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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

「カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:8-12)

「主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。 」(創世記18:20-21)

「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。 」(ヤコブの手紙5:1-6)

死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。」(詩編18:4-7)

「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない」(詩編34:12-22) 


今回の記事のテーマは、「主に向かって不正を声高に叫び、諦めることなく正義を求めて訴え続けよ」というものである。

多くの日本人は、不正に抗議することは無駄であると考えている。権力者の腐敗などに対し、どんなに声をあげても、ただにらまれ、いわれのない制裁を受け、仕事を取り上げられ、人々に見捨てられ、不遇の人生を送ることになるだけであり、そんな人生はカッコ悪く、自分にとって損なだけだと。

そうして多くの人々は、強い者が嘘をついてもいることが分かっていても、自己保身の思いでこれを見て見ぬふりをして沈黙し、真実が曲げられ、不正義が横行し、弱い者が不当に虐げられ、見殺しにされても、全く声もあげない。順番が自分に回って来るまで、すべての苦しみは完全に他人事である。

戦前・戦中もそうであった。かつての戦争は、軍部だけが起こしたものではなく、大衆の無言の賛同があって初めて推し進められたものであった。人々は、竹やり訓練や火消し棒による消火活動では敵軍に勝てないことをよくよく知っていた。鍋や釜はもちろんのこと、家畜やペットに至るまでの供出に全く意味などないこと、「一億玉砕」、「欲しがりません勝つまでは」、「進め一億総火の玉だ」などといったスローガンなどが、どんなに空虚なものであるかをよく知っていた。特攻などは無駄死を奨励するだけで戦況に影響を与え得ないことを誰もが予想できたのである。

にも関わらず、それらの虚しさに人々はほとんど声をあげなかった。自分がその嘘を見抜いていることさえ必死で隠した。命が惜しかったからである。特高警察に連行されたくなかったからである。非国民と呼ばれ、断罪されることを恐れたからである。だが、そうして必死に保とうとした命を、彼らは赤紙一枚で失い、空襲で失い、原爆で失い、戦場で餓死し、大陸に置き去りにされ、集団自決し、自ら無残に捨てるようにして死んでいった。

今という時代の怖さは、まだ戦争も起きておらず、何も起こっていないのに、異変が起きる前から、戦前や戦中と同じく、大衆が権力者の横暴に見て見ぬふりをし、不正に対して憤ることをやめて、善悪の感覚や、良心の判断を故意に眠らせて、自主的な沈黙に甘んじていることにある。

そうこうしているうちに、現在の我が国の状態は、ますます戦争状態に近づき、ネットでは「中世ジャップランド」などと揶揄されるほどまでにディストピアと化してしまった。

日本人には伝統的に、声の大きい者に対しては、その者がどんなに不正なスローガンを唱えていたとしても、長いものには巻かれろ式に、沈黙して、あきらめて従ってしまうという悪い性質があるのだろうか?

東京オリンピックは、「ただボラ」によって支えられるらしい。オリンピックのための資金は有り余るほどあるのに、政府とオリンピックを率いる委員会や関連組織は、猛暑の中、金も払わず、保険もかけず、若者をただで招集し、命がけでボランティアをさせようというのだ。

おそらく死人が出ることは必至だと予想する。選手も大変であろうが、ボランティアが熱中症で亡くなっても、雇用保険にも入っていないのでは、労災にも当たらない。国威発揚のためにただ働きを肯定するどころか、人命までも平気で犠牲にする、まさに呪われたオリンピックとなることが、実施する前から誰にでも分かる有様だ。

こうした事情を見ても、今まさに、戦時中と同じく、大人たちが若者に苦役としか言えない労働や、貧しさや、死を強制する恐ろしい世の中が実現しつつある様子がよく分かる。それが国家的レベルで推進されているところが戦時中とよく似ている。

これまで筆者は当ブログにおいて、あらゆる異端思想には、年長者による年少者の搾取、親世代による子世代の搾取などの歪んだ発想が込められていることを指摘して来たが、そのような搾取は、もとをたどれば、先祖崇拝へと行きつく。

