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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた

「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとにより、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。

そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。

シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻してくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。

それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。

しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。(ルカ7:36-50)


さて、今日は偽善という罪について語りたいと思います。偽善とは何かということについて一言、書いておかねばなりません。

なぜなら、キリスト者がこの先、最も注意を払い、警戒しなければならないのは、あれやこれやの、誰が見てもそれと分かるようなあからさまな罪よりも、この偽善という最も恐るべき巧妙な罪であるかも知れないと私は思うからです。聖書は偽善が警戒されるべきものであることを何度も、警告しています。偽善こそバビロンの本質であり、肉による善行であり、カインの礼拝であり、セルフの最も高度な現われであるということに、私たちは注意を払うべき時が来ているのではないでしょうか。

一言で述べましょう、偽善とは、上記に引用したような場面において、私たちがパリサイ人が考えたように物事を考えることです。ここで言う罪の女とは、恐らく、姦淫の女、多分、娼婦のことではないでしょうか。パリサイ人は彼女が主の御許にくず折れて泣いたとき、それを見て心の中でひそかに罪定めしてこう考えました、「わたしはこのような罪の女とは違う、私だったらこんな女を自分に近づけはしない、私はこの罪の女のような恐るべき罪を犯していないのだから、彼女とは違ってきよい人間であり、住む世界が違う。それなのに、このイエスという人物は何を考えてこんな人間が自分に近づくことを許しているのだろう、私だったら、こんな人間と自分が一緒くたにされることなど許しはしない、こんな女を近づけることで、私まで罪を犯しているかのように世間に誤解されるなど真っ平だから」。

これこそ偽善というものです。さて、これに対し、主はどのような態度を取られたでしょうか? 主は決してご自分が世間にどう思われるかを第一に考えられませんでした。主は彼女を近づけることで、自分が「罪人の仲間」(マタイ11:19)とみなされることにためらいませんでしたし、また、この女に対し、大仰なデモンストレーションを伴う断罪や、罪の告白を要求した上で、彼女を自分に近づけたのでもありませんでした。

「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」、主イエスはただそう言われたのです、これは何と不思議な論理でしょう! 主イエスは知っておられたのです、この女が信仰によって、キリストへの愛によって、神に受け入れられると信じて、主の御許に身を投げ出したこと。パリサイ人の見ている前で、自分がどれほど罪定めされるかを承知の上で、一人の罪人として、捨て身で主イエスの御前に身を投げたこと。主は彼女から何一つ言葉の上での罪の告白を要求されず、ただ彼女の信仰を見て、その信仰が彼女を救ったと言われたのです。主イエスが地上で取られた行動の全てがこの路線に沿っています。

「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12) 

少ししか罪赦される必要のない人々は、決して主イエスの御許に自分を捨てて身を投げることをしません。自分は正しいと考える人々はパリサイ人のように手をこまねいてたたずむのみですが、そんな中で、どうしようもない罪人、病人、助けを必要とする大勢の哀れな人々が、まるで殺到するように主イエスの御許に身を投げるのです。主はご自分の評判をかえりみず、彼らが御許に来ることをお許しになります。それは彼らの罪が赦されるため、彼らがキリストのいのちを得るためです。主はこのようにご自分にまことのいのちを求めてやってくる人々を拒まれず、かえって、そのことで主を罪定めしようとした世を叱責されたのです。

「今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』というのに似ている。

なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼるもの、大酒を飲むもの、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」(マタイ11:16-19)


主イエスは罪人の仲間に数えられることで、この地上でどんな悪評をこうむられたでしょう! 私たちは、主が地上にあって決してパリサイ人や律法学者のようにいわゆる品行方正な義人とはみなされていなかったことを知ります。むしろ、非常に誤解されて罪定めされていたことを知るのです。

さて、上記の話に戻ると、行ないのうえでは落ち度のなかったパリサイ人よりも、行いの上で落ち度だらけであった女の方がより多く主を必要としたことを私たちは見ます。恐らく神は、私たちにも、神を必要としないようなうわべだけの完全無欠さよりも、真に神を必要とする行き詰まりや失敗の方を期待しておられることが多々あるのではないでしょうか? 

