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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

父よ、あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい

クリスチャンが真剣にバビロンについて考え始めると、すなわち、偽りのキリスト教について真剣に考え始め、自らの信仰生活と交わりを真摯に主の光の下で振り返り、望ましくないパン種を捨てようと願い始め、肉が神の御前でどれほど罪定めされた腐敗したものであるかを考え、また私たちの生まれながらの自己がキリストと共に十字架で死に渡される必要性について真剣に御言葉を調べ、そして神の事実を堂々と宣言し始めると、どうしても面白くなくて、邪魔をしたくて仕方がなくなる人たちがいるようです。

そんな人たちの思いが、以下の年賀状に結晶化して表れていると言えましょう。非常に面白かったので、エシュコル兄弟のブログより転載します。

 悪魔からの年賀状

あけましておめでとうございます。私、悪魔、並びに悪霊一同より、新年のご挨拶を申し上げます。

 旧年中は、私どもが吹き入れる邪悪な思いに、しばしばご賛同頂き、時にはそれを実行に移し、何度も神の御名を汚して下さり、大変お世話になりました。さらに、それらを真実に悔い改めることもなく、一年を過ごしていただきましたことは、神の赦しと回復の恵みとを自ら拒否することであり、私どもにとりまして何よりの励ましとなりました。

 控え目な礼拝出席、形式的な礼拝姿勢、表面的な教会での交わり、従う意志のない聖書の読み方、自分中心の願い事ばかりの祈りなどを通じて、救いの確信を失いかけたり、自らを省みることなく人を裁いてばかりの信仰生活には感謝の言葉もございません。まことに旧年中はお世話になりました。

 ただ、兄弟姉妹の祈りや牧師の適切な指導さえなければ、さらに神なき素晴らしい世界をご一緒できたであろうことを思いますときに、まことに悔やまれる次第でございます。

 さて本年も引き続き、気の向いた時だけ聖書を読み、決して神に本気で期待することなく祈り、兄弟姉妹とは建前だけの交わりに留めていただき、信仰は仕事と家庭には持ち込まず、「生教分離の原則」を徹底され、世と調子を合わせていただき、忌々しい神の栄光を現すことのございませんように、どうかよろしくお願いします。

また、そのようなことは万が一にもないとご信頼申し上げておりますが、新年を機に、真実に悔い改める、神に立ち返る、神に従う決断をするなどの暴挙だけは、くれぐれもご容赦いただきますよう切にお願い申し上げます。

 新しい年を迎え、私どもも全力をあげまして、あなた様が世の楽しみ、自己実現などにまい進され、神なき世界を満喫されますようご誘惑申し上げます。

 そして、いつの日か、教会生活を離れられ、キリストへの信仰もお捨ていただき、私どもと永遠を共にしていただければ光栄至極でございます。   
                                あなたの魂を恋い慕う悪魔より。


 残念ながら、昨年は本当に上記のような事柄が冗談でなくなった年でした。実に多くのクリスチャンたちが偽りを信じて主が血潮によって贖われた兄弟たちを迫害し、主の御名を汚す側に回ったのです。

 "Divide and rule"の言葉通り、敵の方法は、兄弟姉妹の間に疑心暗鬼を蔓延させて、分裂を引き起こすことにあります。兄弟姉妹に互いを中傷させて団結を阻止し、恐怖によって黙らせて、困難にある時に仲間を容赦なく見捨てさせます。互いが自分の身を守るために互いを裏切るように仕向けるのです。こうして、交わりを引き裂いて、キリストの御身体の一致を壊し、信頼が成り立たないようにし、それぞれの兄弟姉妹を孤立させた上で、善悪の路線で生きるエージェント・クリスチャンを多数派遣して、「敵を愛せ、赦せ」などと圧迫し、事実を訴えさせまいとあらゆる方法で口封じし、罪定めを繰り返すことで、立ち上がれないほど一人ひとりに打撃を加えることにあるのです。クリスチャンの霊的な敵がその常套手段である分裂という卑劣な作戦によってどれほど兄弟姉妹の一致をかき乱そうとするか、その作戦が見事に表れた一年でした。

 ただし、このような愚かな攻撃をクリスチャンが黙って受け入れる時期はとうに過ぎ去りました。多くのクリスチャンが子羊の血潮と証の言葉を持って敵の偽りに立ち向かうことを学び、偽りにも圧迫にも屈しなくなっただけでなく、さらに、私たちは団体の人として立ち上がり、以前のように一人ひとりがもう孤軍奮闘していないからです。

 今年はいよいよ神の家から裁きが始まるでしょう。偽りに加担し愚行に与してきたクリスチャンが重い刈り取りをさせられるときが迫っています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。」(Ⅰペテロ4:17)

 しかしながら、こういった現象を悠長に他人事としてばかり考えることはできないのです。なぜなら、私たち自身がキリストの十字架において自己を対処され、パン種のない民になる必要があり、主の聖なるエクレシアの中に肉の働きを持ち込むことを終わらせねばならないからです。

 パウロはコリントの教会に向かって大胆に警告しました、「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」(Ⅰコリント3:3)