要するに、先祖の罪を子孫が永劫に背負い、罪人に過ぎない亡き先祖の霊を供養することで、先祖の罪を贖おうと努力することが、子孫の最大の義務とみなされるような、理不尽な信仰が、そのような考え方を生んでいるのである。

罪あるもの、呪われたもの、腐敗したもの、尊ばれるべきでないものを「ご本尊」のように拝み、人類に受け継がれている罪による血統を神聖視して拝んでいればこそ、先祖の罪の贖いのために子孫が未来永劫に命を犠牲にせねばならないという転倒した思想が美化され、奨励されるようなことが起きるのである。

従って、以上のオリンピックにかこつけた厚かましいただ働きの要求のような諸現象は、ただ金儲けだけが目的で行われるのではなく、先祖が自らの罪を覆い隠し、これを子孫に転嫁して子孫に償いを要求するために、子孫を犠牲にし、殺すという恐ろしい思想が背景にあってこそ、生まれて来るものなのである。

さて、冒頭の御言葉に戻りたいが、面白いことに、聖書には「未払い賃金が天に向かって叫んでいる」という個所がある。さらに、アベルのように無実にも関わらず殺された義人の血も、天に向かって叫んでいるという。

昨今のようにブラック企業が溢れ、過労死が合法化されようという世の中では、未払い賃金のことなど叫んでも無駄であり、まして不正な事件によって殺された人は、生きている人間の目から見れば、まさに「死人に口なし」の状態に置かれているので、その事件については、今更、誰が何を訴えてももはや無駄であるように見えるかも知れないが、ところが、聖書は、そのような不正事件のすべての証拠は、ずっと天に向かって叫び続けると述べているのである。

罪無くして殺された死者の血が天に向かっておのずから叫び、未払い賃金は、誰もそれを要求せず受け取り手がおらずとも、不当な搾取として、天に向かっておのずから声をあげ続けるというのだ。これは興味深いことである。

そして、それらの不正事件に関連した叫びは、すべて最終的に「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」(ヘブル12:24)へと集約されていく。

主なるキリストこそ、無実にも関わらず十字架ですべての罪人の罪を代表して負われ、苦しみを負い、殺されたがゆえに、彼はあらゆる人間の悲痛な叫び、苦悩、理不尽を代弁して、神に向かって叫び、とりなすことのできる方である。

つまり、地上におけるすべての信仰による義人たちの叫びは、キリストのあかしに集約されていくのである。

従って、信仰の世界は、この世の市場原理主義では成り立っていない。天の御国は、富める者、声の大きい者、力ある者の訴えだけがまかり通る弱肉強食の世界ではない。

むしろ、天の御国では、この世においては、限りなく、声なき弱者に分類され、見殺しにされるはずの者たちの苦悩を、神は確かに知っておられ、神ご自身が彼らをかえりみて下さり、この弱い声なき寄る辺ない人々を苦悩から引き上げて、高く安全なところへ置いて下さるのである。

さらに、ここで言う天の御国とは、断じて死後の世界を指すのではない。私たちが生きて地上にいる現在、信仰によって、その御国は、私たちの只中に到来しており、この世の有様に大きな影響を与えるのである。

これまで、筆者は、自分よりも力の強い者が、真実や正義を曲げて、弱い者を不当に踏みにじっている時、それに対して、真実や正義を守るために、時には無駄ではないかと思うような主張を幾度も投げかけて来た。
 
それは正義の運動という形を取ることもなく、ただ筆者の個人的な訴えであったので、時には、その叫びは弱く、あるいは孤立無援のように感じられた。しかし、後から見れば、そういう声なき声のような、一つ一つの訴えや、苦悩が、まさに主によって聞かれ、取り上げられていたのだと思うことしきりである。

だが、その当時は、自分では決してそうとは分からない。訴えてもむなしく響くばかりであり、誰も正義や真実に耳を傾ける者はないのだと、落胆するようなことがなかったとは言えない。

