれて来たことでしょう。さまざまな讒言があり、嘘の忠告がありました。その圧力は主としてニッポンキリスト教界の人々から来たのです。私たちの評判を貶めることで、疑心暗鬼によって、兄弟姉妹をバラバラに引き離そうとの圧力がかけられました。そのようなことをたくらんだ卑劣な人々は間違いなく主の御前に裁きを受けるでしょう。彼らが兄弟姉妹に対して行なった虚偽の告発はすべて彼らの頭上に真実な告発として帰され、彼らは大いなる罪を負い、恥を見るでしょう。

このような卑劣な作戦により、何度も、何度も、私たちは引き離されかけて来ました。それなのに、神が結び合わせたものを誰も引き離すことはできないのです! 主は私たちが何度虚偽に陥りそうになっても、それを血潮によって洗い清め、雪よりも白くし、王族の衣装を着せて、裂かれたものを一つに結び合わせるのです。ここに至ってようやく、私は自分が望んで彼らと関わったのではないこと、私たち一人ひとりを結びつけたのは主である、という事実に気づき始めたのです。

「彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」

これもまた神の独り言なのではなかろうかと私は思うのです。これは霊的な奥義では、エクレシアとキリストを指しているからです。神がご自分のための花嫁としてのエクレシアをどれほど切に待ち望んでおられるか、私はそれを自分の心に問うて感じるのです。

私たちの心に起こされたこの不可思議な願い、不可思議な結束、不可思議な理解、愛、はるかな距離を越えて私が移動させられた、ただそのことだけをとっても、私が望んだのではなく、主が望まれたのだということ以外には説明のしようがないのです。なぜこれほどまでに執拗な妨害と敵対が繰り広げられるのかを考えても、それはエクレシアの一致が敵にとって最も恐るべき脅威の一つであるからだとしか言いようがないのです。この勢いを誰も止められないのです! 神が何事かをなそうとしておられるのであって、私たちが自分で事を始めたのではないのです。私たちの愚かさや、盲目性さえも、もはや障害にはなりえないほど、神ご自身が熱い願いを持って一致を建て上げようとしておられるのを感じるのです。私たちを集められたのは主であると!

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」(エレミヤ33:3)

私は知りたいのです。主が何を望んでおられるのか…。神ご自身が何より望んでおられるものを、私たちも見たいと望まずにいられないのです…。だから、私たちは切に神に呼び求めるのです。主よ、私たちは呼びます、お答え下さい、そして私たちの知らない大いなる隠されている事がらを、どうか私たちに告げ知らせて下さい…。

PR