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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

その時には栄光の霊、神の霊があなた方に宿るからである

去る日曜は、エクレシアは何と不思議に生き物のように動くのだろうと思わされた日でした。何と不思議なのでしょう。私たちが極端に陥りそうになったり、何か言い足りなかったりすることがある時、主は兄弟姉妹を通してそれを補ってくれるのです。

「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て…」(使徒7:55)

さて、今日はステパノのことについて語らせて下さい。ステパノが殉教する際の喜びについて、日曜が来るまでずっと私は思いめぐらしていたのです。初めてその喜びが私に現実味を帯びて見えてきたからです。「荒野に宴をもうけ」(8月21日)の中でウォチマン・ニーは書いています、「神の栄光を見てしまった者にとって、投げつけられる石が何個であろうと、まったく問題ではなかったのです!」

以前にも、私は殉教か携挙かというようなテーマで幾度か記事を書いていましたが、その頃は、誤解や、対立や、蔑みや、嘲笑や、迫害を喜びを持って受ける心など到底、ありはしなかったのです。それなのに、何と愚かに軽はずみに殉教を語っていたのでしょう? 一体、その頃の私にとって殉教とは何だったのでしょうか? (もちろん、今でも十分に分かっているとはとても言いませんが。)

しかし、主はとても憐れみ深い方なので、ゼベダイの子とその母が何も分からずに御国で主イエスの右と左に座らせて下さいと願い出た時のように、こんなにも浅はかで愚かな私たちの告白でさえも、ちゃんと受け止めて下さり、それさえも実現へと整えて導いて下さることを知っています。

「イエスは答えて言われた、『あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか』。彼らは『できます』と答えた。イエスは彼らに言われた、『確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである』。」(マタイ20:20-23)

ゼベダイの子ヤコブとヨハネとその母は、地上的な栄光を多分に慕い求めつつ、不純な願いを主イエスの御許に持って行ったわけですが、それにも関わらず、主イエスは彼らの願いの中から、地上的な思いを取りのけて、ただ主イエスといつまでもともにいたいという、純粋な御心にかなう願いだけを抽出してそれに答えられたのです。

主イエスは彼らに答えて言われました、御国で主イエスとともにいるために、彼らは「わたしの杯」を飲まなければならないと。この杯とは何でしょう、それは自分の十字架を指します、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ8:34) ステパノはその杯を飲んだのです。

ある兄弟が私に語ってくれたことを思い出します、ステパノの頭上に天が開けたのは、彼がまさに地上から全く締め出され、地上に完全に居場所を失ったまさにその時であったと。「私たちには右も左も前も後ろも、まさに閉ざされて八方塞になる時があります、しかし、天だけはいつも私たちの頭上に開けているのですよ」

これを単なる慰めの言葉として終わらせるつもりはありません。別の言葉で言うと、地上が私たちを完全に閉め出すときに、往々にして天が開けるということなのです。私たちはしばしば地上にしっかりと座を占めながら、同時に天が私たちの頭上に開けることを願っています。地上の栄光をしっかりとこの手に握りしめたまま、同時に天の栄光も握りしめることができると思っています。クリスチャンとして兄弟姉妹から賞賛を浴び、手厚い理解や慰めを受け、拍手喝采を浴びながら、同時に主イエスの御名のために殉教していけるのだと、ある時期までは本当に思っているのです。

しかし、そうではない、ということを幾度も、幾度も、私は示されます。しかし、私はずっとそのことに抵抗します。なぜなら、愛する兄弟姉妹があまりにも大切であり、被造物の慰めが取り去られることが痛烈な心の痛みとなるからです。私たちはあまりにも独りぼっちになることを願わないのです! しかし、ある時から、理解できるようになります、この最後の瞬間、私たちは神と二人きりで差し向かいでいるはずだと。

