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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい


 
閑話休題。相変わらず、記事はかなり深刻なテーマの周辺をめぐっているとはいえ、昨年末から、私は主にあってかなり面白い日々を送らせてもらっている。恵みを誇りたくないので、交わりの話は控えめにしたいが、それにしても、私が絶望しかけているような時にさえ、主の憐れみは雨のように注がれ、恵みはひっきりなしにやって来るので、沈黙してはいられない。だが、一見すると、これが本当に恵みなのか? 祝福なのか? とすぐにはそれと分からないような形でやってくるので面白い。

昨年の大晦日は、ある婦人宅で迎えた。以前から何度も家に招いて下さっていたのだが、その理由がまた想像をはるかに超え、常識を打ち砕くものだったので、本当に大丈夫なのだろうか?とためらい、なかなか伺うことができなかったが、実家に帰省しなかった昨年は、できるならば、家族の団欒のぬくもりの中で年末を迎えたかった。そんな思いでいたところ、ちょうど当日、その婦人があきらめず私をお誘い下さり、初めてその和やかな家を訪れたのだった。

この年末の突発的な訪問は、最近、神の家族である別の素晴らしい夫婦に電話でリクエストを出した結果でもあった。「誕生日を迎える場所が欲しいので祈って下さい」とささやかなリクエストを出していたところ、理解と常識を超えたなりゆきでそれが成り立ったのが面白かった。主は小さき者の願いを軽んじられないし、それを喜んで受け取って下る。主はこれからも言って下さるだろう、私にまかせなさいと、あなたの思うところ、願うところをはるかに越えて、私はあなたを満たすことができる神なのだから、私に求めなさいと…。

かなり風変わりなキリスト者の婦人と、剛毅なおやじさん、息子たちが寄り添って、短い時間ではあったが、くつろぎの時間を過ごした。温かなリビングルームに、家族が集まるというのはこんなにも素敵なことかと思わされた。だが、その合間にも、色々なことを感じさせられた。息子や娘たちが帰省して、食卓を囲む幸福なひと時。だが、その合間に見え隠れするキリスト者の孤独。なぜか私は、私のみならず、一人ひとりのキリスト者がそれぞれの持ち場にあっていかに孤独を強いられており、御身体のいのちから切り離されかけているがゆえに、慰めを失って意気消沈しかけ、改めて、兄弟姉妹を通してキリストの命を吹き込まれなければならない状態にあるかを思い知らされたような気がしたのだ。

奇妙なことなのだが、助けられているのは私のように見えて、私ばかりではないように感じられてならない。本当に取るに足りない存在であるからこそ、互いに差し伸べられる手。取り繕う余地がもうないほど、低められて初めて分かち合われる命。どちらがどちらを支えているのか、もう分からないほど、同じ低さ、同じ目線に立って初めて分かち合われるキリストの命。それぞれの信仰者の歩みは全く異なっており、互いに理解できない事柄や、到底、容認できない事柄も、あまりに多いかも知れないが、それらの相違をなお越えて、主が一人ひとりに注いで下さる憐れみの深さを感じさせられてならないのだ…。

私たちは偉大なものにばかり目を注ぎたがるが、神はそのような目で私たちをご覧になっておられない。蔑まれ、見捨てられかけているような者に対する主の憐れみの深さを思う時、私たちがこのままでいて良いはずがないと思う。これ以上、強行軍を続けてはいけない。御身体のいのちから切り離され、大切にされなくなった羊が、たとえさまざまな影響力の食い物にされたとしても、それを人は責められようか…。

だから、何よりも互いを慈しみ、愛しあうことのできる共同体のために、城壁を再建する作業が今早急に求められているのだろうと思う。不思議なことだが、独り者であるから孤独ということでは必ずしもないのだ。大家族の中での孤独もあるし、夫婦の孤独もあるし、キリスト者の只中での孤独もある。富んでいるか貧しいかに関わらず、この社会においては、孤独は例外なく一人ひとりのキリスト者をも蝕んでおり、他の兄弟姉妹たちも、言葉にできない領域で苦しめられていることが感じられた。

掲挙や、再臨や、殉教といった偉大な事柄を語ることも、決して無益ではないだろうが、何よりも、私たちはもっともっと足元のことから正直に見なくてはならないのではあるまいか。この暗い時代にあえて言いたいのだが、自分に属する者だけでなく、神の家族が互いを心から慈しんで今を平和に大切に生きることができなくて、自分ひとり、未来にだけ偉大な望みをつなぐということができるのだろうか? それで御国が私たちの只中に来ていることが証明されようか? それが神の御心にかなった出来事だろうか?

