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私ではなくキリストⅥ(東洋からの風の便りIII)

「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」(ローマ5:17)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から②

・霊肉二元論の悲観的な世界観―「イゼベルの霊」(東洋的母性崇拝)がもたらす心の呪縛

さて、先に述べたように、Paul Shrader監督の映画に描かれる三島由紀夫の人物像には、グノーシス主義がもたらす精神的病の一つである歪んだ自己愛、ナルシシズムがよく表れている。
 
このような歪んだナルシシズムは、グノーシス主義がもたらす「マザー・コンプレックス」と密接な関係があって生まれて来るものである。

グノーシス主義とは、「母なる神」(被造物)が「父なる神」(創造主)を妬み、これを否定して、神としての性質を奪って、自ら神となる物語だということは幾度も述べて来た。グノーシス主義の究極的な目的は、そのような「妬む母」(怨念を持つ母)の子孫として生まれた人類が、自ら「父なる神」の子孫であると宣言して神に回帰することで、「母の過ちを修正する」ことにあるということもすでに述べた。

言い換えれば、「尽きせぬ怨念に支配される母」とその母の怨念を一身に背負わされて運命共同体となった「子」が、一体化して自ら神になろうとする思想が、グノーシス主義なのである。

そこで、グノーシス主義思想の担い手となる者たちは、幼少期から、自らの家庭において「イゼベルの霊」から怨念を注ぎ込まれ、「母なるもの」の支配を受けて、深刻な「マザー・コンプレックス」に陥っていることが少なくない。

そのような者たちは、すでに幼少期から、「母なるもの」との間で、何らかの心の傷を介した悲劇的な心の絆(癒着)が出来上がり、まるで運命共同体のように「母」と互いを束縛し合う関係が成立していることが多く、それが彼らの生涯に渡る「母なるもの」の支配の原型となって行くのである。

映画"MISHIMA"では、三島由紀夫が生まれて数ヶ月で母のもとから取り上げられ、その後、祖母の精神的支配を受けて育った様子が描かれている。

 

「幼少の頃、私は絶えず窓辺にたたずみ、外で思いがけないことが起こる日を、しきりに待ちわびていた。自分の力では決して変えようのない世界を、じっと見つめながら、世界が向こうから変わってくれるのを熱望していた。生まれて50日目に祖母は私を母の手から奪い取った。」

「病が悪化する祖母を看護する私に、祖母は様々な歌舞伎の話をして聞かせた。遊び相手も外出先も、祖母によって厳しく限定されていた。」



この映画を観る限り、三島の幼少期は、母からではないが、祖母という女性による精神的統制と支配を受けたゆえに、まるで牢獄や隔離病棟に閉じ込められたかのように、息苦しいものであった様子が分かる。

祖母は、三島を母のもとへ返さず、自分に満足をもたらす道具として、片時も離さずそばへ置こうとした。そのため、彼女は、うわべだけは同情を装いながら、「ぼうやはなでしこのように体が弱い」と言い聞かせ、三島をマインドコントロールすることで、三島が、自分は病弱な人間であって、外界との接触になど耐えられないという嘘を信じるよう吹き込むのである。

子供ゆえに祖母の言うことを疑えなかった三島は、祖母の言葉を真に受けて、自分の体には病弱という大きな欠点があるのだと思い込んでしまう。だが、外出の予定も、友達選びも、すべてが祖母によって干渉され、支配される日々は、三島にとって耐えがたく、彼はいつか外界で何かが起きて、自分を閉じ込めているカプセルのような世界が打ち破られることを熱望する。

ただ一つ、祖母が許してくれた娯楽である歌舞伎だけが、幼少の三島が自力で閉塞した世界から逃避する手段であった。歌舞伎の舞台は、言葉を通じて現実を塗り替えることのできる芸術の世界が存在することを彼に教え、芸術の世界に彼の心を誘い出す。

「子供の頃、すでに私は、世界が二つの相反するもので出来ているのだと感じていた。一つは、世界を塗り替えることのできる言葉、もう一つは、言葉とは全く関係のない現実の世界。世の常の人は、体が先に出来て、そして言葉を覚えるのであろうに、私の場合は、言葉が先に来た。」

