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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。

「主よ、朝毎に、わたしの声を聞いてください。
 朝ごとに、わたしは御前に訴え出て
 あなたを仰ぎ望みます。
 
 あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。
 悪人は御もとに宿ることを許されず
 誇り高い者は御目に向かって立つことができず
 悪を行う者はすべて憎まれます。
 主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし
 流血の罪を犯す者、欺く者をいとわれます。

 しかしわたしは、深い慈しみをいただいて
 あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し
 あなたを畏れ敬います。
 主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き
 まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」(詩編5:4-9)

まだまだしばらくの間、重要な訴えのための膨大な書類作成が続く。だが、捨てる神あれば拾う神・・・ではないが、紛争が起きれば、それをきっかけに、回復される絆もある。協力者が現れ、助けられる。

まことに聖書の御言葉は正しく、神が許されて起きる地上の軽い艱難には、常に大いなる天の栄光が伴う。苦難には慰めを、悲しみには喜びを、欠乏には満たしを与えて下さる我らの神の御名は誉むべきかな。

暗闇の勢力は、兄弟姉妹に何とかして猜疑心を植えつけ、ネガキャンを展開し、互いに裏切らせ、信仰の絆を分断し、引き裂こうとするのかも知れないが、必ず、それに影響を受けない草の根的な交わりを神は取っておいて下さる。

これこそかつてずっと夢見ていた草の根的なクリスチャンの集まりだ・・・。

しばらくの間、誤解や対立があって分断されていても、時と共に回復される絆もある。困難があるからこそ、忍耐によって乗り越えたのだと言える絆がある。

そういう意味で、罵りや中傷の言葉は、人の心を試す実に良い試金石だ。誰が本当に最後まで、主にあって兄弟姉妹でいられるのか。誰が人間のうわべだけの有様に惑わされることなく、物事を見極め、人間的な絆によってではなく、信仰によって繋がり合えるのか。

おそらく、私たちは死ぬまで他者との間で、すべての物ごとに対する見方が完全に一致することは決してないだろう。そういう意味では、クリスチャンに思想的な同志を求めても無駄である。必ず、どこかでズレが起きて来る。そのズレにこだわれば、分裂や対立しか待つものはなかろう。だが、たとえ多くの点で見解が互いに異なっていたとしても、基本的なところで、一致を保つことはできる。

その基本とは、キリスト以外によりどころを持たないことだ。人間の造った組織や団体を離れ、立派な教師や指導者の肩書に背を向け、いかなるビジネスや集金活動、組織や指導者の栄光とも関係ないところで、素朴で対等な兄弟姉妹として、ただ聖書への信仰によってのみ、繋がり合うことができるかどうか?
 
そんな草の根的な信徒の交わりを、筆者はずっと前から探索し続けている。そんなものを求めても無駄だ、そういうものはないんだよと、悪魔は言うかも知れない。

だが、そんなにも簡単に諦めるのは忍耐力のなさの表れでしかない。かつてある姉妹にも、早く諦めてはいけないと叱咤されたことがある。だから、はっきり言っておきたい、今日、社会の状況がこれほど悪化し、人々の心が険悪になり、人々が裏切り合い、貶め合う中でも、そうしたみずみずしい新鮮な青草のような信徒たちは、確かに温存されているのだと。

ただし、私たちが、それに気づく目を持っているのかどうかはすべてを分けるだろう。いと小さき貴重な兄弟姉妹の存在に気づくためには、私たちの目が、曇らされた状態でなくなることが必要である。立派な肩書をぶらさげた人気の指導者、荘厳な教会、うやうやしい礼拝儀式、大人数の集会、弁舌の巧みさ、知識の豊富さ、外見のきらびやかさなど、見かけ倒しの虚栄に振り回され、踊らされ、惑わされ、絶えず欺かれてばかりの軽薄な浮草のような心では、どんなに価値ある貴重なものに出会っても、それに気づくことは永遠にできまい。

そのように惑わされやすい軽薄な心そのものと訣別し、自己の栄光にも死んでいない限り、我々の目に、みすぼらしく取るに足りない「草」たちの価値が分かる日は決してないであろう。だが、その青草の発見は、十字架で死なれたキリストご自身の発見でもあり、ある意味では、自分自身の発見でもある。

ところで、宗教的なリーダーというものは、やはり、決して人前で信徒を罵ったり、悪しざまに言ったり、信徒の個人情報を無断で公開したりしてはいけないと筆者は思う。筆者は牧師制度そのものに反対であるが、それをさておいても、あらゆる組織のリーダーには、自分のもとに集まって来るさまざまな信徒に対する包容力がどうしても必要だ。

特に、教会にはあらゆる問題を抱えた人々がやって来る。巨額の借金を抱えた人々、家庭内問題を抱えた人々、心理的な病を抱え、人生に行きづまっている人々、こうした人々の中には、福音などには全く耳を傾けず、ただ自分の愚痴を聞いてもらう事だけを求め、手っ取り早い現世利益を求め、それが得られないために、早々に指導者を罵って教会を去って行く人もあろうし、またあるときには、牧師を脅すことを目的にヤクザがやって来ることもあろう。
 