 そうです、私たちもエクレシアが、そしてまた、神の宮である自分自身が、キリストの花嫁にふさわしいまでに整えられてはいないことをよく知っています。無知のゆえに、私たちは自分が主の働きとして誇っている中に、どれほど主から来たのでないものがあったかを知らないのです。

 私たちの目を開かせてくれる主の深い憐みを求めずにいられません。どんなに私たちが肉を弁護したとしても、それは主の御前では死んだ行いであり、永遠に価値を持たないのですから、私たちは生まれながらの自己を弁護することを早々に放棄して、神の事実に早く立った方が良いのです。主は私たちを憐れむがゆえに、私たちに対して長く忍耐しておられるのだと思いますが、どうか主が早急に私たちの目を開いて下さいますように。

「義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとべリアルとなんの調和があるか。…だから、『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる』。

愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。」(Ⅱコリント6:14-7:1)


 清くなること、今年はそれについてさらに求める必要が出て来そうです。セルフの要塞となったキリスト教界にとどまることがいかに危険であるかについては、ここではもう繰り返す必要はないと思います。ただし、もしもキリスト教界だけに非難を集中させることで、自分自身の肉の腐敗から目を逸らそうとするならば、私たち自身も、信仰の破船に遭いかねません。

 バビロンとは、終末の時代に世界的規模で現れる偽りのキリスト教ではありますが、それはあの教会、この教会のことだけを指すのではなく、私たち自身の中にある生まれながらの自己、そして肉に通ずるものなのです。

 私たちは大きな戦いをくぐり抜けましたが、油断してはなりません、真に貞潔なキリストの花嫁として歩むのか、それとも、腐敗したバビロンになってしまうのか、この先、私たちは必ず問われるからです。私たちはどちらの「女」になるのでしょうか? クリスチャンにとって最も油断がならないのは、生まれながらの自己であり、そして、敵はしばしば私たちの弱点(十字架を経ていない生まれながらの肉)に向かって全力で火矢を放ちます。

 敵は私たちの肉がまだ死んでいないと言って非難するかも知れませんが、これに対する答えは、魂の命を愛さず、自己をキリストの十字架で徹底的に死に渡し、血によって立つことだけです。私たちは肉とは何かを啓示によって真に知らされなければなりません。主の憐みを乞います、この点で盲目であり続けることは致命的です。今までであれば、自分の肉の弱さを大目に見て、自分の力でかばうことも多少はできたでしょうし、兄弟姉妹の憐れみにすがることで大目に見てもらうことも可能でしたが、今後、私たちは自分に立脚するのか、キリストに立脚するのか、ただそれだけを問われるでしょう。自己を徹底的に否むということを私たちはきっと求められるでしょう。

 多くの人が肉によって誇っているため、私たちはそれを聞いて自分を辱められたように感じる時があるかも知れません。しかし、そのような感情にとらわれていてもなりません。ちょうどロトの時代のように、娶り、嫁ぎ、食い、飲み、植え、建て、売り、買いしている人々に不意に滅びが襲う時が迫っており、私たちはそのような事柄から全く目を離し、ただ主だけに目を注ぐよう訓練していかねばならないからです。

 パウロは言いました、「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。」(ピリピ3:3) ペテロが主イエスを目指して水の上を歩いたときのように、私たちは何も持たない者として、ただ主だけを目指して歩きます。この地上でどんなに多くのものを持っていたとしても、神の御前では、人自身には結局、何もありません。私たちは無か、ゼロ以下です。けれども、キリストには全てがあるのです! 何もない自分と、全ての全てであられるキリスト、どちらを私たちは選択するのでしょう? 私たちは誰の子孫として生きるのでしょう? 奴隷のハガルの子として生きるのでしょうか、それとも、御霊によって生まれた約束の子として生きるのでしょうか? 私はアダムの系列に属するエバなのか、それとも、キリストのわき腹から生まれた聖なるエクレシアなのか、それは私たちが信仰によって決め、選び取るべき事実なのです。

「女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。」(ガラテヤ4:23) 「すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。」(ローマ9:8)

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)


 奴隷のくびきにつながれるということは、私たちが自分自身の生まれながらの自己、肉によって拘束されることをも指します。肉に生き、生まれながらの自己に立脚することは、私たちがキリストにあって天に蓄えられている朽ちない無尽蔵の宝から引き離されて、朽ちるものによって制限されることに他なりません。幸いなことに、たとえ肉というものの忌まわしい正体が啓示によってそれほど明らかにされていなくとも、私たちの肉がキリストと共なる十字架ですでに死に渡されたことが神の事実であることを宣言し続けることによって、私たちは主にそれを実際としていただくことができます。そうして、幾多の失敗にも関わらず、血潮が全ての罪から私たちを清めることを信じ、ただ神の事実を宣告し続けるのです。

 ですから、あのガラテヤ書の御言葉を私たちは何度も口ずさむのです。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19-20)