ところが、束の間の悲しみや、悩み、苦しみが過ぎ去ってみると、最も苦しい時に、人の心の奥底にある呻き、叫び、嘆きのすべてに、神が直接、耳を傾け、聞き取って下さり、ふさわしい助けの手を差し伸べて下さっていたのだと分かる。
 
神はご自分を信じる人々のすべての悩み苦しみに真摯に耳を傾けて下さる方であり、この方に対しては、私たちは何一つ飾らず、どんなことでも率直に打ち明け、心の思いのすべてを余すところなく吐露することが許されている。理不尽な事件に対する憤りも、嘘や不正に対する憤りも、真実を飽くことなく追い求める心も、神に対しては隠し立てする必要が全くないのである。

しかしながら、今回の記事のテーマの一つは、私たちが地上で、ただ黙って心の中で祈る言葉だけではなく、人に対して口にする言葉にも、神は耳を傾けて下さっているということである。

人間は、自分にとって好ましい言葉しか聞きたくないという極めて自分勝手な生き物なので、社会の和を乱す言葉、自分にとって不快な言葉はすべて「悪」と決めつけて退ける傾向がある。

つまり、人間社会においては、圧倒的多数の人間にとって好ましく感じられるかどうかが、正しいかどうかを決める判断基準とされるのである。力ある多数派の意見は尊重されるが、弱々しい少数派の意見は無視される。アピールの仕方が巧みであれば、嘘でも多くの人間に支持されるが、話し方が下手であれば、誰も耳を傾けない。

人間の物事の判断基準はどこまで行っても、身勝手で、自己中心で、不公平で、偏ったものだと言えよう。従って人間が人間の訴えに対し、真に公平な評価を下すということはまず考えられない。

しかしながら、神は、決してそういう観点から、人の口にする言葉をお聞きにならない。神が人の言葉を吟味される基準は、それが誰かにとって不快であるかどうかや、人間社会の和を乱すかどうかといった基準ではなく、それが真実であるかどうか、また、神に届く叫びとしての条件を満たしているかどうか、という点である。

神は誰のことをも偏り見ることなく、公平に物事を見られ、裁かれる方なので、弱い者の訴えだからと言って耳を塞がれることはなく、金持ちだから優遇するということもない。

それゆえ、人間社会では、全く相手にされない訴えが、神には取り上げられる。まして信仰のある者の訴えは天に直通する。
 
私たちの叫びが天に届くとき、それからほどなくして、天からの神ご自身のアクションが帰って来る。

そのタイミングは、信仰者から見ても、しばしば遅いと思われることがある。ダビデがしばしば詩編に書いているように、祈った者自身が、「主はこの祈りを聞き届けてはくださらないのだろうか」などと疑い、忍耐の限りに達しようとしているような時に、神は力強く立ち上がって、天からその者を助けるために、御腕を差し出して下さる。

たとえば、筆者自身も、語った当初は、自分の言葉が、それほど力強い影響力を持つものだとは考えず、むしろ、地上では弱い者としてその訴えが退けられたり、踏みにじられたり、無視されるのを見て悲しんだりと、人間的な感情を経験することもあった。ところが、地上の人々や、筆者の思惑や感情とはまったく別に、その訴えが、やがて地上から天へと運ばれて行き、天を動かし、天から地にその反響が届く、ということがよく起きるのである。

そういう結果を見る時に、初めて、筆者は、自分の主張を過少評価しすぎていたことが分かる。いや、主が着いておられることの意味を十分に理解していなかったことが分かる。あの時、筆者が誰かに向かって発した言葉は、この人間社会においては、蔑まれるほか、全く相手にされないように見えたが、その実、それを、神が直接、注意深く聞いていて下さったのだと分かるのである。

もちろん、人間同士の会話の中に、神が目に見える形で立ち会っておられるわけではない。人間同士の会話では、意思疎通が成立しなければ、どんな訴えも、むなしく空中に散じたように見えるだろう。

しかし、我々があれやこれやと心配する必要がないのは、誰に向かって発したどんな言葉であれ、人間がそれに対してどのような反応を返すかが肝心なのではなく、神がそれを我々の味方になって非常に注意深く耳を傾けて下さり、信じる者の求めに応じて、その者を問題の渦中から引き上げて、平安を与え、解決を与えて下さるからである。