こうしたすべての人々にリーダーは対処せねばならないのであって、自分を批判されればすぐにかっとなって言い返し、信徒の中傷を言いふらすような人々は、もともと指導者の器ではない。

ところが、プロテスタントの牧師には、そういうリーダーの力量を持った人がほとんど見られないのが現状だ。昔からそうだが、本当に信仰のある志の高い人々は、決して牧師になどならない。それもそのはず、信徒の献金で生計を立てるのが当然になっているような、特権階級としか言いようのない職業的地位に就こうと自ら願うような人々は、それ相応の心を持った人々しかいないからだ。

そうした人間的な力量に欠け、信仰的な力量にも欠けている牧師のいる教会に所属してみたところで、信徒に心の安らぎが得られるはずもない。

ただでさえ、日本の教会の永遠のテーマは、ずっと「なぜ日本にはキリスト教が普及しないのか」というものだ。多分、これから先も、20年経とうと、30年経とうと、このテーマは依然として、教会の中心的課題であり続けるに違いない。

多くの教会は高齢化の影響もあり、閑古鳥が鳴いており、社会的事業に乗り出さないとやって行けない有様だというのに、そんな中で、まるで教会の衰退に拍車をかけるがごとくに、所属教会を自ら明かしながら、インターネットで他の信徒を悪しざまに罵り、聖書を否定するような「信徒」が現れる。

ただでさえ信徒数が少ない教会にとって、そのような不良信徒の出現は、とてつもない打撃になるだろう。そうした事態からも見えて来るのは、もしもその信徒の教会生活が、本当に満たされて正しく幸福なものであったなら、その信徒が、面識もない他の信徒たちに言いがかりをつけては聖書を捨てろなどと言いふらしたりするようなことは、決してなかっただろうということだ。

得意げに所属教会を名乗っていても、実際には、まるで身の置き所のない孤独感がひしひしと伝わって来る。所属教会に対する配慮もないのだろう。空疎な祝福の言葉が、かつてよく聞いた「栄光在主」とか「頌主」とかいったむなしい言葉を思い起こさせる。

悪いことは言わないから、早くそんなにも身の置き所なく味気ない教会生活をきっぱり離れ去った方が良いのだ。いつまでも形骸化した組織にすがりついているからこそ、心のむなしさが募る。その空虚さを、所属教会以外のところで埋め合わせようと、聖書に忠実な信仰生活を送る信徒を引きずり降ろすしかないなど、何と惨めな生き方であろうか。

だが、もっと恐ろしいのは、そういうことをしているうちに、いつの間にか、その信徒にとっては、あれやこれやの気に入らないクリスチャンだけでなく、「聖書」そのものが敵になっていくことだ。

これが一番、恐ろしいことなのである。

その人にとっては、所属している組織が「神」となり、聖書の御言葉が、人を狂わせる「悪」と見えて来る。すべての物事を人間を中心として見るあまり、自分にそんなにも心の空虚さとむなしさを味わわせたのは、人間に過ぎない牧師や、人間の造った組織ではなく、神ご自身だという風に、考え方が転倒するのである。

まるで聖書とはさかさまの世界観であり、どこをどうすればクリスチャンを名乗っている人間が、このような考え方になるのか、首をひねるばかりである。だが、何度も言って来たように、これがペンテコステ運動が人にもたらす倒錯した世界観なのである。

実体のない組織にすがり続けていると、最後にはそういう事態にまでなってしまうのだ。私たちはそのような悪しき運動を離れ去ることを宣言する。

これまで幾度となく繰り返して来た通り、ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動の失敗が、プロテスタントの終焉を何よりよく物語っている。被害者救済を唱えている人々自身が、まさに被害者を率先して売り渡し、被害者を中傷し、破滅させる所業に手を染めたという事実は、キリスト教史の恥ずべき汚点として、歴史を超えて永久に語り継がれるだろう。そうした恥ずべき事態が、これらの人々が被害者救済を唱えて来た真の目的が、全く被害者の救済になどなかったことをよく物語っている。

プロテスタントはもう終わっているのだと、気づかなければならない時に来ている。むろん、だからと言って、他の宗派に去れば良いという簡単な問題ではない。宗教改革は続行しているが、それは今やプロテスタントを離れて、人の目に見えないところで続行している。聖書は万人に解放された。今は聖職者階級というものから、信徒が解放されねばならない時代である。万民祭司という新約聖書の当然かつ根本的な大原則が回復されるために。

いくつか前の記事で、筆者がある職場からエクソダスしたエピソードを書いたのは、これをキリスト教界になぞらえて、今、ここからエクソダスしないと、この業界はこの先、本当にひどいことになって行くと警告したかったからだ。御霊の息吹が失われ、神が目を背けられ、人の関心も失い、誰からも打ち捨てられて形骸化した組織の中に残っていると、とんでもない事態が起きて来るだけである。