「舞台はあらゆるものを美しく塗り替えた。男を女に変え、世界中を塗り替えることができるのだった。」

三島は、早くから目の前に広がる現実を悲観的に見て、その現実が自分を疎外しているととらえ、これを「言葉によって塗り替える」ことを切望していた。

三島にとって、現実世界は、憎むべき混乱と矛盾に満ち、理想からはほど遠く、何の意味も見いだせない、牢獄のように彼を閉じ込めるものである。

彼は、なぜ自分が、他の子供たちと同じように何も考えずに思うがままに現実に生きることができないのか、なぜ現実から疎外されていると感じるのか、なぜ思索によって現実世界から隔てられ、自分自身をも嫌悪しているのか、理解できない。

そして、彼にとっては、自分の貧弱な体も、憎むべき現実世界の一部である。
 
三島は、祖母の精神的支配が、自分から自分らしい生き様を奪い、自分を世界から隔離し、他の人々からも疎外される原因を作り出しているとは気づかないまま、どうすれば自分と他の人々を隔てている壁を取り払うことができるのかと考える。
 
そこで、彼は世界を眺め、男が男であること、女が女であること、自分が自分であることを憎むべきことと考え、男女の区別、自他の区別、言葉と体の区別など、多くの区別が人間を疎外しているのだと考える。

そして、いつかはそうした隔ての壁がことごとく打ち破られて、すべての区分が取り払われ、対極にあるものが一つになって、自分が世界と一つとなって、自分を疎外している牢獄から解放される時を待ち望むようになる。
 
三島はそうした多重の疎外から成る憎むべき世界を、「言葉」によって、芸術を通して塗り替え、統合できると考えた。

彼にとっては、「言葉」の中にこそ、永遠の理想的な世界へ通じる扉があり、創作を通して、閉塞した世界からの逃げ道を見つけることが可能であると感じられる。

彼は文体を磨き、これを改造し、自分の作り出す芸術の世界を絶えずより洗練されたものにすることで、そこで作り出された美しい世界を、逆に現実に適用しようと考える。

こうした三島の世界観は、全世界が悪しき神(ヤルダバオート)のもとにあって悲惨に満ちており、天界へ復帰することがだけが救いであるかのようにみなすグノーシス主義の霊肉二元論の世界観ともおおむね一致する。

グノーシス主義は天的なプレーローマ界にこそ真のリアリティがあるとみなし、そこへ回帰することを終局的な目的とするのだが、三島の生涯も、人生を通じて、「言葉」と「現実世界」とのギャップを取り払い、両者を融合させることで、天界と現実世界とを融合させようとするものであったと言える。

だが、キリスト者ならば誰しも知っているように、十字架を介さずに天を地に引き下ろすことは不可能であり、それゆえ、グノーシス主義者に降りかかるのと同じ悲劇が彼を見舞うのである。
 
 
・疎外された者が疎外する者を否定的に乗り越える―悲観的な世界観の転換

太宰治のような作家が、厭世的な世界観を持ちながら、同時に、人間の奥深くに潜む罪の問題に気づき、罪悪感に苦しめられていたのに対し、三島は、祖母の心の中にも、自分の心の中にも、悪や罪の存在を認めなかった。

三島は、疎外されている人間自身に罪があるとは決して考えない。また、罪ゆえの疎外といった考えを持たない。そうなると、諸悪の原因は、人間自身の中にはなく、むしろ、人間を疎外している何らかの壁(区分)の側にあることになる。

三島は、自分を苦しめている諸問題の原因を、決して己の内にある罪に見い出すことがない代わりに、「自分を疎外している区分こそが悪である」とみなし、その区分を抹消することで、世界と自分とを再統合できると考える。
 
このようにして「自分を疎外する者の存在を否定的に乗り越えることで、自己疎外を解消しようとする」という発想こそ、グノーシス主義に典型的な発想なのである。

三島は、自分が病弱な人間であるという考えが、祖母によって吹き込まれた嘘であるとは長い間、気づかず、ただ鏡をのぞき込んでは、そこに映る自分の貧弱な体を見て、深刻なコンプレックスと自己嫌悪に苛まれていた。

彼はどうすればそのような自己嫌悪から逃れられるのかを考える過程で、「自分の美意識が自分の体を疎外している」と考えるようになり、自己の意識が自分の体を疎外しているという状態を取り払い、変えるための実験に着手する。むろん、それは実験というより、錬金術なのだが、ここに最初の目に見えるグノーシス主義的な転換が起こった。