この罪の女は、より多く主を必要としたがゆえに、パリサイ人にまさって主に受け入れられ、より多く憐みを受けました。「…罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ5:20)という御言葉は、きっとこの出来事にもあてはまるでしょう。

このようなことを考えるとき、罪に対する私たちの見方が変わらざるを得なくなります。パリサイ人は行いの上では罪人ではなく、義人だったのです。本当なら、このような非の打ち所のない行いの人こそ、神に最も近いはずです。それにも関わらず、パリサイ人に典型的なものの考え方が、神の御前に決して義とされず、逆に罪として退けられていることは、次の譬に最も明確な形で現れています。

「自分を義人だと自認して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話になった。

『ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのように貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、パリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。(ルカ18:9-14)


さて、私たちは一人ひとり、非常に多くの罪を神に赦された罪人なのではないでしょうか。私の身近な兄弟姉妹は、私が神を離れていた間にどのように生きたか、どんな厳しい刈り取りがあり、また、どんなに大いなる神の憐れみと赦しがあったのかを知っています。

しかし、それほど大いなる主イエスの十字架の赦しがあったにも関わらず、私は何と簡単に自分の赦された罪を忘れて、まるで自分を潔癖な者であるかのように思いがちなのでしょうか。いや、私ばかりでなく、キリスト者の盲点がここにあると言えます。主に従いたいという熱意があればあるほど、私たちはますます自分の信仰の熱意により頼むようになり、その熱意によって、自分が何か他人に勝って潔癖な者になったかのように考えるという誤りを犯しがちなのです。

以下の記事の中で、多くのクリスチャンは地上での栄光を捨て去ることができても、クリスチャンとしての栄光をなかなか捨てられないものだと書きました。それが宗教的偽善に結びつき、私たちは時折、あのパリサイ人のような偽りの霊的潔癖主義に陥ることがあるのです。

たとえば、長い間、私は指導者崇拝という霊的姦淫(偶像崇拝)に陥ることを恐れて、兄弟姉妹と争っていました。指導者崇拝という罪に陥ることを恐れるあまり、一時期、特定の指導者やメッセンジャーの存在する集会には関わるまいと本気で思っていましたし、神の御前での品行方正さを保ちたいと思うあまり、私をそのような罪に陥らせる可能性があると思われる親しい兄弟姉妹を罪定めし、彼らとの交わりを絶ち、彼らを避けることで、霊的潔癖を保てるかのように思っていた時期があったのです。そうすることで、自分が見せかけの品行方正さを追い求めているのだとは知りませんでした。

しかし、主が私に示されたのは、取り扱われなければならないのは彼らではなく、まさに私であるということでした。主がずっと根気強く私に示しておられるのは、あのパリサイ人が、主イエスの御許に正直に身を投げた女を心の中で罪定めしたようなうわべだけの見方で、他の兄弟姉妹を見てはいけない、ということなのです。

人の目から見れば、ある人々はことさらにクリスチャンとして道徳的でないように見えるかも知れません。しかし、うわべの基準によって人を判断することの何と愚かしいことでしょうか。思い出さなければならないのは、主イエスご自身がまさにそうした悪評をこうむられたことなのです! 主イエスは何と呼ばれていたでしょうか、貪欲な者、食をむさぼる者、酒飲み、守銭奴の仲間、姦淫の女と交わる者…、そのような悪評には限りがなかったことでしょう。それは、主が罪人の仲間とみなされることを恐れず、自ら魂の命を注ぎ出して、罪人とともに数えられたゆえなのです。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。…彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。…その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。」(イザヤ53:4-9) 

彼は「死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられた」、「しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」(イザヤ53:12)。

主は罪を犯されなかったにも関わらず、生涯、とがある者とともに数えられ、悪評をその身に負われました。十字架上で奴隷としての刑罰を負われただけでなく、その墓さえも悪しき者とともに設けられたのです。そのようにしてご自分の魂をそそぎ出されたのです。神としての栄光を完全に捨てて、ご自分を低くして仕えられたのです。ですから、私たちはこれがキリスト者の道であることを知ります。