今、多少、手傷を負ってでも良いから、建物全体が倒壊する前に、そこから出た方が良いのだ。そのまま残っていれば、傷を負うくらいでは済まされず、やがて命を失うことになるだろう。

しかし、そうした警告に耳を傾ける人はほとんどいまい。今、この国の経済界で起きていることも、キリスト教界で起きていることは、合わせ鏡だ。自分は選ばれた民だ、他の人々と違って、安定した居場所がある、れっきとした教会員だ、仲間がいて、孤独ではない生活がある、と豪語することと、私は正社員だ、難解な試験をパスして、上位で合格したエリート公務員だ、教職員だ、妻子もいれば、家もあり、家業もあり、土地も財産もあり、誇るべきものがこれほどたくさんある・・・などと豪語することの間には、さしたる違いはない。

そういう見せかけのアイテムの数々を誇っていると、やがてすべてが取り去られ、とんでもない事態に巻き込まれるだけである。

人間の本当の救いは、そんな風に目に見えるものの中には決してないからだ。本物の救いを偽物のバッジと取り替えた人々には、つらく苦しい未来が待っているだけである。そのことは、教会籍制度に何よりもよく当てはまる。神の救いは、教会籍のように目に見える証明に決して置き換えることなどできない。それが証拠に、その証明書は、これほど多くの教会難民のような人々を生み出した。そうでありながら、まだ教会籍にすがり続ける人々は、自分をエリートだと自称している。

これは世の有様と同じである。組織それ自体の中に、命はないのに、組織をまことの命と取り違え、神と取り違えると、そういう忌むべき事態が起きるのである。宮は、神がやって来られて、その中に入られて、初めて価値を持つというのに、神が忌み嫌われ、見捨てられ、神ご自身が不在となった宮が、己を神のようにみなして誇っている。何と忌まわしい光景であろうか。

高プロ制度を批判している場合ではない。偽りの階層制の上に成り立つ一つの虚構の世界がまるごと倒壊しかかっているのが今なのだ。この危ない建物全体から離れねば、誰も身を守ることはできない時代にさしかかっている。
 
さて、いきなり話は変わるようだが、我が家のペットが昨日の朝、ちょっと様子が変に見えたので、動物病院に連れて行った。かつて動物病院では、誤診がもとになって狂奔させられた嫌な思い出があるが、今回は違った。全く異なる病院である。無駄な治療は一切しないし、余計な手当ても勧めない。待合室にいると、看護士さんがやって来て、採れたての新鮮な野菜をサンプルとしてくれた。家に帰ると、ペットは何事もなかったようにけろっと元気になっていた。何でもなかったのだが、連れて行ったついでに色々身ぎれいにしてもらった。

もらった玉ねぎに包丁を入れると、みずみずしい真っ白な断片が見える。しばらく水にさらせば、生のままでもサラダにできそうだ。試しに炒め物に半分使ってみると、あまりに美味だったので、もう半分も早速調理した。

とにかく、一つ一つのことについて祈る。主の助けを乞う。すると、一見、人の目にはハプニングに見えるような、思わぬ出来事からも、思わぬ出会いが生まれ、新たなチャンスが生まれて来る。大規模な組織など必要ない。立派な指導者の助言も要らない。ただ草の根的な知恵と知識だけで、私たちは十分に生きていける。その確信は、日常生活だけでなく、信仰生活にも十分に当てはまる。

人に知られないひそやかなところで、御霊の導きにすべてを委ねて、一歩一歩、主と共に進んで行こう。それは人に踏み固められた道でないため、不安が全くないと言えば嘘になるが、それでも、霊の内側には、確信があり、平安がある。

筆者はたとえこの先、どれだけ多くの兄弟姉妹からの賛同や理解を得たとしても、心はただ主にのみ向けておきたいと真に思う。ただお一人のまことの神である方とのみ、二人三脚し、すべてのことを相談しながら、地上にいる最後の瞬間まで、共に歩いて行きたいのだ。これが新エルサレムまで続いている狭く細い道である。それは人に知られず、誰にも踏み固められていない細い道だからこそ、スリルもあれば、冒険もあり、涙もあれば、笑いも、喜びもあり、毎日、わくわくする体験には事欠かない。決してそうした体験を人前で語ることはないであろうが、主に訴え、主に感謝する出来事に溢れている。

組織になど所属せずとも、いや、組織に所属しないからこそ、真に神が働いて下さったと言える出会いがあり、真に自分の人生だと言える地点に立脚して、味わい深い日々を送ることができる。
 
まことに主は我らの重荷を日々担われる。それゆえ我らの荷は軽い。新しい朝ごとに主を讃え、すべてのことを主に訴えよ。主が我らの正義、解決となって下さる。御名に栄光あれ。
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