 ずっと以前に神は死んだと宣言した哲学者がおりましたが、私たちはそれとはまるで逆のことを宣言するのです、これは永遠の勝利の響きです、すなわち、「キリストと共にわたしは十字架で死んだ」と! あの十字架においてキリストとともに処罰されたのはわたしであったと! 彼の肉が罰せられたとき、私の肉も罰せられ、私の生まれながらの魂は水のように注ぎ出され、私の古き人は今もゴルゴダで主とともに永遠にはりつけにされてさらしものにされているのだと! この神の事実を信仰によって受け取るならば、私たちははりつけにされた自分の肉が今もなお生きて私を支配していると言うことはできないはずです。

 律法によって罰せられて十字架において主と共にはりつけにされて死んだ私たちを支配すべき法則が他にあります。いのちの御霊の法則です。「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」(ガラテヤ5:16) 「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。」(ガラテヤ5:18) 

「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。」(ローマ8:3-4)

「また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。」(ローマ8:8-9)

「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:12-13)

「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」(Ⅱコリント4:11)

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ5:24)


ハレルヤ! 御霊に属することは神の領域です、何が御霊に属するものであり、何が肉に属するものであるかを明らかにされ、御言葉によって私たちの霊を生まれながらの魂から切り離されるのは神の仕事です! 「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」(Ⅰコリント15:50) どうか神が、私たちに御霊の導きの何であるかを力強く教えて下さいますように、何が御心にかなう永遠に属することで、何が地上の朽ちるものであるかを教えて下さいますように。神ご自身が、私たちが御霊に従って生きるよう求めておられるのですから、いのちの御霊の法則の何たるかを私たちに教えて下さるのは、神の仕事です!

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。…御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」(ガラテヤ5:13-25)


 さて、最後に重要な問題について考えてみましょう。なぜ全聖書は「自分を愛するように隣人を愛せよ」と教えており、この戒めが律法全体を左右するほどに重要なのでしょうか? なぜそこでは「自分を愛するように」とあえて強調されているのでしょうか?

 私たちはこの答えをアダムとエバを型として得ることができます。アダムを創造された後で、神は言われました、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」(創世記2:18)。こうして、アダムのあばら骨から造られた助け手がエバだったのです。アダムはエバを見たとき、言ったのです、「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう。」(創世記2:23) このことは、エバがアダム自身から出来ていることを物語っています。エバはアダム自身から出て来ているだけでなく、アダム自身であるといっても良いほどに、アダムにそっくりであったのです。

 このエバは、教会の型です。教会はキリストのわき腹から水と血と霊によって生まれた聖なるエバです。キリストが教会を愛されるのは、アダムが自分自身を愛するようにエバを愛したのと同じです。教会はキリストを成分とし、キリストから出来ているのです。だから次のように言われているのです、「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

 もうお分かりでしょうか? 律法の全体系において、隣人を愛することと自分を愛することがなぜ一くくりにされているのか、お分かりになったでしょうか? 花嫁と花婿の関係と、兄弟姉妹の横の関係は多少、異なっていますが、いずれにせよ、私たちは御霊の一つのバプテスマを飲んだ一つの身体なのです。

「自分の妻を愛する者は自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。」(エペソ5:28-29) と聖書は言います。

 キリストと花嫁、夫と妻の関係を、多少、違いはありますが、兄弟姉妹という横の関係にある程度はあてはめることが可能です。なぜなら、エクレシアに満ちている愛は、キリストが教会を愛された愛と同じだからです。そうすると、なぜキリスト者が、自分自身を愛するように隣人を愛せよと命じられているのか理解できるでしょう。同じキリストのわき腹から生まれた聖なるエバとして、私たちが兄弟姉妹である隣人を愛することと、自分を愛することは同じなのです。私たちはそれぞれに全く別の賜物を与えられて、異なった経歴を持ち、共通点もそう多くはないと感じられるかも知れませんが、キリストから生まれたという天的な事実においては、とても互いに瓜二つのように近しい存在なのです。隣人と言っても、まるで自分自身のようなのです。それは、私たちが同じ御霊を飲んで、同じ御霊によってバプテスマを受け、一つとされた神の家族であるからです。

 この事実を見るようになった時、神を愛し、隣人を愛することはもはやそんなにも困難ではなくなるでしょう、むしろ「自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない」という御言葉の意味が分かるようになるのです。「完全に愛を傾ける」という、ガイオン夫人の言ったことの意味が分かるようになるでしょう。兄弟同士が互いに食い合い、かみ合うことがなぜ結局、自分で自分を滅ぼすことを意味するのかも分かるようになるでしょう。

「なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。」(Ⅰコリント12:13) 「…主につく者は、主と一つの霊になるのである。」(Ⅰコリント6:7)

「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。」(Ⅰコリント10:17) 「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。」(ローマ12:5)


御身体に分裂がなく一つであること、エクレシアに愛による一致があることを、主イエスはどれほど願われたでしょうか。十字架に向かわれる前に、主は御父に祈られたのです。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。

わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるためであります。

わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。父よ、あなたがわたしに賜った人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜った栄光を、彼らに見させて下さい。

正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります。」(ヨハネ17:15-26)


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