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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

私たちは神に対するキリストのかおり

「わたしたちは、救われる者にとっても滅びるものにとっても、神に対するキリストのかおりである。後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。」(Ⅱコリント2:15-16)

キリストの十字架の死を復活を深く知り、キリストの御霊が私たちの内でまことのいのちとして私たちを生かして下さることを知る頃から、私たちは自分がもはや普通の人間ではなくなったことを知ります。誤解しないで下さい、これは私たちが何か超人めいた偉大な存在に変わったということを意味するのではないのです。

私たちはあまりにも脆い土の器です。世の栄光はすでに消え去り、権勢も、富も、能力も消え去り、もはや世に戻ろうにも、不可能なほどに遠く隔てられています。キリストを知ったからと言って、私たちの生まれながらの肉の性質が少しでも改善するわけではなく、私たちは腐敗した肉に対しては十字架の死の立場を取っています。私たちは依然として全く普通の人間です、それどころか、キリストを知って、人としてはますます弱くなり、ますます世に対しては役に立たなくなったと言えます。しかし、その代わりに、私たちの権勢にも能力にもよらない、測り知れない力を持つ神の御霊が、私たちのいくところどででも、キリストの香りを放つのです。

このキリストの香りというもの! これは実に不思議で私たちの意図を超えています。私たちはあるものが持っている香りを変えることができません。キリストの命の香りも、彼のまことの命によって生まれた者であるならば、自分の思いによって左右したり、変えたりできるものではないのです。それはいのちの性質そのものに属しているからです。私たちが必死に努力しなくとも、いのちそのものがその香りを放つのです。

そして、このキリストの香りは、私たちが望むと望まざるとに関わらず、それに触れる人々にとって大いなるリトマス試験紙となり得ます。それはある人々にとっては命から命に至らせる麗しい香りですが、死から死へと至らせる香りとしてそれを受け取る人々もいるのです。キリストの命が私たちの内側から香りを放つとき、何か人知を超えたことが私たちの周りで起こり初めます。

まず初めにネガティヴなことから語りましょう。私たちはキリストのいのちによって生かされるまでは、世に属していたのに、今や世の者でなくなったため、この世が私たちに敵対し、世から来る人知を超えた嫉妬と憎悪に取り囲まれていることを知ります。しかし、ここで言う世とは、現代のクリスチャンがいわゆる世と呼んでいるもの――神を信じていない人々――ではなく、何よりも熱心に神を信じていると称している人々を指すのです。

このようなことが起こって初めて、私たちは理解します、主イエスは十字架にかかられる以前から、なぜあれほどまでに律法学者、パリサイ人、神を熱心に信じるユダヤ人たちに執拗に憎まれ、殺意を抱かれたのか、なぜ弟子たちが宣教をする度ごとに、神を熱心に信じていると自称するユダヤ人たちがあれほどまでに執拗に敵対、妨害し、彼らを迫害し、殺そうとしたのか。

今日のキリスト者をめぐって、当時とまさに同じ構図があることを私たちは理解するようになります。これはアダムの命と、キリストの命、いのちの性質をめぐる敵対であることを知ります。神が廃止された滅び行く秩序を擁護しようとする人々と、神が新たに打ち立てられようとしている御霊による秩序を待ち望む人々との間で、大いなる相克があることを理解します。

さらに、いのちの御霊の法則について考えるとき、この法則はおよそ人間の理解を超えていることを思います。マタイによる福音書第8章にはよく知られている主イエスの奇跡のことが書かれています。

「それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。すると突然、彼らは叫んで言った、『神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか』。

さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。悪霊どもはイエスに願って言った、『もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい』。そこで、イエスが『行け』と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。

飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。」(マタイ8:28-34)


キリストはいのちそのものであられ、彼のいのちこそいのちの御霊の法則による支配です。キリストのいのちのある所に、悪霊、汚れた霊、暗闇は存在し得ません。しかし、私たちは世の法則といのちの御霊の法則が何と異なっているかを見るのです。ここに記されていたガダラ人たちは、墓場への道を占拠している二人の乱暴者にずっと苦しめられていました。ところが、いのちの君である方が来られ、二人から悪霊を追い出されたとき、人々はこの二人がようやく暗闇の支配から解放されたことや、自分たちがもはや脅かされずに済むようになったことを喜びませんでした。彼らは豚の群れが失われたのを見て、主イエスが起こされた「騒動」を恐れ、自分たちの職業と従来の生活がこれ以上、脅かされないように、主に去っていただくよう懇願したのです。

私たちはこのようなことをしばしば見ます。ある人々はキリストのいのちの御霊の現れを見たとしても、それが今まで守り通してきた自分たちの秩序、自分たちの地位、仕事、功績、生活にそぐわないと見るや、いのちの御霊の法則を退けてしまいます。暗闇の支配から解放されて真に自由を得ることよりも、「豚の群れを飼うこと」の方がはるかに重要なのです。ここに、人々がアダムにあって築き上げて来た従来の生活のスタイルや権威と威信、形式の全てが結集しています。そうしたものの最高の形式が宗教形式なのです。当時、パリサイ人や律法学者たちがこの宗教形式を守り通すために、いのちの君を退けたのと同じような構図が、今日、キリスト者をめぐって存在していることを私たちは見るのです。
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さて、昨日はここまで書いて、幾人かのキリスト者たちとの交わりのため記事は中断しました。今日は礼拝です。雨との予報でしたが、窓を開けてみると、雨はやんでいるようです。

エクレシアというものが、いかに目に見えない、不思議なものであるかを思いめぐらしています。それは目に見えるものではなく、目に見えない霊的な秩序です。どこそこのビルや建物の中にある時空間や、目に見える一人ひとりの人間のことではなく、神の宮としてのキリスト者一人ひとりの霊の内側にあるもの、それが総体としてキリストの御身体として結ばれたものなのです。

私たちは見えるものによって歩かず、見えないものによって歩いています。もしも私たちが目に見えるものに固執し始め、自分自身や、自分たちの集会や、建物や、交わりを高く掲げ始めるならば、それは途端に粉砕されていくことでしょう。誇るべきはただ主のみ! エクレシアの不可視性については、オリーブ園ブログの記事に一連の興味深い考察が掲載されています。文語体の聖書が用いられていた頃にこのような考察が書かれていたと知ることは新鮮な驚きです。
 
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