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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」(Ⅰヨハネ4:18)

 礼拝の場でこのブログが再開されたことを心から喜んでくれた姉妹に出会いました。そのように喜んでもらえることは、主を通して与えられる大いなる慰めです。

 さて、最近、ただキリストの愛、キリストの平和に思いを馳せずにいられないのです。私たち兄弟姉妹があらゆる隔たりを越えて神の愛によって召されて一体となったことの意味を思わずにいられないのです。終わりの時代、クリスチャンのふるいわけは確かに進行することでしょうし、キリスト教界は善悪の路線に迷い込んだため闇に閉ざされつつあります。しかし、このような時代だからこそ、エクレシアの兄弟姉妹の間では、キリストの御身体の愛による一致が輝かないはずがないと思うのです。

「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3:12-15)


 分裂や拒絶反応というものは、異質なものの間で起こることです。同質の細胞の間では拒絶反応は起こりません。キリストの御身体は同質のものだからこそ、分裂に至らず、一致することができます。私たちは御身体として互いに近しいものとされ、キリストにあっての家族とされています。しかし、この同質性を作り出すのは、私たちのあれやこれやの善良な性質や、熱心な献身の努力や、はたまた見解の一致ではなく、ただキリストの血潮、十字架だけなのです。

「あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行なった肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定からなっている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

 それから彼は、こられた上で、遠くはなれているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである

 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」(エペソ2:11-22)


 このように御言葉は、私たち兄弟姉妹がキリストの血によって近いものとなったことを告げています。あらゆる隔たりを越えて、私たちは一つの御霊の中にあって、ともに父の御許に近づくことを許されているのです。私たちは自分自身の何かによって結び合わされたのではなく、十字架を経て、御霊によって結び合わされたのです。私たちの未熟さや、見解の相違にも関わらず、兄弟姉妹の間の二分性、もしくは敵意は、すでに十字架にかけられて廃棄されていることを見るのです。

 もう一度言います、私たち一人ひとりは信仰の大きさも違い、互いに共通点も少ないかも知れません。それにも関わらず、信じる私たちのために、キリストの十字架は二つのものを一人の新しい人に造りかえて平和をきたらせ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったと言うのです。兄弟姉妹の間の二分性と敵意はすでにキリストの十字架において取り払われているのです!
 
 私たちはキリストを頭とする一人の新しい人とされている――この事実を見失って、再び、善悪の路線に逆戻って、兄弟姉妹を裁かないように気をつけねばなりません。善悪の路線に生きている人々には決して平安がないのです。それは「律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。」(ガラテヤ3:10)と御言葉が言う通りなのです。「文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(Ⅱコリント3:6) 

 どんなに多くの善行を積んでも、どんなに自分で自分を正そうと努力しても、どんなに素晴らしい自己犠牲を行なったとしても、善悪の路線で生き、律法の下にいる限り、人は決していのちにはたどりつきません。それがキリスト教界の陥っている根本的な誤りなのです。人が人自身の力によって、神の聖にたどりつこうとする試みは、負いきれない重荷である律法のシナイ山となって、その人を押しつぶしてしまうだけです。

 ですから、私たちは自分の善行により頼みませんし、他の人々の善行により頼むこともしないのです。ただキリストが全てを達成されたという事実に基き、自分の業にではなく、彼の御業により頼み、そこに安息し、そこから全てを引き出します。そして、彼と共に葬られ、彼と共によみがえらされ、天の御座に座らされた者として、御座から流れるキリストの愛、キリストの平和、キリストのいのちのうちにとどまり、彼の統治する力強いいのちの只中に生きるのです。

 私たちは自分を見れば、ただゲヘナにしか値しない一人の人間が目に映るだけであり、おののき、恥じ入ることしかできません。パウロでさえ、自分は罪人のかしらであると言っているのですから、私たちは自分を何にたとえればよいのでしょう?

「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(Ⅰテモテ1:15)

 それなのに、血によって、ただ一つの御霊によって結ばれたキリストの御身体であればこそ、愛による一致の中に保たれることができるのです。どんな状況にあっても、愛をもって盾のように受け止めてくれる神の家族がいるということ、これはキリストの功績であり、断じて私の功績では絶対にあり得ません。

 さらに、私たちが互いを赦し合い、愛し合うべきであるのは、私たち自身が、神の大いなる憐れみによって罪赦された者だからです。「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。」(コロサイ1:21-22)

「あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利に陥れる証書を、その規定もろともにぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:8-15)

 この大いなる愛の中に私たちがとどまるようにと主イエスは言われます、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。」(ヨハネ15:9)と。

 わたしの愛のうちにいなさい! わたしの愛のうちにいなさい! キリストの愛で互いに愛し合いなさい! 自分を愛するように隣人を愛しなさい! 自分自身の内には神が満足される愛が全くないことを知りつつ、それでも主の愛の招きに、私たちは不思議に応えたいと願わずにいられないのです。主の愛が兄弟姉妹を結びつけてやまないのです。

「その戒めというのは、神の子イエス・キリストの御名を信じ、わたしたちに命じられたように、互に愛し合うべきことである。神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます。そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜った御霊によって知るのである。」(Ⅰヨハネ3:23-24)

「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。あなたがが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じるものには、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。そして、神のみまえに心を安んじていよう。」(Ⅰヨハネ3:13-19)


「あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」(Ⅰペテロ3:8) 

 人知を超えたキリストの愛をもっと知りたいと心から願います。キリストの達成された御業に信頼し、その御業に安息し、その愛のうちにとどまるならば、たとえ苦しみの只中を通らされようとも恐れはもうありません。

 十字架に苦痛が伴わないとは言いません。全く痛みの伴わない十字架は嘘でしょうし、痛み苦しみが全くないものを試練と呼ぶこともできません。しかし、恐れる必要はないのです、なぜならキリストが私たちに必要な事柄を全て十字架で達成して下さったからです。そして、彼が私たちにとって全ての全てとなられたからです!

 キリストはすでに全てを完成されたのです! 私たちは彼の統治するいのちの中にあって、恵みの御座に大胆に進み出て、心の願いを神に申し上げることが許されており、信仰によって、キリストの御業によって必要の全てを満たしていただくことができるのです。

「主は、「わたしは、決してあなたがたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」(ヘブル13:5-6)

「…主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(Ⅱコリント12:9-10)

 ですから、兄弟たちよ、御名のためならば、喜んで行き詰まりましょう! 喜んで侮辱されましょう! 喜んで誤解されましょう、喜んで迫害されましょう! 喜んで弱くなりましょう! 私たちが弱い時にこそ、私たちを通してキリストの強さが完全にあらわされるからです。

「…イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外へ出て、みもとに行こうではないか。

この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」(ヘブル13:12-15)


ハレルヤ! 主の御名をたたえます。聖徒らとともに一つの御霊にあって父なる神の御許に近づくことを許されている幸い、キリストを頭とする一つの御身体とされて、神の霊なるすまいとしてともに組み合わされ、生長し、築き上げられることのできる恵みに感謝します…。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。」(コロサイ3:15)

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