美意識によって「見られる対象」であったはずの彼の肉体が、「見る者」である美意識から、その美なる性質を奪い取って我が物とし、「見られる者」が「見る者」と同化し、対等な地位を得ようとするのである。
 



「きみもぼくも美意識というものを持っている。きみが鏡の前へ立つと、その美しいものが見えて来る。それがぼくだと、もう目も当てられないんだ。だからもうからかうのはよしてくれ。」

「ハワイも近づいたある日、私はついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚えた。私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。



三島にとって、彼の「美意識」(言葉)は「鏡」のように、肉体を「見られる対象」として客体化する役割を果たす。ここで言う「鏡」とは、まさにグノーシス主義のシンボルとしての「鏡」であって、次々と自分の似像を投影することによって数々の被造物を生み出す至高神を象徴する。
 
三島の美意識は、芸術の世界においては、思うがままの像を自在に作り出し、美しい世界を作り上げる。まさにグノーシス主義の神のような創造行為を行う。だが、その美意識は、同時に、現実世界の三島自身を、対象化して映し出す際、三島が望むような自己の像を映し出さず、むしろ、彼の弱々しい肉体を容赦なく映し出し、彼自身の弱さを暴露しては、彼を自己嫌悪させる。

三島は、自分の中にある「言葉の世界」つまり、自分の美意識が、自分自身を疎外しているという事実に耐えられなくなって言う、「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。」と。

彼は、自分で自分の肉体を醜悪なものとみなして嫌悪するという、自己疎外の呪縛から逃れるために、自分の中で、何とかして言葉と肉体の二つを矛盾のないものとして融合させられないかと考え、「鏡」に映る自分自身の像を改良することによって、「美意識」が要求するのと同じ水準まで肉体を引き上げれば、美意識と肉体とが同一のものになり、言葉と映像(体)との間にある溝が埋まるのではないかと考えた。

そこで、三島は、自分の「体」を「言葉」と同じ芸術の水準まで引き上げるべく、健康を追求し、体を鍛え上げ、自己存在そのものを、芸術と同じ、理想的な存在にまで高めようとしたのである。

三島は、肉体改造に成功したことで、言葉を通して「美しい作品」を作り出すのと同じように、現実の自分自身を「美しいもの」に塗り替えることができたと錯覚する。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、グノーシス主義的な錬金術が行われ、「体」が「言葉」と対等な、美しい、善なる、永遠性を持つ存在にまで引き上げられる。

三島は、青年期を過ぎてようやく、自力で体の弱さを克服し、自分は弱すぎて外界の刺激に耐えられないという祖母の言葉の呪縛を振り切った。彼は感覚的な刺激に誘われるがままに、ためらいなく外界に飛び出し、「健康な衝動」に身を任せることで、「ついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚え」る。肉体の衝動を解放することで、それまで自分を縛って来た自己疎外の呪縛からようやく解放され、あるべき自分自身を取り戻したように感じたのである。

だが、こうした三島の行動には、ただ単に自分の弱さを克服するという目的を超えた、決して我々が無視することのできない、重大な危険をはらむ恐るべき目的が込められていた。それは、彼が、理想的な肉体美を追求することで、かつては目も当てられないほど厭わしく感じられ、「悪」でしかなかった自分の肉体を、あたかも「善なるもの」「聖なるもの」「永遠のもの」であるかのように、完成の極致へ導き、それによって、「体」の堕落を否定し、かつ、「言葉」と「体」とが対等な地位にあって、あたかも両者が融合可能であるかのように主張し、「霊」(言葉)と「肉」(体)の区別を否定し、「言葉が体を支配し、統御する」という、聖書的な動かせない主従関係や秩序を否定し、覆そうとしたことである。


三島のこのような発想は、当ブログでかつて取り上げた女性解放神学者リューサーの考えにも通じる。当ブログでは、解放神学が、キリスト教を換骨奪胎して作られたグノーシス主義であることはすでに述べたが、リューサーが伝統的なキリスト教の「二分性」に、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせながら、キリスト教が人間の肉体および肉欲を堕落したものとみなしていることに、とりわけ強い抵抗感を示したことも説明した通りである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。