それなのに、私たちが聖潔の名において追い求めているものは、あまりにもしばしば、巧妙な偽善なのです。私たちは自分を主の民のようにみなしながら、御名のために一つの悪評も受けることを喜ばず、一つの誤解も耐え忍ばず、実際には、パリサイ人のように自分の義が人に知れ渡ることだけを願っているのです。そんなクリスチャンの態度は、まるで次のようなものに見えるかも知れません。

「この民はまのあたりに常にわたしを怒らせ、園の中で犠牲をささげ、かわらの上で香をたき、墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、言う、『あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから』と。」(イザヤ65:3-5)

しかし、霊的な物事の実際は、決してパリサイ人の見るような表面的な有様の中にはないのです。

すでに述べたように、私はキリスト教界の生まれ育ちなので、物事の見方は非常にパリサイ人的だと言えます。信仰の個人的な歩みがどれほど危うくとも、物事の見方だけはパリサイ的なのです。ところが、憐れみ深い主は、そんな私をもあきらめられません。神が私に示されるのは、私が善悪の路線に落ちて、兄弟姉妹を疑い、罪定めし、疑わしいものすべてから遠ざかることで、自分の霊的潔癖さを保とうとすることなど、主は望んでおられず、そんなことは土台無理であるばかりでなく、甚だしい偽りであり、罪である、ということです。

私がそのようなものの見方を捨てるきっかけとなった出来事がありました。それは、私が霊的潔癖さを保つために遠ざかろうとしていた交わりにいた兄弟姉妹が、私の苦境の時に手を差し伸べることをやめなかったことなのです。私が最大の苦境にある時、私にとって最も疑わしいと見えた人が、私に憐みを示したのです。

私が不利な立場にいた時、私に関わることで、一緒に悪評をこうむることになっても、兄弟姉妹は私を捨てませんでした。彼らは私に関わらなければ、もっと義人としてのプライドと評判を保つことができたかも知れません。それなのに、私に関わってともに誤解され、ともに濡れ衣を着せられ、ともに悪評をこうむることを選んだのです。彼らは私が過去、現在にどんな立場にいるにせよ、パリサイ人のように私を退けようとはしませんでした。

そのことがあった時、私は偽りの霊的潔癖主義の無意味さを知って、自分の色眼鏡を外さずにはいられなかったのです。彼らが間違っていたのではなく、彼らを罪定めしていた私が間違っていたということを知ったのです。彼らは私の態度がどうあれ、神の愛に沿って私を愛し、受け入れようとしていたのであり、それを退けようとしていた私の霊的潔癖主義こそが誤りだったのです。

私はパリサイ主義ではいのちに勝てないことを知りました。それでは神の愛に到達できないのです。それに引き換え、罪人として神の御前に自分を投げ出す時、神の愛の何たる甘さがその人を覆うのでしょう! 愛され、赦され、受け入れられることの何たる甘さでしょう! 私はもはや神の憐みを必要としないような義人であることをやめて、神の憐みを大いに必要とする罪人として主の御許に身を投げたいのです。ハレルヤ! 神は私の霊的盲目性を打ち砕かれました。

以来、私の物事の見方そのものが次第に変わっています。次第に、クリスチャンとしての栄光を失うことに対して、以前のような恐れやためらいがなくなりつつあり、キリスト者の仲間から誤解され、まるで忌み嫌われるべき罪人の一人のように数えられることがたとえあったとしても、恐れがなくなりつつあるのです。そもそも、これほど大いなる罪人として神の一方的な憐れみによって救われた者に、今更、惜しむべき名誉があるのでしょうか?

私にはすでに犯してもいない途方もない罪状があまた着せられています。それが少々、別の方面から増し加わったからと言って何なのでしょう、私の肉に対して、サタンからどれほどの火矢が向けられたとしても、私は拒みはしません。私の肉の行ないによって義と聖と贖いを保つことなど、土台、不可能なことが分かっているからです。そんなことができる人は、私ばかりでなく、地上に一人もいません! 