それはちょうどアブラハムとロトが土地を分配し、ロトがソドムとゴモラを含む豊かな低地をことごとく選んで去って行った後、一人になったアブラハムのもとを神が訪れたような具合である。

人間と人間とのコミュニケーションは、常に双方の側から何かの意思疎通に達するとは限らない。我々が毎日、無数に相手にしている人間たちは、正義にも真実にも全く価値を置かず、何を訴えても、自分に都合の良い言葉だけを選び取り、あるいは話が決裂に終わり、あるいは主張が踏みにじられ、あるいは極めて不公平な結論が突きつけられるだけということが起きるかも知れない。

だが、たとえどのように不毛な会話が展開したとしても、神の人(=信仰者)が、そのコミュニケーションを終えて、ほっと一人になって天を仰いだとき、その時、それまで地上での会話の一部始終を見ておられた神が天から応答して下さるのである。

たとえば、カインのように、義人の訴えをかえりみず、それを踏みにじって、無視し、立ち去る者がいたとしても、その後、その者がどうなるかまでは、我々の責任ではない。

私たちが認識していなければならないことは、神は私たちの味方であり、私たちの訴えをことごとく取り上げて下さる方だということである。

今日、私たちは、アベルのように犠牲者となって死ぬ必要はないゆえ、理不尽な事件があれば、それを神に存分に訴え、神が正しく裁いて下さるよう、根気強く願い求めることができる。

そこで、我々はどんな事件に遭遇しても、決して諦めることなく、(聖書に約束された正しい)自分の権利を求めて、天に向かって声を発し続ける必要がある。

これは自らの手で悪人を成敗せよとか、不正な事件を自力で解決せよと言っているのではない。

神がすべての物事を公平にご覧になり、ふさわしい裁きを下して下さる方であり、なおかつ、この世において声をあげることのできない弱い者たちを、悩みの渦中から救い出し、天へと高く引き上げ、すべての解決を与えて下さることのできる方であることを、固く信ぜよと言っているのである。

それを信じて、自分の思いを、決して隠すことなく、率直に、神に向かって訴え、正しい解決を求めることをやめてはいけないと言っているのである。

この世がどれほど異常になり、どれほど人々の心が険悪となり、頑なになって行ったとしても、私たちは、人間社会の有様がどうあるかに心を奪われてはならず、あくまで正しいと思う解決を天に向かって願い求め続けなければならないのである。なぜなら、神は地上の人々のように物事を偏ってご覧になることは決してないからである。

悪事に立ち向かい、悪人に立ち向かい、正しい裁きを天に願い求める私たちの諦めない執拗な祈りは、天を動かす原動力になる。
 
ドムとゴモラには、たった5人の義人もおらず、アブラハムの親族であるロトの家族の他には、誰一人その町の滅びから救い出される者もなかったが、そのように恐るべき腐敗した社会の只中においても、神の正しさは少しも変わらず、神はすべてを公平・公正にご覧になっておられ、これらの町々の悪に対しては、正しい裁きを下されたのである。その裁きは、ソドムとゴモラの社会にとっては、災いであり悲惨なものでしかなかったが、神は彼らの罪に対して、ふさわしく報いられたのだと言える。

神が変わらないお方である以上、今日のソドムとゴモラに、かつてのソドムとゴモラとは異なる判決が下ることはあり得ない。我が国の表面的な有様が、もはや手遅れのようにしか見えないほどに腐敗したものとなっていたとしても、その中で、信仰による義人に対する神の約束は、ほんのわずかたりとも揺らがず、変わることもない。

だから、私たちはこの世の社会の有様がどうあれ、あくまで神の御心にかなった正しい裁きを地上で願い求め続けねばならず、自分が信仰によって生きる義人であることを固く信じて、常に神の助けが約束されていることを信じ、これを受け取って生き続けなければならない。

もう一度、冒頭で引用した聖句を繰り返しておきたい。
 
主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。

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