 

ここで、リューサーが、肉欲を堕落して罪深いものとみなす伝統的なキリスト教の考えを、あたかもグノーシス主義的精神から来る誤謬であるかのようにみなして非難していることには、特別な注意が必要である。

なぜなら、「肉欲および肉体を罪深いものとして嫌悪し、軽んじることは、グノーシス主義的な霊肉二元論の発想である」という彼女の主張は、根拠を持たない決めつけだからである。

こうした言説は、今日でもクリスチャンの間でまことしやかに広まっている。グノーシス主義が、人間の肉体を、神聖な霊を閉じ込める牢獄とみなし、肉体からの解放を究極目的としていたという認識を利用して、肉体を堕落したものと考えること自体を、グノーシス主義的な概念だと決めつけて、「体の復権」を求めようとする人々がいる。そうした中には、「肉体は中立である」(Dr.Luke)という考えもある。

だが、聖書は、はっきりと人間の魂および肉体を堕落したものとみなしているため、肉体の堕落を認めず、肉体を「中立」とみなすような考えは、聖書に反している。
 
そこで、肉体を堕落したものとみなす考えは、決してリューサーの言うように、グノーシス主義的な考えではなく、むしろ、肉体の堕落を認めない考えこそ、以下に記すように、真理に背く虚偽であって、グノーシス主義的発想であるため、注意しなければならない。
 
グノーシス主義は、人間を「霊」と「肉体」の二つの部分から成ると定義しているのに対し、キリスト教は、人間を「霊」「魂」「肉体」の三つの部分から成ると定義する。

こうして、キリスト教は霊肉二元論を取っていないという違いはあるが、しかし、聖書においても、大きく分ければ、被造物は「霊」と「肉」の二つに分類される(「肉」の中には、人間の「魂」と「肉体」の両方が含まれる)。

ここにおいて「肉」とは堕落の象徴である。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:8)

クリスチャンが知っている通り、人はキリストを信じても、贖われるのは、ただ霊だけであり、信者の「魂」と「肉体」は、信者が救われた後も、依然として堕落した「肉」に属するままである。

信者の魂と肉体が贖われ、信者が完全に新創造とされるのは、復活の時である、そうなるまで、信者はこの地上にいる限り、贖われた「霊」と、贖われない「肉」の二つの部分を合わせ持つ。

聖書において「肉」は徹底的に堕落したもの、贖われていないものの総称であり、サタンの作業上にしかならないため、もし人間が「肉」を通して、堕落した肉欲に支配されるならば、人は罪を犯し、死ぬしかない。

そこで、聖書は、信者にはキリストと共なる十字架において「肉に対して死ぬ」ことが必要であると言う。「霊によって体のはたらきを殺す」ことなくして、信者は堕落した肉の罪深い衝動に支配されずに、霊によって歩むことはできないのである。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

以上のことを考えれば、人間の魂と肉体を堕落した「肉」に分類し、「肉的なもの」が、罪深いものであるとみなすことは、何ら聖書に反せず、グノーシス主義的な概念でもないことが分かるだろう。

従って、リューサーが、「伝統的なキリスト教が、肉的なものを罪深いものとみなして否定し、肉体および肉欲を嫌悪していることは、グノーシス主義的な誤りである」と決めつけていることは、極めて重大な誤謬なのである。

彼女がそれによって、聖書における「霊的なもの」と「肉的なもの」の区別を否定し、肉の堕落という動かせない事実を否定して、両者を融合させようとしていることに気づかなければならず、そのような考えこそ、グノーシス主義的発想なのである。
 
(このように、リューサーの論は、グノーシス主義者にありがちな「さかさまの理論」になっているため、注意しなければならない。)
 
私たちは、これまで、聖書において、霊的な世界と肉的な世界は、決して交わらず、その両者を仲介することができる存在も、キリストを置いて他にないことを見て来た。

従って、グノーシス主義の神話のプロットが、創造主を「鏡」のような存在とみなし、創造主が「鏡」に自分の姿を映し出すことによって、被造物の創造が行われたかのように主張して、霊的な存在である神と、物質的存在である被造物との間に、「鏡」という架け橋を設定し、この架け橋を通した交流が成り立つかのように主張していることが、完全に荒唐無稽であることを見て来た。
 