ですから、私たちはただキリストの十字架に立つのです! キリストが十字架で死んで、よみがえって下さったからこそ、私たちは敵のどんな罪定めも恐れる必要はないのです。キリストが私の罪なる肉を着て十字架に向かわれ、そこで私の罪の債務証書を完全に破り捨てられたことを私は知っているからです。

分からない人々には、多分、永久に分からないと思います。しかし、兄弟姉妹は血の土台に立って私を受け入れたのです。肉の思いによって、私たちは連帯しているのではないのです。それは人の造り出した連帯でもなく、魂の愛情でもないのです。まして、霊的姦淫ではありません。ですから、主の血潮によって結ばれた関わりを罪定めし、それを悪しき交わりと呼ぶならば、その人はエクレシアそのものに対抗することになるでしょう。そんなことをすると粉砕されてしまいます!

私たちは主がそうされたように、喜んでこの地上でそしりを受け、とがある者に数えられます、罪なきお方がこの地上で罪人に数えられたのですから、私たちも自分の冠を投げ出します、しかし、サタンが私たちに突きつける債務証書はすでに無効にされていることを宣言します!

ローマ人の手紙は力強く言います、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めたものたちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

それでは、これらのことについて、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:29-34)


キリストが血をもって贖われた者を再び罪に定めようとすることの恐ろしさを、私は自分を愛し、受け入れてくれた兄弟姉妹を疑い、罪定めすることを通して知らされたのだと言えましょう。神が義とされた者を、誰がどうして罪に定めることができるのでしょう? 主が義とされた私たちを責める者に対して、主は言われるでしょう、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。」(ゼカリヤ3:2)

さて、聖書の言う姦淫の定義をよく目を見開いて読んでみましょう、「…わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイ5:28) 生まれてこの方、姦淫の罪を一度も犯したことのない人がいるのでしょうか?

さらに、これを霊的姦淫に置き換えてみるともっと分かりやすいのです、「だれでも、神以外のものにより頼む心を持って、神以外のものに執着した者は、心の中ですでに霊的姦淫(=偶像崇拝)をしたのである。」

これは私たちが自分で守り抜くにはあまりにも高すぎる基準です。それにも関わらず、もしも自分だけは絶対に偶像崇拝に陥りたくないので、偶像崇拝をきたらせる恐れのある全ての兄弟姉妹から遠ざかることで、霊的潔癖さを守り通そうと考えるならば、その前に、そんなことが本当に実現可能であるか、よく問うてみなければいけません。そうでないと、「土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、…,あざ笑うようになろう」(ルカ14:29)

セルフに生きるとは、何もあからさまに不道徳かつ放縦な肉欲に生きることばかりを指すのではないのです、己の義を土台として生き、その上に何かを積み上げようとすることが、セルフなのです。もっと言うならば、自分は他の人々よりもきよいと考えて、己の善行や義により頼んで、自らを義として生きることが、セルフなのです。バビロンはセルフから出て来るものであり、セルフの最高の形態が偽善なのです。

「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」という態度、「神よ、わたしはほかの人たちのように貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」という祈り、このようなものこそ偽善であると聖書は警告しています。

ですから、私たちは何度でも振り返ってみる必要があると思います、人の目に良さそうに見えるものが、必ずしも、神の御心にかなうものではないこと、特にカインの昔から、肉による善行(宗教的偽善)を神はとても忌み嫌われたこと、キリストが地上においてはまるでこの世的な人であるかのように悪評をこうむり、罪のない神の御子が罪人の一人に数えられ、それに引き換え、地上で最も宗教的で正しい人のように振舞っていたパリサイ人たちが最も神のいのちから遠い者として神の御前で罪定めされたことの意味を。

このパラドックスは、私たちの聖潔さは、決して、決して、人自身の行ないや知性によって保たれるものではなく、ただキリストのいのちによってのみ、信仰を通して働く御霊によってのみ、私たちの内に保たれうるものだということを示しています。キリストこそ、私たちの知恵であり、義と聖と贖いなのです。私たち自身には義はありません。彼が私たちの義なのです。このキリストのいのちの中で、血潮により、私たちは彼を頭とする一つの身体として結ばれているのです。

「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。」(Ⅰコリント1:30)

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