しかし、そのことを考える時、大いなる喜びが私たちの心を包むのです。何と感謝なことでしょう、いかに地上で独りぼっちになったとしても、私たちは独りではないのです、主イエスが通られたあの真っ暗闇の孤独、つまり、天さえも彼の上に閉ざされ、神からも見捨てられるというあの絶望的な孤独を、私たちは決して味わう必要がないのです。私たちはこの瞬間、地上的な観点からは一人のように見えるかもしれません、しかし、それが一体、何なのでしょう、天地を造られた主、万軍の主、栄光の神が力強くともにいて下さり、ご自身を現して下さるのです。ハレルヤ! 神が私たちと差し向かいでいて下さるのです! 神の栄光と臨在が私たちの霊の内に現され、天が私たちの味方なのです。

「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言われた方が、最後の最後の瞬間まで私たちの味方でいて下さいますから、私たちはいついかなる時も、決してたった一人で置き去りにされることはないのです。

「主は、『わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、『主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか』。」(ヘブル13:5-6)

このことが分かるようになる頃から、迫害に対する私たちの見方が今までと180度変わってきます。以前は恐れ、おののき、嘆き、不安を持って受け止めたような事柄が、今度は私たちの心の真の喜びとなり、栄光へと変えられていくのです。ステパノがどのような状況で殉教したのか、もう一度、聖書を見てみましょう。

ステパノの説教を聞いたとき、「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った。

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。…こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、『主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい』。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』。こう言って、彼は眠りについた。」(使徒7:54-60)


よく考えてみて下さい、たった一人の人間ステパノに対し、何という恐ろしいまでの群集の憎悪の結集だったのでしょうか。このような出来事は人間の理解をはるかに超えており、ただ暗闇の勢力のなしうるわざとしか言えないのです。ステパノ一人がたとえどんなに大声を張り上げたところで、それは群集にとって大した響きではなかったでしょう。ステパノは無名の一信徒に過ぎず、説教の専門家でもなかったのです。そんなに説得力のある言葉を語れたとも思えないのです。それなのに、群集は「大声で叫びながら、耳を覆い、ステパノ目がけて一斉に殺到し、彼を市外に引きずり出して、石で打った」のです。

これは滅びを宣告されたこの世がキリストの御霊の現われに対し、キリストの復活の命の顕著な現われに対し、どのような反応をするかを表しています。この世を支配するサタンと暗闇の軍勢が、神の聖なる御霊をどれほど憎み、キリストの復活の力強い証をどれほど地上から消し去りたいかを示しています。ステパノへの群集の反応は、主イエスに向かって「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」(ヨハネ19:15)と叫んだ時の群衆の反応とまさに同じです。それはまことのいのちの君である方を十字架につけて否定しようとした世の願いと同じであり、「神の聖なる御霊によって、キリストの十字架の死と復活を証しする者を地上から取り除け!」という怒号そのものなのです。

ところで、一体、ステパノの仲間のクリスチャンはこの時、どこにいたのでしょうか? どうして彼をかばい、助け出せなかったのでしょうか? 記述はありません。たとえクリスチャンたちがステパノの近くにいたとしても、彼らにはとてもではないが、突然にして起こった群集の憎悪と暴力を食い止めることはできなかったのに違いありません。何ということでしょうか、ステパノはその時、たった一人だったのです。しかし、その時、天が彼とともにあったのです! 栄光の主イエスが彼とともにおられたのです! それゆえ、この恐ろしいまでの災いの渦中にありながら、ステパノは揺るぎない霊の平安の中に入れられ、彼の霊は群集の憎悪が触れることもできないほどに天高く引き上げられ、群集の仕打ちに全く影響されることなく、喜びと平安の中で群集のために祈ることができたのです。それは、この群集の残酷な仕打ちを補って余りあるほどのキリストのまことのいのちの完全さがステパノの心に注ぎ込まれたからなのです。

