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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

バビロンの倒壊(1)

バビロンの倒壊
 
啓示録第十七章一節―三節と、第二十一章九、十節で語られている二人の女のうち、一人は大淫婦と呼ばれ、もう一人は花嫁と呼ばれます。第十七章一節には、「それから、七つの蜂を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、『さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう』」とあります。それから第二十一章九節では、「最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、『さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう』」

もう一度
第十七章三節は言っています、「御使は、わたしを霊の中で荒野に連れて行った。わたしは、そこでひとりの女を見た……」第二十一章十節は言っています、「この御使は、わたしを霊の中で、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神のみもとを出て天から下ってくるのを見せてくれた」(原文)。聖霊は人を感動して聖書を書かせたとき、ことさら並行的文章を使ってこれら二人の女を指摘し、わたしたちに明瞭な印象を与えようとしました。

 まず、淫婦に関することを考えましょう。
啓示録第十七章と第十八章とで言われている淫婦はバビロンです。彼女の行為は、神の目には極度に不愉快なものです。彼女の行為はなぜ神をそんなに怒らせるのでしょうか。いったいバビロンとは何を代表するのでしょう。何がバビロンの原則なのでしょう。なぜ神はバビロンの対処をし続けておられるのでしょう。またなぜバビロンが裁かれるまで、小羊の花嫁の出現を待つ必要があるのでしょう。神がわたしたちの目を開いてくださいますように。聖書により、バビロンとは何であるかを実際に見ることを得させてくださいますように。

 バビロンの名の起源は「バベル」です。わたしたちは聖書で、バベルの塔の物語を記憶しています。バベルの塔の原則は、地から天に達するため何物かをうち建てようと企てるものです。またこの塔を建てるとき、人はれんがを使いました。れんがと石とでは根本的な違いがあります。石は神によって造られます。れんがは人によって造られるものです。れんがは人間の発明、人間の生産物です。バビロンの意味することは、人が自分自身の方法により、天にまで達する塔を建てようとすることです。

バビロンは人間の能力を代表します。これは偽りのキリスト教、すなわち聖霊に権威をもたせることをゆるさないキリスト教を代表します。それは聖霊の導きを求めません。万事を人間の努力で行ないます。あらゆるものが人の焼いたれんがから成っています。あらゆることは人の行為にかかっています。

これらの人たちは、自分たちが制限されていることを見ません。彼ら自身の天然の能力で主のわざを行なおうと企てます。彼らは、「主よ、もしあなたが恵みを与えてくださらないなら、わたしたちは何一つ行なうことはできません」と、主に実際に言うことのできる立場に立ちません。彼らは、人の能力が霊的なことを満足させることができると考えます。彼らの意図は天に達するものを地上にうち建てることです。

 しかし神は、決してこのようなものを受けいれることはできません。ある人はいくらか天分をもっています。そして少しばかり神学を学んだなら説教することができると考えます。これは何でしょう。れんがです! また他の人は非常に賢いです。そこでいくらかの助けを受け、いくらかの知識をもち、そしてキリスト教の働き人になります。これはまた何でしょう。れんがです! ある人は事を処理することができます。そこで頼まれて教会の実務に携わります。これは何でしょう。れんがです! これらすべてのことは、地から天まで達するために、人の能力により、れんがによって何ものかを建てようとする人間の努力です。

 わたしたちはもう一度、教会内では人間の場は少しもないことを強調しなければなりません。天のものは天からだけ来ることができるのです。この地のものは決して天に行くことができません。人のむずかしさは、彼が裁きの下にあることを見ないことです。また自分が、ちりか土くれにすぎないことを見ないことです。人がどんなに高く建て上げようとしても、天は人の最高の高さよりさらに高いのです。どんなに高く塔を築こうとも、人は以前として天に触れることはできません。天はいつでも人のはるか上にあります。

人はよじのぼり、建て上げます。たとい倒れないとしても、彼は依然として天に触れることはできないのです。人がバベルの塔を建てようとする計画を、神が打ち破られた理由は、霊的な問題では人自身は無用であることを見せるためでした。人は何一つ行なうことができません。

 旧約聖書には、この原則をひときわ明らかに示す一つの出来事があります。イスラエル人がカナンの地にはいったとき、罪を犯した最初の人はアカンでした。アカンが犯した罪は何であったでしょう。彼は言いました、「
わたしはぶんどり物のうちに、バビロンの美しい外套一枚が…………あるのを見て、ほしくなり、それを取りました」(ヨシュア記七・二一)

バビロンの美しい一枚の外套がアカンを誘惑して罪を犯させました。美しい外套は何を意味するでしょう。美しい外套は身なりをよくするために着られます。人が美しい外套を着るのは、外見を何とか引き立てて自分に多少の色どりを加えるために身を飾ることを意味します。アカンがバビロンの外套をむさぼったのは、彼が自分を引きたて自分をもっとよく見せかけたかったことを意味します。これがアカンの犯した罪です。

 次に、新約聖書で教会が始まったばかりのとき、最初に罪を犯したのはだれでしたか。聖書はそれがアナニヤとサッピラであったことを見せています。彼らが犯した罪は何であったでしょう。彼らは聖霊に対して偽ったのです。彼らは 主をそんなに愛していませんでした。しかし主を非常に愛している人たちのように見られたかったのです彼らはふりをしたのです。彼らは一切を心から喜んで神にささげようとしませんでした。しかし人の前では、ほんとうに一切をささげたようなふりをしました。これはバビロンの外套です。

 ですからバビロンの原則とは偽善です実際にはそんなものがないのに、人からの光栄を得ようとして、人前にあるかのようにふるまうのです。ここに神の子たちのおちいる真の危険があります―霊的にふりをすることです。偽って演出される霊的なふるまいが非常にたくさんあります。それは虚飾をよそおうものです。多くの長たらしい祈りは模造品です。多くの信心深そうな口調は真実ではありません。実際そうではないのに、そうであるかのように見せかけるのです。これがバビロンの原則です。わたしたちが自分の実情と一致しない外套を着るときは、いつもバビロンの原則の中にいるのです。
 
 神の子たちは人からの光栄を得るため、どれほど多くの虚偽をよそおってきたか気づいていません。これは花嫁の態度とは全く正反対です。偽って行なわれるあらゆることは、淫婦の原則によって行なわれるのです。花嫁の原則によってではありません。もし神の子たちが、人前の見せかけから救われることができたなら、それはたいしたことです。バビロンの原則は人からの光栄を得たいために見せかけることです。もしわたしたちが教会内で、人の光栄や人の地位に目をとめるなら、それはバビロンの外套の罪と、アナニヤとサッピラの犯した罪との中にいるのです。どんな偽りの献身も罪です。またどんな偽りの霊的さも同じように罪です。まことの礼拝は、霊とまこととにあります。どうか神がわたしたちを真実の人にしてくださいますように。

 もう一つのバビロンの条件が
啓示録第十八章七節で見られます、「彼女は心の中で『わたしは女王の位についているものであって、やもめではないのだから……』と言っている」。彼女は女王の位についています。彼女はやもめとしての性格をすっかり失っています。キリストが十字架の上で殺され釘づけられたことに、彼女は何の感覚ももっていません。それどころか彼女は、「わたしは女王の位についている」と言いました。彼女はその忠誠心を失いました。その正しい目標を見失ってしまいました。これがバビロンの原則です。またこれが堕落したキリスト教です。
 
(『栄光の教会』、ウォッチマン・ニー著、福音書房、p.170-176)


 
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