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ13:34-35)

第一コリントの手紙は言う、「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(Ⅰコリント13:1-3)と。

このコリントの手紙の愛の部分は、クリスチャンでさえ、目を背けて足早に通り過ぎようとする箇所である。自分の正しさを追い求めるクリスチャンは多いが、心が無くては、神をも人をも愛することはできない。多くの人は神を愛することのみを強調し、隣人への愛については沈黙する。もしくは、それを自己救済の文脈でとらえ、人間への愛を義務づけるために使ってしまう。

だが、心の全てを傾けて、神を愛し、兄弟姉妹を愛するとはどういうことなのかと私は思いめぐらしたい。私はこれを道徳論として言及するつもりはなく、自分と他人を裁くために言っているのでもない。ただ、神の愛というものを知りたいと願うのである。

「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。無作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(Ⅰコリント13:4-7)

この愛は、父なる神を愛し、神が世を愛されたがゆえに、ご自分の命をも捨てて神に従われたキリストの愛のことを言っている。私たちはあまりにも未熟で荒削りで、訓練されていないがゆえに、兄弟姉妹とのかかわりは、時にとても危なっかしいものとならざるを得ないが、ただキリストの達成された御業から逆照射することによってのみ、私は彼らに関わることができるし、彼らを愛することができる。そして、値しない者に注がれる神の愛というところに何度も戻って、ガイオン夫人が言ったように、完全に愛を傾けるということの意味を考えさせられるのだ。

「今、ここ」という時に、キリストの御身体の一部としてともに生きていることの幸い、主とともに統治する命の中に入れられていることの幸い、他でもないこの兄弟姉妹とともに一同に集められている幸いを、もっともっと私たちは味わい知るべきではないかと思っている。一見、取るに足りない者ばかりであるにも関わらず、互いが互いをどれほど豊かに助けることができるか、むしろ取るに足らないと思っていた者こそ、どれほど支えることができるかを知らされるときに、人が自分の信仰の偉大な成長にのみ目を留めることの無意味さを思う。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:25-28)

これは慈善事業の勧めではない。まず、私たち自身が神の愛を真実に知るために、エクレシアはキリストの愛によって満たされなければならない。たとえ主の恵みを十分に味わい知ったと虚勢を張る人がいたとしても、なおそれを否定して、自分がまだまだ御前に貧しい者であることを告白したい。私たちが彼の愛に満たされなければならないことは明々白々な事実ではないだろうか。私たちはキリストの背丈にまで生長し、彼の満ち満ちた愛の豊かさに達するまでに、彼の愛を知らなければならない! 私たちのために腰に帯して給仕して下さる主の愛に十分に満たされたとき、何もせずとも、アロンのひげから油が滴り落ちるように、エクレシアから流れる命の流れがそれに触れる全ての人たちを潤すだろう。虚勢を張って自分にはあるかのように見せかけても無意味である。

ところが、逆説的なことに、今私には与えるものが何もなく、せめて受けることができるだけであるそんな貧しさにも関わらず、私を通して、キリストのよみがえりの命がエクレシアに流れることをただ信仰によって信じて、兄弟姉妹に会いに行く時、何かしら不思議な命の交換作業が行なわれるのである。血潮以外に、私が兄弟姉妹とつながる根拠も、私が遣わされる根拠もない。そして、主ご自身から受ける分もあるが、この横のラインで、御身体の中でともに分かち合われる命が確かに存在し、それがこれまであまりにも不足していたのかも知れないと思う。そのために、人々は疲弊してきたのかも知れない。今、キリストの命が御身体全体に行き渡るように、城壁を再建し、交わりを補強し、立て直すことが求められているのではないかと思う。

昨年、最後の交わりでも、ある兄弟が言った、私たちの交わりは、今後はきっと、愛による共同体へと変えられていくだろうと。それは絶え間なく命の流れる共同体であり、御身体の傷ついた部分や、痛んだ部分や、病んで、孤独になり、死にかけている部分へと自然に命の流れる共同体である。絶え間ない戦いはただ人を消耗させるだけであり、過酷な競争は人々を引き裂いてしまう。休息と安らぎのひと時が必要である。今後は、本当にいのちが分かち合われる愛による共同体としてのエクレシアが姿を現すことを私は信じ、望んでやまない…。それは私の願いであるというよりも、神が私たちに願われ、命じられたことでもあるのだから。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」(ピリピ4:6)

「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」(マタイ18:19)


年が明けてから、財布の中身が底をつきかけているという兄弟が、それでも快く江ノ島を案内してくれた(もちろん、それは一時的な状況である)。あまり天気の良い日ではなかったが、人の賑わいの中で、十分に楽しめた一日であった。偉大なことは何もないが、何と素朴で静かな休息のひと時だろう。本当に、エクレシアに今までにはなかった何かが築かれようとしているのだと思いめぐらしながら、私はただ主の御業を待ち望んでいる。

我が主よ、どうぞ今年も、我らに日々の糧を与えて下さいますように! エクレシアに属する一人ひとりを守り、私たちの疲れを癒し、御翼に乗せて、あなたご自身が私たちを運んで下さいますように!

「だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」(Ⅰテサロニケ5:11)

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。」(Ⅱテサロニケ2:16-17)



 
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