これがキリストの十字架のいのちの逆算なのです! これが、私たちの罪の負債を帳消しにし、私たちの日常の必要性を保障して余りあるだけでなく、私たちが生涯において御名のためにこうむる全ての損失を補ってなお余りあるキリストの復活の命の完全さなのです。死の綱が私たちを取り巻き、陰府の苦しみが私たちを捕らえようとする中でさえ、暗闇の軍勢の恐るべき猛攻撃をいのちの光によって貫き、私たちの霊を光の中で揺るぎない完全なる平安の中に守ることのできるキリストの栄光化された御霊なのです。キリストこそ私たちの朽ちない喜び、永遠の栄光であり、私たちの地上的な命をはるかに越えて、それを補って余りあるまことの命なのです。このことを真に理解するようになるとき、私たちは地上的損失をもはやかえりみなくなります。人々から向けられる憎悪、悪意、憎しみ、怒号、嘲笑、迫害、孤立、排斥にも、以前のような反応を示さなくなります。悪意ある敵対に遭っても、それによって触れられることが次第に少なくなっていきます。このことをさらに理解するために、多少、長くなりますが、私がニーの証の中で最も好んでいる証を一つ引用させて下さい。

「むだにする」こと
 
「すると、ある人々が憤って互に言った、『なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに。』そして女をきびしくとがめた」(マルコ一四・四、五)。この聖句は、最後に私たちが共に深く考えることを主が望んでおられると私の信じること、すなわち「むだにする」という小さな言葉に表されているものに、私たちを導きます。

 「むだにする」とはどんなことでしょうか。「むだにする」とは、まず第一に、必要以上を与えることを意味します。一シリングでいいのに一ポンドも支払ったとすれば、それがむだ使いです。<…>ある仕事を終えるのに三日間ぐらいで十分なのに、五日間も一週間も使うなら、あなたは時をむだ使いすることになります。「むだにする」とは、あまりにも小さなものに、余りにも多くのものを与えることを意味します。もし、ある人が自分の価値以上に受けたとすれば、むだになるのです。

 しかし今ここで私たちは、福音の行く所ならどこへでも、その福音と共に宣べ伝えられねばならないと主が言われた事がらを取り扱っているのです。このことを忘れないで下さい。なぜ主はこのように言われたのでしょうか。それは福音の宣教が、この場のマリヤの行動の線にそったものを生み出すことを、主は意図しておられるからです。すなわち主は、人々が御自分のもとに来て、主のために自己を「むだ」にすべきことを意図しておられるのです。これが主の求めておられる結果なのです。

 私たちは、主のために「むだにする」というこの問題を、二つの観点から見なければなりません。すなわち、一つはユダの見解
(ヨハネ一二・四―六)、一つは他の弟子たちの見解(マタイ二六・八、九)です。そして私たちの現在の目的のために、この両方の記述を一緒に考えていきたいと思います。

 十二人の弟子たちは、一人残らず、それを「むだにする」ことだと考えました。イエスを一度でも「主」と呼ばなかったユダにとっては、もちろん主に注がれたすべてのものが「むだ使い」でありました。香油が浪費であったばかりでなく、たといただの水であったとしても、浪費だったことでしょう。ここでユダは、この世を代表しています。世の評価をもってしては、主への奉仕とこのような奉仕のために自己を主に献げることは、全くむだなことであります。かつて主は、決して世の者から愛されたことがなく、世の人々は主を心にとめませんでした。そのため、どのようなものでも、主に献げることは浪費にほかならないのです。<…>

 私の個人の例をあげさせて下さい。一九二九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは、今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くような眼差しで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

 しかし、次の瞬間――それは私にとって、始めての経験でしたが――私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最高のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」

 
(ウォッチマン・ニー著、『キリスト者の標準』、いのちのことば社、pp.304-307)
 

私たちがこのことを真に理解出来たなら! 主よ、あなたに賭けたもので、何一つ無駄になるものはありません! それどころか、私たちが朽ちる卑しい身体で蒔いているものに、あなたがそれを永遠の栄光で報いて下さる幸いをどのように感謝すれば良いのでしょうか? ああ、こんな駆け引きが地上のどこにあるでしょうか? もしこのことが真に分かりさえしたならば、御名のために受けるどんな迫害も、誤解も、対立も、孤立をも、損失をも、私たちはもう恐れず、惜しいとも思わなくなることでしょう…。何というはかり知れない栄光を主は天において用意していて下さることでしょうか…。

「死人の復活もまた同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみあげり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。」(Ⅰコリント15:42-44)

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(Ⅰペテロ4:12-14)


「キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」(ローマ8:17)

 
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