グノーシス主義の神話のプロットに見るように、もしも創造主が自分の姿を何らかの「鏡」に映し出すことによって、被造物を生み出せると仮定するならば、この「鏡」さえあれば、被造物の側でも、いくらでも霊的世界から物質世界にリアリティを流出させることが可能となり、霊的な世界と物質的な世界の隔ては事実上、なくなり、両者はまるで一続きの世界のようになってしまうだろう。むろん、そこには、創造主に背いたがゆえの被造物全体の疎外(堕落)もなく、肉の堕落もない。そもそも「肉」と「霊」の区別そのものが消え失せる。

リューサーは、このようなグノーシス主義的神話のプロットに従うかのように、聖書における「霊」と「肉」の絶対的な区別に反対し、堕落した人間の肉体を、まるで罪のないもののように、神聖な霊の領域に潜り込ませようとするのである。

そのことによって、彼女が「肉」という滅びゆく旧創造を、こっそり十字架の罪定めと滅びから救い出そうとしていることが分かる。

後述するが、グノーシス主義とは、決して今日考えられているように、ただ単純に肉体に対する悲観的な嫌悪や侮蔑に基づいて「霊を肉体の牢獄から解放する」ことを最終目的とする教えではない。
 
グノーシス主義は、「疎外される者と疎外する者との区別を廃することによって、疎外された者が、疎外した者を否定的に乗り越える」という思想であり、この思想は、神と人との区別、男女の区別、霊と肉の区別といったすべての区分を廃し、対極にあるものを融合させることによって、多重疎外の状態を解消し、原初的統合を回復することを目的としているのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想の中には、「肉を堕落したものとみなし、肉体および肉欲を罪深いものとみなして嫌悪することによって、人間が自分自身の中から不当に肉体だけを疎外するという状態を解消する」という発想も込められており、 リューサーが目指したのは、まさにそれであった。

彼女は、霊と肉の区別を廃止することによって、人間が自分の中から自己の肉体だけを罪深いものとみなして疎外するという「自己疎外の解消」を唱えたのであり、その点で、三島とリューサーの見解は、本質的に全く同じなのである。
  
この二人は、「体」を「言葉」と対等なレベルまで引き上げ、両者の区別を取り払うことにより、「肉」が排除されているという状態を終わらせ、「肉」を「霊」と同じように、善良で、罪のない存在とみなし、共に聖なる領域まで引き上げようとしているのである。

もちろん、クリスチャンはそんなことは絶対に不可能であることを知っている。二人が目指していたのは、結局、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)という聖書の秩序を否定して、あたかも「見えるもの」(被造物)と「見えないもの」(神の言葉)が本質的に同一の性質を持つ、融合可能なものであるかのように主張して、堕落した物質世界の「被造物」とを、霊である「創造主」と同一であると主張することにあった。

このように、グノーシス主義の思想は、決して混じり合うことのないものを一つに「統合」することで、弱い者(疎外された者)が、強い者(疎外した者)の性質を簒奪し、これを乗っ取り、なりすますというものであるため、この思想の中には、「罪深いものとして排除された肉欲および肉体が、自分は霊と同じ性質を持っていると主張する」ということも含まれていた。
 
リューサーは、女性解放神学者として、女は男から造られたという聖書の記述に猛反対する。だが、何度も見て来たように、グノーシス主義者が、女が男から造られたという聖書の記述を否定するとき、彼らは暗に、被造物は創造主から作られたという聖書の秩序を否定して、人と神とは同一だと主張しているのである。

こうして、グノーシス主義者が、聖書の御言葉の持つあらゆる「二分性」を嫌悪・否定して、それが悪しき自己疎外をもたらしているので、その区分自体を廃止しなければならないと主張する真の目的は、結局、人間が、己を疎外した神を「否定的に乗り越える」ことにある。

つまり、そこには、人間が、自分を疎外した神に対して、怨念と嫉妬に基づく復讐を企て、自分は神と同一であるから、神が自分を疎外しているのはおかしいと主張して、神の性質を奪い取り、神を乗っ取り、自ら神になり代わるという簒奪と破壊の願望があるのである。

肉体を言葉のレベルに引き上げるというのは、そのための第一歩である。
 
<続く>

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